間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第33話 職場体験初日

 ミルコは、本当に歩き続けた。

 

 大通りを抜け、商店街へ入り、駅裏の細い道へ回り、住宅街の坂を上る。それでも、さっきのような分かりやすい事件は起きなかった。

 

「ミルコ」

 

「あ?」

 

「どこか、目的地があるんですか?」

 

「街」

 

「……街?」

 

「そうだ」

 

 ミルコは振り返らない。

 

「街を見る」

 

 その言葉通りだった。

 

 ミルコは、ただ練り歩いた。歩道橋の上で立ち止まり、車の流れを見る。コンビニの前で屯している若者達を一瞥する。シャッターの降りた店の前を通り、路地の奥へ耳を向ける。公園の脇を抜ける時には、遊具の陰まで視線を走らせた。

 

 何かを探しているようでいて、何か一つに集中しているわけではない。

 

 全部を見ている。

 

 街全体を、皮膚で感じているみたいだった。

 

「す、すみません」

 

 不意に、年配の女性が声をかけてきた。

 

「駅って、こっちで合ってますか?」

 

「逆だな」

 

 ミルコは即答した。

 

「あっちの信号渡って、青い看板の薬局を右。そしたら駅前通りに出る」

 

「あら、ありがとう」

 

「迷う前に聞けよ。暗くなるとこの辺ちょっと入り組むからな」

 

 ぶっきらぼうな言い方だが、道案内は正確だった。

 

 女性が頭を下げて去っていく。

 

 出久は思わずノートを取り出しかけた。

 

「歩きながら書くな。転ぶぞ」

 

「す、すみません!」

 

「頭に入れろ」

 

 ミルコはまた歩き出す。

 

 数分後、今度は八百屋の前で、段ボール箱を積み上げていた店主が腰を押さえていた。

 

「おっちゃん、腰やったか?」

 

「おお、ミルコちゃん。いやぁ、ちょっとな」

 

「無理すんなって言ったろ」

 

 ミルコはそう言うと、重そうな箱をひょいと片手で持ち上げた。

 

 何でもないように。

 

「どこ」

 

「奥の冷蔵庫の前」

 

「ほい」

 

 出久も慌ててケースを置き、もう一つの箱へ手を伸ばす。

 

「僕も手伝います!」

 

「落とすなよ、骨野郎」

 

「緑谷です!」

 

 店の奥へ箱を運ぶ。

 

 中には野菜が詰まっていた。それなりに重い。けれどミルコは、三箱まとめて軽々と運んでいる。

 

 店主は恐縮したように笑った。

 

 事件ではない。逮捕でもない。派手な活躍でもない。

 

 けれど、これもヒーローの仕事なのだろうか。

 

 そう思った。

 

 再び通りへ戻る。

 

 ミルコは止まらない。歩く、見る、聞く。時々、店の人に声をかけられ、子供に手を振られ、犬に吠えられる。そのたびに雑に返事をしたり、笑ったり、軽く睨んだりした。

 

 出久は必死に考える。

 

 なぜ、ミルコは歩き続けるのか。

 

 事務所を持たないからか。現場主義だからか。保須周辺で何かを探っているからか。それとも、AFOの言っていた“丁度良い”何かがあるのか。

 

「顔がうるせぇぞ」

 

「えっ」

 

 ミルコが横目で出久を見る。

 

「ずっと考えてますって顔してるぞ」

 

「す、すみません」

 

「謝んな。疑問があるなら言え」

 

 ミルコは足を止めずに言った。

 

「え?」

 

「お前の疑問を言ってみろ、骨野郎」

 

「……緑谷です」

 

「早くしろ」

 

 出久は少し迷った。

 

 言っていいのか。どこまで言えばいいのか。AFOのことは言えない。保険のことも言えない。

 

 だが、ここまで来て何も聞かないわけにもいかなかった。

 

「……僕は」

 

 出久は、ミルコの背中を見ながら口を開く。

 

「ミルコは、ヒーロー殺しを探しているんだと思っていました」

 

 ミルコの耳が、ぴくりと動いた。

 

 だが、驚いた様子はない。

 

 数歩進んだあと、彼女はようやく足を止めた。

 

「馬鹿骨野郎」

 

「ばっ……」

 

「職場体験の生徒抱えてんのに、凶悪犯なんか態々追うわけねーだろ」

 

 即答だった。

 

 出久は言葉に詰まる。

 

「で、でも……保須の近くで活動してるって聞いて」

 

「ああ?」

 

 ミルコが振り返る。

 

「誰に聞いた」

 

「……ニュースで」

 

 嘘ではない。

 

 全部ではないだけだ。

 

 ミルコはしばらく出久を見ていたが、それ以上は追及しなかった。

 

「まあ、意識してないと言えば嘘になる」

 

 そう言って、再び歩き出す。

 

「連日ニュースを賑わせてるからな。ヒーロー殺し。通称ステイン」

 

 ステイン。

 

 その名前を聞いた瞬間、出久の胸が重くなる。

 

 飯田の兄。病院のベッド。硬く握られた飯田の拳。全部が、一瞬で蘇った。

 

「奴はただの辻斬りじゃねぇ」

 

 ミルコは言う。

 

「思想がある。本人なりの筋がある。だから面倒くせぇ」

 

「思想……」

 

「偽物のヒーローを裁く。本物だけが残ればいい。そんな感じの、いかにも分かりやすくて、いかにも危ねぇ思想だ」

 

 出久は黙って聞いていた。

 

「強い言葉は人を集める。特に、自分の不満に名前を欲しがってる奴らにはな」

 

 ミルコの声は荒い。けれど、ただの苛立ちではなかった。

 

「ヒーロー社会が気に入らねぇ奴。ヒーローに助けられなかった奴。プロを妬んでる奴。自分が何者にもなれねぇ理由を外に探してる奴。そういう連中が、ステインの言葉に勝手に意味を見出す」

 

「……シンパ、ですか」

 

「そうだ」

 

 ミルコは頷いた。

 

「しかも、模倣犯も出始めてる」

 

「模倣犯……」

 

「ステイン本人じゃなくても、“自分も偽物を裁く”って勘違いした馬鹿が出てくる。小物でも、刃物持って背後から襲えば人は死ぬ」

 

 出久の指先が冷えた。

 

 ヒーロー殺し本人だけではない。その影響まで、街に広がっている。

 

「昨日、この街で不審人物の目撃情報があった」

 

 出久の表情が強張る。

 

「……っ」

 

「路地裏うろついてたらしい。フード被って、刃物持って、ヒーロー事務所の周辺を嗅ぎ回ってたって話だ」

 

「それって……!」

 

「落ち着け」

 

 ミルコは不敵に笑った。

 

「本物にしちゃ行動が迂闊すぎる。素人感丸出しだ」

 

「え……?」

 

「ようは模倣犯ってわけだ」

 

 ミルコは肩を回しながら続ける。

 

「ステインの真似してイキってるだけの小物。ニュース見て、その気になっちまったタイプだろ」

 

 出久は黙り込む。

 

 模倣犯。

 

 さっき聞いたばかりの存在。だが、それが実際にこの街へ現れている。

 

「じゃ、じゃあ危険なんじゃ……」

 

「危険だよ」

 

 ミルコはあっさり言った。

 

「本物ほどじゃねぇけどな」

 

 その言い方に、出久は息を呑む。ミルコにとっては、“本物のステイン”と“模倣犯”は明確に危険度が分けられている。

 

「今日の捕物は、ステインもどきだぜ」

 

 ミルコは獰猛に笑った。

 

「職場体験にはちょうどいい」

 

「ちょうどいいって……!」

 

「ビビったか?」

 

「そ、それは……」

 

 怖くないと言えば嘘になる。

 

 相手は刃物を持っているかもしれない。思想に酔っている人間かもしれない。飯田の兄を襲った本物ではなくても、危険なことに変わりはない。

 

 だが、ミルコはそんな出久の反応を見て鼻で笑った。

 

「安心しろ。お前を前に出す気はねぇ」

 

「……」

 

「まずは見ろ。空気を読め。街のどこに違和感が出るか覚えろ」

 

 そう言うと、ミルコはまた歩き出した。

 

 本当に止まらない。

 

 商店街を抜け、夕方のスーパー前を横切り、細い裏路地へ入る。ミルコの耳が時折ぴくりと動き、視線が一瞬だけ横道へ流れ、通り過ぎる人間の顔を無意識みたいに見ている。

 

 だが、立ち止まらない。

 

 出久は、その背中を追いながら必死に周囲を見る。

 

(模倣犯……)

 

 もし、自分なら。

 

 もし、ステインに憧れた人間なら。

 

 どこへ現れる。何を狙う。

 

 出久は視線を巡らせる。

 

 古い雑居ビル。シャッターの閉まった店。暗くなり始めた細道。通行人の流れ。

 

 ミルコは、不意に進路を変えた。

 

 人通りの多い通りから外れ、古びた雑居ビルの脇にある細い路地へ入っていく。夕暮れの影が、アスファルトへ長く落ちていた。

 

「ついてこい」

 

「は、はい」

 

 出久は慌てて後を追う。

 

 人気が減る。

 

 車の音が遠くなる。

 

 代わりに、室外機の低い唸りと、どこかの店から漏れるテレビ音だけが聞こえた。

 

(もし僕が、模倣犯なら)

 

 出久は考える。

 

 ステインに憧れた人間。ヒーローを裁きたいと思い込んだ人間。その街で活動するヒーローを狙うなら。

 

(パトロール中……?)

 

 いや、警戒している。戦闘慣れしている。

 

 なら勤務外か。休日か。一人になったところを背後から、人気のない路地で、刃物で。

 

 出久は視線を巡らせる。

 

 逃げ道、物陰、襲撃に向いた場所。

 

 そういうものばかりを考えていた。

 

 だが。

 

「……あ」

 

 出久の足が、僅かに止まる。

 

 違う。

 

 全部、違う。

 

 もし、自分がヒーロー殺しの模倣犯なら。ステインに酔っている人間なら。自分を“裁く側”だと思い込んでいるなら。

 

 そんな人間が、この街に急に現れたトップ10に入るヒーローを、見逃すはずがない。

 

 恐れて逃げる?

 

 違う。

 

 むしろ逆だ。

 

 “本物を裁ける機会”だと思う。

 

 ステインに憧れるような人間なら、なおさら。

 

 出久は、ゆっくり顔を上げる。

 

 前を歩くミルコ。派手な白髪、長い耳、隠れる気のない歩き方。

 

 商店街でも、路地でも、ミルコは一度も存在感を消していなかった。

 

 むしろ逆だ。

 

 目立っていた。

 

 わざと。

 

「……ミルコ」

 

「あ?」

 

「もしかして、最初から」

 

 出久の喉が鳴る。

 

「自分を餌にしてるんですか」

 

 ミルコの口角が、にやりと吊り上がった。

 

「ようやく気付いたか、骨野郎」

 

 否定しない。

 

 出久の背筋に、冷たいものが走る。

 

「トップ10ヒーローがブラブラ歩いてる。しかも、毎日同じ辺りをうろついてる。ステイン気取りの馬鹿から見りゃ、最高の獲物だろ」

 

 ミルコは肩を鳴らした。

 

「隠れて探すより、向こうから来させた方が早ぇ」

 

 そう言って、路地の中央で足を止める。

 

 狭い路地だった。

 

 左右は雑居ビルの壁。上には非常階段と配管。正面には薄暗い抜け道があり、人気はない。

 

 ミルコは辺りを見渡す。

 

「ステインの犯罪は、その全部が人気のない路地裏で行われてる」

 

「……」

 

「ニュースに出てる範囲だけでも、襲撃場所には癖がある。逃走しやすく、目撃されにくく、相手を孤立させやすい場所」

 

 ミルコの耳が、わずかに動いた。

 

「パターンまで真似てる熱心なステインファンなら——」

 

 その瞬間、上から影が落ちた。

 

「偽りの英雄に裁きをィィィ!!」

 

「っ!?」

 

 出久は反射的に顔を上げる。

 

 雑居ビルの屋上から、一人の男が飛び降りてきていた。

 

 緑色の鱗に覆われた肌。トカゲじみた顔つき。紫色の髪。そして顔には、ニュース映像で見たステインのマスクを模したような、粗雑な覆面。

 

 手には、鈍く光るサバイバルナイフが握られていた。

 

「ミルコ!」

 

 出久が叫ぶ。

 

 だが、ミルコは動じなかった。

 

 むしろ、笑った。

 

「遅ぇよ」

 

 男がナイフを振りかざす。落下の勢いを乗せた一撃。普通なら、避けるだけでも難しい。

 

 だが、ミルコの脚が消えた。

 

 鈍い音。

 

 次の瞬間、男の身体が真横へ吹き飛んでいた。

 

「げぶっ!?」

 

 壁に叩きつけられる。ナイフが手から離れ、アスファルトを滑った。

 

 男は白目を剥き、そのままずるずると崩れ落ちる。

 

 一撃。

 

 本当に、それだけだった。

 

「……え」

 

 出久は呆然とした。

 

 ミルコは足を下ろし、つまらなそうに鼻を鳴らす。

 

「口上が長ぇ。落下軌道が素直。殺気だけ一丁前」

 

 倒れた男を見下ろす。

 

「ステインの真似するには、百年早ぇな」

 

 ミルコは顎で倒れた男を示した。

 

「こいつ拘束しておけ。帰り際、交番に放り込んでくぞ」

 

「えっ、あ、警察に連絡は……」

 

「する。だが、その前にもう少し辺りを見る」

 

 ミルコは路地の奥へ視線を向ける。

 

 耳が、また小さく動いていた。

 

「こいつ一人とは限らねぇ。見張りがいた可能性もある。逃げた奴がいるかもしれねぇ」

 

「はい!」

 

「いい返事だ」

 

 ミルコは不敵に笑う。

 

「じゃ、任せたぜ、骨野郎」

 

「緑谷です!」

 

 返事を聞く前に、ミルコは跳んだ。

 

 壁を蹴り、非常階段の手すりへ乗り、次の瞬間には雑居ビルの上へ消えていた。

 

 出久は数秒、呆然と見上げる。

 

「……速い」

 

 呟いてから、慌てて男へ向き直った。

 

 模倣犯の男は、壁際で伸びている。胸は上下している。呼吸はある。手元から離れたナイフは、すぐに出久が足で遠ざけた。

 

「まず、拘束……」

 

 出久はケースを開け、支給された簡易結束具を取り出す。相手の両手を背中側へ回し、手首を固定する。念のため、足首も縛った。

 

 男の鱗じみた皮膚は硬く、ところどころ擦り傷が白く浮いていた。ミルコの蹴りが入った脇腹の辺りには、赤黒い痕が広がり始めている。

 

「……手当て、しないと」

 

 出久は迷った。

 

 相手は刃物を持って襲ってきたヴィランだ。模倣犯とはいえ、危険人物だ。

 

 けれど、動けない相手を放っておく理由にはならない。

 

 救急セットを取り出す。

 

 呼吸、脈、意識、出血。

 

 授業で習った手順を、頭の中で必死に並べる。

 

「すみません、触ります」

 

 聞こえていないだろう相手にそう断ってから、出久は男の状態を確認した。

 

 大きな出血はない。蹴られた部位に打撲。壁へぶつかった肩にも擦過傷。ナイフを握っていた手の甲が少し切れている。

 

 出久は消毒液を染み込ませたガーゼを当てた。

 

「……痛いですよね」

 

 男は呻かない。気絶したままだ。

 

「でも、あなたがしようとしたことは、もっと痛かったはずです」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

 出久は包帯の端を留める。

 

 その時だった。

 

「……う、ぐ」

 

「!」

 

 男の瞼が震えた。

 

 白目を剥いていた目が、ゆっくり焦点を取り戻す。緑色の鱗に覆われた顔が歪んだ。

 

「……な、なんだ……?」

 

 男は身じろぎした。

 

 だが、すぐに両手首と足首が拘束されていることに気付いたらしい。

 

「っ!」

 

 次の瞬間、男は跳ねるように暴れ出した。

 

「離せ! 離せぇっ!」

 

「動かないでください!」

 

 出久は慌てて距離を取る。

 

 男は地面に転がったまま、手足をばたつかせた。鱗のある身体がアスファルトに擦れ、ガリガリと嫌な音を立てる。

 

「くそっ、くそっ! こんなもの!」

 

 男は背中を反らし、結束具を引き千切ろうとする。手首を捻り、足を振り、身体を横へ倒して壁に肩を打ち付ける。

 

 それでも、拘束は緩まなかった。

 

「暴れたら傷が開きます!」

 

「黙れ!」

 

 男は唸った。

 

 だが、その声にも力がない。

 

 ミルコの蹴りが相当効いているのだろう。数十秒ほど暴れ続けたあと、男の動きは少しずつ鈍くなっていった。

 

 荒い呼吸だけが、路地に響く。

 

「はっ……はっ……くそ……」

 

 やがて男は、抵抗が無意味だと悟ったように、がくりと項垂れた。紫色の髪が額にかかる。

 

 出久は、少し距離を保ったまま口を開いた。

 

「あなたは、ミルコを刺そうとした」

 

「……あいつは」

 

 男が低く呟いた。

 

「偽物だ」

 

「……」

 

「今のヒーロー社会は、腐ってる」

 

 掠れた声。だが、その奥には熱があった。

 

「金、人気、ランキング、スポンサー。どいつもこいつも、救いなんかじゃない。商品だ。見世物だ。正義のふりをした拝金主義者どもだ」

 

 出久は、息を呑む。

 

「俺は……ステインの決意に感銘を受けた」

 

 男は顔を上げた。

 

 目が血走っている。痛みと悔しさと、歪んだ陶酔が混ざった目だった。

 

「奴だけが、本当のことを言った。今のヒーロー社会は偽物だ。正さなければならない」

 

「正すって……」

 

 出久の声が震える。

 

「人を刺してですか」

 

「必要な犠牲だ」

 

 男は即答した。

 

 その迷いのなさに、出久の背筋が冷える。

 

「偽物がのさばっているから、本物が埋もれる。金で動く英雄もどきを消せば、社会は目を覚ます」

 

「そんなの……!」

 

 出久の声が強くなる。

 

「そんなの、間違ってる!」

 

「あ?」

 

「目的のためなら、何をしてもいいっていうのか!」

 

 気付けば、出久は男の胸ぐらを掴んでいた。

 

 ぐい、と拘束された身体を引き寄せる。男の鱗じみた皮膚が、ぎしりと鳴った。

 

「あなたがやったことは、ただ人を傷つけただけだ!」

 

「離せ……!」

 

「ヒーローが気に入らないから刺す!? 思想があるから許される!? そんなわけないだろ!」

 

 出久の呼吸が荒くなる。

 

 頭の中に浮かぶのは、飯田の顔だった。兄を襲われたあと、怒りを押し殺していた横顔。震えていた拳。

 

「傷つけられた側はどうなるんだ!」

 

「黙れ!!」

 

 男も叫び返した。唾を飛ばし、血走った目で出久を睨みつける。

 

「犠牲は必要なんだ! 腐った社会を変えるには!」

 

「だからって!」

 

「お前みたいなガキに何が分かる! 何も変わらねぇ世界で、見て見ぬふりしてる連中より、俺達の方が——」

 

 その時だった。

 

「おい」

 

 低い声。

 

 次の瞬間、ぐい、と後ろ襟を掴まれた。

 

「うわっ!?」

 

 出久の身体が、軽々と後ろへ引き剥がされる。バランスを崩しかけたところを、強引に立たされた。

 

 振り返る。

 

「ミルコ……!」

 

 ミルコが立っていた。

 

 片手で出久の制服を掴んだまま、呆れたように眉をひそめている。

 

「説教垂れろなんて言ってねぇぞ、骨野郎」

 

 ミルコは鼻を鳴らす。

 

「ヴィランにキレるなとは言わねぇよ。むしろ現場じゃ腹立つことの方が多い」

 

「……」

 

「けど、感情で掴みかかった瞬間、お前は相手を見るのをやめる」

 

 出久は、はっとした。

 

「ヒーローは捕まえる側だ。殴り合って憂さ晴らしする側じゃねぇ」

 

 その言葉が、重く落ちる。

 

 男は拘束されたまま、忌々しそうに顔を歪めた。

 

「……偽物が」

 

「あ?」

 

 ミルコの赤い目が細くなる。

 

 男は、それでも睨み返した。

 

「お前も、結局は暴力で黙らせてるだけだ」

 

 ミルコは数秒、男を見下ろしていた。

 

 それから。

 

「違ぇな」

 

 あっさり言った。

 

「お前が刃物持って飛び込んできたから止めただけだ」

 

「……」

 

「ついでに言うと、あたしは別にお前に理解されたくてヒーローやってねぇ」

 

 男は歯噛みした。

 

 だが、もう何も言い返せなかった。

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