出久は、倒れ伏したステインを見下ろしたまま動けなかった。
荒い呼吸が喉を焼く。肩は激しく上下し、握り締めた拳はまだ震えていた。白い骨鱗には血がこびりつき、異形の腕はまるで他人のもののように見える。
何秒そうしていただろうか。
不意に、頭の中で何かが切り替わった。
「……あ」
出久の顔から血の気が引く。
今、自分は何をしていた。
何をした。
目の前に倒れているのは敵ではない。ただの人間だ。
「うそだ……」
掠れた声が漏れた瞬間、全身を覆っていた骨鱗が崩れ始めた。肩を覆う装甲が砕けるように剥がれ落ち、肥大化していた筋肉が縮み、槍骨も外殻も音を立てながら身体の中へ引き戻されていく。
怪物じみた姿は急速に失われ、残ったのは傷だらけの少年だった。
出久は転がるようにステインの元へ駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか……!」
返事はない。
当然だ。
そんな考えを必死に振り払って、出久は震える指を首筋へ伸ばした。
脈を探す。
何も感じない。
手首に触れる。
やはり反応はない。
もう一度、首へ。
もう一度、手首へ。
何度繰り返しても結果は変わらなかった。
「違う……」
出久の声が震える。
「違う、そんなはず……」
視線が自然と全身へ向いた。
そして、その瞬間に理解してしまう。
呼吸がない。
脈もない。
出血量も異常だった。
身体の損傷も深刻すぎる。
ヒーロー科の訓練を受けているからこそ分かる。応急処置でどうにかなる段階ではないことが、嫌になるほど理解できてしまった。
それでも認められなかった。
「まだ……まだだ……!」
出久は慌てて体勢を変え、両手を胸の中央へ重ねる。
心臓マッサージ。
訓練で何度も教わった。
人を救うための技術。
命を繋ぐための技術。
「戻ってください……!」
圧迫する。
もう一度。
さらにもう一度。
だが、反応はない。
胸は上下しない。
呼吸も戻らない。
瞼も動かない。
それでも出久は止まれなかった。
「お願いだ……!」
圧迫を続ける。
涙で視界が滲む。
「起きてください……!」
意味がない。
どこかで分かっている。
何度押しても、何度呼んでも、返ってくるものはない。
それでも手を止めれば、自分が何をしたのか認めることになる気がした。
「僕は……助けようとしただけなんだ……」
声が崩れる。
「殺すつもりなんて、なかったんだ……」
答える者はいない。
路地裏に響くのは、出久の嗚咽と、無意味な胸骨圧迫の音だけだった。
心臓マッサージを続けながら何度も名前を呼ぶが、目の前の男が目を開くことはなく、胸が上下する気配もない。訓練で教わった知識が、これ以上の処置に意味がないことを理解させている。それでも手を止めれば、自分が何をしてしまったのか認めることになる気がして、出久は半ば意地のように圧迫を続けていた。
やがて腕から力が抜け、出久はその場に崩れるように座り込んだ。
頭の中は完全に混乱していた。警察を呼ぶべきなのか、ヒーローへ連絡するべきなのか、それともまず飯田たちの無事を確認するべきなのか。考えようとしても思考はまとまらず、視線が動くたびに路地裏へ横たわるステインの姿が目に入る。
動かない。
その事実だけが、何よりも重かった。
自分は人を助けるためにここへ来たはずだった。誰かを守るために戦ったはずだった。それなのに、路地裏に残された結果はあまりにも救いのないものだった。
「どうしたら……」
掠れた呟きが漏れた、その瞬間だった。
不意にポケットの中で電子音が鳴り響き、出久の身体が大きく震えた。慌ててスマートフォンを取り出して画面を確認すると、そこに表示されていたのは登録された名前ではなく、『非通知設定』の文字だった。
本来なら出るべきではない。だが出久は、その表示を見た瞬間に誰からの着信なのか理解してしまった。
根拠はない。
それでも分かる。
このタイミングで自分に電話を掛けてくる人物を、出久は一人しか知らなかった。
「も、もしもし! あの」
震える声で呟きながら通話ボタンへ指を伸ばす。迷いはなかった。警察へ連絡する勇気も、ヒーローへ助けを求める勇気も失っていた今の出久にとって、AFOだけが唯一縋れそうな相手だったからだ。
通話が繋がる。
数秒の無音が流れた後、受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもと変わらない穏やかな声だった。
『やってしまったねぇ、緑谷君』
受話器の向こうから聞こえてきた声は、いつも通り穏やかだった。
だが、その奥に僅かな愉悦が混じっていることを、出久は聞き逃さなかった。
背筋が震える。
まるで全てを見ていたかのような口ぶりだった。
出久は慌てて声を上げた。
「どうしたらいいんですか……!? 僕、僕はそんなつもりじゃ……!」
言葉がまとまらない。
視線は何度もステインへ向く。
動かない身体。
血に濡れたアスファルト。
さっきまで自分を睨んでいた男。
その全てが現実感を失いながらも、確かにそこに存在していた。
『落ち着きなさい』
AFOの声は変わらない。
むしろ教師が生徒を諭すような穏やかさすらあった。
『まず確認しよう。彼は死亡しているのだね?』
出久の喉が詰まる。
「……はい」
認めたくなかった。
認めたくなかったが、嘘は吐けなかった。
「脈もありません……呼吸も……身体の状態も……」
数秒の沈黙。
そしてAFOは静かに言った。
『なるほど』
まるで仕事の報告を受けたような口調だった。
『それなら、その死体の始末はこちらでやっておこう』
出久は一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。
理解した次の瞬間、血の気が引く。
「え……?」
『安心しなさい。痕跡の処理も含めて私が手配する。君はその場を離れたまえ』
「ま、待ってください!」
出久は思わず叫んだ。
声が路地裏に反響する。
「隠蔽なんて駄目です!」
息を荒げながら立ち上がる。
「そんなことしたら余計に……!」
『余計に?』
AFOが静かに問い返す。
出久は言葉に詰まった。
「そ、それは……」
『警察へ通報するのかい?』
穏やかな声だった。
だが、その言葉は鋭かった。
『そして事情を説明する。雄英高校ヒーロー科一年生の緑谷出久が、戦闘の末にヴィランを殴り殺しました、と』
「……っ!」
出久の身体が硬直する。
『君は未成年だ。しかもヒーロー候補生。複数個性についても説明しなければならないだろうね』
出久の呼吸が止まりそうになる。
複数個性。
その単語だけで胃が締め付けられた。
『君が警察へ行けば、当然その力についても調べられる。誰から与えられたのか。なぜ持っているのか。どうして今日のような姿になれたのか』
「やめてください……」
『そして雄英も無関係では済まない。教師達も事情聴取を受けるだろう。クラスメイト達もね』
「やめてください……!」
出久は頭を抱えた。
考えたくない。
想像したくない。
だがAFOは淡々と言葉を重ねる。
『私は隠せと言っているのではないよ、緑谷君』
その声はどこまでも優しかった。
『ただ、君が冷静になるまで時間を作ろうと言っているだけだ』
出久は息を呑む。
その言葉が恐ろしかった。
理屈としては間違っていないように聞こえる。
だが確実に何かがおかしい。
それでも今の出久には、その何かを上手く言葉にすることができなかった。
足元では、ステインの亡骸が静かに横たわっている。
そして電話の向こうでは、AFOがまるで動揺する子供を導く保護者のような声で、次の言葉を待っていた。
──
数時間後。
夕暮れはすでに過ぎ、住宅街には窓明かりが灯り始めていた。
玄関の扉が静かに開く。
「出久? おかえりなさい」
リビングから母の声が聞こえた。
だが、返事はなかった。
青ざめた顔のまま靴を脱いだ出久は、母の方を一度も見ようとせず、そのまま階段へ向かう。
「出久?」
異変に気付いた母が立ち上がる。
「どうしたの、その怪我……!」
制服は裂け、袖口には乾きかけた血がこびりついている。顔色は紙のように白く、足取りもふらついていた。
「ちょっと待って! 何があったの!?」
心配そうな声が背中へ飛ぶ。
しかし出久は立ち止まらなかった。
「あの、職場体験、で……」
それだけを掠れた声で返すと、自室の扉を勢いよく閉める。
バタン、と鈍い音が響いた。
鍵を掛ける手が震える。
そのまま扉にもたれ掛かり、何度も荒く息を吐いた。
「はぁ……はぁ……」
頭の中では、さっきまでの光景が何度も繰り返されている。
血。
拳。
動かなくなったステイン。
そして、AFOの穏やかな声。
『私が処理しておこう』
結局、自分はその言葉に従ってしまった。
その場を離れろと言われ、足が勝手に動いた。後ろを振り返ることもできず、ただ逃げるように保須市を後にし、気が付けば自宅まで帰ってきていた。
「どうなったんだ……」
震える指でスマートフォンを取り出す。
ニュースアプリを開く。
保須。
ヴィラン。
事件。
思い付く限りの単語で検索を繰り返す。
画面には次々と速報が並んでいた。
『保須市内で複数のヴィラン事件が同時発生』
『ヒーロー多数が出動』
『市内各所で戦闘が継続』
『市民へ不要不急の外出自粛を呼び掛け』
出久は食い入るように画面を追う。
「違う……これじゃない……」
指が震える。
さらに別のニュースサイトを開く。
SNSも確認する。
動画投稿サイト。
ニュース専門サイト。
地方紙の速報。
片っ端から巡る。
だが、どこにもない。
ヒーロー殺しステイン。
保須で目撃されたという情報は残っている。
しかし、その後の行方については一切触れられていなかった。
「……ない」
もう一度更新する。
変わらない。
「なんで……」
何もない。
『死亡』も。
『逮捕』も。
『発見』も。
その言葉だけが、どのサイトにも存在しなかった。
画面を何度更新しても結果は変わらなかった。
保須市で発生した連続ヴィラン事件。
複数のプロヒーローが出動したこと。
市内各所で戦闘が起きたこと。
報道されているのは、その程度だった。
そこにいるはずの人物が、一人だけ綺麗に消えている。
「……本当に」
出久の喉が小さく鳴る。
「消えた……」
その瞬間だった。
張り詰めていた胸の奥から、ほんの僅かに安堵が漏れた。
見つかっていない。
ニュースになっていない。
警察も、ヒーローも、自分のところへ来ていない。
間に合った。
隠せた。
その考えが頭をよぎった瞬間、出久は凍り付いた。
「……あ」
息が止まる。
今、自分は何を思った。
安心した。
死体が見つかっていないことに。
人が一人死に、その遺体が隠されたことに、自分は安心してしまった。
「違う……」
スマートフォンが震える手から滑り落ちる。
床へ落ちた画面には、相変わらず事件の記事だけが映っていた。
「違う……違う!」
両手で頭を抱える。
自分はヒーローになりたかった。
人を救う人間になりたかった。
それなのに今、自分が喜んだのは、人命でも真実でもなく、自分の罪が表へ出なかったことだった。
「僕は……」
胃の奥が大きく痙攣する。
込み上げてくる吐き気に耐え切れず、出久はベッドから転げ落ちるように床へ膝をついた。
「うっ……!」
呼吸が乱れる。
胃液だけが喉まで込み上げ、苦い味が口の中へ広がる。
肩が震える。
視界も涙で滲んでいた。
「最低だ……」
掠れた声が漏れる。
「人を殺して……隠して……そのことに安心した……」
そんな自分が、どうしようもなく醜かった。
胸の奥では、もう一人の自分が静かに囁いている。
──助かったじゃないか。
──これで誰にも知られない。
その声を掻き消すように、出久は耳を塞いだ。
「違う……!」
叫んでも消えない。
吐き気も、罪悪感も、胸にへばり付いたままだった。
その時、不意に部屋へ電子音が鳴り響いた。
ピリリリリ──。
突然の着信音に、出久の肩が大きく跳ねる。
床へ落ちたスマートフォンが震えながら光っていた。
「……っ!」
心臓が嫌な音を立てる。
また非通知か。
またAFOなのか。
恐る恐る画面を見る。
そこに表示されていた名前を見た瞬間、出久の目が大きく見開かれた。
『飯田天哉』
「飯田君……!」
出久は慌ててスマートフォンを掴み上げ、震える指で通話ボタンを押した。
「も、もしもし!」
受話器の向こうから聞こえてきた声は、生きている人間のものだった。
『緑谷君! 良かった、繋がったか!』
その瞬間、出久は全身から力が抜けそうになる。
『緑谷君、本当に無事なんだね……!』
飯田の声には、安堵が滲んでいた。その一言だけで、出久の胸は締め付けられる。
「う、うん……僕は……」
喉が乾く。
声が上手く出ない。
そんな出久の様子には気付かず、飯田は言葉を続けた。
『君とステインが瓦礫の奥へ消えていった後、僕は数分ほど動くことができなかった。個性の効果が切れて身体が自由になってから、すぐに君達を探しに向かったんだ』
飯田は静かに当時を振り返る。
『だが、戦闘の跡だけが残っていて、君もステインもどこにもいなかった。壁は何枚も破壊され、建物の中は滅茶苦茶になっていて、最後には路地まで探したんだが……結局、二人とも見つけられなかった』
出久は息を呑む。
あの後、飯田は本当に探してくれていたのだ。
『その後、駆け付けたヒーローへ事情を説明し、病院へ搬送された。怪我は大した事がなく、つい先ほど治療を終えて帰宅したところだ」
飯田はそこで一度言葉を切る。
受話器の向こうから、小さく息を吸う音が聞こえた。
『だが、病院でも君の行方は誰も把握していなかった。だから心配になって電話を掛けたんだ』
出久の手に、じっとりと汗が滲む。
『教えてくれ、緑谷君』
飯田の声は真剣だった。
『君は今、どこにいる? 本当に怪我はないのか?』
「ぼ、僕は……家にいる」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「怪我は……大丈夫。少し休めば……」
『そうか』
飯田は心底安心したように息を吐く。
『それを聞いて安心した。本当に良かった』
その言葉が、出久の胸を鋭く抉る。
安心している。
飯田は何も知らない。
自分が何をしたのかも。
あの路地裏で何が起きたのかも。
だからこそ、純粋に自分の無事を喜んでくれている。
沈黙が数秒流れた後、飯田は静かに、本当に知りたかったことを口にした。
『それで、もう一つ聞かせてほしい』
出久の鼓動が跳ねる。
『あの後、ステインはどうなった?』
部屋の空気が、一瞬で凍り付いたような気がした。
出久の喉が音を立てる。
言葉が出ない。
受話器の向こうでは、飯田が返事を待っている。
『緑谷君?』
優しく名を呼ばれる。
その一言が、出久には責める声よりも遥かに苦しかった。
出久の喉がひりつく。
胸の奥では心臓が激しく脈打ち、握り締めたスマートフォンが汗で滑りそうになっていた。
「……ステインは」
ようやく声を絞り出す。
「僕と少し戦った後、特に固執することもなく、そのまま撤退したんだ」
嘘だった。
その一言を口にした瞬間、自分の中で何かが音を立てて崩れた気がした。
「途中でヒーローも集まってきてたし、このまま戦うのは不利だって判断したんだと思う。僕も……その後は追えなくて」
言葉を重ねるたびに、胸が苦しくなる。
ステインはもうどこにもいない。
逃げたわけでもない。
撤退したわけでもない。
その事実を知っているのは、自分とAFOだけだった。
受話器の向こうは静かだった。
飯田は何も言わない。
ただ、小さく息を吐く音だけが聞こえてくる。
『……そうか』
短い返事だった。
それ以上追及してくることもない。
だが、その沈黙が出久にはひどく長く感じられた。
『なら、あの男はまだ捕まっていないのだな』
「……うん」
『分かった』
飯田はそう答えたものの、どこか言葉を選んでいるようだった。
出久の様子に何か引っ掛かるものを感じている。
そんな気配が受話器越しにも伝わってくる。
それでも飯田は何も尋ねなかった。
数秒の沈黙の後、その代わりに穏やかな声で言った。
『緑谷君』
「……なに?」
『今日は、本当にありがとう』
出久は息を止めた。
『君が来てくれなければ、僕は間違いなくあの場で命を落としていた。私情に囚われ、兄の仇だけしか見えていなかった僕を止めてくれたのも君だ』
飯田の声は静かだった。
だが、その一言一言には確かな感謝が込められていた。
『君には何度礼を言っても足りない。本当に感謝している』
「……」
出久は何も答えられなかった。
ありがとう、と言われる資格など、自分にはない。
そう思えば思うほど、喉は固く閉ざされてしまう。
飯田は返事を急かさなかった。
『今日はお互い、ゆっくり休もう。怪我もあるだろうし、精神的にも疲れているはずだ』
少しだけ普段の調子を取り戻した声で続ける。
『また明日、学校で会おう』
「……うん」
それだけが精一杯だった。
『では、おやすみ』
「おやすみ……飯田君」
通話が切れる。
耳に当てたままのスマートフォンからは、無機質な終話音だけが静かに響いていた。
出久はしばらく動けなかった。
画面には、たった今終わった通話履歴が表示されている。
飯田は助かった。
感謝までしてくれた。
それなのに、自分は最後まで真実を口にすることができなかった。
助けた友人を安心させるためではない。
自分の罪を隠すために。
そう理解した瞬間、出久はゆっくりと目を閉じ、握り締めたスマートフォンを震える手で見つめた。