間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第2話 蠢く悪意

 翌日。

 

 出久は、早い時間に家を出た。

 迷いがなかったわけではない。むしろその逆で、歩くたびに「引き返す」という選択肢が頭をよぎる。それでも足は止まらなかった。行かない理由より、確かめたい理由のほうが、ほんの少しだけ上回っていたからだ。

 

 目的地は、蛇腔病院。

 

 大きな総合病院だ。白い外壁は手入れが行き届き、朝の光を受けて静かに光っている。出久にとってここは、幼い頃に個性診断を受けた場所でもある。

 

 ——あれ以来だ。

 

 門をくぐった瞬間、鼻の奥にかすかな消毒液の匂いが蘇る。記憶の底に沈んでいた光景が、輪郭を取り戻すように浮かび上がった。

 

 足を進める。

 

 受付ロビーは既に人で満ちていたが、騒がしさはない。整然としていて、どこか落ち着きすぎているほどだった。

 

 カウンターに近づく。

 

「すみません」

 

 声をかけると、受付の女性がすぐに顔を上げた。

 

「はい、どうされましたか?」

 

「えっと……緑谷出久です。あの、志賀先生に……」

 

 そこまで言ったところで、受付の女性の表情がわずかに変わる。確認のための一瞬の間のあと、すぐに柔らかい笑顔に戻った。

 

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

 

 迷いがない。

 

 名前を告げただけで、手続きも問診もなく、すんなりと案内される。

 

 ——お待ちしておりました。

 

 その言葉が、胸の奥で小さく引っかかった。

 

 だが、立ち止まる理由にはならない。

 

 出久は案内に従い、廊下を進んだ。

 

 一般外来とは明らかに違う区画に入る。人通りが減り、音が遠のく。白い壁と規則正しく並ぶ扉だけが続く静かな通路だった。

 

 やがて、一つの扉の前で足が止まる。

 

「こちらになります」

 

 プレートには、簡潔に記されている。

 

 院長室。

 

 軽くノックがされる。

 

「失礼します。お連れしました」

 

 中からすぐに返事があった。

 

「おお、どうぞどうぞ。入ってもらって構わんよ」

 

 明るい声。昨日、電話越しに聞いたそれと同じだ。

 

 扉が開く。

 

「では、こちらで」

 

 受付の女性が一礼し、静かに去っていく。

 

 出久は、一人でその場に立った。

 

 ほんの一瞬、呼吸を整える。

 

 そして、足を踏み入れた。

 

 院長室は、広いが過度な装飾はなかった。整然とした机と本棚、医療機器らしきものがいくつか置かれている。無機質に近い空間だが、不思議と圧迫感はない。

 

 その中央。

 

 椅子から立ち上がる人物がいた。

 

 白衣を着た、小柄な老人。丸い背中と、特徴的な眼鏡の奥に光る目。だが、その表情はにこやかで、人当たりの良さを強く感じさせる。

 

「やあやあ、よう来てくれたのう」

 

 両手を軽く広げるようにして、歓迎の仕草を見せる。

 

「緑谷出久くん、じゃな?」

 

 確認というよりは、既に知っている者の口調だった。

 

「わしが志賀丸太。この病院の院長をしとる」

 

 昨日、電話越しに聞いた名。

 

 それが、目の前の人物と結びつく。

 

 志賀は一歩近づき、柔らかく笑った。

 

「堅くならんでええ。今日はただ、少し話をするだけじゃ」

 

 声音は穏やかで、安心させるように丁寧だ。

 だが、その視線は、出久の奥まで測るように静かに向けられている。

 

 出久は、促されるまま椅子に腰を下ろした。

 

 目の前の老人は、変わらず柔らかく微笑んでいる。

 その表情は穏やかで、どこか親しみすら感じさせるはずなのに——視線を合わせるほど、胸の奥が落ち着かなくなる。

 

 言うべきことは、決まっている。

 

 ここに来た理由も。

 確かめたいことも。

 

 それでも、言葉はすぐには出てこなかった。

 

 喉が渇く。

 

 膝の上で握った手に、力がこもる。

 

 志賀は急かさない。

 ただ、待っている。

 

 その「待ち方」が、逆に逃げ場を奪う。

 

 やがて。

 

 出久は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……あの」

 

 声は、わずかに震えていた。

 

「昨日、お電話で……その、夢を叶える手段を、って……」

 

 一度、言葉が途切れる。

 

 逃げるなら、今だ。

 ここで曖昧にしてしまえば、それで終わる。

 

 それでも。

 

 出久は、視線を上げた。

 

「僕は……ヒーローに、なれますか」

 

 言い切った。

 

 それは、ずっと避けてきた問いだった。

 

「無個性でも……その……」

 

 続けようとして、息が詰まる。

 

「オールマイトみたいな、ヒーローに」

 

 静寂が落ちる。

 

 部屋の空気が、ほんの一瞬だけ止まったように感じられた。

 

 次の瞬間。

 

「——ははっ」

 

 小さな笑い。

 

 それが、すぐに膨らむ。

 

「はは、ははは……っ!」

 

 肩が揺れる。

 口元を押さえる。

 だが、抑えきれていない。

 

「はははははははっ!! ひっひっひひひひ」

 

 志賀丸太は、腹を抱えんばかりに笑い出した。

 

 椅子に腰を落とし、体を折り、まるで転げ回りそうな勢いで。

 

 その笑いは、明るい。

 あまりにも明るく、あまりにも遠慮がない。

 

 出久は、動けなかった。

 

 何が起きているのか、一瞬理解できない。

 

 ただ、その笑いだけが、耳に刺さる。

 

「いやいやいやいや……!」

 

 ようやく息を整えながら、志賀が顔を上げる。

 

 目には涙すら浮かんでいた。

 

「すまんのう、ひひひ……いやあすまんすまん」

 

 笑いの余韻を残したまま、しかし今度ははっきりと。

 

「無個性がヒーローになれるわけ、ないじゃろう緑谷出久君!」

 

 言葉は、軽い。

 

 だが、切り捨てるように鋭い。

 

「ましてや——」

 

 口元が歪む。

 

「オールマイトのように、とは!」

 

 完全な一蹴だった。

 

 否定ですらない。

 

 “検討の余地がない”という断定。

 

 出久の喉が、ひゅ、と音を立てる。

 

 分かっていたはずの言葉。

 

 何度も自分に言い聞かせてきた現実。

 

 それが、他人の口から、あまりにも軽く、あまりにも楽しげに放たれる。

 

 胸の奥が、軋む。

 

 だが確かに、何かが擦り切れるような感覚だけが残る。

 視線は落ちたまま、動かない。

 

 言い返す言葉も、否定する理由も、浮かばなかった。

 

 分かっている。

 それはずっと前から、分かっていたことだ。

 

 だから——

 

 否定されること自体は、驚くことではない。

 

 ただ。

 

 その“笑い方”が。

 その“軽さ”が。

 

 思っていた以上に、深く刺さった。

 

「……はは、いやあ、すまんすまん」

 

 志賀はまだ笑っている。

 息を整えながら、肩を震わせ、余韻に浸るように。

 

 出久の沈黙など、視界に入っていないかのようだった。

 

 空気が、ひどく軽い。

 

 片方だけが重く沈んでいることなど、無関係に。

 

 そのとき。

 

 不意に、別の声が割り込んだ。

 

 低く、よく通る声。

 

 部屋のどこからともなく、しかしはっきりと。

 

「人の夢を嗤うもんじゃあない」

 

 出久の肩が、びくりと跳ねた。

 

 反射的に顔を上げる。

 

 誰も、いない。

 

 志賀のほかに、人影はない。

 

 だが。

 

 音源は、確かにあった。

 

 机の上。

 

 開かれたままのパソコン。

 

 そのスピーカーから、声が流れている。

 

「……おやおや」

 

 志賀が、愉快そうに目を細めた。

 

「聞いとったかの」

 

「当然だ。回線は開きっぱなしだよ、ドクター」

 

 パソコン越しの声は、穏やかだった。

 叱責というより、苦笑に近い声音。だが、その一言が落ちた瞬間、院長室の空気は明らかに変わった。

 

 出久は、息を呑む。

 

 声だけだ。

 

 姿は見えない。

 顔も分からない。

 そこにいるのは、ただスピーカーから響く音だけのはずだった。

 

 なのに。

 

 背筋が、凍る。

 

 皮膚の内側を、冷たいものが這い上がってくる。

 脳が理解するより先に、身体が拒絶していた。

 

 動いてはいけない。

 逃げなくてはいけない。

 けれど、どちらもできない。

 

 ただ、そこに縫い留められる。

 

「すまないね、緑谷出久君」

 

 その声が、今度は出久へ向けられた。

 

 名前を呼ばれた瞬間、心臓が強く跳ねる。

 

「ドクターも、悪気があって言ったわけじゃあないんだ。彼は少々、率直すぎるところがあってね」

 

「少々とは心外じゃのう」

 

 志賀が肩を揺らす。

 

 しかし、パソコンの向こうの声は、それ以上志賀に構わなかった。

 

「君は、ヒーローになりたいんだってね」

 

 優しい声だった。

 

 静かで、聞き取りやすく、こちらの呼吸に合わせるような間がある。

 それなのに、出久はその声を聞くたび、肺の奥が狭くなるのを感じた。

 

「それも、ただのヒーローではない。オールマイトのように突出した、誰もが見上げるナンバーワンヒーローに」

 

 出久の唇が震える。

 

 否定したい。

 違うと言いたい。

 そんな大それたことは、と誤魔化したい。

 

 だが、できなかった。

 

 それは嘘になる。

 

 ずっと、そうだった。

 

 オールマイトみたいに笑って、誰かを安心させる存在になりたかった。

 誰かに「もう大丈夫だ」と言える人間になりたかった。

 

 無個性だと分かっても。

 無理だと突きつけられても。

 それでも、消えなかった。

 

「……ぼ、僕は」

 

 声が掠れる。

 

 パソコンの向こうの人物は、急かさなかった。

 

「いいとも」

 

 その言葉は、あまりにも簡単に置かれた。

 

「君の夢を叶える手伝いを、僕たちにさせてくれないかな?」

 

 優しい。

 

 どこまでも優しい声だった。

 

 だからこそ、恐ろしかった。

 

 それは手を差し伸べる言葉の形をしている。

 救いの形をしている。

 けれど、その奥には底が見えない。

 

 出久は、喉を鳴らした。

 

「……な、何を」

 

 ようやく、それだけを絞り出す。

 

「何を、するんですか」

 

 パソコンの向こうで、わずかに笑った気配があった。

 

「その話を、もうしてしまうのかね?」

 

 志賀が、笑いの余韻を残したまま口を挟んだ。

 

 先ほどまでの悪びれない笑みとは違う。

 今度の声には、かすかな警戒が混じっている。

 

「少々、不用心ではないかね?」

 

 出久は、反射的に志賀を見る。

 

 不用心。

 

 その言葉が、何を指しているのか分からなかった。

 けれど、普通の治験の話ではないことだけは分かる。

 

 パソコン越しの人物は、穏やかに答えた。

 

「ああ、構わない。彼には見込みがある」

 

 その声は、出久を見ている。

 

 画面は暗い。姿などどこにも映っていない。

 それなのに、出久にはそう感じられた。

 

「それに、候補者だってそう何人もいるものじゃない」

 

 志賀は、しばらく黙った。

 

 やがて、諦めたように肩をすくめる。

 

「……まあ、君がそう言うなら、わしからは何も言わんよ」

 

「助かるよ、ドクター」

 

 短いやり取り。

 

 それだけで、二人の関係性がほんの少しだけ見えた気がした。

 

 志賀が従う側。

 パソコンの向こうの声が、決める側。

 

 その事実に気付いた瞬間、出久の背中にまた冷たい汗がにじむ。

 

 あの志賀丸太が、笑いながら人の夢を切り捨てるこの老人が、あっさりと引く相手。

 

 その正体を、想像したくなかった。

 

 だが、声は想像を待たない。

 

「緑谷出久君」

 

 名前を呼ばれる。

 

「君に、個性を与えよう」

 

 あまりにも静かに。

 

 あまりにも当然のように。

 

 その言葉は、部屋の中央へ置かれた。

 

 出久は、瞬きを忘れた。

 

「……個性、を」

 

 自分の声が、遠く聞こえる。

 

「与える……?」

 

 意味が分からない。

 

 いや、言葉の意味は分かる。

 しかし、それが現実の文脈に接続できない。

 

 個性は、生まれつきのものだ。

 

 後から努力で増やすものではない。

 誰かから受け取るものでもない。

 まして、与えられるものではない。

 

 そのはずだ。

 

「……そんな、こと」

 

 出久の視線が、宙を彷徨う。

 

「不可能なはずだ。個性は遺伝因子に由来する先天的形質で、発現時期に差はあっても基本的には幼少期までに確認される。後天的に変化する例はあるけど、それは訓練による出力や応用の変化であって、個性そのものを“与える”なんて……」

 

 言葉が、勝手に口から漏れ始める。

 

 止まらない。

 

「いや、でも、都市伝説ならあった。個性を奪うヴィラン。個性を売買する闇市場。昔の掲示板の噂で、病院を通して個性因子を移植する実験があったとか……でも根拠は薄いし、医学的にも倫理的にも現実性が低い。そもも……」

 

 ブツブツと、早口になる。

 

「君はナイーブなオタクだなぁ」

 

 パソコン越しの声が、苦笑した。

 

 責める響きではなかった。

 むしろ、微笑ましいものを見るような声色だった。

 

 だが、出久の背筋はさらに強張る。

 

「夢の前に立って、まず否定から入る。可能性を提示されても、先に不可能な理由を並べる。慎重で、理屈っぽくて、臆病だ」

 

「ぐちぐちと否定ばかりで聞くに耐えんわ」

 

 志賀が、今度ははっきりと出久の言葉を遮った。

 

 椅子に深く腰掛け、白衣の袖を払うようにして、苛立ちとも呆れともつかない顔を向ける。

 

「可能じゃから言っとるんじゃ。できんことを、わざわざこんな場所で話すほど暇ではない」

 

「で、でも……」

 

「でも、ではない」

 

 志賀の声が鋭くなる。

 

 出久は口を閉ざした。

 

 志賀は机の上に指を置き、とん、と軽く叩く。

 

「緑谷出久君。君は今、千載一遇の機会を前にしておる。無個性で、雄英にも届かず、ヒーローにもなれんと自分で結論を出した君に、“個性を与える”と言っておるんじゃ」

 

 一拍。

 

 老医師の目が、眼鏡の奥で細く光った。

 

「この話、受けるのかね?」

 

 直球だった。

 

 逃げ道を潰す問い。

 

 出久の喉が鳴る。

 

 パソコンの向こうの人物は何も言わない。

 ただ、待っている。

 

 志賀もまた、今度は笑わない。

 

 二人の沈黙に挟まれて、出久は自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえるのを感じた。

 

 受けるのか。

 

 断るのか。

 

 それだけの話のはずだった。

 

 けれど、その二択の向こうにあるものが、あまりにも大きすぎた。

 

 受ければ、戻れない。

 

 断れば、きっと今日までと同じ日常に戻る。

 オールマイトのサインを額に入れ、無理だと笑って、無個性の自分を納得させながら、現実的な進路を考える毎日へ。

 

 それが正しい。

 

 それが賢い。

 

 そう思っていた。

 

「……僕は」

 

 声が震えた。

 

 それでも、言葉は出た。

 

「僕は、ヒーローに……なりたいです」

 

 志賀の口元が、わずかに吊り上がる。

 

 パソコン越しの声は、静かに笑った。

 

「ああ良かった。緑谷出久君、君はきっと素晴らしいヒーローになれるだろう」

 

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