間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第23話 うなれ体育祭!

 ──翌日。

 

 雄英高校ヒーロー科1−A教室。

 

 朝から、妙に騒がしかった。

 

「体育祭かぁ……!」

 

 上鳴が、椅子へだらしなく座ったまま声を上げる。

 

「全国放送だろ!? やっべぇな!」

 

「プロも山ほど見に来るらしいぞ!」

 

 切島も興奮した様子で机を叩く。

 

「ここで名前売れたら、マジで将来変わるって話だしな!」

 

「当然だ!」

 

 飯田が、腕を組みながら真面目な顔で頷いた。

 

「雄英体育祭とは、単なる学校行事ではない! 未来のヒーロー社会を担う若者達の登竜門とも言える催事!」

 

 その両腕が、いつものように激しく上下する。

 

 まだ包帯は残っている。

 

 だが、本人は既に完全復活したつもりらしかった。

 

「おぉ、委員長元気だな」

 

「入院してた人間のテンションじゃねぇ……」

 

 瀬呂が苦笑する。

 

 一方。

 

 教室後方。

 

「……」

 

 出久は、自席で静かにノートを見つめていた。

 

 開かれたページ。

 

 障害物競走。

 

 騎馬戦。

 

 個人戦。

 

 大量の書き込み。

 

 シミュレーション。

 

 対策。

 

 動線。

 

 そこへ、更に小さくメモを書き足す。

 

『爆破→視界誘導』

 

『轟君は序盤広範囲制圧?』

 

『常闇君は屋内有利』

 

 ペン先が、止まる。

 

 脳裏へ。

 

『君だけ、手を抜いて戦うつもりかい?』

 

 AFOの声が蘇った。

 

「……っ」

 

 出久は、無意識にペンを握り締める。

 

 駄目だ。

 

 考えるな。

 

 今は体育祭だけを。

 

 そう自分へ言い聞かせた、その時だった。

 

「……ん?」

 

 芦戸が、教室扉の方を見る。

 

「なんか今日、人多くない?」

 

 その一言で。

 

 教室の空気が、少し変わった。

 

 廊下。

 

 そこに。

 

 妙に人がいた。

 

 他クラスの制服姿が、やたら目に入る。

 

 しかも。

 

 ちらちらと、1−Aの中を覗いている。

 

「……なんだぁ?」

 

 爆豪が、露骨に眉を寄せた。

 

 次の瞬間。

 

「おっ、いたいた。あいつだよ爆豪、一般入試主席の問題児」

 

「緑谷ってどいつ?」

 

「相澤先生守ったってマジ?」

 

 ざわっ、と。

 

 廊下側の空気が一気に騒がしくなる。

 

「うわっ」

 

 麗日が、少し引いた顔をした。

 

 教室前。

 

 既に軽い人だかりが出来ていた。

 

 しかも増えている。

 

 通り過ぎるふりをしながら覗く者。

 

 露骨に立ち止まる者。

 

 スマホを構えようとして、耳郎に睨まれて引っ込める普通科生徒までいる。

 

「な、なんだよこれ……」

 

 瀬呂が苦笑する。

 

「動物園か?」

 

「違ぇよ」

 

 爆豪が、苛立った声で吐き捨てる。

 

「偵察のつもりなんだろうよ」

 

 その言葉通りだった。

 

 USJ襲撃事件。

 

 その現場へ居合わせ、生き残ったのが1−Aだった。

 

 当然。

 

 校内の注目度は、異常なほど上がっていた。

 

「体育祭前に情報集めたいんだろうな」

 

 常闇が、静かに呟く。

 

「特に我々A組は、実戦経験持ちとして見られている」

 

「あー……」

 

 尾白が納得したように頷く。

 

「確かに、他のクラスからしたら気になるよな」

 

「どんな奴がいるか、とか」

 

 だが。

 

 その直後だった。

 

「いやあ!」

 

 廊下側から、やけに大きな声が響いた。

 

「A組って色んな武勇伝があるから、どんな人間がいるのかと思って見に来たんだけどさぁ!」

 

 ざわ、と。

 

 廊下の野次馬達が少し割れる。

 

 その中央。

 

 一人の男子生徒が、わざとらしく肩を竦めて立っていた。

 

 淡い金髪。

 

 細身の体格。

 

 整った顔立ち。

 

 だが。

 

 口元へ張り付いた笑みが、致命的に胡散臭い。

 

 ニタニタ、と。

 

 人を小馬鹿にするみたいな笑い方だった。

 

「なんだか、思ったよりパッとしないねぇ!」

 

「……あ?」

 

 爆豪の額へ、青筋が浮かぶ。

 

 教室の空気が、一瞬でぴりついた。

 

 男子生徒は、そんな反応すら楽しむみたいに笑う。

 

「あれぇ? 怒った?」

 

「いやいや、別に悪口じゃないんだよ?」

 

 わざとらしく両手を広げる。

 

「もっとこう……ヴィランをぶっ飛ばしてきました! みたいな殺気立った集団かと思ってたんだけどさ!」

 

 ちら、と。

 

 飯田の包帯を見る。

 

「意外と普通だなぁって!」

 

「貴様……!」

 

 飯田が、ぎり、と歯を食い縛る。

 

 だが。

 

 男子生徒は止まらない。

 

「全国ニュースだもんねぇ、A組」

 

 にやにや笑いながら、教室内を見回す。

 

「USJ襲撃事件! テレビで見ない日がないよまったく!」

 

 まるで芝居の台詞を読み上げるみたいな口調だった。

 

「いやぁ〜、そりゃ注目も集まるよねぇ!」

 

「てか、誰」

 

 耳郎が、露骨に嫌そうな顔で言う。

 

 すると。

 

 男子生徒は、待ってましたと言わんばかりに胸へ手を当てた。

 

「これは失礼」

 

 大袈裟な一礼。

 

「僕は物間寧人」

 

 顔を上げる。

 

 その笑みは、相変わらず性格が悪そうだった。

 

「ヒーロー科1年B組さ」

 

「B組……」

 

 瀬呂が、小さく呟く。

 

 すると物間は、ふっと肩を竦めた。

 

「いやぁ、困るんだよねぇ」

 

「A組ばっかり注目されるの」

 

 その声色が、ほんの少しだけ変わる。

 

 軽薄な調子の奥。

 

 そこに、妙に生々しい感情が混じっていた。

 

「同じヒーロー科なのに」

 

「世間はA組、A組」

 

「教師も期待の中心はA組」

 

「話題も全部A組」

 

 物間が、わざとらしく溜め息を吐く。

 

「まるでB組が“ハズレ”みたいじゃないか」

 

 その瞬間。

 

 教室内の空気が、僅かに変わった。

 

 これは単なる煽りではない。

 

 本気で思っている。

 

 B組として。

 

 A組へ対抗意識を抱いている。

 

「だからさ」

 

 物間が、にたりと笑う。

 

「体育祭では、ぜひ期待外れじゃない所を見せてくれよ?」

 

「……上等じゃねぇか」

 

 爆豪が、椅子から立ち上がる。

 

 掌から、小さく火花が散った。

 

「B組ごときが調子乗ってんじゃ——」

 

 その瞬間。

 

 バシィンッ!! 

 

「いっっっっだぁ!?」

 

 乾いた音が、廊下へ響いた。

 

 物間の後頭部が、横から思い切り叩かれる。

 

 勢い余って、物間の身体が前のめりに崩れた。

 

「ちょっ強——」

 

 言い終わる前だった。

 

 ドスンッ!! 

 

「ぶふぉっ!!?」

 

 今度は。

 

 物間の腹へ、真正面から拳がめり込んだ。

 

 空気が抜ける音。

 

 物間が、そのままくの字に折れ曲がる。

 

「静かにっス!!」

 

 やたら声のでかい叫びと共に。

 

 物間を殴った男子生徒が、びしっと姿勢を正した。

 

 丸刈りの頭に、鋭い目つきの四白眼。

 

 大型犬みたいなエネルギーを全身から放っている。

 

 そして何より。

 

 声量が異常だった。

 

「朝から他クラスへ喧嘩売るのは良くないっスよ!!」

 

「ごっ……!? 夜嵐……っ、君また加減が……!!」

 

 腹を押さえたまま、物間が床へ膝をつく。

 

 そこへ。

 

「ほんっとごめんねA組!!」

 

 今度は、快活な女子生徒が割って入った。

 

 大きな拳。

 

 ショートヘア。

 

 活発そうな雰囲気。

 

 彼女は、ぐったりしている物間の襟首を掴みながら、申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「こいつ、あんた達に嫉妬しちゃってんの!」

 

「最近ずっと“A組A組”ってうるさいんだから!」

 

「そ、それはB組代表としてだね!? 決して個人的感情では——」

 

「はいはい」

 

 拳藤が、雑に流す。

 

 そのやり取りに、1−A側からも苦笑が漏れた。

 

「なんだこいつら……」

 

 瀬呂が呆れた声を出す。

 

「漫才か?」

 

「でも助かった……」

 

 麗日が、小さく安堵する。

 

 一方。

 

「……」

 

 教室後方。

 

 轟だけは、少し離れた場所から静かにその騒動を見ていた。

 

 だが。

 

 ふと。

 

 腹を押さえている物間の隣。

 

 夜嵐イナサの顔を見た瞬間。

 

「……おっ」

 

 轟が、珍しく小さく反応した。

 

 軽く片手を上げる。

 

 すると。

 

「おおっ!?」

 

 夜嵐の顔が、一気に明るくなった。

 

「轟さん!!」

 

 ぶんぶん、と。

 

 大型犬みたいな勢いで手を振る。

 

「お久しぶりっス!!」

 

「あぁ、推薦組の打ち上げ以来だな」

 

 轟も、小さく手を振り返す。

 

 その光景に。

 

「え?」

 

 八百万が、目を瞬かせた。

 

「轟さん、お知り合いですの?」

 

「あぁ」

 

 轟が頷く。

 

「推薦入試で一緒だった」

 

 夜嵐が、大声で反応する。

 

「そうっス!!  ご無沙汰してるっス!」

 

 廊下へ響き渡る声量だった。

 

「轟さん相変わらずクールっスねぇ!!」

 

「お前は相変わらず……熱血だ」

 

「押忍っ!!」

 

 夜嵐が、眩しいくらいの笑顔で親指を立てる。

 

「轟さんも元気そうで何よりっス!!」

 

「まぁな」

 

 轟は、相変わらず淡々としていた。

 

 だが。

 

 ほんの少しだけ、空気が柔らかい。

 

 普段の轟を知っている1−Aの面々からすると、割と珍しい反応だった。

 

「へぇ〜……」

 

 上鳴が、小声で呟く。

 

「轟、ちゃんと友達いたんだな」

 

「どういう意味だ」

 

「いやなんかもっと、“一人で山籠もりしてました”系かと……」

 

「偏見がすぎますわ」

 

 八百万が呆れる。

 

 一方。

 

「ぐっ……!」

 

 物間が、まだ腹を押さえたまま震えていた。

 

「夜嵐君……! 君はもっとこう、B組の誇りとかを——」

 

「誇りは大事っス!!」

 

 夜嵐が即答する。

 

「でも朝から他クラスに嫌味言うのは違うっス!!」

 

「論破された……」

 

 瀬呂が呟いた。

 

 すると。

 

「ほら行くよ!」

 

 拳藤が、物間の襟首をぐいっと引っ張る。

 

「体育祭前に問題起こしたら洒落になんないんだから!」

 

「ちょ、待ってまだ僕はA組へ言いたい事が——」

 

「はい黙る!」

 

「むぐっ」

 

 拳藤の手が、物間の口を雑に塞ぐ。

 

 そのまま。

 

 ずるずると廊下を引きずられていく。

 

「おおっ!? じゃあ俺も行くっス!!」

 

 夜嵐も慌てて後を追い掛ける。

 

 そして。

 

 去り際。

 

 くるり、と振り返った。

 

「轟さん!!」

 

 また無駄に声が大きい。

 

「今度また飯行きましょう!!」

 

「あぁ……次は粉もの以外で頼むな」

 

 轟が思い出したように頷く。

 

 すると夜嵐は、更に勢いよく笑った。

 

「もちろんっス! 今度こそエンデヴァーさんとか誘ってくださいね!!」

 

「お父さん、最近特に忙しそうだからな、まあ言っておくよ」

 

「絶対っス!」

 

 夜嵐は物間を引きずる拳藤の後を、嵐みたいな勢いで去っていく。

 

「離したまえ拳藤さん!! 僕はまだA組に対する正当な意見表明が——」

 

「うるさい!」

 

「ぐふっ」

 

 再び鈍い音が響いた。

 

 そして。

 

 B組の面々が完全に去ると。

 

 廊下には、妙な静寂だけが残った。

 

「……なんだったんだ今の」

 

 耳郎が、ぽつりと呟く。

 

「台風?」

 

 芦戸が真顔で言う。

 

「いや、マジで嵐だったな……」

 

 切島が苦笑した。

 

 だが。

 

 同時に。

 

 1−Aの誰もが、薄々理解していた。

 

 自分達は。

 

 本当に注目されている。

 

 USJ事件以降。

 

 他クラスからも。

 

 教師からも。

 

 世間からも。

 

 “見られる側”になっている。

 

 体育祭は、その視線が更に加速する舞台だ。

 

「……」

 

 教室内の空気が、少しだけ引き締まる。

 

 そんな中。

 

「ちなみに」

 

 八百万が、静かに口を開いた。

 

「彼——夜嵐イナサさんは、かなりの実力者ですわ」

 

「え?」

 

 麗日が振り向く。

 

 八百万は、真面目な顔で続けた。

 

「推薦入試枠主席合格ですの」

 

「……は?」

 

 上鳴が固まる。

 

「え、推薦主席って……」

 

「轟君や、わたくしを抑えてですわ」

 

 その瞬間。

 

 教室の空気が、僅かに変わった。

 

 推薦組。

 

 それだけでも、雄英内では別格扱いされる。

 

 その中で主席。

 

 つまり。

 

 入学時点の評価だけなら。

 

「……1年の中でもトップクラスって事か」

 

 尾白が、低く呟く。

 

 八百万は、小さく頷いた。

 

「えぇ」

 

 そして。

 

 少しだけ視線を細める。

 

「入学当初のポテンシャルだけで言えば……間違いなく、1年生の中でも一番ですわ」

 

 八百万の言葉に。

 

 教室の空気が、少しだけ静まる。

 

「マジかよ……」

 

 上鳴が引いた顔をする。

 

「いや、あのテンションで?」

 

「むしろあのテンションだからこそ、底知れないというか……」

 

 尾白が苦笑した。

 

 一方。

 

「……」

 

 轟は、特に驚いた様子もなかった。

 

 ただ静かに窓の外を見ている。

 

 その横顔を見ながら。

 

(推薦主席……)

 

 出久は、無意識にノートへ視線を落とす。

 

 体育祭。

 

 自分が勝ち抜かなければならない相手は、A組だけじゃない。

 

 雄英全体。

 

 全科。

 

 全員。

 

 全国へ向け、自分を売り込みに来る。

 

「……」

 

 出久の指先が、僅かにノートを握る。

 

 その時だった。

 

 ガラッ。

 

 教室扉が開いた。

 

「はい、ホームルーム始めるぞ」

 

 低く、気怠げな声。

 

 相澤消太だった。

 

 半眼のまま教室を見回し。

 

「体育祭前だからって浮かれるなよ」

 

 ぼそり、と言う。

 

「お前らが注目されてるのは事実だ。だが、それで実力が上がる訳じゃない」

 

 静かな声。

 

 だが。

 

 教室の空気が、少し変わる。

 

「プロが見るのは、派手さだけじゃない」

 

 相澤の視線が、一人ずつを射抜く。

 

「状況判断」

 

「応用力」

 

「メンタル」

 

「ヒーローとしての完成度」

 

「全部見られると思え」

 

「……!」

 

 出久の背筋が、ぴんと伸びる。

 

「以上」

 

 相澤は、あっさり話を終えた。

 

「じゃあ今日も授業だ。体育祭準備で浮ついて単位落とすなよ」

 

 そのまま出席簿を開く。

 

 そして。

 

 いつもの雄英の一日が始まった。

 

 

 

 

 

 ──

 

 だが。

 

 クラス全体の空気は、どこか違う。

 

 誰もが体育祭を意識していた。

 

 休み時間の会話も。

 

 トレーニングの話題も。

 

 対戦予想も。

 

 全部が体育祭へ繋がっている。

 

 放課後。

 

 終礼が終わると同時に。

 

 教室の空気が、一気に解放された。

 

「よっしゃ帰って特訓!!」

 

「俺ジム寄ってくわ!」

 

「騎馬戦ってどうなるんだろうな!」

 

 そんな声が飛び交う中。

 

「……」

 

 出久だけは、席へ座ったまま動かなかった。

 

 ノートを開く。

 

 ペンを走らせる。

 

「障害物競走なら……序盤混雑……いや、轟君が広範囲凍結したら中央突破は危険……」

 

 ぶつぶつ、と。

 

 独り言が漏れる。

 

「騎馬戦……ポイント管理……上位狙いなら狙われる前提……いやでも……」

 

 ページが、次々埋まっていく。

 

 戦術。

 

 仮説。

 

 対策。

 

 分析。

 

 もう周囲の音すら、ほとんど聞こえていない。

 

「デク君」

 

「……へ?」

 

 不意に。

 

 顔を上げる。

 

 そこには、麗日が立っていた。

 

 にこにこと笑いながら、机を覗き込んでいる。

 

「デク君もやる気満々だね!」

 

「えっ」

 

 出久が、慌ててノートを押さえる。

 

「あ、いやこれは、その……!」

 

「うわぁ、すご……」

 

 麗日が、感心したように目を丸くする。

 

「めっちゃ書いてるやん!」

 

「え、えっと……その、皆強いから……!」

 

 出久の声が、少し上擦る。

 

 麗日は、そんな出久を見て小さく笑った。

 

「ふふっ」

 

 そして。

 

 少しだけ真面目な顔になる。

 

「でも、なんか安心した」

 

「……え?」

 

「デク君、最近ずっと難しい顔しとったから」

 

「……」

 

 出久の肩が、ぴくりと揺れる。

 

 麗日は、心配そうにこちらを見ていた。

 

「なんていうか……ずっと張り詰めてる感じ?」

 

「そ、そんな事ないよ!?」

 

 出久が、反射的に声を上げる。

 

「ほら、体育祭近いし! 皆気合い入ってるし!」

 

 早口だった。

 

 自分でも分かるくらい、不自然だった。

 

 だが。

 

 麗日は、それ以上追及してこなかった。

 

「そっか」

 

 ふわり、と笑う。

 

「ならいいんだけど」

 

「……うん」

 

 出久も、ぎこちなく笑い返す。

 

 胸の奥が、少し痛んだ。

 

 麗日は何も知らない。

 

 自分が今、どこへ踏み込みかけているのかも。

 

 だからこそ。

 

 余計に、まともに目を見れなかった。

 

「じゃ、うち先帰るね!」

 

 麗日が鞄を持ち上げる。

 

「デク君もあんまり根詰めすぎんようにね!」

 

「あ、うん! また明日!」

 

「また明日!」

 

 ぱたぱたと。

 

 軽い足音を響かせながら、麗日が教室を出ていく。

 

 その背中を見送り。

 

「……」

 

 出久の表情から、笑みが消えた。

 

 静かになった教室。

 

 夕日が差し込み、机を赤く染めている。

 

 出久は、ゆっくりノートを閉じた。

 

 鞄を持つ。

 

 そして。

 

 誰もいなくなり始めた廊下を、一人歩き出した。

 

 向かう先は。

 

 校舎裏。

 

 人気のない通路。

 

 夕方になると、急に空気が冷える場所だった。

 

「……」

 

 出久は、周囲を見回す。

 

 誰もいない。

 

 グラウンドの喧騒も、ここまでは届かない。

 

 風が、木々を揺らしているだけ。

 

 確認するように、もう一度周囲へ視線を走らせる。

 

 そして。

 

 校舎壁面の通気口へ近付いた。

 

 四角い金属格子。

 

 以前、あの異形が現れた場所。

 

「……」

 

 出久は、少しだけ躊躇う。

 

 だが。

 

 ゆっくり手を伸ばし。

 

 コン、と。

 

 通気口を軽く小突いた。

 

「ジョンちゃん」

 

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