間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第19話 ゲームオーバー

 黒いヴィランは、答えない。

 

 ただ。

 

 フルフェイスマスクの奥。

 

 暗いバイザー越しに、じっと飯田天哉を見据えていた。

 

「……」

 

 飯田は素早く姿勢を落とす。

 

 脚部エンジンが低く唸り、熱を帯びる。

 

 今の一瞬で理解した。

 

 この相手は危険だ。

 

 単純なパワータイプではない。

 

 こちらの速度と軌道を見切っている。

 

(だが……!)

 

 飯田の視線が、道路の先、本校舎へ向く。

 

 あと少し。

 

 ここで立ち止まって戦う意味はない。

 

 自分の役目は、突破して救援を呼ぶ事だ。

 

「どけ!!」

 

 爆音。

 

 次の瞬間、飯田の身体が弾丸みたいに加速した。

 

 一直線ではない。

 

 今度は大きく横へ回り込む。

 

 相手を翻弄し、そのまま脇を抜ける高速機動。

 

(戦う必要はない!!)

 

 飯田の身体が、黒いヴィランの横を通過する——

 

 その瞬間。

 

 ドンッ!! 

 

「っ!?」

 

 黒いヴィランの身体が、爆発的に踏み込んだ。

 

 速い。

 

 エンジンではない。

 

 だが、人間離れした加速だった。

 

 装甲の隙間。

 

 肩。

 

 脚部。

 

 腰。

 

 内部で何かが弾けるみたいに隆起している。

 

 骨格と筋肉を、無理やり圧縮し、解放しているみたいな動き。

 

(個性による身体強化……!?)

 

 飯田が目を見開く。

 

 ヴィランは、こちらの進行方向へ最短距離で滑り込んでくる。

 

 しかも。

 

 こちらの動きを知っているみたいに、絶妙なタイミングで。

 

「ちっ——!」

 

 飯田は更に加速しようとする。

 

 だが、その瞬間。

 

 ヴィランの腕が、飯田の脚部へ伸びた。

 

 狙いはエンジン。

 

「邪魔をするなぁっ!!」

 

 飯田が蹴りを放つ。

 

 だが。

 

 黒いヴィランは、まるで予測していたみたいに一歩深く踏み込んだ。

 

 懐。

 

 飯田の脚が最も威力を発揮しづらい位置。

 

「なっ——!?」

 

 直後。

 

 ゴンッ!! 

 

 強烈な肩当て。

 

 ヴィランの全身が、まるでバネみたいに弾けた。

 

 筋骨発条化。

 

 圧縮した筋肉と骨格を瞬間解放し、爆発的な推進力へ変換している。

 

「がっ!?」

 

 飯田の体勢が崩れる。

 

 そこへ。

 

 ヴィランの腕が、飯田の脚を抱え込む。

 

 柔道じみた低姿勢。

 

 重心崩し。

 

 そして。

 

 ドォンッ!! 

 

「ぐぁぁっ!!」

 

 飯田の身体が、凄まじい勢いで床へ叩き付けられた。

 

 肺から空気が抜ける。

 

 視界が揺れる。

 

 だが、飯田は即座に転がり、立ち上がろうとした。

 

「まだ——!」

 

 エンジンが唸る。

 

 再加速。

 

 その瞬間。

 

 黒いヴィランが、更に一歩踏み込んだ。

 

 バギッ!! 

 

 装甲内部。

 

 脚部で何かがせり上がる。

 

 だが、外へは出ない。

 

 骨は射出されない。

 

 代わりに。

 

 内部で押し出された骨格が、無理やり筋出力を底上げしていた。

 

 次の瞬間。

 

 ヴィランの身体が、再び異常加速する。

 

「っ!!」

 

 飯田が反応するより早く。

 

 ヴィランの腕が、飯田の胴へ巻き付いた。

 

 そして。

 

 ドンッ!! 

 

 二人まとめて壁へ激突する。

 

「ぐっ……!!」

 

 飯田の身体へ衝撃が走る。

 

 壁へ叩き付けられた直後、ヴィランの膝が飯田の脚部エンジンを押さえ込んだ。

 

 加速出来ない。

 

 体勢も悪い。

 

「離せ!!」

 

 飯田が肘打ちを放つ。

 

 だが。

 

 ヴィランは、一切喋らないまま、それを腕で受け流した。

 

 動きが妙に洗練されている。

 

 荒々しいのに、合理的だった。

 

 まるで。

 

 こちらの癖を知っているみたいに

 

「貴様……!」

 

 飯田が睨み付ける。

 

「何故そこまでして僕を止める!!」

 

「——」

 

 黒いマスクは、答えない。

 

 ただ。

 

 装甲の奥。

 

 緑谷出久は、歯を食い縛っていた。

 

 槍骨は使えない。

 

 使えば、一瞬で正体が露見する。

 

 だから今は、骨を外へ出さず、内部補助と推進力強化だけに限定している。

 

 だが。

 

 それでも。

 

 飯田は鋭い。

 

 あと少しでも戦えば、動きの癖から気付かれるかもしれない。

 

(早く……)

 

 出久の喉が、焼ける。

 

(早く諦めてくれ……!)

 

 だが。

 

 飯田天哉は、そんな程度で止まる男ではなかった。

 

「っ……!」

 

 飯田の脚部エンジンが、異様な高音を上げ始める。

 

 拘束されたまま。

 

 壁へ押さえ付けられたまま。

 

 それでも飯田の視線は死んでいなかった。

 

「ならば……!」

 

 ガキンッ!! 

 

 飯田が、自ら脚部装甲へ手を掛ける。

 

 強制冷却。

 

 排気。

 

 そして。

 

 エンジン内部の回転数が、一気に跳ね上がった。

 

「——っ!?」

 

 出久の五感強化が、危険信号を鳴らす。

 

 次の瞬間。

 

「トルクオーバー——」

 

 爆音。

 

 飯田のエンジンが、限界を超えて唸りを上げる。

 

「レシプロバースト!!」

 

 ドォォォォンッ!!!! 

 

「がっ——!?」

 

 爆発的加速。

 

 飯田の身体が、無理やり拘束を引き千切る。

 

 凄まじいトルク。

 

 出久の腕を振り払い、そのまま肩から体当たりを叩き込んだ。

 

 衝撃。

 

 出久の身体が、通路壁へ吹き飛ばされる。

 

 ドガァンッ!! 

 

 コンクリートへ亀裂。

 

 黒い装甲が軋む。

 

「っ……!」

 

 出久が壁へ叩き付けられる間にも、飯田は着地していた。

 

 だが。

 

 脚部エンジンからは、白煙が噴き出している。

 

 レシプロバースト。

 

 爆発的加速と引き換えに、一定時間エンジン機能を停止させる切り札。

 

 つまり。

 

 今の飯田は、しばらく加速出来ない。

 

 それでも。

 

 飯田は、一歩も引かなかった。

 

「はぁっ……! はぁっ……!」

 

 荒い呼吸。

 

 汗。

 

 それでも、その目だけは真っ直ぐだった。

 

「退け!!」

 

 飯田が叫ぶ。

 

「先生達が戦っているんだ!!」

 

「……」

 

「クラスメイト達が、助けを待っている!!」

 

 飯田は、自分の脚を見ない。

 

 エンジン停止を恐れない。

 

 ただ、前だけを見る。

 

「僕は雄英高校ヒーロー科1年A組、学級委員長——飯田天哉だ!!」

 

 堂々と。

 

 誇るように。

 

「必ず皆を助ける!!」

 

「——」

 

 その瞬間。

 

 出久の中で、何かが歪んだ。

 

 ズルい。

 

 と。

 

 そう思った。

 

(ズルい……)

 

 何で。

 

 何でお前は、そんな風に立てる。

 

 何も間違っていない顔で。

 

 何も汚れていないみたいに。

 

 真っ直ぐ。

 

 正しく。

 

 ヒーローみたいに。

 

(僕は……!)

 

 母親を脅されている。

 

 梅雨も、峰田も人質にされている。

 

 逆らえば終わる。

 

 誰かを守るために、誰かを裏切らなければいけない。

 

 なのに。

 

 目の前の飯田天哉は、“正しい側”のままそこにいる。

 

 その事実が。

 

 胸を掻き毟りたくなるほど、眩しかった。

 

 そして。

 

 だからこそ。

 

 壊したくなった。

 

「……っ」

 

 黒いマスクの奥で、出久の歯が軋む。

 

 嫉妬。

 

 苛立ち。

 

 劣等感。

 

 そして。

 

 一瞬だけ浮かぶ、黒い衝動。

 

(黙れ)

 

 その真っ直ぐな目が。

 

 その高潔な言葉が。

 

 今の出久には、あまりにも残酷だった。

 

「……っ」

 

 出久は、ゆっくりと俯く。

 

 呼吸が熱い。

 

 胸の奥で、どろどろした何かが煮えていた。

 

 分かっている。

 

 これは理不尽だ。

 

 身勝手だ。

 

 飯田は悪くない。

 

 むしろ正しい。

 

 正しく、真っ直ぐで、誰かを助けようとしている。

 

 そんな事は、分かっている。

 

 なのに。

 

(……ズルい)

 

 その感情だけが、消えなかった。

 

 自分だって、本当はそうしたかった。

 

 誰かを助けたかった。

 

 胸を張って、ヒーローだと言いたかった。

 

 なのに今の自分は。

 

 黒い装甲を纏い。

 

 顔を隠し。

 

 クラスメイトを殴り倒している。

 

 それなのに。

 

 飯田は、“飯田天哉”のまま立っている。

 

 委員長で。

 

 ヒーロー科で。

 

 皆を助ける側のまま。

 

(僕ばっかり)

 

 喉の奥で、黒い感情が泡立つ。

 

(何で僕ばっかり……)

 

 その瞬間。

 

 出久の中で、何かが切れた。

 

 バキッ。

 

 装甲内部で、骨が軋む。

 

 黒いヴィランが、ゆっくり立ち上がった。

 

「……!」

 

 飯田の肩が、びくりと揺れる。

 

 空気が変わった。

 

 さっきまでの相手は、“任務として自分を止めている”感じだった。

 

 だが今、目の前にいる黒いヴィランは違う。

 

 もっと危うい。

 

 何か一線を踏み越えかけている。

 

 そんな気配だった。

 

「貴様……」

 

 飯田が、思わず半歩下がる。

 

 エンジンはまだ使えない。

 

 脚が重い。

 

 だが、それ以上に。

 

 本能が警鐘を鳴らしていた。

 

 目の前の相手は、今、本気で危険だと。

 

 一方で。

 

 出久の頭は、妙に冷えていた。

 

(いっそ)

 

 そんな考えが浮かぶ。

 

(もう全部、滅茶苦茶にしてやろうかな)

 

 クラスメイトも、雄英も、ヒーローも。

 自分だけ泥の中へ沈められているなら、いっそ全部ぶち壊してやりたい。

 

 そんな黒い衝動が、胸の奥で膨れ上がる。

 

 最低だ。

 八つ当たりだと分かっている。

 それでも、止まらない。

 

 ギギギッ——

 

 黒い装甲の隙間で、筋肉と骨格が膨れ上がる。

 

 筋骨発条化。

 

 圧縮。

 

 加速準備。

 

 ドンッ!! 

 

 床が砕けた。

 

「っ!!」

 

 飯田の視界から、黒いヴィランが消える。

 

 いや。

 

 速過ぎた。

 

 筋骨発条化。

 

 圧縮された筋肉と骨格が、一気に解放される。

 

 爆発的推進。

 

 人間の踏み込みじゃない。

 

 砲弾だった。

 

「がっ——!?」

 

 次の瞬間。

 

 黒い拳が、飯田の腹へめり込んでいた。

 

 衝撃。

 

 肺が潰れる。

 

 呼吸が消える。

 

 飯田の身体が浮き上がり、そのまま壁へ叩き付けられた。

 

 ドゴォッ!! 

 

「ぐっ……!」

 

 コンクリートへ亀裂が走る。

 

 だが。

 

 飯田は倒れない。

 

 膝を震わせながらも、無理やり身体を起こす。

 

「まだ……だ……!!」

 

 委員長として。

 

 皆を助けるために。

 

 ここで止まる訳にはいかない。

 

 だが。

 

 脚部エンジンは沈黙していた。

 

 白煙だけが、虚しく噴き出している。

 

 加速出来ない。

 

 いつもの速度がない。

 

 その瞬間。

 

 黒いヴィランが、再び踏み込んだ。

 

「っ!!」

 

 速い。

 

 飯田は反射的に腕を上げる。

 

 防御。

 

 だが。

 

 ドガッ!! 

 

「がぁっ!!」

 

 拳。

 

 肘。

 

 肩。

 

 装甲ごと身体を叩き潰すみたいな連打。

 

 一撃ごとに、筋骨発条化による爆発的推進が乗っている。

 

 まるで。

 

 人型の杭打ち機だった。

 

 飯田の身体が、何度も壁へ叩き付けられる。

 

 ドンッ!! 

 

 バキッ!! 

 

 ゴッ!! 

 

「ぐっ……!」

 

 飯田は歯を食い縛る。

 

 迎え撃つ。

 

 脚は死んでいても、腕は動く。

 

 拳を放つ。

 

 肘を打つ。

 

 だが。

 

 黒いヴィランは、それすら見切っていた。

 

 最小限の動きで逸らし。

 

 潜り込み。

 

 更に殴る。

 

 速い。

 

 重い。

 

 そして。

 

 妙に“知っている”。

 

 飯田の動きを。

 

 癖を。

 

 反応を。

 

(何故だ……!!)

 

 飯田の背筋へ寒気が走る。

 

 その瞬間。

 

 ゴッ!! 

 

「ぁ——!!」

 

 拳が、顔面へめり込んだ。

 

 視界が白く弾ける。

 

 身体が揺れる。

 

 だが。

 

 それでも飯田は倒れなかった。

 

「……まだ……!」

 

 ふらつきながら立つ。

 

 血が口端から垂れる。

 

 それでも。

 

 飯田の目は、まだ死んでいない。

 

「僕は……!」

 

 委員長だ。

 

 皆を助ける。

 

 その言葉を、もう一度言おうとした瞬間。

 

 ドォンッ!! 

 

「がはっ——!?」

 

 今度は膝。

 

 爆発的加速を乗せた蹴りが、飯田の胴へ突き刺さる。

 

 骨が軋む音。

 

 胃液が込み上げる。

 

 飯田の身体が折れ曲がり、そのまま地面へ崩れ落ちた。

 

 膝をつく。

 

「っ……は……」

 

 呼吸が出来ない。

 

 腕も震える。

 

 立てない。

 

 視界が滲む。

 

 その前へ。

 

 黒いヴィランが、ゆっくり立っていた。

 

「……」

 

 無言。

 

 ただ見下ろしている。

 

 その姿は。

 

 まるで。

 

 ヒーローじゃなく。

 

 誰かを壊すためだけに存在する怪物みたいだった。

 

 一方で。

 

 マスクの奥。

 

 出久の胸の奥へ、じわりと黒い快感が滲む。

 

(……あ)

 

 満たされた。

 

 ほんの少しだけ。

 

 飯田天哉を。

 

 “正しい側”に立っている人間を。

 

 無理やり地面へ引き摺り下ろした。

 

 その事実が。

 

 醜い欲求を、微かに満たしてしまった。

 

 そして。

 

 同時に。

 

「……っ」

 

 猛烈な吐き気が、込み上げた。

 

(何やってるんだ、僕……!)

 

 目の前で膝をつく飯田。

 

 傷だらけのクラスメイト。

 

 それを。

 

 自分が殴った。

 

 自分の意思で。

 

 自分の嫉妬で。

 

 ガリッ。

 

 奥歯が軋む。

 

 止まれない。

 

 止まりたい。

 

 でも。

 

 AFOの言葉が、頭から離れない。

 

 母親。

 

 梅雨。

 

 峰田。

 

 守るため。

 

 仕方なかった。

 

 なのに。

 

(違う)

 

 胸の奥で、別の声がする。

 

(今のは、“仕方なく”じゃない)

 

 飯田を殴っていた時。

 

 一瞬だけ。

 

 気持ちよかった。

 

 その事実が。

 

 出久自身を、何より深く傷付けていた。

 

 飯田天哉は、膝をついたまま荒い呼吸を繰り返していた。

 

「っ……は……っ……」

 

 立とうとしている。

 

 まだ、諦めていない。

 

 その姿が、出久には妙に痛々しかった。

 

 黒い装甲の奥。

 

 出久は、ゆっくり拳を握り直す。

 

(拘束して……終わらせないと)

 

 殺す気はない。

 

 そんなつもりはない。

 

 ただ、動けなくして。

 

 時間を稼いで。

 

 それで——

 

 その瞬間だった。

 

『——緑谷出久君』

 

「っ!?」

 

 耳元で、突然声が響いた。

 

 ヘルメット内部。

 

 通信装置。

 

 低く掠れた、聞き慣れた声。

 

 AFO。

 

 出久の全身が強張る。

 

『よくやった』

 

 機械混じりのノイズ。

 

 だが、その声音には僅かな緊張が混じっていた。

 

『もう十分だ。撤退したまえ』

 

「……え?」

 

 出久が思わず声を漏らす。

 

 AFOは続けた。

 

『そこにいては危険だ』

 

 短い。

 

 焦っている。

 

 その事実に、出久は違和感を覚えた。

 

 AFOは、もっと余裕のある人間だった。

 

 常に穏やかで。

 

 底が見えなくて。

 

 何が起きても、全て予定通りだと言わんばかりの男だった。

 

 なのに今の声は違う。

 

 急いでいる。

 

「……危険?」

 

 出久の喉が乾く。

 

『今すぐ離れなさい』

 

 通信越しの声が、低くなる。

 

『早く』

 

「……」

 

 その時。

 

 飯田が、はっと顔を上げた。

 

「……!」

 

 砕けた仮面から除く、ボロボロの顔。

 

 腫れた頬。

 

 血の滲む口元。

 

 それでも。

 

 その目だけが、一気に見開かれる。

 

 まるで。

 

 絶望の中で、希望を見付けたみたいに。

 

「……来た」

 

 掠れた声。

 

 飯田の目が、道路の先を見つめていた。

 

 出久も反射的に振り向く。

 

 USJ本校舎方向。

 

 遠く。

 

 崩れた通路の向こう側。

 

 そこに。

 

 人影が、あった。

 

「——」

 

 ゆっくり。

 

 一歩ずつ。

 

 こちらへ歩いてきている。

 

 派手な動きはない。

 

 走ってもいない。

 

 だが。

 

 その姿が見えた瞬間。

 

 空気が変わった。

 

 重かった圧迫感が、別の何かへ塗り潰される。

 

 まるで。

 

 その人影一つで、“場の支配権”そのものが変わっていくみたいだった。

 

『撤退しろ、緑谷出久』

 

 AFOの声が、今度は明確に焦りを滲ませる。

 

『今すぐだ』

 

 だが。

 

 出久は動けなかった。

 

 視線が、吸い寄せられる。

 

 歩いてくる人影。

 

 逆光の中。

 

 遠目からでも、ハッキリとわかる特徴的な髪型。

 

 そのシルエットを見た瞬間。

 

 飯田天哉が、震える声で叫んだ。

 

「オールマイト……!!」

 

 その名前を聞いた瞬間。

 

 出久の心臓が、凍り付いた。

 

「——っ」

 

 オールマイト。

 

 平和の象徴。

 

 自分が憧れ続けた、最高のヒーロー。

 

 その人影が、ゆっくりこちらへ歩いてくる。

 

『逃げろ』

 

 通信越しのAFOの声が、鋭くなる。

 

『今すぐだ』

 

「っ……!」

 

 その瞬間。

 

 出久の身体が、反射的に動いた。

 

 ドンッ!! 

 

 筋骨発条化。

 

 圧縮解放。

 

 黒い装甲のヴィランが、一気に踵を返す。

 

「待て……!!」

 

 飯田の叫び。

 

 だが、もう止まれない。

 

 出久は、そのままUSJ内部へ飛び込んだ。

 

 通路。

 

 瓦礫。

 

 崩れた壁。

 

 戦闘音。

 

 全部を置き去りにして走る。

 

 逃げる。

 

 オールマイトから。

 

 憧れから。

 

 ヒーローから。

 

(嫌だ)

 

 呼吸が乱れる。

 

 胸が痛い。

 

(嫌だ嫌だ嫌だ——!!)

 

 何で。

 

 何でこんな事になった。

 

 クラスメイトを殴った。

 

 飯田を。

 

 委員長を。

 

 皆を助けようとしていた奴を。

 

 しかも。

 

 正体を隠して。

 

 ヴィランみたいな格好をして。

 

 闇の中へ逃げ込んでいる。

 

「っ……ぁ……!」

 

 叫びそうになる。

 

 喉の奥が焼ける。

 

 だが。

 

 声を出せない。

 

 出した瞬間、本当に全部壊れてしまいそうだった。

 

 通路を曲がる。

 

 更に奥へ。

 

 人気のない崩落エリア。

 

 そこで、ようやく出久は壁へ身体を叩き付けるように止まった。

 

「はっ……はっ……!」

 

 呼吸。

 

 荒い。

 

 震える手で、ヘルメットへ触れる。

 

 ガチッ。

 

 ロック解除。

 

 フルフェイスマスクが外れる。

 

「っ……!」

 

 冷たい空気が顔へ触れた瞬間。

 

 猛烈な吐き気が込み上げた。

 

 出久は壁へ手を付き、そのままえずく。

 

「ぅ……ぉぇ……!」

 

 胃液。

 

 涙。

 

 呼吸。

 

 全部ぐちゃぐちゃだった。

 

(僕は……)

 

 何をした。

 

 何になった。

 

 オールマイトから、逃げた。

 

 自分が一番憧れていた人から。

 

 顔を隠して。

 

 名前を捨てて。

 

 ヴィランみたいに。

 

「……っ」

 

 震える手で、装甲を剥がしていく。

 

 肩部。

 

 腕部。

 

 脚部。

 

 骨みたいな突起を持つ黒い装甲が、一つずつ床へ落ちる。

 

 ガシャン。

 

 ガラン。

 

 無骨な音。

 

 まるで、自分の中の何かが剥がれていくみたいだった。

 

 だが。

 

 最後に残った胸部装甲を外した瞬間。

 

 出久は逆に理解してしまった。

 

 違う。

 

 これは“脱いだ”んじゃない。

 

 隠しただけだ。

 

 自分の中に生まれた黒い感情を。

 

 嫉妬を。

 

 暴力を。

 

 全部。

 

 見えない場所へ押し込めただけだ。

 

「……ぁ」

 

 その時。

 

 足元の影が、ぬるりと揺れた。

 

 黒い泥。

 

 転移ゲート。

 

 AFOの個性。

 

『早く』

 

 通信越しの声。

 

『置いていきたまえ』

 

「……っ」

 

 出久は、震える手で装甲を掴む。

 

 黒いヴィランスーツ。

 

 匿名。

 

 暴力。

 

 悪。

 

 自分が、ほんの少しだけ“気持ちいい”と思ってしまった姿。

 

「……っ!!」

 

 出久は、叫ぶ代わりに。

 

 そのスーツを、黒い泥の中へ叩き込んだ。

 

 ぬるり、と。

 

 泥が装甲を飲み込む。

 

 まるで。

 

 最初から存在しなかったみたいに。

 

 闇の中へ沈めていく。

 

 そして。

 

 その場へ残ったのは。

 

 荒い呼吸を繰り返す、緑谷出久だけだった。

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