数日後。
緑谷家の自室で、出久は机に向かったまま黙々とペンを走らせていた。
カリ、カリ、と静かな部屋に筆記音だけが響く。机の上には数冊のノートが開かれており、『ヒーロー分析ノート』と書かれたページの至る所へ、新しい文字や図が書き加えられていた。
拳の軌道。重心移動。踏み込み。連撃速度。そして、ページの端に書かれた『全盛期なら20〜30発』という文字だけは、他よりも明らかに筆圧が強かった。
「……」
出久のペンが止まる。
脳裏に蘇ったのは、USJで見たオールマイトの姿だった。血を吐き、呼吸を乱し、それでも生徒達の前では立ち続けようとしていた背中。いつも画面の向こうで笑っていた平和の象徴とは違う、傷付き、消耗し、限界を抱えた一人のヒーローの姿だった。
あの日、病院で結局オールマイト本人とは会えなかった。個室へ近付こうとする度に、通形ミリオが絶妙なタイミングで現れたからだ。
『おっ、緑谷くん!』
『いやぁ、病院って退屈だよね! そういえば一年生って、もう必殺技考えた!?』
『ねぇ聞いて! サーがさぁ。あ、サーって知ってる? 知ってるよね、オールマイトのサイドキックだもん!』
明るく、親しみやすく、話が長い。けれど、その笑顔の奥には妙な圧があり、気付けば会話の流れを握られ、自然に廊下の奥から押し戻されていた。
あれは多分、わざとだった。
途中から出久も気付いていたが、それでも押し切れなかった。通形ミリオという先輩は明るくて気さくなのに、不思議と“これ以上は入らせない”という線を笑顔のまま引ける人間だった。
そして翌日、オールマイトはもう退院したらしい、とクラスメイトから聞かされた。
「……」
出久は、ゆっくりとノートへ視線を落とす。
紙面には、これまで書き溜めてきたオールマイトの分析が並んでいた。昔から好きだった。ヒーローを知ることも、オールマイトを分析することも、夢に触れているみたいで楽しかった。
けれど今は、ページをめくるたび胸の奥がざわつく。
弱ったオールマイトを知ってしまったからだ。
「……っ」
出久は無意識にペンを握り締め、ノートの空白へ小さく書き足した。
『制限時間?』
その文字を見た瞬間、心臓がどくりと鳴った。
静かな部屋に、カーテンの隙間から夕日が差し込んでいる。表面上は平和だった。テレビではUSJ襲撃事件の報道が連日流れ、ヴィラン連合、脳無、雄英襲撃という言葉が世間を騒がせている。
だが、どの報道にも“黒いヴィラン”の話は出てこない。
飯田を襲った存在。外部出口で戦っていた謎の装甲ヴィラン。その情報だけが妙に曖昧で、まるで最初から存在しなかったかのように扱われていた。
「……」
出久の視線が、机の引き出しへ向く。
そこには何もない。黒い装甲は泥の中へ消え、証拠は残っていない。それなのに、腕にはまだ感触が残っていた。
飯田を殴った感触。押さえ付けた感触。そして一瞬だけ、“壊したい”と思ってしまった、あの黒い感情。
「……っ」
出久は、ぎゅっと目を閉じた。
その時、机の上のスマホが小さく震える。メッセージ通知だった。
表示された名前を見て、出久の身体が僅かに強張る。
『飯田天哉』
『退院許可が出た! 心配を掛けてすまなかった!』
『また学校で会おう!』
その一文を見つめたまま、出久はしばらく動けなかった。指先が微かに震え、返信欄は開いたままなのに、言葉が出てこない。
お大事に。また明日。退院おめでとう。
どれも、ひどく白々しく思えた。
結局、出久は短く『よかった。また学校で』とだけ打ち、送信ボタンを押すと同時にスマホを伏せた。もう何も考えたくなかった。
「……寝よう」
掠れた声で呟き、机のライトを消してノートを閉じる。そのままベッドへ倒れ込むと、身体も頭も心も、限界を迎えたみたいに重く沈んだ。
気付けば、出久は眠りへ落ちていた。
翌朝。
空は、妙なくらい晴れていた。雲一つない青空は、まるでUSJの惨劇など存在しなかったかのように穏やかだった。
「行ってきます」
いつも通り玄関を出る。母の「気を付けてね」という声に小さく返事をした瞬間、AFOに囁かれた言葉が脳裏を掠めた。
『君の母君もそうだ』
「——っ」
出久は、無意識に拳を握る。
駄目だ。考えるな。今は普通に、いつも通りに。
そう自分へ言い聞かせながら通学路を歩くが、街にはUSJ事件の話題がまだ溢れていた。
『雄英も危なくなったな』
『オールマイトが来なかったらヤバかったらしいぜ』
断片的な会話が耳へ入り、出久は俯いたままそれを聞き流す。やがて雄英高校の巨大な校門が見えてくると、胸が少しだけ重くなった。
飯田、峰田、梅雨。皆はいつも通り接してくれるだろうか。自分は、いつも通り振る舞えるだろうか。
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
「やぁ☆」
「!?」
ぬっ、と突然、視界のすぐ横に顔が現れた。
「うわぁっ!?」
出久が飛び退くと、そこには金色の髪を朝日にきらめかせた青山優雅が立っていた。相変わらず全体的に輝いており、胸元のベルトまで光を反射している。
「大丈夫かい?」
青山は、じっと出久を見ていた。いつもの芝居がかった笑顔を浮かべているが、その目だけは妙に真剣だった。
「緑谷くん」
「……青山君」
出久の喉が、少し強張る。
共犯者。
その言葉が頭を過った。青山もまた、AFO側へ繋がる人間だ。USJで何が起きたのか、どこまで知っているのかは分からない。だが少なくとも、彼はもう“普通のクラスメイト”ではなかった。
「顔色が良くないよ?」
青山が肩を竦める。
「まぁ、無理もないけれどネ」
「……」
出久は言葉に詰まった。
周囲では、他の生徒達が次々と登校している。笑い声、挨拶、靴音。いつもの朝のはずなのに、自分達だけが別の場所に立っているみたいだった。
青山は、そんな出久を数秒見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……大変だったネ」
その言葉が、妙に癇に障った。
「……」
出久の足が止まる。
青山は、相変わらず軽く笑っている。
「Hm?」
出久は、ゆっくり顔を上げた。
「青山君は……あの時、どこにいたの?」
その瞬間、青山の笑顔がほんの僅かだけ止まった。
「USJの時。ずっと姿が見えなかったけど」
「……あぁ」
青山は、数秒だけ黙った。それから少し困ったみたいに肩を竦める。
「ボク、最初に吹き飛ばされた先がね、ちょうど人気のないエリアだったんだヨ」
「……」
「だから、その……ずっと隠れていたんだ☆」
軽い口調だった。いつも通りの、きらきらした話し方。けれど、その内容だけは酷く現実的だった。
「戦うの、怖かったしネ。先生達もいたし、下手に動くより隠れてた方がいいかなぁって」
「……」
出久は何も言えなかった。
胸の奥で、何かがどろりと蠢く。
青山は戦わなかった。誰も殴っていない。飯田を止めてもいない。黒いスーツも着ていない。ただ隠れていた。それだけで、普通に学校へ来て、普通に笑い、普通に“被害者側”として立っている。
「……君だけ」
出久が、ぽつりと呟く。
「ん?」
「君だけ……ズルいじゃないか」
青山の目が、僅かに見開かれた。
出久自身も、口にしてから気付いた。今の声は、少し黒かった。どろりと濁った感情が、そのまま漏れ出たみたいだった。
「僕は……皆を助けなきゃって思って動いて……」
飯田を殴った。梅雨を背負った。オールマイトから逃げた。黒い衝動に飲まれかけた。
なのに、青山は何もせずに済んだ。
「……」
青山は黙ったまま出久を見る。その目から、いつもの軽薄さが少し消えていた。
「……緑谷くん」
静かな声で呼ばれ、出久ははっとする。
今、自分は何を言った。
何をぶつけた。
青山は悪くない。隠れるのだって、正しい判断だ。生き残るためなら、それは責められるべきことではない。
そんなことは分かっている。
それでも、胸の奥の黒い感情は止まらなかった。USJからずっと、誰かを羨み、誰かを引きずり下ろしたいと願う、醜い感情が燻り続けている。
「……ごめん」
出久は、掠れた声で言った。
「今の、忘れて」
それだけ言うと、出久は逃げるみたいに歩き出した。
「緑谷くん——」
背後で青山が何かを言いかける。
だが、出久は振り返らなかった。
聞きたくなかった。今、自分がどんな顔をしているのか、どんな目をしているのか、知られたくなかった。
足早に校門を潜る。
朝の喧騒、生徒達の声、靴音。その中へ紛れ込むように、出久は校舎へ入っていった。
廊下を歩く。
窓から差し込む朝日が眩しい。普通の学校だ。USJであんな事があったのに、世界は平然と続いている。
「……」
出久は深く息を吐き、1-A教室の扉を開けた。
「お、緑谷!」
「おはよー!」
教室の中は、思ったより騒がしかった。既にかなりの人数が登校しており、包帯を巻いた者、湿布を貼っている者、腕を吊っている者など、USJの傷跡はあちこちに残っている。
「緑谷くん!」
飯田が席から立ち上がった。まだ首元には固定具が残っていたが、その表情はいつもの真面目な委員長そのものだった。
「昨日はメッセージありがとう!」
「う、うん……」
出久は、ぎこちなく笑う。
飯田の顔を見るたび、脳裏に黒い装甲の感触が蘇る。殴った。押さえ付けた。それなのに飯田は何も知らない。
「いやぁ、しかし参ったぜ!」
峰田が、大袈裟に頭の包帯を叩いた。
「オイラ、マジで死ぬかと思ったもん!」
「峰田ちゃん、うるさい」
梅雨が呆れた声を出す。彼女自身も、額に小さな傷跡が残っていた。
「でも本当、緑谷ちゃんが助けてくれなかったら危なかったわ」
「……え?」
出久が思わず固まる。
「え、覚えてないの?」
上鳴が口を挟んだ。
「蛙吹から聞いたけど、お前が二人背負って広場まで戻ってきたんだろ?」
「そうそう!」
峰田が勢いよく頷く。
「背後からヴィラン来た時も、お前がなんか迎撃してくれたっぽいし! 正直、途中から記憶曖昧なんだけどネ。気付いたら緑谷に担がれてたっつーか……」
「緑谷ちゃん、かなり無茶してたわよ」
梅雨も静かに言った。
「だから、ありがと」
「——」
出久は、言葉を失う。
AFOの記憶はない。黒い泥も、脅迫も、黒い装甲も、二人の中では“背後から襲ってきたヴィランを出久が撃退した”ことになっている。
「……そ、そっか」
喉が妙に乾いた。
「いや、そんな……大したことしてないよ」
嘘だった。
だが、誰も疑わない。皆が普通に感謝してくる。それが逆に、胸へ刺さった。
「つーかさ!」
切島が、机へ腰掛けながら言う。
「USJってマジでヤバかったよな!」
「でもオールマイト、超かっこよくなかった!?」
芦戸が身を乗り出す。
「あの最後のラッシュやばかったって!」
「いや、相澤先生も相当だろ……」
常闇が低く言う。
「一人であれだけ制圧していた」
教室の空気は、妙に熱を帯びていた。USJの恐怖、ヴィラン襲撃。本来ならもっと沈んでいてもおかしくないのに、どこか皆、興奮が抜け切っていないようだった。
「つーかさ、マスコミめっちゃ来てるらしいぜ!」
「うわ、マジ?」
「雄英、今めちゃくちゃ注目されてるって!」
騒がしく、落ち着かない空気の中、ガラリと教室の扉が開いた。
一瞬で、空気が静まる。
「……」
相澤消太だった。
包帯。固定具。片目には保護用の医療パッチ。明らかに重傷だった。
それなのに、いつも通り気怠そうな顔で教卓へ向かってくる。
「せ、先生!?」
「もう動いて大丈夫なんですか!?」
「入院じゃ——」
「うるさい」
相澤が低く言う。
「骨折程度で教師休めるほど楽じゃない」
いや骨折程度じゃないだろ、と何人かが顔を引き攣らせた。
相澤はそのまま寝袋を教卓脇へ放り投げ、ぼそりと言った。
「まぁ、そんなことより」
教室の空気が、僅かに変わる。
相澤は片目でクラス全体を見渡した。
「そろそろ雄英体育祭だ」
「——は?」
一瞬、教室全体が静まり返る。
そして次の瞬間、爆発した。
「うぉぉぉぉぉっ!!?」
「マジか!!」
「来たぁぁぁ!!」
「全国放送のやつ!?」
「え、もう!?」
空気が、一気に熱を帯びる。
USJの話題すら吹き飛ばす勢いだった。
雄英体育祭。
プロヒーロー達も注目する、全国規模の一大イベント。その名前が出た瞬間、クラス全体の目の色が変わった。
だが、出久だけは。
「……体育祭」
その言葉を、小さく反芻する。
胸の奥で、USJから燻り続ける黒い感情がまた微かに蠢いた。
雄英体育祭。
全国中継。
プロヒーロー達の視線。
そして、“自分を見せ付ける場所”。
「……」
出久の指先が、机の下で微かに震える。
勝てば注目される。認められる。自分の力を示せる。そんな高揚感が、胸の奥でじわじわ膨らんでいく。
一方で、黒い装甲、AFO、USJでの出来事。それら全部が、頭の隅へ張り付いて離れない。
なのに、それでも。
体育祭という言葉は、どうしようもなく特別だった。幼い頃から見てきた。憧れていた。ヒーロー達の登竜門。
「……っ」
出久は、無意識にノートを開いていた。
空白へ、小さく書き込む。
『障害物競走?』
『騎馬戦』
『個性制限』
『対人戦』
思考が止まらない。
どんな競技になる。誰が強い。爆豪。轟。飯田。どう動く。どう勝つ。
USJの重苦しさとは別の熱が、頭の中を埋め尽くしていく。
「おーい、緑谷ー」
「……へ?」
気付けば、授業が始まっていた。
プレゼント・マイクの声が遠く聞こえる。黒板、教科書、ノート。けれど内容は、少しも頭へ入ってこない。
出久の脳内は、完全に体育祭一色だった。
(轟君の氷をどう突破する)
(飯田君の加速は直線特化)
(かっちゃんは開幕から飛ばしてくる)
(僕の機動力なら——)
カリカリ、と授業ノートの端へ、びっしりとメモが増えていく。
気付けば昼休みも、午後の授業も、半分以上上の空だった。耳へ入ってくるのは、『体育祭』『プロ事務所』『スカウト』『指名』という断片的な言葉だけで、その度に胸が熱くなる。
そして、終礼。
「じゃ、今日はここまで」
相澤の声が響いた瞬間、出久は勢いよく立ち上がった。
ガタッ、と椅子が大きく鳴る。
「うおっ!?」
周囲の視線が集まった。
「み、緑谷?」
「どした?」
「あっ、いや、その!!」
出久は慌てて鞄を掴む。
頭の中は、もう作戦でいっぱいだった。体育祭、競技予測、対策、訓練。今すぐ整理したい。
「ちょっと用事思い出して!!」
半ば叫ぶみたいに言うと、そのまま教室を飛び出した。
「なんだアイツ……」
「燃えてんなぁ……」
背後でクラスメイト達の声が聞こえるが、出久は止まらない。
廊下を抜け、階段を下り、昇降口へ向かい、一直線に駆け抜ける。校舎を出た瞬間、夕方の風が熱くなった頭を少しだけ冷やした。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
出久は、鞄から小さなメモ帳を引っ張り出す。
そして歩きながら、必死に書き始めた。
『対かっちゃん:近距離危険』
『対轟:初動注意』
『飯田君は直角移動苦手?』
『騎馬戦なら機動力重要』
『僕の骨格補助をもっと——』
文字がどんどん増えていく。
書き留めないと、思考が溢れそうだった。
憧れだった。
雄英体育祭。
テレビの向こう側だった舞台へ、自分が立つ。
その事実だけで、胸が高鳴る。
(勝ちたい)
自然と、そう思った。
勝って、認められて、自分を示したい。
そんな熱が、身体の奥で燃えている。
その時だった。
ブブッ。
「……?」
スマホが震える。
出久は、歩きながら画面を開いた。
表示されたメッセージを見た瞬間、胸の熱が一気に冷えた。
『用具倉庫の前に来なさい』
送り主の名前は表示されていない。
だが、分かる。
こんな短文。命令みたいな口調。そして、背筋を撫でる嫌な感覚。
「……チッ」