間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第39話 人殺し

 出久は、倒れ伏したステインを見下ろしたまま動けなかった。

 

 荒い呼吸が喉を焼く。肩は激しく上下し、握り締めた拳はまだ震えていた。白い骨鱗には血がこびりつき、異形の腕はまるで他人のもののように見える。

 

 何秒そうしていただろうか。

 

 不意に、頭の中で何かが切り替わった。

 

「……あ」

 

 出久の顔から血の気が引く。

 

 今、自分は何をしていた。

 

 何をした。

 

 目の前に倒れているのは敵ではない。ただの人間だ。

 

「うそだ……」

 

 掠れた声が漏れた瞬間、全身を覆っていた骨鱗が崩れ始めた。肩を覆う装甲が砕けるように剥がれ落ち、肥大化していた筋肉が縮み、槍骨も外殻も音を立てながら身体の中へ引き戻されていく。

 

 怪物じみた姿は急速に失われ、残ったのは傷だらけの少年だった。

 

 出久は転がるようにステインの元へ駆け寄る。

 

「だ、大丈夫ですか……!」

 

 返事はない。

 

 当然だ。

 

 そんな考えを必死に振り払って、出久は震える指を首筋へ伸ばした。

 

 脈を探す。

 

 何も感じない。

 

 手首に触れる。

 

 やはり反応はない。

 

 もう一度、首へ。

 

 もう一度、手首へ。

 

 何度繰り返しても結果は変わらなかった。

 

「違う……」

 

 出久の声が震える。

 

「違う、そんなはず……」

 

 視線が自然と全身へ向いた。

 

 そして、その瞬間に理解してしまう。

 

 呼吸がない。

 

 脈もない。

 

 出血量も異常だった。

 

 身体の損傷も深刻すぎる。

 

 ヒーロー科の訓練を受けているからこそ分かる。応急処置でどうにかなる段階ではないことが、嫌になるほど理解できてしまった。

 

 それでも認められなかった。

 

「まだ……まだだ……!」

 

 出久は慌てて体勢を変え、両手を胸の中央へ重ねる。

 

 心臓マッサージ。

 

 訓練で何度も教わった。

 

 人を救うための技術。

 

 命を繋ぐための技術。

 

「戻ってください……!」

 

 圧迫する。

 

 もう一度。

 

 さらにもう一度。

 

 だが、反応はない。

 

 胸は上下しない。

 

 呼吸も戻らない。

 

 瞼も動かない。

 

 それでも出久は止まれなかった。

 

「お願いだ……!」

 

 圧迫を続ける。

 

 涙で視界が滲む。

 

「起きてください……!」

 

 意味がない。

 

 どこかで分かっている。

 

 何度押しても、何度呼んでも、返ってくるものはない。

 

 それでも手を止めれば、自分が何をしたのか認めることになる気がした。

 

「僕は……助けようとしただけなんだ……」

 

 声が崩れる。

 

「殺すつもりなんて、なかったんだ……」

 

 答える者はいない。

 

 路地裏に響くのは、出久の嗚咽と、無意味な胸骨圧迫の音だけだった。

 

 心臓マッサージを続けながら何度も名前を呼ぶが、目の前の男が目を開くことはなく、胸が上下する気配もない。訓練で教わった知識が、これ以上の処置に意味がないことを理解させている。それでも手を止めれば、自分が何をしてしまったのか認めることになる気がして、出久は半ば意地のように圧迫を続けていた。

 

 やがて腕から力が抜け、出久はその場に崩れるように座り込んだ。

 

 頭の中は完全に混乱していた。警察を呼ぶべきなのか、ヒーローへ連絡するべきなのか、それともまず飯田たちの無事を確認するべきなのか。考えようとしても思考はまとまらず、視線が動くたびに路地裏へ横たわるステインの姿が目に入る。

 

 動かない。

 

 その事実だけが、何よりも重かった。

 

 自分は人を助けるためにここへ来たはずだった。誰かを守るために戦ったはずだった。それなのに、路地裏に残された結果はあまりにも救いのないものだった。

 

「どうしたら……」

 

 掠れた呟きが漏れた、その瞬間だった。

 

 不意にポケットの中で電子音が鳴り響き、出久の身体が大きく震えた。慌ててスマートフォンを取り出して画面を確認すると、そこに表示されていたのは登録された名前ではなく、『非通知設定』の文字だった。

 

 本来なら出るべきではない。だが出久は、その表示を見た瞬間に誰からの着信なのか理解してしまった。

 

 根拠はない。

 

 それでも分かる。

 

 このタイミングで自分に電話を掛けてくる人物を、出久は一人しか知らなかった。

 

「も、もしもし! あの」

 

 震える声で呟きながら通話ボタンへ指を伸ばす。迷いはなかった。警察へ連絡する勇気も、ヒーローへ助けを求める勇気も失っていた今の出久にとって、AFOだけが唯一縋れそうな相手だったからだ。

 

 通話が繋がる。

 

 数秒の無音が流れた後、受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもと変わらない穏やかな声だった。

 

『やってしまったねぇ、緑谷君』

 

 受話器の向こうから聞こえてきた声は、いつも通り穏やかだった。

 

 だが、その奥に僅かな愉悦が混じっていることを、出久は聞き逃さなかった。

 

 背筋が震える。

 

 まるで全てを見ていたかのような口ぶりだった。

 

 出久は慌てて声を上げた。

 

「どうしたらいいんですか……!? 僕、僕はそんなつもりじゃ……!」

 

 言葉がまとまらない。

 

 視線は何度もステインへ向く。

 

 動かない身体。

 

 血に濡れたアスファルト。

 

 さっきまで自分を睨んでいた男。

 

 その全てが現実感を失いながらも、確かにそこに存在していた。

 

『落ち着きなさい』

 

 AFOの声は変わらない。

 

 むしろ教師が生徒を諭すような穏やかさすらあった。

 

『まず確認しよう。彼は死亡しているのだね?』

 

 出久の喉が詰まる。

 

「……はい」

 

 認めたくなかった。

 

 認めたくなかったが、嘘は吐けなかった。

 

「脈もありません……呼吸も……身体の状態も……」

 

 数秒の沈黙。

 

 そしてAFOは静かに言った。

 

『なるほど』

 

 まるで仕事の報告を受けたような口調だった。

 

『それなら、その死体の始末はこちらでやっておこう』

 

 出久は一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。

 

 理解した次の瞬間、血の気が引く。

 

「え……?」

 

『安心しなさい。痕跡の処理も含めて私が手配する。君はその場を離れたまえ』

 

「ま、待ってください!」

 

 出久は思わず叫んだ。

 

 声が路地裏に反響する。

 

「隠蔽なんて駄目です!」

 

 息を荒げながら立ち上がる。

 

「そんなことしたら余計に……!」

 

『余計に?』

 

 AFOが静かに問い返す。

 

 出久は言葉に詰まった。

 

「そ、それは……」

 

『警察へ通報するのかい?』

 

 穏やかな声だった。

 

 だが、その言葉は鋭かった。

 

『そして事情を説明する。雄英高校ヒーロー科一年生の緑谷出久が、戦闘の末にヴィランを殴り殺しました、と』

 

「……っ!」

 

 出久の身体が硬直する。

 

『君は未成年だ。しかもヒーロー候補生。複数個性についても説明しなければならないだろうね』

 

 出久の呼吸が止まりそうになる。

 

 複数個性。

 

 その単語だけで胃が締め付けられた。

 

『君が警察へ行けば、当然その力についても調べられる。誰から与えられたのか。なぜ持っているのか。どうして今日のような姿になれたのか』

 

「やめてください……」

 

『そして雄英も無関係では済まない。教師達も事情聴取を受けるだろう。クラスメイト達もね』

 

「やめてください……!」

 

 出久は頭を抱えた。

 

 考えたくない。

 

 想像したくない。

 

 だがAFOは淡々と言葉を重ねる。

 

『私は隠せと言っているのではないよ、緑谷君』

 

 その声はどこまでも優しかった。

 

『ただ、君が冷静になるまで時間を作ろうと言っているだけだ』

 

 出久は息を呑む。

 

 その言葉が恐ろしかった。

 

 理屈としては間違っていないように聞こえる。

 

 だが確実に何かがおかしい。

 

 それでも今の出久には、その何かを上手く言葉にすることができなかった。

 

 足元では、ステインの亡骸が静かに横たわっている。

 

 そして電話の向こうでは、AFOがまるで動揺する子供を導く保護者のような声で、次の言葉を待っていた。

 

 

 

 

 

 ──

 

 数時間後。

 

 夕暮れはすでに過ぎ、住宅街には窓明かりが灯り始めていた。

 

 玄関の扉が静かに開く。

 

「出久? おかえりなさい」

 

 リビングから母の声が聞こえた。

 

 だが、返事はなかった。

 

 青ざめた顔のまま靴を脱いだ出久は、母の方を一度も見ようとせず、そのまま階段へ向かう。

 

「出久?」

 

 異変に気付いた母が立ち上がる。

 

「どうしたの、その怪我……!」

 

 制服は裂け、袖口には乾きかけた血がこびりついている。顔色は紙のように白く、足取りもふらついていた。

 

「ちょっと待って! 何があったの!?」

 

 心配そうな声が背中へ飛ぶ。

 

 しかし出久は立ち止まらなかった。

 

「あの、職場体験、で……」

 

 それだけを掠れた声で返すと、自室の扉を勢いよく閉める。

 

 バタン、と鈍い音が響いた。

 

 鍵を掛ける手が震える。

 

 そのまま扉にもたれ掛かり、何度も荒く息を吐いた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 頭の中では、さっきまでの光景が何度も繰り返されている。

 

 血。

 

 拳。

 

 動かなくなったステイン。

 

 そして、AFOの穏やかな声。

 

『私が処理しておこう』

 

 結局、自分はその言葉に従ってしまった。

 

 その場を離れろと言われ、足が勝手に動いた。後ろを振り返ることもできず、ただ逃げるように保須市を後にし、気が付けば自宅まで帰ってきていた。

 

「どうなったんだ……」

 

 震える指でスマートフォンを取り出す。

 

 ニュースアプリを開く。

 

 保須。

 

 ヴィラン。

 

 事件。

 

 思い付く限りの単語で検索を繰り返す。

 

 画面には次々と速報が並んでいた。

 

『保須市内で複数のヴィラン事件が同時発生』

 

『ヒーロー多数が出動』

 

『市内各所で戦闘が継続』

 

『市民へ不要不急の外出自粛を呼び掛け』

 

 出久は食い入るように画面を追う。

 

「違う……これじゃない……」

 

 指が震える。

 

 さらに別のニュースサイトを開く。

 

 SNSも確認する。

 

 動画投稿サイト。

 

 ニュース専門サイト。

 

 地方紙の速報。

 

 片っ端から巡る。

 

 だが、どこにもない。

 

 ヒーロー殺しステイン。

 

 保須で目撃されたという情報は残っている。

 

 しかし、その後の行方については一切触れられていなかった。

 

「……ない」

 

 もう一度更新する。

 

 変わらない。

 

「なんで……」

 

 何もない。

 

『死亡』も。

 

『逮捕』も。

 

『発見』も。

 

 その言葉だけが、どのサイトにも存在しなかった。

 

 画面を何度更新しても結果は変わらなかった。

 

 保須市で発生した連続ヴィラン事件。

 

 複数のプロヒーローが出動したこと。

 

 市内各所で戦闘が起きたこと。

 

 報道されているのは、その程度だった。

 

 そこにいるはずの人物が、一人だけ綺麗に消えている。

 

「……本当に」

 

 出久の喉が小さく鳴る。

 

「消えた……」

 

 その瞬間だった。

 

 張り詰めていた胸の奥から、ほんの僅かに安堵が漏れた。

 

 見つかっていない。

 

 ニュースになっていない。

 

 警察も、ヒーローも、自分のところへ来ていない。

 

 間に合った。

 

 隠せた。

 

 その考えが頭をよぎった瞬間、出久は凍り付いた。

 

「……あ」

 

 息が止まる。

 

 今、自分は何を思った。

 

 安心した。

 

 死体が見つかっていないことに。

 

 人が一人死に、その遺体が隠されたことに、自分は安心してしまった。

 

「違う……」

 

 スマートフォンが震える手から滑り落ちる。

 

 床へ落ちた画面には、相変わらず事件の記事だけが映っていた。

 

「違う……違う!」

 

 両手で頭を抱える。

 

 自分はヒーローになりたかった。

 

 人を救う人間になりたかった。

 

 それなのに今、自分が喜んだのは、人命でも真実でもなく、自分の罪が表へ出なかったことだった。

 

「僕は……」

 

 胃の奥が大きく痙攣する。

 

 込み上げてくる吐き気に耐え切れず、出久はベッドから転げ落ちるように床へ膝をついた。

 

「うっ……!」

 

 呼吸が乱れる。

 

 胃液だけが喉まで込み上げ、苦い味が口の中へ広がる。

 

 肩が震える。

 

 視界も涙で滲んでいた。

 

「最低だ……」

 

 掠れた声が漏れる。

 

「人を殺して……隠して……そのことに安心した……」

 

 そんな自分が、どうしようもなく醜かった。

 

 胸の奥では、もう一人の自分が静かに囁いている。

 

 ──助かったじゃないか。

 

 ──これで誰にも知られない。

 

 その声を掻き消すように、出久は耳を塞いだ。

 

「違う……!」

 

 叫んでも消えない。

 

 吐き気も、罪悪感も、胸にへばり付いたままだった。

 

 その時、不意に部屋へ電子音が鳴り響いた。

 

 ピリリリリ──。

 

 突然の着信音に、出久の肩が大きく跳ねる。

 

 床へ落ちたスマートフォンが震えながら光っていた。

 

「……っ!」

 

 心臓が嫌な音を立てる。

 

 また非通知か。

 

 またAFOなのか。

 

 恐る恐る画面を見る。

 

 そこに表示されていた名前を見た瞬間、出久の目が大きく見開かれた。

 

『飯田天哉』

 

「飯田君……!」

 

 出久は慌ててスマートフォンを掴み上げ、震える指で通話ボタンを押した。

 

「も、もしもし!」

 

 受話器の向こうから聞こえてきた声は、生きている人間のものだった。

 

『緑谷君! 良かった、繋がったか!』

 

 その瞬間、出久は全身から力が抜けそうになる。

 

『緑谷君、本当に無事なんだね……!』

 

 飯田の声には、安堵が滲んでいた。その一言だけで、出久の胸は締め付けられる。

 

「う、うん……僕は……」

 

 喉が乾く。

 

 声が上手く出ない。

 

 そんな出久の様子には気付かず、飯田は言葉を続けた。

 

『君とステインが瓦礫の奥へ消えていった後、僕は数分ほど動くことができなかった。個性の効果が切れて身体が自由になってから、すぐに君達を探しに向かったんだ』

 

 飯田は静かに当時を振り返る。

 

『だが、戦闘の跡だけが残っていて、君もステインもどこにもいなかった。壁は何枚も破壊され、建物の中は滅茶苦茶になっていて、最後には路地まで探したんだが……結局、二人とも見つけられなかった』

 

 出久は息を呑む。

 

 あの後、飯田は本当に探してくれていたのだ。

 

『その後、駆け付けたヒーローへ事情を説明し、病院へ搬送された。怪我は大した事がなく、つい先ほど治療を終えて帰宅したところだ」

 

 飯田はそこで一度言葉を切る。

 

 受話器の向こうから、小さく息を吸う音が聞こえた。

 

『だが、病院でも君の行方は誰も把握していなかった。だから心配になって電話を掛けたんだ』

 

 出久の手に、じっとりと汗が滲む。

 

『教えてくれ、緑谷君』

 

 飯田の声は真剣だった。

 

『君は今、どこにいる? 本当に怪我はないのか?』

 

「ぼ、僕は……家にいる」

 

 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。

 

「怪我は……大丈夫。少し休めば……」

 

『そうか』

 

 飯田は心底安心したように息を吐く。

 

『それを聞いて安心した。本当に良かった』

 

 その言葉が、出久の胸を鋭く抉る。

 

 安心している。

 

 飯田は何も知らない。

 

 自分が何をしたのかも。

 

 あの路地裏で何が起きたのかも。

 

 だからこそ、純粋に自分の無事を喜んでくれている。

 

 沈黙が数秒流れた後、飯田は静かに、本当に知りたかったことを口にした。

 

『それで、もう一つ聞かせてほしい』

 

 出久の鼓動が跳ねる。

 

『あの後、ステインはどうなった?』

 

 部屋の空気が、一瞬で凍り付いたような気がした。

 

 出久の喉が音を立てる。

 

 言葉が出ない。

 

 受話器の向こうでは、飯田が返事を待っている。

 

『緑谷君?』

 

 優しく名を呼ばれる。

 

 その一言が、出久には責める声よりも遥かに苦しかった。

 

 出久の喉がひりつく。

 

 胸の奥では心臓が激しく脈打ち、握り締めたスマートフォンが汗で滑りそうになっていた。

 

「……ステインは」

 

 ようやく声を絞り出す。

 

「僕と少し戦った後、特に固執することもなく、そのまま撤退したんだ」

 

 嘘だった。

 

 その一言を口にした瞬間、自分の中で何かが音を立てて崩れた気がした。

 

「途中でヒーローも集まってきてたし、このまま戦うのは不利だって判断したんだと思う。僕も……その後は追えなくて」

 

 言葉を重ねるたびに、胸が苦しくなる。

 

 ステインはもうどこにもいない。

 

 逃げたわけでもない。

 

 撤退したわけでもない。

 

 その事実を知っているのは、自分とAFOだけだった。

 

 受話器の向こうは静かだった。

 

 飯田は何も言わない。

 

 ただ、小さく息を吐く音だけが聞こえてくる。

 

『……そうか』

 

 短い返事だった。

 

 それ以上追及してくることもない。

 

 だが、その沈黙が出久にはひどく長く感じられた。

 

『なら、あの男はまだ捕まっていないのだな』

 

「……うん」

 

『分かった』

 

 飯田はそう答えたものの、どこか言葉を選んでいるようだった。

 

 出久の様子に何か引っ掛かるものを感じている。

 

 そんな気配が受話器越しにも伝わってくる。

 

 それでも飯田は何も尋ねなかった。

 

 数秒の沈黙の後、その代わりに穏やかな声で言った。

 

『緑谷君』

 

「……なに?」

 

『今日は、本当にありがとう』

 

 出久は息を止めた。

 

『君が来てくれなければ、僕は間違いなくあの場で命を落としていた。私情に囚われ、兄の仇だけしか見えていなかった僕を止めてくれたのも君だ』

 

 飯田の声は静かだった。

 

 だが、その一言一言には確かな感謝が込められていた。

 

『君には何度礼を言っても足りない。本当に感謝している』

 

「……」

 

 出久は何も答えられなかった。

 

 ありがとう、と言われる資格など、自分にはない。

 

 そう思えば思うほど、喉は固く閉ざされてしまう。

 

 飯田は返事を急かさなかった。

 

『今日はお互い、ゆっくり休もう。怪我もあるだろうし、精神的にも疲れているはずだ』

 

 少しだけ普段の調子を取り戻した声で続ける。

 

『また明日、学校で会おう』

 

「……うん」

 

 それだけが精一杯だった。

 

『では、おやすみ』

 

「おやすみ……飯田君」

 

 通話が切れる。

 

 耳に当てたままのスマートフォンからは、無機質な終話音だけが静かに響いていた。

 

 出久はしばらく動けなかった。

 

 画面には、たった今終わった通話履歴が表示されている。

 

 飯田は助かった。

 

 感謝までしてくれた。

 

 それなのに、自分は最後まで真実を口にすることができなかった。

 

 助けた友人を安心させるためではない。

 

 自分の罪を隠すために。

 

 そう理解した瞬間、出久はゆっくりと目を閉じ、握り締めたスマートフォンを震える手で見つめた。

 

 

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