間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第16話 獣の才能

 轟音と衝撃の中、出久の身体は完全に制御を失っていた。

 

「うわぁぁぁっ!?」

 

 吹き飛ばされる。視界がぐるぐる回り、瓦礫、悲鳴、崩れた地面が高速で流れていく。その中で、出久の個性『五感強化』だけが嫌に鮮明だった。風圧、粉塵、遠くで誰かが叫ぶ声。そして、眼下へ広がる大量の水。

 

「——っ!?」

 

 水難ゾーン。人工海難事故エリア。気付いた瞬間には、もう遅かった。

 

 ドボォォンッ!!

 

 激しい水飛沫と共に、出久の身体が水面へ叩きつけられる。

 

「がっ……!?」

 

 肺から空気が抜け、衝撃で意識が飛びかけた。冷たい。深い。そのまま身体が、水中へ沈んでいく。

 

「っ……!」

 

 手を動かす。だが、上手く力が入らない。さっきの衝撃で全身が痺れていた。しかも、ヒーロースーツも靴もベルトも水を吸い、重くなって身体へ纏わりついてくる。呼吸が苦しい。肺が熱い。水中で無理やり息を止めているせいで、視界の端が白く霞み始めていた。

 

 浮かなきゃ。

 

 そう思った時、ぼんやりした水中視界の中へ何かが飛び込んできた。

 

「捕まるのよ、緑谷ちゃん」

 

「——っ!?」

 

 一年A組、蛙吹梅雨。彼女の舌が出久の腕へ巻き付いていた。次の瞬間、グイッ!! と凄まじい勢いで身体が引っ張り上げられる。

 

 水面。

 

「ぶはっ!!」

 

 出久が激しく咳き込む。肺へ空気が流れ込んだ。

 

「はやく掴まれ緑谷!」

 

「え?」

 

 同じくA組、峰田実。小型ボート。どうやら水難救助訓練用の船らしい。そこへ乗っていた峰田が、必死の形相で手を伸ばしていた。

 

「早く掴まれ!! ヴィランも落ちてきてんぞ!!」

 

「!」

 

 出久が振り返る。水面の向こうには、黒い影が幾つも浮かんでいた。ヴィランたちだ。どうやら脳無の一撃で、周囲一帯がまとめて吹き飛ばされたらしい。

 

「っ!」

 

 出久は慌てて船縁へ手を伸ばす。だが、腕に力が入らない。その瞬間、梅雨の舌が再び巻き付いた。

 

「よいしょっと」

 

 グイッ!! と引き寄せられ、次の瞬間には出久の身体が小型ボートへ引き上げられていた。

 

 ドサッ!!

 

「げほっ……! ごほっ!!」

 

 船底へ倒れ込み、出久は激しく咳き込む。水を吐く。肺が痛い。だが、生きている。

 

「だ、大丈夫か!? 死にかけてたぞ今!」

 

 峰田が青ざめた顔で覗き込んでくる。

 

「ご、ごめん……ありがとう」

 

 出久は荒い呼吸のまま、なんとか身体を起こした。周囲を見回す。水難ゾーン。人工波。小型ボード。漂流物。そして、各地へ散らばったヴィランたち。

 

「……」

 

 出久の喉が小さく鳴る。本当に襲撃だ。訓練じゃない。現実のヴィラン事件。しかも、雄英高校を狙った大規模襲撃。

 

「落ち着くのよ」

 

 梅雨が静かな声で言った。彼女はボート上へしゃがみ込み、冷静に周囲を観察している。その落ち着きは、混乱の中だと妙に頼もしかった。

 

「今は状況確認が先。パニックになると危ないわ」

 

「う、うん……!」

 

 出久は必死に頷く。だが、その手はまだ震えていた。恐怖だけじゃない。脳裏に浮かぶのは、青山優雅の言葉。AFOの命令。そして、今日オールマイトがいないという事実。

 

 水面が、ざわりと揺れる。最初は一つだった波紋が、二つ、三つと増えていき、やがてボートの周囲を取り囲むように広がっていった。

 

「……来るぞ」

 

 峰田の声が引き攣る。出久も息を呑んだ。黒い影が水中を動いている。いや、隠れる気すらない。わざと見せつけるみたいに、ヴィランたちはゆっくり浮上してきていた。

 

 ザバァッ、と一人。ザバッ、とまた一人。濁った水面から次々と人影が現れる。ボロボロのコート、鎖を巻いた男、魚みたいに裂けた口を持つ異形、潜水服じみた装備の大男。まともな連中ではない。その全員が、じわじわと小型ボートを囲み始めていた。

 

「っ……」

 

 出久の背筋を冷たいものが走る。数が多い。十人、いや、それ以上。誰も慌てていない。まるで獲物を追い詰める肉食獣みたいに、ゆっくり距離を詰めてくる。

 

「ガキ三人か」

 

 水面へ浮かびながら、スキンヘッドの男が笑う。

 

「雄英って聞いてたから、もっとヤバいの来るかと思ったぜ」

 

「油断すんな。金の卵だぜ」

 

 ギシ、と小型ボートが軋んだ。

 

「っ……!」

 

 出久たち三人は反射的に身を低くする。船の中央ではなく、あえて縁ギリギリへ身体を寄せ、ヴィランたちから死角になるよう隠れた。波で揺れる船体の陰。すぐ向こうでは、水を掻く音がしている。近い。すぐそこにいる。

 

「ど、どうするんだよぉ……! このままじゃ囲まれて終わりだぞ!?」

 

 峰田が半泣きで震える。声を抑えてはいるが、恐怖を隠し切れていない。

 

「落ち着くのよ」

 

 梅雨が低く言う。だが、彼女も状況の深刻さは理解していた。真正面から戦えば不利。数が違い過ぎる。水上という地形も厄介だった。逃げ場が少ない。

 

「まずは情報共有しましょう。互いに何が出来るか分からないままだと、連携出来ないわ」

 

「っ、そ、そうだね! 蛙吹さんの個性は?」

 

「梅雨ちゃんと呼んで。私、お友達になりたい人にはそう呼んで欲しいの」

 

「え! え!? あ、あ、つ、蛙吹さん」

 

「つれないわね緑谷ちゃん」

 

 梅雨は水面を警戒しながら、静かに口を開いた。

 

「私の個性は『蛙』。カエルに出来ることは大体出来るわ。跳躍、水中機動、長い舌、壁張り付き。あとは色々ね」

 

「万能過ぎない!?」

 

 峰田が思わず小声で叫ぶ。

 

「そうかしら」

 

「いや強いって!」

 

 実際、今こうして生き残れているのも梅雨の機動力が大きい。水難ゾーンとの相性も抜群だった。

 

「峰田ちゃんは?」

 

「お、オイラの個性は『もぎもぎ』!」

 

 峰田が頭の紫色の球体を指差す。

 

「これをもぎって投げると、物にくっつく。オイラはくっつかずに跳ね返る。もぎり過ぎると血が出る」

 

「拘束系ね」

 

 梅雨が小さく呟く。

 

「うん、拘束はもちろんトラップにも使える」

 

「強力な個性ね。数が多い相手には特に有効だわ」

 

「え」

 

 峰田が少し目を丸くする。普段そこまで真っ直ぐ評価されることが少ないのか、少しだけ照れ臭そうだった。

 

 そして、二人の視線が出久へ向く。

 

「緑谷ちゃんは?」

 

「え、あ……」

 

 出久の喉が詰まる。言えない。複数個性だなんて。AFOのことなんて。だが、隠し過ぎれば連携に支障が出る。

 

 出久は一瞬迷い、言葉を選んだ。

 

「ぼ、僕は……近接戦闘向き、かな」

 

「近接?」

 

「骨を武器みたいに生成出来るんだ。あとその派生で……感覚がちょっと鋭いかな」

 

 完全な嘘ではない。梅雨は、じっと出久を見る。

 

「確か、屋内戦闘訓練で爆豪ちゃんを倒してたわね」

 

「っ」

 

 出久の肩が揺れた。

 

「あ、あれはたまたまで……!」

 

「でも、純粋な戦闘能力なら、この中で一番高いのは緑谷ちゃんだと思う。爆豪ちゃん相手に正面から勝ってる。少なくとも、私たちの中で前衛を任せるなら緑谷ちゃんよ」

 

「……!」

 

 出久は目を見開いた。そんな風に言われると思っていなかった。一方で、峰田もぶんぶん頷く。

 

「わ、分かる! あの連打ヤバかったもん! 正直ちょっと怖かった!」

 

「えぇっ!? し、静かに!」

 

「あっ、ご、ごめん!」

 

 三人は反射的に身を縮める。その直後、ザバァッ、とすぐ近くで水音がした。

 

「……?」

 

 ヴィランの一人が、怪訝そうに周囲を見回す。三人は息を止めた。数秒後、ヴィランは舌打ちし、水面へ視線を戻す。

 

「ビビって隠れてんだろ」

 

「ガキだしなァ」

 

 下卑た笑い。だが、包囲は確実に狭まっていた。逃げ道は減っている。時間はない。

 

「……多分だけど」

 

 出久が、出来るだけ小さな声で口を開いた。

 

「僕たちがここに飛ばされたのって、完全にランダムだと思う」

 

 梅雨が静かに頷く。

 

「さっきの大男の攻撃ね」

 

「うん。だからヴィラン側も、“水難ゾーンへ蛙吹さんがいる”って分かって配置したわけじゃない。つまり、水中戦への適性までは把握してない可能性が高い」

 

「……なるほど」

 

 梅雨の目が僅かに細まる。理解が早い。出久は続けた。

 

「それに、向こうはまだ僕たちの個性を詳しく知らない。さっき少し話してた感じだと、“雄英生徒だから警戒してる”だけで、能力そのものは不明のはず」

 

「つまり奇襲出来るってことか!?」

 

 峰田が少しだけ顔を上げる。

 

「うん。この場所なら、水中を自由に動ける蛙吹さんが圧倒的に有利なんだ」

 

 梅雨が一瞬だけこちらを見る。今度は、“梅雨ちゃん”を訂正しなかった。

 

「峰田君は、水中にもぎもぎを撒ける?」

 

「え? あ、ああ! いける!」

 

 峰田が慌てて頭の球を一つもぎ取る。

 

「オイラのもぎもぎは水に浮くんだ。濡れても性質が変わることはねえ」

 

「十分だよ」

 

 出久の頭の中では、すでに戦闘の流れが組み立てられ始めていた。水中、視界不良、未知の個性、数では不利。ならば、真正面から全員を相手にする必要はない。

 

「蛙吹さんが水中から攪乱する。ヴィランを一人ずつ水中へ引きずり込む。その周囲にもぎもぎを撒いて拘束。水中なら、自由を奪われた相手は一気に動きづらくなる」

 

「っ……!」

 

 峰田の目が、少しずつ見開かれていく。

 

「お、おお……!」

 

「真正面から全員と戦うんじゃなくて、“数を減らす”」

 

 梅雨が小さく頷いた。

 

「悪くないわね」

 

「問題は、どうやって注意を逸らすかだけど……」

 

 その時、ザバァッ、とまた一人ヴィランがボートへ近付いてきた。

 

「おーいガキ共ぉ。そろそろ出て来いよ。怖いお兄さんたちが遊んでやるからよォ」

 

 ギシッ、と船縁が揺れる。距離が近い。もう猶予はほとんどない。

 

 出久は小さく息を吐いた。

 

「……僕がやる」

 

「え?」

 

 峰田が振り向く。

 

「僕が囮になる」

 

「いや待て待て待て!! それ一番危ねぇ役じゃねぇか!?」

 

「でも、向こうが一番警戒するのは、多分“戦えそうな相手”だ」

 

 出久は自分の掌を見る。まだ震えている。怖い。当たり前だ。本物のヴィランだ。命を奪う側の人間。だが、ここで崩れれば三人とも終わる。

 

 逃げてる場合じゃない。

 

 出久は、ゆっくり身を起こした。

 

「緑谷ちゃん」

 

 梅雨が低く呼ぶ。

 

「無茶は駄目よ」

 

 出久は小さく頷いた。

 

「うん。だから、ちゃんとやる」

 

 そう言って、ゆっくりボートの縁へ手を掛ける。波が船体を揺らした。水面の向こうでは、ヴィランたちがじりじり距離を詰めている。濁った視線、獲物を弄ぶような笑み。誰もがこちらを子供として侮りながら、それでも雄英生徒という肩書きへの警戒を捨て切れていなかった。

 

 だからこそ、出久はあえて派手に動く。

 

 ガンッ!!

 

 勢いよく船縁へ片足を乗せ、身を晒した。

 

「──『槍骨』!!」

 

 ゴギィッ!! と右腕から白い骨が一気に突き出す。槍状へ変形したそれは、先ほどよりも遥かに長く、鋭く、水滴を撒き散らしながら不気味な白光を放っていた。

 

「おっ」

「なんだァ?」

 

 ヴィランたちの視線が一斉に集中する。出久はさらに大きく腕を振り上げた。まるで、今から突撃すると見せつけるように。

 

「来いよ!!」

 

 自分でも驚くくらい大きな声だった。だが次の瞬間。

 

「──うるせぇんだよォ!!」

 

 怒号と共に、水飛沫が爆ぜた。

 

「──!?」

 

 出久の五感強化が危険を捉えた時には、もう遅い。ザバァァァッ!! と水中から一人のヴィランが飛び出していた。他の連中より一回り大きい。筋肉質で、顔面には無数の傷跡。片目は潰れ、口元は裂けるように歪んでいる。そして何より、その手には鈍く光る金属バットが握られていた。

 

「な──」

 

 虚を突かれた。出久だけじゃない。船の反対側から水中へ潜ろうとしていた梅雨も、一瞬動きが止まる。

 

「ガキが調子乗ってんじゃねぇ!!」

 

 ブォンッ!! と凶悪な風切り音が響く。

 

「っ──!」

 

 梅雨が咄嗟に振り向く。だが、回避が半歩遅れた。

 

 ゴッッッ!!

 

 鈍い衝撃音が、水面へ響いた。

 

「──ぁ」

 

 梅雨の身体が横へ吹き飛ぶ。緑色の髪が宙へ散り、そのままボートの床へ叩きつけられた。

 

 ドサッ!!

 

「蛙吹さんッ!!」

 

 出久の叫び。梅雨は動かない。額、いや頭部から、赤い血がじわりと流れていた。ボートの床へ、ぽたり、ぽたりと赤が落ちる。

 

「────」

 

 その瞬間、出久の中で何かが切れた。

 

 恐怖でも、混乱でもない。もっと単純で、暴力的な衝動。目の前で、助けてくれた相手が。仲間が。傷付けられた。

 

「はっ、雑魚が一人──」

 

 ヴィランが笑う。そこまでだった。

 

 ゴギィィィィッ!!

 

 出久の右腕から、骨が爆発的に伸長した。先ほどまでとは比較にならない。太く、長く、凶悪で、まるで巨大な白杭。最大威力の『槍骨』。

 

「──どけぇぇぇぇぇッ!!」

 

 轟音。白い槍が空気を裂いた。

 

「ッ!?」

 

 ヴィランの顔から笑みが消える。反応出来ない。速過ぎた。

 

 ドゴォォォッ!!

 

 槍骨が、男の胴体へ直撃する。骨が軋む音。肉の潰れる感触。そして。

 

「がぁぁぁっ!?」

 

 ヴィランの巨体が、そのまま水面へ叩き落とされた。

 

 ドバァァァンッ!!

 

 巨大な水柱が上がり、船が激しく揺れる。

 

「ひっ……!」

 

 峰田が息を呑む。だが、出久は止まらなかった。目が据わっている。

 

「峰田君」

 

 低い声。

 

「蛙吹さんの手当お願い」

 

「え……?」

 

「お願い!!」

 

 叫ぶような声だった。そのまま出久は一切躊躇なく、ドボォンッ!! と水の中へ飛び込んだ。

 

 水中へ飛び込んだ瞬間、冷たい水が全身へまとわりつく。だが、出久の頭は不気味なくらい冷えていた。

 

 暗い水の中、泡がゆっくり浮かんでいく。さっきまで考えていた作戦、役割分担、個性の活用法、水中戦での有利不利。そんなものは、もうどうでもよかった。

 

 視界の先。先ほど自分たちへ飛び掛かってきたヴィランが、水中で体勢を立て直そうとしている。肋骨を貫いた衝撃で動きは鈍い。だが、まだ生きている。濁った目が、水中の出久を捉えた。

 

「……ッ」

 

 ヴィランの顔が歪む。その瞬間、出久は水中で静かに顔を顰めた。

 

 怒り。嫌悪。殺意にも似た感情。だが、その全部を押し殺したまま、ただ冷たく相手を見据える。

 

 水中なら、見られない。

 

 この濁った水の中では、自分が何を使っているのか、細かくは見えない。なら、隠す必要はない。

 

 ゴギッ。

 

 出久の脚部と背中から、白い骨が軋むように突出した。それは槍ではない。薄く広がった、刃のような骨。魚類や水棲生物の鰭にも似た形状。骨の水かき。

 

 同時に、全身の筋肉が内側から脈動する。

 

『筋骨発条化』。

 

 筋繊維、腱、骨格。その全てが、圧縮された鋼鉄バネみたいに捻じれ、収縮し、異常な弾性を獲得していく。

 

 ミシ、ミシミシ、と身体の内側から不快な音が鳴った。

 

 次の瞬間、バァンッ!! と水中で爆発みたいな水流が弾ける。

 

「──!?」

 

 ヴィランの目が見開かれた。速い。さっきまでとは比較にならない。出久の身体が、水中を一直線に駆け抜けていた。いや、射出されていた。発条化した筋骨が、水圧すら推進力へ変換している。骨の水かきが水流を掴み、尋常ではない加速を生み出していた。

 

 水の中とは思えない。まるで魚雷。あるいは、巨大な銛。

 

「な、なんだテメ──」

 

 言い終わる前に、ゴギィィィッ!! と出久の右腕から再び巨大な槍骨が伸びた。

 

 今度は躊躇がない。一直線。加速。貫通だけを目的とした、暴力的な一撃。

 

 ドッッッ!!

 

 白い槍が、ヴィランの腹部を真正面から刺し貫いた。

 

「が──ッ!?」

 

 水中へ赤黒い血が広がる。ヴィランの身体が大きく痙攣した。そのまま、勢いを殺さない。出久は槍骨ごとヴィランを押し込みながら、さらに深く水中へ叩き込んでいく。

 

 ゴボボボボッ!!

 

 泡。血。濁流。ヴィランは必死に暴れようとするが、発条化した筋力で押し込まれ、まともに抵抗できない。その目へ、恐怖が浮かび始めていた。

 

 目の前にいるのは、本当に学生なのか。

 

 そんな疑問が滲んでいる。だが、出久は止まらない。止まれない。頭の中で、ずっと同じ光景が焼き付いていた。血を流して倒れた梅雨。鈍い打撃音。床へ散った赤。

 

「────」

 

 出久は、水中で静かに歯を食いしばる。その緑色の目には、もはや怯えは残っていなかった。

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