ビーッ!! ビーッ!! ビーッ!!
耳障りな警報音が、校舎全体へ絶え間なく響き渡っていた。
出久は、その場からしばらく動けなかった。
目の前では、制御端末の画面が未だ激しく点滅を繰り返している。
警告表示、エラーコード、意味の分からない文字列、ノイズ混じりの電子音。
その全部を、自分が引き起こした。
「……ぁ」
喉が震える。
足元が妙に不安定で、吐き気がした。
個性『電波』によって流れ込んだ膨大な情報が、まだ脳の奥へ残響みたいに残っている。
校内回線、監視網、認証信号。
無数の電子音が、耳鳴りみたいに頭の中を掻き回していた。
だが、それ以上に。
「僕、が……」
自分がやった。
雄英の防壁を、一時的とはいえ無効化した。
マスコミを校内へ雪崩れ込ませた。
ヒーロー育成の最高峰で、誰もが安全だと信じている場所を、自分の手で乱した。
「っ……」
胃の奥がひっくり返りそうになる。
だが、ここに留まっているわけにもいかなかった。
誰かに見つかれば終わる。
出久は震える足を無理やり動かし、ふらつきながら通路を歩き出した。
食堂へ戻らないと。
何も知らない振りをしなければ。
そう考えているのに、身体は鉛みたいに重かった。
その時、遠くから悲鳴が聞こえた。
「きゃああああっ!!」
「押すなって!!」
「何が起きてんだ!?」
「ヴィランか!?」
「逃げろ!!」
「……!」
出久の顔が強張る。
次の瞬間、廊下の向こうから大量の足音が押し寄せてきた。
ドドドドドドッ──!!
生徒たちだ。
しかも一人二人ではない。
別棟から流れてきた生徒まで混ざっているのか、物凄い人数が狭い通路へ殺到していた。
顔には恐怖が浮かんでいる。誰も状況を理解していない。
警報、防壁エラー、外から響く怒号。
それだけ聞けば、“何かが起きた”と思って当然だった。
「ヴィランが侵入したってマジか!?」
「いやガス爆発らしいぞ!」
「違う、校舎が封鎖されるって——!」
情報が錯綜している。
誰も正しい情報を持っていない。
だからこそ、恐怖だけが増幅していた。
「っ、危な——!」
押された生徒がバランスを崩す。
狭い廊下では、人の流れが詰まり始めていた。
後ろからはさらに人が押し寄せてくる。
将棋倒し。
その言葉が、出久の脳裏を過った。
このままでは、本当に怪我人が出る。
下手をすれば、もっと酷いことになる。
「ぁ……」
出久の喉が、かすかに鳴る。
目の前の混乱、怯える生徒たち、押し潰されそうになっている人波。
全部、自分が始めたことだった。
「そこの一年! 走るな!!」
遠くで教師の怒声が響く。
だが、パニックになった群衆は簡単には止まらない。
「うわっ!?」
一人の女子生徒が、人波へ押されて転びかけた。
その瞬間、出久の身体が反射的に動いていた。
「危ない!!」
痛む足も脇腹も関係なく駆け出し、転倒しかけた生徒の腕を掴んで壁側へ引き寄せる。
直後、ドッ、と人波がすぐ横を通り過ぎていった。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あ、ありがとう……!」
女子生徒が青ざめながら頷く。
だが、混乱はまだ収まらない。
警報は鳴り続け、怒号が飛び交い、誰もが不安と恐怖に飲まれかけている。
そして出久だけが知っていた。この混乱の原因が、自分自身だということを。
ドンッ!!
「っ!」
出久の身体へ横から強烈な衝撃がぶつかった。
人の波に突き飛ばされたのだ。
それも、一人や二人ではない。
逃げ惑う生徒たちが我先にと廊下を駆け抜け、行き場を失った流れが、濁流みたいに狭い通路へ押し込まれている。
「う、わっ……!」
踏ん張れない。
負傷した足が悲鳴を上げる。
誰かの肩が背中へぶつかり、別の誰かの肘が脇腹へ入った。
押され、流され、まともに呼吸すら出来ないまま、視界が人混みで埋め尽くされていく。
「押すなって!!」
「前詰まってる!!」
「きゃああっ!!」
悲鳴、怒号、警報音。
全部が混ざり合い、空気そのものが混乱していた。
出久は咄嗟に壁へ手をつこうとしたが、その腕すら人波に弾かれる。
「っ……!」
このままじゃ、本当に誰か潰される。
そう思った瞬間だった。
「皆、落ち着きたまえ!!」
鋭い声が、混乱の中を真っ直ぐ貫いた。
「——!」
出久が顔を上げる。
人混みを掻き分けるように、一人の影が飛び出してきた。
飯田天哉。
だが、その姿は妙だった。
「飯田君……!?」
飯田の身体が、完全に浮遊していた。
どうやら先ほどまで一緒にいた麗日の『無重力』を受けているらしい。
彼は慣れない浮遊感に若干顔を引き攣らせながらも、それでも必死に体勢を制御していた。
「ぬ、おおおおっ……!」
飯田は壁を蹴り、手すりを掴み、そのまま食堂入口上部の梁へ飛びつく。
ガシッ!! と音を立て、食堂入口の真上へ張り付くように着地した。
まるで避難誘導員みたいに、群衆全体を見下ろす位置だった。
飯田は大きく息を吸い込む。
その眼鏡の奥には、強い責任感が宿っていた。
「大丈──夫!!」
腹の底から響くような大声に、ざわめきが一瞬だけ揺らぐ。
「これは誤報です!! セキュリティが誤作動を起こし、マスコミが数名入り込んでしまったにすぎません!!」
「……え?」
「誤報?」
混乱していた生徒たちの足が、僅かに止まる。
飯田は、その隙を逃さなかった。
「こんな時こそ、雄英生徒という自覚を持った行動を!! 走らない!! 押さない!! まずは周囲を確認し、落ち着いて避難経路を確保しましょう!!」
ビシィッ!! と腕を振る。
声が通る。
パニックで支配されていた空気へ、飯田の声だけが真っ直ぐ刺さっていった。
的確で、迷いがない。
その姿は、普段の“真面目なクラスメイト”ではなく、まるで本物の避難誘導を行うヒーローみたいだった。
混乱していた生徒たちも、次第に冷静さを取り戻し始める。
人の流れが少しずつ整い、押し合いが減り、怒号が小さくなる。
パニックが、収束へ向かっていく。
「……」
出久は、その光景を呆然と見上げていた。
飯田天哉。数十分前まで、自分と一緒に昼食を食べていたクラスメイト。
委員長になれなかったと悔しがっていた少年。
なのに今、誰よりも先に前へ出て、誰よりも冷静に、誰かを守るために動いている。
「……っ」
胸が痛んだ。
罪悪感で。
そして、眩しさで。
警報音は、しばらくしてようやく停止した。
代わりに校内放送が流れ、セキュリティシステムの誤作動であったこと、既に事態は収束へ向かっていることが繰り返しアナウンスされる。
その頃には、生徒たちの混乱もかなり落ち着いていた。
「ほら、押すな押すな!」
「順番に戻れって!」
「大丈夫か?」
各所で教師や上級生が誘導を始め、乱れていた人の流れが少しずつ整っていく。
飯田は依然として食堂入口上部へ張り付いたまま、真面目極まりない顔で周囲へ指示を飛ばしていた。
「そこの諸君! 走らず移動を! 通路中央を空けたまえ! 負傷者優先だ!」
その姿は、もはや完全に委員長だった。
「飯田君ー! もう大丈夫そうだよー!」
下から麗日が手を振る。
出久は、その輪の少し後ろで立ち尽くしていた。
胸の奥が重い。
皆が落ち着きを取り戻していくほど、自分のしたことの大きさが逆に鮮明になる。
もし飯田がいなければ、もしもっと混乱が長引いていたら、本当に怪我人が出ていたかもしれない。
「デク君?」
「っ!」
顔を上げると、麗日が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「大丈夫? 顔色悪いけど……」
「だ、大丈夫! ちょっとびっくりしただけで!」
反射的に答えてしまう。
「本当か?」
今度は飯田が近付いてきた。
眼鏡の位置を直しながら、真剣な顔で出久を見る。
「かなり人波に揉まれていたようだが」
「へ、平気だよ! 飯田君こそ凄かったね! あの状況で皆を止めるなんて!」
「む……」
飯田が僅かに目を丸くし、それから少し照れ臭そうに咳払いした。
「当然の行動をしたまでだ。君も転倒しかけた生徒を助けていただろう」
「え、いや、あれは……!」
「二人ともヒーローっぽかったよ!」
麗日がにこっと笑う。
出久の胸が、少しだけ痛んだ。
そんな資格、ないのに。
その言葉へ返事をする前に、遠くから切島の声が飛んできた。
「ほら、A組戻るぞ! 相澤先生もう教室戻ってるって!」
「急げ急げー!」
騒がしく移動していくクラスメイトたちに、出久たちも合流した。
夕方、騒動の余韻が残るまま終礼の時間になった。
A組教室。
相澤はいつも通り気怠げな顔で教壇へ立ちながらも、その目だけは僅かに鋭かった。
「……今回の件、大事には至らなかったが、群衆心理の危険性は理解できたな」
教室が静まる。
「ヴィランじゃなかったから良かった、で終わらせるな。本物だった場合、あの混乱は致命的になる」
静かな声だったが、重みがあった。
相澤は教室を見渡し、ある生徒の名前を呼ぶ。
「特に飯田」
「は、はい!」
「お前の初動は良かった。パニック時に声を張って流れを制御した判断は正解だ」
「……ありがとうございます!」
飯田が力強く頷く。すると、上鳴がふと顔を上げた。
「そういえば、委員長っぽかったよな飯田」
「確かに」
「めっちゃ仕切ってた」
「安心感あったわ」
次々に声が上がる。
飯田が少し戸惑ったように瞬きをした。
「いや、しかし委員長は緑谷君で——」
「……あ、あの!」
出久が勢いよく立ち上がった。
教室中の視線が集まる。
「緑谷?」
相澤が片眉を上げる。出久は緊張したように拳を握り締めた。
「ぼ、僕……やっぱり、委員長向いてないと思うんです」
「えぇ!?」
麗日が驚く。だが、出久は続けた。
「今日だって、飯田君が皆を落ち着かせてくれたし……僕より、飯田君の方が委員長に相応しいと思います」
教室が静まる。飯田本人すら、呆気に取られていた。
「み、緑谷君……?」
出久は、飯田を真っ直ぐ見た。
「飯田君は、ちゃんと前に立てる人だから」
その言葉だけは、心からだった。
責任感があって、冷静で、誰かを導ける。
少なくとも、皆を危険へ巻き込みながら何も言えずに立っている自分よりは。
相澤は数秒沈黙したあと、八百万へ視線を向けた。
「八百万」
「はい」
「副委員長続投できるか」
「ええ、問題ありませんわ」
「なら決まりだ」
飯田は、しばらく呆然としていた。
やがて、ぎゅっと拳を握る。
「……分かった。委員長として、このクラスを導けるよう全力を尽くそう!」
その宣言へ、教室中から拍手が起きた。
出久も小さく拍手する。
その顔には笑みが浮かんでいたが、胸の奥だけはずっと重いままだった。
終礼が終わると、教室は一気に放課後の空気へ変わった。
「腹減ったー!」
「帰りゲーセン寄らね?」
「飯田委員長、明日から号令とかやんの?」
「む、もちろんだ! 委員長として、クラスの規律を——」
「うわ始まった」
「真面目過ぎるぅ!」
どっと笑いが起きる。
その中心で、飯田は少し困ったように眼鏡を押し上げていた。
一方、出久は鞄へ教科書を詰め込みながら小さく息を吐く。
疲れていた。
身体も、頭も、そして心も。個性『電波』を使った影響なのか、未だ耳の奥では小さなノイズみたいな感覚が消えていない。
「緑谷君☆」
「ひゃっ!?」
急に肩を叩かれ、出久が飛び跳ねた。
振り返ると、そこには青山優雅が立っていた。
金髪、きらきらした笑顔、胸元の妙に自己主張の激しいベルト。
相変わらず、全体的に輝いている。
「ア、青山君?」
「今から少し時間あるかい? ☆」
妙に穏やかな声だった。
だが、その笑顔はどこか張り付いたものにも見える。
「え、あ……う、うん」
「Très bien」
青山は軽く指を鳴らした。
「少し話そうじゃないか」
そう言って、くるりと踵を返す。
出久は戸惑いながらも、その後を追った。
廊下を抜け、人気の少ない渡り廊下を通り、夕焼けの差し込む校舎裏へ向かう。
人の気配はほとんどなく、風だけが吹いていた。
青山は、そこでようやく立ち止まった。
出久も数歩遅れて止まる。
「えっと、話って……?」
青山はすぐには答えなかった。
夕焼けへ目を向けたまま、数秒沈黙する。
その横顔からは、普段の軽薄さみたいなものが消えていた。
「今日の騒動」
ぽつり、と青山が呟く。
「緑谷君の仕業だよね」
「——っ」
出久の心臓が、止まりかけた。息が詰まり、視界が揺れる。
「……え」
声が掠れる。
青山はゆっくり振り返った。
夕焼けの赤が、その顔へ半分だけ影を落としている。
笑っていない。だが、責めてもいなかった。
ただ、静かに出久を見ている。
誤魔化さなければ。否定しなければ。
そう思っているのに、喉が上手く動かない。
青山はそんな出久を見ながら、小さく肩を竦めた。
「安心して☆ 僕、別に君を告発したい訳じゃないんだ」
穏やかな声だった。
だが、その言葉の奥にある“何か”が、出久の背筋を冷やした
青山はゆっくり校舎の壁へ背を預ける。
夕陽が、彼の金髪を赤く染めていた。
「……僕にもね、おじ様……AFOから、指示が来ていてね」
「——!」
出久の目が見開かれる。
AFO。
その単語を他人の口から聞いた瞬間、全身の血が一気に冷えた。
「君も……」
「驚くよね☆」
青山は、自嘲するみたいに笑った。
その笑みは、いつものナルシストじみたものとは違う。
どこか疲れていた。
風が吹き、校舎裏の木々が小さく揺れる。
青山は視線を落としたまま続けた。
「今日、僕に来た指示は単純だった。“A組が孤立するタイミングを教えなさい”」
「……っ」
「君の起こした騒動に紛れて、僕は自分の指示を遂行させてもらったよ」
出久の呼吸が止まる。
孤立。その言葉の意味を、理解できないほど馬鹿ではなかった。
ヒーロー科A組。将来有望な生徒たち。そこが“孤立する瞬間”。つまり。
「そ、それって……AFOが、何か……」
「起こすつもりなんだろうね☆」
青山が静かに言った。
否定しない。曖昧にも誤魔化さない。
出久の頭の中へ、今日の騒動が蘇る。
雄英バリアの停止。混乱。パニック。人の流れ。
もし、あの瞬間に本当にヴィランが侵入していたら。
「……でもね☆」
青山が不意に口元を緩めた。
その笑みは、普段の彼らしい芝居がかったものだったが、どこか無理に作っているようにも見えた。
「緑谷君、これはチャンスかもしれない☆」
「……え?」
出久が呆然と顔を上げる。
青山は壁へ背を預けたまま、空を見上げた。
夕焼けは、もうかなり赤く染まっている。
「おじ様——AFOが何をするつもりなのか、僕には分からない。でも、ここは雄英だ☆」
静かな声だった。
だが、その言葉には妙な確信がある。
「そして雄英には、“彼”がいる」
「……オールマイト」
出久が無意識に呟く。
青山は小さく頷いた。
「おじ様本人が、のこのこ出てくることは多分ない☆」
それは出久にも分かっていた。
AFOは慎重だ。
オールマイトがいる場所へ、自ら姿を現す危険性を理解している。
「だから動くとしても、多分おじ様の配下」
出久の喉が小さく鳴る。
「でも、もしその配下が雄英で動いて、オールマイトに叩き潰されたら?」
「……!」
出久の目が見開かれる。
「そこから辿れるかもしれない☆ ヴィランの拠点、資金源、繋がり、おじ様の尻尾。つまり、AFO逮捕のきっかけになるかもしれないんだ☆」
風が吹き、校舎裏の木々がざわりと揺れた。
出久は何も言えなかった。
そんな可能性など、考えたこともなかった。
「それに☆」
青山が少しだけ声を落とす。
「僕達は、ちゃんと指示に従ってる。おじ様からすれば、“役目は果たした”ことになる☆」
雄英の情報を流す。孤立タイミングを伝える。今日の騒動も起こした。
少なくとも表面上は、従順だった。
「なら、自爆させられることもないかもしれない☆」
その言葉に、出久の背筋が冷えた。
自爆。まるで当然みたいに口にした。
まるで、そういう末路を本気で警戒しているみたいに。
「全部が上手くいけば、おじ様は捕まる。僕達は生き残る。雄英も守られる」
一拍。
「……全部、丸く収まる。かもしれない☆」
最後だけ、少し弱かった。
自分でも“かもしれない”としか言えないのだ。
絶対ではない。保証もない。
AFOがそんな簡単に負けるとも思えない。
それでも青山は、その可能性へ縋るように笑っていた。