黒いヴィランは、答えない。ただ、フルフェイスマスクの奥、暗いバイザー越しに、じっと飯田天哉を見据えていた。
「……」
飯田は素早く姿勢を落とす。脚部エンジンが低く唸り、熱を帯びる。
今の一瞬で理解した。この相手は危険だ。単純なパワータイプではない。こちらの速度と軌道を見切っている。
だが、それでも飯田の視線は道路の先、本校舎へ向いていた。
あと少し。
ここで立ち止まって戦う意味はない。自分の役目は、突破して救援を呼ぶことだ。
「どけ!!」
爆音。次の瞬間、飯田の身体が弾丸みたいに加速した。
一直線ではない。今度は大きく横へ回り込む。相手を翻弄し、そのまま脇を抜ける高速機動。
戦う必要はない。
飯田の身体が、黒いヴィランの横を通過する——その瞬間だった。
ドンッ!!
「っ!?」
黒いヴィランの身体が、爆発的に踏み込んだ。
速い。エンジンではない。だが、人間離れした加速だった。装甲の隙間、肩、脚部、腰。内部で何かが弾けるみたいに隆起している。骨格と筋肉を無理やり圧縮し、解放しているような動き。
「個性による身体強化……!?」
飯田が目を見開く。ヴィランは、こちらの進行方向へ最短距離で滑り込んでくる。しかも、まるで飯田の動きを知っているみたいに、絶妙なタイミングで。
「ちっ——!」
飯田はさらに加速しようとする。だが、その瞬間、ヴィランの腕が飯田の脚部へ伸びた。狙いはエンジン。
「邪魔をするなぁっ!!」
飯田が蹴りを放つ。
だが、黒いヴィランは予測していたみたいに一歩深く踏み込んだ。
懐。
飯田の脚が最も威力を発揮しづらい位置。
「なっ——!?」
直後、ゴンッ!! と強烈な肩当てが入った。ヴィランの全身が、まるでバネみたいに弾ける。
筋骨発条化。
圧縮した筋肉と骨格を瞬間解放し、爆発的な推進力へ変換している。
「がっ!?」
飯田の体勢が崩れる。そこへ、ヴィランの腕が飯田の脚を抱え込んだ。柔道じみた低姿勢。重心崩し。そして。
ドォンッ!!
「ぐぁぁっ!!」
飯田の身体が、凄まじい勢いで床へ叩き付けられた。肺から空気が抜け、視界が揺れる。それでも飯田は即座に転がり、立ち上がろうとした。
「まだ——!」
エンジンが唸る。再加速。その瞬間、黒いヴィランが更に一歩踏み込んだ。
バギッ!!
装甲内部、脚部で何かがせり上がる。だが、外へは出ない。骨は射出されない。代わりに、内部で押し出された骨格が、無理やり筋出力を底上げしていた。
次の瞬間、ヴィランの身体が再び異常加速する。
「っ!!」
飯田が反応するより早く、ヴィランの腕が飯田の胴へ巻き付いた。そして、ドンッ!! と二人まとめて壁へ激突する。
「ぐっ……!!」
飯田の身体へ衝撃が走る。壁へ叩き付けられた直後、ヴィランの膝が飯田の脚部エンジンを押さえ込んだ。
加速出来ない。体勢も悪い。
「離せ!!」
飯田が肘打ちを放つ。だが、ヴィランは一切喋らないまま、それを腕で受け流した。動きが妙に洗練されている。荒々しいのに、合理的だった。
まるで、こちらの癖を知っているみたいに。
「貴様……! 何故そこまでして僕を止める!!」
「——」
黒いマスクは、答えない。ただ、その装甲の奥で、緑谷出久は歯を食い縛っていた。
槍骨は使えない。
使えば、一瞬で正体が露見する。だから今は、骨を外へ出さず、内部補助と推進力強化だけに限定している。だが、それでも飯田は鋭い。あと少しでも戦えば、動きの癖から気付かれるかもしれない。
早く。
出久の喉が焼ける。
早く諦めてくれ……!
だが、飯田天哉は、そんな程度で止まる男ではなかった。
「っ……!」
飯田の脚部エンジンが、異様な高音を上げ始める。拘束されたまま。壁へ押さえ付けられたまま。それでも、飯田の視線は死んでいなかった。
「ならば……!」
ガキンッ!!
飯田が、自ら脚部装甲へ手を掛ける。強制冷却。排気。そして、エンジン内部の回転数が一気に跳ね上がった。
「——っ!?」
出久の五感強化が、危険信号を鳴らす。
次の瞬間。
「トルクオーバー——」
爆音。飯田のエンジンが、限界を超えて唸りを上げる。
「レシプロバースト!!」
ドォォォォンッ!!!!
「がっ——!?」
爆発的加速。飯田の身体が、無理やり拘束を引き千切る。凄まじいトルクが出久の腕を振り払い、そのまま肩から体当たりを叩き込んだ。
衝撃。
出久の身体が、通路壁へ吹き飛ばされる。
ドガァンッ!!
コンクリートへ亀裂が走り、黒い装甲が軋む。
「っ……!」
出久が壁へ叩き付けられる間にも、飯田は着地していた。だが、脚部エンジンからは白煙が噴き出している。
レシプロバースト。
爆発的加速と引き換えに、一定時間エンジン機能を停止させる切り札。つまり、今の飯田はしばらく加速出来ない。
それでも、飯田は一歩も引かなかった。
「はぁっ……! はぁっ……!」
荒い呼吸。汗。それでも、その目だけは真っ直ぐだった。
「退け!!」
飯田が叫ぶ。
「先生たちが戦っているんだ!! クラスメイトたちが、助けを待っている!!」
飯田は自分の脚を見ない。エンジン停止を恐れない。ただ、前だけを見る。
「僕は雄英高校ヒーロー科一年A組、学級委員長——飯田天哉だ!!」
堂々と。誇るように。
「必ず皆を助ける!!」
「——」
その瞬間、出久の中で何かが歪んだ。
ズルい。
そう思った。
何で。何でお前は、そんな風に立てる。何も間違っていない顔で。何も汚れていないみたいに。真っ直ぐ、正しく、ヒーローみたいに。
僕は……!
母親を脅されている。梅雨も、峰田も人質にされている。逆らえば終わる。誰かを守るために、誰かを裏切らなければいけない。
なのに、目の前の飯田天哉は、“正しい側”のままそこにいる。
その事実が、胸を掻き毟りたくなるほど眩しかった。そして、だからこそ壊したくなった。
「……っ」
黒いマスクの奥で、出久の歯が軋む。
嫉妬。
苛立ち。
劣等感。
そして、一瞬だけ浮かぶ黒い衝動。
黙れ。
その真っ直ぐな目が。その高潔な言葉が。今の出久には、あまりにも残酷だった。
「……っ」
出久は、ゆっくりと俯く。
呼吸が熱い。胸の奥で、どろどろした何かが煮えていた。
分かっている。これは理不尽だ。身勝手だ。飯田は悪くない。むしろ正しい。正しく、真っ直ぐで、誰かを助けようとしている。
そんなことは、分かっている。
なのに。
ズルい。
その感情だけが、消えなかった。
自分だって、本当はそうしたかった。誰かを助けたかった。胸を張って、ヒーローだと言いたかった。
なのに今の自分は、黒い装甲を纏い、顔を隠し、クラスメイトを殴り倒している。
それなのに、飯田は“飯田天哉”のまま立っている。委員長で、ヒーロー科で、皆を助ける側のまま。
僕ばっかり。
喉の奥で、黒い感情が泡立つ。
何で僕ばっかり……!
その瞬間、出久の中で何かが切れた。
バキッ。
装甲内部で、骨が軋む。
黒いヴィランが、ゆっくり立ち上がった。
「……!」
飯田の肩が、びくりと揺れる。空気が変わった。
さっきまでの相手は、“任務として自分を止めている”感じだった。だが今、目の前にいる黒いヴィランは違う。もっと危うい。何か一線を踏み越えかけている。そんな気配だった。
「貴様……」
飯田が、思わず半歩下がる。エンジンはまだ使えない。脚が重い。だが、それ以上に本能が警鐘を鳴らしていた。
目の前の相手は、今、本気で危険だと。
一方で、出久の頭は妙に冷えていた。
(いっそ)
そんな考えが浮かぶ。
(もう全部、滅茶苦茶にしてやろうかな)
クラスメイトも、雄英も、ヒーローも。自分だけ泥の中へ沈められているなら、いっそ全部ぶち壊してやりたい。
そんな黒い衝動が、胸の奥で膨れ上がる。
最低だ。八つ当たりだと分かっている。それでも、止まらない。
ギギギッ——
黒い装甲の隙間で、筋肉と骨格が膨れ上がる。
筋骨発条化。
圧縮。
加速準備。
ドンッ!!
床が砕けた。
「っ!!」
飯田の視界から、黒いヴィランが消える。
筋骨発条化。圧縮された筋肉と骨格が、一気に解放される。爆発的推進。人間の踏み込みじゃない。砲弾だった。
「がっ——!?」
次の瞬間、黒い拳が飯田の腹へめり込んでいた。衝撃。肺が潰れる。呼吸が消える。飯田の身体が浮き上がり、そのまま壁へ叩き付けられた。
ドゴォッ!!
「ぐっ……!」
コンクリートへ亀裂が走る。だが、飯田は倒れない。膝を震わせながらも、無理やり身体を起こす。
「まだ……だ……!!」
委員長として。皆を助けるために。ここで止まる訳にはいかない。
だが、脚部エンジンは沈黙していた。白煙だけが、虚しく噴き出している。加速出来ない。いつもの速度がない。
その瞬間、黒いヴィランが再び踏み込んだ。
「っ!!」
速い。
飯田は反射的に腕を上げる。防御。だが。
ドガッ!!
「がぁっ!!」
拳、肘、肩。装甲ごと身体を叩き潰すみたいな連打。一撃ごとに、筋骨発条化による爆発的推進が乗っている。
まるで、人型の杭打ち機だった。
飯田の身体が、何度も壁へ叩き付けられる。
ドンッ!!
バキッ!!
ゴッ!!
「ぐっ……!」
飯田は歯を食い縛る。迎え撃つ。脚は死んでいても、腕は動く。拳を放つ。肘を打つ。
だが、黒いヴィランはそれすら見切っていた。最小限の動きで逸らし、潜り込み、更に殴る。
速い。
重い。
そして、妙に知っている。
飯田の動きを。癖を。反応を。
何故だ……!!
飯田の背筋へ寒気が走る。その瞬間。
ゴッ!!
「ぁ——!!」
拳が、顔面へめり込んだ。視界が白く弾け、身体が揺れる。
それでも飯田は倒れなかった。
「……まだ……!」
ふらつきながら立つ。血が口端から垂れる。それでも、飯田の目はまだ死んでいない。
「僕は……!」
委員長だ。
皆を助ける。
その言葉を、もう一度言おうとした瞬間。
ドォンッ!!
「がはっ——!?」
今度は膝。爆発的加速を乗せた蹴りが、飯田の胴へ突き刺さる。骨が軋む音。胃液が込み上げる。飯田の身体が折れ曲がり、そのまま地面へ崩れ落ちた。
膝をつく。
「っ……は……」
呼吸が出来ない。腕も震える。立てない。視界が滲む。
その前へ、黒いヴィランがゆっくり立っていた。
「……」
無言。ただ見下ろしている。
その姿は、まるでヒーローじゃなく、誰かを壊すためだけに存在する怪物みたいだった。
一方で、マスクの奥。出久の胸の奥へ、じわりと黒い快感が滲む。
(あ……)
満たされた。
ほんの少しだけ。
飯田天哉を。“正しい側”に立っている人間を。無理やり地面へ引き摺り下ろした。
その事実が、醜い欲求を微かに満たしてしまった。
そして同時に。
「……っ」
猛烈な吐き気が、込み上げた。
(何やってるんだ、僕……)
目の前で膝をつく飯田。傷だらけのクラスメイト。それを、自分が殴った。
自分の意思で。
自分の嫉妬で。
ガリッ。
奥歯が軋む。
止まれない。止まりたい。でも、AFOの言葉が頭から離れない。
母親。梅雨。峰田。
守るため。仕方なかった。
なのに。
違う。
胸の奥で、別の声がする。
今のは、“仕方なく”じゃない。
飯田を殴っていた時、一瞬だけ気持ちよかった。
その事実が、出久自身を何より深く傷付けていた。
飯田天哉は、膝をついたまま荒い呼吸を繰り返していた。
「っ……は……っ……」
立とうとしている。まだ、諦めていない。
その姿が、出久には妙に痛々しかった。
黒い装甲の奥で、出久はゆっくり拳を握り直す。
拘束して……終わらせないと。
殺す気はない。そんなつもりはない。ただ、動けなくして、時間を稼いで。それで——
その瞬間だった。
『——緑谷出久君』
「っ!?」
耳元で、突然声が響いた。ヘルメット内部の通信装置。低く掠れた、聞き慣れた声。
AFO。
出久の全身が強張る。
『よくやった』
機械混じりのノイズ。だが、その声音には僅かな緊張が混じっていた。
『もう十分だ。撤退したまえ』
「……え?」
出久が思わず声を漏らす。
AFOは続けた。
『そこにいては危険だ』
短い。
焦っている。
その事実に、出久は違和感を覚えた。AFOは、もっと余裕のある人間だった。常に穏やかで、底が見えなくて、何が起きても全て予定通りだと言わんばかりの男だった。
なのに、今の声は違う。
急いでいる。
「……危険?」
出久の喉が乾く。
『今すぐ離れなさい』
通信越しの声が、低くなる。
『早く』
「……」
その時、飯田が、はっと顔を上げた。
「……!」
砕けた仮面から覗く、ボロボロの顔。腫れた頬。血の滲む口元。それでも、その目だけが一気に見開かれる。まるで、絶望の中で希望を見付けたみたいに。
「……来た」
掠れた声。
飯田の目が、道路の先を見つめていた。出久も反射的に振り向く。
USJ本校舎方向。遠く。崩れた通路の向こう側。そこに、人影があった。
「——」
ゆっくり、一歩ずつ、こちらへ歩いてきている。
派手な動きはない。走ってもいない。だが、その姿が見えた瞬間、空気が変わった。
重かった圧迫感が、別の何かへ塗り潰される。まるで、その人影一つで、場の支配権そのものが変わっていくみたいだった。
『撤退しろ、緑谷出久』
AFOの声が、今度は明確に焦りを滲ませる。
『今すぐだ』
だが、出久は動けなかった。視線が吸い寄せられる。
歩いてくる人影。逆光の中、遠目からでもはっきり分かる特徴的な髪型。そのシルエットを見た瞬間、飯田天哉が震える声で叫んだ。
「オールマイト……!!」
その名前を聞いた瞬間、出久の心臓が凍り付いた。
「——っ」
オールマイト。
平和の象徴。
自分が憧れ続けた、最高のヒーロー。
その人影が、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
『逃げろ』
通信越しのAFOの声が、鋭くなる。
『今すぐだ』
「っ……!」
その瞬間、出久の身体が反射的に動いた。
ドンッ!!
筋骨発条化。圧縮解放。黒い装甲のヴィランが、一気に踵を返す。
「待て……!!」
飯田の叫び。だが、もう止まれない。
出久は、そのままUSJ内部へ飛び込んだ。通路。瓦礫。崩れた壁。戦闘音。全部を置き去りにして走る。
逃げる。
オールマイトから。
憧れから。
ヒーローから。
嫌だ。
呼吸が乱れる。胸が痛い。
嫌だ嫌だ嫌だ——!!
何で。
何でこんなことになった。
クラスメイトを殴った。飯田を。委員長を。皆を助けようとしていた奴を。
しかも、正体を隠して。ヴィランみたいな格好をして。闇の中へ逃げ込んでいる。
「っ……ぁ……!」
叫びそうになる。喉の奥が焼ける。だが、声を出せない。出した瞬間、本当に全部壊れてしまいそうだった。
通路を曲がる。更に奥へ。人気のない崩落エリア。そこで、ようやく出久は壁へ身体を叩き付けるように止まった。
「はっ……はっ……!」
呼吸が荒い。
震える手で、ヘルメットへ触れる。
ガチッ。
ロック解除。フルフェイスマスクが外れる。
「っ……!」
冷たい空気が顔へ触れた瞬間、猛烈な吐き気が込み上げた。出久は壁へ手を付き、そのままえずく。
「ぅ……ぉぇ……!」
胃液。涙。呼吸。全部ぐちゃぐちゃだった。
僕は……。
何をした。
何になった。
オールマイトから、逃げた。
自分が一番憧れていた人から。顔を隠して、名前を捨てて、ヴィランみたいに。
「……っ」
震える手で、装甲を剥がしていく。肩部。腕部。脚部。骨みたいな突起を持つ黒い装甲が、一つずつ床へ落ちる。
ガシャン。
ガラン。
無骨な音。まるで、自分の中の何かが剥がれていくみたいだった。
だが、最後に残った胸部装甲を外した瞬間、出久は逆に理解してしまった。
違う。
これは脱いだんじゃない。
隠しただけだ。
自分の中に生まれた黒い感情を。嫉妬を。暴力を。全部、見えない場所へ押し込めただけだ。
「……ぁ」
その時、足元の影がぬるりと揺れた。
黒い泥。
転移ゲート。
AFOの個性。
『早く』
通信越しの声。
『置いていきたまえ』
「……っ」
出久は、震える手で装甲を掴む。
黒いヴィランスーツ。
匿名。
暴力。
悪。
自分が、ほんの少しだけ気持ちいいと思ってしまった姿。
「……っ!!」
出久は、叫ぶ代わりに、そのスーツを黒い泥の中へ叩き込んだ。
ぬるり、と泥が装甲を飲み込む。まるで、最初から存在しなかったみたいに、闇の中へ沈めていく。
そして、その場へ残ったのは、荒い呼吸を繰り返す緑谷出久だけだった。