白い鱗に覆われた巨人が巨大な右腕を振り下ろし、爆豪勝己は両掌から爆炎を噴き上げながら、その一撃を紙一重で回避した。
拳が砂浜へ叩きつけられた瞬間、周囲の地面が大きく陥没し、巻き上がった砂礫が散弾のように飛び散ったが、爆豪は左腕で顔を庇いながら空中で身体を捻ると、怪物の肩口へ向けて右掌を突き出した。
「――いい加減に、しやがれッ!!」
爆炎が白い鱗を包み込み、凄まじい衝撃によって巨体の上半身が僅かに仰け反ったものの、オール・フォー・ワンは怯むどころか、爆発の中心へ向けて左腕を振り抜いてきた。
左右で長さの異なる腕は決して滑らかな軌道を描いていなかったが、その不規則な動きがかえって攻撃を読みづらくしており、爆豪は咄嗟に爆発の反動で身体を押し上げることで、どうにか巨大な掌から逃れることができた。
もっとも、その代償として左肩から背中へかけて激痛が走り、着地した瞬間には膝が大きく揺れた。
先ほどから繰り返している急加速と急制動によって全身の筋肉は悲鳴を上げており、掌の皮膚も度重なる爆発で酷く傷んでいる。
これ以上同じ戦い方を続ければ、いずれ身体が動かなくなることは明らかだったが、だからといって攻撃の手を緩めれば、今度こそスターアンドストライプや青山が殺されかねなかった。
「クソッタレが……! デケェだけならまだしも、あの骨まで生やしやがって……!」
怪物の背中から突き出した骨槍が、軋むような音を立てながら向きを変える。
爆豪はその動きを視界の端に捉えると、すぐさま横方向へ跳躍したが、直後に伸長した骨槍が先ほどまで立っていた場所を貫き、砂浜へ深い亀裂を刻んだ。
どうやらオール・フォー・ワンは、変形した肉体の扱いに少しずつ慣れ始めているらしい。
最初は巨大な腕を振り回すたびに重心を崩していたものの、今では『筋骨発条化』による瞬間的な加速を利用し、腕の振り抜きと骨槍の伸長を組み合わせることで、回避先までまとめて攻撃するようになっていた。
そのうえ、『五感強化』によってこちらの動きを正確に捉えているため、単純に速度を上げるだけでは振り切れない。
「どうすりゃいい。どこを狙えば止まる……!?」
爆豪は歯を食いしばりながら怪物を見上げる。
目の前にいるのは、緑谷出久だった。
白い鱗に覆われ、骨格も筋肉も原形を留めないほど変形しているが、あの巨大な肉体の中には間違いなく幼馴染がいる。
だからこそ、爆豪は攻撃のたびに威力と狙いを調整せざるを得ず、仮に頭部を吹き飛ばせるだけの火力が残されていたとしても、それを実行するつもりなど毛頭なかった。
しかし、相手はこちらを殺すことに何の躊躇いもない。
その理不尽な状況に苛立ちながら、爆豪が次の攻撃へ備えようとしたときだった。
ふと、視界の端に人影が映った。
「…………あ?」
最初は、巻き上がった砂煙の向こうに青山でもいるのかと思った。
だが、砂浜をよろよろと歩いている人物は小柄で、全身を血に染めながら、今にも倒れそうな足取りでこちらへ近づいてきている。
癖のある緑色の髪に、そばかすの浮かんだ顔。
見間違えるはずのない姿だったが、爆豪はすぐにそれが本物の緑谷出久ではないことを思い出した。
「――あの女ッ、何やってやがる!?」
トガヒミコだった。
緑谷出久の姿へ変身したまま、満身創痍の身体を引きずって戦場へ近づいてきていた。
その足取りはまともに歩けているとは到底言い難く、右足を踏み出すたびに膝が折れそうになり、左手で脇腹を押さえながら、どうにか身体を支えている有様だった。
少し離れた場所では麗日お茶子が何かを叫んでいたが、トガは振り返ろうともせず、ただひたすら白い怪物へ向かって歩いていた。
「――おいッ!!」
爆豪が怒鳴っても、トガは足を止めなかった。
声が聞こえていないのか、それとも聞こえていて無視しているのかは分からなかったが、彼女は顔を上げると、爆豪の向こうにいる怪物を見つめながら、さらに一歩踏み出した。
「――こっちくんじゃねえッ!! 死にてえのか、テメェはァ!!」
怒声が砂浜へ響き渡り、トガはようやく爆豪へ視線を向けた。
緑谷出久の顔をした少女は、何かを言おうとして唇を動かしたものの、距離が離れているうえに周囲では絶えず爆発音が響いており、その言葉を聞き取ることはできなかった。
しかし、彼女が自分の忠告に従うつもりなどないことだけは、すぐに分かった。
爆豪は舌打ちし、怪物の動きを警戒しながらトガの方へ身体を向けた。
ところが、その瞬間だった。
オール・フォー・ワンの背中から突き出していた骨槍が、異様な音を立てながら一斉に収縮し始めた。
これまでの攻撃では、背中や肩から伸びた骨槍をそのまま振り回したり、伸長させたりすることで敵を攻撃していたが、今度は明らかに様子が違っていた。
巨大な肩甲骨の周囲へ骨が集まり、幾重にも重なった筋肉が内側へ引き絞られていくと、白い鱗の隙間から太い骨の穂先が姿を現した。
「――ッ!?」
怪物の視線を追った爆豪は、全身の血が一瞬で冷たくなるような感覚に襲われた。
オール・フォー・ワンが狙っているのは、こちらへ近づいてきているトガヒミコだった。
巨大な背中から伸びた骨槍が彼女の方角へ向けられ、その根元では『筋骨発条化』によって変形した筋肉が、弓の弦を引き絞るように収縮している。
どうやら『槍骨』によって形成した骨槍を、蓄積した筋力で射出するつもりらしかった。
形成されている骨槍は一本ではない。
人間の胴体ほどの太さを持つ巨大な骨槍が三本、肩から背中にかけて並んでおり、それぞれの穂先が僅かに異なる角度へ向けられている。
あれだけの質量を持つ骨槍が一斉に放たれれば、直撃を避けたところで衝撃や破片から逃れることは難しく、まして今のトガに自力で回避できる可能性など皆無だった。
爆豪は反射的に両掌を後方へ向けた。
「死にたがりばっかか! アホが!」
凄まじい爆発が炸裂し、爆豪の身体が砂浜を抉りながら前方へ加速する。
オール・フォー・ワンの背中では、巨大な筋束が限界まで収縮していた。
白い鱗の隙間から覗く筋肉が不自然に膨れ上がり、骨槍を支えていた関節が軋み始める。
爆豪は歯を食いしばりながら、さらに爆発を重ねた。
身体が悲鳴を上げ、右肩へ鋭い痛みが走ったが、構っている余裕などなかった。
あの骨槍が放たれるまでにトガへ辿り着き、射線から引きずり出さなければ、彼女は間違いなく殺される。
こちらへ向かってくる爆豪を見つめながら、何かを訴えるように右手を伸ばしている。
「ぼーっとしてんじゃねえ!」
爆豪がトガの目前へ滑り込んだ瞬間、怪物の背中から凄まじい破裂音が響いた。
振り返る余裕はなかった。
爆豪は左腕をトガの背中へ回し、右腕を膝の裏へ差し込むと、その身体を一息に抱え上げた。
予想していた以上に軽い身体が腕の中へ収まり、トガが驚いたように息を呑んだが、爆豪はその反応を確かめることもなく、砂浜を蹴って横方向へ駆け出した。
「――舌ァ噛むんじゃねえぞッ!!」
「ひゃっ!?」
直後、背後から轟音が迫ってきた。
巨大な骨槍が空気を引き裂き、爆豪たちのいた場所へ突き刺さる。
地面が激しく揺れ、砂浜が爆発したように吹き上がる。
爆豪はトガを抱えたまま身体を低くし、両脚で砂を蹴り飛ばしながら必死に走ったが、最初の骨槍が着弾した衝撃によって足元が大きく崩れ、思わず体勢を崩しかけた。
そこへ二本目の骨槍が飛来した。
「――ッ、クソッ!!」
爆豪は咄嗟に右掌を後方へ向け、爆発を放った。
しかし、トガを抱えているため普段のように自由な姿勢で爆発を利用することができず、無理な角度から噴き出した爆炎によって上半身が大きく傾いた。
辛うじて骨槍の直撃は避けたものの、着弾によって巻き上がった砂礫が背中へ叩きつけられ、爆豪は苦悶の声を漏らした。
「ぐっ……」
背後では三本目の骨槍が射出されようとしており、巨大な怪物がこちらを見下ろしながら、歪な口元を大きく開いている。
オール・フォー・ワンは笑っていた。
自分の肉体を破壊しかねないほどの負荷をかけながら、なおも敵を追い詰めていることが愉快なのか、それとも緑谷出久の姿をした少女を殺そうとしていることに何らかの意味を見出しているのか、爆豪には分からなかった。
だが、その顔を見た瞬間、腹の底から煮え滾るような怒りが湧き上がった。
(……テメェの身体じゃねえだろうが……!)
あれは緑谷出久の身体だ。
どれほど醜く変形させられようと、どれほど凄まじい力を振るおうと、あの肉体の持ち主はオール・フォー・ワンではない。
その身体を勝手に使い潰しながら、今度は緑谷の姿をした少女まで殺そうとしている。
その事実が、どうしようもなく許せなかった。
「――ッ、調子乗ってんじゃねえぞ、クソ野郎がァ!!」
爆豪は右掌から爆炎を噴き上げ、身体を横方向へ跳ねさせた。
直後、三本目の骨槍が二人のすぐ傍を通過し、砂浜へ突き刺さった。
凄まじい衝撃によって爆豪の身体が宙へ浮き、抱えられていたトガが悲鳴を上げたものの、爆豪はどうにか着地すると、勢いを殺さずそのまま走り続けた。
背後では巨大な骨槍が砂浜を深く抉り、白い破片と砂礫が周囲へ降り注いでいたが、爆豪はそれらを避けながら、ようやく怪物の射線から外れる位置まで辿り着いた。
そこで初めて速度を緩め、腕の中にいるトガへ視線を落とした。
「――テメェ、何考えてやがるッ!! あんな状態でノコノコ近づいてきやがって、死にてえのかよッ!!」
怒鳴りつけられたトガは、しばらく目を瞬かせていた。
緑谷出久の顔に困惑した表情を浮かべながら、彼女は爆豪の胸元を掴み、どうにか口を開いた。
「……爆豪君、お願いがあります」
「あァ!? 何だよ、こんな時に!」
爆豪が苛立たしげに怒鳴ると、腕の中に収まっていたトガは真剣な表情を浮かべた。
先ほどの逃走で傷口が開いたのか、破れた衣服の下から新たな血が滲み出しており、呼吸も酷く乱れていたが、それでも彼女は爆豪の胸元を掴んだまま、砂浜の向こうに聳え立つ白い怪物へ視線を向けていた。
「私を、デク君のところに連れて行ってください」
「…………は?」
「まだ、一度くらいなら『
爆豪は思わず目を丸くした。
「……んなこと……できんのか? てか、あ? 個性……くそ、話がややこしい」
先ほどまでの怒鳴り声とは打って変わった、低い声で問いかける。
トガは少しだけ困ったように眉を下げると、爆豪の顔を見上げながら、正直に首を横へ振った。
「分かりません。私、この『
「――はァ!?」
「でも、使い方は充分に理解できています。もしかしたら、上手くいくかもしれません」
「――もしかしたらじゃねえんだよッ!!」
爆豪の怒声に、トガは思わず肩を竦めた。
「テメェ、自分が何言ってんのか分かってんのか!? あの化け物に近づくだけでも命懸けだってのに、使えるかどうかも分かんねえ個性に全部賭けようってのかよ!!」
「はい」
「即答してんじゃねえッ!!」
爆豪は怒鳴りながらも、トガを抱えている腕の力を緩めなかった。
むしろ、彼女が再び勝手に歩き出そうとすることを警戒するように抱え直し、怪物の動きを確認しながら砂浜の奥へ後退していく。
白い巨人は青山の放ったレーザーを左腕の鱗で受け止めると、巨大な右腕を振り回して周囲の砂浜を抉っていた。
爆豪たちを追撃しようとしていたものの、青山とスターアンドストライプが注意を引いているため、すぐにはこちらへ向かってこられないらしい。
もっとも、それも長くは続かないだろう。
青山のレーザーはすでに威力が落ち始めており、スターアンドストライプに至っては立っていることさえ難しい状態だった。
二人が怪物を引き留めていられる時間など、残り僅かしかない。
「……クソが。どいつもこいつも、無茶苦茶言いやがって……!」
爆豪は奥歯を噛み締めた。
トガの言うことが成功する保証など、どこにもない。
そもそも『新秩序』が精神へ干渉できるのかさえ不明であり、仮に何らかのルールを課せたとしても、オール・フォー・ワンの人格を追い出せるとは限らなかった。
あの男がどのような仕組みで緑谷の身体を乗っ取っているのか、爆豪には詳しいことなど分からないし、個性によって形成された人格が、単純な命令一つで消えてなくなるとも思えない。
だが、ほかに方法があるのかと問われれば、答えられなかった。
怪物を力ずくで倒そうにも、あの巨大な肉体は緑谷自身のものであり、攻撃を加えれば加えるほど幼馴染の身体が傷ついていく。
しかも、オール・フォー・ワンは肉体への負荷を一切考慮しておらず、このまま戦闘を続ければ、敵を倒すより先に緑谷の身体が限界を迎える可能性さえあった。
そんな状況で、トガは一つの可能性を提示している。
成功するかどうかは分からないが、少なくとも緑谷の身体を破壊せずに取り戻せるかもしれない方法を。
「……おい」
「……はい?」
「テメェ、あと一回っつったな。何で分かんだよ」
トガは一瞬だけ不思議そうな表情を浮かべたものの、すぐに自分の右手へ視線を落とした。
「何となく、です。デク君に変身してから、ずっと個性を使ってきましたけど……今はもう、身体の中がぐちゃぐちゃになってるみたいで、上手く動かせないんです」
そう言って指を握り締めようとしたが、途中で力が抜けてしまったらしく、血に濡れた掌が小さく震えた。
「……でも、『
「その一度っきりを使った後はどうなる。また暫くしたら使えんのか、それとも……」
トガは答えなかった。
ただ、爆豪の顔をじっと見つめていた。
緑谷出久の姿に変身した少女は、先ほどまで浮かべていた困ったような笑みを消し、何かを言いかけることさえせず、ただ静かに爆豪の目を見つめ続けている。
その瞳には、これから自分が何をしようとしているのかを理解した者だけが持つ覚悟と、どうしようもない悲壮感が宿っており、普段の彼女ならば決して見せないような、ひどく寂しげな光が揺れていた。
美しい、碧い瞳。
「…………お前……」
トガは何も言わなかった。
爆豪は腕の中にいる少女を見下ろしながら、奥歯を強く噛み締めた。
「……テメェ、まさか……」
そこまで言いかけて、続きが出てこなかった。
今のトガがどれほど酷い状態にあるのか、爆豪にも分かっていた。
全身には無数の傷が刻まれ、衣服は血に濡れ、顔面にはこうしている今も広がり続ける謎の亀裂。
つい先ほどまでまともに歩くことさえできなかった少女が、なおも個性を使おうとしているのだから、身体に余力など残されているはずがない。
「……ッ、ふざけんなよ……」
爆豪の口から、低い声が漏れた。
トガは僅かに目を伏せたものの、すぐに顔を上げると、先ほどと同じように爆豪を見つめた。
何か言い訳をするわけでも、取り繕うように笑うわけでもなく、ただ自分の意思を曲げるつもりがないことだけを、その表情で伝えてくる。
「……ふざけんなっつってんだろうが……!」
爆豪は思わず声を荒らげたが、トガは怯まなかった。
「テメェ、自分が何しようとしてんのか分かってんのか!? あいつを助けるためなら、死ぬってのか!!」
「はい」
「……あ」
あまりにもあっさりとした返事に、爆豪は一瞬、自分の耳を疑った。
トガは先ほどまでの沈黙が嘘だったかのように、真っ直ぐな眼差しで爆豪を見上げていた。
傷だらけの身体を抱えられ、今にも意識を失いそうなほど衰弱しているというのに、その表情には迷いらしい迷いが見当たらない。
自分の身体がどれほど傷ついていようと、誰かを助けるためなら迷わず前へ出る。
周囲から無茶だと止められても、本人はそれを無茶だとさえ思っていないかのように、当然のこととして行動してしまう。
昔から何度も見てきた、緑谷出久の姿そのものだった。
「クソッ、どいつもこいつも……俺だけダセェ」
爆豪が吐き捨てるように言うと、トガは僅かに目を見開いた。
「……爆豪君?」
「――見ての通り、あいつは大暴れしてやがる。チャンスだって何度も作れねえ。絶対にタイミングをずらすんじゃねえぞ」
そう言いながら、爆豪は怪物の方へ顎をしゃくった。
白い鱗に覆われた巨体は、ちょうど青山の放ったレーザーを左腕で受け止めたところだった。
爆炎によって焼け焦げた鱗の隙間から血が滲んでいるものの、オール・フォー・ワンは痛みを意に介した様子もなく、巨大な右腕を振り回して周囲の砂浜を抉っている。
その背中では新たな骨槍が形成されており、肩甲骨の周囲に集まった筋肉が不自然に膨張していた。
先ほどのような射出攻撃を再び行うつもりなのか、それとも近づいてきた敵を迎撃するためのものなのかは分からないが、いずれにせよ正面から接近すれば、あっという間に串刺しにされることだろう。
「俺が隙を作る。テメェは余計なこと考えず、あいつに触って『新秩序』を使え。いいな?」
「……はい!」
爆豪は忌々しげに顔を歪めたものの、それ以上は何も言わなかった。
代わりに周囲へ素早く視線を走らせると、怪物と自分たちの位置関係を確認し、砂浜に突き刺さった巨大な骨槍の位置まで頭に叩き込んだ。
今のオール・フォー・ワンは、地上の敵を相手に暴れている。
巨大な腕による薙ぎ払いと『槍骨』の射出を組み合わせた攻撃は、砂浜を移動する相手に対して極めて有効だったが、逆に言えば、攻撃の大半が地上を中心に組み立てられているということでもあった。
もちろん、上空へ逃れたところで安全になるわけではない。
『五感強化』によってこちらの動きを捉えられれば、骨槍の向きを変えることなど容易だろうし、巨大な腕を伸ばして叩き落としてくる可能性もある。
それでも、正面から突っ込むよりは遥かにましだった。
(……上から回り込んで、一気に距離を詰める。狙うなら背中か肩……いや、あの骨が邪魔だな)
爆豪は怪物の動きを睨みながら、頭の中で接近経路を組み立てていった。
必要なのは、トガが手を伸ばし、相手に触れるまでの僅かな時間だけだった。
『新秩序』が発動するまでどれほどかかるのかは分からないが、少なくとも怪物の攻撃を一度は凌がなければならない。
そのためには、両手を自由に使える状態にしておく必要があった。
「……おい、背中に回れ」
「……え?」
「背中だよ! いつまでも抱えてたら両手が使えねえだろうが!!」
爆豪はそう言うと、近くに突き刺さっていた骨槍の陰へ素早く移動し、周囲から身を隠すように膝をついた。
トガを一度砂浜へ降ろし、彼女が倒れないよう肩を支えながら背中を向けると、少女は少し戸惑った様子で瞬きをしたものの、すぐに言われた通り爆豪の背中へ身体を預けてきた。
トガの身体は驚くほど軽かった。
緑谷出久の姿に変身しているため、見た目だけならそれなりの体格があるはずなのだが、背中に感じる重みは予想していたものよりも遥かに小さい。
もっとも、今の爆豪にとって問題なのは重量そのものではなく、急激な加速によって彼女の身体へどれほどの負担がかかるかということだった。
「首にしっかり掴まってろ。ただし、締めすぎんじゃねえぞ。息できなくなったらまとめて落ちんだからな」
「……はい」
「――あと、絶対に手ェ離すんじゃねえ。途中で落っこちても拾いに戻る余裕なんざねえからな」
「……分かりました!」
背中から聞こえてきた返事に、爆豪は小さく鼻を鳴らした。
それから、トガの脚を支えていた手をゆっくりと離し、彼女が自分の身体にしっかりしがみついていることを確認すると、両掌を地面へ向けた。
掌にはすでに十分な汗が滲んでいる。
先ほどから繰り返している爆発によって皮膚は酷く傷んでおり、指を開くだけでも鋭い痛みが走ったが、それでも個性を発動すること自体に支障はなかった。
問題は、どこまで出力を上げられるかだった。
トガを背負っている以上、普段のように自由な姿勢で飛び回ることはできない。
しかも、彼女はすでに満身創痍であり、無理な加速を繰り返せば、怪物へ辿り着く前に意識を失ってしまう可能性さえあった。
だからこそ、最初の一撃で十分な高度を稼ぐ必要がある。
「――飛ぶぞ」
その言葉に、トガが爆豪の首へ回した腕へ力を込めた。
爆豪は大きく息を吸い込み、怪物の動きを確認した。
オール・フォー・ワンは依然として青山を追い詰めており、巨大な右腕を振り上げながら、砂浜を踏み砕いて前進している。
こちらへ意識を向けている様子はなく、少なくとも今のところは、上空から接近するための時間を稼げそうだった。
爆豪は膝を深く曲げ、両掌へ意識を集中させた。
「――歯ァ食いしばれよッ!!」
次の瞬間、凄まじい爆発が炸裂した。
「――ッ、きゃあああああッ!?」
爆炎が砂浜を吹き飛ばし、二人の身体が一気に上空へ跳ね上がった。
爆豪は両腕を下方へ向けたまま爆発の出力を調整し、急激な加速によって身体が後方へ反り返らないよう、腹筋と背筋へ力を込めた。
背中にしがみついているトガが悲鳴を上げ、首へ回された腕が一瞬だけ強く締まったが、爆豪は構わず爆発を重ね、さらに高度を上げていく。
砂浜が瞬く間に遠ざかっていった。
眼下には、無数の亀裂が走った海岸と、そこに突き刺さる巨大な骨槍が広がっている。
先ほどまで見上げるしかなかった白い怪物も、今ではその全身を視界へ収められるほどになっており、爆豪は上昇を続けながら、改めてその異様な姿を確認した。
左右で長さの異なる巨大な腕、鱗に覆われた歪な胴体、そして背中から無数に突き出した骨槍。
どこをどう見ても、人間の姿など留めていない。
爆豪は奥歯を噛み締め、右掌の出力を僅かに落とすと、左掌から横方向へ爆発を放った。
身体が空中で大きく傾き、上昇していた軌道が緩やかな弧を描き始める。
トガを背負っているため普段よりも重心が後方へ寄っていたが、爆豪は腰を捻ることで姿勢を調整し、怪物の頭上へ回り込むように移動した。
「すごい高いです……!」
「――見りゃ分かんだろうがッ!!」
爆豪は怒鳴り返したものの、背中にしがみついているトガの腕が小刻みに震えていることに気づくと、僅かに眉を顰めた。
恐怖だけではない。
急激な加速によって傷口が痛んでいるのか、彼女の呼吸は先ほどよりもさらに荒くなっていた。
首元へ触れる頬は異様に熱く、背中越しに伝わってくる身体の震えも、次第に大きくなっている。
(……クソッ、やっぱ無理させすぎか……!)
爆豪は舌打ちし、上昇速度を少しだけ緩めた。
しかし、その判断を下した直後だった。
眼下の怪物が、ゆっくりと顔を上げた。
「――ッ!?」
白い鱗に覆われた歪な顔が、真っ直ぐこちらを向いた。
その口元が、僅かに吊り上がった。
オール・フォー・ワンは、爆豪たちの接近に気づいていた。
白い鱗に覆われた巨大な頭部がゆっくりと上を向き、異様に発達した眼球が空中の二人を捉える。
直後、背中から突き出していた骨槍が軋むような音を立てながら向きを変え始め、その根元では『筋骨発条化』によって肥大化した筋肉が、射出に備えて収縮していった。
爆豪は咄嗟に右掌を後方へ向け、いつでも進行方向を変えられるように構えた。
怪物の背中から伸びる骨槍は、一本一本が人間の胴体ほどの太さを持っている。
あれほどの質量を持つ物体が凄まじい速度で射出されれば、たとえ直撃を避けられたとしても、衝撃や破片によって大きな損傷を受けることは避けられない。
「絶対に離すんじゃねえぞ!」
「……は、はい!」
背中から聞こえてきた返事を確認し、爆豪は怪物の動きを睨みつけた。
オール・フォー・ワンは巨大な右腕を持ち上げながら、背中の骨槍をこちらへ向けている。
骨槍で逃げ道を塞ぎ、回避したところを腕で叩き落とすつもりらしい。
それ自体は、先ほどまでの戦闘でも何度か見せていた攻撃だった。
しかし、空中にいるうえにトガを背負っている今の爆豪にとっては、極めて厄介な組み合わせだった。
(……右に逃げりゃ腕が来る。左は骨槍……だったら上か!?)
爆豪が回避経路を考え始めた、そのときだった。
眼下の砂浜で、一人の女が駆け出した。
スターアンドストライプだった。
すでに個性を奪われ、全身に深い傷を負っている彼女は、まともに立っていることさえ難しいはずだった。
実際、その足取りは酷く不安定で、砂浜を蹴るたびに身体が大きく揺れていたが、それでも彼女は速度を落とそうとせず、白い怪物の足元へ向かって一直線に走っていく。
「――ッ……!?」
爆豪が驚愕した瞬間、スターアンドストライプは怪物の巨大な脚へ飛びついた。
白い鱗に覆われた足首の辺りへ右手を叩きつけ、残された力を振り絞るようにして叫ぶ。
「――『
その声が響いた瞬間、オール・フォー・ワンの動きが止まった。
「――ッ!?」
怪物の巨大な頭部が、弾かれたように下を向いた。
それまで爆豪たちへ向けられていた視線が、一瞬にして足元のスターアンドストライプへ移る。
背中の骨槍が射出寸前の状態で停止し、振り上げられていた右腕までもが、不自然な軌道を描きながら下方へ向けられた。
オール・フォー・ワンにとって、その言葉は何よりも警戒すべきものだった。
つい先ほどまで、『新秩序』によって散々苦しめられていた。
トガヒミコの『新秩序』により消耗を強いられ、スターアンドストライプ本人の打撃により個性因子が共鳴し、オール・フォー・ワンの支配を乱していた。
緑谷出久の肉体を強引に変形させ、複数の個性を限界まで酷使する羽目になったのも、全ては『新秩序』のせいだ。
だからこそ、反射的に反応してしまった。
すでに個性を奪ったはずの女が、自分の身体へ触れ、あの忌々しい個性の名前を叫んだのだ。
そんなもの、無視できるはずがなかった。
「――貴様ァッ!!」
オール・フォー・ワンが咆哮した。
巨大な右腕が凄まじい勢いで振り下ろされ、スターアンドストライプへ襲いかかる。
彼女は咄嗟に身体を捻り、直撃だけは避けようとしたものの、すでに満身創痍の身体では十分に動くことができず、巨大な腕の側面に弾かれるようにして吹き飛ばされた。
「――ぐッ……!」
スターアンドストライプの身体が砂浜へ叩きつけられ、そのまま何度も転がっていく。
砂と血に塗れながら数メートルも滑り、ようやく勢いが止まったときには、彼女は仰向けになったまま激しく咳き込んでいた。
だが、その口元には笑みが浮かんでいた。
「へへ……」
オール・フォー・ワンは、そんな彼女を見下ろしながら、自分の身体に何らかの変化が起きていないかを確かめていた。
しかし、何も起こらない。
肉体の動きを制限するルールも、個性の発動を妨害する命令も、何一つとして課されていなかった。
それどころか、個性因子に新たな干渉が加えられた形跡さえない。
オール・フォー・ワンが何かに気づいたように顔を歪める。
その反応を見たスターアンドストライプは、砂浜に倒れたまま片肘をつき、血に濡れた口元を大きく吊り上げた。
「――使えないよ、バーカ……」
そう言って、べえっと舌を突き出した。
オール・フォー・ワンの顔が怒りに歪む。
「――貴様……ッ!!」
彼女がどれほど叫ぼうと、どれほど強く相手へ触れようと、個性が発動することなどあり得ない。
先ほどの行動は、何の力も持たない女が、ただ個性の名前を叫んだだけに過ぎなかった。
それなのに、オール・フォー・ワンは反応してしまった。
上空にいる爆豪たちへの攻撃を中断し、わざわざ視線を戻し、目の前の女を排除するために巨大な腕を振り下ろしたのである。
そして、その結果として生じた隙が、どれほど致命的なものだったのか。
彼がそれに気づいたのは、頭上から凄まじい爆発音が響いた瞬間だった。
「――ッ!?」
オール・フォー・ワンが慌てて顔を上げる。
その視界へ飛び込んできたのは、爆炎を噴き上げながら急降下してくる爆豪勝己の姿だった。
「スターァァァッ!!」
爆豪は叫びながら、右掌から凄まじい爆発を放った。
怪物の視線が逸れた瞬間、彼はすでに動き始めていた。
背中の骨槍が射出を中断し、巨大な右腕が地上のスターアンドストライプへ向けられたことで、怪物の上半身には明らかな隙が生じている。
その一瞬があれば、十分だった。
(――今しかねえッ!!)
爆豪は両掌から爆炎を噴き上げ、身体を斜め下方へ加速させた。
白い鱗に覆われた巨大な肩口が目前へ迫り、爆炎によって砕けた鱗の隙間から、赤黒い筋肉が覗いている。
爆豪は怪物の右腕が振り抜かれた直後の隙を狙い、さらに距離を詰めようとしていたが、トガの視線は彼が目標としている肩口ではなく、その向こうにある巨大な頭部へ向けられていた。
そこには、緑谷出久の面影などほとんど残されていなかった。
異常に発達した顎、白い鱗に覆われた頬、左右で大きさの異なる眼球。
骨格そのものが歪められているため、人間の顔としての均整は完全に失われており、口元から覗く歯さえ、獣の牙を思わせるほど鋭く変形している。
それでも、トガには分かっていた。
あの顔の奥に、デク君がいる。
「……爆豪君」
「あァ!? 何だッ!!」
爆豪は怪物の肩口へ向けて爆炎を放ちながら怒鳴り返した。
オール・フォー・ワンはすでにこちらの接近に気づいており、振り下ろしていた右腕を強引に引き戻そうとしている。
背中から突き出した骨槍も次々と向きを変え始めており、これ以上接近を続ければ、いずれかの攻撃を受けることは避けられそうになかった。
それでも爆豪が速度を落とさず、トガの右手を怪物の肩へ届かせようとした、そのときだった。
「……ありがとうございました」
「――あ?」
思いがけない言葉に、爆豪の意識が一瞬だけ背後へ向いた。
同時に、首へ回されていたトガの左腕が緩み、背中に感じていた重みが不意に移動した。
何事かと振り返ろうとした爆豪は、自分の肩を押す小さな手の感触に気づき、咄嗟に彼女を引き留めようとしたものの、すでにトガは両腕を突っ張り、残された力を振り絞って身体を前方へ投げ出していた。
「――ッ、おい!?」
爆豪の背中から、緑谷出久の姿をした少女が飛び出した。
爆炎によって加速していた勢いをそのまま利用し、トガは怪物の肩口を越えるようにして空中へ身を躍らせると、前方へ伸ばした右腕を目標へ向けたまま、巨大な頭部へ向かって急降下していく。
もちろん、今の彼女には空中で姿勢を制御するだけの余力など残されておらず、飛び出した瞬間から身体は不安定に回転し始めていたが、それでも必死に腹筋へ力を込め、視線だけは目の前の怪物から逸らさなかった。
「――トガァッ!!」
背後から爆豪の怒声が聞こえる。
トガは振り返らなかった。
眼前に迫る白い怪物を見つめながら、トガは心の中で名前を呼んだ。
自分が初めて彼に惹かれたときのことも、彼と一緒に過ごした時間も、何度も助けてもらったことも、今となってはひどく遠い出来事のように感じられる。
ほんの少し前まで当たり前のように隣にいたはずなのに、気づけば彼は自分の手が届かないところへ行ってしまい、こうして顔を合わせることさえ、命懸けになっていた。
それでも、もう一度会いたかった。
自分の名前を呼んでほしかったし、できることなら、いつもの困ったような笑顔を見せてほしかった。
だからこそ、トガは右手を伸ばした。
怪物の巨大な顔が急速に近づき、白い鱗に覆われた額と頬が視界いっぱいに広がっていく。
オール・フォー・ワンは突然飛び出してきた少女を認識すると、異様に発達した眼球を動かし、その姿を正面から捉えた。
緑谷出久と同じ顔をした少女が、何の防御もせずに自分へ向かって落ちてくる。
巨大な左肩の筋肉が収縮した。
『筋骨発条化』によって強化された筋束が、引き絞られた弓のように力を蓄え、歪な関節を内側へ引き込んでいく。
さらに『槍骨』によって前腕から鋭い骨の突起が形成され、その先端が、落下してくるトガの胴体へ向けられた。
トガはそんな変化には、気づかなかった。
彼女の視界には、もう緑谷出久しか映っていなかった。
(……もう少し)
白い鱗に覆われた頬が、すぐ目の前まで迫っている。
トガは震える指を大きく開き、右肩の痛みに耐えながら腕を伸ばした。
ほんの僅かに身体の向きを調整すると、怪物の額から頬へかけて広がる鱗の表面へ、血に濡れた掌を押しつけようとする。
その瞬間、彼女の口元が小さく綻んだ。
指先が、白い鱗に触れた。
硬く冷たい感触が掌へ伝わり、続いて、落下の勢いを受け止めるように右腕が大きく曲がる。
トガは必死に指を広げ、怪物の顔面へ掌を押し当てたまま、緑谷出久の名前を呼ぼうと口を開きかけた。
しかし、声が出るよりも早かった。
横合いから伸びてきた巨大な左腕が、凄まじい速度で彼女の身体へ迫った。
トガがその動きを認識したときには、すでに骨の先端が腹部へ突き立っていた。
衝撃によって身体が大きく折れ曲がり、次の瞬間には鋭い骨が背中側へ抜け、落下していた少女の身体を空中へ縫い止める。
「――――ッ」
トガヒミコの口元から、赤黒い血が溢れた。
腹部を貫いた骨が僅かに動くたび、身体の奥を掻き回されるような激痛が走り、呼吸をしようとしても上手く空気が入ってこない。
すでに両脚の感覚はほとんど失われ、右腕も指先まで痺れ始めていたが、それでも彼女は白い鱗に覆われた怪物の頬から手を離そうとはしなかった。
何度か息を吸い直そうとしたものの、喉の奥から込み上げてくる血に邪魔され、まともに呼吸することさえできなかった。
口を開けば腹部へ鋭い痛みが走り、せっかく集めた力が抜けてしまう。
それでもトガは必死に意識を繋ぎ止めながら、怪物の顔面へ押し当てている右手へ、少しずつ力を込めていった。
目の前には、緑谷出久がいる。
自分が大好きになった少年が、こんなにも近くにいるのだ。
白い鱗に覆われ、顔の形さえ変わってしまっているが、その奥には間違いなく彼がいる。
だったら、もう少しだけ頑張ればいい。
あと一度だけ声を出して、彼の名前を呼ぶことができれば、それでいいのだ。
「……ごほッ……!」
堪えきれずに咳き込むと、口の中に溜まっていた血が一気に吐き出された。
赤い飛沫が怪物の頬を汚し、顎を伝って落ちていく。
トガはその光景をぼんやりと見つめていたが、やがて何かがおかしくなったように、血に濡れた唇をゆっくりと吊り上げる。
そして、ニッと笑った。
普段の彼女が浮かべる、無邪気で、どこか悪戯っぽい笑顔だった。
腹部を貫かれ、今にも意識を失いそうな状態でありながら、その表情には不思議なほどの満足感が浮かんでいる。
こんなにも身体が痛くて、今にも死んでしまいそうなのに、どうしてだか笑いたくなってしまった。
だって、あと少しなのだ。ずっと会いたかった人が目の前にいて、自分の手はもう、その人に届いている。
トガは右手の指を曲げ、白い鱗の隙間へ爪を食い込ませた。
腹部を貫いた骨によって身体は後方へ押し戻されていたが、頬を掴むことでどうにか距離を保ち、離れかけていた掌をもう一度押し当てる。
オール・フォー・ワンは、トガの右手が自分の顔面へ触れた瞬間から、その意図を完全に理解していた。
『
その条件を熟知しているオール・フォー・ワンが、目の前の行動を単なる悪あがきと見なすはずがなかった。
「死に損ないめ……!」
トガは白い鱗を掴む指へ力を込め、腹部を貫かれた痛みに耐えながら、必死に息を吸い込んだ。
肺が十分に膨らまず、喉の奥にはまだ血が残っていたが、それでも彼女は目の前の怪物を真っ直ぐに見つめ、最後の力を振り絞って口を開いた。
その瞬間、二人の視線が交わった。
オール・フォー・ワンが見つめているのは、自分の支配を脅かそうとする少女だった。
トガヒミコが見つめているのは、その身体の奥に閉じ込められている少年だった。
互いの目的はまったく違っているが、二人が使おうとしている個性だけは同じであり、どちらも相手へ触れた状態で、その名前を呼ぶために息を吸い込んでいる。
そして、次の瞬間。
「「――『新秩序』ッ!!」」
二つの声が、完全に重なった。
片方は、巨大な怪物の喉から響き渡る、怒りと警戒に満ちた咆哮。
もう片方は、血に濡れた唇から絞り出された、今にも消えてしまいそうな少女の叫び。
声量には圧倒的な差があったが、『新秩序』の発動条件に声の大きさなど関係なかった。
オール・フォー・ワンは、左腕を通じてトガヒミコの身体へ触れている。
トガヒミコは、右手で緑谷出久の顔面を掴んでいる。
「――渡我被身子はァ!!」
「――緑谷出久は……」
二つの声が、寸分の狂いもなく重なった。
オール・フォー・ワンは腹部を貫いている左腕を通じて少女の身体へ、トガヒミコは白い鱗に覆われた顔面を掴む右手を通じて少年の肉体へ、それぞれ『新秩序』を作用させようとしていた。
互いの名前を呼び終えた時点で発動条件は満たされている、どちらも相手の言葉を待とうとはせず、まるで最初から申し合わせていたかのように、同じ瞬間に声を張り上げた。
「――心臓が止まって死ぬッ!!」
「――自分の身体を取り戻す」
トガが望んだのは、緑谷出久が自らの肉体の主導権を取り戻すことだった。
オール・フォー・ワンが望んだのは、渡我被身子の心臓を停止させ、その生命活動を終わらせることだった。
互いに相手の存在へ干渉する二つの命令が、まったく同じ瞬間に成立しようとした。
そして、次の瞬間。
――ドンッ!!
凄まじい衝撃が、二人を中心として炸裂した。
爆発とは明らかに異なる、重く鈍い轟音が海岸一帯へ響き渡り、白い巨人の周囲に積もっていた砂が、見えない何かに押し潰されたように一斉に沈み込んだ。
直後、巨大な円形の衝撃波が足元から広がり、砂浜を抉りながら四方へ駆け抜けていく。
「――ッ、どーなった!?」
爆豪勝己は咄嗟に両掌を前方へ向けたが、迫ってきた衝撃波は彼が予想していたものとは比較にならないほど強烈だった。
爆炎によって押し返そうとした瞬間、身体全体を巨大な壁で殴りつけられたような衝撃が走り、爆豪は空中で大きく吹き飛ばされた。
咄嗟に身体を丸め、両腕で頭部を庇いながら爆発を重ねたものの、衝撃を完全に相殺することはできず、数十メートルも後方へ押し戻されてしまう。
砂浜では青山優雅が悲鳴を上げながら地面へ伏せ、少し離れた場所に倒れていたスターアンドストライプも、咄嗟に片腕で顔を覆っていた。巻き上がった砂礫が周囲へ降り注ぎ、海面には巨大な波紋が幾重にも広がっていく。
衝撃の中心にいた二人は、吹き飛ばされていなかった。
トガヒミコの腹部には、依然として巨大な骨が突き刺さっている。
その右手もまた、緑谷出久の顔面を掴んだままだった。
互いに接触を維持した状態で、二つの『
「――な、に……ッ!?」
オール・フォー・ワンは、自分の身体に起きている異常を理解できず、歪な顔を大きく引き攣らせた。
彼が課した規則は、渡我被身子の心臓を停止させるというものだった。
生物の身体へ直接干渉する命令である以上、対象の自己認識との整合性によって効果が制限される可能性はある。
しかし、今の少女はすでに致命傷を負っており、仮に規則が完全な形で成立しなかったとしても、心臓の働きを僅かに乱すだけで十分に命を奪えるはずだった。
ところが、少女の身体には何の変化も起きていなかった。
少なくとも、オール・フォー・ワンが期待していたような即死には至っていない。
それどころか、少女の身体へ課したはずの規則が、何か別の力によって押し返されているような感覚があった。
(――馬鹿な……! 何故、成立しない!?)
オール・フォー・ワンは左腕へ意識を集中させ、改めて『新秩序』の作用を確かめた。
個性は間違いなく発動している。
対象への接触も維持されており、名前の指定にも誤りはない。
規則そのものが消失したわけでもなく、確かに渡我被身子という存在へ向けて作用しようとしている。
だが、その力が対象へ届く寸前で、何かに阻まれていた。
そして、それとまったく同じ異常が、トガヒミコの側でも起きていた。
「……ッ、ぐ……ぅ……!」
少女の喉から、苦痛に満ちた呻き声が漏れた。
腹部を貫かれた状態で無理に叫んだため、肺の奥から血が込み上げ、口元を赤く染めている。
すでに視界は霞み、指先の感覚も失われかけていたが、それでもトガは怪物の頬へ爪を食い込ませ、必死に右手を押し当て続けていた。
彼女にも分かっていた、『
自分の中に残されていた最後の力が、確かに緑谷出久へ向かって流れ込んでいる。
それなのに戻ってこない。
目の前の怪物は依然としてオール・フォー・ワンの表情を浮かべており、その眼差しには怒りと困惑が入り混じっている。
自分が呼び起こそうとしている少年の気配は、どれほど探しても感じられなかった。
(……どうして……?)
トガは必死に考えようとしたが、激痛によって思考が途切れ、まともに頭を働かせることさえできなかった。
しかし、そんな彼女の疑問へ答えるように、再び衝撃が発生した。
――ズンッ!!
今度は空気そのものが震えた。
白い巨人の身体を中心として、目に見えない圧力が球状に膨れ上がり、周囲へ広がっていく。
砂浜には幾重もの亀裂が走り、海岸沿いに残されていた岩場が次々と砕け散ったが、それでも二人の身体は離れなかった。
むしろ、互いの接触を通じて、二つの規則がさらに強く作用し始めていた。
オール・フォー・ワンは少女の心臓を止めようとする。
トガヒミコは緑谷出久の意識を呼び起こそうとする。
そのどちらもが相手の目的を阻むように働き、結果として、二つの『
(――そうか……!)
オール・フォー・ワンは歯を食いしばった。
少女の規則が成立すれば、緑谷出久は自分の身体を取り戻す。
そうなれば、現在この肉体を支配している自分の意識は、主導権を失うことになる。
対して、自分の規則が成立すれば、少女は死ぬ。
その瞬間、彼女が発動させている『新秩序』も維持できなくなり、緑谷出久が身体を取り戻す可能性は失われる。
つまり、互いの規則が相手の成立条件を破壊しようとしているのだ。
しそれが完全に同時に発動してしまった。
双方の個性が相手へ干渉するよりも早く、互いの規則そのものが衝突してしまっている。
その結果として生じているのが、周囲へ放出され続ける異常な衝撃波だった。
(なるほど、検証のしようもないバグのような状態。スターアンドストライプ本人も知り得ない、拮抗状態!)
巨大な左腕へ力を込め、トガの腹部を貫いている骨をさらに押し込もうとする。
しかし、少女の身体を後方へ押し戻そうとした瞬間、再び強烈な反発が発生し、白い鱗に覆われた腕が不自然な角度で跳ね返された。
まるで、二人の間に見えない壁が存在しているかのようだった。
オール・フォー・ワンはその現象に驚愕したものの、すぐに歯を食いしばり、今度は右腕を動かそうとした。
だが、それも叶わなかった。
『豪躯』によって肥大化した筋肉が激しく痙攣し、『筋骨発条化』によって変形した関節が軋むような音を立てる。
さらに『スケイルメイル』によって形成された白い鱗が、身体の内側から押し上げられるように浮き上がり、その隙間から赤黒い血が滲み始めた。
肉体の主導権が、揺らいでいた。
「――ッ、小娘がああ!!!!!!!」
オール・フォー・ワンの喉から、苛立ちに満ちた声が漏れた。
渡我被身子の心臓を停止させるという規則は、確かに発動している。
彼女の胸の奥で拍動が乱れ、生命活動が徐々に衰えていることも、左腕を通じて伝わってくる感覚から理解できていた。
それなのに、少女はまだ死なない。
心臓は今にも停止しそうなほど弱々しく脈打っており、腹部を貫かれた傷口からは絶えず血が流れ続けている。
『
だが、それでは遅い。
少女の規則もまた、緑谷出久の肉体へ作用し続けているのだ。
オール・フォー・ワンが巨大な右腕を持ち上げようとすると、途中で筋肉が不自然に収縮し、意図しない方向へ関節が曲がってしまう。
背中から新たな骨槍を形成しようとしても、骨の成長が途中で止まり、代わりに白い鱗の隙間から血が噴き出した。
それは、彼が最も恐れていた事態だった。
肉体の主導権が、少しずつ失われている。
「――貴様ごときが……ッ!!」
オール・フォー・ワンは少女を睨みつけ、腹部を貫いている骨槍へ力を込めた。
再び衝撃波が発生した。
巨大な左腕が見えない力によって押し返され、肩の周囲を覆っていた白い鱗が何枚も剥がれ落ちる。
トガの身体も大きく揺さぶられ、腹部の傷口から新たな血が溢れ出したが、それでも右手は怪物の頬を掴んだままだった。
そして、彼女の顔に走っていた亀裂が、さらに広がった。
顔から首へ、首から肩へ。
皮膚の表面を走るひび割れは、まるで内側から何かが押し広げているかのように増殖し、やがて全身にまで達した。
裂け目から流れ出した血が腕を伝い、肘の先から雫となって落ちていく。
それでも、トガは笑っていた。
血に濡れた唇を僅かに持ち上げ、目の前の怪物を見つめながら、どこか嬉しそうな表情を浮かべている。
ゆっくりと左手を動かした。
腹部を貫かれているため、身体を僅かに動かすだけでも激痛が走ったが、それでも彼女は歯を食いしばり、血に濡れた左腕を持ち上げていく。
指先はすでにひび割れ、爪の周囲からは血が滲み出していた。
手首を曲げようとすると、皮膚の裂け目がさらに広がり、赤黒い血が掌を伝って流れ落ちた。
自分の身体が壊れ始めていることなど、今さらどうでもよかった。
彼女は左手を胸元へ持っていくと、心臓のある位置へ、そっと掌を押し当てた。
自分の心臓が、弱々しく脈打っている。
その拍動はあまりにも不規則で、次の一拍が訪れる保証さえないように感じられた。
けれど、それでもまだ動いている。
自分は、まだ生きている。
だったら、残されているものを全部使えばいい。
トガはゆっくりと息を吸い込んだ。
肺の奥へ空気が入り込むたびに腹部へ激痛が走り、喉の奥から血が込み上げてくる。
それでも彼女は必死に呼吸を整え、白い鱗に覆われた怪物の顔を見つめながら、血に濡れた唇を動かした。
「……『新秩序』……」
その言葉を聞いた瞬間、オール・フォー・ワンが目を見開いた。
「――やめろッ!!」
巨大な左腕が激しく痙攣し、少女の腹部を貫いている骨槍が軋むような音を立てる。
オール・フォー・ワンは必死に腕を動かそうとしたが、肉体の主導権はすでに大きく揺らいでおり、思うように力を込めることができなかった。
それでも彼は抵抗を続けた。
少女の心臓を停止させる規則へ意識を集中させ、何としてでも先に命を奪おうとする。
だが、トガはそんな彼を見つめながら、ニッと笑った。
いつもの、無邪気で、どこか悪戯っぽい笑顔だった。
「……私は……」
胸元へ押し当てた左手に、力が籠もる。
指先から新たな亀裂が走り、手の甲を覆っていた皮膚が細かく裂けていく。
そこから流れ出した血が胸元を赤く染め、破れた衣服の隙間へ染み込んでいったが、トガは視線を逸らさなかった。
自分の名前を、はっきりと意識する。
渡我被身子。
誰かの血を欲しがり、誰かの姿になりたがり、好きになった人と同じになりたいと願い続けてきた怪物。
ずっと、自分の好きという気持ちを否定されたくなかった。
誰かを好きになることが、どうして悪いことなのか分からなかった。
だから、自分の気持ちを受け入れてくれる人を探し続けてきた。
そして、ようやく見つけたのだ。
自分のことを知ろうとしてくれて、自分が何を考えているのかを聞いてくれて、それでも一緒にいてくれた人を。
彼が誰かを助けるために、いつも自分の身体を傷つけてきたように。
自分も、彼のために何かをしたかった。
「……緑谷出久に……」
トガの声は、あまりにも小さかった。
それでも、言葉は途切れなかった。
彼女は胸元へ押し当てた左手に残された力を込めると、目の前の怪物を真っ直ぐに見つめながら、最後の規則を宣言した。
「――緑谷出久に、全てを捧げる」
その瞬間、トガヒミコの身体を巡っていた『新秩序』の作用が変わった。
胸へ押し当てた左手の下で、弱りきっていた心臓が一際大きく脈打ち、指先から肩口へ広がっていた亀裂の奥に、淡い光が滲み始める。
少女の身体はすでに限界を迎えており、今さら新たな力を生み出せるはずなどなかったが、それでも白い巨人の頬へ触れている右手を通じて、何かが急速に膨れ上がっていくのが分かった。
「――な……ッ!?」
オール・フォー・ワンは、思わず目を見開いた。
少女が課した二つ目の規則は、あまりにも曖昧だった。
緑谷出久に全てを捧げる。
そんな命令で、具体的に何をどう変化させるというのか。
生命力を譲り渡すのか、個性を移し替えるのか、それとも自分自身の肉体を何らかの形で変質させるつもりなのか。
どれほど強力な『新秩序』であっても、使用者の意思だけであらゆる現象を実現できるわけではなく、規則の内容が不明瞭であれば、その作用も限定されるはずだった。
しかし、今の少女には迷いがなかった。
彼女にとって、全てを捧げるという言葉は、何一つ曖昧なものではなかったのである。
自分の身体も、残された時間も、これまで抱いてきた感情も、これから先に手に入れられたかもしれない未来さえも、緑谷出久のために使いたい。
それは、誰かに命じられたからでも、何かを見返りとして求めているからでもなかった。
ただ、彼が好きだった。
大好きな人が苦しんでいるのなら、助けたい。
その願いだけが、彼女の中に残されていた。
そして、『
「――馬鹿な……ッ!?」
オール・フォー・ワンは、白い鱗に覆われた自分の右腕が不自然に震え始めたことに気づき、慌てて肉体の制御を確かめた。
先ほどまで、トガヒミコが課した規則は、自分の支配を僅かに揺るがす程度のものだった。
肉体の主導権を奪い返そうとする働きは確かに存在していたが、緑谷出久の意識そのものが表へ出てきたわけではなく、こちらが力を込めれば、どうにか押さえ込むことができていた。
ところが、今は違う。
巨大な右腕を動かそうとしても、途中で筋肉が勝手に収縮し、関節が意図しない方向へ曲がってしまう。
背中から新たな骨槍を形成しようとすれば、骨の成長が始まるよりも早く別の意思がそれを妨げ、白い鱗の隙間から血が噴き出した。
肉体の主導権を奪い返そうとする働きが、明らかに強まっていた。
(――何故だ……!? 何故、規則の作用が増大している!?)
オール・フォー・ワンは必死に考えた。
『
スターアンドストライプが自分自身を強化した際でさえ、オールマイトと同等の身体能力を得ることはできなかった。
規則によって現実へ干渉できる範囲には明確な上限が存在しており、どれほど強く願ったところで、その限界を無条件に超えられるわけではない。
それなのに、目の前の少女が発動させた『
しかも、その変化は単純な規則の重ね掛けでは説明できなかった。
トガヒミコは、自分自身へ課した規則によって緑谷出久を強化しているわけではない。
彼女が強めようとしているのは、最初に設定した『新秩序』そのものだった。
そして、そのことに気づいた瞬間、オール・フォー・ワンの脳裏に、ある個性の存在が過ぎった。
『愛』。
かつて、ジェントル・クリミナルと行動を共にしていたラブラバが持つ個性だった。
愛する相手へ想いを伝えることで、その人物の個性を含めた能力を一時的に強化するという、極めて特殊な力。
強化の程度は使用者が抱く愛情の深さに左右され、単純な身体能力の増大に留まらず、個性そのものの出力を引き上げることさえ可能だった。
もちろん、トガヒミコが『愛』を持っているわけではない。
彼女が使っているのは、あくまでも『新秩序』だった。
しかし、目の前で起きている現象は、あの個性による強化と酷似していた。
自分自身へ課した規則によって、愛する相手のために全てを捧げる。
その意思が、緑谷出久へ作用している最初の規則を押し上げている。
まるで、『
「――ふざけるな……ッ!! 愛!? そんな、曖昧な……物で!」
オール・フォー・ワンは歯を食いしばり、少女の心臓を停止させる規則へ意識を集中させた。
どれほど強力な規則を発動させようとも、使用者が死んでしまえば意味はない。
まして、今の少女はすでに致命傷を負っており、心臓の拍動も今にも途絶えそうなほど弱まっている。
自分が課した規則は確かに作用しているのだから、あと僅かな時間さえ耐えれば、彼女の命を奪うことができるはずだった。
しかし、少女の身体へ作用している『
むしろ、心臓の働きが弱まるほど、緑谷出久へ課された規則は強くなっていく。
それは、少女が自分自身を守ることを放棄し、残された全てを最初の規則へ注ぎ込んでいるからだった。
自分の身体を維持するために残されていた僅かな余力も、傷ついた肉体を動かし続けるための力も、意識を繋ぎ止めるための最後の一欠片さえも、彼女は緑谷出久のために使おうとしている。
そして、その全てを捧げるという意思が、『
「――……ッ、正気か……!?」
オール・フォー・ワンの声が震えた。
そんな規則を自分自身へ課せば、肉体がどうなるのか分からないはずがない。
すでに致命傷を負い、心臓の働きまで妨害されている少女が、自分の身体を維持するための余力を捨て去れば、待っているのは確実な死だった。
それも、苦痛から解放されるような穏やかな死ではない。
意識が失われる寸前まで個性を維持し、肉体が完全に限界を迎えるまで自分自身を酷使し続けるという、あまりにも無謀な選択だった。
「――ふざけるなァァァッ!!」
少女の心臓が、もう一度だけ大きく脈打Tう。
白い鱗の表面へ押し当てられた掌の周囲で、砂礫が僅かに浮き上がる。
次いで、巨大な頭部を取り巻く空気が圧縮され、白い巨人の足元に広がっていた砂浜が、見えない何かに押し潰されるように沈み込んでいった。
周囲の砂が地面へ押しつけられ、突き刺さっていた巨大な骨槍が次々と軋み始める。
海面には巨大な窪みが生まれ、岸辺へ打ち寄せようとしていた波が、何かに押し返されたように沖へ向かって引いていった。
少女の心臓が停止した。
それなのに、緑谷出久へ課された規則は消えない。
むしろ、少年自身の意思が表へ出ようとするにつれて、肉体の主導権を奪い返そうとする働きは、ますます明確になっていた。
「――やめろ……ッ!!」
トガヒミコは答えない。
彼女はただ、目の前にいる少年を見つめながら、血に濡れた唇を僅かに持ち上げていた。
その表情には、勝利を確信したような傲慢さも、自分の命を犠牲にすることへの陶酔もなかった。
「 」
それまで海岸を揺るがしていた衝撃とは比較にならないほど巨大な圧力が、白い巨人の頭部を中心として一気に解き放たれた。
耳をつんざくような轟音が響き渡り、砂浜が円形に陥没する。
地面へ突き刺さっていた骨槍が根元から砕け散り、海岸沿いに残されていた岩場が次々と崩壊した。
海面は巨大な手で押し広げられたかのように窪み、押し退けられた海水が沖へ向かって凄まじい勢いで流れ出していく。