粉塵の向こうで、出久は自分の手を見た。
それは、もはや手と呼んでいいものではなかった。
五本の指は残っている。
だが、人間の手ではない。
前腕から伸びた骨が幾重にも重なり、鱗のような装甲となって皮膚を覆っている。その隙間から膨れ上がった筋肉が覗き、指先には短剣めいた鉤爪状の骨が伸びていた。
ゆっくりと握る。
ギチリ、と。
鉄骨でも圧し潰せそうな音が鳴った。
「……これが」
掠れた声が漏れる。
出久自身、自分の声だと分からなかった。
低く、重く、喉の奥で獣が唸っているような声だった。
視界の端に映る自分の腕は、以前の二倍近い太さになっている。
個性『剛躯』。
USJ事件の後、AFOから与えられた個性の一つ。
単純極まりない個性だった。
筋肉、骨格、内臓、神経。
人体そのものの出力限界を押し上げる。
それだけ。
だが、それだけだからこそ恐ろしい。
筋骨発条化が瞬間的な爆発力を生み出す個性ならば、剛躯はその爆発に耐える土台を作る個性だった。
そして、個性『スケイルメイル』。
出久は自分の胸へ視線を落とした。
骨の鱗。
いや、骨だけではない。
槍骨が枝分かれし、何層にも重なりながら装甲となっている。胸、腹、肩、首、背中。全身を覆う白い外殻は、まるで生きた鎧だった。
指先で触れる。
硬い。
コンクリートよりも、鋼鉄よりも、異様なほど硬い。
単純な防御個性。
だが、槍骨との相性は最悪なほど良かった。
骨が骨を覆う。
骨が鎧になる。
結果として生まれたのが、この怪物だった。
「ぐっ……」
出久は立ち上がる。
床が軋む。
たったそれだけで、コンクリートに蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
五感強化。
筋骨発条化。
槍骨。
剛躯。
スケイルメイル。
五つの個性が同時に発動している。
今まで経験したことがない状態だった。
世界の見え方すら違う。
遠くのサイレンが聞こえる。路地で転がるガラス片の音が聞こえる。飯田の荒い呼吸が聞こえる。ステインの心拍まで聞こえる。
視界は鮮明だった。
鮮明すぎた。
粉塵一粒一粒が見えるほどに。
その代わり、痛みも鮮明だった。
裂けた筋肉。軋む骨。暴走した筋骨発条化の反動。ステインの個性による硬直。
全部が同時に襲い掛かっている。
普通なら立っていられない。
それでも立てているのは、剛躯が無理やり身体を繋ぎ止めているからだった。まるで壊れた機械を針金で縛り上げて動かしているような状態。
長く保たない。
出久自身、それは理解していた。
理解していたからこそ、違和感にも気付いた。
立てている。
いや、立てているだけではない。
今、自分は腕を動かした。
呼吸だけではなく、首も僅かに動いている。
「……?」
出久の瞳が細くなる。
ステインの個性は消えていない。
それは分かる。
身体の内側は依然として重い。神経は鈍い。筋肉へ命令を送っても、反応は極端に遅れている。まるで身体の中身だけが、まだ見えない鎖で拘束されているようだった。
だが、その一方で。
全身を覆う骨の鱗だけは違った。
ギチ。
肩の装甲が動く。
ギチギチ。
背中の骨槍が、僅かに開閉する。
出久は息を呑んだ。
(動いてる……)
筋肉ではない。
神経でもない。
スケイルメイルそのものだ。
身体を覆う外殻。
生体装甲。
それが独立して、まるで別の生物みたいに出久の意思へ反応していた。
脳裏に閃く。
もし筋肉が動かないなら。
筋肉を使わなければいい。
骨の鎧そのものを動かせばいい。
理屈としては滅茶苦茶だった。
だが、今の出久自身が滅茶苦茶だった。
五つの個性が重なり合い、身体の境界そのものが曖昧になっている。
ならば、やるしかない。
「っ……!」
出久は全身へ命令を送った。
腕を動かせ、ではない。
脚を前へ出せ、でもない。
鱗を動かせ。
それだけを念じる。
ギギギギギ。
全身から嫌な音が響いた。
肩の装甲がずれる。腰の外殻が回転する。太腿を覆う骨鱗が、重なり合いながら押し出される。
まるで無数の歯車だ。
生きた装甲が、自らを駆動機関へ変えていく。
「ぐ……あ……!」
激痛が走る。
当然だった。
硬直している身体の上から、無理やり外骨格だけを動かしている。中身と外側が噛み合っていない。
皮膚が裂ける。
筋肉が悲鳴を上げる。
それでも、前へ。
前へ。
そして。
出久の右足が、一歩踏み出した。
コンクリートが砕ける。
その一歩は不格好だった。
歩行というより、外骨格が中身を引きずっただけだ。
「……うご、ける」
掠れた声が漏れる。
次の瞬間、ステインの目が細くなった。
「ハア……」
その笑みが深くなる。
「面妖な姿になったな。さて……そこから何が出来る」
出久は答えない。
答える余裕などない。
全神経を鱗の制御へ注ぎ込んでいた。
ギチ。
ギチギチ。
肩、背中、胸部、腰、脚部。
全身の骨鱗が連動する。
生き物の筋肉ではない。
甲虫の外骨格にも近い。
巨大な生体機械。
そんなものが、出久の身体を無理やり前へ押していた。
そして、出久は一度だけ視線を動かした。
飯田。
見えない。
崩落した壁。折れた柱。積み上がった瓦礫。舞い続ける粉塵。路地側との視界は完全に遮断されていた。
五感強化で呼吸音は聞こえる。
生きている。
だが、姿は見えない。
少なくとも、今のこの姿は見られていない。
出久はゆっくりと悍ましい顔を上げた。
視線の先にはステイン。
獣のように笑う男。
出久の背中の骨槍が一斉に展開した。
無数の骨鱗が開閉する。肩部装甲が持ち上がる。脚部装甲が圧縮される。
筋骨発条化。
剛躯。
スケイルメイル。
三つの個性が無理やり噛み合う。
まるで暴走する攻城兵器だった。
出久は低く身体を沈める。
次の瞬間、全身の鱗が一斉に弾けた。
轟音。
床が砕ける。
粉塵が吹き飛ぶ。
怪物と化した出久の巨体が、砲弾のような勢いでステインへ向かって突進した。
轟音と共に怪物が迫る。
床を砕き、瓦礫を跳ね飛ばし、粉塵の津波を引き連れながら。
その速度は異常だった。
技術ではない。
体術でもない。
ただ圧倒的な質量と出力だけで成立した暴走。
避け損なえば終わる。
そう判断したのは一瞬だった。
ステインの身体が沈む。
獣よりも洗練された動きで、迫る巨体の軌道から半身を外す。
その回避と同時に、刀が閃いた。
狙いは首。
「ッ!」
金属音にも似た衝撃が響く。
だが、斬れない。
刀身は首筋へ届く直前で、せり上がった骨鱗へ叩き付けられていた。
火花が散る。
ステインの目が細くなる。
ただの骨ではない。
何層にも重なった槍骨とスケイルメイルが、まるで鋼板のように刀を受け止めていた。
刀身に亀裂が走る。
ステインは即座に飛び退いた。
ほぼ同時に、刀が中程から砕け散る。
「……個性のブースト剤でも使用しているのか?」
驚いてはいる。
だが狼狽はない。
むしろ興味が増しているようだった。
一方、出久は止まれなかった。
そもそも止まるという概念が存在しない。
全身の骨鱗が暴走し、筋骨発条化が暴発し、剛躯が無理やり耐えている。
制御など、最初から破綻していた。
「ぐあぁぁぁぁッ!!」
怪物じみた咆哮。
巨体がステインの横を通り抜け、そのまま一枚目の壁へ激突した。
コンクリートが爆発する。
だが止まらない。
骨鱗がさらに圧縮される。
発条化した筋肉が暴走する。
そして、次の壁。
さらにその先の壁。
テナントの仕切り壁を次々と突き破る。
机が吹き飛ぶ。棚が砕ける。蛍光灯が破裂する。
まるで大型トラックが屋内を突っ走っているようだった。
そしてようやく、最後の壁へ激突した反動で巨体が傾く。
バランスを失い、転倒。
コンクリート床へ叩き付けられた。
巨体が瓦礫を巻き込みながら転がり、柱をへし折る。ようやく停止した時には、十数メートル以上先まで破壊の痕跡が続いていた。
「ぐ……っ……!」
出久は起き上がれない。
骨鱗は動いている。
だが中身が追い付いていない。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。
硬直もまだ残っている。
視界が揺れる。
呼吸が乱れる。
ステインは刃こぼれした刀身を一瞥すると、何の未練もなくそれを捨てた。
「硬いな」
呟き、腰へ手を伸ばす。
新たな刀。
まだ無傷の刃が抜き放たれる。
鈍く光る鋼。
ステインはその刀を肩へ担ぎながら、転倒した怪物を観察した。
頭、胸、肩、背中。
どこも骨鱗で覆われている。
正面から斬るのは非効率。
だが完全ではない。
獣の目が細くなる。
肘、膝、肩関節、股関節。
装甲が動くために必要な可動部。
そこだけは骨鱗が薄い。
薄くせざるを得ない。
「なるほど」
ステインの笑みが深くなる。
獲物を解体する職人のように、冷静に、正確に。
刀の切っ先が出久へ向く。
「どれほど異形になろうと、生き物である以上は関節が要るか」
そして、ステインは音もなく重心を落とした。
狙うのは装甲ではない。
その内側。
怪物を動かしている要の部分だった。
ステインが近付いてくる。
足音は小さい。
だが、五感強化された出久の耳には、床に落ちた砂粒が靴裏で擦れる音まで届いていた。
(まずい……)
出久は骨鱗を動かそうとする。
だが、さっきの突進で制御が乱れている。
肩の外殻は軋むばかりで、脚部の鱗は噛み合った歯車のように引っかかっていた。筋肉の硬直も残っているせいで、内側から動かそうとしても、外側から引きずろうとしても、身体全体が鉛の塊みたいに重い。
ステインは急がない。
出久が満足に動けないと見抜いている。
刀を構えたまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「その力」
ステインが低く言った。
「お前自身のものか」
「……っ」
「複数の個性に見える。骨。膂力。硬化。感覚強化。さらに外殻の駆動」
出久の心臓が跳ねた。
見抜かれている。
完全ではないにしても、異常性を見られている。
ステインは薄く笑う。
「異形だな」
刀の切っ先が、出久の膝へ向いた。
「だが、異形であろうと信念があるならば本物たり得る」
出久は歯を食いしばる。
会話。
そうだ。
会話ならできる。
時間を稼げる。
飯田の硬直が解けるかもしれない。ミルコが戻ってくるかもしれない。あるいは、身体の制御が少しでも戻るかもしれない。
だから、喉を絞る。
「……なんで」
声が低く、掠れていた。
怪物の喉から出たせいで、自分でも聞き慣れない音だった。
ステインの足が止まる。
「なんで、こんなことをするんだ……!」
出久は瓦礫に爪を立てながら、必死に言葉を続けた。
「ヒーローを襲って、人を傷付けて、殺して……そんな犯罪を繰り返して、何が変わるっていうんだ!」
ステインの目が細くなる。
「犯罪」
短く繰り返した。
「そうだ! どんな思想があっても、人を殺していい理由になんかならない!」
出久は叫ぶ。
その間にも、背中の骨鱗を少しずつ動かす。噛み合った外殻を外し、脚部の装甲を組み替える。
ほんの少しでもいい。
次に動くための余地を作る。
「あなたの言ってることが全部間違ってるとは言わない! ヒーロー社会に問題がないなんて、僕だって言えない! でも、それを理由にして誰かを殺したら、その瞬間、あなたはただのヴィランだ!」
「浅いな」
ステインが言った。
怒りはない。
失望もない。
ただ、断定だった。
「社会は言葉では変わらん。正論でも変わらん。腐敗したものは、血を流さねば目を覚まさない」
「そんなの……!」
「偽物が蔓延った」
ステインの声が重くなる。
「名声を求め、金を求め、救済の名を商売に変えた者どもが、ヒーローを名乗っている。だから俺が裁く」
ステインが一歩踏み出す。
出久の骨鱗が、ぎちりと鳴る。
「本物だけを残す」
「その本物を、勝手に決めるのか!」
出久は睨み返した。
「あなたが認めた人だけがヒーローで、認めなかった人は死んでもいいっていうのか!?」
ステインの口元が、僅かに吊り上がる。
「ならば問う。私怨で刃を向けたあの少年を、ヒーローと呼ぶか」
「……っ」
「救うべき市民も、混乱する街も見ず、ただ己の復讐だけを追った。殺すと叫んだ。あれを本物と呼ぶか」
出久は一瞬、言葉に詰まった。
だが、すぐに奥歯を噛む。
「間違えたなら、止めればいい」
声が震える。
「間違えたなら、叱ればいい。もう一回立ち上がれるように、誰かが手を伸ばせばいい。殺す必要なんてないじゃないか!」
ステインは黙って出久を見た。
その沈黙が、刃より怖かった。
次の瞬間、ステインの身体が沈む。
「ならば」
刀が低く構えられる。
「貴様が証明しろ。どのみち、力無き正義も偽物だ」
刃が来る。
膝。
薄い関節部。
そこを刻まれれば、この怪物じみた身体はもう動かせない。
「お前を無効化した後に、あの子供を殺す」
ステインは静かに告げた。
その言葉が、出久の中で弾けた。
「そんなの……ふざけるなっ!」
反射だった。
考えるより先に、巨体が起き上がっていた。骨鱗が噛み合い、脚部が床を踏み砕き、出久は膝立ちから一気に立ち上がる。
ステインの刃が空を切った。
「……!」
立った。
自分で。
外骨格に引きずられたのではない。
腕が動く。
脚が動く。
首も、指も、肩も。
「動く……?」
出久自身が驚いた。
さっきまで身体の奥に残っていた重い鎖の感覚が、薄れている。痛みは消えない。むしろ全身は焼けるように痛い。
だが、ステインの個性による硬直だけが、明らかに弱まっている。
ステインが舌打ちした。
「ハア……O型か」
低く呟く。
その声には、初めて明確な苛立ちが混じっていた。
ステインは即座に距離を取る。
床を蹴り、折れた柱を足場にし、刃を構えたまま粉塵の向こうへ下がった。
出久は荒い呼吸を繰り返す。
血液型。
そこまでが条件。
理解するより早く、怒りが身体を前へ押した。
出久は、全てを使った。
五感強化。
槍骨。
筋骨発条化。
剛躯。
スケイルメイル。
自由になった身体が、今度は外骨格に引きずられるのではなく、自分の意思で動く。
床を蹴った。
轟音。
巨体が消える。
「ッ!」
ステインが反応するより早く、出久の鉤爪じみた手が伸びた。
胸元。
その襟首を、骨鱗に覆われた巨大な手が掴み上げる。
「捕まえた……!」
ステインの目が細くなる。
出久は止まらなかった。
掴んだまま、さらに踏み込む。
筋骨発条化が脚部で爆ぜる。
剛躯がその出力を受け止める。
骨鱗が足場を噛み砕き、床のコンクリートが波打つように割れた。
「ぐっ——」
ステインの身体が宙に浮く。
次の瞬間、出久はそのままステインを壁へ叩き付けた。
コンクリート壁が砕ける。
衝撃で鉄筋が歪み、粉塵が爆発したように広がった。ステインの背中が壁へめり込み、蜘蛛の巣状の亀裂が周囲へ走る。
「が、は……ッ!」
血が飛ぶ。
だが、出久は手を緩めない。
緩めたら終わる。
この男は、少しの隙でも飯田へ向かう。
出久はそれを知っていた。
知ってしまった。
「まだ……!」
壁の中で、ステインの指が動く。
刀を探している。抜け出そうとしている。肩をずらし、背中を押し出し、瓦礫の中から身体を引き剥がそうとしていた。
ボロボロだ。
血も流れている。
それでも目が死んでいない。
獣の目のままだった。
「ハア……いい……」
ステインが笑う。
「黙れ!!」
出久の拳が振り抜かれた。
拳というより、白い骨鎧に覆われた鉄塊だった。
ステインの身体が壁から引き剥がされ、殴られた衝撃で横へ吹き飛ぶ。砕けた壁の破片を巻き込み、折れた棚を突き破り、さらに割れた窓枠の向こうへ。
出久は追う。
一切、止まらない。
ミルコの声が頭の奥で響いていた。
考えるな。
動きながら考えろ。
止まるな。
出久の巨体が床を砕きながら加速する。
ステインは空中で身を捻ろうとした。
だが、間に合わない。
出久の二撃目が入った。
今度は腕ではない。
肩。
体当たりに近い一撃。
ステインの身体が外壁を突き破る。
暗い路地へ投げ出される。
別の路地裏。
狭く、湿っていて、街灯の光も届かない場所。
そこへステインは背中から叩き込まれた。
アスファルトが陥没する。ゴミ箱が吹き飛ぶ。壁に貼られていたポスターが衝撃で剥がれ落ちた。
出久は砕けた壁の穴から、ゆっくりと外へ出る。
白い骨鱗に覆われた巨体。
裂けたヒーロースーツ。
荒い呼吸。
その姿は、もう人助けに駆けつけた少年には見えなかった。
ステインは、瓦礫の中でゆっくりと身を起こした。
肩が落ちている。
額から血が流れている。
片目の周囲は腫れ、目元の布も裂けていた。
普通なら、もう立てない。
立てるはずがない。
だが、ステインは立った。
「ハア……」
呼吸は荒い。
それでも、その目だけは変わらなかった。
静かで、濁っていて、折れていない。
出久は、思わず一歩踏み出しかけて止まる。
ステインの手が、ゆっくりと腰へ伸びたからだ。
刀ではない。
そこに残っていたのは、短いナイフだった。
刃渡りは小さい。
今の出久の骨鱗を貫けるような代物ではない。
こんな巨体に対して、あまりにも頼りない。
それでも、ステインはそのナイフを出久へ突きつけた。
「……どうした。俺は、ヴィランはまだ立っているぞ」
低い声。
刃先は震えていない。
腕はボロボロなのに。
身体は限界のはずなのに。
その目に宿る狂気だけは、少しも衰えていなかった。
出久の喉が鳴る。
(もう、勝負にならないはずだ)
分かっている。
今のステインに、出久を正面から止める手段はない。ナイフ一本で、この骨鱗を突破できるはずがない。
膂力も、質量も、防御力も、こちらが上だ。
なのに。
足が、勝手に下がった。
ず、と。
骨鱗に覆われた足が、アスファルトを削りながら一歩退く。
「……っ」
出久は自分の反応に驚いた。
怖い。
こんな姿になっても。
こんな力を使っても。
目の前の男が、まだ怖い。
ステインの視線が、出久を縫い止めていた。
ナイフではない。
傷でもない。
その目が怖かった。
どれだけ殴っても、砕いても、吹き飛ばしても、この男は折れない。身体は限界のはずなのに、まだ自分の正しさだけで立っている。
(なんで……)
出久の呼吸が震える。
(なんで、まだそんな目ができるんだ……!)
その時だった。
『彼は危険だ』
耳元で声がした。
穏やかで、優しくて、嫌になるほど聞き覚えのある声。
『彼は君のクラスメイトを殺そうとしている』
「……っ」
出久の目が見開かれる。
AFO。
いないはずの声。
この場にいるはずがない。
なのに、囁きはすぐ隣から聞こえた気がした。
『君が飯田天哉君を助けてあげないといけない』
出久の視界の端に、飯田の姿が浮かぶ。
動けない身体。
涙。
「逃げろ」と叫んだ声。
ステインが振り上げた刀。
『攻撃の手を緩めれば、君の友達が死んでしまうよ』
「やめろ……」
出久は掠れた声で呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
AFOか。
ステインか。
それとも、自分自身か。
ステインはナイフを構えたまま、一歩踏み出した。
その瞬間、出久の中の恐怖が限界を越えた。
「う、ああああああああああッ!!」
巨体が動く。
拳が振り下ろされる。
ステインは避けようとした。
だが、遅い。
骨鱗に覆われた拳が、ステインの身体を地面へ叩き付けた。
鈍い音がした。
人体が出していい音ではなかった。
それでも出久は止まらない。
「飯田君を……!」
もう一撃。
アスファルトが砕ける。
「殺させない……!」
さらに一撃。
ステインの身体が跳ねる。
「殺させない!!」
恐怖だった。
怒りではない。
正義でもない。
ただ、止めなければならないという焦燥だけが、出久の腕を動かしていた。
AFOの声が、まだ耳元で笑っている気がした。
『そうだ。それでいい』
「違う……!」
出久は叫びながら拳を振るう。
『君は友達を救っている』
「違う!!」
骨鱗の拳が、ステインを壁へ叩き込む。
嫌な音。
湿った音。
何かが折れる音。
何かが潰れる音。
ステインのナイフが手から落ち、路地の床を滑った。
それでも出久は、すぐには止まれなかった。
最後の一撃が、ステインの身体を横へ弾き飛ばす。
壁にぶつかり、ずるりと崩れ落ちる。
ステインは動かなかった。
静寂。
荒い呼吸だけが残る。
出久は拳を振り上げた姿勢のまま固まった。
「……え」
白い骨鱗の拳。
その先に倒れている、ボロボロの人間。
自分がやった。
自分の手で。
「……ぁ」
喉が震えた。
ステインの目は、もう何も見ていなかった。