──翌日。
雄英高校ヒーロー科1−Aの教室は、朝から妙に騒がしかった。
「体育祭かぁ……!」
上鳴が椅子へだらしなく座ったまま声を上げる。
「全国放送だろ!? やっべぇな!」
「プロも山ほど見に来るらしいぞ!」
切島も興奮した様子で机を叩いた。
「ここで名前売れたら、マジで将来変わるって話だしな!」
「当然だ!」
飯田が腕を組みながら真面目な顔で頷く。
「雄英体育祭とは、単なる学校行事ではない! 未来のヒーロー社会を担う若者達の登竜門とも言える催事だ!」
いつものように両腕を激しく上下させる飯田を見て、瀬呂が苦笑した。まだ包帯は残っているものの、本人は既に完全復活したつもりらしい。
「おぉ、委員長元気だな」
「入院してた人間のテンションじゃねぇ……」
その喧騒から少し離れた教室後方で、出久は自席に座り、静かにノートを見つめていた。
開かれたページには、障害物競走、騎馬戦、個人戦についての大量の書き込みが並んでいる。シミュレーション、対策、動線。そこへ更に小さな文字でメモを書き足した。
『爆破→視界誘導』
『轟君は序盤広範囲制圧?』
『常闇君は屋内有利』
そこで、ペン先が止まる。
脳裏に蘇ったのは、あの声だった。
『君だけ、手を抜いて戦うつもりかい?』
「……っ」
出久は無意識にペンを握り締める。
駄目だ。考えるな。今は体育祭だけを考えろ。
そう自分へ言い聞かせた、その時だった。
「……ん?」
芦戸が教室扉の方を見た。
「なんか今日、人多くない?」
その一言で、教室の空気が少し変わる。
廊下には、妙に人がいた。他クラスの制服姿がやたらと目に入り、しかもちらちらと1−Aの中を覗き込んでいる。
「……なんだぁ?」
爆豪が露骨に眉を寄せた。
次の瞬間、廊下側の空気が一気に騒がしくなる。
「おっ、いたいた。あいつだよ爆豪、一般入試主席の問題児」
「緑谷ってどいつ?」
「相澤先生守ったってマジ?」
「うわっ」
麗日が少し引いた顔をする。
教室前には、既に軽い人だかりができていた。しかもその数はまだ増えており、通り過ぎるふりをしながら覗く者、露骨に立ち止まる者、スマホを構えようとして耳郎に睨まれ、慌てて引っ込める普通科生徒までいる。
「な、なんだよこれ……動物園か?」
瀬呂が苦笑すると、爆豪が苛立った声で吐き捨てた。
「違ぇよ。偵察のつもりなんだろうよ」
その言葉通りだった。
USJ襲撃事件。その現場に居合わせ、生き残ったのが1−Aである以上、校内での注目度は異常なほど上がっていた。
「体育祭前に情報を集めたいんだろうな。特に我々A組は、実戦経験持ちとして見られている」
常闇が静かに呟くと、尾白も納得したように頷いた。
「あー……確かに、他のクラスからしたら気になるよな。どんな奴がいるか、とか」
だが、その直後だった。
「いやあ!」
廊下側から、やけに大きな声が響いた。
「A組って色んな武勇伝があるから、どんな人間がいるのかと思って見に来たんだけどさぁ!」
廊下の野次馬達がざわめきながら少し割れる。その中央に、一人の男子生徒がわざとらしく肩を竦めて立っていた。
淡い金髪に細身の体格、整った顔立ち。だが、口元へ張り付いた笑みが致命的に胡散臭い。ニタニタと、人を小馬鹿にするような笑い方だった。
「なんだか、思ったよりパッとしないねぇ!」
「……あ?」
爆豪の額へ青筋が浮かび、教室の空気が一瞬でぴりつく。男子生徒は、その反応すら楽しむみたいに笑った。
「あれぇ? 怒った? いやいや、別に悪口じゃないんだよ?」
わざとらしく両手を広げる。
「もっとこう……ヴィランをぶっ飛ばしてきました! みたいな殺気立った集団かと思ってたんだけどさ!」
ちらりと飯田の包帯を見る。
「意外と普通だなぁって!」
「貴様……!」
飯田がぎり、と歯を食い縛る。だが、男子生徒は止まらなかった。
「全国ニュースだもんねぇ、A組。USJ襲撃事件! テレビで見ない日がないよまったく!」
まるで芝居の台詞を読み上げるみたいな口調で、男子生徒は教室内を見回す。
「いやぁ〜、そりゃ注目も集まるよねぇ!」
「てか、誰」
耳郎が露骨に嫌そうな顔で言うと、男子生徒は待ってましたと言わんばかりに胸へ手を当てた。
「これは失礼。僕は物間寧人」
大袈裟な一礼をしてから顔を上げる。その笑みは、相変わらず性格が悪そうだった。
「ヒーロー科1年B組さ」
「B組……」
瀬呂が小さく呟くと、物間はふっと肩を竦めた。
「いやぁ、困るんだよねぇ。A組ばっかり注目されるの」
その声色が、ほんの少しだけ変わる。軽薄な調子の奥に、妙に生々しい感情が混じっていた。
「同じヒーロー科なのに、世間はA組、A組。教師も期待の中心はA組。話題も全部A組」
物間がわざとらしく溜め息を吐く。
「まるでB組が“ハズレ”みたいじゃないか」
その瞬間、教室内の空気が僅かに変わった。
これは単なる煽りではない。B組として、A組へ対抗意識を抱いている。物間は本気でそう思っているのだ。
「だからさ」
物間が、にたりと笑う。
「体育祭では、ぜひ期待外れじゃない所を見せてくれよ?」
「……上等じゃねぇか」
爆豪が椅子から立ち上がり、掌から小さく火花を散らした。
「B組ごときが調子乗ってんじゃ——」
その瞬間、乾いた音が廊下へ響いた。
「いっっっっだぁ!?」
物間の後頭部が、横から思い切り叩かれる。勢い余って物間の身体が前のめりに崩れた。
「ちょっ強——」
言い終わる前に、今度は真正面から腹へ拳がめり込んだ。
「ぶふぉっ!!?」
空気が抜けるような音と共に、物間がそのままくの字に折れ曲がる。
「静かにっス!!」
やたら声のでかい叫びと共に、物間を殴った男子生徒がびしっと姿勢を正した。
丸刈りの頭に鋭い目つきの四白眼。大型犬みたいなエネルギーを全身から放っている。そして何より、声量が異常だった。
「朝から他クラスへ喧嘩売るのは良くないっスよ!!」
「ごっ……!? 夜嵐……っ、君また加減が……!!」
腹を押さえたまま物間が床へ膝をつくと、今度は快活な女子生徒が割って入った。
「ほんっとごめんねA組!!」
大きな拳、ショートヘア、活発そうな雰囲気。彼女はぐったりしている物間の襟首を掴みながら、申し訳なさそうに頭を下げる。
「こいつ、あんた達に嫉妬しちゃってんの! 最近ずっと“A組A組”ってうるさいんだから!」
「そ、それはB組代表としてだね!? 決して個人的感情では——」
「はいはい」
拳藤が雑に流すと、そのやり取りに1−A側からも苦笑が漏れた。
「なんだこいつら……漫才か?」
瀬呂が呆れた声を出す。
「でも助かった……」
麗日が小さく安堵する。
一方、教室後方にいた轟だけは、少し離れた場所から静かにその騒動を見ていた。だが、腹を押さえている物間の隣に立つ夜嵐イナサの顔を見た瞬間、珍しく小さく反応する。
「……おっ」
轟が軽く片手を上げた。
「おおっ!? 轟さん!!」
夜嵐の顔が一気に明るくなり、大型犬みたいな勢いで手を振る。
「お久しぶりっス!!」
「あぁ、推薦組の打ち上げ以来だな」
轟も小さく手を振り返す。その光景に、八百万が目を瞬かせた。
「え? 轟さん、お知り合いですの?」
「あぁ。推薦入試で一緒だった」
轟が頷くと、夜嵐が大声で反応した。
「そうっス!! ご無沙汰してるっス!」
廊下へ響き渡る声量だった。
「轟さん相変わらずクールっスねぇ!!」
「お前は相変わらず……熱血だ」
「押忍っ!!」
夜嵐が眩しいくらいの笑顔で親指を立てる。
「轟さんも元気そうで何よりっス!!」
「まぁな」
轟は相変わらず淡々としていたが、ほんの少しだけ空気が柔らかい。普段の轟を知っている1−Aの面々からすると、割と珍しい反応だった。
「へぇ〜……轟、ちゃんと友達いたんだな」
上鳴が小声で呟く。
「どういう意味だ」
「いやなんかもっと、“一人で山籠もりしてました”系かと……」
「偏見がすぎますわ」
八百万が呆れる。
一方、物間はまだ腹を押さえたまま震えていた。
「夜嵐君……! 君はもっとこう、B組の誇りとかを——」
「誇りは大事っス!! でも朝から他クラスに嫌味言うのは違うっス!!」
「論破された……」
瀬呂が呟くと、拳藤が物間の襟首をぐいっと引っ張った。
「ほら行くよ! 体育祭前に問題起こしたら洒落になんないんだから!」
「ちょ、待ってまだ僕はA組へ言いたい事が——」
「はい黙る!」
「むぐっ」
拳藤の手が物間の口を雑に塞ぎ、そのままずるずると廊下を引きずっていく。
「おおっ!? じゃあ俺も行くっス!!」
夜嵐も慌てて後を追い掛けたが、去り際にくるりと振り返った。
「轟さん!! 今度また飯行きましょう!!」
「あぁ……次は粉もの以外で頼むな」
轟が思い出したように頷くと、夜嵐は更に勢いよく笑った。
「もちろんっス! 今度こそエンデヴァーさんとか誘ってくださいね!!」
「お父さん、最近特に忙しそうだからな。まあ言っておくよ」
「絶対っス!」
夜嵐は、物間を引きずる拳藤の後を嵐みたいな勢いで去っていく。
「離したまえ拳藤さん!! 僕はまだA組に対する正当な意見表明が——」
「うるさい!」
「ぐふっ」
再び鈍い音が響き、B組の面々が完全に去ると、廊下には妙な静寂だけが残った。
「……なんだったんだ今の」
耳郎がぽつりと呟く。
「台風?」
芦戸が真顔で言うと、切島が苦笑した。
「いや、マジで嵐だったな……」
だが同時に、1−Aの誰もが薄々理解していた。
自分達は、本当に注目されている。USJ事件以降、他クラスからも、教師からも、世間からも、“見られる側”になっている。体育祭は、その視線が更に加速する舞台だ。
教室内の空気が、少しだけ引き締まる。
そんな中、八百万が静かに口を開いた。
「ちなみに、彼——夜嵐イナサさんは、かなりの実力者ですわ」
「え?」
麗日が振り向く。
「推薦入試枠主席合格ですの」
「……は?」
上鳴が固まった。
「え、推薦主席って……」
「轟君や、わたくしを抑えてですわ」
その瞬間、教室の空気が僅かに変わった。
推薦組。それだけでも、雄英内では別格扱いされる。その中で主席ということは、入学時点の評価だけなら、間違いなく一年の中でも最上位にいるということだった。
「……1年の中でもトップクラスって事か」
尾白が低く呟くと、八百万は小さく頷いた。
「えぇ。入学当初のポテンシャルだけで言えば……間違いなく、1年生の中でも一番ですわ」
八百万の言葉に、教室の空気が少しだけ静まる。
「マジかよ……いや、あのテンションで?」
上鳴が引いた顔をする。
「むしろあのテンションだからこそ、底知れないというか……」
尾白が苦笑した。
一方、轟は特に驚いた様子もなく、ただ静かに窓の外を見ている。その横顔を見ながら、出久は無意識にノートへ視線を落とした。
推薦主席。
体育祭で自分が勝ち抜かなければならない相手は、A組だけじゃない。雄英全体、全科、全員が全国へ向けて自分を売り込みに来る。
出久の指先が、僅かにノートを握った。
その時、教室扉が開いた。
「はい、ホームルーム始めるぞ」
低く気怠げな声。相澤消太だった。
半眼のまま教室を見回した相澤は、ぼそりと言う。
「体育祭前だからって浮かれるなよ。お前らが注目されてるのは事実だ。だが、それで実力が上がる訳じゃない」
静かな声だった。けれど、その一言で教室の空気が少し変わる。
「プロが見るのは、派手さだけじゃない。状況判断、応用力、メンタル、ヒーローとしての完成度。全部見られると思え」
「……!」
出久の背筋が、ぴんと伸びる。
「以上。じゃあ今日も授業だ。体育祭準備で浮ついて単位落とすなよ」
相澤はあっさり話を終えると、そのまま出席簿を開いた。
そして、いつもの雄英の一日が始まった。
──だが、クラス全体の空気はどこか違っていた。
誰もが体育祭を意識している。休み時間の会話も、トレーニングの話題も、対戦予想も、全部が体育祭へ繋がっていた。
放課後。終礼が終わると同時に、教室の空気が一気に解放される。
「よっしゃ帰って特訓!!」
「俺ジム寄ってくわ!」
「騎馬戦ってどうなるんだろうな!」
そんな声が飛び交う中、出久だけは席に座ったまま動かなかった。
ノートを開き、ペンを走らせる。
「障害物競走なら……序盤混雑……いや、轟君が広範囲凍結したら中央突破は危険……」
ぶつぶつと独り言が漏れる。
「騎馬戦……ポイント管理……上位狙いなら狙われる前提……いやでも……」
ページが次々と埋まっていく。戦術、仮説、対策、分析。もう周囲の音すら、ほとんど聞こえていなかった。
「デク君」
「……へ?」
不意に顔を上げると、そこには麗日が立っていた。にこにこと笑いながら、机を覗き込んでいる。
「デク君もやる気満々だね!」
「えっ」
出久は慌ててノートを押さえた。
「あ、いやこれは、その……!」
「うわぁ、すご……めっちゃ書いてるやん!」
麗日が感心したように目を丸くする。
「え、えっと……その、皆強いから……!」
出久の声が少し上擦る。麗日はそんな出久を見て小さく笑ったが、すぐに少しだけ真面目な顔になった。
「でも、なんか安心した」
「……え?」
「デク君、最近ずっと難しい顔しとったから。なんていうか……ずっと張り詰めてる感じ?」
「そ、そんな事ないよ!?」
出久が反射的に声を上げる。
「ほら、体育祭近いし! 皆気合い入ってるし!」
早口だった。自分でも分かるくらい、不自然だった。
だが、麗日はそれ以上追及してこなかった。
「そっか。ならいいんだけど」
「……うん」
出久もぎこちなく笑い返す。
胸の奥が、少し痛んだ。
麗日は何も知らない。自分が今、どこへ踏み込みかけているのかも。だからこそ、余計にまともに目を見られなかった。
「じゃ、うち先帰るね!」
麗日が鞄を持ち上げる。
「デク君もあんまり根詰めすぎんようにね!」
「あ、うん! また明日!」
「また明日!」
軽い足音を響かせながら、麗日が教室を出ていく。
その背中を見送り、出久の表情から笑みが消えた。
静かになった教室には夕日が差し込み、机を赤く染めている。出久はゆっくりノートを閉じると、鞄を持ち、誰もいなくなり始めた廊下を一人で歩き出した。
向かう先は、校舎裏。人気のない通路で、夕方になると急に空気が冷える場所だった。
出久は周囲を見回す。誰もいない。グラウンドの喧騒も、ここまでは届かず、風が木々を揺らしているだけだった。
確認するように、もう一度周囲へ視線を走らせる。
そして、校舎壁面の通気口へ近付いた。
四角い金属格子。
以前、あの異形が現れた場所。
出久は少しだけ躊躇ったが、やがてゆっくり手を伸ばし、通気口を軽く小突いた。
「ジョンちゃん」