砕けた刀身が、路地の床を跳ねた。
緑のコスチュームをまとった出久は、着地と同時に膝を沈める。
職場体験で使っていた、オールマイトを模した無骨なヒーロースーツ。
「飯田君! 大丈夫!?」
出久はステインを警戒したまま、飯田を庇うように立つ。
「緑谷君……!」
飯田の声は出た。
だが、身体は動かない。
「体が……動かん……!」
「硬直……ワイドショーの推察通りだ」
出久は奥歯を噛む。
間違いない。
ステインの個性だ。
何かしらの条件を満たすことで身体を硬直させる。ニュースや被害証言から推測されていた情報が、今、目の前で現実になっていた。
ステインは砕かれた刀を見下ろし、それを捨てた。そして、腰から新たな刃を抜く。
「スーツを着た子どもが、また一人か」
低い声。
殺気が路地を満たす。
出久は、震えそうになる脚に力を込めた。
飯田を守る。
近付けさせない。
それだけを考える。
「君は……」
飯田が背後で苦しげに声を絞る。
「なぜ、ここに……」
「後で説明する!」
出久は構えた。
槍骨。
筋骨発条化。
ミルコから教わった、止まらない動き。
全部使う。
今ここで。
ステインの目が細くなる。
「その眼……」
刃先が、出久へ向いた。
「ハア……今日は邪魔ばかり入る……」
次の瞬間、ステインが消えた。
「っ!」
速い。
出久は右脚を小さく解放し、壁へ短く槍骨を打ち込む。
刀が、頬のすぐ横を通過した。
冷たい風が肌を切る。
(予想よりずっと早い……)
このままでは駄目だ。
飯田は動けない。ステインの狙いは明らかに飯田へ向いている。自分が立っているから一時的に止まっているだけで、少しでも隙を見せれば終わる。
出久は壁を蹴った。
半歩。
さらに半歩。
路地の奥へ。
ステインの視線が、その動きを追う。
その時だった。
「緑谷君ッ!!」
飯田が叫んだ。
今まで聞いたことがないほど切羽詰まった声だった。
出久の肩が僅かに揺れる。
「逃げろ!!」
「……!」
「逃げるんだ!!」
飯田の顔は歪んでいた。
怒りとも、後悔とも、絶望とも違う。もっと痛々しい感情だった。
「これは……僕の問題だ……!」
声が震える。
身体は動かない。
それでも必死に叫ぶ。
「僕の個人的な事情なんだ!」
歯を食いしばる。
目には涙が滲んでいた。
「兄さんを傷付けられたのは僕だ!」
「飯田君——」
「君には関係ない!!」
叫びが路地へ響く。
「僕が勝手に飛び出した! 僕が勝手に復讐しようとした! 僕が勝手に失敗したんだ!!」
声が掠れる。
それでも止まらない。
「だから逃げろ!」
涙が頬を伝った。
「君まで死ぬ必要なんてない!!」
出久は目を見開く。
胸の奥が痛んだ。
確かに、その通りなのかもしれない。
これは飯田の復讐だ。飯田とステインの因縁だ。自分は関係ない。
関係ない、はずだった。
だけど。
だけど。
(違う)
頭の中に、別の声が響く。
迷うな。
考え込むな。
動け。
考えるのは後だ。
ミルコだった。
あの圧倒的なヒーロー。
目の前に敵がいるなら殴る。助けるべき人がいるなら助ける。理屈は後回し。まず動く。まず救う。
そういう在り方。
出久は大きく息を吸った。
余計な思考を全部捨てる。
AFOのこと。複数個性のこと。正体のこと。
後でいい。
全部後だ。
今じゃない。
「……確かに」
出久は前を向いたまま言った。
ステインから目を離さない。
「確かに、僕には関係ないのかもしれない」
飯田が息を呑む。
「でも!」
出久は叫んだ。
「ごちゃごちゃ考えるのは、君を助けてからだ!!」
路地の空気が震える。
飯田の目が見開かれた。
出久は重心を落とす。
脚に力を込める。
恐怖は消えていない。足も震えている。それでも前へ出る。
それがヒーローだと信じているから。
数秒、静寂が落ちた。
そして。
ステインの口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「ハ……」
低い笑い。
獣の喉鳴りに近い音。
「ハアッ……」
肩が揺れる。
その笑みは愉快そうだった。
嬉しそうだった。
今まで見せていた冷たい無表情とは違う。
獲物を見つけた肉食獣のような、心の底から歓喜している笑みだった。
ぎらり、と目が光る。
次の瞬間だった。
ステインの身体が低く沈む。
本能のまま飛び掛かる獣のように。
そして、爆発した。
「ッ!!」
路地の空気が弾ける。
速い。
飯田の突進とも違う。爆豪のような直線加速とも違う。もっと不規則で、もっと読めない。
壁を蹴る。地面を蹴る。配管へ手を掛ける。
人間の格闘術ではなく、生存競争の果てに磨かれた獣の動き。
出久の瞳が見開かれる。
「っ!」
出久も反射的に動いた。
右脚を解放し、壁を蹴り、さらに反対側の壁へ飛ぶ。
着地しない。
蹴る。
飛ぶ。
流す。
止まらない。
ミルコから叩き込まれた動きだった。
獣には獣。
理屈で追い付けないなら、本能に近付け。
ステインの刃が通過する。
出久は身体を捻り、天井近くの配管へ片足を掛ける。その反動で反対側へ飛び、路地の奥へ流れる。
「ほう」
ステインが笑う。
その目が細くなった。
嬉しそうに。
試すように。
「面白い」
出久は答えない。
余裕がない。
心臓が暴れている。
今だけなら。
本当に今だけなら。
速度では優位を取れていた。
筋骨発条化。槍骨による方向転換。若さゆえの瞬発力。それらを総動員して、どうにか先手を取れている。
だが。
(駄目だ……!)
出久の額に汗が滲む。
分かる。
圧倒的に分かる。
経験が違う。
身体が覚えている量が違う。
自分は教わったばかりだ。昨日、一昨日、その程度。
対してステインは違う。
何年も。
何十人も。
何百回も。
殺し合いを繰り返してきた。
動きそのものが洗練されている。
獣でありながら、獣以上だった。
だから、少しずつ。
本当に少しずつ。
距離が縮まっていく。
「っ……!」
出久が壁を蹴る。
ステインが追う。
出久が方向転換する。
ステインが追う。
まるで影だ。
離れない。
振り切れない。
そして、ついに。
「——!」
出久の足が、砕けたブロックの欠片を踏んだ。
ほんの僅か。
コンマ一秒にも満たない乱れ。
それだけだった。
ステインは見逃さない。
銀色の軌跡。
出久は反射的に首を引いた。
だが遅い。
紙を裂くような音と共に、頬に熱が走った。
「っ!」
着地。
後退。
距離を取る。
頬から一筋の血が流れている。
深くはない。
本当に浅い傷。
だが、その一滴で十分だった。
飯田の顔色が変わる。
「緑谷君!!」
叫ぶ。
「気を付けろ!!」
声が裏返る。
「奴の個性の条件は血液の摂取だ!!」
出久が目を見開く。
その瞬間、嫌な予感が走った。
遅かった。
もう遅かった。
ステインは既に動いていた。
刀身についた赤い雫。
出久の血。
それをゆっくりと、まるで味わうように舌で舐め取っていた。
路地が静まる。
ステインの瞳が細くなる。
獲物を品定めする捕食者の目だった。
出久は反射的に距離を取ろうとする。
壁を蹴る。
脚へ力を込める。
筋骨発条化を解放する。
そう命じた。
命じたはずだった。
だが。
「——ぐっ」
身体が動かなかった。
脚が沈黙している。
いや、脚だけではない。
腕も、肩も、首も、指先さえ。
まるで全身が見えない鋼鉄の枷で固定されたように、ぴくりとも反応しない。
呼吸だけができる。
視線だけが動く。
それ以外は、何一つ。
「な……」
出久の喉が震えた。
心臓は暴れている。脳は命令を出している。それなのに身体が応えない。
生まれて初めて味わう感覚だった。
まるで自分の身体ではなくなったような、肉体だけが他人のものになってしまったような、圧倒的な違和感。
「緑谷君!!」
飯田の悲鳴に近い声が響く。
だが出久は振り返れない。視界の端でさえ確認できない。
動かない。
本当に。
指一本、動かなかった。
ステインは刀を下ろしたまま、静かに出久を見ていた。
その目に先程までの獰猛な殺意はない。代わりにあるのは観察だった。評価、あるいは審査。そんな色が浮かんでいる。
何を見たのか。
何を判断したのか。
分からない。
だが、ステインの目から敵意が薄れていることだけは理解できた。
「お前は」
ステインがゆっくりと口を開く。
「生かす価値がある」
出久の目が見開かれる。
予想外の言葉だった。
だが安心などできない。
目の前には、今まさに人を殺そうとしていた男がいる。
そしてその男は、次の瞬間にはもう出久への興味を失っていた。
まるで道端の石ころを見るのをやめるように。
当然のように、自然な動作で、出久の横を通り過ぎる。
「ま、待て……!」
叫ぶ。
だが身体は動かない。
腕を伸ばせない。
掴めない。
止められない。
ステインは振り返りもしなかった。
出久を素通りし、そのまま路地の入口側へ歩いていく。
そこには、未だ硬直したままの飯田がいた。
飯田の顔色が変わる。
「っ……!」
逃げられない。
動けない。
それは本人が一番理解している。
それでも、その瞳だけはステインを睨み続けていた。
ステインはその前で立ち止まる。
ゆっくりと刀を持ち上げる。
鈍い光が刀身を走った。
「貴様は違う」
静かな声だった。
怒鳴りもしない。
感情を爆発させるわけでもない。
それなのに、飯田の顔から血の気が引いていく。
「私怨に溺れた」
ステインが一歩近付く。
「救うべき者を見なかった」
さらに一歩。
「ヒーローを名乗りながら、殺意を叫んだ」
刀が肩の高さまで持ち上がる。
出久は必死に身体へ命令を送った。
動け。
動け。
頼むから動いてくれ。
だが、身体は沈黙したままだった。
ステインは飯田を見下ろす。
その眼差しは冷酷だった。
まるで判決を下す裁判官のように。
「故に」
刀が振り上げられる。
路地の空気が張り詰めた。
「貴様は偽物だ」
出久の視界が揺れた。
振り上げられた刀。
飯田の硬直した身体。
そして、その先にある結末。
全部が見えている。
全部が分かっている。
なのに動けない。
筋肉は命令を拒絶し、神経は沈黙し、まるで魂だけが身体の中へ閉じ込められてしまったようだった。
(動け……!)
必死に念じる。
腕を上げろ。
一歩踏み出せ。
槍骨を出せ。
何でもいい。
だが返ってくるのは沈黙だけだった。
ステインの刀が、ゆっくりと振り下ろされようとする。
飯田の目が見開かれる。
その瞬間。
出久の中で何かが切れた。
「──ッッッ!!」
叫びにもならない咆哮だった。
理性ではない。
思考でもない。
ただ目の前の人を助けたいという衝動だけが、身体の奥底へ叩き付けられる。
筋骨発条化。
本来なら全身の筋肉と骨格を連動させ、効率よく爆発的な出力を発揮する個性。
だが今の出久は、制御などしていなかった。
いや、できなかった。
硬直した肉体へ無理やり電流を流し込むように。
壊れることを前提に。
限界を無視して。
出力だけを叩き込む。
筋肉が悲鳴を上げる。
骨が軋む。
関節が砕けそうな音を立てた。
それでも、なお。
出久は止めなかった。
「動けぇぇぇぇぇッ!!」
ブチッ、と。
身体のどこかで何かが切れた。
次の瞬間、硬直していたはずの右脚が動く。
いや、動いたというより、弾けた。
制御を失った発条が解放される。
爆発。
路地の空気が破裂した。
「なに──」
ステインの目が初めて大きく見開かれる。
出久の身体が砲弾のように突っ込んだ。
技ではない。
構えでもない。
ただ全体重と暴走した出力を乗せた体当たり。
ステインは反射的に身を捻る。
だが間に合わない。
轟音。
路地の壁が揺れた。
「ッ!!」
出久の肩がステインへ激突する。
鋼鉄のハンマーみたいな衝撃だった。
二人の身体がもつれ合いながら吹き飛ぶ。
アスファルトが砕ける。
壁が迫る。
そして、隣接する雑居ビルの外壁が内側から爆発した。
コンクリートが吹き飛ぶ。窓ガラスが砕け散る。粉塵が噴き上がる。室内の机や棚がひっくり返り、轟音と共に二人の姿が瓦礫の中へ消えた。
「緑谷君!!」
飯田の叫びが響く。
だが返事はない。
崩れ落ちる破片の音だけが続く。
数秒。
長い沈黙。
やがて、瓦礫の山が動いた。
コンクリート片が転がる。
その中から最初に立ち上がったのは、ステインだった。
額から血が流れている。
服も破れていた。
だが、その足取りは驚くほどしっかりしていた。
肩を回し、首を鳴らし、まるで大した事故でもなかったみたいに立ち上がる。
「ハア……」
吐息。
その目は愉快そうだった。
「なるほど」
粉塵の向こうを見る。
「個性の硬直を、出力だけで無理やり突破したか」
一方、瓦礫の奥。
出久は動けなかった。
視界が真っ白だった。
呼吸をするだけで肺が痛む。右肩が焼けるように熱い。脚は感覚がおかしい。腕も震えている。
筋肉が裂けそうだった。
いや、実際に何本か裂けているかもしれない。
さらに最悪なことに、ステインの個性は終わっていなかった。
身体はまだ重い。神経は鈍い。無理やり動かした反動で、全身が悲鳴を上げている。
「が……ぁ……!」
息を吸う。
激痛。
吐く。
激痛。
動こうとする。
さらに激痛。
筋骨発条化を暴発させた代償が、一気に押し寄せてきていた。
目の前が霞む。
吐き気がする。
それでも。
それでも立たなければならない。
飯田はまだ生きている。
まだ終わっていない。
出久は血の味を噛み締めながら、震える指を瓦礫へ掛けた。
その様子を見下ろしながら、ステインはゆっくりと新しい刀を構える。
その獣じみた笑みは、先程よりさらに深くなっていた。
粉塵の向こうで、出久は一度だけ目を動かした。
飯田は見えない。
崩れた壁と折れた棚、舞い上がった灰色の粉が視界を遮っている。路地からこちらを覗き込む角度も潰れていた。
外のサイレンと怒号は聞こえるが、このビルの中には人の気配がない。
空きテナント。
運がいい。
いや、ここまで含めて、誰かの盤面なのかもしれない。
「……っ」
出久は瓦礫に指を立てる。
硬直はまだ残っている。
筋骨発条化の暴発で身体の内側は焼けるように痛み、右肩はまともに上がらない。けれど、飯田の視線は切れている。ステイン以外には見られていない。
今しかない。
もう、手段を選んでいられない。
(……使う)
出久は奥歯を噛み締めた。
AFOから与えられた力。
使えば戻れなくなるかもしれない力。
ヒーローとして胸を張れなくなるかもしれない力。
それでも、ここで使わなければ飯田は死ぬ。
「……う、あ……」
喉から漏れた声は、自分のものとは思えなかった。
まず、槍骨。
いつものように腕から一本、二本ではない。
背中から。
肩から。
肋骨の隙間から。
前腕から。
脚部から。
無数の骨が、皮膚を突き破るようにせり出した。
白い骨槍は外へ伸びきる前に細かく枝分かれし、折り重なり、鱗のように全身を覆っていく。ヒーロースーツの装甲が内側から押し広げられ、縫い目が裂け、金具が弾けた。
「……なんだ」
ステインの目が細くなる。
出久は止まらない。
次。
筋肉が膨張する。
骨格が軋む。
手足が一回り太くなり、背中が盛り上がり、首から肩にかけて異様な厚みが生まれる。呼吸のたびに肋骨が外側へ押し開かれ、体内から別の生き物が這い出そうとしているようだった。
痛い。
痛い。
痛い。
だが、動く。
動ける。
それだけで十分だった。
「が、あああ……ッ!」
出久の身体が、さらに肥大化する。
少年の輪郭が崩れていく。
緑のヒーロースーツは裂け、黒いインナーと骨の外殻が露出し、全身を覆う白い骨鱗の隙間から膨れ上がった筋肉が覗く。指先からは鉤爪のような骨が伸び、背中には槍の束じみた突起が並んだ。
ヒーローではない。
少なくとも、今の姿はそう呼べるものではなかった。
怪物。
その言葉が、あまりにも似合っていた。
出久は荒い呼吸の中で、ステインを見据える。
声を出す余裕はない。
だが、視線だけで告げる。
飯田君には行かせない。
ステインは刀を構えたまま、獣のように笑った。
「いいぞ」
その声には、狂気じみた歓喜が滲んでいた。
「まだ奥があったか」