体育祭の翌週。
A組の教室は、朝から少し浮ついた空気に包まれていた。
「いやー、やっぱ爆豪すごかったよな!」
「鉄哲と切島って何分試合してたっけ?」
出久の机の少し前で、切島が笑い、瀬呂が肩を竦める。
上鳴は椅子を後ろ向きにして座り、両手を広げて大げさに語っていた。
「俺的にはさ、チアが一番——」
「上鳴」
耳郎の声が低くなる。
「それ以上言ったら刺すよ」
「イヤホンジャック構えないで!?」
峰田は既に机に突っ伏していた。
「俺は……後悔していない……」
「反省はしろよ」
瀬呂が呆れたように言う。
八百万は困ったように頬へ手を当てていた。
「そもそも、正式な催しではないと分かった時点で、確認を取るべきでしたわ……」
「八百万さんは悪くないよ!」
麗日が慌てて言う。
「うちら全員、完全に信じちゃったし……」
「梅雨ちゃんまで着てたの、なかなかレアだったよね」
「けろ。あれは騙した方が悪いわ」
蛙吹が淡々と言い、教室の空気がまた笑いに包まれる。
体育祭。
終わってみれば、皆それぞれに語ることがあった。
勝った者。
負けた者。
目立った者。
失敗した者。
悔しさも、誇らしさも、笑い話も、まだ熱を持ったまま教室の中を飛び交っていた。
けれど。
出久だけは、机に向かったまま動かなかった。
ノートは開かれている。
ペンも握っている。
だが、そこに書かれた文字は途中で止まっていた。
インゲニウム。
ヒーロー殺し。
保須。
その単語だけが、何度も何度も書かれている。
「……」
出久の頭から離れない光景があった。
病院のベッド。
白いシーツ。
機械の音。
そして、そこに横たわる飯田の兄。
プロヒーロー、インゲニウム。
テレビや雑誌で見た時の、頼もしく明るい姿ではなかった。
動かない身体。
包帯。
青ざめた顔。
ベッド脇で立ち尽くす飯田。
強く握られた拳。
何かを押し殺しすぎて、逆に空っぽに見えた横顔。
「……」
出久は、無意識にペン先を紙へ押し付けていた。
じわり、とインクが滲む。
その時。
ガンッ。
硬い音が、机の上で鳴った。
「!」
出久は肩を跳ねさせる。
視界の端で、金色のものが転がった。
「……え」
机の上。
ノートの隣。
そこには、体育祭優勝者へ贈られる金メダルが置かれていた。
いや。
置かれたというより、投げ捨てられた。
紐が机の端から垂れ下がり、金属部分がかすかに揺れている。
出久は、呆然と顔を上げた。
「かっ——」
言葉が止まる。
そこに立っていたのは、爆豪だった。
制服姿。
だが、腕や首元にはまだ絆創膏が残っている。
体育祭の連戦で負った傷は完全には治っていないらしく、頬にも薄くテーピングが貼られていた。
けれど。
そんなことより。
表情だった。
不機嫌、という言葉では足りない。
怒っているわけでもない。
苛立っているわけでもない。
もっと冷たい。
燃え上がる前の爆発物みたいな、静かな危うさ。
爆豪は、じっと出久を見下ろしていた。
教室の空気が、少しだけ止まる。
「……爆豪?」
切島が戸惑った声を出す。
だが爆豪は答えない。
視線はずっと出久へ向けられたままだった。
「あ、優勝……テレビで見たよ、かっちゃん。おめでとう……」
出久は、机の上の金メダルを見る。
爆豪が優勝した証。
B組を制し。
決勝を制し。
プロヒーロー達の前で勝ち取った一位。
そのはずなのに。
「……は」
爆豪が、乾いた笑いみたいな息を漏らした。
だが、全然笑っていなかった。
「今更そんなん言われても、クソほど嬉しくねぇわ」
「……」
出久は言葉を失う。
爆豪の視線は冷たい。
怒鳴り散らしている時より、ずっと。
「てめぇが俺なんかに一切興味ねぇのは、よく分かった」
「え……?」
出久の眉が寄る。
意味が分からなかった。
だが爆豪は、その反応すら気にした様子もなく続ける。
「張り合って悪かったな、デク」
教室が静まり返る。
その言葉は、喧嘩でも罵倒でもなかった。
むしろ逆だった。
見切りをつけるような声。
もうどうでもいいと切り捨てるような声音。
「かっちゃん、何言って——」
「もういいわ」
爆豪は遮った。
興味を失ったみたいに。
そして、そのまま踵を返す。
「……っ」
出久は反射的に立ち上がった。
椅子がガタンと鳴る。
「待って!」
机の上の金メダルを掴む。
「こ、これ!」
「んなもんいらねぇよ」
爆豪は振り返らなかった。
そのまま歩いていく。
「……」
出久の手の中で、メダルがずしりと重かった。
爆豪は自分の席へ辿り着くと、乱暴に椅子へ座る。
だが、それ以上は何も言わない。
肘をつき。
頬杖をつき。
窓の外を見ている。
まるで、もう出久に用はないみたいに。
「……」
教室の空気が重い。
さっきまで騒いでいた上鳴達も、完全に黙っていた。
切島が困ったように爆豪を見る。
「お、おい爆豪……」
「うっせぇ」
短い一言。
それで会話は終わった。
麗日が心配そうに出久を見る。
轟は黙ったまま、爆豪と出久を交互に見ていた。
出久だけが立ち尽くしている。
手の中には、金メダル。
優勝者の証。
本来なら、爆豪が誰より欲しがっていたはずのもの。
なのに。
爆豪は、それを捨てた。
「……なんで」
小さく漏れた声。
けれど爆豪は、もう答えなかった。
教室には、妙に重い沈黙が落ちていた。
誰も軽々しく口を開けない。
さっきまでの体育祭談義が嘘みたいだった。
出久は、手の中のメダルを見る。
金色の表面に、教室の蛍光灯が鈍く映っていた。
重い。
ただの金属じゃない。
爆豪の執念とか、悔しさとか、そういうものまで押し付けられたみたいだった。
「……」
何か言わなきゃいけない気がする。
でも、何を言えばいいのか分からない。
その時。
ガラッ。
教室の扉が開いた。
「……朝から騒がしいな」
気怠げな声。
相澤だった。
いつものように寝袋を肩へ引っ掛け、眠そうな目のまま教室へ入ってくる。
だが、一歩踏み込んだところで空気の異変に気付いたらしい。
「……?」
相澤の視線が、立ち尽くす出久と、机に突っ伏す爆豪を順に見る。
そして。
出久の手に握られた金メダルで、一瞬だけ止まった。
「……お前ら、また何かやったのか」
「別に」
爆豪が即答する。
顔は窓の外を向いたままだ。
相澤は数秒だけ爆豪を見ていたが、深く追及はしなかった。
「まぁいい。席つけ」
その一言で、生徒達が慌てて動き出す。
ガタガタと椅子が鳴る。
出久も、まだ整理できない頭のまま席へ座った。
金メダルだけが、机の端に置かれている。
「今日のヒーロー情報学は、ちょっと特別だ」
相澤は教壇へ向かいながら言った。
「特別?」
上鳴が首を傾げる。
相澤はチョークを取り、黒板へ軽く叩きつける。
「お前らには、ヒーローネームを考えてもらう」
一瞬。
教室が静まり返った。
次の瞬間。
「ヒーローネーム!?」
「うおっ、マジか!?」
「もう決めるの!?」
空気が一気に変わる。
さっきまで沈んでいた教室が、今度は別の意味でざわつき始めた。
「ヒーローネームって、もうプロみたいじゃん!」
「でも確か、インターンとかで必要になるんだったか?」
切島が言うと、相澤が頷く。
「雄英はヒーロー育成機関だ。在学中の生徒にも、プロヒーロー事務所から指名が来る」
その言葉に、空気が少し引き締まる。
「学校行事での成績、知名度、実力。そういうものを見て、“将来うちで働いてほしい”って声が掛かるんだ」
「スカウトみたいなものですのね」
八百万が呟く。
「そういうことだ」
相澤は頷き、黒板の横へ歩いた。
「で、体育祭はその最大級のイベントだ」
バサッ。
何枚もの紙が、黒板へ貼り出される。
「体育祭を経て、お前らA組への指名を取りまとめた結果がこれだ」
一瞬。
教室が静まり返った。
そして。
「うおおおおお!?」
「マジで!?」
「すっげぇ!!」
爆発みたいに歓声が上がった。
数字。
名前。
プロ事務所からの指名数。
それが一覧になって、黒板へ並んでいた。
「え、ちょ、桁おかしくね!?」
上鳴が黒板を指差して叫ぶ。
教室中の視線が、一番上へ集中していた。
『爆豪勝己 3556件』
「さんぜん!?」
「うわっ、えぐ……!」
「やっぱ爆豪か……」
ざわめきが広がる。
圧倒的だった。
二位以下を大きく突き放す数字。
体育祭優勝。
爆発力。
派手さ。
戦闘センス。
それら全部が、プロヒーロー達の目を引いたのだろう。
だが。
「……」
当の爆豪本人は、頬杖をついたまま黒板すら見ていなかった。
まるで興味がないみたいに。
その姿に、切島が少し複雑そうな顔をする。
「おい爆豪、お前すげぇぞ……?」
「……そうかよ」
返ってきたのは、短い鼻息だけだった。
相澤は気にせず続ける。
「次」
『轟焦凍 2042件』
「二千超え!?」
「轟君もやっぱり凄い……!」
麗日が感嘆する。
轟は黒板を見上げたあと、「そうか」とだけ呟いた。
反応が薄い。
だが、エンデヴァーの息子という肩書きを差し引いても、あの氷と炎の制圧力は衝撃的だった。
続いて。
『切島鋭児郎 412件』
「おっしゃああ!!」
切島が机を叩いて立ち上がる。
「四百!? マジで!?」
「お前、鉄哲との試合めっちゃウケてたもんな」
瀬呂が笑う。
『瀬呂範太 358件』
「お、俺も結構ある!」
「機動力高かったしなぁ」
『八百万百 312件』
「八百万もすげぇ!」
「推薦入学伊達じゃないな」
教室のあちこちで歓声が上がる。
そして。
出久の視線も、自分の名前を探していた。
『緑谷出久 27件』
「……あ」
思わず、小さく声が漏れる。
二桁。
爆豪達と比べれば遥かに少ない。
けれど。
「緑谷もちゃんと来てんじゃん!」
「う、うん……」
出久は目を瞬かせる。
指名。
自分に。
「静かにしろ」
相澤が教卓を軽く叩く。
ざわつきが少し収まった。
「で、これを踏まえて、お前らには職場体験へ行ってもらう」
「職場体験?」
耳郎が首を傾げる。
「指名の有無に関わらずだ」
相澤は淡々と言う。
「プロヒーローの活動を間近で見て、実際の現場を知る。実戦経験と知識を積んで、今後の訓練をより実りあるものにするためだ」
「インターンの前段階みたいな感じか」
轟が呟く。
「そんなところだな」
相澤は頷いた。
「で、その時に必要になる」
そう言って、教卓へどさっと紙束を置く。
「ヒーローネームだ」
教室が、再びざわついた。
「来たぁぁ!!」
「うわ、急に現実感出てきた!」
「ネーミングセンス問われるやつじゃん……!」
上鳴が頭を抱える。
「ちなみに、一度世間へ出たヒーローネームは簡単には変えられない」
その言葉で、教室の空気が少し引き締まった。
「軽い気持ちで付けるなよ。そいつは、これから先お前らを表す名前になる」
ガラッ!!
勢いよく教室の扉が開いた。
「変な名前付けると地獄を見るわよ!!」
「!?」
教室中がびくっと震える。
入口に立っていたのは、薄いボディスーツ姿の女性ヒーローだった。
紫がかった長髪。
挑発的な笑み。
そして圧倒的なプロポーション。
「ミッドナイト!?」
峰田が叫ぶ。
R指定ヒーロー、ミッドナイト。
雄英の教師の一人だ。
ミッドナイトは腰へ手を当てながら教室を見回し、艶っぽく笑った。
「ヒーローネームってねぇ、“看板”なのよ。変な勢いで決めると後悔するわ」
そう言いながら教卓へ近付く。
相澤は、その様子を見ながら欠伸をする。
「……まぁ、そういうセンス面は俺じゃ分からん」
そう言って、教卓の横へ移動する。
相澤はそう言うと、教卓の影から当然のように寝袋を引きずり出した。
「その辺の査定はこの人に任せる」
数秒後には、相澤は寝袋へ潜り込んでいる。
ミッドナイトは呆れたようにため息を吐いた。
「まったくもう……。担任がこれなんだから」
だが、すぐにぱんっと手を叩く。
「はい! じゃあ未来のヒーロー諸君!」
教室の視線が集まる。
「今から、あなた達の“ヒーローネーム”を発表してもらいます!」
「発表って、いきなり!?」
上鳴が悲鳴を上げる。
ミッドナイトはにっこり笑った。
「こういうのは勢いも大事よ。ただし、勢いだけだと地獄を見るけど」
「どっちなんだよ……」
瀬呂が苦笑する。
しかし、何だかんだで皆、紙に向かっていた。
以前から考えていたのだろう。
ペンを走らせる者。
すぐに書き終えて胸を張る者。
何度も消しては悩む者。
出久も紙を見下ろした。
ヒーローネーム。
自分を表す名前。
これから先、背負うかもしれない名前。
「……」
ペンが動かない。
机の端には、まだ爆豪の金メダルがある。
金色のそれが、視界の端で鈍く光っていた。
「じゃあ、できた人から前へ!」
ミッドナイトの声で、何人かが勢いよく立ち上がった。
「はい!」
最初に前へ出たのは青山だった。
黒板の前で、きらりとポーズを決める。
「輝きヒーロー、I can not stop twinkling」
「この場合、Iを省略してcan'tとした方が語呂がいいわね」
「Merci!」
続いて、蛙吹が静かに立つ。
「梅雨入りヒーロー、フロッピー」
「シンプルで覚えやすい。いいわね!」
「けろ」
そこからは、一気に流れができた。
「テーピンヒーロー、セロファン!」
「分かりやすい! 合格!」
「イヤホンヒーロー、イヤホン=ジャック」
「そのままだけど、強いわね!」
「剛健ヒーロー、烈怒頼雄斗!」
切島が堂々と叫ぶ。
教室が「おお」と沸いた。
「いいじゃない、熱いわ! 紅頼雄斗のリスペクトね?」
「そうっす! あざっす!」
切島は照れくさそうに笑う。
「クリエイティヒーロー、クリエティ」
「品があってあなたらしいわ」
八百万がほっと胸を撫で下ろす。
「重力ヒーロー、ウラビティ!」
「かわいい! 語感もいいわね」
「やった!」
麗日が嬉しそうに拳を握る。
皆が次々と発表していく。
常闇は「漆黒ヒーロー、ツクヨミ」。
峰田は何か危険な名前を出しかけて、ミッドナイトに笑顔で却下された。
芦戸は「ピンキー」。
葉隠は「インビジブルガール」。
砂藤は「シュガーマン」。
口田は「アニマ」。
障子は「テンタコル」。
尾白は「テイルマン」。
轟は「ショート」。
それぞれ、以前から温めていたのだろう。
迷いながらも、どこか誇らしげだった。
だが。
「次、爆豪君」
ミッドナイトが名を呼ぶ。
爆豪は面倒くさそうに立ち上がった。
手には紙。
表情は最悪。
教室中が、妙な緊張に包まれる。
爆豪は黒板の前に立ち、低い声で言った。
「爆殺王」
「却下」
即答だった。
「まだ全部言ってねぇだろ!」
「全部言わなくても駄目」
ミッドナイトは笑顔のまま首を振る。
「殺意が高すぎるわ」
「じゃあ」
爆豪は紙を裏返す。
「爆殺卿」
「却下」
「なんでだよ!」
「だから殺意が高いって言ってるでしょ!」
教室のあちこちから笑いが漏れる。
ミッドナイトはため息を吐きつつも、どこか楽しそうだった。
「爆豪君、あなたの実力は十分伝わるんだから、名前でまで人を殺しにいかなくていいの」
「ヒーロー名だろ。強そうならいいだろ」
「怖すぎるのよ」
爆豪は舌打ちして席へ戻る。
その時も、出久の方は見なかった。
出久は、机の端の金メダルを見下ろす。
胸の奥が、また重くなる。
その隣で、飯田の席だけが静かに空いていた。
発表は進んでいく。
けれど、出久の紙はまだ白いままだった。