ミルコは、本当に歩き続けた。
大通りを抜け、商店街へ入り、駅裏の細い道へ回り、住宅街の坂を上る。それでも、さっきのような分かりやすい事件は起きなかった。
「ミルコ」
「あ?」
「どこか、目的地があるんですか?」
「街」
「……街?」
「そうだ」
ミルコは振り返らない。
「街を見る」
その言葉通りだった。
ミルコは、ただ練り歩いた。歩道橋の上で立ち止まり、車の流れを見る。コンビニの前で屯している若者達を一瞥する。シャッターの降りた店の前を通り、路地の奥へ耳を向ける。公園の脇を抜ける時には、遊具の陰まで視線を走らせた。
何かを探しているようでいて、何か一つに集中しているわけではない。
全部を見ている。
街全体を、皮膚で感じているみたいだった。
「す、すみません」
不意に、年配の女性が声をかけてきた。
「駅って、こっちで合ってますか?」
「逆だな」
ミルコは即答した。
「あっちの信号渡って、青い看板の薬局を右。そしたら駅前通りに出る」
「あら、ありがとう」
「迷う前に聞けよ。暗くなるとこの辺ちょっと入り組むからな」
ぶっきらぼうな言い方だが、道案内は正確だった。
女性が頭を下げて去っていく。
出久は思わずノートを取り出しかけた。
「歩きながら書くな。転ぶぞ」
「す、すみません!」
「頭に入れろ」
ミルコはまた歩き出す。
数分後、今度は八百屋の前で、段ボール箱を積み上げていた店主が腰を押さえていた。
「おっちゃん、腰やったか?」
「おお、ミルコちゃん。いやぁ、ちょっとな」
「無理すんなって言ったろ」
ミルコはそう言うと、重そうな箱をひょいと片手で持ち上げた。
何でもないように。
「どこ」
「奥の冷蔵庫の前」
「ほい」
出久も慌ててケースを置き、もう一つの箱へ手を伸ばす。
「僕も手伝います!」
「落とすなよ、骨野郎」
「緑谷です!」
店の奥へ箱を運ぶ。
中には野菜が詰まっていた。それなりに重い。けれどミルコは、三箱まとめて軽々と運んでいる。
店主は恐縮したように笑った。
事件ではない。逮捕でもない。派手な活躍でもない。
けれど、これもヒーローの仕事なのだろうか。
そう思った。
再び通りへ戻る。
ミルコは止まらない。歩く、見る、聞く。時々、店の人に声をかけられ、子供に手を振られ、犬に吠えられる。そのたびに雑に返事をしたり、笑ったり、軽く睨んだりした。
出久は必死に考える。
なぜ、ミルコは歩き続けるのか。
事務所を持たないからか。現場主義だからか。保須周辺で何かを探っているからか。それとも、AFOの言っていた“丁度良い”何かがあるのか。
「顔がうるせぇぞ」
「えっ」
ミルコが横目で出久を見る。
「ずっと考えてますって顔してるぞ」
「す、すみません」
「謝んな。疑問があるなら言え」
ミルコは足を止めずに言った。
「え?」
「お前の疑問を言ってみろ、骨野郎」
「……緑谷です」
「早くしろ」
出久は少し迷った。
言っていいのか。どこまで言えばいいのか。AFOのことは言えない。保険のことも言えない。
だが、ここまで来て何も聞かないわけにもいかなかった。
「……僕は」
出久は、ミルコの背中を見ながら口を開く。
「ミルコは、ヒーロー殺しを探しているんだと思っていました」
ミルコの耳が、ぴくりと動いた。
だが、驚いた様子はない。
数歩進んだあと、彼女はようやく足を止めた。
「馬鹿骨野郎」
「ばっ……」
「職場体験の生徒抱えてんのに、凶悪犯なんか態々追うわけねーだろ」
即答だった。
出久は言葉に詰まる。
「で、でも……保須の近くで活動してるって聞いて」
「ああ?」
ミルコが振り返る。
「誰に聞いた」
「……ニュースで」
嘘ではない。
全部ではないだけだ。
ミルコはしばらく出久を見ていたが、それ以上は追及しなかった。
「まあ、意識してないと言えば嘘になる」
そう言って、再び歩き出す。
「連日ニュースを賑わせてるからな。ヒーロー殺し。通称ステイン」
ステイン。
その名前を聞いた瞬間、出久の胸が重くなる。
飯田の兄。病院のベッド。硬く握られた飯田の拳。全部が、一瞬で蘇った。
「奴はただの辻斬りじゃねぇ」
ミルコは言う。
「思想がある。本人なりの筋がある。だから面倒くせぇ」
「思想……」
「偽物のヒーローを裁く。本物だけが残ればいい。そんな感じの、いかにも分かりやすくて、いかにも危ねぇ思想だ」
出久は黙って聞いていた。
「強い言葉は人を集める。特に、自分の不満に名前を欲しがってる奴らにはな」
ミルコの声は荒い。けれど、ただの苛立ちではなかった。
「ヒーロー社会が気に入らねぇ奴。ヒーローに助けられなかった奴。プロを妬んでる奴。自分が何者にもなれねぇ理由を外に探してる奴。そういう連中が、ステインの言葉に勝手に意味を見出す」
「……シンパ、ですか」
「そうだ」
ミルコは頷いた。
「しかも、模倣犯も出始めてる」
「模倣犯……」
「ステイン本人じゃなくても、“自分も偽物を裁く”って勘違いした馬鹿が出てくる。小物でも、刃物持って背後から襲えば人は死ぬ」
出久の指先が冷えた。
ヒーロー殺し本人だけではない。その影響まで、街に広がっている。
「昨日、この街で不審人物の目撃情報があった」
出久の表情が強張る。
「……っ」
「路地裏うろついてたらしい。フード被って、刃物持って、ヒーロー事務所の周辺を嗅ぎ回ってたって話だ」
「それって……!」
「落ち着け」
ミルコは不敵に笑った。
「本物にしちゃ行動が迂闊すぎる。素人感丸出しだ」
「え……?」
「ようは模倣犯ってわけだ」
ミルコは肩を回しながら続ける。
「ステインの真似してイキってるだけの小物。ニュース見て、その気になっちまったタイプだろ」
出久は黙り込む。
模倣犯。
さっき聞いたばかりの存在。だが、それが実際にこの街へ現れている。
「じゃ、じゃあ危険なんじゃ……」
「危険だよ」
ミルコはあっさり言った。
「本物ほどじゃねぇけどな」
その言い方に、出久は息を呑む。ミルコにとっては、“本物のステイン”と“模倣犯”は明確に危険度が分けられている。
「今日の捕物は、ステインもどきだぜ」
ミルコは獰猛に笑った。
「職場体験にはちょうどいい」
「ちょうどいいって……!」
「ビビったか?」
「そ、それは……」
怖くないと言えば嘘になる。
相手は刃物を持っているかもしれない。思想に酔っている人間かもしれない。飯田の兄を襲った本物ではなくても、危険なことに変わりはない。
だが、ミルコはそんな出久の反応を見て鼻で笑った。
「安心しろ。お前を前に出す気はねぇ」
「……」
「まずは見ろ。空気を読め。街のどこに違和感が出るか覚えろ」
そう言うと、ミルコはまた歩き出した。
本当に止まらない。
商店街を抜け、夕方のスーパー前を横切り、細い裏路地へ入る。ミルコの耳が時折ぴくりと動き、視線が一瞬だけ横道へ流れ、通り過ぎる人間の顔を無意識みたいに見ている。
だが、立ち止まらない。
出久は、その背中を追いながら必死に周囲を見る。
(模倣犯……)
もし、自分なら。
もし、ステインに憧れた人間なら。
どこへ現れる。何を狙う。
出久は視線を巡らせる。
古い雑居ビル。シャッターの閉まった店。暗くなり始めた細道。通行人の流れ。
ミルコは、不意に進路を変えた。
人通りの多い通りから外れ、古びた雑居ビルの脇にある細い路地へ入っていく。夕暮れの影が、アスファルトへ長く落ちていた。
「ついてこい」
「は、はい」
出久は慌てて後を追う。
人気が減る。
車の音が遠くなる。
代わりに、室外機の低い唸りと、どこかの店から漏れるテレビ音だけが聞こえた。
(もし僕が、模倣犯なら)
出久は考える。
ステインに憧れた人間。ヒーローを裁きたいと思い込んだ人間。その街で活動するヒーローを狙うなら。
(パトロール中……?)
いや、警戒している。戦闘慣れしている。
なら勤務外か。休日か。一人になったところを背後から、人気のない路地で、刃物で。
出久は視線を巡らせる。
逃げ道、物陰、襲撃に向いた場所。
そういうものばかりを考えていた。
だが。
「……あ」
出久の足が、僅かに止まる。
違う。
全部、違う。
もし、自分がヒーロー殺しの模倣犯なら。ステインに酔っている人間なら。自分を“裁く側”だと思い込んでいるなら。
そんな人間が、この街に急に現れたトップ10に入るヒーローを、見逃すはずがない。
恐れて逃げる?
違う。
むしろ逆だ。
“本物を裁ける機会”だと思う。
ステインに憧れるような人間なら、なおさら。
出久は、ゆっくり顔を上げる。
前を歩くミルコ。派手な白髪、長い耳、隠れる気のない歩き方。
商店街でも、路地でも、ミルコは一度も存在感を消していなかった。
むしろ逆だ。
目立っていた。
わざと。
「……ミルコ」
「あ?」
「もしかして、最初から」
出久の喉が鳴る。
「自分を餌にしてるんですか」
ミルコの口角が、にやりと吊り上がった。
「ようやく気付いたか、骨野郎」
否定しない。
出久の背筋に、冷たいものが走る。
「トップ10ヒーローがブラブラ歩いてる。しかも、毎日同じ辺りをうろついてる。ステイン気取りの馬鹿から見りゃ、最高の獲物だろ」
ミルコは肩を鳴らした。
「隠れて探すより、向こうから来させた方が早ぇ」
そう言って、路地の中央で足を止める。
狭い路地だった。
左右は雑居ビルの壁。上には非常階段と配管。正面には薄暗い抜け道があり、人気はない。
ミルコは辺りを見渡す。
「ステインの犯罪は、その全部が人気のない路地裏で行われてる」
「……」
「ニュースに出てる範囲だけでも、襲撃場所には癖がある。逃走しやすく、目撃されにくく、相手を孤立させやすい場所」
ミルコの耳が、わずかに動いた。
「パターンまで真似てる熱心なステインファンなら——」
その瞬間、上から影が落ちた。
「偽りの英雄に裁きをィィィ!!」
「っ!?」
出久は反射的に顔を上げる。
雑居ビルの屋上から、一人の男が飛び降りてきていた。
緑色の鱗に覆われた肌。トカゲじみた顔つき。紫色の髪。そして顔には、ニュース映像で見たステインのマスクを模したような、粗雑な覆面。
手には、鈍く光るサバイバルナイフが握られていた。
「ミルコ!」
出久が叫ぶ。
だが、ミルコは動じなかった。
むしろ、笑った。
「遅ぇよ」
男がナイフを振りかざす。落下の勢いを乗せた一撃。普通なら、避けるだけでも難しい。
だが、ミルコの脚が消えた。
鈍い音。
次の瞬間、男の身体が真横へ吹き飛んでいた。
「げぶっ!?」
壁に叩きつけられる。ナイフが手から離れ、アスファルトを滑った。
男は白目を剥き、そのままずるずると崩れ落ちる。
一撃。
本当に、それだけだった。
「……え」
出久は呆然とした。
ミルコは足を下ろし、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「口上が長ぇ。落下軌道が素直。殺気だけ一丁前」
倒れた男を見下ろす。
「ステインの真似するには、百年早ぇな」
ミルコは顎で倒れた男を示した。
「こいつ拘束しておけ。帰り際、交番に放り込んでくぞ」
「えっ、あ、警察に連絡は……」
「する。だが、その前にもう少し辺りを見る」
ミルコは路地の奥へ視線を向ける。
耳が、また小さく動いていた。
「こいつ一人とは限らねぇ。見張りがいた可能性もある。逃げた奴がいるかもしれねぇ」
「はい!」
「いい返事だ」
ミルコは不敵に笑う。
「じゃ、任せたぜ、骨野郎」
「緑谷です!」
返事を聞く前に、ミルコは跳んだ。
壁を蹴り、非常階段の手すりへ乗り、次の瞬間には雑居ビルの上へ消えていた。
出久は数秒、呆然と見上げる。
「……速い」
呟いてから、慌てて男へ向き直った。
模倣犯の男は、壁際で伸びている。胸は上下している。呼吸はある。手元から離れたナイフは、すぐに出久が足で遠ざけた。
「まず、拘束……」
出久はケースを開け、支給された簡易結束具を取り出す。相手の両手を背中側へ回し、手首を固定する。念のため、足首も縛った。
男の鱗じみた皮膚は硬く、ところどころ擦り傷が白く浮いていた。ミルコの蹴りが入った脇腹の辺りには、赤黒い痕が広がり始めている。
「……手当て、しないと」
出久は迷った。
相手は刃物を持って襲ってきたヴィランだ。模倣犯とはいえ、危険人物だ。
けれど、動けない相手を放っておく理由にはならない。
救急セットを取り出す。
呼吸、脈、意識、出血。
授業で習った手順を、頭の中で必死に並べる。
「すみません、触ります」
聞こえていないだろう相手にそう断ってから、出久は男の状態を確認した。
大きな出血はない。蹴られた部位に打撲。壁へぶつかった肩にも擦過傷。ナイフを握っていた手の甲が少し切れている。
出久は消毒液を染み込ませたガーゼを当てた。
「……痛いですよね」
男は呻かない。気絶したままだ。
「でも、あなたがしようとしたことは、もっと痛かったはずです」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
出久は包帯の端を留める。
その時だった。
「……う、ぐ」
「!」
男の瞼が震えた。
白目を剥いていた目が、ゆっくり焦点を取り戻す。緑色の鱗に覆われた顔が歪んだ。
「……な、なんだ……?」
男は身じろぎした。
だが、すぐに両手首と足首が拘束されていることに気付いたらしい。
「っ!」
次の瞬間、男は跳ねるように暴れ出した。
「離せ! 離せぇっ!」
「動かないでください!」
出久は慌てて距離を取る。
男は地面に転がったまま、手足をばたつかせた。鱗のある身体がアスファルトに擦れ、ガリガリと嫌な音を立てる。
「くそっ、くそっ! こんなもの!」
男は背中を反らし、結束具を引き千切ろうとする。手首を捻り、足を振り、身体を横へ倒して壁に肩を打ち付ける。
それでも、拘束は緩まなかった。
「暴れたら傷が開きます!」
「黙れ!」
男は唸った。
だが、その声にも力がない。
ミルコの蹴りが相当効いているのだろう。数十秒ほど暴れ続けたあと、男の動きは少しずつ鈍くなっていった。
荒い呼吸だけが、路地に響く。
「はっ……はっ……くそ……」
やがて男は、抵抗が無意味だと悟ったように、がくりと項垂れた。紫色の髪が額にかかる。
出久は、少し距離を保ったまま口を開いた。
「あなたは、ミルコを刺そうとした」
「……あいつは」
男が低く呟いた。
「偽物だ」
「……」
「今のヒーロー社会は、腐ってる」
掠れた声。だが、その奥には熱があった。
「金、人気、ランキング、スポンサー。どいつもこいつも、救いなんかじゃない。商品だ。見世物だ。正義のふりをした拝金主義者どもだ」
出久は、息を呑む。
「俺は……ステインの決意に感銘を受けた」
男は顔を上げた。
目が血走っている。痛みと悔しさと、歪んだ陶酔が混ざった目だった。
「奴だけが、本当のことを言った。今のヒーロー社会は偽物だ。正さなければならない」
「正すって……」
出久の声が震える。
「人を刺してですか」
「必要な犠牲だ」
男は即答した。
その迷いのなさに、出久の背筋が冷える。
「偽物がのさばっているから、本物が埋もれる。金で動く英雄もどきを消せば、社会は目を覚ます」
「そんなの……!」
出久の声が強くなる。
「そんなの、間違ってる!」
「あ?」
「目的のためなら、何をしてもいいっていうのか!」
気付けば、出久は男の胸ぐらを掴んでいた。
ぐい、と拘束された身体を引き寄せる。男の鱗じみた皮膚が、ぎしりと鳴った。
「あなたがやったことは、ただ人を傷つけただけだ!」
「離せ……!」
「ヒーローが気に入らないから刺す!? 思想があるから許される!? そんなわけないだろ!」
出久の呼吸が荒くなる。
頭の中に浮かぶのは、飯田の顔だった。兄を襲われたあと、怒りを押し殺していた横顔。震えていた拳。
「傷つけられた側はどうなるんだ!」
「黙れ!!」
男も叫び返した。唾を飛ばし、血走った目で出久を睨みつける。
「犠牲は必要なんだ! 腐った社会を変えるには!」
「だからって!」
「お前みたいなガキに何が分かる! 何も変わらねぇ世界で、見て見ぬふりしてる連中より、俺達の方が——」
その時だった。
「おい」
低い声。
次の瞬間、ぐい、と後ろ襟を掴まれた。
「うわっ!?」
出久の身体が、軽々と後ろへ引き剥がされる。バランスを崩しかけたところを、強引に立たされた。
振り返る。
「ミルコ……!」
ミルコが立っていた。
片手で出久の制服を掴んだまま、呆れたように眉をひそめている。
「説教垂れろなんて言ってねぇぞ、骨野郎」
ミルコは鼻を鳴らす。
「ヴィランにキレるなとは言わねぇよ。むしろ現場じゃ腹立つことの方が多い」
「……」
「けど、感情で掴みかかった瞬間、お前は相手を見るのをやめる」
出久は、はっとした。
「ヒーローは捕まえる側だ。殴り合って憂さ晴らしする側じゃねぇ」
その言葉が、重く落ちる。
男は拘束されたまま、忌々しそうに顔を歪めた。
「……偽物が」
「あ?」
ミルコの赤い目が細くなる。
男は、それでも睨み返した。
「お前も、結局は暴力で黙らせてるだけだ」
ミルコは数秒、男を見下ろしていた。
それから。
「違ぇな」
あっさり言った。
「お前が刃物持って飛び込んできたから止めただけだ」
「……」
「ついでに言うと、あたしは別にお前に理解されたくてヒーローやってねぇ」
男は歯噛みした。
だが、もう何も言い返せなかった。