翌日、出久は早い時間に家を出た。
迷いがなかったわけではない。むしろその逆で、歩くたびに「引き返す」という選択肢が頭をよぎる。それでも足は止まらなかった。行かない理由より、確かめたい理由のほうが、ほんの少しだけ上回っていたからだ。
目的地は、蛇腔病院。
白い外壁を朝の光に静かに輝かせる、大きな総合病院だった。出久にとってここは、幼い頃に個性診断を受けた場所でもある。
——あれ以来だ。
門をくぐった瞬間、鼻の奥にかすかな消毒液の匂いが蘇り、記憶の底に沈んでいた光景が、輪郭を取り戻すように浮かび上がった。
受付ロビーはすでに人で満ちていたが、不思議と騒がしさはなかった。整然としていて、どこか落ち着きすぎているほどの空間を進み、出久はカウンターへ近づく。
「すみません」
声をかけると、受付の女性がすぐに顔を上げた。
「はい、どうされましたか?」
「えっと……緑谷出久です。あの、志賀先生に……」
そこまで言ったところで、受付の女性の表情がわずかに変わった。確認のための一瞬の間。その後、彼女はすぐに柔らかい笑顔へ戻る。
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
迷いがない。
名前を告げただけで、手続きも問診もなく、すんなりと案内される。
——お待ちしておりました。
その言葉が、胸の奥で小さく引っかかった。だが、立ち止まる理由にはならない。
出久は案内に従い、廊下を進んだ。一般外来とは明らかに違う区画に入ると人通りは減り、周囲の音も遠のいていく。白い壁と規則正しく並ぶ扉だけが続く、静かな通路だった。
やがて、一つの扉の前で足が止まる。
「こちらになります」
プレートには、簡潔にこう記されていた。
院長室。
受付の女性が軽くノックする。
「失礼します。お連れしました」
中からすぐに返事があった。
「おお、どうぞどうぞ。入ってもらって構わんよ」
明るい声。昨日、電話越しに聞いたそれと同じだった。
扉が開く。
「では、こちらで」
受付の女性は一礼し、静かに去っていった。出久は一人でその場に立ち、ほんの一瞬だけ呼吸を整えてから、院長室へ足を踏み入れる。
部屋は広かったが、過度な装飾はない。整然とした机と本棚、医療機器らしきものがいくつか置かれている。無機質に近い空間だが、不思議と圧迫感はなかった。
その中央で、椅子から一人の人物が立ち上がる。
白衣を着た、小柄な老人。丸い背中と、特徴的な眼鏡の奥に光る目。だが、その表情はにこやかで、人当たりの良さを強く感じさせた。
「やあやあ、よう来てくれたのう」
両手を軽く広げるようにして、老人は歓迎の仕草を見せる。
「緑谷出久くん、じゃな?」
確認というより、すでに知っている者の口調だった。
「わしが志賀丸太。この病院の院長をしとる」
昨日、電話越しに聞いた名前。その音が、目の前の人物と結びつく。
志賀は一歩近づき、柔らかく笑った。
「堅くならんでええ。今日はただ、少し話をするだけじゃ」
声音は穏やかで、安心させるように丁寧だった。だが、その視線は出久の奥まで測るように、静かに向けられている。
出久は促されるまま、椅子に腰を下ろした。
目の前の老人は、変わらず柔らかく微笑んでいる。その表情は穏やかで、どこか親しみすら感じさせるはずなのに、視線を合わせるほど胸の奥が落ち着かなくなった。
言うべきことは決まっている。ここに来た理由も、確かめたいことも。
それでも、言葉はすぐには出てこなかった。
喉が渇く。膝の上で握った手に力がこもる。
志賀は急かさない。ただ、待っている。
その待ち方が、逆に逃げ場を奪っていた。
やがて、出久はゆっくりと口を開いた。
「……あの」
声はわずかに震えていた。
「昨日、お電話で……その、夢を叶える手段を、って……」
一度、言葉が途切れる。逃げるなら、今だ。ここで曖昧にしてしまえば、それで終わる。
それでも、出久は視線を上げた。
「僕は……ヒーローに、なれますか」
言い切った。
それは、ずっと避けてきた問いだった。
「無個性でも……その……」
続けようとして、息が詰まる。
「オールマイトみたいな、ヒーローに」
静寂が落ちた。
部屋の空気が、ほんの一瞬だけ止まったように感じられる。
次の瞬間。
「——ははっ」
小さな笑いが漏れた。
それはすぐに膨らんでいく。
「はは、ははは……っ!」
志賀の肩が揺れる。口元を押さえているが、まるで抑えきれていない。
「はははははははっ!! ひっひっひひひひ!」
志賀丸太は、腹を抱えんばかりに笑い出した。椅子に腰を落とし、体を折り、まるで転げ回りそうな勢いで笑い続ける。
その笑いは明るかった。あまりにも明るく、あまりにも遠慮がない。
出久は動けなかった。
何が起きているのか、一瞬理解できない。ただ、その笑いだけが耳に刺さる。
「いやいやいやいや……!」
ようやく息を整えながら、志賀が顔を上げる。目には涙すら浮かんでいた。
「すまんのう、ひひひ……いやあ、すまんすまん」
笑いの余韻を残したまま、彼は今度こそはっきりと言った。
「無個性がヒーローになれるわけ、ないじゃろう。緑谷出久君!」
言葉は軽い。
だが、切り捨てるように鋭かった。
「ましてや——」
志賀の口元が歪む。
「オールマイトのように、とは!」
完全な一蹴だった。
否定ですらない。“検討の余地がない”という断定。
出久の喉が、ひゅ、と音を立てた。
分かっていたはずの言葉だった。何度も自分に言い聞かせてきた現実だった。それが他人の口から、あまりにも軽く、あまりにも楽しげに放たれる。
胸の奥が軋む。
言い返す言葉も、否定する理由も浮かばなかった。分かっている。それはずっと前から、分かっていたことだ。だから、否定されること自体は驚くことではない。
ただ、その笑い方が。
その軽さが。
思っていた以上に深く刺さった。
「……はは、いやあ、すまんすまん」
志賀はまだ笑っている。息を整えながら肩を震わせ、余韻に浸るように。
出久の沈黙など、視界に入っていないかのようだった。
空気が、ひどく軽い。
片方だけが重く沈んでいることなど、無関係に。
その時、不意に別の声が割り込んだ。
低く、よく通る声。部屋のどこからともなく、しかしはっきりと。
「人の夢を嗤うもんじゃあない」
出久の肩が、びくりと跳ねた。
反射的に顔を上げる。誰もいない。志賀のほかに、人影はない。
だが、音源は確かにあった。
机の上。開かれたままのパソコン。そのスピーカーから、声が流れている。
「……おやおや」
志賀が、愉快そうに目を細めた。
「聞いとったかの」
「当然だ。回線は開きっぱなしだよ、ドクター」
パソコン越しの声は穏やかだった。叱責というより、苦笑に近い声音。だが、その一言が落ちた瞬間、院長室の空気は明らかに変わった。
出久は息を呑む。
声だけだ。姿は見えない。顔も分からない。そこにいるのは、ただスピーカーから響く音だけのはずだった。
なのに、背筋が凍る。
皮膚の内側を、冷たいものが這い上がってくる。脳が理解するより先に、身体が拒絶していた。
動いてはいけない。逃げなくてはいけない。
けれど、どちらもできない。
ただ、その場に縫い留められる。
「すまないね、緑谷出久君」
その声が、今度は出久へ向けられた。名前を呼ばれた瞬間、心臓が強く跳ねる。
「ドクターも、悪気があって言ったわけじゃあないんだ。彼は少々、率直すぎるところがあってね」
「少々とは心外じゃのう」
志賀が肩を揺らす。しかし、パソコンの向こうの声はそれ以上志賀に構わなかった。
「君は、ヒーローになりたいんだってね」
優しい声だった。
静かで、聞き取りやすく、こちらの呼吸に合わせるような間がある。それなのに、出久はその声を聞くたび、肺の奥が狭くなるのを感じた。
「それも、ただのヒーローではない。オールマイトのように突出した、誰もが見上げるナンバーワンヒーローに」
出久の唇が震える。
否定したかった。違うと言いたかった。そんな大それたことは、と誤魔化したかった。
だが、できない。
それは嘘になる。
ずっと、そうだった。
オールマイトのように笑って、誰かを安心させる存在になりたかった。誰かに「もう大丈夫だ」と言える人間になりたかった。
無個性だと分かっても、無理だと突きつけられても、それでも消えなかった。
「……ぼ、僕は」
声が掠れる。
パソコンの向こうの人物は、急かさなかった。
「いいとも」
その言葉は、あまりにも簡単に置かれた。
「君の夢を叶える手伝いを、僕たちにさせてくれないかな?」
優しい。
どこまでも優しい声だった。
だからこそ、恐ろしかった。
それは手を差し伸べる言葉の形をしている。救いの形をしている。けれど、その奥には底が見えない。
出久は、喉を鳴らした。
「……な、何を」
ようやく、それだけを絞り出す。
「何を、するんですか」
パソコンの向こうで、わずかに笑った気配があった。
「その話を、もうしてしまうのかね?」
志賀が、笑いの余韻を残したまま口を挟んだ。
先ほどまでの悪びれない笑みとは違う。今度の声には、かすかな警戒が混じっていた。
「少々、不用心ではないかね?」
出久は反射的に志賀を見る。
不用心。
その言葉が何を指しているのか分からない。けれど、普通の治験の話ではないことだけは分かる。
パソコン越しの人物は、穏やかに答えた。
「ああ、構わない。彼には見込みがある」
その声は、出久を見ていた。
画面は暗い。姿などどこにも映っていない。それなのに、出久にはそう感じられた。
「それに、候補者だってそう何人もいるものじゃない」
志賀はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「……まあ、君がそう言うなら、わしからは何も言わんよ」
「助かるよ、ドクター」
短いやり取り。
それだけで、二人の関係性がほんの少しだけ見えた気がした。
志賀が従う側。パソコンの向こうの声が、決める側。
その事実に気づいた瞬間、出久の背中にまた冷たい汗が滲む。あの志賀丸太が、笑いながら人の夢を切り捨てるこの老人が、あっさりと引く相手。
その正体を、想像したくなかった。
だが、声は想像を待たない。
「緑谷出久君」
名前を呼ばれる。
「君に、個性を与えよう」
あまりにも静かに、あまりにも当然のように、その言葉は部屋の中央へ置かれた。
出久は瞬きを忘れた。
「……個性、を」
自分の声が遠く聞こえる。
「与える……?」
意味が分からない。
いや、言葉の意味は分かる。しかし、それが現実の文脈に接続できない。
個性は、生まれつきのものだ。
後から努力で増やすものではない。誰かから受け取るものでもない。まして、与えられるものではない。そのはずだ。
「……そんな、こと」
出久の視線が宙を彷徨う。
「不可能なはずだ。個性は遺伝因子に由来する先天的形質で、発現時期に差はあっても基本的には幼少期までに確認される。後天的に変化する例はあるけど、それは訓練による出力や応用の変化であって、個性そのものを“与える”なんて……」
言葉が勝手に口から漏れ始める。
止まらない。
「いや、でも、都市伝説ならあった。個性を奪うヴィラン。個性を売買する闇市場。昔の掲示板の噂で、病院を通して個性因子を移植する実験があったとか……でも根拠は薄いし、医学的にも倫理的にも現実性が低い。そもそも——」
「君はナイーブなオタクだなぁ」
パソコン越しの声が苦笑した。
責める響きではない。むしろ、微笑ましいものを見るような声色だった。だが、出久の背筋はさらに強張る。
「夢の前に立って、まず否定から入る。可能性を提示されても、先に不可能な理由を並べる。慎重で、理屈っぽくて、臆病だ」
「ぐちぐちと否定ばかりで聞くに耐えんわ」
志賀が、今度ははっきりと出久の言葉を遮った。
椅子に深く腰掛け、白衣の袖を払うようにして、苛立ちとも呆れともつかない顔を向ける。
「可能じゃから言っとるんじゃ。できんことを、わざわざこんな場所で話すほど暇ではない」
「で、でも……」
「でも、ではない」
志賀の声が鋭くなる。出久は口を閉ざした。
志賀は机の上に指を置き、とん、と軽く叩く。
「緑谷出久君。君は今、千載一遇の機会を前にしておる。無個性で、雄英にも届かず、ヒーローにもなれんと自分で結論を出した君に、“個性を与える”と言っておるんじゃ」
一拍。
老医師の目が、眼鏡の奥で細く光った。
「この話、受けるのかね?」
直球だった。
逃げ道を潰す問い。
出久の喉が鳴る。
パソコンの向こうの人物は何も言わない。ただ、待っている。志賀もまた、今度は笑わない。
二人の沈黙に挟まれて、出久は自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえるのを感じた。
受けるのか。断るのか。
それだけの話のはずだった。
けれど、その二択の向こうにあるものが、あまりにも大きすぎた。
受ければ、戻れない。
断れば、きっと今日までと同じ日常に戻る。オールマイトのサインを額に入れ、無理だと笑って、無個性の自分を納得させながら、現実的な進路を考える毎日へ。
それが正しい。
それが賢い。
そう思っていた。
「……僕は」
声が震えた。
それでも、言葉は出た。
「僕は、ヒーローに……なりたいです」
志賀の口元が、わずかに吊り上がる。
パソコン越しの声は、静かに笑った。
「ああ、良かった。緑谷出久君」
優しく、穏やかに、底の見えない声が告げる。
「君はきっと、素晴らしいヒーローになれるだろう」