海面を覆っていた白い飛沫がようやく薄れ始めた頃、トガはゆっくりと高度を下げ、波打ち際から少し離れた砂浜へ降り立った。
白い外骨格に覆われた両脚が砂を踏み締めると、着地の衝撃によって足元が沈み込み、周囲に細かな砂粒が飛び散った。
先ほどまで猛烈な勢いで駆動していた発条はすでに動きを止めており、肩や肘の関節からは、過剰な負荷によって砕けた装甲の破片がぽろぽろと零れ落ちている。
それでも『ホワイト・ラビット』の基本構造は維持されており、白い装甲を纏った少年は海へ向かって立ったまま、沖合に残る巨大な波紋を見つめていた。
「ヒミコちゃんっ!」
背後から聞こえた声に、トガは反応しなかった。
崩れた防波堤を乗り越え、砂浜へ駆け下りてきたお茶子は、足を取られそうになりながらも懸命に走っていた。
先ほどまでの戦闘で服は汚れ、身体のあちこちに擦り傷ができていたが、そんなことを気にする余裕などないらしく、彼女の表情には興奮と喜びが浮かんでいる。
「すごい! すごいよ、ヒミコちゃん! さっきの見た!? あんな大きな槍、全部壊してもうた!」
お茶子はトガの隣まで駆け寄ると、海面を指差しながら勢いよく言葉を続けた。
「あいつ、デクくんの身体を使ってあんなに強かったのに、ヒミコちゃんが全部押し返しちゃった! それに、さっきの大きな腕も、デクくんの技も、全部使えてたし……!」
途中で言葉が追いつかなくなったのか、お茶子は一度大きく息を吸い、白い外骨格を見上げながら満面の笑みを浮かべた。
「これなら勝てるよ! 絶対に勝てる! あいつをやっつけて、デクくんを取り戻せるよ!」
その声は、波の音に負けないほど明るかった。
実際、お茶子がそう考えるのも無理はない。
つい先ほどまで、オール・フォー・ワンは誰にも止められない存在だったのだ。
出久の身体を奪い、彼が持つ複数の個性を自在に操り、さらに『新秩序』という規格外の能力まで手に入れた相手に対して、自分たちが何をできるのかさえ分からなかった。
それが今、目の前にいるトガは、あの男が繰り出した巨大な槍を真正面から粉砕し、海底へ叩き落としてみせたのである。
希望を抱かずにはいられなかった。
「ねえ、ヒミコちゃん! あの技、デクくんが使ってたやつだよね? すっごく速くて、何回も殴るやつ! あんな使い方もできるんだね!」
お茶子は興奮した様子で両手を動かし、先ほどの連続打撃を真似するように拳を突き出してみせた。
もちろん、その動きはトガが繰り出したものとは比べものにならないほど遅く、本人もそれを分かっているのか、途中で照れくさそうに笑っている。
「もう駄目かもしれへんって思ってたけど……でも、ヒミコちゃんがおってくれて、本当に……」
そこまで言いかけたところで、お茶子は言葉を止めた。
トガが、何も答えなかったからだった。
先ほどから一度も顔を向けず、海を見つめたまま立っている。
普段のトガなら、こんなふうに褒められれば嬉しそうに笑い、もっと褒めてほしいとせがむか、あるいは自分が出久と同じ技を使えたことを興奮気味に話し始めてもおかしくないはずだった。
しかし、今の彼女は違った。
白い外骨格の両腕を身体の横へ下ろしたまま、海へ顔を向けている。
その姿は、先ほどまで凄まじい戦闘を繰り広げていた人物とは思えないほど静かだったが、よく見ると指先が小刻みに震えており、両脚も辛うじて身体を支えているように見えた。
「……ヒミコちゃん?」
お茶子は眉を寄せた。
返事はなかった。
波が砂浜へ打ち寄せ、二人の足元から少し離れたところで白い泡となって崩れていく。
遠くでは、崩壊した防波堤の残骸が波に洗われる音が響いていたが、トガはそのどちらにも反応せず、ただ海面を見つめていた。
「……ねえ、どうしたの?」
お茶子は先ほどまでの笑顔を消し、トガの肩へそっと手を伸ばした。
白い装甲に触れると、表面には戦闘によって生じた細かな亀裂が無数に走っており、ところどころで鱗状の装甲が欠けていた。
激しい戦闘の直後なのだから当然だと思いかけたものの、肩越しに伝わってくる震えは、単なる疲労によるものとは思えなかった。
「お腹の怪我、やっぱり……」
お茶子は不安そうに顔を覗き込もうとした。
白い頭部装甲の内側には、出久と同じ顔があるはずだった。
先ほどまで激しい戦闘を繰り広げていたため、装甲の隙間から見える肌には汗が浮かんでいるだろうし、負傷によって顔色も悪くなっているかもしれない。
そう思いながら、彼女はトガの正面へ回り込んだ。
「……ヒミコ、ちゃ……」
その瞬間、トガの身体が大きく揺れた。
「──っ、あ……!」
喉の奥から押し殺したような声が漏れ、白い外骨格を纏った両脚が突然力を失ったように折れ曲がる。
お茶子が反射的に腕を伸ばしたものの、トガはその手に縋るよりも早く砂浜へ膝をつき、両手で自分の顔を覆った。
「ヒミコちゃん!?」
お茶子は慌ててその場へしゃがみ込み、トガの肩を支えた。
白い装甲に覆われた身体は激しく震えており、両手で顔を押さえたまま俯いている。
呼吸は浅く、喉の奥からは苦しそうな息が漏れていたが、腹部の傷を押さえる様子はなく、むしろ顔そのものに何かが起きているかのように、指先へ強く力を込めていた。
「ど、どうしたの!? 顔!? 顔が痛いん!?」
「……っ、あ……あれ……?」
トガは自分でも何が起きたのか分からないような声を漏らした。
最初に感じたのは、頬の奥を細い針で引っ掻かれたような違和感だった。
続いて額や顎、目元へと奇妙な感覚が広がり、皮膚の下で何かが軋んでいるような不快感が生じたかと思うと、次の瞬間には顔全体を内側から引き裂かれるような痛みが走ったのである。
刃物で切られた時の鋭さとも、殴られた時の鈍さとも違う。
まるで自分の身体を構成している何かが、内側から少しずつ壊れていくような、これまでに経験したことのない感覚だった。
「……な、なに……? 体が……」
震える声で呟きながら、トガは恐る恐る頬へ触れる。
白い装甲の内側に見えている頬に、細い線が走っていた。
最初は、砂や血液が付着しているのかと思った。
しかし、よく見るとその線は皮膚の表面に生じたものであり、しかも一本だけではなく、頬骨の辺りから口元へ向かって、幾つもの細かな亀裂が枝分かれするように伸びていた。
「……え?」
お茶子は目を凝らした。
亀裂は、今この瞬間にも増えていた。
頬に生じた細い線の先端がゆっくりと伸び、その途中から新たな亀裂が分岐していく。
まるで乾燥した大地がひび割れるように、あるいは陶器の表面へ細かな亀裂が広がるように、出久と同じ顔をしたトガの皮膚へ、次々と異様な模様が刻まれていた。
「ヒミコ、ちゃん……? それ、怪我……?」
お茶子の声が震えた。
皮膚が切れているわけではない。血液が滲み出しているわけでもない。
それなのに、亀裂の部分だけが周囲とは異なる色へ変わっており、細い線の両側では皮膚そのものが別々の方向へ引き離されているかのような、不自然な歪みが生じていた。
お茶子は手を伸ばしたものの、触れてよいものか分からず、トガの頬のすぐ手前で指を止めた。
その時、波打ち際の向こうから、場違いなほど穏やかな声が聞こえてきた。
「──容量不足だよ」
お茶子は弾かれたように顔を上げた。
先ほどまで巨大な水柱が噴き上がっていた海面は、まだ激しく波立っていたものの、その中を一人の少年がゆっくりと歩いていた。
膝ほどの深さまで海水が引いたところで、少年は濡れた髪を掻き上げ、足元に絡みつく波を鬱陶しそうに蹴り払うと、まるで海水浴から戻ってきたかのような気軽さで砂浜へ足を踏み出した。
緑谷出久だった。
ただし、その姿は海中へ叩き落とされる前とは大きく異なっていた。
全身を覆っていた黒い『ホワイト・ラビット』は大部分が崩壊し、右腕に至っては肩から先の装甲がほとんど失われていた。
胸部には砕けた鱗状装甲が辛うじて残っているものの、その下にあった支持骨格は折れ曲がり、背中から伸びていた『ラビット・ホーン』の駆動機構も、もはや原形を留めていない。
腰部から脚部にかけて残された外骨格が歩行を補助しているようだったが、足を踏み出すたびに関節から硬質な軋みが響き、破損した装甲の一部が砂浜へ落ちていった。
頭部装甲も完全に失われていたため、出久の顔が露わになっていた。
濡れた緑色の髪が額に張りつき、頬には細かな擦過傷が走っている。
目元には濃い疲労の色が浮かび、呼吸も普段より深く、肩を上下させる動作からは、先ほどの攻撃が決して軽いものではなかったことが窺えた。
右腕を持ち上げる際には顔を顰め、胸元へ手を当てて呼吸を整える場面さえあった。
それでも、少年は笑っていた。
痛みも疲れも確かに感じているはずだったが、それらを上回るほど面白いものを見つけたらしく、砂浜へ上がったオール・フォー・ワンは、膝をついたトガと、その傍らにいるお茶子を眺めながら、とうとう堪えきれなくなったように笑い声を漏らした。
「ははっ……いやあ、驚いた。心底肝を冷やした。あんな感覚はオールマイトに追い詰められた時以来だ」
オール・フォー・ワンは愉快そうに笑いながら、破損した右腕の装甲へ手を伸ばした。
指先で軽く叩いただけで黒い鱗が幾つも剥がれ落ち、その下から露出した皮膚には、海底へ叩きつけられた際にできたらしい青黒い痣が広がっていたが、彼はそれを一瞥しただけで、すぐに興味を失ったように手を下ろした。
「いやはや、素晴らしい。あれほどの力を、脳無でもない、何の改造も施していない身体で扱えるなんてね。君の『変身』は、僕が考えていた以上に優秀な個性だった。相手の姿や個性だけでなく、それらを扱うための肉体的な適応まで、ある程度は再現しているのかもしれない」
その言葉に、お茶子はトガの肩を抱く腕へ力を込めた。
目の前の少年が浮かべている笑みは、出久が何か新しい発見をした時のものとよく似ていた。
興味を引かれたものについて話し始めると止まらなくなり、相手が理解できているかどうかも忘れて夢中になってしまう、あの見慣れた表情である。
しかし、そこから発せられる言葉は、出久なら決して口にしないようなものばかりだった。
「何が、言いたいの……?」
お茶子が低い声で問いかけると、オール・フォー・ワンは少しだけ首を傾げ、まるで質問されるのを待っていたかのように嬉しそうな顔をした。
「まずは基本的なところから説明しようか。本来、個性というものは一人につき一つだ。複数の能力を持つように見える個性もあるけれど、それらは基本的に一つの個性因子として成立している。ところが、僕の『オール・フォー・ワン』は違う。他人の個性を奪い、複数の個性因子を保有することができるんだ」
オール・フォー・ワンは砂浜をゆっくりと歩きながら、片手の指を一本立てた。
「もっとも、個性を幾つも持てるからといって、それを受け入れる肉体まで無制限に対応できるわけじゃない。僕やマキアのような例外を除けば、人間の身体には明確な限界がある。個性因子を無理に詰め込めば、それだけ肉体や脳へ負荷がかかるし、許容量を超えれば正常に機能しなくなってしまうんだよ」
お茶子はトガの顔を見た。
指の隙間から覗く頬には、先ほどよりも多くの亀裂が刻まれていた。
白い頭部装甲の下へ伸びた細い線は、今も少しずつ範囲を広げており、トガが呼吸に合わせて顔を動かすたびに、ひび割れた皮膚が歪んでいる。
「……だったら……」
お茶子は震える声で言った。
「だったら、なんで……あなたは平気なの……?」
「平気?」
オール・フォー・ワンは意外そうに目を丸くした。
「ははっ、面白いことを言うね。僕が今まで、どれほど苦労してきたと思っているんだい?」
彼は笑いながら自分の胸元を指差した。
「僕の場合は、そもそも『オール・フォー・ワン』という個性そのものが、複数の個性を保有することを前提としている。もちろん、それだけで何もかも解決するわけじゃないし、長い年月をかけて様々な調整を重ねてきた。マキアにしても、生まれつき複数の個性を受け入れられるだけの異常な許容量を持っていたからこそ、あれほどの怪物になれたんだ」
マキアの名前を聞いたトガの肩が動いたが、オール・フォー・ワンは構わず話を続けた。
「けれど、そんな都合のいい人間が何人も見つかるわけじゃない。そこで必要になったのが、個性を受け入れるための器を人工的に作り出す研究だった。改造人間脳無は、その成果の一つだよ」
脳無という存在について、お茶子は決して詳しいわけではなかった。
それでも、複数の個性を与えられた異形の怪物であり、人間を改造することで生み出された存在だということくらいは知っている。
「肉体を改造し、脳へ手を加え、複数の個性因子を受け入れられるだけの許容量を確保する。ドクターはあの研究に随分と入れ込んでいた。より多くの個性を与え、より高度な知能を維持できる個体を作ることに情熱を注いでいた。脳無と、その発展形を完成させることが、彼にとっては研究者としての生き甲斐だったんだろうね」
その口調には、長年付き合ってきた知人の趣味を語るような気安さがあった。
人間を改造し、人格を損ない、複数の個性を詰め込んで怪物へ作り替えるという行為を、彼は研究の成果としてしか捉えていない。
お茶子は胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じたが、オール・フォー・ワンはそんな反応を気にする様子もなく、今度は自分の両手を眺めながら満足そうに頷いた。
「ただね、僕としては、あの研究はもう必要ないと考えている」
「……え……?」
「だって、手に入ったじゃないか。これ以上ないほど理想的な器が」
オール・フォー・ワンは両腕を軽く広げた。
黒い外骨格の残骸が肩から剥がれ落ち、濡れた衣服の下から少年らしい細身の身体が露わになる。
長年にわたって改造を繰り返した怪物の肉体ではなく、特別な手術を施された形跡もない、ごく普通の少年の身体だった。
「──緑谷出久だよ」
お茶子は息を呑んだ。
「生まれつき個性を持たなかった人間は、最初から個性因子を保有している人間とは条件が違う。もちろん、無個性であれば誰でも複数の個性を扱えるというわけではないけれど、この少年の身体は実に優秀だった。これだけの個性を抱え込んでも正常に機能しているし、何より本人が複数の個性を組み合わせるための技術まで確立していたんだからね」
オール・フォー・ワンは指先を動かし、残されていた黒い装甲の一部を変形させた。
破損した骨格が軋み、手首を覆っていた鱗状の外殻が不完全ながら組み直されていく様子を眺めると、満足そうに頷いた。
「あとは肉体を改造して、細かな部分を調整するくらいかな。もっとも、急いで手を加える必要もなさそうだけれどね」
その言い方は、あまりにも自然だった。
まるで新しいおもちゃを手に入れた人間が、性能を確かめながら今後の改造計画を話しているような口ぶりであり、そこに緑谷出久という一人の人間に対する配慮など、欠片も存在していなかった。
「……デクくんは……」
お茶子は唇を震わせた。
「物やない……!」
「うん? もちろん、物ではないよ。彼は実に優秀な少年だし、僕もその能力を高く評価している。だからこそ、こうして身体を使わせてもらっているんじゃないか」
その言葉に、お茶子は歯を食いしばった。
出久の身体を奪っておきながら、まるで本人の同意を得たかのように語る。
しかも、その身体を今後さらに改造するつもりだというのだから、怒りを覚えない方が難しかった。
しかし、彼女が反論しようとしたところで、腕の中のトガが小さく身じろぎした。
「……デク、くん……」
トガは顔を押さえていた片手を下ろし、ひび割れの広がる頬を露わにしたまま、海から上がってきた少年を見つめていた。
自分が大好きな人の身体を、目の前の男が当然のように所有物として扱っている。
これから改造するだの、調整するだのと口にしていることが許せず、トガは何かを言おうと唇を開いたものの、顔に走った鋭い痛みに遮られ、喉の奥から苦しそうな息を漏らすことしかできなかった。
「ヒミコちゃん、無理しないで……!」
お茶子は慌ててその身体を支え直した。
しかし、トガはお茶子の声に答えず、震える指先で自分の頬に触れた。
そこには、先ほどまで存在しなかった無数の亀裂が刻まれており、頬から首筋へ伸びた線は、白い外骨格の隙間から覗く皮膚にまで広がり始めていた。
どうして、自分だけがこうなるのだろう。
同じ姿になって、同じ個性を使っているはずなのに、目の前の男はあれほどの攻撃を受けても立ち上がり、自分は何もされていないのに身体が壊れ始めている。
その違いが理解できず、トガは痛みに耐えながら、もう一度オール・フォー・ワンを見上げた。
「……じゃあ……私、は……?」
掠れた声が漏れた。
オール・フォー・ワンは、その質問にすぐには答えなかった。
彼はトガの顔を見つめ、そこに刻まれた亀裂の形状や、白い外骨格が今なお維持されていることを確かめるように視線を動かしていたが、やがて何かに気づいたように手を打った。
「……おっと、話が逸れてしまったね」
その声に、お茶子とトガの視線が向けられた。
「悪い癖なんだ、夢中になってしまってね。君たちが知りたいのは、脳無の開発経緯でも、僕がこの身体をどれほど気に入っているかでもなく、トガヒミコの身体に何が起きているのか、ということだったね」
お茶子は答えなかった。
トガもまた、顔を押さえたまま黙っていた。
二人とも、オール・フォー・ワンの次の言葉を待っていた。
彼が語った内容のすべてを理解できたわけではないが、少なくとも、人間の身体には複数の個性を扱うための限界があり、トガはその限界を超えてしまったのだということだけは分かった。
では、限界を超えた身体はどうなるのか。
顔に刻まれた亀裂は治るのか。
『変身』を解除すれば元に戻るのか。それとも、すでに取り返しのつかないことが起きているのか。
お茶子はトガの肩を支えながら、無意識のうちに息を止めていた。
オール・フォー・ワンは、そんな二人の様子を眺めると、実に愉快そうに笑った。
「つまりは……」
彼は僅かに身を乗り出した。
「──君は死ぬということだ、トガヒミコ」
その言葉が耳に届いた瞬間、お茶子は何を言われたのか理解できなかった。
死ぬ。
あまりにも簡単な言葉だった。目の前の男は、それまで個性の仕組みや研究の成果について楽しそうに語っていたのと同じ調子で、トガの命が失われることを告げたのである。
「……う、そ……」
お茶子の口から、掠れた声が漏れた。
「嘘、だよね……? だって、ヒミコちゃんは……」
「残念だけれど、冗談ではないよ」
オール・フォー・ワンは穏やかに答えた。
「君の『変身』が緑谷出久の個性を再現できることは分かった。けれど、いくら優秀な個性でも、元々の持ち主が抱えている限界まで消し去れるわけじゃない。君は自分の『変身』を維持したまま、緑谷出久の複数の個性を同時に扱っている。肉体的な適応を再現できたとしても、それだけの個性因子を処理するための許容量までは足りなかったということだろうね」
彼はトガの頬へ視線を向けた。
「その亀裂は、君の身体が限界を迎えつつある証拠だよ。今すぐ変身を解除すれば進行を止められるかもしれないけれど、すでに生じた損傷まで元に戻る保証はない。まして、あれほどの力を使ってしまった後ではね」
「……そんな……」
「かつて『ワン・フォー・オール』の継承者も……ああ、また話がそれてしまった。どうでもいいか」
亀裂は、今も広がり続けていた。
「ヒミコちゃん……! もうやめよう! 変身を解いて、早く治療を……!」
しかし、トガは首を振った。
「……嫌、です……」
「ヒミコちゃん!」
「……まだ、デクくんを……助けて、ない……」
トガは砂浜へついた手に力を込め、立ち上がろうとした。
白い外骨格の関節が軋み、膝の装甲に組み込まれた発条が微かに収縮する。
だが、身体を持ち上げようとした瞬間、頬から首筋へ走った亀裂が新たに枝分かれし、トガは苦しそうに顔を歪めて再び膝をついた。
「……っ、あ……!」
「ヒミコちゃん、お願い……!」
お茶子はその肩を抱き締めた。
目の前の男は、そんな二人を眺めながら満足そうに息を吐くと、濡れた前髪を掻き上げ、再び歩き始めた。
「さて、君が最後まで大人しくしてくれるなら、それで構わないんだけれどね」
砕けた黒い外骨格を引きずるように歩く姿には、海底へ叩き落とされた直後とは思えないほどの余裕があった。
時折、負傷した身体を庇うように肩を動かすことはあっても、その足取りが止まることはない。
「あれだけの力を持っている以上、悪あがきの一つでもされて、壊理やトゥワイスが傷つけば大変だ」
オール・フォー・ワンは、いかにも残念そうに首を振り、胸元へ片手を当てながら大袈裟な溜息をついた。
「いやあ、余命幾許もない少女を手にかけるのは心苦しい。僕としても、できればこんなことはしたくない」
その言葉を聞いたお茶子は、歯を食いしばった。
トガがこのような状態になったのは、そもそも目の前の男が出久の身体を奪ったからだった。
彼女が命を削ってまで戦おうとした理由も、その男自身が誰よりよく理解しているはずなのに、今度は壊理やトゥワイスを守るためだと言い出し、まるで自分が嫌々ながら必要な処置を施そうとしているかのように振る舞っている。
何より許せなかったのは、その言葉を口にする顔が、緑谷出久のものだということだった。
「ふざけるな……!」
お茶子はトガの肩からそっと手を離すと、砂浜へ片足を踏み出した。
膝は震えていた。全身には先ほどまでの戦闘による疲労が残っており、身体のあちこちが痛んでいたが、それでも彼女は立ち上がり、トガを背後へ庇うように両腕を広げた。
「ヒミコちゃんには、もう手を出させへん……!」
オール・フォー・ワンは足を止めなかった。
お茶子の姿が目に入っていないわけではない。
むしろ、彼女が何をしようとしているのか理解した上で、まったく気に留めていないようだった。
「……麗日お茶子。君も随分と頑張るね」
彼は穏やかな声でそう言うと、砂浜へ落ちていた黒い装甲の破片を踏み砕いた。
「けれど、君はもう十分に役目を果たしたんじゃないかな。これ以上、無理をする必要はないと思うよ」
「……勝手なこと、言わないで!」
お茶子は声を張り上げた。
「デクくんの身体を返して! ヒミコちゃんをこんな目に遭わせて、壊理ちゃんたちのことまで持ち出して……あなたがが全部やってることやろ!?」
オール・フォー・ワンは眉を上げたものの、反論することもなく、ただ小さく肩を竦めただけだった。
その間にも、二人の距離は縮まっていた。
波打ち際から砂浜の中央へ向かって伸びる足跡が、少しずつお茶子の前まで近づいてくる。
破損した黒い外骨格は歩くたびに軋み、右肩の装甲などほとんど残っていなかったが、そこから露出している腕は依然として出久のものであり、あの細身の身体にどれほどの力が秘められているのか、お茶子は嫌というほど知っていた。
まして、今の彼女には、その拳を受け止める手段がない。
『無重力』は触れた対象の重量を失わせる個性であり、相手の攻撃を真正面から防ぐための能力ではなかった。
触れることさえできれば何かを変えられるかもしれないが、出久の身体能力を知っている以上、相手が本気で殴りかかってきた時、自分がそれより早く手を伸ばせるとは到底思えなかった。
それでも、退くわけにはいかなかった。
「……お茶子、ちゃん……」
背後から、トガの弱々しい声が聞こえた。
お茶子は振り返らず、両腕を広げたまま答えた。
「大丈夫。ヒミコちゃんは、もう動かなくていいから」
「……でも……」
「お願いだから、今は休んどいて……!」
その声は、ほとんど懇願に近かった。
トガは何かを言おうとしたものの、顔に走った痛みに遮られ、再び口を閉じた。
白い外骨格はまだ維持されており、発条も動かせるはずだったが、頬から首筋へ広がった亀裂は先ほどよりも明らかに増えている。
今ここで再び個性を使えばどうなるのか、彼女自身にも分からなかった。
そんな二人の様子を眺めながら、オール・フォー・ワンはとうとう数歩先まで近づいてきた。
「健気なことだ、退きなさい」
「……退かない!」
「そうか。残念だよ」
オール・フォー・ワンはそれ以上説得しようとはしなかった。
ただ、右腕を持ち上げた。
破損した黒い装甲の隙間から、傷ついた拳が露わになる。
指を握り締める動作に合わせて前腕の筋肉が収縮し、肩から背中にかけて残されていた外骨格の支持部が軋んだ。
その拳を見た瞬間、お茶子の身体が強張った。
出久の拳だった。
彼が何度も誰かを助けるために振るってきた、見慣れた拳である。
それが今、自分と、その背後にいるトガへ向けられている。
お茶子は反射的に両腕を顔の前へ上げたが、相手の動きを見切れるという確信などなかった。
目の前の男が一歩踏み込めば、それだけで自分の反応が追いつかなくなるかもしれない。
それでも、背後のトガを庇うためには、ここから動くわけにはいかなかった。
「さようなら」
その言葉と同時に、拳が振り上げられた。
お茶子は歯を食いしばり、迫り来る衝撃に備えた。
しかし、その拳が振り下ろされることはなかった。
代わりに、視界の端が白く染まる。
「──ッ!?」
次の瞬間、煌めく光線が砂浜を横切った。
光はお茶子のすぐ脇を通り抜け、振り上げられたオール・フォー・ワンの腕から胸元にかけて直撃した。
耳をつんざくような轟音とともに閃光が弾け、衝撃を受けた少年の身体が横方向へ大きく弾き飛ばされる。
「ぐっ……!?」
オール・フォー・ワンは咄嗟に両脚へ力を込めたものの、海底で損傷した外骨格では衝撃を受け止めきれず、砂浜を数メートルも滑るように後退した。
踵が砂を抉り、残っていた胸部装甲が砕け散ると、ようやく体勢を立て直したところで片膝をつき、焦げた衣服から細い煙を立ち上らせた。
つい先ほどまで目の前にあった拳が消え、代わりに、鼻をつく焦げ臭さと、光線が通過した後の熱気だけが残っていた。
振り返れば、背後のトガも驚いたように顔を上げており、二人とも一瞬、言葉を失ったまま動けなくなってしまった。
「な、に……?」
お茶子が呆然と呟いた時、少し離れた場所から、荒い呼吸に混じって声が聞こえてきた。
「……はぁ……はぁ……」
崩壊した防波堤の近くに、一人の少年が立っていた。
金色の髪は砂と血で汚れ、額から流れ落ちた赤い筋が眉を伝って頬へ伸びている。
身につけていた衣服はあちこちが破れ、左肩から腕にかけては大きな擦過傷が広がっており、片脚を引きずるようにして立っている姿からは、すでにまともに動ける状態ではないことが窺えた。
それでも、少年は倒れていなかった。
腰に装着したベルトへ両手を添え、震える身体を必死に支えながら、砂浜の向こうにいるオール・フォー・ワンを見据えていた。
「……青山、くん……!?」
お茶子は、信じられないものを見たように目を見開いた。
青山優雅だった。
彼もまた、先ほどまでの戦闘でオール・フォー・ワンによって蹂躙された一人だった。
出久の身体を奪った男の圧倒的な力を前に、まともな抵抗さえ許されず、叩き伏せられたはずの少年である。
額からは今も血が流れ続けており、呼吸のたびに肩が大きく上下していた。
両脚は小刻みに震え、腰のベルトを支える手にも力が入りきっていないらしく、時折、装置の位置がずれている。
それでも、青山はベルトを構え続けていた。
「青山くん! どうして……!」
お茶子の声に、青山は答えなかった。
唇は震えており、額から流れる血が片目に入りかけているというのに、それを拭おうとすることさえできず、ただ必死にオール・フォー・ワンの姿を見つめていた。
その視線の先で、少年がゆっくりと立ち上がった。
「……味噌っカスが」
オール・フォー・ワンは胸元に付着した煤を指先で払い、忌々しそうに青山を睨みつけた。
先ほどまで浮かべていた愉悦の表情は消え失せていた。
額に張りついた濡れた髪の下では眉間に深い皺が寄り、口元には隠しようのない苛立ちが滲んでいる。
海底へ叩き落とされた時でさえ楽しそうに笑っていた男が、青山の不意打ちを受けた途端に不機嫌になったという事実は、お茶子にとって意外なものだった。
トガの攻撃には、彼の予想を超える力があった。
『変身』という個性がどこまでの能力を再現できるのか、オール・フォー・ワン自身にも分からなかったからこそ、海底へ叩き落とされてもなお楽しそうに笑っていたのだろう。
しかし、青山は違った。
その個性も、その能力も、オール・フォー・ワンはすでに知っている。
しかも、一度は叩き伏せたはずの相手である。
そんな少年が、再び自分の邪魔をした。
それが、彼には我慢ならなかったらしい。
「役者が違うんだよなあ、青山優雅」
オール・フォー・ワンは右肩に残っていた黒い装甲を掴み、乱暴に引き剥がした。
ひび割れた鱗状の外殻が砂浜へ落ち、その下から露出した皮膚には、先ほどの光線によって生じたらしい赤い痕が残っていたが、致命的な損傷には程遠かった。
「それにしても、相変わらず派手なだけで大した威力のない個性だよ。光り輝いて目立つことだけは得意らしいけれど、肝心の破壊力が伴っていない。君自身も、そのことはよく分かっているんじゃないかな?」
青山の肩が震えた。
腰のベルトへ添えられた両手には力が入っていたが、もう一度光線を放とうにも、腹部に走る痛みがそれを許してくれそうになかった。
額から流れ落ちた血が片目に入り、視界の半分が赤く滲んでいる。それでも青山は歯を食いしばり、オール・フォー・ワンから視線を逸らさなかった。
「……黙れ……!」
ようやく絞り出した声は掠れていたが、そこには明確な拒絶が込められていた。
オール・フォー・ワンは鼻で笑った。
「同じような事を言ったが、改めて言おう。君に与えた個性はカスだ、利用価値がなくて、使い勝手が悪いから君に与えた。同じ無個性でも、緑谷出久とはえらい違いだよ、君に価値はない」
「だからなんだと言うんだい!! おじ様も『ネビルレーザー』を撃った後はお腹を壊していたのかな!? 滑稽だね! 」
オール・フォー・ワンはそんな姿を一瞥すると、不機嫌そうに小さく息を吐き、青山へ向かって一歩踏み出そうとした。
その瞬間、上空で何かが弾けた。
「──ん?」
オール・フォー・ワンは足を止めた。
青山の光線が放たれた方向とはまったく異なる、頭上からの異音だった。
乾いた破裂音が一つ響いたかと思うと、続けて風を切り裂くような鋭い音が降ってきたのである。
彼は反射的に顔を上げた。
青く澄んだ空を背景に、二つの人影が急降下していた。
一人は、マントを風になびかせた青年だった。
身体を地面へ向けて傾け、両腕で何かを抱え込んだまま、凄まじい速度で砂浜へ向かって降下している。
風圧によってマントが激しくはためき、足元の光輪が眩く輝く。
オール・フォー・ワンが眉を寄せる。
転孤は地上まで百メートルほどを残したところで、抱えていた少年の身体を持ち上げた。
相手の両脇へ回していた腕をほどき、降下する勢いを殺さないまま、その身体を真下へ向ける。
狙いは、オール・フォー・ワンの頭上だった。
「──行け、爆豪!」
「言われなくても分かってんだよ!!」
怒鳴り声とともに、少年が放り出された。
爆豪勝己だった。
転孤の腕から解放された瞬間、爆豪は両腕を左右へ広げ、掌から小規模な爆発を発生させた。
左右で異なる方向へ噴き出した爆風が身体に回転を与え、落下の勢いを利用しながら、空中で横向きの回転運動へと移行していく。
爆豪の身体は一回転、二回転と速度を増し、掌から放たれる爆風によってさらに加速していった。
両腕を身体へ引き寄せると回転は一層鋭くなり、周囲の空気を巻き込みながら、凄まじい勢いで地上へ迫っていく。
「……爆豪勝己」
オール・フォー・ワンの顔から、先ほどまでの余裕が消えた。
彼は咄嗟に右腕を持ち上げ、残された黒い外骨格を再構築しようとした。
しかし、海底で破壊された『ホワイト・ラビット』は、まだ十分に修復できていない。
肩から先の装甲はほとんど失われ、腕部の支持骨格も砕けている。
『剛躯』によって肉体を強化することはできても、上空から迫る爆豪の攻撃を正面から受け止めるには、あまりにも準備が足りなかった。
まして、彼が青山へ意識を向けていた隙を狙った奇襲である。
青山の光線は、オール・フォー・ワンを倒すには至らなかった。
だが、その攻撃によって彼の足を止め、注意を引きつけることには成功していた。
「──『新秩序』……!」
爆豪はすでに頭上へ迫っていた。
回転によって生じた風圧が砂浜へ吹きつけ、白い煙が螺旋を描きながら広がっていく。
掌から放たれる爆発は回転速度をさらに高め、少年の身体を巨大な弾丸のように地上へ送り込んでいた。
爆豪の視線は、真下にいるオール・フォー・ワンへ向けられていた。
そこにあるのは、緑谷出久の身体だった。
何度も競い合い、何度も衝突し、誰よりもよく知っている幼馴染の身体である。今から自分が放とうとしている攻撃が直撃すれば、当然、その身体も傷つく。
相手の防御力を考慮したとしても、無傷で済むなどとは思っていなかった。
それでも、爆豪は攻撃を止めなかった。
今ここで躊躇すれば、オール・フォー・ワンは再び立ち上がり、お茶子やトガへ襲いかかるだろう。
すでに満身創痍となっている二人が、次の攻撃を凌げる保証などない。
ならば、今しかなかった。
爆豪は最後の一回転に合わせて身体を捻り、掌を真下へ向けた。
回転によって生じた勢いを殺さぬまま、蓄積した汗を一気に爆発させるため、腕を振り抜く。
「──
「──
次の瞬間、砂浜が閃光に包まれた。