水難ゾーンを離れてから、三人は出来る限り物音を立てないよう慎重に移動していた。
USJ外周部。
人工岩壁とメンテナンス用通路の隙間を縫うように進む。
中央広場へ近付けば近付くほど、戦闘音が鮮明になっていた。
爆発音。
金属の軋み。
何か巨大なものが叩き付けられる重低音。
その度に、床が微かに震える。
「っ……」
出久は、無意識に顔を強張らせた。
相澤。
13号。
他のクラスメイト達。
まだ戦っている。
そう思う度に、足が速くなりそうになる。
「緑谷ちゃん」
梅雨の声。
出久は、はっとして振り返った。
「……落ち着いて」
「!」
「焦って音を立てたら、余計危ないわ」
静かな声だった。
だが、梅雨自身も決して余裕がある訳ではない。
額には応急処置の布が巻かれている。
その下では、まだ血が滲んでいた。
顔色も少し悪い。
歩く度に、僅かに足元がふらついている。
「蛙吹さんこそ……大丈夫?」
「梅雨ちゃん」
「あっ、つ、つ、つ」
「ふふ……平気ではないわ」
梅雨は正直に言った。
少しだけ苦笑する。
「頭、まだガンガンするもの」
「無理すんなってぇ……」
後ろから、実が情けない声を漏らした。
彼もまた、かなり消耗していた。
頭の玉を大量にもぎ取ったせいで、頭皮からじわじわ血が滲んでいる。
顔色も悪い。
歩き方もふらふらしていた。
「オイラもう今日一生分くらいもいだぞぉ……」
「峰田君、声抑えて」
「す、すまん……」
三人は、壁沿いへ身を寄せる。
少し先。
崩落ゾーンへ続く通路の向こう側を、ヴィラン数人が横切っていくのが見えた。
「……」
息を潜める。
ヴィラン達は何かを怒鳴り合いながら、そのまま別方向へ走っていった。
どうやらまだ侵入側も混乱しているらしい。
「連携……取れてない?」
出久が小声で呟く。
「多分ね」
梅雨が頷く。
「あの吹っ飛ばしのせいで、ヴィラン側も散ってるんだと思う」
「なら……」
出久は声を潜めたまま続ける。
「入口側まで戻れれば、他の皆とも合流出来るかもしれない」
「飯田ちゃんは飛ばされていないのが辛うじて見えたわ。彼なら、外へ助けを呼びに行けるかもしれない」
梅雨が静かに言った。
「援軍さえ来れば——」
「オールマイトとか来たら一発で逆転だろぉ……」
実が弱々しく笑う。
だが、その言葉に三人とも少しだけ表情を緩めた。
平和の象徴。
その名前には、それだけの安心感があった。
「とにかく今は、無理に戦わない事だね」
出久は前方を警戒しながら歩き続ける。
「蛙吹さんも峰田君も消耗してるし、僕も——」
そこで言葉が止まった。
返事がない。
「……?」
出久は数歩進んでから、違和感に気付いた。
さっきまで後ろから聞こえていた足音も、呼吸音も消えている。
「蛙吹さん?」
返答なし。
「峰田君?」
静かだった。
USJの遠くから響く戦闘音だけが、やけに大きく聞こえる。
出久の背筋へ、嫌な汗が流れた。
「……?」
怪訝に思い、振り返ろうとする。
その瞬間だった。
ぞわり、と。
鼻腔へ、強烈な悪臭が入り込む。
「っ……!」
ドブ。
腐敗。
湿った下水。
そんな臭いが、一気に広がった。
あまりにも突然だった。
まるで今この瞬間、背後へ汚泥を流し込まれたみたいに。
(後ろ——!!)
五感強化が、遅れて警鐘を鳴らす。
だが。
反応が、一瞬遅れた。
ぬるり、と。
大きな手が、そっと出久の肩へ置かれる。
「——ひっ」
優しいくらい静かな動きだった。
だからこそ、余計に怖い。
巨大な手。
冷たい指。
人間のものとは思えない、不自然な感触。
そのまま。
耳元すぐ後ろで。
「やあ」
掠れた男の声が、聞こえた。
「緑谷出久君」
「——っ」
出久は、震えながらゆっくり振り返った。
視界が、止まる。
「……ぁ」
まず見えたのは、梅雨だった。
壁際へ崩れるように座り込み、静かに目を閉じている。
呼吸はある。
だが、完全に意識を失っていた。
その隣。
実もまた、床へ倒れている。
気絶しているだけなのか、微かに肩が上下していた。
「な……」
何が起きた。
いつ。
どうやって。
五感強化は、何も捉えられなかった。
いや。
違う。
“気付いた時にはもう終わっていた”。
その事実こそが、出久の全身へ恐怖を流し込む。
そして。
その二人の向こう側。
通路の中央。
空間そのものが、泥みたいに揺らいでいた。
黒い泥。
粘ついた闇。
そこから。
ゆっくりと、人影が浮かび上がっている。
「……!」
出久の呼吸が止まる。
巨大な生命維持装置。
無数の管。
薬液。
酸素マスク。
機械音。
その全てへ繋がれた男が、泥の中へ半ば沈むように存在していた。
顔の半分。
肩。
片腕。
それだけが、泥の外へ出ている。
まるで、“人間”という存在が無理やり延命されているみたいだった。
だが。
それでも。
その男から漂う気配だけは、圧倒的だった。
深海みたいな威圧感。
底の見えない悪意。
息をするだけで、肺の奥へ冷たい泥が流れ込んでくるようだった。
「やあ」
男——AFOは、柔らかく微笑んだ。
まるで、本当に教え子へ再会した教師みたいに。
「随分頑張っているじゃないか」
「ぁ……」
声が出ない。
身体が動かない。
「ひ——」
悲鳴が漏れかけた、その瞬間。
ぬるり、と。
泥の中から伸びたAFOの手が、そっと出久の口を塞いだ。
「っ!!」
冷たい。
だが妙に優しい手つきだった。
子供をあやすみたいに。
AFOは、人差し指を自分の口元へ当てる。
「シー」
穏やかな声。
その背後では、生命維持装置の機械音が規則的に鳴っている。
「静かに」
微笑みながら。
AFOは、まるで秘密話でもするみたいに続けた。
「こんな中途半端な姿ですまないね。これでも慌てて来たんだぜ」
AFOの手が、ゆっくりと出久の口元から離れる。
出久は反射的に数歩後ずさった。
だが、逃げられない。
逃げてはいけない。
そんな感覚が、喉へ冷たい刃みたいに突き刺さっていた。
「……っ」
呼吸が浅い。
心臓が壊れそうなほど脈打っている。
一方で。
AFOは、実に穏やかだった。
生命維持装置の管へ繋がれたまま、泥の中へ半ば沈みながらも、その声音だけはまるで世間話をする老人みたいだった。
「君の活躍は見させてもらったよ」
にこり、と。
AFOが微笑む。
「チンピラ達を通じてね」
「……!」
出久の背筋が強張る。
水難ゾーン。
ヴィラン達。
水の中。
あの戦いを。
見られていた。
「素晴らしいじゃないか」
AFOが、心底嬉しそうに言った。
「正直、私は少し君を見誤っていたらしい」
泥の奥で、生命維持装置が低く唸る。
「慎重で、臆病で、優しい子だとは思っていた。だが同時に、土壇場では躊躇するタイプだともね」
一拍。
「だが違った」
AFOの声が、少しだけ熱を帯びる。
「君は必要と判断した瞬間、一切の迷いなく相手を沈められる」
「……っ」
「しかも、あの短時間で個性の運用を最適化していた。 『筋骨発条化』を水中推進へ転用し、『槍骨』を水かきへ応用するとは」
まるで教師だった。
優秀な生徒を褒める研究者みたいに。
「君への評価は、大きく改めないといけないね」
出久の喉が、ひくりと震えた。
褒められている。
だが、嬉しくない。
むしろ。
自分の中の“何か”を見透かされているみたいで、吐き気がした。
「ぼ、僕は……」
なんとか声を絞り出す。
「あれは……蛙吹さんが、殴られて……」
「うん」
AFOは頷いた。
「怒ったんだろう?」
優しい声だった。
「大切な友人が傷付けられた。だから排除した。それだけの話だ」
「……」
「悪い事じゃない」
その言葉が、妙に静かに胸へ沈む。
AFOは続けた。
「さて」
泥の奥で、何かが蠢いた。
「計画そのものは、概ね予定通り進行している」
USJの遠く。
爆音が響く。
床が揺れた。
「とはいえ……まだ試したい事が幾つかあってね」
その瞬間。
ゴトン。
重たい音が、通路へ響いた。
「……!」
出久が視線を落とす。
黒い泥の中から、無骨な金属製トランクが落ちていた。
大型。
軍用みたいに頑丈そうな造り。
鈍い黒色。
その表面には、見た事もないロック機構が幾重にも走っている。
「もう少しだけ、時間を稼いで欲しいんだ」
AFOが、軽く指を鳴らす。
カチリ。
重厚なトランクの表面で、複数のロック機構が連鎖的に解除された。
金属音が、静かな通路へやけに大きく響く。
ゆっくりと。
トランクの蓋が、独りでに開いた。
「——」
出久の呼吸が止まる。
中に入っていたのは。
ヒーローコスチューム。
……いや。
本当にそれを“ヒーロー”と呼んでいいのか、分からなかった。
黒。
灰。
鈍い金属色。
全体的に無骨で、重装甲じみた造形。
だが、防御性能を重視したというより。
“威圧”と“恐怖”を優先したデザインに見えた。
肩部には、骨みたいに鋭い突起。
腕部には、槍骨の射出を補助するような固定フレーム。
脚部には、筋骨発条化を想定した補強構造。
そして何より。
頭部。
完全密閉式。
顔を一切晒さないフルフェイス構造だった。
暗いバイザー。
呼吸装置。
声を変質させる発声器。
それは防御ではない。
誰が見ても分かる。
“正体を隠すため”の装備だった。
「君用に調整してある」
AFOが穏やかに言う。
「最低限のサポート機能しかない簡易品だが、今は十分だろう」
「……な、んで」
出久の声が掠れる。
「なんで……こんなもの……」
「備えあれば憂いなし、というやつだよ」
AFOが微笑む。
その直後だった。
「さて、本題だ」
空気が変わる。
穏やかだった声音が、ほんの僅かだけ冷えた。
「今、君のクラスメイトの飯田天哉君が、USJ外部へ助けを呼びに行こうとしている」
「!」
出久の目が見開かれる。
「彼を止めなさい」
静かな命令だった。
だが、その一言は鉛みたいに重かった。
「なっ……!」
出久が反射的に顔を上げる。
「そ、それは……!」
「ん?」
「駄目です! そんな事したら……!」
声が震える。
「援軍が来なかったら、皆が……!」
「うん」
AFOは、あっさり頷いた。
「だから止めるんだ」
「——っ」
出久の息が詰まる。
「まだ試したい事がある、と言っただろう?」
生命維持装置が低く駆動音を鳴らす。
ぞわり、と。
出久の全身を寒気が走った。
「……嫌、です」
絞り出すみたいな声。
「僕は……そんな事……」
「そうか」
AFOは怒らなかった。
ただ、少し困ったみたいに笑った。
「なら仕方ない」
その瞬間。
ぬるり、と。
黒い泥が、梅雨と実の足元へ広がる。
「っ!!」
出久が反射的に一歩前へ出た。
「やめてください!!」
「安心したまえ」
AFOは穏やかなままだった。
「今すぐどうこうする気はない」
だが。
続く声は、底冷えするほど静かだった。
「君が従う限りはね」
「——」
「君の母君もそうだ」
出久の心臓が止まりかける。
「……ぁ」
「優しい人じゃないか。息子想いで、一生懸命で」
AFOは本当に世間話みたいに言った。
「彼女には、出来れば長生きして欲しいと私も思っているよ。家族愛は素晴らしいねえ」
「やめ……」
「もちろん、蛙吹梅雨君や峰田実君も同様だ」
泥が、二人の身体へじわりと絡み付く。
眠っている。
だから気付かない。
それが余計に恐ろしかった。
「君は優しいからね」
AFOが微笑む。
「誰かを見捨てる選択は出来ない」
「……っ」
「だから私は、君を気に入っているんだ」
沈黙。
遠くで、USJが揺れた。
爆音。
悲鳴。
戦闘音。
その中で。
出久だけが、まるで深海へ沈められたみたいに呼吸出来なかった。
「……止めれば」
やっとの思いで、声を出す。
「止めれば……皆は助けるんですか」
「勿論」
AFOは即答した。
「私は約束を大切にする性分でね」
信用出来ない。
なのに。
拒否出来ない。
出久は、震える手でトランクを見る。
黒いコスチューム。
匿名。
暴力。
悪。
まるで。
“ヒーロー”ではなく。
別の何かになるための衣装みたいだった。
「……っ」
喉が焼ける。
吐き気がする。
それでも。
ゆっくりと。
出久の手が、トランクへ伸びた。
──
「急げ……!」
飯田天哉は、全速力で通路を駆け抜けていた。
エンジン。
個性『エンジン』。
ふくらはぎの排気口から噴き出す爆音混じりの推進力が、彼の身体を弾丸みたいに前へ押し出していく。
風が頬を叩く。
視界が流れる。
だが、止まれない。
(先生達が戦っている!)
相澤。
13号。
そしてクラスメイト達。
USJ内部では、今もヴィランとの戦闘が続いている。
あの巨体の怪物。
大量の武装ヴィラン。
明らかに、ただの襲撃じゃない。
(僕が行かなければ!)
13号の声が、脳裏で反響する。
『君の足でみんなを助けるんです!』
「っ……!」
飯田は歯を食いしばる。
怖くない訳じゃない。
本当は、自分も戻りたい。
クラスメイトを置いて行く事への罪悪感もある。
だが。
だからこそ。
今、自分にしか出来ない事をやらなければならない。
出口は、もうすぐだった。
USJ外部へ繋がる大型ゲート。
あそこを抜ければ、雄英本校へ救援要請が出来る。
「はぁぁぁっ!!」
飯田は更に加速する。
爆音。
排気。
そして。
ドンッ!!
勢いのまま、出口扉を押し開いた。
「——!」
次の瞬間。
飯田の視界が、凍り付く。
目の前。
通路の真正面。
そこに、一人の人影が立っていた。
「……っ」
黒。
灰。
無骨な重装コスチューム。
骨みたいな突起。
全身を覆う装甲。
そして。
顔を完全に隠したフルフェイスマスク。
まるで、人間性そのものを捨てたみたいな姿だった。
ヴィラン。
飯田は、一瞬でそう判断した。
(待ち伏せ……!?)
自分を止めるために来た。
考えるより早く、身体が動く。
「どけぇぇぇぇっ!!」
飯田の脚部エンジンが、爆発的な推進力を噴き出す。
一直線。
超高速。
そのまま跳び上がり、回転を加えた飛び蹴りを放つ。
鍛え上げられた飯田の得意技。
普通の相手なら、回避すら不可能な速度だった。
だが。
「——」
黒いヴィランは、動じなかった。
むしろ。
最初から、それを知っていたみたいだった。
飯田の蹴りが届く寸前。
ヴィランの身体が、最小限だけ前へ滑り込む。
「なっ——!?」
懐。
完全に内側へ入られた。
飯田の蹴りは、最も威力を発揮する間合いを失う。
その瞬間。
ヴィランの腕が、飯田の脚を抱え込んだ。
「っ!?」
低い姿勢。
重心操作。
そして。
ゴンッ!!
「がぁっ!?」
飯田の身体が、凄まじい勢いで地面へ叩き付けられた。
受け身を取る暇すらない。
肺から空気が抜ける。
視界が揺れる。
「ぐっ……!」
飯田は即座に転がり、距離を取ろうとする。
だが。
(今のは……!)
ただの力任せじゃない。
飯田の突進速度。
蹴りの軌道。
重心移動。
それを完全に読んだ上で、最適なタイミングで潜り込まれた。
しかも。
妙に“慣れている”。
まるで。
飯田の戦い方を知っているみたいに。
「貴様……!」
飯田が立ち上がる。
エンジンが唸る。
「何者だ!!」
黒いヴィランは、答えない。
ただ。
フルフェイスマスクの奥。
暗いバイザーの向こうから、じっと飯田を見ていた。