理解できなかった。
オール・フォー・ワンは、目の前で拳を構える女を睨みつけながら、自分の身に起きている事態をどうしても受け入れられずにいた。
スターアンドストライプ。
アメリカ合衆国のナンバーワンヒーローにして、かつて『新秩序』という規格外の個性を所有していた女。
オールマイトに心酔し、その背中を追い続けた彼女が世界でも指折りの強者であることは認めていたし、その個性を奪うために払った代償についても、今さら忘れたわけではない。
だが、それはあくまで『
今、その個性は自分の手中にある。目の前の女には肉体を強化する手段も、世界最強の能力も残されておらず、顔面の半分は火傷で焼け爛れ、呼吸のたびに血を吐いている有様だった。
対する自分には『槍骨』を始めとした複数の個性がある。
『
それなのに。
「ハァッ、ハァッ……さあ、どうしたんだい?」
スターアンドストライプが笑った。
血に濡れた唇を歪め、腫れ上がった右拳を顔の横へ持ち上げる。
肩はすでに正常な可動域を失っており、脚にも十分な力が入っていない、戦闘姿勢を維持するだけで全身が細かく震えていた。
どう見ても、まともに戦える状態ではない。
にもかかわらず、彼女は一歩踏み込んできた。
「……ッ!」
オール・フォー・ワンは歯を食いしばり、拳を振り抜いた。
『筋骨発条化』によって上腕と肩の筋肉を収縮させ、瞬間的に加速させた拳がスターアンドストライプの顔面へ迫る。
全盛時ほどの威力は発揮できないものの、普通の人間であれば頭蓋を砕かれかねない一撃だったが、彼女は僅かに顎を引き、上半身を捻ることで直撃を避けた。
拳が頬を掠め、皮膚が裂ける。
しかし、スターアンドストライプはその衝撃に逆らわず、身体を捻った勢いを利用して左拳を突き出した。
右腕を振り抜いた直後のオール・フォー・ワンは咄嗟に腹部を強化したものの、拳が鳩尾へ突き刺さった瞬間、肉体への衝撃とは明らかに異なる痛みが胸の奥を貫いた。
「──ぐッ!?」
思わず呼吸が詰まり、反撃のために持ち上げかけた左腕が止まる。
スターアンドストライプはその僅かな硬直を見逃さず、踏み込んだ足を軸に身体を回転させると、今度は右肘を肩口へ叩き込んだ。
すでに損傷している右肩を使った代償は大きく、彼女自身も苦痛に顔を歪めたが、オール・フォー・ワンはそれ以上に激しく身体を震わせ、思わず一歩後退した。
(……何だ、今のは……!?)
打撃そのものが致命的だったわけではない。『豪躯』によって強化された肉体は十分に衝撃を受け止めており、普通ならば多少の痛みを覚える程度で済んだはずだった。
ところが、スターアンドストライプの拳が触れた瞬間、肉体のさらに奥深くから何かを引き裂かれるような感覚が生じ、反射的な動作さえ妨げられたのである。
「──やれって言われたら、やるッ!!」
スターアンドストライプが踏み込んだ。
オール・フォー・ワンは反射的に右手を伸ばし、その首を掴もうとしたものの、掌が開かれるより早く左前腕で手首を弾かれ、懐へ潜り込まれてしまう。
至近距離から放たれた右拳が腹部へ突き刺さると、再び奇妙な痛みが走り、彼は苦悶の声を漏らした。
「──やるって決めたら、やるッ!!」
続く左拳が頬へ叩き込まれ、オール・フォー・ワンの頭部が横へ跳ねた。
彼は咄嗟に反撃しようとしたが、今度は拳が触れるよりも早く胸の奥に異様な圧迫感が生じ、動作が一瞬だけ遅れた。
その僅かな隙を突いてスターアンドストライプがさらに踏み込み、満身創痍の身体からは想像もできないほど鋭い右ストレートを放つ。
「──伊達や酔狂でヒーローやってんじゃ、ないんだよッ!!」
拳が顔面へ叩き込まれ、オール・フォー・ワンは数歩後退した。
「が、あああッ!?」
頬を殴られた衝撃によって視界が揺れ、口元から血が流れる。
それ以上に彼を苦しめていたのは、胸の奥から頭蓋へ突き抜けるような異様な痛みだった。
まるで、肉体の内側にいる何者かが、スターアンドストライプの拳に合わせて暴れているかのようだった。
(……まさか……!)
オール・フォー・ワンは胸元へ手を当てた。
心臓が激しく脈打っているが、異常が生じているのはそこではない。
肉体の奥深く、複数の個性因子が存在する領域で、つい先ほど奪い取ったばかりの『新秩序』が異様な反応を示していた。
最初は打撃を受けた瞬間だけだった。
しかし、今ではスターアンドストライプが拳を振り上げるだけで個性因子が反発し、こちらの意識を掻き乱している。
(……共鳴している……!?)
信じ難いことだった。
個性因子に元の持ち主の意志や記憶、人格の残滓が宿ることは知っていたし、『AFO』によって個性を奪い取った際、その持ち主の意識が自分の内側へ残留する現象についても理解している。
しかし、それはあくまで残滓に過ぎない。
奪われた人間がどれほど強い執着を抱いていようと、一度『AFO』の支配下に置かれた個性が、元の持ち主の行動に呼応して反発するなど、本来であれば考えられないことだった。
まして、拳を振り上げただけでこちらの動作を妨げるほどの抵抗など。
(……何故、ここまで……!?)
そこで、オール・フォー・ワンはようやく思い至った。
今、緑谷出久の肉体を操っている自分は、オリジナルのオール・フォー・ワンではない。
『AFO』の個性因子に刻まれた記憶と人格を基に再現された模造人格であり、同じ記憶を持ち、同じ思考を行い、同じ目的を抱いているものの、個性への支配力まで完全に同一というわけではなかった。
長年にわたって個性を蓄積し、その支配を磨き上げてきたオリジナルとは異なり、今の自分は譲渡された『AFO』を通じて個性因子を制御している。
しかも、緑谷出久の意識を押さえ込みながら複数個性を使用しているため、その制御へ割ける余裕は決して大きくない。
そこへ、スターアンドストライプという強烈な意志を持つ女が現れた。
自分の個性を奪われ、肉体を傷つけられ、それでもなお拳を振るい続けている元の持ち主。
その存在が『
(……もういい)
オール・フォー・ワンは、ゆっくりと息を吐いた。
原因が分かったところで、状況が改善するわけではない。
スターアンドストライプを殺すだけなら今の状態でも不可能ではないだろうが、そのために時間をかければ、爆豪勝己や青山優雅、麗日お茶子たちが再び戦闘へ介入してくる。
何より、緑谷出久の意識を押さえ込み、『新秩序』の反発に対処しながら複数個性を使い分けるという現在の状況そのものが、あまりにも不安定だった。
(……もう、形振り構ってはいられない)
オール・フォー・ワンは目の前の女を見据えた。
スターアンドストライプは依然として拳を構えていたが、その身体は限界に達しつつあった。
肩はほとんど動かず、脚も震えており、呼吸のたびに血の混じった唾液が口元から零れている。
その姿が、どうしようもなく癪に障った。
(……多少、歪になっても仕方がない)
本来、このような使い方をする予定ではなかった。
緑谷出久の肉体には『AFO』への極めて高い適性があり、複数個性を使用することもできる。
しかし、それは無制限に個性を運用できるという意味ではなく、本人も無意識のうちに出力を抑え、肉体への負荷が一定以上にならないよう調整していた。
オール・フォー・ワンが予定していたのは、ドクターの元で筋肉や骨格、神経系統、内臓の耐久性を根本から作り替え、複数個性の限界出力に耐えられる器を完成させることだった。
ドクター曰く、『マスターピース』と呼ばれる脳無の到達点。
肉体改造によって十分な耐久性を確保した後であれば、現在の五つの個性に加えて更に何十、何百もの個性を統括して運用し、『ホワイト・ラビット』の性能をさらに高めることが出来る。
だが、今の肉体はまだ人間のままだ。
その状態で出力制限を解除すれば、膨張した筋肉に骨格が引きずられ、強化された骨格に関節が耐えられず、神経系統へ過剰な負荷がかかる。
複数個性の相互干渉によって個性因子そのものが損傷する危険さえあり、一度破綻すれば、個性の一部が二度と使用できなくなる可能性もあった。
それでも。
(……このまま無個性の女に殴り倒されるよりは、遥かにましだ)
「いいだろう」
低い声が漏れた。
「君たちが、そこまで僕を追い詰めたというのなら……少しくらい、無茶をしてやろうじゃないか」
スターアンドストライプが眉を顰めた。
その瞬間、オール・フォー・ワンの体内で五つの個性因子が一斉に活性化した。
『豪躯』『スケイルメイル』『槍骨』『筋骨発条化』『五感強化』。
これまで肉体への負荷を考慮して抑制していた出力を解放し、個性同士の干渉を防ぐために設けていた制限さえ取り払う。
個性因子が損傷する危険を承知のうえで、それぞれの能力へ最大限の発動命令を送り込んだ。
アクセルを、最後まで踏み込む。
「──ッ、ぐ……!」
最初に異変が生じたのは、右腕だった。
上腕の筋肉が異様な勢いで膨張し、皮膚の下から幾重もの筋繊維が盛り上がる。
肩関節が軋み、骨格が外側へ押し広げられるように変形すると、肘から手首にかけての長さが一気に増大し、腕全体が人間のものとは思えないほど巨大化していった。
しかも、その変化は単純な筋肉の肥大ではなかった。
『筋骨発条化』によって筋肉と骨格が複雑に折り畳まれ、収縮と伸長を繰り返す構造へ変化していく。
腕の内側では太い筋束が何本も交差し、それを支えるために骨が増殖した結果、右腕は異様な厚みを持つ歪な形状へ膨れ上がった。
「──ぐ、あああああッ!!」
絶叫とともに左腕も変形を始め、肩から肘にかけて筋肉が膨張すると、骨格が引き伸ばされ、指の一本一本が人間の頭部ほどの太さへ変化していった。
手首の周囲には『スケイルメイル』による白い鱗が形成され、そのまま首筋から胸元、腹部、背中へと広がりながら、急速に巨大化していく肉体を覆っていく。
雪のように白い鱗だった。
それは、かつて出久が『ホワイト・ラビット』を完成させる以前に使用していた、白い鱗を纏った巨躯の怪物形態を思い起こさせるものだった。
しかし、今起きている変化は、それとは比較にならなかった。
背中が大きく盛り上がり、肩甲骨の周囲から太い骨格がせり出すと、それを支えるために背筋が異常な勢いで膨張していく。
背骨は人間の形状を保てなくなり、幾つもの関節を追加するように湾曲しながら伸長し、胸郭が左右へ押し広げられるにつれて胴体そのものが巨大化していった。
大腿部の筋肉も急激に膨張し、膝関節が前後へ引き伸ばされる。
足首の位置が変わり、踵が持ち上がり、地面を踏み締めるための足指が異様な長さへ変形していくにつれて、全身の骨格はもはや人間のものとは呼べない構造へ組み替えられていった。
それは、肉体が成長しているというよりも、複数の個性がそれぞれ勝手に身体を作り替えようとしているかのような変化だった。
『豪躯』は、より巨大で強靱な肉体を求める。
『筋骨発条化』は、より大きな力を蓄積し、解放するための筋肉と骨格を求める。
『スケイルメイル』は増大する肉体を守るために、より厚く、より広範囲の鱗を形成し、『槍骨』は骨格の一部を攻撃器官として外部へ突出させようとする。
本来ならば、それらを一つの完成された肉体へ統合するための調整が必要だった。
しかし、今の緑谷出久にはその準備が施されておらず、個性の出力に合わせて肉体を作り替えるのではなく、個性の要求へ肉体を無理やり従わせるという、極めて危険な変化が起きていた。
「──ぐ、があああああああッ!!」
オール・フォー・ワンの背中から、白い骨が突き出した。
最初は一本だったが、すぐに二本、三本と増え、肩甲骨の周囲から背骨に沿って鋭利な骨の突起が次々と形成されていく。
肩からは巨大な骨の突起がせり出し、肘の外側には湾曲した刃のような骨が形成され、背中から伸びた骨槍は白い鱗の隙間を押し広げながら、互いに干渉するように異様な角度へ伸長していった。
さらに首筋が膨張し、頬骨が張り出し、額が前方へ突き出すにつれて、顔面そのものが徐々に人間の形状から逸脱していった。
そばかすの浮かんだ頬は白い鱗に覆われ、癖のある緑色の髪は巨大化した頭部の上で不自然に逆立つ。
鼻筋と顎は異様に前方へ伸び、口元には肥大化した歯が並び始めたが、ところどころに緑谷出久の面影が残っていることが、かえってその姿を不気味なものにしていた。
巨大な肩に対して頭部は不自然に小さく、右腕は左腕よりも一回り大きい。
胸郭は異様に広い一方、腰部は筋肉と骨格が複雑に重なり合い、背中から突き出した骨槍がその輪郭をさらに歪ませていた。
完成された怪物の姿ではなかった。
強力な個性を無理やり詰め込んだ結果、肉体そのものが破綻しかけているような、歪な巨人だった。
「アンタ……本当に、無茶苦茶だね……!」
スターアンドストライプが血に濡れた口元を歪めた。
しかし、オール・フォー・ワンにも返事をする余裕などない。
全身の骨格が軋み、筋肉が引き裂かれ、神経が焼けるような痛みを訴えている。
『五感強化』によって感覚器官の処理能力まで引き上げられた結果、その痛みは通常よりも遥かに鮮明なものとなっており、骨が伸長し、関節が変形し、内臓が圧迫される感覚のすべてが、絶え間なく意識へ流れ込んでいた。
個性因子そのものにも過剰な負荷がかかっていた。
『豪躯』による肉体の巨大化と『筋骨発条化』による筋骨格の変形が互いに干渉し、そこへ『槍骨』の骨格増殖が重なる。
『スケイルメイル』は変形し続ける肉体を覆おうとして絶えず鱗を作り替え、『五感強化』は急激に変化する身体から送られてくる膨大な情報を処理しようとしていた。
五つの個性が同時に限界出力で稼働し、その負荷は個性因子を統括する『AFO』にまで及んでいる。
このまま出力を維持すれば、損傷する個性が出るかもしれない。
場合によっては、個性因子同士の干渉によって予期せぬ暴走が発生し、肉体そのものが崩壊する危険さえあった。
だが、構わなかった。
(……ここで、負けるわけにはいかないんだよッ!!)
巨大化した右腕を持ち上げると、白い鱗に覆われた指を握り締める。
全身の骨格が最後の変形を終え、背中から突き出した骨槍がさらに伸長したところで、怪物はゆっくりと巨大な脚を持ち上げた。
ズンッ!!
重い衝撃が地面へ伝わり、砂浜が大きく沈み込んだ。
スターアンドストライプは、思わず顔を上げた。
目の前には、もはや緑谷出久の姿などほとんど残されていなかった。
白い鱗に覆われた巨躯は、かつての怪物形態を遥かに超える巨大さを持ち、肩や背中からは無数の骨槍が突き出している。
その身体構造は明らかに不完全だったが、ただ立っているだけで周囲の空気が重く感じられるほどの威圧感があり、巨大な胸郭が上下するたびに白い鱗が擦れ合って硬質な音を立てていた。
「ハァァァァ……!」
巨大な口から熱を帯びた呼気が漏れ、緑谷出久の面影を僅かに残した顔面が歪んだ笑みを浮かべる。
「……どうだい……?」
肥大化した喉と胸郭によって、その声は先ほどまでとはまるで違う低い響きを帯びていた。
そして、怪物が動いた。
巨体に似合わぬ速度で右腕が振り抜かれ、スターアンドストライプは咄嗟に身を引いたものの、巻き起こされた風圧だけで身体を大きく揺らされた。
続けて振り下ろされた左腕が砂浜へ叩きつけられると、凄まじい衝撃が周囲へ広がり、彼女は足元を掬われるようにして後方へ倒れ込む。
その瞬間、爆炎が炸裂する。
「スターッ!!」
爆豪勝己が両掌から爆発を噴き上げ、スターアンドストライプと怪物の間へ飛び込んできた。
巨大な右腕が振り下ろされる寸前に彼女を抱え上げ、そのまま横方向へ加速したものの、怪物はその動きを追うように首を捻り、背中から伸びた骨槍を一斉に突き出した。
「──ッ、クソがァ!!」
爆豪は咄嗟に爆炎を噴き上げ、迫ってきた骨槍の一本を破壊した。
しかし、砕け散った骨の根元からはすぐに新たな突起が伸び始め、巨大な腕が追撃するように振り抜かれる。
怪物の攻撃は凄まじかったが、その動きは決して滑らかではなかった。
左右で長さの異なる腕は振り抜くたびに巨体の重心を大きく崩し、複雑に変形した関節は、膨大な筋力を十分に受け止められていない。
『五感強化』によって爆豪の動きそのものは捉えられているらしく、視線だけは正確に追従していたが、肉体の各部が異なる個性の要求に従って動こうとするため、攻撃の軌道には僅かな乱れが生じていた。
もっとも、その欠点を突けるだけの余裕が、爆豪たちに残されているわけではなかった。
巨大な右腕が振り抜かれれば、掠めただけで身体を粉砕されかねない。
背中から伸びる骨槍は攻撃範囲を大幅に広げており、しかも『筋骨発条化』によって瞬間的な加速まで可能になっている以上、僅かな隙を見つけたところで、それを攻撃へ繋げることは容易ではなかった。
青山優雅のレーザーが怪物の肩へ直撃し、白い鱗の表面を焼いたものの、相手は僅かに身体を揺らしただけで、すぐさま巨大な右腕を振り抜いた。
「──伏せろォ!!」
爆豪の怒声とともに砂浜が爆ぜ、巻き上がった砂と衝撃波が周囲へ広がった。
──その光景を、トガヒミコは少し離れた場所から見つめていた。
すでに全身の感覚は鈍くなっており、呼吸をするたびに胸の奥から鋭い痛みが走る。
これまでの戦闘によって負った傷は数え切れず、手足にはほとんど力が残されていなかったが、それでも彼女は砂浜の向こうから目を離すことができなかった。
白い鱗に覆われた巨大な身体。
肩や背中から突き出した無数の骨槍。人間のものとは到底思えないほど複雑に変形した関節と、左右で大きさの異なる異様な腕。
あの怪物の中に、緑谷出久がいる。
「デク、君……」
掠れた声が漏れた。
トガは、自分の右手へ視線を落とした。
血と砂に塗れた掌には深い裂傷が走り、指先も細かく震えていたが、その形は間違いなく緑谷出久のものだった。
彼の血を取り込み、彼の姿へ変身した自分は、今もなお変身を維持している。
たその身体はすでに満身創痍だった。
衣服はあちこち破れ、腕や脚には無数の傷が刻まれ、少しでも無理に動けば、そのまま倒れて二度と立ち上がれなくなるかもしれなかった。
それでも、トガは砂浜へ両手をついた。
「……っ、く……!」
腕に力を込め、どうにか上半身を持ち上げようとしたものの、肘が大きく震え、身体は思うように動かなかった。
右の掌へ体重を預けた瞬間には傷口へ砂が入り込み、思わず顔を歪めたが、彼女は歯を食いしばりながら片膝を立て、もう一度立ち上がろうとした。
「──ヒミコちゃん!?」
すぐ傍にいたお茶子が、慌てて手を伸ばした。
「何しとるん!? 動いたらあかんよ! ヒミコちゃん、もう身体が……!」
お茶子はトガの肩を支えようとしたものの、彼女はその手を借りることなく、震える脚へ力を込めて立ち上がろうとしていた。
その顔には苦痛が浮かび、呼吸も明らかに乱れていたが、視線だけは砂浜の向こうにいる怪物へ向けられたままだった。
「どいて、ください……」
「……え?」
「お茶子ちゃん、どいてください……」
トガは小さく呟くと、右足を一歩前へ出した。
膝が折れそうになり、上半身が大きく傾いたものの、どうにか踏み止まると、続けて左足を動かそうとする。
「──駄目だよ!!」
お茶子は咄嗟にトガの腕を掴んだ。
「ヒミコちゃん、これ以上は戦えない! もう無理だって! これ以上やったら、本当に死んでまうよ!!」
必死の制止にも、トガは答えなかった。
お茶子の手を振り払おうともせず、ただ前を見つめながら、ゆっくりと足を動かしていく。
その動きはあまりにも頼りなく、少し強く引き留めれば簡単に倒れてしまいそうだったが、それでも彼女は歩くことをやめなかった。
砂浜の向こうでは、白い怪物が巨大な右腕を振り上げていた。
爆豪が両掌から爆発を放ち、横方向へ回避する。
しかし、怪物はその動きを追うように首を捻ると、背中から伸びた骨槍を一斉に突き出し、爆豪が逃げ込もうとした空間をまとめて薙ぎ払った。
爆炎が炸裂し、骨槍の一本が砕け散る。
怪物は止まらない。
砕けた骨の根元から新たな突起が伸び始め、巨大な脚が砂浜を踏み締めると、周囲の地面が大きく沈み込んだ。
爆豪は辛うじて攻撃を避けていたものの、その動きには明らかに余裕がなく、スターアンドストライプを庇いながらでは反撃へ転じる機会を作ることさえ難しいようだった。
「あのまま、戦えば……」
トガの唇から、小さな声が漏れた。
「……みんなが、殺されちゃう……」
爆豪も青山も、すでに限界に近い。
スターアンドストライプに至っては、個性を失った状態であれほどの戦闘を続けていたのであり、今も生きていること自体が奇跡と言ってよかった。
それでも、みんな戦っている。
あの怪物を止めるために、そして、その中に囚われている緑谷出久を助けるために。
けれど。
「……勝てたとしても、デク君は帰ってこない……」
トガは、ゆっくりと首を振った。
オール・フォー・ワンが操っているのは、緑谷出久の身体だった。
あの白い鱗も、巨大な腕も、背中から突き出した骨槍も、すべて彼の肉体が変形したものであり、怪物へ攻撃を加えれば、その損傷は当然、緑谷出久自身へ蓄積していく。
しかも、今のオール・フォー・ワンは明らかに肉体の限界を無視していた。
複数個性を無理やり同時発動させ、骨格も筋肉も原形を留めないほど変形させている以上、仮に戦闘に勝利できたとしても、そのとき緑谷出久の身体が無事である保証など、どこにもなかった。
複数個性の無理な運用の代償は、トガも今しがた身をもって知ったばかりだ。
「……だから……」
トガは、ゆっくりと右手を持ち上げた。
傷だらけの掌をもう一度見つめる。
指先には血が滲み、皮膚のあちこちが裂けていたが、その形は間違いなく緑谷出久のものだった。
何度も見つめて、何度も触れたいと思って、そして何度もその姿になりたいと願ってきた少年の手が、今は自分の身体の一部になっている。
今の自分は、緑谷出久に変身している。
そして、その変身によって再現した個性の中には、つい先ほどまでスターアンドストライプが使用していた『新秩序』も存在していた。
対象に触れ、その名前を呼び、新たなルールを課す個性。
あまりにも強力で、あまりにも自由度の高い能力だったが、当然ながら何でもできるわけではない。
発動には条件があり、設定できるルールにも限界が存在する。まして、他人の意識へ直接干渉するような使い方が可能なのかどうか、トガ自身にも確信はなかった。
けれど、もし。
もし、あの怪物の中にいるデク君へ触れることができたなら。
オール・フォー・ワンではなく、緑谷出久という人間を対象として『新秩序』を発動できたなら。
眠らされ、押さえ込まれている彼の意識へ、何らかの働きかけができるかもしれない。
それは確証のある方法ではなかった。
『
しかし、トガにはそれ以外の方法が思いつかなかった。
爆豪たちがどれほど奮戦しようと、あの怪物を倒すことだけに集中していては、緑谷出久を取り戻せないかもしれない。
ならば、自分がやるしかなかった。
「私が行きます……デク君が起きてこないなら、無理やり起こしに行くのです」
お茶子の表情が強張った。
「ちょ、ちょっと待って! ヒミコちゃん、何考えてるの!?」
トガは、ゆっくりと頷いた。
その反応に、お茶子は思わず声を荒らげた。
「無茶だよ! 殺されちゃうよ! それに、もしデク君の個性を使うつもりなら、今の身体でそんなことしたら……!」
「……分かってます」
トガは、静かに答えた。
「分かってますよ、お茶子ちゃん。私だって怖いですし、痛いのも嫌です。まだやりたいことだっていっぱいありますし、お茶子ちゃんとも、もっとお話したいです」
緑谷出久の顔に浮かんだ笑みは、ひどく弱々しいものだった。
それでも、トガはお茶子から目を逸らさなかった。
「……でも、デク君がいなくなっちゃうのは、もっと嫌なんです」
お茶子は、何も言えなかった。
目の前にいる少女が、どれほど無理をしているのかは分かっていた。
声は震え、足元は覚束ず、少しでも気を抜けばその場に崩れ落ちてしまいそうな状態だった。
それでもトガは、傷だらけの右手を見つめながら、何かを確かめるように指を握り締めていた。
「……でも、どうやって……?」
お茶子は、ようやくそれだけを尋ねた。
トガは顔を上げ、砂浜の向こうで暴れている怪物を見据えた。
「『
「そんなの! ……出来るん?」
「分かりません……でも、やってみなきゃ分からないじゃないですか」
そう言って、彼女は再び歩き始めた。
右足を踏み出し、続けて左足を動かす。
身体は重く、呼吸は苦しく、足元の砂浜が何度も揺れて見えたが、それでも彼女は歩くことをやめなかった。
目の前にいるのは、巨大な怪物だった。
白い鱗に覆われ、無数の骨槍を生やし、人間の面影をほとんど失った異形の存在。
けれど、トガには分かっていた。
あの中には、まだデク君がいる。
オール・フォー・ワンに身体を奪われ、意識を押さえ込まれていても、緑谷出久が完全に消えてしまったわけではないと、彼女は信じていた。
「……直接……」
トガは、ゆっくりと拳を握り締めた。
「……直接、デク君を……」
その瞬間、砂浜の向こうで巨大な爆発が起こった。
白い怪物が咆哮し、爆豪がその頭上を飛び越える。
続けて巨大な骨槍が振り抜かれ、砂浜が大きく抉れた。
トガは、その光景を見つめながら、深く息を吸い込んだ。
「──直接デク君を叩き起こしてきます!!」
トガは、もう振り返らなかった。
傷だらけの掌を握り締め、白い怪物へ向かって歩き続ける。
自分が『新秩序』を使って何を命じるべきなのか、その言葉はまだ決まっていなかった。
緑谷出久の意識を取り戻すために、どのようなルールを課せばよいのかも分からない。
けれど、たった一つだけ、確かなことがあった。
あの中にいるデク君を、もう一度呼び戻したい。
「……待っててくださいね、デク君……」
トガは傷だらけの拳を握り締め、砂浜の向こうにいる怪物を見据えた。
「……今、起こしに行きますから……!」