週末の高速道路は、行楽地へ向かう車で混み合っていた。
青山家の乗用車もその流れに混じり、関西方面へ向かって走っていた。
秋晴れの空には薄い雲が幾筋か浮かび、道路の両側には山並みが続いている。
時折、木々の間から小さな集落や田畑が覗き、やがてそれらも後方へ流れていった。
車内には控えめな音量で音楽が流れており、運転席の父親は上機嫌にハンドルを握っていた。
「いやあ、いい天気になってよかった。せっかくの旅行だものな。雨なんか降られたら、それこそ台無しだ」
「本当にね。昨日の予報では少し心配だったけれど、これなら向こうでもゆっくりできそう」
助手席の母親も嬉しそうに頷いた。
膝の上には旅行雑誌が広げられており、先ほどから宿泊先の近くにある観光名所や飲食店について、夫と楽しそうに話している。
「そういえば、あなた。ホテルのチェックインは何時からだったかしら?」
「三時だったかな。まあ、少し早く着いても構わないだろう。どこかで昼食を取って、適当に観光でもしていればいい」
「それなら、途中で寄りたいお店があるの。評判のいい洋菓子店なんだけど、ほら、優雅も好きでしょう?」
母親は後部座席へ顔を向けた。
「ねえ、優雅。せっかくだから寄っていかない?」
「……うん。ママンの好きなところでいいよ」
青山優雅は、窓の外を眺めたまま答えた。
いつもの彼なら、菓子の話を聞けば多少なりとも興味を示しただろう。
少なくとも、母親が楽しそうに話しかけてきた時には、同じように笑ってみせることくらいできたはずだった。
しかし、今の優雅にはそれさえ難しかった。
膝の上には小さな鞄が置かれていたが、中身を取り出す気にもなれない。
車窓を流れていく景色を眺めていても、何かが目に留まるわけではなく、ただぼんやりと視線を向けているだけだった。
「……優雅」
母親の声に、優雅は顔を上げた。
「また難しい顔をしているわよ」
「……そんなことないさ、ママン。ちょっと考え事をしていただけだよ」
「学校のこと?」
「……まあ、そんなところかな」
優雅は小さく笑ってみせたが、母親は納得していないようだった。
何か言いかけて口を閉じ、それから膝の上の旅行雑誌へ視線を落とす。
父親もバックミラー越しに息子の様子を窺っていたが、やがて妻と目を合わせると、何事もなかったかのように旅行の話を再開した。
今回の旅行は、もともと予定されていたものではなかった。
青山家が関西方面へ出かけることになったのは、ほんの数日前のことだった。
父親が突然休暇を取り、母親が宿泊先を手配し、優雅には週末の予定を空けておくようにと告げた。
学校を休む必要もなく、家族三人でゆっくり過ごせるからというのが、両親の説明だった。
もちろん、優雅には分かっていた。
二人が自分を心配していることも、旅行を思いついた理由も。
雄英高校が全寮制へ移行してから、青山家で家族三人が顔を揃える機会は随分と減っていた。
度重なるヴィランによる襲撃に加え、緑谷出久が敵連合へ加わっていた事実が明らかになったことで、雄英に対する世間の不信感は決定的なものとなった。
学校側は生徒の安全確保を最優先に掲げ、保護者への説明と同意を経て、校内に整備された寮での生活を始めることになったのである。
以来、優雅も他の生徒たちと同じように寮で暮らしていた。
休日であっても自由に校外へ出られるわけではなく、外泊には事前の申請が必要だったし、行き先や同行者についても学校へ報告しなければならなかった。
今回の旅行についても、両親が早い段階で学校へ連絡を入れ、ようやく許可が下りたという経緯がある。
そのため、両親が息子の様子を直接確かめられる機会は限られていた。
電話やメッセージで連絡を取ることはできたものの、画面越しでは分からないことも多い。
以前は学校での出来事を楽しそうに話していた優雅が、ここ最近は何を尋ねても曖昧な返事をするようになり、時には電話に出ることさえなくなっていた。
久しぶりに会った息子が、以前よりも痩せたように見えたことも、両親の不安を強めていたのだろう。
そこで父親が提案したのが、今回の旅行だった。
学校や寮から離れ、家族三人でゆっくり過ごせば、優雅の気分も少しは晴れるかもしれない。
昔のように美味しいものを食べ、綺麗な景色を眺め、何でもない話をして笑い合う。
そんな時間があれば、息子もきっと元気を取り戻してくれるだろうと、二人は考えたのである。
優雅も、その気持ちは理解していた。
両親が自分を心配していることは分かっているし、こうして旅行に連れ出してくれたことも嬉しかった。
けれど、どうしても気持ちが晴れなかった。
寮を出る時には、同じクラスの友人たちから楽しんでこいと声をかけられたが、その時でさえ、上手く笑えていたかどうか自信がなかった。
そもそも、自分にはそんな資格はない。
雄英の寮生活は、優雅にとって決して悪いものではなかった。
むしろ、最初の頃は楽しかった。
放課後になっても友人たちと一緒にいられるし、食堂や談話室では誰かしらが賑やかに過ごしている。
授業中には見られない意外な一面を知ることもあれば、些細なことで言い争いになり、翌日には何事もなかったかのように笑い合うこともあった。
同年代の友人たちと生活を共にするという経験は新鮮だったし、自分も彼らの一員になれたような気がして、嬉しかった。
けれど、その楽しさを感じるたびに、胸の奥で何かが疼くようになった。
彼らは知らないのだ。
自分が、何をしてきたのか。
同じ屋根の下で暮らし、同じ食堂で食事を取り、同じ教室で授業を受けている仲間たちは、青山優雅がオール・フォー・ワンの内通者だったことを知らない。
あの男の命令に従い、雄英の情報を流していたことも、その結果として仲間たちが危険に晒されたことも、誰一人として知らないままだった。
そして、知らないからこそ、彼らは優雅に優しかった。
寮の談話室で一人座っていれば、誰かが隣に腰を下ろして話しかけてくる。
食欲がないと言えば心配してくれるし、元気がない時には冗談を言って笑わせようとしてくれる。
以前なら何の疑問もなく受け取っていたその優しさが、今ではひどく重たかった。
自分は、彼らを裏切っていたのに。
その事実を隠したまま、今も仲間として受け入れられている。
「……優雅」
父親の声に、優雅は顔を上げた。
バックミラー越しに目が合う。父親はしばらく息子の様子を窺っていたが、やがて何かを決心したように口を開いた。
「お前が何を気にしているのか、私たちにも分かっているつもりだよ。学校のことも、あの人のことも、今まで色々あったからな。すぐに気持ちを切り替えろと言われても、難しいのは分かる」
優雅は返事をしなかった。父親は再び前方へ視線を戻し、周囲の車との距離を確かめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「だが、もう終わったことなんだ。オール・フォー・ワンは逮捕された。あれほどの犯罪者だ、今後二度と社会へ出てくることはないだろう。私たちに命令を下すことも、お前を脅すことも、もうできないんだよ」
「……うん」
「それに、私たちとあの男との関係を知っている人間だって、ほとんど残っていない。お前のことを知っているのは、あとは緑谷出久君くらいのものだろう?」
不意に出された名前に、優雅は膝の上へ落としていた視線を上げた。
父親は息子の反応に気づかなかったのか、あるいは気づいていながら話を続けることにしたのか、落ち着いた口調のまま言った。
「その緑谷くんだって、今は指名手配されている身だ。警察から追われている以上、わざわざお前のことを誰かに話す余裕なんてないだろうし、仮に何か言ったところで、どこまで信用されるか分からない。もちろん、油断していいという意味じゃないが……少なくとも、以前のように怯えて暮らす必要はなくなったんだ」
「そうよ、優雅」
母親も夫の言葉に頷き、後部座席へ身体を向けた。
「私たちはもう、あの人の言うことを聞かなくていいの。誰かに連絡を取る必要もないし、あなたが学校で何をしているのか、いちいち報告する必要だってない。これからは、普通でいられるのよ」
その声は明るく、どこか弾んでいた。
母親は本当に嬉しそうだったし、父親もまた、長年背負っていた重荷をようやく下ろせたと信じているようだった。
「だから、優雅。もう心配しなくていいのよ。あなたは今まで通り雄英へ通って、立派なヒーローになることだけを考えていればいいの」
「……そうだね」
父親が深く頷いた。
「私たちは、これで解放されたんだ」
優雅は、二人の顔を交互に見た。
父親は穏やかに笑っていた。
母親も嬉しそうに微笑んでおり、その表情には、かつて電話が鳴るたびに顔を強張らせていた頃の面影がほとんどなかった。
あの男の名前を口にすることさえ恐れていた両親が、今ではこうして、過去の出来事として話せるようになっている。
それがどれほど大きな変化なのか、優雅にはよく分かっていた。
幼い頃から、両親は自分を守ろうとしてくれていた。
個性を持たずに生まれた息子の将来を案じ、どうにかして他の子供たちと同じように生きられるようにと願った。
そのために手を伸ばした相手が、どれほど恐ろしい人物だったのか。
二人がそのことに気づいた時には、もう後戻りできなくなっていたのだろう。
だからこそ、両親が解放を喜ぶ気持ちを否定したくなかった。
今まで苦しんできた二人には、これから先、何の心配もなく笑っていてほしい。
自分のために人生を狂わせてしまった両親が、ようやく普通の暮らしを取り戻せるというのなら、それは何よりも喜ばしいことのはずだった。
「……そうだね」
優雅は、ゆっくりと頷いた。
「パパンの言う通りさ。もう、あの人に怯える必要はないんだね」
「ああ、そうとも!」
父親は嬉しそうに答えた。
母親も安堵したように息を吐き、優雅がようやく前向きになってくれたと思ったのか、先ほどまでよりも明るい声で旅行の話を再開した。
優雅は二人に合わせて微笑んだが、膝の上へ視線を落とした途端、その表情を維持できなくなった。
緑谷出久。
父親が何気なく口にした名前が、頭から離れなかった。
彼だけが、自分の正体を知っている。
そして、その彼だけが、世間から裏切り者と呼ばれている。
優雅は、寮の談話室で見たニュースを思い出した。
テレビには出久の顔写真が映し出され、その横には指名手配を知らせる文字が並んでいた。
かつて雄英高校ヒーロー科に在籍していた少年が、オール・フォー・ワンと関係を持ち、敵連合の一員として活動している。
そんな説明が繰り返されるたびに、周囲のクラスメイトたちは複雑な表情を浮かべていた。
優雅は、その場にいた。
他の生徒たちと同じようにテレビを見つめ、同じように沈黙していた。
自分も、あの男に従っていたというのに。
出久がどんな事情でオール・フォー・ワンと関わり、何を命じられていたのか、優雅は全てを知っているわけではなかった。
彼が敵連合と行動を共にするようになった経緯についても、分からないことの方が多い。
それでも、少なくとも自分が雄英の情報を流していたことは事実であり、彼だけが内通者だったわけではないということも、紛れもない事実だった。
けれど、そのことを知っている人間は、ほとんどいない。
世間に知られているのは緑谷出久の名前だけであり、青山優雅の名前はどこにもない。
だからこそ、今も普通に学校へ通うことができる。同じクラスの仲間たちと笑い合い、寮で一緒に食事を取り、休日にはこうして家族旅行へ出かけられる。
その一方で、緑谷出久はもう雄英へ戻れない。
彼の名前が話題に上がる時、そこには必ず敵連合やヴィランという言葉がついて回る。
かつて同じ教室で授業を受け、同じようにヒーローを目指していた少年は、今では指名手配犯として世間に知られているのだ。
出久が指名手配された時も、彼が裏切り者だと非難された時も、優雅は自分が同じ立場だったことを打ち明けようとはしなかった。
彼だけが悪いわけではないと、誰かに訴えることさえしなかった。
黙っていたのだ。
その結果、世間が知る雄英の裏切り者は、緑谷出久と、彼を追いかけていった麗日お茶子ただ二人だけ。
自分の名前が出ないことに安堵し、両親が喜んでいる姿を見て、これでよかったのだと自分に言い聞かせていた。
「──うわっ!?」
突然、父親が素っ頓狂な声を上げた。
ほとんど同時に、車体が大きく揺れた。
シートベルトが胸元へ食い込み、優雅は前のめりになった身体を慌てて座席へ押し戻す。
助手席では母親の悲鳴と共に旅行雑誌が足元へ滑り落ち、タイヤが路面を擦る甲高い音が響き渡った。
「あなたっ!?」
「な、何だ、あれは!?」
父親はハンドルを握り締め、目を見開いていた。
車は急激に速度を落とし、路肩へ寄せられると、最後にもう一度大きく揺れて停止した。
後方からはクラクションが鳴り響き、隣の車線を走っていた車が慌てて進路を変えていく。
優雅は何が起きたのか分からず、フロントガラスの向こうへ目を向けた。
そこには、一人の男が立っていた。
車のすぐ前方、ほんの数メートル先だった。
人間が突然現れたとしか思えない距離で、男は車線の端に立ち尽くしていた。
もし父親がブレーキを踏むのに少しでも遅れていたら、間違いなく轢いていただろう。
「……事故でもあったのか?」
優雅は呆然と呟いた。
男はひどい格好をしていた。
衣服はあちこち焼け焦げ、破れた布地の隙間から傷だらけの肌が覗いている。
片方の袖は途中から千切れており、肩から腕にかけて黒く煤けた跡が残っていた。
何より異様だったのは、その顔だった。
爬虫類を思わせる鱗に覆われた所謂異形型の顔の半分以上が、酷い火傷によって変色していた。
緑色だったはずの鱗はところどころ剥がれ落ち、その下に赤黒く爛れた皮膚が覗いている。
片目の周囲は大きく腫れ上がり、まともに開けているのかさえ分からなかった。
男は肩を大きく上下させ、荒い呼吸を繰り返していた。
それでも、その視線だけは異様なほど鋭かった。
「……おい」
男が何かを呟いた。
閉め切った車内までは聞こえなかったが、唇が動いたのは分かった。
父親は恐怖に顔を強張らせ、反射的にドアの施錠を確認しようとした。
しかし、それよりも早く男が動いた。
ふらついていた身体が突然前へ傾いたかと思うと、次の瞬間には運転席のすぐ傍まで駆け寄っていた。
父親が悲鳴を上げる間もなく、男はドアノブを掴み、勢いよく引っ張った。
運転席のドアが開く。
「──車を降りろッ!!」
怒号と共に、銀色の刃が車内へ突き出された。
「ひっ……!」
父親はシートへ背中を押しつけ、両手を上げた。
男が握っているのは刃渡り十数センチほどのナイフで、刃先は父親の喉元へ向けられていた。
手元は小刻みに震えていたが、それが負傷によるものなのか、それとも別の理由なのか、優雅には判断できなかった。
「降りろっつってんだろ! 早くしろッ!」
「わ、分かった! 分かったから、落ち着いてくれ!」
父親は引き攣った声でそう言うと、ナイフの切っ先から逃れるように身を捩り、どうにかシートベルトを外した。
男が一歩退いた隙に運転席から這い出し、車体に手をつきながら立ち上がると、震える指で上着の内ポケットを探り始める。
「か、金ならある! 財布も時計も渡すから、頼む、家族には手を出さないでくれ!」
「いらねえよ、そんなもんッ!!」
男は怒鳴りつけると、父親を押しのけて運転席へ乗り込んだ。
火傷した背中が座席に触れたのか、苦しげに顔を歪めたものの、構わずハンドルを握り、エンジンがかかっていることを確かめる。
「お前らも早く降りろ! 荷物は置いてけ!」
「は、はいっ!」
助手席の母親が慌ててシートベルトを外し、優雅もそれに続いた。
二人が車外へ出ると、父親はすぐさま駆け寄ってきて、母親と優雅を庇うようにしてガードレールの傍まで下がった。
優雅は、その間も男から目を離せなかった。
顔の半分以上が焼け爛れ、緑色の鱗がところどころ剥がれ落ちている。
衣服も酷く損傷しており、露出した腕には火傷や裂傷が広がっていたが、優雅が目を奪われたのは、その異様な風貌だけが理由ではなかった。
見覚えがあったのだ。
敵連合の構成員として、何度も報道されていた異形の男。
スピナー。
緑谷出久と共に行動している、指名手配中のヴィランだった。
「……どうして、こんなところに……」
優雅が呟いた時、道路脇のガードレールの向こうから声がした。
「スピナー! 車は!?」
「確保した! 早く来い!」
「ちょっと!? もっとおっきな車止めなさいよ!」
スピナーが怒鳴り返すと、ガードレールを越えて何人もの人影が現れた。
優雅は息を呑んだ。
マグネ、Mr.コンプレス、ジェントル・クリミナル、ラブラバ。
いずれも敵連合の構成員として知られる者たちだったが、全員が火傷や怪我を負い、互いに肩を貸しながら歩いていた。
衣服は焼け焦げ、足取りも覚束ない。
とても戦闘を終えたばかりのヴィランたちとは思えず、むしろ何かから必死に逃げてきたように見えた。
その姿に気づいたのか、近くを走っていた車が急に速度を落とした。
助手席の窓からスマートフォンを向ける者もいたが、マグネが鋭い目を向けると、運転手は慌ててアクセルを踏み込んで走り去っていった。
そして、その最後尾にいた二人を見た瞬間、優雅は言葉を失った。
「……麗日、さん?」
麗日お茶子だった。
かつて同じ教室で学んでいた少女が、ガードレールを越えようとしていた。
彼女自身も顔や腕に火傷を負っており、足取りはひどく不安定だったが、それでも背中に負ぶった少女を下ろそうとはしなかった。
渡我被身子。
お茶子の背中で、トガは完全に意識を失っていた。
髪は乱れ、衣服は焼け焦げ、露出した肌には酷い火傷が残っている。顔色は青白く、両腕はお茶子の肩から力なく垂れ下がっていた。
ガードレールを越える際に身体が大きく揺れても、目を覚ます気配はなかった。
「……っ、く……!」
お茶子の膝が折れかけた。
すぐにラブラバが駆け寄り、背中のトガを支える。
ジェントルも手を貸し、どうにか二人を道路側へ降ろしたが、お茶子はその場で膝をついてしまった。
「お茶子ちゃん、私がヒミコちゃんを……!」
「……大丈夫、やから……」
お茶子は荒い息を吐きながら首を振り、背中の少女を抱え直した。
けれど、立ち上がろうとしたところで再び膝が震え、結局、ラブラバの手を借りなければ身体を起こすこともできなかった。
「無理しないで、お茶子ちゃん。ヒミコちゃんは私たちで支えるから」
「……うん。ごめん、ありがとう……」
お茶子は小さく頷くと、トガの身体を支え直した。
背負われた少女は相変わらず目を閉じたままで、呼びかけにも反応しない。
お茶子はその顔を心配そうに覗き込み、何かを確かめるように耳元へ顔を寄せた後、再び車へ向かって歩き始めた。
その時、道路脇に立っていた優雅と目が合った。
「……あ」
お茶子は足を止めた。
何かを言いかけたように口を開いたが、続く言葉は出てこなかった。
ただ目を見開き、呆然と優雅の顔を見つめている。
優雅もまた、どう声をかければいいのか分からなかった。
最後に彼女と顔を合わせたのは、まだ同じ教室で授業を受けていた頃だった。
あの時のお茶子は、いつも通り明るく、誰に対しても分け隔てなく接する少女だった。
その彼女は、指名手配されている。
自分と違って、もう雄英へ戻ることのできない立場にいる。
「……麗日さん」
優雅が名前を呼ぶと、お茶子はようやく我に返ったように瞬きをした。
「……青山くん。なんで、ここに……」
「……家族旅行の途中だったんだ。関西の方へ向かっていて、それで……」
優雅はそこまで言って、口を閉じた。
今の彼女を前にして、家族旅行の話などするべきではなかったのかもしれない。
お茶子は優雅の背後に立つ両親へ一瞬だけ目を向けたが、何も言わず、再びトガを背負い直した。
その仕草に、優雅は胸の奥が痛むのを感じた。
「……一体、何があったんだい?」
優雅は、思わず尋ねていた。
「みんな、こんなにボロボロで……。もしかして、ヒーローに……」
「分かんねえよッ!!」
突然、運転席から怒号が響く。
スピナーが、開いたドアから身を乗り出していた。
焼け爛れた顔を歪め、ハンドルを握る手に力を込めている。
その表情には怒りが浮かんでいたが、優雅には、それだけではないように見えた。
「分かんねえけど、緑谷とトゥワイス、壊理ちゃんが……!」
スピナーはそこで言葉を詰まらせた。
何かを思い出したように顔を強張らせ、荒い呼吸を繰り返す。
優雅が続きを待っていると、彼は苛立たしげに首を振り、再び怒鳴った。
「とにかく、うちの面子が誰かに攫われたんだ! 追いかけに行くんだよ!」
「……攫われた?」
優雅は、思わず聞き返した。
「緑谷くんが……?」
「だからそう言ってんだろ! 誰が何をしたのかも分かんねえし、何が起きてんのかも分かんねえ! けど、あいつらが連れていかれたんだよ!」
スピナーは吐き捨てるように言うと、苛立たしげにハンドルを叩いた。
「くそっ……! こんなところで時間食ってる場合じゃねえのに……!」
「優雅! こっちに来なさい!」
父親の怒鳴り声が響いた。
優雅が振り返るよりも早く、父親は駆け寄ってきて、その手首を掴んだ。
普段の穏やかな父親からは想像もできないほど強い力だった。
優雅は驚いて顔を上げたが、父親は息子と目を合わせようともせず、そのまま道路脇へ引っ張っていこうとした。
「パパン……!」
「もういい! あの人たちのことは放っておきなさい! 私たちにはもう関係ないんだ!」
父親の声は震えていた。恐怖と焦りのためか、息子の手を掴む指にも必要以上の力が込められている。
優雅は引きずられるように一歩踏み出したが、すぐに足を止めた。
「……待って、パパン」
「何を待つ必要があるんだ! 車ならくれてやればいい! 命まで取られるわけじゃないんだから、今は大人しくしていなさい!」
「でも、緑谷くんが……」
「緑谷くんのことはもういいだろう!」
父親が声を荒らげた。
「彼がどうなろうと、私たちには関係ない! お前がわざわざ危険を冒してまで、もう関わる必要なんてないんだ!」
優雅は、思わず父親の顔を見つめた。
「優雅、間違えるな」
父親は必死だった。息子を守るために、どうにかこの場から遠ざけようとしている。
その気持ちは分かっていたし、自分を心配してくれていることも理解していた。
けれど、その言葉だけは、どうしても聞き流すことができなかった。
関係ない。
緑谷出久がどうなろうと、自分たちには関係ない。
つい先ほどまで、父親はそう言っていた。
出久が指名手配されている以上、自分たちの秘密が明らかになることはないだろうと。
だから安心していいのだと、もう何も心配する必要はないのだと。
そして今、出久が何者かに攫われたと聞いても、父親は同じことを言っている。
優雅は、手首を掴む父親の手を見つめた。
「……パパン」
「優雅、お願いだから言うことを聞いてくれ。お前に何かあったら、私たちは……」
「……離して」
「優雅!」
父親がさらに強く手を引いた。
その瞬間、優雅は反射的に腕を振り払っていた。
「あっ……」
乾いた音がした。
父親の手が離れ、優雅は勢い余って一歩後ずさった。
父親も驚いたように身体を揺らし、振り払われた手を中途半端な高さに上げたまま、呆然と息子を見つめている。
優雅は、すぐに後悔した。
こんなことをするつもりではなかった。
父親が自分を守ろうとしてくれていることは分かっているし、その手を振り払うなど、今まで一度も考えたことがなかった。
「……ごめん、パパン」
父親は何も答えなかった。
少し離れた場所では、母親が口元を押さえ、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。
優雅は二人の顔を見て胸が痛んだが、それでも、もう一度父親の手を取ることはできなかった。
ここで戻れば、きっと何もかも元通りになる。
両親と一緒に警察の到着を待ち、事情を説明し、奪われた車について届け出る。
旅行は中止になるかもしれないが、それでも家族三人で無事に帰ることはできるだろう。
雄英へ戻れば、友人たちが心配してくれるかもしれない。
そして、緑谷出久のことは、またニュースで知ることになる。
優雅は唇を噛んだ。
「……ボクも」
小さな声が漏れた。
優雅は顔を上げ、運転席にいるスピナーへ向き直った。
「……ボクも、連れて行ってくれないかい」
その場にいた者たちの動きが止まった。
スピナーは何を言われたのか分からなかったように目を見開き、お茶子も驚いた表情で優雅を見つめた。
父親が背後で息を呑む音が聞こえたが、優雅は振り返らなかった。
「……あ?」
「緑谷くんを追いかけるんだろう? だったら、ボクも一緒に……」
最後まで言い終えることはできなかった。
突然、胸元を強い力で掴まれた。
「──っ!?」
身体が浮いた。
足先が地面から離れ、優雅は思わず両手で相手の腕を掴んだ。
襟元が喉へ食い込み、苦しさに顔を顰める。
目の前には、マグネの顔があった。
「意味わかんないこと言ってんじゃないわよ」
低い声だった。
マグネは優雅の胸倉を片手で掴み、そのまま軽々と持ち上げていた。
彼女自身も火傷や怪我を負っているはずだったが、その腕にはまだ十分な力が残っているらしい。
「あんた、アタシらが何者か分かってんの?」
優雅は息を呑んだ。
マグネの表情には、先ほどまで仲間たちへ向けていた気遣いなど欠片もなかった。
割れたサングラス越しに鋭い目で優雅を睨みつけ、答えを待つように顔を近づけてくる。
「……わ、分かってる……」
「だったら何でそんなこと言えんのよ。アタシらはヴィランよ? あんたみたいな雄英の坊ちゃんが、軽い気持ちでついてきていい相手じゃないのよ」
「……軽い気持ちじゃ……!」
「軽い気持ちじゃなきゃ何なのよ!」
マグネが怒鳴った。
「同級生が心配だから? 昔の友達を助けたいから? そんな理由でアタシらについてくるって言うの? あんた、自分が何言ってるか分かってんの!?」
優雅は答えられなかった。
マグネの言葉は、何一つ間違っていなかった。
自分は雄英の生徒であり、彼らは敵連合の構成員だ。
今ここで一緒についていけば、単なる人質として扱われるとは限らない。
ヴィランに協力したと疑われ、場合によっては二度と雄英へ戻れなくなるかもしれなかった。
何より、自分が同行したところで、何の役に立てるのかも分からない。
緑谷出久が誰に攫われたのかさえ分からないのだ。
そんな状況で、自分に何ができるというのだろう。
何を、したいのか。
「優雅! やめてくれ!」
父親が悲鳴のような声を上げた。
「その子を放してくれ! 頼む! 息子は混乱しているだけなんだ! 何も分かっていないんだよ!」
マグネは父親を一瞥したが、すぐに優雅へ視線を戻した。
「聞いた? あんたの親御さん、ああ言ってるわよ。アタシらについてきたら、あんたも二度とそっち側には戻れないかもしれないのよ。それでもいいって言うの?」
優雅は、胸倉を掴まれたまま父親へ目を向けた。
父親は真っ青な顔をしていた。
母親もその傍で震えており、息子が今にも殺されてしまうのではないかと怯えている。
優雅は、そんな二人の姿を見るのが辛かった。
自分は何をしているのだろう。
せっかく両親が用意してくれた旅行を台無しにして、ようやく手に入れた平穏まで壊そうとしている。
父親と母親が、どれほど自分のことを心配しているのか分かっているはずなのに。
それでも、ここで引き下がることはできなかった。
「……ボクは」
優雅は、そこで一度言葉を切った。
マグネに胸倉を掴まれたまま、爪先だけが辛うじて路面に触れている。
締めつけられた襟元が喉を圧迫し、息を吸うたびに苦しさが増した。それでも、優雅は目の前の女から視線を逸らさなかった。
「……ボクは、緑谷くんを助けに行きたいんだ」
「だから、それが分かんないって言ってんのよ。あんたが来たところで何ができるっての? ヒーローごっこなら学校でやってなさい」
「……ごっこじゃない」
「だったら何? 自分が雄英の生徒だから、アタシらを助けてやろうって?」
「違う!」
優雅は声を張り上げた。
その声に、マグネが僅かに眉を上げる。優雅自身も、自分がこれほど大きな声を出したことに驚いていた。
違うのだ。
誰かを助けてやろうなどと、そんな立派なことを考えているわけではない。
自分は今まで、ずっと助けられる側だった。
個性を持たずに生まれた自分を両親が助けてくれた。オール・フォー・ワンの命令に怯えていた自分を、緑谷出久は黙って見逃してくれた。
雄英では、何も知らない仲間たちが自分を受け入れてくれた。
誰かが差し伸べてくれた手を取り、その陰に隠れ、そうして今日まで生きてきた。
その結果、どうなったのか。
緑谷出久は裏切り者として追われ、自分は家族旅行を楽しもうとしていた。
その緑谷出久が攫われたという。
それを聞いてなお、何もせずに帰るのか。
優雅は奥歯を噛み締めた。
「……連れて行ってくれ」
「あ?」
「連れていけと、言ってるんだ」
マグネは鼻を鳴らした。
「だから、あんたねえ……」
その言葉が終わるより早く、優雅は腰を突き出した。
ベルトの中央に取りつけられた装置が、甲高い音を立てる。
「──ネビルレーザー!!」
眩い光が弾けた。
「なっ──!?」
至近距離から放たれたレーザーが、マグネの胴体を捉えた。
もっとも、優雅は咄嗟に出力を絞っていた。
直撃すれば人体を焼き貫く威力を持つ光線を、相手を突き飛ばす程度に抑えていた。
それでも、予想外の攻撃を受けたマグネの身体は大きく後方へ弾かれ、数メートル先の路面へ転がった。
「ぐっ……!?」
胸倉を掴んでいた手が離れ、優雅の足が地面についた。
着地した瞬間、腹の奥がぎゅっと締めつけられた。
個性を使用した反動だった。
慣れ親しんだ鈍痛が腹部に広がったが、優雅は顔を顰めるだけで、どうにかその場に踏み留まった。
「優雅ッ!?」
父親の悲鳴が聞こえた。
周囲の敵連合の面々も、一瞬何が起きたのか分からなかったようだった。
スピナーが運転席から身を乗り出し、お茶子も驚いてこちらを見ている。
少し離れた車線では、レーザーの閃光に驚いた運転手がクラクションを鳴らし、後続車が慌てて速度を落としていた。
優雅は、そんな彼らには目もくれなかった。
路面に片手をつき、身体を起こそうとしているマグネを睨みつける。
その腰元で、再び光が灯った。
「……おいおい」
優雅のベルトから、細い光線が伸びていた。
レーザーはマグネの顔のすぐ横を通り、数メートル先のアスファルトへ突き刺さっている。
焼けた路面から薄い煙が立ち上り、ほんの僅かに腰の向きを変えれば、その光は彼女の身体を捉えるだろう。
優雅は、そこまでして初めて、自分が何をしているのか理解した。
自分は今、ヴィランを脅している。
しかも、相手は敵連合の構成員だ。つい先ほどまで父親を怯えさせていた彼らに対し、今度は自分が個性を向けている。
ヒーローを目指す者として、決して褒められた行為ではないだろう。
それどころか、一歩間違えれば、目の前の相手を傷つけてしまうかもしれない。
現に、たった今、自分は彼女を吹き飛ばしたのだ。
いくら手加減したところで、怪我を負わせなかったという保証はどこにもない。
その事実に気づいた途端、指先が冷たくなった。
怖かった。
マグネが怖いのではない。
自分が、こんなことをしているという事実が怖かった。
それでも。
だからといって、今さら引き下がれるものか。
「……いいから」
声が震えた。
腹部の痛みのせいか、それとも恐怖のせいなのか、自分でも分からなかった。
「……いいから、連れて行け……!」
マグネは何も言わなかった。
優雅は、さらに一歩踏み出した。
「ボクも連れて行けッ!!」
怒鳴り声が、高速道路に響き渡った。
優雅自身、これほどの声を出したことはなかった。
いつもなら、もっと気の利いた言葉を選んでいただろう。
相手を不快にさせないように、少し大袈裟なくらい芝居がかった仕草を交え、笑顔で自分の希望を伝えていたはずだった。
けれど、今はそんな余裕などなかった。
マグネが断るなら、もう一度頼む。
それでも断るなら、何度でも頼む。殴られようが、蹴られようが、今度こそ諦めるつもりはなかった。
優雅は唇を引き結び、マグネを睨み続けた。
その表情を見て、マグネは一瞬、呆けたように目を瞬かせた。
それから、ゆっくりと優雅の顔を見つめ直した。
青白い顔をしている。
足は震えているし、呼吸も荒い。今にも泣き出しそうな目をしているくせに、こちらへ向けたレーザーを引っ込めようとはしない。
無理をしていることなど、一目で分かった。
それでも、この少年は退かないのだろう。
脅せば逃げると思っていた。
親のところへ帰れと怒鳴りつければ、多少は反発しても、最後には大人しく引き下がるだろうと考えていた。
しかし、どうやら見込み違いだったらしい。
「……可愛い子」