──少し前。
保須市。
夕方の街は、人で溢れていた。
仕事帰りの会社員、買い物袋を提げた主婦、騒がしく走り回る学生達。ネオンの点灯し始めた商店街を、飯田天哉は職場体験先のヒーローと共に歩いていた。
「いやぁ、インゲニウムの弟さんが来てくれるなんて思わなかったよ」
隣を歩く男が、のんびりした口調で言う。
ノーマルヒーロー、マニュアル。
派手さの少ないヒーローだ。大柄でもなく、威圧感も薄い。だが、その視線は絶えず街を見ていた。
横断歩道、路地、歩行者の流れ、停車車両。何気ない調子のまま、すべてを確認している。
「君なら、僕のとこ以外にもいくらでも大手から指名来てたでしょ? 人気上位のとこでも全然おかしくなかったと思うんだけどなぁ」
マニュアルは、歩道脇へ寄せられたカラーコーンを直しながら言った。
「……」
飯田は答えない。
マニュアルは気にした様子もなく続ける。
「それなのに、わざわざ保須の中小事務所選んでくれて」
苦笑する。
「ありがとねぇ」
「い、いえ! その、僕は——」
「ヒーロー殺し追ってるんでしょ?」
飯田の言葉が止まった。
マニュアルは前を向いたままだった。声色も変わらない。まるで天気の話でもするみたいに自然だった。
「じゃなきゃ、うちみたいなの希望しないもんね」
「……っ」
飯田の喉が詰まる。
否定が出てこなかった。
図星だった。
保須を選んだ理由など、一つしかない。
兄を壊したヴィラン。
ヒーロー殺し。
ステイン。
「……すみません」
ようやく絞り出した声は、小さかった。
マニュアルは軽く肩を竦める。
「いや、別に怒ってるわけじゃないよ」
その口調は、本当に穏やかだった。
「身内をやられたら、そりゃ感情も動く。ヒーローだって人間だからねぇ」
夕方の風が吹く。
遠くでパトカーのサイレンが鳴った。
飯田は拳を握る。
兄の顔が浮かぶ。
白い病室。
包帯。
動かない脚。
「でも」
マニュアルの声が、少しだけ低くなった。
「おすすめはしないかな」
飯田が顔を上げる。
マニュアルは商店街の先を見ながら続けた。
「復讐って、視野狭くなるから」
「……」
飯田は黙ったまま歩く。
だが、その視線は無意識に動いていた。
細い路地。薄暗い通路。人目の少ない裏道。ニュースで映った場所。被害現場。
“あの男”が現れそうな場所ばかりを探してしまう。
マニュアルは、その視線の動きに気付いていた。
「……飯田君」
「はい!」
反射的に返事をする。
「今、三回くらい裏路地見たよね?」
「っ」
図星だった。
飯田の肩が強張る。
「僕は——」
そこで、飯田は言葉を止める。
復讐のためです、とは言えなかった。
ヒーローとして失格だと、自分でも分かっていたからだ。
マニュアルは少しだけ息を吐く。
「君、真面目だからなぁ」
困ったように笑った。
「真面目な子って、一回“やる”って決めると止まらないんだよね」
その時だった。
街の空気を揺らすような爆発音が響いた。
地面が微かに震える。
通行人達が悲鳴を上げた。
「!?」
飯田が顔を上げる。
次の瞬間、さらに別方向から爆発音が響いた。続けて、もう一つ。
黒煙がビルの隙間から立ち昇る。
「なっ……!?」
商店街が、一瞬で騒然となった。
人々が悲鳴を上げる。走る。押し合う。子供が泣き出し、車のクラクションが連続で鳴り響く。
そして、緊急警報が一斉に鳴り始めた。
大型モニター、店舗端末、街頭スピーカー。あらゆる場所から、無機質な警告音が響く。
『警戒警報。保須市内にて複数ヴィランによる同時騒動発生——』
マニュアルの端末が激しく震えた。
「……っ」
彼の表情が変わる。
画面へ次々と通知が流れ込んでいた。
【爆発事故発生】
【ヴィラン出現】
【市民避難要請】
【交戦中】
【ヒーロー支援求む】
しかも一件ではない。
中央区、南側、駅前、高架下。
保須全域で、同時に異変が起きている。
「まずいな……」
マニュアルの声から、完全に穏やかさが消えた。
周囲では既に人の流れが崩壊している。逃げる人、転ぶ人、叫ぶ人。混乱が連鎖していた。
遠くで炎が上がる。
さらにもう一度、爆発音。
ガラスが割れる音が響いた。
「飯田君!」
「は、はい!」
マニュアルは端末を確認しながら、即座に街の地図を開く。
「君は事務所に戻っておくんだ!」
「えっ——」
「避難指示が出る可能性がある! 勝手に動かない!」
マニュアルは叫ぶ。
既にその視線は現場を見ていた。
「いいね!?」
返事を待たない。
そのまま角を曲がり、爆発の上がった方角へ駆けていく。人混みを縫い、倒れかけた看板を避け、叫び声の中へ飛び込んでいった。
飯田は、その背中を見送った。
「……」
その場に立ち尽くす。
周囲は混乱している。悲鳴、サイレン、逃げ惑う人々。空気が震えるたび、どこかでまた爆発音が響いた。
マニュアルの指示は正しい。
事務所へ戻るべきだ。
自分はまだ学生で、独断行動を許される立場ではない。
「……っ」
飯田は拳を握る。
そして、ゆっくり踵を返した。
事務所へ戻ろう。
今は、指示に従うべきだ。
そう思った。
その時だった。
視界の端で、細い裏路地へ誰かの影が滑り込んだ。
「!」
飯田の目が動く。
一瞬だった。
本当に、一瞬。
人混みの隙間。
夕暮れの影。
だが、見えた。
長い布のようなもの。
顔を隠す覆面。
腰に差された、細長い刃物。
飯田の呼吸が止まる。
脳裏に、ニュース映像が蘇った。
血塗れの路地。
倒れたヒーロー。
そして、その中央に立つ男。
ヒーロー殺し。
ステイン。
「……っ!!」
頭が、一気に熱くなる。
心臓が激しく脈打つ。
兄の姿が浮かんだ。
病室、包帯、動かない脚、震える母の声。
全部が、一瞬で噴き上がる。
『復讐って、視野狭くなるから』
マニュアルの声。
『勝手に動かない!』
指示。
だが、もう頭に入ってこなかった。
「ステイン……!」
飯田の脚部エンジンが唸る。
排気音。
次の瞬間、飯田の身体は一気に路地裏へ飛び込んでいた。
人混みを置き去りにする加速。
暗い通路、狭い路地、湿った空気。
その奥へ。
飯田の加速は速かった。
直線機動。
瞬間推力。
エンジン個性による爆発的な加速力。
狭い路地だろうと関係ない。排気を吹かしながら、一気に距離を詰める。
湿った地面を蹴り、曲がり角を抜ける。
さらに奥。
人影は、まだそこにいた。
「——!」
飯田の目が見開かれる。
黒っぽい服。顔を隠すような布。腰の刃物。
間違いない。
そう思った。
その人影は周囲を警戒する様子もなく、手元の紙を何度もひっくり返していた。
「こっちじゃない……? いや、でもさっきの店員は右って……」
ぶつぶつと何かを呟いている。
だが、飯田の耳には入らなかった。
頭が熱い。視界が狭い。ステインという言葉だけで、脳が埋め尽くされる。
「ヒーロー殺しッ!!」
飯田が叫ぶ。
その瞬間。
「あ?」
人影が顔を上げた。
だが、もう遅い。
飯田の身体が一気に加速し、路地の空気が弾けた。
男の目が見開かれる。
「ちょっ——」
「貴様ァァァッ!!」
飯田は確認もせず、そのまま男を壁へ叩き付けていた。
「ごぶぁっ!?」
鈍い音。
地図が宙へ舞う。
男の身体がコンクリート壁へ激突し、衝撃で周囲のゴミ箱が倒れた。
飯田は即座に男の腕を捻り上げる。
「動くな!!」
「いっ、いだだだだだっ!!?」
「ヒーロー殺しステイン!! 貴様を——!」
そこで、飯田の動きが一瞬止まった。
「……?」
押さえ付けた男の腕、首筋、頬。
露出した皮膚が、人間のものではない。
緑色。ざらついた鱗。光を反射する爬虫類めいた肌。
「……っ」
飯田の目が見開かれる。
男の顔を覆っていた布が、拘束の衝撃で半ば外れていた。そこから覗いているのは、トカゲのように縦へ裂けた瞳孔と、尖った歯。
明らかな異形型個性。
そして何より、覆面は確かにステインと似ていたが、粗雑だった。布を雑に切って縛っただけで、ニュース映像の男とは骨格も体格も雰囲気も違う。
別人だった。
「な——」
飯田の頭が、一瞬白くなる。
男は、その隙を逃さなかった。
「いっ……この、偽りのヒーローが……」
ぐにゃり、と男の身体が異様にしなる。
「!?」
飯田が反応するより早く、男は地面へ転がるように逃げ出した。
「まだヒーローがいやがったのか!」
ゴミ箱を蹴飛ばしながら、男は路地裏を全力で駆ける。長い尾のようなものが服の下で揺れていた。
飯田はその場で固まる。
(違う……!?)
ステインではない。
だが、覆面、刃物、騒乱の最中に裏路地をうろつく行動。
明らかに普通ではない。
「っ!」
飯田の思考が切り替わる。
間違えた。
早計だった。
だが、危険人物であることに変わりはない。
「待て!!」
飯田の脚部エンジンが再点火する。
排気が爆ぜる。
次の瞬間、飯田は再び路地を駆けていた。
逃げる男。
追う飯田。
混乱する保須の喧騒が、遠くで鳴り続けている。
男は速かった。
人間離れした俊足ではない。だが、狭い路地での動きが妙に滑らかだった。
壁に手をつき、配管へ足を掛け、濡れた地面を這うように曲がる。まるで、路地裏という環境そのものに身体を合わせているようだった。
「くっ……!」
飯田は数歩で追いつきかける。
だが、角を曲がるたびに男の身体がするりと視界から抜ける。
直線なら圧倒できる。
だが、この入り組んだ裏路地では、エンジンの加速を全て活かしきれない。
「止まれ!」
「止まれるかよ!」
男が叫ぶ。
その声は、恐怖と興奮で裏返っていた。
「俺はまだ、あの人に会えていない!」
「あの人……?」
飯田の眉が動く。
男はさらに角を曲がった。
飯田も続く。
薄暗い路地。
室外機の熱気。
割れた瓶。
湿った壁。
そして、その先で男は急に足を止めた。
「……!」
飯田も反射的に減速する。
路地の奥。
そこに、もう一人の男が立っていた。
黒い装束。
身体に巻き付けられた無数の刃物。
口元を覆う布。
鋭く、ぎらついた眼光。
粗雑な模倣ではない。
空気が違った。
薄暗い路地の中で、その男だけが異様な密度を持って立っている。
飯田の呼吸が止まる。
「……お前は、まさか」
喉の奥から、声が漏れた。
トカゲ男は、その男を見るなり、崩れるように膝をついた。
「あんたが、ヒーロー殺しステイン……!」
男は答えない。
ただ、心底興味のなさそうな目でトカゲ男を見下ろしていた。
トカゲ男は構わず身を乗り出す。
「俺の名はスピナー!」
胸を押さえ、震える声で叫ぶ。
「あんたの意思に感銘を受けた! 俺も、世の中を変えたいんだ!」
「……」
「偽物だらけのヒーロー社会を正したい! 誰にも見向きもされなかった俺でも、あんたみたいに——」
「黙れ」
短い一言だった。
それだけで、路地の空気が凍った。
スピナーの言葉が止まる。
ステインは、彼を見ていた。
敵意ですらない。侮蔑でもない。ただ、道端の石を見るような目だった。
「薄い」
「……え?」
「言葉も、覚悟も、刃も」
ステインの視線が、スピナーの腰の刃物へ落ちる。
「すべてが薄い」
スピナーの顔が引き攣る。
飯田は動けなかった。
目の前にいる。
兄を傷付けた男が。
探していた男が。
今、そこにいる。
だが、脚が動かない。
怒りが強すぎて。
憎しみが熱すぎて。
かえって身体が固まっていた。
ステインの目が、ようやく飯田へ向いた。
「……スーツを着た子どもか」
低い声だった。
静かなのに、路地の壁を震わせるような重さがあった。
「子どもといえど、ヒーローの真似事をするつもりならば」
ステインの手が、ゆっくりと刃へ伸びる。
「殺すぞ」
「……っ」
飯田の全身が硬直した。
圧。
それは殺気という言葉だけでは足りなかった。
オールマイトの、あの圧倒的な存在感。人を安心させるための絶対的な力。
それと同じほどの密度で、目の前の男は真逆のものを放っていた。
恐怖。
断罪。
血の匂い。
飯田の脚部エンジンが、かすかに震える。
動けない。
動かなければならないのに。
身体が、本能で拒んでいた。
「……貴様が」
だが、兄の姿が浮かぶ。
白い病室。
包帯。
動かない脚。
インゲニウムの名。
憧れ。
尊敬。
奪われたもの。
「貴様が兄を……!」
憎しみが、恐怖を無理やり踏み潰した。
飯田の脚部エンジンが唸る。
路地の空気が弾ける。
「ステインッ!!」
一瞬で距離を詰める。
蹴り。
飯田の全身の怒りを乗せた一撃。
だが、ステインはそこにいなかった。
「……ハア」
獣じみた動きだった。
膝を沈めるでもなく、構え直すでもない。ただ、するりと、人間の関節ではないみたいな角度で身をずらし、飯田の蹴りを紙一重で避ける。
「!」
次の瞬間、銀色の線が走った。
「ぐっ——!?」
熱い。
遅れて痛みが来た。
飯田の腕が、深く裂かれていた。
スーツの布地が割れ、血が噴き出す。勢いを殺せないまま、飯田は壁へ肩をぶつけた。
「がっ……!」
ステインは、もう背後にいた。
刃の先から、赤い血が滴っている。
「ハア、あまりに浅慮。愚かだ」
ステインは刃の先についた血を見た。
飯田の血。
それを、ゆっくりと舌で舐め取る。
「……っ!」
飯田は反射的に脚部エンジンを吹かした。
排気音が鳴る。
反撃。
もう一度。
今度こそ。
そう思った瞬間。
「——!?」
身体が、止まった。
脚が動かない。腕も動かない。指先すら、言うことを聞かない。
まるで全身を見えない鎖で縛られたように、飯田はその場へ硬直した。
「な……にを……!」
声だけが、かろうじて出る。
ステインは、もう飯田を見ていなかった。
「く……そ……!」
飯田は奥歯を噛む。
動け。
動け。
動け。
脚部エンジンは熱を持っている。排気も出ている。だが、肝心の身体が反応しない。
「貴様を……」
飯田は、動かない身体で吠えた。
「貴様を殺す!!」
ステインの目が、わずかに細まる。
だが、それだけだった。
怒るでもない。嘲るでもない。ただ、興味を失ったように視線を外す。
「やはり、ヒーローではない」
「っ……!」
「私怨に溺れ、救うべき者を見ず、殺すと叫ぶ」
ステインは静かに刃を持ち替えた。
「偽物め」
飯田の胸が、強く軋んだ。
その言葉は、刃より深く刺さった。
路地の端では、スピナーが呆然と立ち尽くしていた。先ほどまで熱に浮かされたように言葉を並べていた口が、半開きのまま止まっている。
見惚れていた。
ステインの動きに。
その殺気に。
その圧倒的な実力に。
「あ……」
スピナーの喉から、掠れた声が漏れる。
「あれが……本物……」
ステインは振り返らない。
飯田の前へ歩く。
一歩。
また一歩。
動けない飯田の視界に、刃が映る。
鈍く光る刀身。
それがゆっくりと持ち上がる。
「宣言した」
ステインは言った。
「ヒーローの真似事をするならば、殺すと」
刀が振り上げられる。
飯田は睨むことしかできなかった。
悔しい。
動けない。
兄の名を背負ってきたはずなのに。
何一つ、届かない。
そして、刃が振り下ろされる寸前。
夜空が割れた。
「——ッ!?」
屋上から、黒い影が落ちてきた。
流星のようだった。
一直線ではない。
壁を蹴り、看板を踏み、配管を弾き、細かい加速を積み重ねながら、黒い影は路地へ突っ込んでくる。
鋭い蹴りが、空気を裂いた。
金属が砕ける音。
ステインの刀が、根元から弾け飛んだ。
「!」
ステインの目が初めて大きく動いた。