最初に意識へ届いたのは、腹の底まで震わせるような轟音と、車体を激しく揺さぶる衝撃だった。
窓ガラスがびりびりと震え、開け放たれた後部座席のドアから砂埃が吹き込む中、トガヒミコは小さく呻きながら目を開けた。
ぼやけた視界に映ったのは見覚えのない車の天井で、自分がどこにいるのか思い出そうと身体を起こした途端、脇腹から胸元へ鋭い痛みが走り、反射的に息を詰めた。
「──ふざけんじゃねえッ!!」
車外から聞こえた怒鳴り声に、トガは痛みも忘れて顔を上げた。
スピナーの声だったが、何をそんなに怒っているのか考える間もなく、再び激しい衝突音が響き、金属がひしゃげる音に続いて誰かの苦しげな悲鳴が聞こえてきた。
「……秀一くん?」
トガは片手で座席の背もたれを掴み、もう片方の手をドア枠へ伸ばして、どうにか車外の様子を確かめた。
そこには秋の日差しを受けて輝く青い海が広がっていたが、その手前を走る海岸道路は見るも無惨な有様で、アスファルトには幾筋もの亀裂が走り、防波堤の一部は崩れ、砕けたコンクリートや折れ曲がった街灯が散乱していた。
そして、その破壊された道路の中央に、一人の少年が立っていた。
「……デクくん?」
癖のある緑色の髪に、頬へ散ったそばかすという見慣れた顔立ちは、間違いなく緑谷出久のものだった。
ただし、身体を覆う外骨格は以前の白色ではなく、光を吸い込むような黒色に変わっており、彼は片腕に壊理を抱えたまま、足元へ視線を落としていた。
その視線を追ったトガは、数メートル離れた路上にマグネが倒れていることに気づいた。
大柄な身体はうつ伏せに近い姿勢で横たわり、破れた衣服の下には擦り傷や打撲の痕が広がっていたが、彼女は起き上がろうとする様子さえ見せなかった。
慌てて周囲へ目を向けると、少し離れた場所にはコンプレスも倒れており、いつもの帽子は見当たらず、裂けたマントと欠けた仮面の下から血の付着した口元が覗いていた。
さらに道路脇では、ジェントルが折れ曲がった街灯の根元に背中を預け、傍らに膝をついたラブラバが涙声で何度も名前を呼んでいた。
「ジェントル……! お願い、目を開けて……!」
ジェントルは時折何かを答えようと唇を動かしていたものの、自分の力で身体を起こせる状態ではなさそうだった。
仲間たちが次々と倒れている光景に、トガは意識を失っている間に何が起きたのか理解できず、呆然と周囲を見回していたが、やがて道路脇のガードレールに目が留まった。
ひしゃげた金属の陰から、長い尻尾が伸びていた。
「…………秀一、くん?」
スピナーはガードレールの傍に身体を横たえ、身動きひとつしていなかった。
服は原形を留めないほど破れ、もともと火傷を負っていた背中には新たな傷が広がっており、肩から脇腹にかけて何かに激しく打ちつけられたような損傷があった。
その下には大きな血溜まりができ、赤黒い血液が路面の傾斜に沿って流れ、ひび割れた舗装の隙間へ入り込んでいた。
「……うそ……」
ほんの少し前まで、スピナーは火傷の痛みに顔を歪めながらも車を運転し、壊理とトゥワイスを助けるために必死になっていたはずだった。
それなのに、今は呼吸しているのかどうかさえ分からず、トガが名前を呼んでも返事はなく、いつもなら聞こえてくるはずの不機嫌そうな声も返ってこなかった。
「……秀一くん……起きてくださいよ……」
トガはドア枠に手を押しつけ、思わず身体を乗り出したが、腹部を貫いた激痛に視界が白く霞み、腕から力が抜けそうになった。
それでも歯を食いしばって血溜まりの中に横たわる仲間を見つめ続けたものの、スピナーは一向に動かず、やがて彼女の視線は道路の中央に立つ出久へ向けられた。
「どうして……?」
いつもの出久なら、真っ先にスピナーへ駆け寄って怪我の具合を確かめるはずだったし、マグネやコンプレスだって放っておくはずがなかった。
しかし、彼は誰かを助けようとするどころか、倒れている仲間たちに関心さえ示しておらず、その腕の中では壊理とトゥワイスが必死に抵抗していた。
「デクくん……?」
呼びかけに反応した出久は、車の後部座席からこちらを見つめる少女に気づくと、少し意外そうに目を見開き、それから穏やかな笑みを浮かべた。
「おはよう、トガヒミコ」
まるで、いつもより遅く起きてきた同居人に挨拶するような口調だった。
「……デクくん、あの……」
「君も随分と酷い怪我をしているね。まだ動かない方がいいんじゃないかな」
自分の怪我を心配してくれたことに、トガは僅かな安堵を覚えたが、続く言葉を聞いた瞬間、その期待は打ち砕かれた。
「まあ、これ以上僕の邪魔をしないなら、君に手を出すつもりはないよ。せっかく助かった命なんだから、大人しく休んでいるといい。『変身』はいらないしね」
出久はそう付け加えると、もう興味を失ったようにトガから視線を外した。
邪魔をしなければ攻撃しないという言葉は、裏を返せば邪魔をすれば攻撃するという意味であり、トガは目の前の少年が本当に自分の知っている出久なのか分からなくなった。
「……さて、随分と時間を無駄にしてしまったな。そろそろ先を急がないと」
出久は海の方へ身体を向け、遠くの水平線近くに霞むタルタロスの方角へ歩き出そうとしたが、その腕の中から甲高い悲鳴が響いた。
「やだっ! 行きたくない! 離してよぉッ!!」
「こらこら、そんなに暴れないでくれよ。落としてしまったら危ないだろう?」
壊理は小さな身体を激しく捩り、黒い装甲を何度も叩いていたが、出久は困ったように眉を下げながら抱え直し、少女が逃れられないように腕の力を強めた。
やがて壊理は車内のトガを見つけると、涙で濡れた顔を上げ、何かに縋るように手を伸ばした。
「──トガさんッ!! この人、デクさんじゃないのッ!! 知らない人に乗っ取られちゃったのッ!! デクさんの身体を、知らない人が勝手に使ってるのッ!!」
「…………え?」
「お願い、助けてッ!! デクさんを助けてよぉッ!!」
壊理の叫びを聞いたトガは、あまりにも現実離れした話に言葉を失ったが、そう考えた途端、先ほどから感じていた違和感が一つにつながった。
仲間たちが血を流して倒れているのに関心を示さず、壊理が泣いて嫌がっているのに平然と連れ去ろうとし、自分に向かって邪魔をすれば攻撃すると告げた少年は、確かに彼女の知っている出久とはかけ離れていた。
「……乗っ取られた……?」
トガが呟くと、出久は腕の中で暴れる壊理へ視線を落とした。
「デクさんを返してッ!!」
「返してほしいと言われてもね。今の僕にとって、この身体は必要なものなんだ」
何でもないことのように答えたその言葉を聞いて、トガの胸の奥が冷たくなった。
目の前にいる少年は、自分が緑谷出久ではないことも、彼の身体を奪っていることも否定しなかったのだ。
「……あなた、誰なんですか……?」
震える声で問いかけると、出久は少しだけ考える素振りを見せ、どこか懐かしそうな口調で答えた。
「オール・フォー・ワンだよ。もっとも本人とは言えないが」
「……そんな……」
「君が驚くのも無理はないね。僕自身、こんなに都合よく事が運ぶとは思っていなかったから」
まるで思いがけず良い買い物ができたことを喜んでいるような言い方に、トガは無意識に身を引いた。
その拍子に傷口が引き攣り、思わず顔を歪めたが、右手は腰の装備へ伸び、残っていた注射器型の凶器を引き抜いていた。
細い針先を出久へ向けたものの、指先は小刻みに震え、まともに狙いを定めることさえできなかった。
仲間たちを傷つけられたことが許せなかったのか、壊理を助けたかったのか、それとも自分を守ろうとしただけなのか、理由ははっきりしなかったが、目の前にいるのが大好きな出久の身体である以上、たとえ中身が別人でも針を突き立てる覚悟などなかった。
出久は震える針先をしばらく眺め、それから何かを確認したように小さく頷いた。
「ああ、そう」
怒ることも驚くこともなく、彼は腕の中で暴れている壊理へ視線を落とした。
「……さて、少し邪魔になるね」
黒い装甲に覆われた指先が壊理の首筋へ伸び、少女の身体がびくりと震えた直後、それまで必死に暴れていた手足から力が抜けた。
出久は壊理の意識が失われたことを確かめると、道路に散らばるコンクリート片を足先で退け、比較的平らな場所へ少女を横たえた。
「……壊理ちゃんに、何を……」
トガが声を絞り出しても、出久は答えず、空いた腕を見下ろして何かを確かめるように左右を見比べた。
「……あれ? 分倍河原君はどこへ置いてしまったかな……」
出久の腕に抱えられていたはずのトゥワイスが、いつの間にか姿を消していた。
壊理のことに気を取られている間に逃れたのか、それともどこかへ放り出されたのか、トガには分からなかったが、出久は周囲の瓦礫へ目を向けただけで、すぐに捜すのをやめた。
「……まあいいか。後でゆっくり探そう」
そして、車内のトガへ顔を向けた。
「君を殺してからね」
黒い外骨格の足がアスファルトを踏み、規則正しい足音が近づいてくる。
トガは反射的に注射器を握り直したが、まともに立ち上がることさえできない身体では逃げ切れるはずもなく、何より出久の顔に向かって針を突き立てることが怖かった。
「──そこ、までだッ!!」
道路の反対側から聞き覚えのある声が響き、出久が顔を向けた直後、凄まじい衝撃音とともに人影が横合いから飛び込んできた。
トガには何が起きたのか分からなかったが、目の前にいた出久が突然横へ吹き飛び、猛烈な風圧が押し寄せてきたことだけは理解できた。
黒い外骨格を纏った少年は十数メートル先のアスファルトへ叩きつけられ、舗装を砕きながら転がっていった。
そして、先ほどまで彼が立っていた場所には、破れた衣装を纏い、額から血を流したジェントル・クリミナルが拳を突き出した姿勢で立っていた。
「あ、デクくん……?」
「はあ……はあ……間に合ったようだね、お嬢さん」
ジェントルは背後のトガを一瞬だけ振り返ったが、すぐに前方へ向き直ると、出久が吹き飛ばされた場所へ両手を突き出した。
「──まだだッ!!」
彼は弾性を付与した空気を蹴り、その反発力を利用して一気に跳躍すると、出久の上空から何もない空間へ次々と弾性を付与していった。
透明な膜のような空気の層が上下左右から少年を包み込み、それぞれが強靱な反発力を持つ障壁となって逃げ道を塞いでいく。
さらにジェントルは空中で身体を捻り、別の角度からも弾性を重ねることで、出久がどの方向へ動こうとしても押し返されるようにした。
幾重にも重なった空気の層はやがて透明な檻となり、黒い外骨格を纏った少年を完全に閉じ込めた。
「──ぐッ……!」
ジェントルは歯を食いしばり、両腕を突き出したまま空中に踏みとどまった。
普通ならこれほど短時間に大量の空気へ弾性を付与することなどできなかったが、今の彼にはラブラバの『愛』による強化が働いていた。
「ジェントルッ!! お願い……! お願いだから、負けないでッ!!」
道路脇から響くラブラバの声に応えるように、ジェントルはさらに力を振り絞った。
しかし、先ほどの一撃が確かに直撃したにもかかわらず、出久の身体を奪ったオール・フォー・ワンには目立った損傷がなく、真正面から戦って勝てる相手ではないことをジェントル自身が理解していた。
その頃、車の傍では、お茶子が後部座席へ駆け寄っていた。
「ヒミコちゃん! 大丈夫!? 今のうちに逃げよう、立てる?」
お茶子はトガの腕を自分の肩へ回し、慎重に身体を支えながら車の陰から離れようとしたが、その時、何か巨大なものが軋むような音が響いた。
ジェントルの張り巡らせた空気の障壁が、内側から大きく歪んでいた。
「……んー」
透明な弾性の層が押し広げられ、その中心で出久がゆっくりと右手を持ち上げる。
「これはもう見飽きたよ」
ジェントルは反射的にさらに弾性を重ねようとしたが、その前に出久の口が開いた。
「新秩序──」
「──早く逃げたまえッ!! 私のことは構わなくていいッ!!」
ジェントルは叫びながら出久を包み込む空気へさらに弾性を重ねたが、少年はそれを気に留める様子もなく、ふと何かを思い出したように道路へ横たわる壊理へ視線を落とした。
「……ああ、そうだった。壊理ちゃんまで巻き込むわけにはいかないね」
その声には少女を気遣うような響きさえあったが、彼が案じているのは壊理自身ではなく、彼女の持つ『巻き戻し』という極めて価値の高い個性だった。
出久は壊理の位置を確かめ、ジェントルの障壁と、その向こうにいるお茶子たちへ視線を移した。
「……うん。このくらいの範囲で十分かな」
まるで庭の雑草を刈り取る範囲でも決めているかのような口調だった。
「──やめろッ!!」
ジェントルは叫びながら拘束を強めたが、出久はそれを無視し、開いた右手の掌を周囲の大気へ向けた。
「──大気は、上方へ向かって指向性を持って膨張する」
その瞬間、出久が指定した範囲の大気が凄まじい圧力を伴って膨張し、それまで何の変哲もなく存在していた空気が、猛烈な上昇気流へと変貌した。
しかも、その力は四方へ無秩序に広がるのではなく、出久が定めた方向へ集中していた。
「──ぐあああああッ!!」
ジェントルの身体が跳ね上げられた。
自分が弾性を付与していた空気の層が内側から一斉に押し広げられ、障壁は弾性を失わないまま、構成要素である大気そのものの膨張によって上方へ変形していった。
結果として、出久を閉じ込めるはずだった透明な檻は、周囲のものを空へ打ち上げる巨大な反発装置へ変わってしまった。
ジェントルは足元の弾性によって突き上げられ、さらに下方から押し寄せる大気の奔流に呑み込まれ、道路も防波堤も青い海も、猛烈な勢いで遠ざかっていった。
「──ジェントルッ!!」
ラブラバの悲鳴が響いたが、その声が彼の耳へ届いたかどうかは分からなかった。
そして、被害はジェントルだけに留まらなかった。
「──えっ……!?」
車から離れようとしていたお茶子は、突然足元から押し寄せた圧力に目を見開いた。
靴底がアスファルトから離れ、身体が浮き上がったため、反射的にトガの腕を掴もうとしたが、次の瞬間には猛烈な気流に引き離され、指先が空を掻いた。
「──きゃあああああッ!!」
お茶子とトガの身体が、ほとんど同時に宙へ放り出された。
車や瓦礫がみるみる小さくなり、道路の亀裂さえ見分けられなくなる頃には、二人の身体はすでに遥か上空へ達していた。
お茶子は風に翻弄されながら必死に周囲を見回し、少し離れた上空に白い髪の男が浮かんでいることに気づいた。
「……ジェントルさんッ!!」
ジェントルは両腕を力なく広げ、身体をゆっくりと回転させながら上昇を続けていた。
黒いマントが激しくはためき、頭は後ろへ仰け反ったままで、呼びかけに反応する気配もなかった。
お茶子は反射的に自分の身体へ指先を触れさせ、個性『無重力』を発動した。
重力から解放された身体はそれ以上下方へ引かれなくなったが、すでについていた上昇速度は消えず、周囲には大気の急激な膨張によって生じた乱気流が残っていた。
ジェントルとの距離は十数メートルほどだったが、足場のない上空ではその僅かな隔たりが途方もなく遠く感じられた。
「ジェントルさんッ!! 聞こえますかッ!?」
お茶子は身体を捻って手を伸ばしたものの、無重力になったからといって自由に空を飛べるわけではなく、腕を掻いてもまともな推進力は得られなかった。
むしろ横から吹きつけた風に煽られて距離が広がり、何度姿勢を変えてもジェントルへ近づくことができなかった。
やがてジェントルの上昇速度が鈍り始め、白い髪がふわりと広がると、彼の身体は一瞬だけ空中に静止したように見えた。
「──ジェントルさんッ!!」
次の瞬間、彼は落下を始めた。
重力に引かれた身体は次第に速度を増し、地上へ向かって遠ざかっていったため、お茶子は慌てて自分の個性を解除して後を追おうとしたが、すでに二人の間には大きな距離が生まれていた。
しかも、お茶子の周囲にはまだ上向きの気流が残っており、落下しようとしても何度も押し戻されてしまう一方、ジェントルは気流の中心から外れた位置へ弾き出されていた。
「──誰かッ!! 誰か、ジェントルさんをッ!!」
その声は、吹き荒れる風の中へ吸い込まれていった。
少し離れた場所では、トガヒミコが猛烈な風に煽られながら、半ば意識を失いかけていた。
空中へ打ち上げられた衝撃によって腹部の傷が再び痛み始め、呼吸をするたびに胸の奥が焼けつくようだったが、それでも彼女は、お茶子が必死に手を伸ばしていることも、ジェントルが地上へ向かって落下し始めたことも見ていた。
「助けなきゃ……」
つい先ほどまで自分を助けようとしてくれた男が、今度は空から落ちようとしている。
このままでは死んでしまうと理解した瞬間、トガは反射的に駆け出そうとしたが、足元には何もなく、地面を蹴ったつもりの両足が空を掻いて身体が不格好に回転した。
その時、トガの脳裏に一つの記憶が浮かんだ。
以前に手に入れ、大切に取っておいたお茶子の血液が、まだ装備の中に残っているはずだった。
トガは反射的に腰へ手を伸ばし、装備の内側を探ると、指先が細い容器に触れた。
震える手でそれを引き抜き、中に残っていた赤黒い液体を確かめた瞬間、彼女は蓋を外して一息に呑み込んだ。
鉄の味が舌の上に広がり、次の瞬間、皮膚の表面から淡い色の液体が溢れ出した。
金色の髪は短い茶色の髪へと変わり、顔立ちも手足の形も、身につけている衣服さえも別の少女のものへ置き換わっていく。
ほんの数秒後、そこには麗日お茶子が二人いた。
「……っ、はあ……!」
変身を終えたトガは、痛む胸を押さえながら自分の手を見つめた。
丸みを帯びた指先に掌の柔らかな膨らみという、何度も見て、触れて、真似てきた大好きな少女の手だった。
これまで何度も試してきたが、お茶子の姿になり、彼女と同じように指先を揃えても、触れたものから重力が消えることは一度としてなかった。
姿も声も同じになれるのに、個性だけは決して真似できないという『変身』の限界を、トガは誰よりもよく理解していた。
それでも、彼女は自分の胸元へ五本の指を押し当てた。
「……できる、はずです……」
眼下では、ジェントルの身体が恐ろしい速さで落下しており、白い髪も黒いマントも、もはや小さな影のようにしか見えなかった。
あそこへ叩きつけられればどうなるか、考えるまでもなかった。
「……だって……私は、お茶子ちゃんが大好きだから……!」
姿を借りたからといって、その人間になれるわけではないという理屈は分かっていたが、今のトガにとって、そんなことはどうでもよかった。
お茶子なら助けられるのだから、お茶子になっている自分にも助けられるはずだと信じ、もう一度自分の身体へ指先を押し当てた。
その瞬間、全身を下へ引きずり込んでいた感覚が、ふっと消えた。
「…………え?」
腹部の痛みも耳元で唸る風もそのままだったが、それまで身体に作用していた重力だけが唐突に失われていた。
落下は止まらなかったものの、周囲の風に押されるにつれて勢いが鈍り、トガは以前お茶子の個性によって身体を浮かせてもらった時と同じ感覚であることに気づいた。
「……でき、た……?」
信じられないという思いが胸を過ぎったが、ジェントルはまだ落ちており、自分の身体を無重力にできただけでは助けられない。
トガは慌てて指先を合わせて個性を解除すると、ジェントルのいる方向へ頭を向け、両腕を身体に沿わせた。
空中で泳ぐように手足を動かしてもまともに進めないことは分かっていたため、重力に任せて落下しながら、少しでも空気抵抗を減らそうと身体を一直線に伸ばした。
「──ジェントルッ!!」
猛烈な風が顔面を叩き、短くなった茶色の髪を後方へ押し流す中、トガは腹部の痛みに耐えながらジェントルへ手を伸ばした。
最初の一度は黒いマントを掠めただけで身体が横へ流されてしまったが、咄嗟に伸ばしたもう片方の手が布地を掴み、落下する男の身体に引っ張られた衝撃が肩を襲った。
「──あぐッ!?」
肩の関節が外れそうなほどの痛みが走ったが、トガは歯を食いしばってマントを離さず、腕を引き寄せてジェントルの背中へ身体を寄せた。
そして、もう片方の手を伸ばし、彼の肩へ指先を押し当てた。
「──『無重力』ッ!!」
ジェントルの身体から重力が消えた。
すでについていた落下速度まで消えたわけではなく、二人は依然として凄まじい速さで地上へ向かっていたが、それ以上重力によって加速することはなくなった。
「……できた……!」
自分の手がお茶子の個性を使い、ジェントルの身体を無重力にしたことに、トガは泣き笑いのような表情を浮かべた。
「……ジェントル……! 起きてください……! お願い……!」
トガは必死に呼びかけ、腹部の激痛に顔を歪めながらもジェントルの肩を揺すった。
何度目かの呼びかけで男の瞼が僅かに動き、薄く開いた目が、涙で濡れた茶色い髪の少女を捉えた。
「麗日、君……?」
「違います……! 私です……! トガです……!」
「……なんと、一体どういう……?」
地面に足が触れた瞬間に全身の力が抜け、自分の身体がまだ無重力状態にあることに気づいて慌てて個性を解除した。
重さが戻ると同時にその場へへたり込み、腹部から胸元にかけて走る激痛に身体を丸めたが、それでも二人が生きて地上へ戻れたことに安堵していた。
「──ヒミコちゃんッ! ジェントルさんッ!」
少し遅れて本物のお茶子が降りてきた。
彼女は残っていた気流が弱まったことを確かめると、自分の身体に働く空気抵抗を利用して姿勢を整え、二人から数メートル離れた場所へ着地した。
「よかった……! 二人とも、大丈夫ですか!? ヒミコちゃん、傷は……!」
「……だいじょうぶ、です……。ちょっと、痛いですけど……」
「ちょっとじゃないでしょ!」
お茶子は慌てて膝をつき、トガの身体を支えた。
自分とまったく同じ顔をした少女が血に濡れた衣服を押さえながら苦しそうに呼吸している光景には奇妙な違和感があったが、今のお茶子にとっては、そんなことより彼女の怪我の方が心配だった。
「無理に動かないで。傷口、また開いてるかもしれへんから……!」
「お茶子ちゃん……私、できました……」
「……うん」
「お茶子ちゃんの、個性……」
「うん。見てたよ。すごかった、ほんとにびっくりした……」
お茶子の声にはまだ驚きが残っており、トガは嬉しそうに目を細めたが、何かを言い返そうとしたところでジェントルがゆっくりと立ち上がった。
「……感動的な再会に水を差すようで、申し訳ないのだがね。残念ながら、我々はまだ助かったわけではない」
ジェントルは片手で脇腹を押さえながら道路の向こうへ顔を向け、その視線を追ったお茶子の表情が強張った。
砕けた道路とひしゃげたガードレールの向こうに、黒い外骨格を纏った緑谷出久が立っていた。
自分の個性によって周囲の人間を上空へ吹き飛ばしたというのに、その表情には焦りも興奮も見られず、ただ予想外の出来事を目撃したように、少しだけ目を丸くしていた。
「…………へえ」
出久の視線はジェントルでもお茶子でもなく、お茶子の姿をしたトガへ向けられていた。
「……これは驚いたな。『変身』は、他人の外見を再現するだけの個性だと聞いていたんだけどね。どうやら、それだけではなかったらしい」
出久は何かを考えるように自分の右手へ視線を落とし、それから興味深そうに言葉を続けた。
「変身した相手の個性まで再現できるようになったのか。それとも、何か別の条件があるのかな? 実に興味深い。個性の成長というものは、時として本人の認識さえ超えてしまうからね」
その口調は、まるで珍しい実験結果を前にした研究者のようだった。
「しかも、あの状況で覚醒するとは。命の危機が引き金になったのか、それとも強い感情が作用したのか……。いや、君の場合は後者の可能性が高そうだ」
出久は楽しそうに言葉を続けたが、トガ自身には何が起きたのかまだよく分かっていなかった。
ただジェントルを助けたいと思い、お茶子ならできるはずだと信じた結果、本当に彼女の個性を使うことができたのだ。
「……君は、なかなか面白いものを見せてくれたよ。正直なところ、少し見直した。そうなると、君の『変身』は僕が考えていたよりもずっと応用範囲が広いらしい」
その言葉を聞いた瞬間、トガの顔から血の気が引いた。
個性を奪う男が自分の『変身』に興味を示しているという事実は、説明されるまでもなく恐ろしいものだった。
「……嫌、です……。あげません……。私の個性は、私のです……!」
お茶子に支えられながら震える身体を起こし、腹部の痛みで呼吸を乱しながらも、トガは出久から目を逸らさなかった。
出久はしばらく彼女を見つめ、それから軽く肩を竦めた。
「だろうね」
出久は小さく息を吐き、道路の上に横たわる壊理へ視線を移した。
少女は依然として意識を失っており、少し離れた場所ではラブラバがジェントルの無事を確かめようと駆け寄っていたが、出久はそれらを一通り眺めると、何かを決めたように頷いた。
「……うん。今度はもう少し乱暴にやろうか」
黒い外骨格に覆われた右腕が、ゆっくりと持ち上げられた。
「──全員、伏せるんだッ!!」
ジェントルが反射的に叫んだ。
たった一言で大気そのものを凄まじい暴力へ変えてしまった光景が脳裏に焼きついており、次に何が起きても不思議ではなかった。
ヒミコちゃん、早く! こっちに……!」
お茶子は隣にいる少女の腕を引こうとしたが、その手は空を掴んだ。
振り返ると、先ほどまで肩を貸していたトガがその場に座り込み、俯いたまま何かを見つめていた。
お茶子とまったく同じ姿をしたトガヒミコは、両膝をアスファルトにつき、血の気の失せた顔に奇妙な静けさを浮かべながら、小さなガラス瓶を握り締めていた。
親指ほどの大きさしかない透明な小瓶で、その底には、ほんの一滴だけ赤い液体が残っていた。
「……あった」
トガは掠れた声で呟いたが、その声は周囲の騒ぎに掻き消され、お茶子には聞こえなかった。
ジェントルが再び何かを叫び、離れた場所ではラブラバが彼の名前を呼んでいたが、トガは手の中の小瓶から目を離さなかった。
そこに残っているのは、緑谷出久の血液だった。
以前、お茶子と抜け駆けはしないと約束した後で、こっそりと出久のところへ貰いに行ったものだった。
その場で飲んでしまうこともできたが、出久の姿になり、彼の声で話し、彼と同じ目で世界を見ることができるという特別な体験を、簡単に使い切ってしまいたくなかった。
だからこそ、いつか本当に大切な時が来たら飲もうと思いながら、小瓶を壊さないように、失くさないように、ずっと持ち歩いていた。
そして今、その血液が手の中にある。
「……デクくん……」
トガは小さく名前を呼び、顔を上げた。
少し離れた場所に立っている少年は、癖のある緑色の髪も頬に散ったそばかすも、あの優しそうな顔立ちも何一つ変わっていなかったが、そこにいるのは彼女が好きになった出久ではなかった。
あの身体を動かしているのは、オール・フォー・ワンという別の人間だった。
仲間を傷つけ、壊理を連れ去ろうとし、トガ自身を殺そうとした男が、大好きな人の顔で笑っている。
目の前にいるのに、どこにもいない。
どれほど名前を呼んでも、返事をしてくれるのは知らない男だった。
トガは小瓶へ視線を戻し、震える指で蓋を摘まんだ。
腹部から胸元にかけて広がる傷が痛み、呼吸をするたびに意識が遠のきそうになったが、それでも小瓶だけは落とさないように両手で包み込み、慎重に蓋を外した。
「何してるの!? 早く逃げないと……!」
お茶子の叫び声が聞こえたが、トガは答えず、小瓶を口元へ運んだ。
ほんの一滴しか残っていない血液がガラスの内側をゆっくりと滑り落ち、瓶を傾けた彼女の舌の上へ落ちた。
微かな鉄の味が広がると、トガは目を閉じ、出久が笑っている顔を思い浮かべた。
困ったように眉を下げる顔も、何かに夢中になって話している時の顔も、自分のことより誰かの心配をして無茶ばかりする姿も、今ではすべてが愛おしかった。
ずっと彼のことが好きで、彼のようになりたいと思っていた。
同じものを見て、同じことを感じて、彼が何を考えているのか知りたいと願ってきたが、今はそれ以上に、奪われてしまった彼自身を取り戻したかった。
トガは空になった小瓶を胸元へ抱き寄せ、かすかな笑みを浮かべた。
「……デクくん、大好き」