明らかに定員を超過した乗用車が、高速道路を猛然と走っていた。
運転席にはスピナー、助手席にはMr.コンプレス。
後部座席にはマグネ、ジェントル・クリミナル、ラブラバ、麗日お茶子、そして青山優雅が、互いの身体を押しつけ合うようにして詰め込まれていた。
意識のないトガはお茶子の膝の上に横たえられ、頭をマグネが支えている。
誰かが少し身じろぎするだけで隣の人間の肘や膝にぶつかり、窓の外を眺める余裕さえない。
そもそも、五人乗りの乗用車に九人も乗っているのだから、まともな姿勢を取れるはずがなかった。
「……狭い」
「文句言わないの。乗せてあげただけでもありがたく思いなさいよ」
「し、失礼! ボクは別に文句を言ったわけじゃ……」
「じゃあ黙ってなさい。こっちはそれどころじゃないんだから」
マグネにぴしゃりと言われ、優雅は口を閉じた。
彼の身体は後部座席の端に押し込まれ、片方の肩がドアに、もう片方がジェントルの腕に挟まれていた。
足元には誰のものとも分からない荷物が転がっており、膝を動かすことさえ難しい。
シートベルトも全員分あるわけではなく、優雅は車が揺れるたびに天井の取っ手を握り直していた。
そして、その車は先ほどから恐ろしい速度で走り続けていた。
エンジンが唸りを上げ、周囲の車が次々と後方へ流れていく。
スピナーは前方の車列を睨みつけながら、僅かな隙間を見つけては車線を変更していた。
そのたびに車体が左右へ揺れ、後部座席からは小さな悲鳴や抗議の声が上がっている。
「……ぐっ!」
不意に、スピナーの喉から苦しげな呻き声が漏れた。
ハンドルを握る腕が強張り、車体がふらりと左へ寄る。
背中の火傷が座席に擦れたのか、彼は一瞬だけ身体を浮かせようとして、すぐに歯を食いしばって姿勢を戻した。
「ちょっと、スピナー!」
マグネの怒声が飛んだ。
「何やってんのよ! トガちゃんの傷に響くでしょうが!」
「分かってるよ!」
「分かってるなら真っ直ぐ走りなさい! アンタまで事故を起こしたらどうすんのよ!」
「だったら黙ってろ! こっちだって好きで揺らしてるわけじゃねえんだ!」
怒鳴り返したスピナーは、再び前方へ視線を戻した。
火傷した背中を座席に押しつけるたびに顔を歪めているが、アクセルを踏む足は少しも緩まない。
その様子を見ていた優雅は、彼が単に苛立っているわけではないことに気づいた。
焦っているのだ。
一刻も早く、仲間たちのところへ辿り着きたい。
その一心で、痛みも疲労も無理やり押さえ込んでいるように見えた。
「……ところで、ひとつ聞いてもいいかい?」
「ああ? 今度は何だよ」
「いや、その……ボクたちは緑谷くんのところへ向かっているんだろう?」
「そうだよ。それがどうした」
「……居場所は、分かっているのかい?」
その問いに、スピナーは答えなかった。
代わりに、後部座席の奥から甲高い声が上がった。
「それなら心配いらないわ!」
ラブラバだった。
彼女はジェントルの膝の上に横向きに座り、身体を不自然に捻りながらノートパソコンを操作していた。
画面は助手席の背もたれに半ば隠れ、キーボードを叩こうにも肘を動かす余裕がない。
それでも器用に指を走らせ、次々と画面を切り替えている。
「……えーと」
「ラブラバでいいわ。ちょっと待ってね、今ちょうど確認してるところだから」
ノートパソコンには複数の小さな映像が並んでいた。
道路、交差点、建物の出入口。
いずれも監視カメラの映像らしく、画面の隅には撮影時刻が表示されている。
ラブラバはそのうちの一つを拡大すると、何かを確かめるように目を細めた。
「あった……!」
彼女の指が止まった。
「壊理ちゃんとトゥワイスを抱えた……彼が、監視カメラに映っているの」
「……彼?」
優雅が聞き返すと、ラブラバは一瞬だけ唇を結んだ。
それから、何事もなかったかのように画面へ視線を戻す。
「ええ。二人とも、間違いなく一緒にいるわ。彼は今、海岸沿いを歩いているみたいね」
「海岸沿い……」
「そう。ちょっと待って。位置を確認するから」
ラブラバは地図へ画面を切り替え、監視カメラの位置と道路の形状を照らし合わせた。
優雅は身を乗り出そうとしたが、隣のジェントルに肩がぶつかり、慌てて姿勢を戻した。
「……次のインターチェンジで降りて!」
ラブラバの声が、狭い車内に響いた。
「次だな!?」
「そう! 降りたら右! そこから海岸沿いの道路に出られるはずよ!」
「分かった!」
スピナーは短く答えると、ハンドルを右へ切った。
乗用車が車線を変更する。
隣を走っていた車が驚いたようにクラクションを鳴らしたが、スピナーは構わず出口へ向かった。
分岐に差しかかってようやく減速したものの、車体は大きく傾き、後部座席に詰め込まれていた人間たちが一斉に悲鳴を上げた。
「ちょっとォ!?」
マグネがトガの頭を抱え込んだ。
「アンタ、もう少し丁寧に曲がれないの!?」
「悪かったよ!」
「謝るくらいなら最初から気をつけなさいよ!」
スピナーはそれ以上言い返さなかった。
バックミラーに映ったトガの顔色が、ひどく悪かったからだ。
少女はお茶子に抱えられたまま、目を覚ます気配がない。
胸が僅かに上下していることで呼吸していると分かるものの、車が揺れても、身体を抱え直されても、何の反応も示さなかった。
「……ヒミコちゃん」
お茶子が小さく呟き、少女の身体を抱き寄せる。
その様子を見て、スピナーは奥歯を噛み締めた。
助けなければならない仲間が、まだ何人もいる。
だからこそ、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
やがて車は高速道路を降り、一般道へ入った。
周囲の景色が変わっていく。
高速道路沿いに続いていた山並みは次第に遠ざかり、代わりに低い建物や倉庫が目立つようになった。
道路脇には工場の敷地を囲むフェンスが続き、時折、大型のトラックが反対車線を通り過ぎていく。
スピナーはラブラバの指示に従い、交差点をいくつも曲がった。
「次の信号、左!」
「左だな!」
「そう! その先を真っ直ぐ!」
「真っ直ぐ! 真っ直ぐ!」
ラブラバは車の現在位置と監視カメラの映像を照らし合わせながら、最短の経路を探していた。
その手際のよさに、優雅は思わず感心したような声を漏らした。
「……凄いね。本当に、監視カメラだけで追跡できるんだ」
「全部が全部、自由に見られるわけじゃないけどね。道路沿いなら結構な数を追えるのよ」
ラブラバはそう答えると、再び画面へ顔を近づけた。
「……あ、いた!」
「場所は!?」
「さっきより少し先! まだ二人とも抱えてるわ!」
「よし……!」
スピナーがハンドルを握り直した。
優雅は、膝の上で拳を握った。
もうすぐなのだ。
緑谷出久が連れ去られた場所へ。
少なくとも、彼と一緒にいたという壊理とトゥワイスの居場所へ。
つい先ほどまで、自分は両親と一緒に旅行へ向かっていた。
ホテルに泊まり、美味しいものを食べ、何事もなかったかのように週末を過ごすはずだった。
それが今は、指名手配中のヴィランたちと一緒に、奪われた車で海岸へ向かっている。
自分が何をしているのか。
これから何が起きるのか。
考えれば考えるほど、恐ろしくなった。
それでも、後悔はしていなかった。
少なくとも、今のところは。
「……ねえ」
不意に、ラブラバが呟いた。
その声は、それまでの張り詰めたものとは少し違っていた。
「……何だ?」
「ちょっと待って。これ……」
ラブラバは監視カメラの映像から地図へ切り替え、何かを確認するように指を滑らせた。
画面には海岸線が表示され、その沖合に小さな島のようなものが描かれている。
彼女は眉を寄せた。
「……これ、このままだとタルタロスに向かうコースね……」
「……は?」
スピナーが聞き返した。
「タルタロス?」
優雅も思わず声を上げた。
タルタロス。
その名前を知らない者は、日本にはほとんどいないだろう。
凶悪なヴィランたちを収容する、国内最高水準の警備体制を誇る監獄。
そして今、オール・フォー・ワンが収監されている場所でもある。
「……どういうことだい?」
優雅が尋ねると、ラブラバは画面を見つめたまま答えた。
「いや、まだ分からないけど……海岸線をそのまま進んでるのよ。今のところ、他に目的地らしい場所もないし……」
「しかし、タルタロスは海上にある施設だぞ」
コンプレスが眉を寄せた。
「船でも使わない限り、辿り着けるはずが……」
「分かってるわよ。でも、海を関係なく移動できるなら、今の進路が最短なの」
ラブラバはそこまで言って、口を閉じた。
優雅は、画面に映る地図を見つめた。
タルタロス。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が嫌な音を立てたような気がした。
オール・フォー・ワン。
自分と両親を長年苦しめてきた、あの男。
ようやく逮捕され、二度と関わることはないはずだった人物が、何故か再び目の前に現れたような気がした。
もちろん、ただの偶然かもしれない。
海岸沿いを歩いているからといって、必ずしもタルタロスを目指しているとは限らない。
そもそも、壊理とトゥワイスを連れ去った人物が何者なのかさえ分かっていないのだ。
それでも、優雅はどうしても嫌な予感を拭えなかった。
やがて、視界が開けた。
それまで道路の両側に続いていた建物が途切れ、前方に広い空が現れた。
「……海だ!」
ラブラバが声を上げた。
青く広がる海面が、フロントガラスの向こうに見えていた。
秋の日差しを受けた水面がきらきらと輝き、遠くには水平線が霞んでいる。
道路は緩やかに海岸沿いへ曲がっており、その先には防波堤と、海に面した広い歩道が続いていた。
「……どこだ」
スピナーが低い声で呟いた。
「どこにいやがる……!」
「もう少しよ! この先のカーブを抜けたら……!」
ラブラバがそう言いかけた時だった。
道路の先に、一つの人影が現れた。
「……いた!」
最初に声を上げたのは、助手席のコンプレスだった。
優雅も反射的に顔を上げた。
海岸沿いの歩道。
防波堤のすぐ傍を、一人の男が歩いていた。
全身を覆っているのは、黒い外骨格だった。
肩から腕、胸元、脚部に至るまで、複雑な装甲が身体を包み込んでいる。
人間の輪郭をなぞるように組み合わされたそれは、遠目には機械仕掛けの鎧のようにも見えた。
秋の日差しを受けても、その表面は鈍い光を返すばかりだった。
そして、その両脇には。
「……人を、抱えてる……!」
優雅が息を呑んだ。
男は二人の人間を抱えていた。
片方は全身黒タイツの成人男性。
身体を力なく垂らし、頭を後ろへ反らせたまま、まったく動く気配がない。
もう片方は、小さな少女だった。
白い髪に、額から伸びる小さな角。
その姿を認めた瞬間、スピナーが声を上げた。
「……壊理ちッ!!」
少女は、暴れていた。
男の腕の中で小さな身体を捩り、必死に手足を動かしている。
自由になる方の手で黒い装甲を叩き、何度も身を起こそうとしていた。
けれど、男はまるで気にしていないようだった。
少女がどれほど暴れても、その歩調は変わらない。
片腕に大柄な男を、もう片腕に少女を抱えたまま、何事もないかのように海岸沿いを歩き続けている。
「……っ、離して……!」
距離が縮まるにつれ、少女の声が微かに聞こえた。
「離してっ! やだっ、離してよぉっ!」
壊理は泣いていた。
頬を涙で濡らし、必死に黒い装甲へ拳を打ちつけている。
その姿を見た瞬間、スピナーの表情が変わった。
「──ッ!!」
アクセルが床まで踏み込まれた。
エンジンが悲鳴のような音を上げ、乗用車が猛烈な勢いで加速する。
「ちょっ、スピナー!?」
マグネが叫んだ。
「アンタ、何やって──!」
優雅の身体が座席へ押しつけられた。
隣ではジェントルがラブラバを抱え込み、お茶子がトガの身体を必死に支えている。
「スピナー! 落ち着けぇ!」
コンプレスが助手席から声を上げた。
「うるせえッ!!」
スピナーが怒鳴った。
「壊理が……あいつ、あんな小さな子どもを……!」
防波堤の傍を歩いていた男は、車の接近に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。
黒い装甲に覆われた頭部が、こちらへ向く。
男は立ち止まらなかった。
逃げる様子もない。
ただ、こちらへ顔を向けたまま、歩き続けている。
「……っ、スピナー!」
マグネが声を張り上げた。
「止まりなさい! トガちゃんがいるのよッ!!」
その言葉に、スピナーが歯を食いしばった。
黒い男まで、あと数十メートル。
スピナーはハンドルを切り、車を歩道側へ寄せた。
「──掴まってろッ!!」
直後、耳をつんざくようなブレーキ音が響いた。
「きゃああっ!?」
「うおおっ!?」
車内に悲鳴が上がった。
優雅は天井の取っ手を握り締め、前方へ投げ出されそうになる身体を必死に支えた。
ジェントルがラブラバを抱き寄せ、お茶子はトガを胸元へ引き寄せる。
マグネは少女の頭を両腕で包み込み、自分の身体を座席へ押しつけた。
タイヤが路面を擦り、車体が大きく揺れた。
そして、最後にがくんと大きく揺れて、乗用車は停止した。
「……っ、はあ……!」
優雅は荒い息を吐いた。
心臓が激しく脈打っている。
フロントガラスの向こうには、ほんの数メートル先に、黒い外骨格の男が立っていた。
その両脇には、相変わらず壊理とトゥワイスが抱えられている。
「……壊理ッ!!」
スピナーが叫んだ。
ほとんど同時に、運転席のドアが勢いよく開いた。
「おい、待て!」
コンプレスが声を上げたが、スピナーは聞いていなかった。
火傷した身体を無理やり動かし、車外へ飛び出す。
その動きに遅れることなく、後部座席のドアも開いた。
「……ったく!」
マグネだった。
彼女はトガの頭をお茶子に預けると、狭い車内から強引に身体を抜き出した。
「麗日ちゃん! トガちゃんをお願い!」
「う、うん!」
お茶子が慌てて頷く。
マグネはそれを確認するより早く、車外へ飛び出していた。
優雅は呆然と二人の背中を見送った。
スピナーとマグネ。
先ほどまで互いに怒鳴り合っていた二人が、ほとんど同時に黒い男へ向かって駆け出していた。
「──壊理を離せッ!!」
スピナーが吠えた。
火傷した身体であることなど、まるで忘れてしまったかのような勢いだった。
路面を蹴り、黒い男へ向かって一直線に突っ込んでいく。
そのすぐ横を、マグネが走っていた。
「アンタ、何者か知らないけど……!」
彼女の声が低くなる。
「アタシらの仲間に、何してくれてんのよッ!!」
二人はほとんど同時に地面を蹴った。
スピナーが男の上半身へ飛びかかる。
マグネはその横から腕を伸ばし、壊理を抱えている方の腕を掴もうとした。
「はあ……──『新秩序』」
男が、口を開いた。
それは、あまりにも静かな声だった。
怒鳴るでもなく、身構えるでもなく、ただ目の前に迫る二人を見つめながら、何かを確認するように言葉を紡ぐ。
「僕の前方の大気は、壁状に固まる」
次の瞬間。
「──がッ!?」
スピナーの身体が、空中で突然停止した。
勢いよく飛びかかっていた彼の顔面が、何もないはずの空間に叩きつけられた。
鈍い音が響き、身体が大きく仰け反る。
伸ばしていた腕は目標に届くことなく跳ね返され、そのまま足元のアスファルトへ転がり落ちた。
「ぐあっ……!?」
火傷した背中が路面に触れ、スピナーは苦痛に顔を歪めた。
ほとんど同時に、マグネもまた、見えない何かに阻まれていた。
「──なっ!?」
男の腕を掴もうと伸ばした手が、あと僅かというところで止まったのである。
掌に伝わってきたのは、硬い感触だった。
まるで分厚いコンクリートの壁を叩いたかのような衝撃が、指先から腕へと伝わってくる。
「いったぁ……!」
マグネは反射的に手を引いた。
しかし、そこには何もなかった。
壁も、柱も、ガラスもない。
目の前には、先ほどと変わらない海岸沿いの景色が広がっている。
防波堤の向こうでは波が静かに打ち寄せ、秋の日差しを受けた海面が眩しく輝いていた。
その手前に、黒い外骨格を纏った男が立っている。
ほんの数メートル先。
手を伸ばせば届きそうな距離にいるというのに。
「……何よ、これ」
マグネは呆然と呟いた。
もう一度、慎重に手を伸ばすと指先が何かに触れた。
見えないが、確かにそこにある。
掌を押しつけると、平らで硬い感触が返ってきた。
左右へ滑らせても、上下へ動かしても、同じだった。
空気そのものが一枚の板になったかのように、二人と男の間を隔てている。
「……壁?」
マグネは眉を寄せた。
「ていうか、新秩序って……そもそも、その声……」
「……ああ、そうか」
黒い外骨格の男が、何かに気づいたように呟いた。
マグネとスピナーは、見えない壁を挟んで男を睨みつけていた。
スピナーは今にも再び飛びかかりそうな勢いで拳を握り締めており、マグネもまた、男の一挙手一投足を警戒している。
しかし、当の本人はそんな二人の様子を見ても、少しも緊張した素振りを見せなかった。
それどころか、何か面倒な行き違いに気づいたように、呆れた調子で息を吐いた。
「いやぁ、置いていって申し訳ない。どうやら勘違いしてしまったようだね」
「……は? 何言ってんだ、テメェ」
「いや、すまない。てっきり君たちはもう追ってこないものだと思っていたんだ。無事だったのは何よりだよ」
男は穏やかな口調でそう言った。
まるで待ち合わせ場所を間違えた友人に事情を説明しているかのような態度に、スピナーは返す言葉を失い、マグネもまた困惑した表情を浮かべた。
「……ちょっと待ちなさいよ。アンタ……」
「ああ、そうだったね。これでは顔が見えないか」
男は納得したように頷くと、顔を覆っていた外骨格を解除した。
微かな駆動音と共に、額から頬へと続く黒い装甲が左右に分かれ、口元を覆っていた外殻が折り畳まれるように後退していく。
複雑に組み合わされていた部品が首の後ろへ収納されるまで、ほんの数秒しかかからなかった。
そして、その下から現れた顔を見た瞬間、マグネは思わず目を見開いた。
「…………緑谷ちゃん?」
癖のある緑色の髪に、頬へ散ったそばかす。
まだ幼さの残る顔立ちは、彼女たちがよく知る少年のものだった。
違っているのは外骨格の色くらいで、目の前の人物を緑谷出久以外の誰かだと考える理由は、少なくとも外見上は存在しなかった。
出久は二人の反応を確かめるように視線を巡らせると、安心させようとするかのような穏やかな笑みを浮かべた。
「ほら、僕だよ。緑谷出久だ。仲直りしよう」
あまりにも唐突な申し出に、二人は揃って言葉を失った。
スピナーは目の前の少年と、彼の両腕に抱えられた壊理とトゥワイスを交互に見つめた。
壊理は相変わらず逃れようと身を捩っており、トゥワイスは頭を垂れたまま動かない。
その光景と、何事もなかったように笑っている出久の表情が、どうしても結びつかなかった。
「……おい、緑谷」
スピナーが低い声で呼びかけた。
「ふざけてんじゃねえぞ。壊理を降ろせ。トゥワイスもだ」
「おや、どうしたんだい。そんなに怖い顔をして」
「どうしたもこうしたもあるかよ! 壊理が嫌がってんだろうが!」
出久は、ようやく自分の左脇へ視線を落とした。
壊理は涙で濡れた顔を上げ、必死に首を振っていた。
「……やだ……離して……!」
「困った子だな。さっきからずっとこの調子なんだ」
その時だった。
「……う、ぐ……」
出久の右脇から、掠れた呻き声が漏れた。
それまで頭を垂れ、ぐったりとしていたトゥワイスの身体が僅かに動いたのである。
最初は指先が痙攣する程度だったが、やがて肩が震え、力なく垂れ下がっていた片腕が持ち上がった。
彼は何かを掴もうとするように手を開閉させ、苦しげに息を吸い込んだ。
「……トゥワイス?」
スピナーが反応した。
出久もまた、自分の腕に抱えていた男へ視線を落とした。
「おや、目が覚めたのかい」
穏やかな声だった。
「もう少し眠っていてもよかったんだよ。まだ本調子ではないだろう?」
「……ぐ、う……っ!」
トゥワイスは答えなかった。
何とか上体を起こそうとしているが、外骨格に覆われた腕が胴をしっかりと抱え込んでおり、どれほど身体を動かしても抜け出すことができない。
無理に力を込めたことで呼吸が乱れ、何度も苦しげに咳き込んだ。
「ちょっと、トゥワイス! 大丈夫なの!?」
マグネが声を上げた。
「アンタ、何があったのよ!」
「……マ、グ姐……?」
掠れた声が返ってきた。
トゥワイスはようやく顔を持ち上げ、目の前にいる仲間たちを見た。
マグネ、スピナー、その背後に立つコンプレスとジェントル。
さらに、停車した乗用車の傍にはラブラバと青山優雅の姿があり、開いた後部座席のドアからは、お茶子がこちらを見つめている。
彼の目が、大きく見開かれた。
「……お前、ら……」
「そうよ、アタシたちよ! 今、助けてあげるから、もう少し辛抱してなさい!」
マグネはそう言って出久へ向き直った。
「ほら、緑谷! トゥワイスも目を覚ましたんだから、いい加減二人を降ろしなさいよ。話があるなら、それから聞いてあげるわ!」
しかし、トゥワイスはその言葉を聞いた瞬間、激しく身体を震わせた。
「……ち、が……!」
喉の奥から絞り出すような声だった。
マグネが怪訝そうに眉を寄せると、トゥワイスは必死に首を振った。
意識が戻ったばかりで視界も定まっていないのか、焦点の合わない目を何度も瞬かせている。
それでも彼は、仲間たちの姿を確かめると、残っている力を振り絞って声を張り上げた。
「……お前ら……逃げろ……!」
その言葉に、スピナーの表情が変わった。
「……は?」
「逃げろっつってんだ……! 早く……! 今すぐここから……!」
トゥワイスは出久の腕から逃れようと暴れ始めた。
身体を捻り、自由になる手で黒い装甲を叩くが、拘束は少しも緩まない。
むしろ暴れたことで体力を消耗したらしく、激しく咳き込み、再び頭を垂れてしまった。
「おい、トゥワイス! 落ち着けって! 何があったんだよ!」
スピナーが問いかけると、トゥワイスは荒い呼吸の合間に顔を上げた。
その視線は仲間たちではなく、自分を抱えている少年の顔へ向けられていた。
「……こいつ……」
トゥワイスの声が震えた。
「……こいつ、ボスじゃねぇ……!」
マグネが息を呑んだ。
「……何ですって?」
「ボスじゃねぇんだよ……! そいつは……緑谷じゃねぇ……!」
トゥワイスは必死に言葉を繋ごうとしていた。
頭の中にある事実を一刻も早く伝えようとしているのに、身体が思うように動かず、声も途切れ途切れになってしまう。
そんな彼を見下ろしながら、出久は小さくため息をついた。
「せっかく目を覚ましたんだ。もう少し落ち着いて話した方がいい。そんなに興奮すると、また気を失ってしまうよ」
「黙れっつってんだろうがッ!!」
トゥワイスの怒声が海岸に響いた。
目の前の仲間たちを見つめ、絶望的な表情で叫んだ。
「ボスの身体を……AFOが乗っ取ったんだよッ!!」
その瞬間、誰もが動きを止めた。
潮風が吹き抜け、海岸沿いの植え込みがざわめいた。
遠くでは車が走り去る音が聞こえていたが、その場にいる者たちには、トゥワイスの言葉以外、何も耳に入っていなかった。
「……は?」
スピナーが間の抜けた声を漏らした。
「……何、言ってんだよ。お前……」
「オール・フォー・ワンだよ……! あの野郎が、ボスの身体を……!」
トゥワイスはそこで激しく咳き込んだ。
苦しげに背中を丸め、何度も息を吸おうとするが、出久の腕に抱え込まれた姿勢では十分に身体を動かすこともできない。
それでも彼は、顔を上げた。
「……アメリカ女の個性も……奪われた……!」
トゥワイスは血走った目で仲間たちを見つめた。
「『新秩序』だ……! あいつ、スターアンドストライプから……個性まで奪いやがったんだよッ!!」
「……もう、種明かしが早いな……」
緑谷出久の顔をした少年が、心底残念そうに呟いた。
その声には怒りも焦りもなく、せっかく用意した余興を途中で台無しにされた者のような、些細な落胆が滲んでいた。
彼は右脇に抱えているトゥワイスを見下ろすと、困ったように眉を下げた。
「もう少し上手くやれると思っていたんだけどね。君は本当に、余計なところで頑張ってくれる」
「……てめぇ……!」
トゥワイスは歯を食いしばり、身体を捩った。
しかし、黒い外骨格に覆われた腕はびくともせず、彼がどれほど抵抗しても拘束が緩む気配はなかった。
出久はそんな彼の様子を一瞥すると、今度は正面にいるスピナーとマグネへ視線を戻した。
「まあ、仕方がないか。些細なトラブルだ」
その言葉を聞いた瞬間、マグネは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
少年の顔から、笑みが消えていた。
目の前にいる人間を知人としてではなく、何か別のものとして観察しているような、奇妙な無関心があった。
「……アンタ」
マグネが慎重に口を開いた。
「本当に、オール・フォー・ワンなの?」
「そうだよ」
あまりにもあっさりとした返答だった。
マグネは一瞬、聞き間違えたのかと思った。
だが、出久は彼女の反応を気にする様子もなく、何でもないことのように言葉を続けた。
「もっとも、この身体の持ち主が緑谷出久であることも事実だ。だから、さっきの自己紹介も嘘というわけではないんだけどね。君たちが誰と話しているのか、という意味では少し不親切だったかな」
「……ふざけんな」
スピナーの声が低くなった。
彼は見えない壁の向こうに立つ少年を睨みつけ、拳を握り締めた。
緑谷出久の顔をした相手が、自分はオール・フォー・ワンだと認めている。
その事実を理解しても、目の前の光景を受け入れることができなかった。
「緑谷はどうした。あいつは、まだその中にいるのかよ」
「さあ、どうだろうね」
「答えろッ!!」
スピナーが怒鳴ったが、出久は少しも動じなかった。
それどころか、彼は興味を失ったようにスピナーから視線を外し、その場に集まっている人間たちを順番に見渡し始めた。
「……『イモリ』」
唐突に、そんな言葉が漏れた。
「……あ?」
スピナーが眉を寄せた。
出久は彼の顔から首筋、腕へと視線を移し、何かを確かめるように小さく頷いた。
「壁面への吸着能力を持つ異形型だったね。……うん、要らないな」
「……は?」
「悪く思わないでくれよ。異形型の個性には、それなりに面白いものもあるんだ。ただ、君の能力はあまりにも限定的でね。わざわざ手元に置いておくほどの価値は感じない」
あまりにも淡々とした評価だった。
スピナーは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
自分の姿を見て、勝手に個性を推し量り、不要だと切り捨てる。
その態度は、かつて彼が向けられてきた侮蔑の視線を思い起こさせるものだった。
「……テメェ、何様のつもりだ」
スピナーが低く唸った。
しかし、出久は答えなかった。
視線はすでに、隣に立つマグネへ移っていた。
「『磁石』。人間に性別ごとの極性を与え、引き寄せたり反発させたりする個性だったかな」
マグネの眉がぴくりと動いた。
「……ちょっと、何なのよ。さっきから」
「複数の人間をまとめて動かせるのは便利だね。集団戦ではなかなか役に立つだろう。ただし、対象は人間に限定されるし、性別という制約も不便だ」
出久は少し考えるように首を傾けた。
「似たようなことなら、僕の持っている個性でもできる。残念だけど、今さら欲しい能力ではないかな」
「……アンタねぇ!」
マグネが声を荒らげた。
しかし、出久は彼女の抗議を聞いていないようだった。
その視線は、すでに車の傍へ移っている。
「『変身』」
「血液を摂取した相手の姿に変わる個性。潜入や攪乱には便利だろうけれど、事前に血液を確保しなければならないのは少々面倒だ」
出久は眠っている少女を眺め、僅かに目を細めた。
「もっとも、使い方によっては面白いこともできそうだ。ただ、わざわざ奪ってまで使いたいかと聞かれると……うん、微妙なところかな」
「……デクくん」
お茶子が小さく呟いた。
彼女は反射的にトガを抱き寄せ、開いたドアの陰へ身を引いた。
出久はその様子を見ても、特に反応しなかった。
続いて、コンプレスへ顔を向ける。
「『圧縮』」
その言葉を聞いた瞬間、コンプレスの肩が僅かに強張った。
「触れた対象を小さな球体に封じ込める個性だったね。これは悪くない。人間を無力化するだけでなく、物資の運搬や隠匿にも使える。工夫次第では、かなり便利な能力だ」
「……お褒めにあずかり光栄だね」
コンプレスは軽口を返したが、その声には普段の余裕がなかった。
右手はマントの陰に隠したままで、出久から視線を外そうとしない。
「ただ、超常黎明期の駆け出し時代ならともかく、今となっては要らないかな」
出久はそう言うと、次の人物へ視線を移した。
「『弾性』。触れたものに弾力を与える」
ジェントルはラブラバを庇うように一歩前へ出た。
「地面や壁を利用した移動、衝撃の吸収、反射を利用した攻撃……なるほど、なかなか器用に使っているようだ。ただ、個性そのものが強力というより、君の使い方が上手いんだろうね」
「……それは、どうも」
「褒めているんだよ。個性に頼りきりの人間より、ずっと好感が持てる」
出久は穏やかに微笑んだ。
「もっとも、僕が欲しいのは君の技術ではなく個性だからね。そう考えると、やはり必要ないかな」
ジェントルは何も答えなかった。
その背後で、ラブラバが唇を噛み締めている。
出久の視線が、彼女へ向けられた。
「それから、『愛』」
ラブラバの身体が強張った。
「特定の相手への愛情を力に変える個性。条件さえ満たせば、かなり大きな強化が期待できる。なかなか興味深い能力だね」
出久はそこで、少し残念そうに息を吐いた。
「ただ、問題はその条件だ。誰に対しても同じように使えるわけではないし、そもそも僕が誰かを心から愛する必要があるのなら、使い勝手が悪すぎる。僕には使えないし、残念、僕に使ってくれる人もいない」
「……何よ、それ」
ラブラバが小さく呟いた。
「愛情を、使い勝手が悪いって……」
「おや、気を悪くしたかな。君の愛情を否定しているわけではないんだよ。ただ、僕にとって必要な能力かどうかを考えているだけさ」
出久は不思議そうに首を傾げた。
その態度に、ジェントルはラブラバを庇うように立ち位置を変えた。
目の前の少年は、自分たちを見ていない。
少なくとも、人間としては。
彼の関心は、誰がどのような能力を持ち、それが自分にとって役立つかという一点にしか向けられていなかった。
そして、その視線が再び車へ向けられた。
「……『無重力』」
お茶子は息を呑んだ。
「触れた対象から重力の影響を取り除く個性。大量の物体を浮かせられるのは便利だし、使い方によっては随分と応用が利くだろうね」
出久はお茶子の顔を見つめ、僅かに微笑んだ。
「ただ、僕にはもっと扱いやすい浮遊系の個性がある。わざわざ触れなければ発動できない能力を増やす必要もないかな」
「……デクくん」
お茶子の声が震えた。
彼女の知る出久は、他人の個性をよく観察する少年だった。
相手がどんな能力を持ち、どんな使い方をするのか、目を輝かせながら考えることがあった。
時にはノートを取り出し、相手の話を聞きながら夢中になって書き込んでいたこともある。
その姿を思い出した瞬間、お茶子の胸が締めつけられた。
目の前にいる少年も、同じように個性を観察している。
けれど、その目的はまったく違っていた。
出久は、相手を理解しようとしていた。
目の前の何者かは、相手を利用できるかどうかだけを考えている。
言葉の端々に、他人の努力や工夫に対する敬意がなかった。
どれほど大切に育ててきた個性であっても、彼にとっては使えるか、使えないかというだけの話なのだ。
「……デクくんは」
お茶子は震える唇を動かした。
「そんなこと、言わへん……」
出久はその声を聞いたのか、僅かに目を細めた。
しかし、返事はしなかった。
彼の関心は、すでに別の人物へ移っていた。
「あれ、青山優雅君まで来たのかい?」
優雅の全身が強張った。
心臓が、嫌な音を立てたような気がした。
目の前にいるのは緑谷出久のはずだった。
同じクラスで過ごし、言葉を交わし、笑い合ったこともある少年の顔だった。
しかし、その口から自分の名前が呼ばれた瞬間、優雅は理解してしまった。
違う。
これは、緑谷出久ではない。
あの男だ。
自分と両親を長年苦しめ、逃げることさえ許さなかった、あの男がそこにいる。
「……あ、あ……」
声が出なかった。
喉が引き攣り、呼吸が浅くなる。
逃げなければならないと頭では分かっているのに、足が動かなかった。
出久はそんな彼を見つめ、何かを思い出したように微笑んだ。
「そういえば、君には少し面白い仕掛けをしていたんだったね」
優雅の顔から血の気が引いた。
「……っ!」
「……おや?」
出久は不思議そうに首を傾げた。
その表情には、何かを試してみたものの、予想した結果が得られなかったような困惑があった。
「起動しないな。なるほど、この身体では駄目なのか。それとも、別の理由かな……」
何を起動しようとしたのか。
優雅には、聞く必要もなかった。
腹の奥が冷たくなり、膝から力が抜けそうになる。
自分は今、殺されかけたのかもしれない。
その可能性に思い至った瞬間、優雅は反射的に腹部を押さえた。
「……あ、ああ……!」
「まあ、いいか」
出久はあっさりと興味を失った。
「『ネビルレーザー』。臍から光線を放つ個性だったね。出力はそれなりにあるけれど、身体への負担が大きく、連続使用にも難がある」
優雅は何も言えなかった。
出久はそんな彼を眺め、穏やかに続けた。
「そもそも、不要だから君に与えた個性だ。今さら取り戻す必要もないだろうね」
その言葉に、優雅の肩が大きく震えた。
個性を与えられたこと。
その代償として、自分と両親がどのような目に遭ってきたのか。
目の前の男にとっては、そんなことさえ、取るに足らない出来事でしかないのだ。
出久は一人ひとりを見比べると、最後に小さく息を吐いた。
「……うん。やっぱり、『二倍』と『巻き戻し』以外には、今さら欲しい個性はないね」
トゥワイスの身体が強張り、壊理もまた、怯えたように顔を上げた。
出久はそんな二人の反応を気にする様子もなく、何かを考えるように首を傾けていた。
「もっとも、君たちがここまで追ってくるとは思わなかったな。せっかく無事に逃げ延びたんだから、そのまま大人しくしていてくれればよかったのに」
「……何だと?」
スピナーが低く唸った。
「それはこっちの台詞だろうが。勝手に緑谷の身体を乗っ取って、壊理たちまで連れ去って……!」
「うん、そうだね」
出久は素直に頷いた。
「君たちからすれば、当然の反応なんだろう。仲間を助けようとする気持ちは、僕にも理解できるよ」
「……ふざけんじゃねえッ!!」
スピナーが見えない壁を殴りつけた。
鈍い音が響き、拳に痛みが走る。
しかし、壁は僅かにも揺らがなかった。
「……まぁいいか、殺しちゃおうか」
あまりにも軽い口調だった。
まるで、予定を一つ取り消すことにしたかのような言い方だった。
出久は穏やかな笑みを浮かべたまま、続けた。
「脳無にするにもパッとしない個性だ」
海岸沿いの道路に、沈黙が落ちた。
スピナーは目の前の少年を見つめたまま、動けなかった。
マグネも、コンプレスも、ジェントルも、誰一人として言葉を発しなかった。
今、この男は何と言ったのか。
殺す。
脳無にするにも、価値がない。
それだけだった。
自分たちがこれまで何をしてきたのか。
誰を大切に思い、何を守ろうとしているのか。
そんなことには、最初から興味がなかったのだ。
彼にとって、人間の価値を決めるものは個性だった。
利用できる個性なら奪う。
使い道のある身体なら、脳無の材料にする。
そのどちらにも当てはまらない人間には、生かしておく理由すらない。
目の前の少年は、それを当然のこととして口にしていた。
「……アンタ」
マグネの唇が震えた。
「本気で……言ってんの?」
「もちろん」
出久は即答した。
「君たちはこのままでは邪魔になるだろうしね。残念だけど、ここでお別れにした方がお互いのためだと思うんだ」
「……ふざけんな」
スピナーが低く呟いた。
火傷した背中が痛む。
顔面を壁に打ちつけたせいで、鼻の奥にも鈍い痛みが残っている。
それでも、彼は拳を握り締めた。
「……ふざけんなよ、テメェ……!」
しかし、出久はそんな彼の様子を気にすることなく、僅かに首を傾けた。
ただ一人、トゥワイスだけが、必死に身体を捩っていた。
「……逃げろ……!」
彼は仲間たちへ顔を向け、喉が裂けそうな声で叫んだ。
「何してんだよ……! 早く逃げろって言ってんだろうがッ!!」
その声を聞きながら、出久はゆっくりと目を細めた。
頬にはそばかすがあり、癖のある緑色の髪が潮風に揺れている。
その顔は、彼らがよく知る緑谷出久のものと何一つ変わらなかった。
けれど、そこに浮かんでいる笑顔を見て、もう誰も彼を仲間だとは思えなかった。
出久は、静かに口を開いた。
「──『新秩序』」