間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第30話 家庭の事情

「まずい!」

 

 出久は控え室の時計を見て、跳ねるように立ち上がった。

 

「もう始まってる!」

 

「えっ、ほんと!?」

 

 麗日も慌てて振り返る。

 

 外の歓声は、さっきより明らかに大きくなっていた。レクリエーションの緩い空気ではない。競技場全体が、勝負の熱で震えている音だった。

 

「麗日さん、ありがとう!」

 

 そう言いながら、出久はもう走り出していた。

 

 廊下を抜け、階段を駆け上がる。胸の奥にはまだ、AFOの声が残っていた。

 

 保険。ヒーロー殺し。保須。黒い画面の携帯。

 

 けれど今は、それを振り払うように足を動かした。自分が立てなかった舞台で、皆が何を見せるのかを見なければならない。

 

「すみません、通ります!」

 

 観客席へ戻った瞬間、爆音が響いた。

 

 出久は反射的に肩を竦める。

 

 競技場の中央には白煙が広がっていた。そして、その直後にプレゼント・マイクの絶叫が会場を揺らす。

 

『決着ゥゥゥ!! 第一戦! 爆豪勝己対物間寧人!! 勝者ァ——爆豪勝己ィィィ!!』

 

「……終わってる!?」

 

 出久は息を切らしながら、席の前で固まった。

 

 フィールドの端。場外ラインの向こうに、物間が倒れていた。服は焦げ、髪は乱れ、片膝をつきながらも、口元だけは悔しげに歪んでいる。

 

「くっ……まったく、野蛮だね……!」

 

 その言葉にも、いつもの余裕は薄い。

 

 対する爆豪は、リング中央に立っていた。肩で息をしているが、その目はまだ燃えており、掌からは白い煙が細く上がっている。

 

「舐めた真似してんじゃねぇぞ、コピー野郎」

 

 低い声。観客席まで届くほどではない。

 

 けれど、出久には何となく分かった。

 

 あれは怒っている。

 

 ただ勝っただけではない。騎馬戦で物間に鉢巻を奪われたこと。あの一瞬の屈辱。自分が狙われ、利用され、出し抜かれた事実。それを晴らすように、爆豪は物間を叩き潰したのだ。

 

「……見逃した」

 

 出久は呆然と呟く。

 

 近くにいた切島が振り返った。

 

「お、緑谷! 戻ってきたか!」

 

「切島君! 今の試合、どんな感じだった!?」

 

「いやー、爆豪がすげぇ攻めてたぞ。最初っから最後までずっとだ」

 

 切島は興奮気味に拳を握る。

 

「物間も結構やりづらい戦い方してたんだよ。挑発して、距離取って、触ろうとして、コピーした個性を混ぜてさ。でも爆豪のやつ、全部潰しちまった」

 

「全部……」

 

「ああ。逃げ道塞いで、爆風で牽制して、変なフェイントにも乗らねぇで、最後は真正面からドカンだ」

 

 出久はフィールドを見る。

 

 リングの床には、爆破の焦げ跡がいくつも残っていた。直線的な焦げ、斜めに走る抉れ、物間が逃げようとした痕跡を塞ぐように刻まれた爆風の跡。

 

 出久の頭が、遅れて戦闘を再構築し始める。

 

 物間は、おそらく正面からぶつかっていない。挑発で爆豪の怒りを煽り、判断を粗くさせようとした。個性をコピーするために接触を狙った可能性も高い。

 

 だが爆豪は、必要以上に近付かせなかった。爆風で間合いを操作し、動線を削り、逃げ場を潰した。騎馬戦の時と同じだ。ただし、今度は爆豪が追い詰める側だった。

 

「……すごい」

 

 出久は、無意識に呟いていた。

 

 席を探して観客席の通路を見回すが、周囲は既に人で埋まっている。立ち見の生徒もいるし、プロヒーローらしき大人達もちらほら混ざっていた。

 

「えっと……どこか空いてる場所……」

 

「緑谷!」

 

 声が飛んできた。

 

 出久が振り向くと、少し離れた席で轟が片手を上げていた。

 

「こっち座れるぞ」

 

「あ、轟君!」

 

 見ると、その周辺にはA組の面々が固まっていた。飯田、蛙吹、八百万、耳郎、峰田も座っている。トーナメントに進んだ者と敗退した者、それぞれ表情は違うが、皆リングへ視線を向けていた。

 

「ありがとう!」

 

 出久は通路を抜け、轟達の方へ向かった。

 

 その途中で、ふと足が止まる。

 

「……え」

 

 轟の近くに、とんでもないガタイの男がいた。

 

 座っているのに、周囲の大人より頭一つ大きい。太い首、分厚い肩、鍛え上げられた腕。威圧感というより、そこに一つの壁が置かれているような存在感だった。

 

 しかも、ただの観客ではない。

 

 あの特徴的な炎のような髭。鋭い目。巨大な体躯。

 

 出久は息を呑んだ。

 

「エ……」

 

 声が裏返りそうになる。

 

「エンデヴァー……!」

 

 轟の父。現No.2ヒーロー。フレイムヒーロー、エンデヴァー。

 

 その本人が、当然のようにそこに座っていた。

 

 出久の背筋が一気に伸びる。

 

 エンデヴァーは、ゆっくりと出久へ視線を向けた。炎のように鋭い目だった。ただ見られているだけなのに、身体の奥まで射抜かれるような圧がある。

 

 出久は思わず姿勢を正した。

 

「は、初めまして! み、緑谷出久です!」

 

 噛んだ。しかも声が裏返った。

 

 最悪だった。

 

 だがエンデヴァーは特に気にした様子もなく、低い声で言う。

 

「騎馬戦で焦凍と組んでくれていた子だな」

 

「え、あ、はい!」

 

「焦凍が世話になった。轟炎司、フレイムヒーローエンデヴァーで通している」

 

 短い言葉。

 

 だが、それだけで出久は目を丸くした。まさか、エンデヴァー本人からそんな言葉が来るとは思っていなかった。

 

「い、いえ! 僕の方こそ助けてもらってばっかりで……!」

 

 慌てて頭を下げる。

 

 しかし、目の前の男の威圧感が凄まじい。近い。とにかく近い。画面越しで見るのとは全然違う。呼吸一つ、腕を組む仕草一つにまで重圧がある。

 

 出久は、自分の声が妙に上擦っているのを感じた。

 

「その、轟君すごく強かったですし、判断も冷静で、氷の展開速度も速くて、それに——」

 

「お父さん!」

 

 突然、明るい声が飛んだ。

 

 出久がびくっと肩を揺らす。

 

 エンデヴァーの後ろの席から、落ち着いた女性が身を乗り出していた。

 

「そんな仏頂面しないでよ。緑谷君、めちゃくちゃ緊張してるよ?」

 

「……」

 

 エンデヴァーが僅かに眉を動かす。

 

 そこには、轟の家族らしき人達が座っていた。落ち着いた顔立ちの青年。そして今話しかけてきた、柔らかい雰囲気の女性。

 

 出久は慌てて頭を下げる。

 

「あ、えっと、こんにちは……!」

 

「こんにちは」

 

 女性は、ふわりと微笑んだ。穏やかな声だった。エンデヴァーの隣にいるとは思えないほど、空気が柔らかい。

 

「私は轟冬美。焦凍の姉です」

 

「は、はい! 緑谷出久です!」

 

 出久は慌ててもう一度頭を下げる。

 

 すると冬美の隣に座っていた女性も、少し控えめに会釈した。

 

 白い髪、静かな瞳、どこか儚げな雰囲気を纏った人だった。

 

「……轟冷です。焦凍の母です」

 

「!」

 

 出久は目を見開く。

 

「は、初めまして!」

 

 再び勢いよく頭を下げる。

 

 何だか今日は頭を下げてばかりだった。

 

 冷は少し驚いたように瞬きをしたあと、小さく笑った。

 

「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ」

 

「す、すみません……!」

 

 全然大丈夫じゃなかった。

 

 No.2ヒーロー本人。その家族。しかも轟の両親。情報量が多すぎる。

 

 その横で、青年が軽く片手を上げた。

 

「こんちは」

 

 気怠げだが、嫌な感じではない。

 

「轟夏雄。焦凍の兄です、よろしく」

 

「よ、よろしくお願いします!」

 

「そんな固くならなくていいって」

 

 冬美もくすっと笑った。

 

「ほんとだよねぇ。焦凍のお友達、みんな真面目な子多いのかな」

 

「友達……」

 

 出久は思わず轟を見る。

 

 轟は特に否定しなかった。

 

 その事実に、出久の顔が少し熱くなる。

 

 そんな空気の中、轟がふと周囲を見回した。

 

「燈矢兄は?」

 

 その名前に、夏雄が「あー」と声を漏らす。

 

「焦凍が“最高傑作”のくせに最終種目に残る前に負けちゃったから、もう見ても仕方ないって行っちゃった」

 

「……」

 

 一瞬、空気が止まる。

 

 出久はぎくりとした。

 

 最高傑作。

 

 その単語には、妙な棘があった。

 

 だが轟本人は特に気にした様子もなく、

 

「はいはい、最高傑作最高傑作」

 

 と、半ば聞き流すように返した。

 

 慣れている声音だった。

 

 夏雄は苦い顔のまま、肩を竦める。

 

「引き摺ってるなぁ、あの事」

 

「燈矢兄らしいけどな」

 

 轟はあっさり返す。

 

 冬美が小さくため息を吐いた。

 

「もうちょっと言い方あると思うんだけどねぇ……」

 

 冷は静かに苦笑している。

 

 その空気を横で聞きながら、出久はそっとエンデヴァーを見上げた。

 

「……」

 

 エンデヴァーが、妙に気まずそうに視線を逸らした。

 

 リングの方へ、ものすごく自然を装って。

 

 だが、明らかに話題から逃げた時の動きだった。

 

「……え?」

 

 出久は思わず瞬きをする。

 

 あのエンデヴァーが。

 

 テレビでは常に堂々としていて、どんな記者にも、どんなヴィランにも真正面から睨み返す男が。

 

 今、家族の会話から目を逸らした。

 

 夏雄も気付いたらしく、じとっとした目を向ける。

 

「親父、今絶対聞こえないフリしただろ」

 

「していない」

 

「したって」

 

「していない」

 

 だが視線は頑なにリングのままだった。

 

 出久は困惑する。

 

 怖い。怖いのだが、何だか少しだけ、想像していたエンデヴァーと違う。もっとこう、常に炎みたいに怒鳴っている人かと思っていた。

 

「お父さん」

 

 轟がふと口を開く。

 

「仕事いいのか?」

 

「……」

 

 エンデヴァーは腕を組んだまま答えた。

 

「今日は日中休みを取った」

 

 低い声。だが先ほどより少し落ち着いている。

 

「燈矢が現場に戻ったなら、尚更だ。数時間くらい俺がいなくても問題ない」

 

「へぇ……」

 

 夏雄が少し意外そうな顔をする。

 

「ちゃんと休み取ったんだ」

 

「悪いか」

 

「いや、別に」

 

 冬美がくすっと笑った。

 

「お父さん、昨日から結構前倒しで仕事片付けてたもんね」

 

「体育祭観に行くために?」

 

 夏雄が半笑いで言う。

 

「うるさい」

 

 エンデヴァーの返しは短い。

 

 だが、否定はしなかった。

 

 出久は、思わずもう一度エンデヴァーを見る。すると今度は視線が合った。

 

「っ」

 

 出久の背筋が反射的に伸びる。

 

 だがエンデヴァーは、さっきほど鋭い目では見ていなかった。

 

「焦凍の試合は終わったが、まだ他の競技もある」

 

「……はい」

 

「最後まで見るつもりだ」

 

 それだけ言って、再びリングへ視線を戻す。

 

 出久は少しだけ呆然とした。

 

 何だろう。

 

 上手く言えない。

 

 怖い人なのは変わらない。威圧感も凄い。

 

 けれど家族の体育祭を見に来て、仕事を前倒しして、兄弟にからかわれて気まずそうに視線を逸らす。そういう部分を見てしまうと、テレビの中の“フレイムヒーロー”とは少し違って見えた。

 

『さぁ続いて第二試合ィィ!!』

 

 歓声が再び会場を揺らす。

 

 出久はリングへ視線を戻した。

 

『第二試合はァ! 個性駄々被り対決だァァ!!』

 

 プレゼント・マイクの声が、競技場を突き抜ける。

 

『鉄哲徹鐵対、切島鋭児郎ォ!! 硬い! 硬いぞ! どっちも硬い!! 実況泣かせの真正面勝負、始まるぜェ!!』

 

 リングの上で、鉄哲が拳を鳴らした。

 

「おっしゃあ!! やっと俺の出番だ!!」

 

 対する切島も、歯を見せて笑う。

 

「いいなぁ、こういうの! 分かりやすくて男らしいぜ!」

 

「上等だ切島ァ!」

 

「来い鉄哲!」

 

 開始の合図と同時に、二人の身体が変化した。

 

 切島の皮膚が鋭く硬化し、鉄哲の身体が鈍い金属光沢を帯びる。

 

 そして、真正面からぶつかった。

 

 鈍い音が響く。

 

 拳と拳。硬化と鋼鉄。

 

 小細工なし。距離を取るでもなく、フェイントをかけるでもなく、ただ互いの正面に立って殴り合う。

 

「うおおおおおお!!」

 

「負けるかああああ!!」

 

 拳がぶつかる音は、まるで鉄骨同士を打ち付けているみたいだった。

 

 観客席がどよめき、すぐにそのどよめきは歓声へ変わった。

 

『シンプル!! あまりにもシンプル!! だが熱い!! こういうのでいいんだよォォ!!』

 

 マイクの実況に、会場がさらに沸く。

 

 出久も思わず身を乗り出していた。

 

「すごい……本当に真正面から……」

 

「相性が悪いというより、同じすぎるな」

 

 轟が隣で言う。

 

「うん。どっちも防御力と打撃耐性が高いから、普通の攻撃じゃ決定打になりにくい。でも逆に言えば、消耗戦になれば持続時間と根性比べになる……」

 

「根性比べなら、どっちも得意そうだな」

 

「たしかに……」

 

 リングでは、切島が鉄哲の拳を頬で受け止め、そのまま笑った。

 

「効いてねぇぞ!」

 

「こっちの台詞だ!」

 

 鉄哲の拳が切島の腹へ入り、切島の拳が鉄哲の肩へ返る。

 

 避けない。下がらない。ただ前へ。ただ殴る。

 

 そのあまりにも分かりやすい戦い方に、観客席の熱はどんどん上がっていった。

 

「いけー切島!」

 

「鉄哲負けんな!」

 

「どっちも頑張れー!」

 

 A組もB組も、いつの間にか声援を送っている。

 

 耳郎が呆れたように笑った。

 

「これ、戦術とかある?」

 

「ある意味、究極に分かりやすいわね」

 

 蛙吹が口元に指を当てる。

 

「でも、嫌いじゃないわ」

 

 飯田ならきっと、競技規則と安全面について何か言いそうだった。

 

 そう思って、出久は何気なく隣の方を見る。

 

「……あれ?」

 

 飯田の席が空いていた。

 

 さっきまで確かにいたはずだ。眼鏡を押さえながら、いつものように背筋を伸ばして座っていた。

 

 出久は周囲を見回す。

 

 そして見つけた。

 

 観客席の通路。飯田が、ひとり歩いている。

 

 背中が硬い。いつもの大股ではない。けれど、足取りには妙な焦りがあった。顔は見えないが、横顔が一瞬だけ見えた。

 

 深刻そうだった。

 

「飯田君……?」

 

 出久は小さく呟く。

 

 リングでは、切島と鉄哲がまだ殴り合っている。歓声は大きい。誰も、飯田が席を離れたことには気付いていないようだった。

 

 出久の胸の奥に、嫌なざわめきが走る。

 

 ヒーロー殺し。保須。

 

 AFOの声が、胸の奥で嫌に鮮明に蘇る。

 

『近いうちに、保須で少し騒がしくなる』

 

 出久の中で、繋がってほしくない線が勝手に繋がっていく。

 

「……っ」

 

 気付いた時には、立ち上がっていた。

 

「緑谷?」

 

 轟がこちらを見る。

 

「ごめん、ちょっと!」

 

 出久はそれだけ言って、通路へ駆け出した。

 

 背後ではまだ、鉄哲と切島の拳がぶつかる音が響いている。観客の歓声も、プレゼント・マイクの実況も、全部が遠くなる。

 

 出久は人の間を縫うように進み、観客席の出口へ向かった。

 

「飯田君!」

 

 通路の先で、飯田が足を止める。

 

「……緑谷君」

 

「どうしたの? 急に出ていくから」

 

 飯田は一瞬だけ視線を逸らした。

 

「何でもない」

 

 硬い声だった。

 

「少し、用事が出来た。何でもない」

 

「何でもない顔じゃないよ!」

 

 出久の声が、思ったより強く出た。

 

 飯田が目を見開く。出久自身も少し驚いた。

 

 けれど、止められなかった。

 

「飯田君、さっきから様子がおかしい。いつもなら試合中に黙って席を立ったりしない。何かあったんでしょ?」

 

「……」

 

「言えないことなら、無理には聞かない。でも……」

 

 出久は拳を握る。

 

「一人で抱え込む顔、してる」

 

 その言葉を言った瞬間、自分の胸にも刺さった。

 

 一人で抱え込む。

 

 さっき麗日に言われたばかりの言葉だった。

 

 飯田は、しばらく黙っていた。

 

 廊下の向こうからは、会場の歓声が響いてくる。鈍い打撃音も混ざっている。切島と鉄哲の試合はまだ続いているらしい。

 

 その音の中で、飯田はゆっくりと息を吐いた。

 

「……兄が」

 

 声が掠れていた。

 

 出久の心臓が、嫌な跳ね方をする。

 

「兄が、襲われた」

 

「……」

 

「病院に運ばれた、らしい」

 

 飯田はそこまで言って、唇を噛んだ。

 

 “らしい”。

 

 その言い方が、かえって生々しかった。

 

 まだ本人も、事実を掴みきれていない。信じたくない。けれど、信じざるを得ない連絡が来た。そんな響きだった。

 

「飯田君のお兄さんって……確か」

 

「言っていただろうか。プロヒーロー、インゲニウムだ」

 

 飯田は答えた。その声には、誇りと恐怖が混ざっていた。

 

「兄は、僕の目標だ。僕がヒーローを志した理由そのものだ」

 

「……うん」

 

「その兄が……」

 

 飯田の拳が震える。

 

「ヒーロー殺しに、襲われた」

 

 出久の呼吸が止まった。

 

 廊下の音が、一瞬消えた気がした。

 

 ヒーロー殺し。

 

 AFOの声。

 

 保須。

 

 全部が、冷たい針のように頭の奥へ刺さる。

 

 飯田の兄、インゲニウム。たしか、保須方面での活動も多かったはずだ。

 

「……ヒーロー殺し」

 

 出久は掠れた声で繰り返す。

 

 飯田は、苦しげに頷いた。

 

「まだ詳しいことは分からない。父から連絡があっただけだ。命に別状があるのか、どの程度の怪我なのか、それもまだ……」

 

 飯田は、一度深く息を吐いた。感情を押し込めるような呼吸だった。

 

「……悪いが」

 

 眼鏡を押し上げる。

 

 その仕草だけは、いつもの飯田天哉だった。

 

「僕は早退して病院へ向かう」

 

「……」

 

「相澤先生には、これから連絡するつもりだ。正式な手続きも取る」

 

 声は冷静だった。冷静であろうとしていた。

 

 だが、拳の震えは止まっていない。

 

「病院って、保須なの?」

 

 出久が聞く。

 

 飯田は頷いた。

 

「ん? ああ、兄は保須の辺りで活動していたからな」

 

 保須。

 

 その地名を聞いた瞬間、出久の背筋に冷たいものが走った。

 

 AFO。ヒーロー殺し。“近いうちに保須で騒がしくなる”。

 

 偶然だと、思えなかった。

 

「じゃあ僕も行く」

 

 気付けば、口から出ていた。

 

 飯田が目を見開く。

 

「なに?」

 

「僕も一緒に行く!」

 

「待て、緑谷君」

 

 飯田はすぐに首を振った。

 

「君を巻き込む話ではない。これは僕の家族の問題だ」

 

「でも!」

 

「体育祭の途中だぞ。君は観客席へ戻るべきだ」

 

「そんな場合じゃないよ!」

 

 出久の声が、廊下に響いた。

 

 飯田が息を呑む。

 

 出久自身、驚くほど強い声だった。

 

「兄さんがヒーロー殺しに襲われたんでしょ!? しかも保須で! 飯田君、今全然冷静じゃない!」

 

「僕は冷静だ!」

 

 反射的に返ってきた声。

 

 だが、その直後、飯田自身が自分の声の荒さに気付いたように黙り込む。

 

「……」

 

 出久は一歩踏み込んだ。

 

「一人で行ったら駄目だ」

 

「だから僕も行く」

 

「緑谷君——」

 

「駄目って言っても行くから!」

 

 出久は半ば勢いで言い切った。

 

 飯田が完全に固まる。

 

 数秒、沈黙が落ちる。

 

 遠くではまだ歓声が響いている。体育祭は続いている。

 

 だが、二人だけ別の場所にいるみたいだった。

 

 やがて飯田は、諦めたように目を閉じる。

 

「……君は、本当に」

 

 苦笑とも、困惑ともつかない息だった。

 

「強引だな」

 

「行くよね?」

 

「……」

 

 飯田は少しだけ迷った。

 

 けれど最後には、小さく頷く。

 

 二人は急ぎ足で通路を進む。体育祭のスタッフが慌ただしく動き回る裏通路のモニターには、まだ切島と鉄哲の殴り合いが映っていた。

 

『両者ダウン寸前!! だが止まらねェ!!』

 

 歓声。

 

 熱狂。

 

 青春。

 

 その全部を背にして、二人は出口へ向かう。

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