数日後。
出久は、制服のポケットから何度目かになる紙片を取り出した。
そこには、簡潔な住所だけが書かれている。志賀に渡されたその紙は、病院関係の書類とは思えないほど素っ気なく、説明も補足もなかった。ただ、場所だけが示されている。
——本当に、ここでいいのか。
何度目かの疑問が浮かぶ。だが、ここまで来て引き返すという選択肢は、もう現実味を持たなかった。
来てしまった。
あの場所で「なりたい」と口にしてしまった以上、これはその先にあるものなのだ。
出久はスマートフォンの地図と紙片を見比べた。指し示す先は、繁華街の一角。昼間でも人通りが絶えないはずの場所——のはずだった。
だが、足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
人はいる。いないわけではない。けれど、流れが違う。
明るい店の並ぶ通りから一本外れただけで、視線は合わず、会話は低く、足取りは速くなる。誰もが長居することを前提としていない空間だった。
建物は古く、看板は色褪せ、シャッターの閉まった店が目立つ。昼だというのに路地は薄暗く、湿った空気がこもっていた。
——治安が、悪い。
そうとしか言いようがなかった。
出久は、無意識に歩幅を狭める。靴音がやけに響き、誰かに見られているような気がして、何度も背後を振り返った。だが振り返るたび、そこには誰もいない。ただの通行人か、壁にもたれたまま動かない影があるだけだった。
住所は、さらに奥を指している。
細い路地に入ると、舗装はひび割れ、ゴミ袋が無造作に積まれていた。鼻をつく匂いが漂い、空気は明らかに澱んでいる。
こんな場所に——
言葉にならない違和感が、喉の奥に引っかかった。
ヒーロー事務所でもない。研究施設でもない。まして、病院の関連施設には到底見えなかった。
出久は足を止めた。
路地の奥は暗い。昼間だというのに光が届かず、建物同士の隙間には湿った冷気が溜まっている。
無意識に拳を握った、その時だった。
「メルスィー☆」
至近距離。
耳元に直接落とされたような声だった。
「っ!?」
出久の身体が跳ねる。慌てて振り向くと、そこには誰も——いや、暗がりの奥、ビルの壁にもたれかかるように、一人の少年が立っていた。
いつからいたのか、まったく分からない。
気配がなかった。
少年は出久と同年代に見えた。金髪で、長めの前髪の隙間から覗く大きな目は、きらきらと輝いている。顔立ちは整っていた。モデルか俳優だと言われても信じてしまいそうなほどに。
だが、その整い方は、この路地裏にはあまりにも不釣り合いだった。
薄暗い空間の中で、少年だけが妙に浮いて見える。金髪は光を弾き、制服とも私服ともつかない洒落た装いには、埃一つ付いていない。
まるで、別の世界から迷い込んできたようだった。
少年は出久の驚いた顔を見ると、満足そうに笑みを深める。
「君が緑谷出久君だね?」
声音は軽やかだった。警戒心を抱かせないよう作られた、柔らかい調子。
だが、出久は逆に背筋が寒くなる。
まただ。
どうして皆、自分の名前を当然のように知っているのか。
「え、あ……」
言葉に詰まる出久へ、少年は大袈裟な仕草で胸に手を当てた。
「僕は青山優雅☆」
そして、ぱちりと片目を閉じる。
「君を案内するように、おじさまから仰せつかっているんだ☆」
語尾に星が付きそうなほど芝居がかった口調だった。その場違いな明るさに、出久は一瞬反応が遅れる。
青山優雅。
聞き覚えのある名前ではない。だが、“おじさま”という単語には妙に引っかかった。
志賀のことではない。
あのパソコン越しの人物。
直感的に、そう理解した。
青山はそんな出久の反応を気にした様子もなく、くるりと踵を返す。
「こっちだよ☆」
軽い足取りで歩き出す青山を、出久は慌てて追った。
路地のさらに奥、廃ビルの側面へ回り込む。正面入口はシャッターで塞がれていたが、裏側には錆びついた鉄扉があった。塗装は剥がれ、表面には古い傷がいくつも残っている。
だが、青山は迷いなくその扉に手をかけた。
ギィ、と重い音を立てて扉が開く。隙間から、冷たい空気が流れ出てきた。
「どうぞ☆」
青山は、まるで高級レストランにでも招くように手を差し出した。その笑顔は眩しいほど整っている。
なのに、その向こうに広がる暗闇は、底が見えなかった。
出久は無意識に唾を飲み込む。
「……ここ、に?」
「もちろん☆」
青山は即答した。
「だって、君は“選ばれた側”なんだから」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
選ばれた側。
無個性として生きてきた出久には、あまりにも縁のない響きだった。
青山は先に建物の中へ入っていく。出久は一瞬だけ躊躇したあと、その背を追った。
扉の向こうは、想像以上に暗い。
外観通りの廃ビル——のはずだった。壁紙は剥がれ、床には細かな瓦礫が散らばっている。蛍光灯は半分以上が切れており、残った光も不安定に明滅していた。
空気は冷たい。湿気と鉄錆、そして薬品のような匂いが混ざっている。
青山の靴音だけが、静かな廊下に軽く響いた。
「こっち☆」
案内されるまま奥へ進む。途中、何部屋かの扉が見えたが、どれも閉ざされていて、人の気配はない。
やがて廊下の突き当たりで、青山が立ち止まった。
そこにあったのは、エレベーターではない。無骨な金属製の扉。業務用搬入口のような大型昇降機だった。
青山は慣れた様子でパネルに触れる。
電子音。
直後、重い駆動音と共に扉が左右に開いた。中は狭く、無機質な箱だった。
「地下に行くよ☆」
地下。
その単語だけで、出久の胃が重くなる。だが青山は、何でもないことのように乗り込んでいた。
出久も後に続く。
扉が閉まり、直後、身体が沈む感覚が来る。昇降機は、ゆっくりと下降を始めた。
静かだった。
低いモーター音だけが響き続ける。何階分降りているのか分からない。体感時間だけが長く伸びていく。
出久は、無意識に拳を握った。
青山はそんな様子を気にした風もなく、鼻歌混じりに壁へ寄りかかっている。
「緊張してる? ☆」
「……そ、それは」
「大丈夫だよ☆ おじさま、君のこと結構気に入ってるみたいだし」
気に入っている。
その言葉に、なぜか安心より先に恐怖が来た。
やがて、昇降機が停止する。重い音を立てて扉が開き、出久は息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、別世界だった。
白い。
あまりにも白い空間。
廃ビルの地下とは思えなかった。床は磨き上げられ、壁面には無数のモニターと電子機器が並んでいる。ガラス越しの区画には精密な医療機器、培養槽、見たこともない大型装置が整然と配置されていた。
ケーブルが天井を這い、電子音が規則正しく鳴っている。
研究施設。
いや、もっと異質だ。
表の荒廃と、地下の精密さが噛み合っていない。まるで、世界そのものが上下で断絶しているようだった。
「……な、なんだ、これ」
思わず漏れた声に、青山は自嘲気味に笑う。
「すごいよね……」
その言葉に答える余裕はなかった。出久の視線は、すでに別のものへ吸い寄せられている。
空間の中央。
そこだけが、まるで玉座のように配置されていた。
巨大な椅子。
いや、椅子型の生命維持装置だった。
夥しい数の管。循環する液体。絶え間なく点滅するモニター。酸素供給装置。人工呼吸器。機械の集合体の中央に、“それ”は座っていた。
出久の呼吸が止まる。
人間だった。
かつては。
顔面は、目と鼻と耳を含めて焼け爛れていた。皮膚はケロイド化し、原型を留めていない。頭部は半分以上が失われ、胴体に至っては八割近くが消失している。
残された肉体には、無数の管が突き刺さっていた。脊椎の代わりに機械骨格が接続され、失われた臓器の代替として、外付けの装置群が稼働している。
生きているようには見えなかった。
死体だ。
そうとしか思えない。
なのに、モニターは脈動している。機械は動いている。そして何より、その“存在”だけが、空間全体を支配していた。
その人物が視界に入った瞬間、隣にいた青山優雅の呼吸が明らかに変わった。
先ほどまでの軽やかな足取りも、芝居がかった笑顔も、綺麗に消えている。顔から血の気が引き、唇が小さく震えていた。
「……」
青山は、何かを言おうとして失敗したように喉を鳴らした。
出久はその横顔を見て、ようやく理解する。
青山は慣れているのではない。
慣れたふりをしていただけだ。
この場所に。この空気に。そして、目の前の“存在”に。
青山は一歩前へ出ると、ぎこちなく背筋を伸ばした。あのきらびやかな調子はどこにもなく、声はひどく細い。
「緑谷出久君を……お連れしました」
それだけだった。
言い終えると、青山は出久の方を見ないまま浅く頭を下げ、逃げるようにその場を離れた。白い床に響く足音は、ひどく早い。
出久は、追うことも、声をかけることもできなかった。
ただ、巨大な椅子型の生命維持装置に座る人物を見つめる。
いや、見つめてしまう。
視線を逸らせなかった。
その時、装置の奥で低い駆動音が一つ増えた。呼吸器が空気を送り込む音。液体が管を巡る音。機械が命を代行する音。
そして。
「……ありがとう、青山優雅君」
声がした。
くぐもっていた。呼吸器越しに濾過されたような、掠れ、濁り、機械の雑音を帯びた声。
だが、出久は知っている。
この声だ。
パソコン越しに聞いた、あの声。優しく、穏やかで、心の奥に冷たい爪を立てる声。
生命維持装置の中の男は、ゆっくりと息を吸った。いや、吸わされた。胸の残骸とも呼ぶべき部分が、機械に合わせてわずかに上下する。
「そして……初めまして、緑谷出久君」
出久の全身が固まった。
「は、はじめ……まして……」
返事は、ほとんど声にならなかった。
男は、わずかに喉を鳴らす。それが笑いなのか、呼吸の失敗なのか、出久には判別できない。
次の瞬間。
「……っ、げほ……ごほっ……」
男が咳き込んだ。
機械音が乱れ、モニターの波形が細かく揺れる。周囲の装置が反応し、いくつもの数値が変化した。
苦しそうだった。
その姿は、支配者というよりも、死に損なった重病人にしか見えない。
だが、怖い。
弱っているはずなのに。死にかけているはずなのに。
この空間で最も恐ろしいものが彼であることだけは、疑いようがなかった。
「……失礼」
男は苦しげに呻いたあと、呼吸器越しに声を発した。
「少し……話すだけでも、骨が折れる身体でね」
そう言っている間にも、管の中を液体が流れ、装置が低く唸る。
彼は生きている。
ありえない姿で。
死体としか思えない姿で。
それでも、確かに生きている。
出久は、喉の奥から絞り出すように言った。
「あなた、は……」
男は、焼け爛れた顔の奥で笑ったように見えた。
「僕かい?」
呼吸器の奥で、低い笑い声が鳴る。ぞっとするほど穏やかな声音だった。
男は無数の管に繋がれたまま、ゆっくりと頭部を動かした。焼け爛れた顔面には目も鼻もない。表情など読み取れるはずもない。
なのに、“見られている”。
出久は、はっきりとそう感じた。
「人は色々な名で僕を呼ぶ」
機械音、呼吸器の駆動音、脈拍モニターの電子音が、静まり返った地下施設の中でやけに大きく響いていた。
その全ての隙間を縫うように、男の声が続く。
「ヴィランの王。裏社会の支配者。災厄。怪物」
男は、わずかに息を吸った。
「最も通った名前を名乗ろう。“オール・フォー・ワン”と呼んでくれたまえ」
出久の思考が、一瞬止まる。
知っている。
その名前を。
いや、知らないはずがない。
都市伝説。古いネット掲示板。ヒーローオタクの間で囁かれる与太話。歴史の裏に潜む“最悪のヴィラン”。
個性を奪い、与える存在。
ありえない能力を持つ怪物。
けれど、そんなものは現実感のない噂だった。
少なくとも、今までは。
「……ぁ」
声が出ない。
AFOは、呼吸器越しに低く笑った。
「驚いたかい?」
次の瞬間。
「……っ、ごほっ、がっ……!」
激しい咳が響いた。生命維持装置が警告音を鳴らし、透明な管の一つにどろりと赤黒い液体が混じる。
血。
AFOの口から、鮮血が零れ落ちた。
「っ!」
出久の身体は、反射的に動いていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
考えるより先だった。
恐怖も、警戒も、一瞬だけ吹き飛んでいた。出久は生命維持装置へ駆け寄り、咄嗟に周囲を見回す。
何をすればいいのか分からない。医療知識などない。それでも、放っておけなかった。
AFOはしばらく咳き込み続けたあと、ゆっくりと呼吸を整える。人工呼吸器が規則正しく空気を送り込み、乱れていたモニターの波形も徐々に安定していった。
そして。
「……ありがとう」
呼吸器越しの、掠れた声。
「君は、とても優しいねえ」
出久の肩が強張る。
「母君の教育が、良かったのかな?」
その言葉に、出久は息を呑んだ。
どうして。
どうして、この人はそんな風に言える。
こんな姿なのに。こんな恐ろしい空気を纏っているのに。まるで、本当に優しい大人みたいに。
「僕のことは、いいんだよ」
AFOは静かに遮った。機械の駆動音が低く響く。
「緑谷出久君」
名前を呼ばれる。
それだけで、背筋が冷える。
「君は、ヒーローになりたいんだってね?」
一拍。
呼吸器が鳴る。
「無個性だってのに」
その言葉は、志賀のような嘲笑ではなかった。呆れでもない。
むしろ、興味だった。
まるで、理解できない生き物を観察するような。壊れた玩具の動作理由を知りたがるような、静かな好奇心。
出久は唇を震わせた。
「……なり、たいです。ヒーローに」
しばしの沈黙が落ちる。
機械音だけが、地下施設に規則正しく響いていた。
AFOは、焼け爛れた身体を生命維持装置へ預けたまま、ゆっくりと残された右腕を動かした。その動作はひどく鈍く、まるで壊れかけた機械を無理やり動かしているようだった。
管が軋み、関節部の補助装置が低く駆動音を鳴らす。
それでもAFOは、震える掌を出久の前へ突き出した。
「素晴らしい」
出久は息を呑む。
掌。
そこには、穴が開いていた。
「……え」
小さい。人差し指が一本入るかどうか程度の、黒い穴。
傷ではない。肉が抉れた痕にも見えない。掌の中央に、“最初からそういう構造だった”かのように存在している。
そして何より、黒かった。
ただ黒いのではない。光を吸っている。地下施設の白い照明が当たっているはずなのに、そこだけが完全な暗闇だった。
底が見えない。
覗き込んでも、何も見えない。漆黒。ただ、どこまでも続く黒だけがそこにあった。
出久の背筋に、ぞわりと悪寒が走る。
「それ、は……」
思わず一歩下がる。
AFOはその反応を楽しむように、呼吸器越しに小さく笑った。
「怖いかい?」
怖い。
本能が、そう叫んでいた。
なのに、視線を逸らせない。
穴は静止しているはずなのに、見ていると感覚が狂う。奥へ引き込まれるような錯覚。重力そのものが歪んでいるような不快感。
「僕の“個性”の入り口だ」
AFOの声が静かに響く。
「奪い、与える」
掌の穴が、微かに脈動したように見えた。
出久の喉が鳴る。
「個性とは、本来、一人に一つの器だ。だが僕は違う。奪い取った個性を保管し、必要に応じて他者へ与えることができる」
淡々とした説明だった。まるで、医者が薬の効能を語るような口調。
「都市伝説だと思っていただろう?」
出久は答えられない。
AFOは続ける。
「当然だ。そうなるようにしてきたからね。恐怖とは、曖昧なほうが都合がいい」
そう言って、AFOはゆっくりと掌を閉じた。
黒い穴が隠れた瞬間、出久はようやく息を吐けた。
気づかなかった。
自分が、呼吸を止めていたことに。
「……さて」
AFOは、生命維持装置に深く身体を預け直した。
「緑谷出久君。君は今、人生の分岐点に立っている」
機械音。呼吸器。脈拍モニター。
そのすべてが、やけに大きく聞こえる。
「力を得るか」
一拍。
「無力なまま終わるか」
出久の指先が、小さく震えた。
「僕の手を取りたまえ、緑谷出久君」
AFOの焼け爛れた顔には、もう目もない。
なのに、その“視線”だけは、確かに出久を見据えていた。
「君は、ヒーローになれる」