緑谷出久とAFOの出会いから、数か月後。
季節は移り変わり、空気から冬の鋭さが薄れ始めていた。
それでも朝はまだ冷える。
吐いた息は白く、制服の袖口から入り込む風は冷たかった。
人の流れに紛れながら、緑谷出久は駅から続く坂道を歩く。
周囲には、同年代の少年少女がいた。
緊張した顔。
興奮を隠しきれない声。
参考書を開いたまま歩く者。
友人同士で励まし合う者。
皆、同じ方向へ向かっている。
雄英高校。
日本最高峰のヒーロー育成機関。
その名前を意識しただけで、胸の奥が熱くなる。
出久は、ゆっくりと視線を上げた。
そして。
見えた。
巨大な門。
広大な敷地。
朝日を受けて輝く近未来的な校舎群。
雄英高校。
憧れ続けた場所。
何度も雑誌で見た。
何度も動画で見た。
ヒーロー分析ノートにも、ここの卒業生の情報を書き込んできた。
オールマイトも、この場所を歩いた。
あの平和の象徴も、この門を潜り、この校舎で学び、この場所からヒーローになった。
胸が、高鳴る。
ずっと遠かった場所だ。
無個性だと診断された日から、少しずつ遠ざかっていった場所。
“現実的ではない夢”として、自分で切り捨てようとしていた場所。
なのに今、自分はここにいる。
受験生として。
雄英高校の前に、立っている。
「……っ」
喉が詰まる。
嬉しかった。
夢みたいだった。
けれど。
その感情と同時に、胸の奥で別の何かが蠢く。
地下施設。
白い研究室。
生命維持装置。
焼け爛れた男。
掌の黒い穴。
脳裏に、断片が浮かぶ。
思い出した瞬間、胸の高鳴りが、別の熱へ変わった。
後ろ暗い。
その感覚だけは、どうしても消えない。
自分は、本当にここへ来ていいのか。
この場所を目指している他の受験生たちと、自分は同じなのか。
オールマイトに憧れて、真っ直ぐここへ来た彼らと。
ヴィランの王から力を受け取った自分が。
同じ場所へ立っていいのか。
出久は、無意識に俯いていた。
先ほどまで見上げていた雄英の校舎が、視界の上から消える。
代わりに見えるのは、アスファルトと、自分の靴先だけだった。
周囲では受験生たちの声が飛び交っている。
希望。
緊張。
憧れ。
その中に、自分だけが紛れ込んでしまった異物のように思えた。
ポケットの中で、指先が小さく震える。
あの日から、何度も自分に問い続けている。
これは、本当に正しい選択だったのか。
だが。
答えは、まだ出ない。
「……でも」
小さく、声が漏れた。
俯いたまま、出久は拳を握る。
それでも。
ここへ来たかった。
ヒーローになりたかった。
誰かを助けたかった。
その気持ちだけは、嘘ではない。
たとえ、そのために踏み込んだ道が、どれほど歪んでいたとしても。
出久はゆっくりと息を吸い込み、もう一度だけ顔を上げようとした。
そのときだった。
「——おい」
背後から、聞き慣れた荒々しい声が飛んだ。
出久の肩が、びくりと震える。
まさか。
そう思うより先に、声はさらに大きくなる。
「おいクソナード!!」
反射的に振り返る。
人混みを乱暴に掻き分けながら、こちらへ歩いてくる少年がいた。
鋭く吊り上がった赤い目。
逆立った灰金色の髪。
苛立ちを隠そうともしない顔。
爆豪勝己。
幼馴染。
そして、ずっと背中を見続けてきた存在。
「な、なんで……」
出久の喉が詰まる。
爆豪は、そんな反応など意に介さない。
ドカドカと荒い足音を立てながら近づいてくる。
「なんでてめえここにいやがる!!」
周囲の受験生たちが、ぎょっとしたように振り返る。
だが、爆豪は気にしない。
「雄英受けるのやめろって言ったよなぁ!?」
怒鳴り声が、朝の校門前へ響き渡った。
出久の身体が強張る。
変わっていない。
その声も。
その威圧感も。
自分を見下ろす目も。
昔から、何一つ。
「か、かっちゃん……」
「気安く呼ぶな!!」
爆豪の怒声が飛ぶ。
火薬の匂い。
掌の汗腺が刺激されているのか、小さく火花が散る。
「てめぇ、自分が何モンか忘れたのか!?」
一歩。
爆豪が距離を詰める。
「無個性のくせに、ヒーロー科受けるとかまだ諦めてなかったのかよ!」
その言葉が、胸に刺さる。
数か月前までなら、きっと出久は何も言い返せなかった。
俯いて。
謝って。
誤魔化して。
そうして終わっていた。
だが。
今は違う。
地下施設。
AFO。
掌の黒い穴。
あの男の声が、一瞬だけ脳裏を過った。
『君は、ヒーローになれる』
出久の喉が、静かに上下する。
爆豪の圧力は、昔と変わらなかった。
いや。
以前よりも鋭くなっているようにすら感じる。
周囲の空気が張り詰める。
受験生たちが距離を取り始める中、出久は反射的に一歩下がっていた。
「……っ」
喉が締まる。
身体が、過去を覚えている。
怒鳴られるたびに縮こまり、睨まれるたびに言葉を失ってきた記憶が、理屈より早く身体を動かしてしまう。
爆豪はそんな出久の反応を見て、さらに苛立ったように舌打ちした。
「そのツラだよ、そのナメたツラ」
掌で、小さな爆発が弾ける。
パンッ、と乾いた音。
「てめぇみてぇな出来損ないが、俺と同じ場所に立てると思ってんじゃねぇぞ!」
一歩。
さらに距離が詰まる。
周囲の受験生たちの顔に、明確な緊張が走った。
このままではまずい。
そう誰もが思った、その瞬間。
「待ちたまえ!!」
鋭く、よく通る声が割って入った。
爆豪の眉が跳ねる。
「あぁ?」
二人の間へ、勢いよく一人の少年が踏み込んできた。
眼鏡。
整えられた紺色の髪。
長身で、がっしりとした体格。
そして何より、その立ち姿には妙な“真面目さ”があった。
少年は、出久を庇うように爆豪の前へ立つ。
「君!」
びしっ、と指が突きつけられる。
「これからヒーローを志そうという者が、校門前で恫喝行為とは何事だ!」
爆豪のこめかみが引き攣る。
「は?」
「聞こえなかったのか!? 俺は、その行為はヒーローを志す者としてあるまじき行動だと言っている!」
眼鏡の奥の目が、真っ直ぐ爆豪を睨んでいた。
恐れていない。
威圧されてもいない。
むしろ、本気で怒っている。
「公共の場で他者を威圧し、怒鳴り散らすなど論外だ! 君は自分が何をしているのか理解しているのか!?」
腕を大きく振りながらの叱責。
声量も動作も無駄に大きい。
だが、その一つ一つに妙な説得力があった。
出久は思わず呆然とその背中を見る。
爆豪に、真正面から怒鳴り返している。
しかも一歩も引かずに。
「……んだてめぇ」
爆豪の声が低くなる。
だが、眼鏡の少年は怯まない。
「俺は飯田天哉! 推薦でも何でもない、一受験生として君に言わせてもらう!」
びしっ、と再び指を突きつける。
「暴力と威圧で他者を押さえつける者に、ヒーローを名乗る資格はない!!」
一瞬。
空気が静まり返った。
次の瞬間。
爆豪の額に青筋が浮かぶ。
「……上等だメガネ」
掌で、ボンッ、と爆発が弾けた。
周囲の受験生たちがざわめく。
だが。
飯田天哉は、なおも姿勢を崩さなかった。
むしろ堂々と胸を張り、爆を真正面から見据えている。
その姿は、出久の目に妙に眩しく映った。
爆豪は、忌々しげに舌打ちした。
「……チッ」
鋭い視線が、飯田へ向く。
そのまま殴りかかっても不思議ではない空気だった。
だが。
周囲には既にかなりの数の受験生が集まっている。
遠巻きに様子を窺う者。
露骨に警戒している者。
スマートフォンを取り出しかけている者までいた。
雄英高校の校門前。
入試当日。
ここで騒ぎを起こせば、確実に面倒になる。
爆豪はそれを理解していた。
「……クソが」
吐き捨てるように言う。
そして最後に、出久へ鋭い視線を向けた。
「覚えとけよ、デク」
低い声。
怒りを押し殺した声音。
「入試で無様晒したら、ぶっ殺す」
それだけ言い残すと、爆豪ら踵を返した。
乱暴な足取りのまま、人混みを割って校舎の方へ向かっていく。
周囲の空気が、ようやく緩む。
受験生たちも、小さく安堵したように息を吐いていた。
出久は、しばらく動けなかった。
心臓が速い。
掌に汗が滲んでいる。
昔の記憶を無理やり掘り返されたような感覚が、まだ身体に残っていた。
「大丈夫かい?」
飯田が振り返る。
先ほどまで爆豪に向けていた厳しい表情は薄れ、今は純粋な気遣いが浮かんでいた。
「あ、えっと……は、はい」
反射的に答える。
だが声は少し裏返っていた。
飯田は眉を寄せる。
「全く、大丈夫には見えん!」
「えっ」
「君は少々、いやかなり気圧されすぎだ!」
びしっ、とまた指を向けられる。
出久の肩が反射的に跳ねた。
「ヒーローを志すならば、その気弱な態度を何とかしたまえ!」
真正面からの言葉だった。
責めるというより、叱咤に近い。
「威圧された程度で萎縮していては、人を助けるなど到底できんぞ!」
飯田は腕を組み、真剣な顔で頷く。
「もちろん、恐怖を感じること自体は悪ではない! だが、それに呑まれてはならない!」
熱量の高い言葉。
真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐな声音。
出久は、少し呆気に取られる。
こんな風に、自分へ真正面から“期待するような言葉”を向けられたことが、あまりなかった。
「……あ」
何か返そうとした時には、飯田はもう姿勢を正していた。
「では俺は行く!」
くるり、と勢いよく振り返る。
「互いに全力を尽くそうではないか、受験生諸君!」
最後だけ何故か周囲全体へ向けて叫び、飯田天哉は大股で校舎へ向かっていった。
背筋の伸びた歩き方だった。
その後ろ姿を、出久はしばらく呆然と見送っていた。
「……すごい人だな」
ぽつりと漏れる。
胸の奥に残っていた緊張は、まだ完全には消えていない。爆豪の怒鳴り声も、掌で弾けた爆発音も、耳の奥にこびりついている。
けれど、飯田の言葉もまた、同じ場所に残っていた。
恐怖を感じること自体は悪ではない。
だが、それに呑まれてはならない。
「……あ」
そこで、出久はようやく気付いた。
周囲の受験生たちは、もう次々に校舎へ向かっている。門の前で足を止めている者は、ほとんどいない。
「ま、まずい……!」
慌てて受験票を取り出す。
紙面に印字された試験会場の番号を確認し、案内板を見比べる。
広い。想像していたより、ずっと広い。
「えっと、第二会場……第二、第二……あっち!?」
出久は小さく声を上げ、鞄を抱え直して走り出した。
雄英の校舎は、外から見上げた時以上に巨大だった。廊下は広く、天井は高く、壁には案内板が整然と並んでいる。すれ違う受験生たちは皆、どこか落ち着かない顔をしていたが、それでも足取りは早い。
その流れに乗り遅れないよう、出久は何度も受験票を見直しながら進む。
途中で曲がる場所を間違えかけ、案内表示の前で立ち止まり、慌てて戻る。
心臓がまた速くなる。
「ここ、だよね……?」
ようやく辿り着いた扉の横には、受験票と同じ番号が表示されていた。
出久は息を整え、そっと扉を開く。
中は、ほとんど埋まっていた。
ずらりと並んだ席。
前方の大型スクリーン。
壁際に立つ職員らしき大人。
受験生たちは既にそれぞれ席につき、資料を確認したり、静かに待機したりしている。
「え、えっ……」
焦りが一気に込み上げる。
空いている席はどこだ。
どこに座ればいい。
前に行くべきか、後ろに下がるべきか。
視線が泳ぐ。
その時。
「こっち! 空いてるよ!」
明るい声が聞こえた。
出久が慌ててそちらを見ると、茶色い髪の少女が手を振っていた。丸い頬に、大きな目。柔らかい雰囲気の少女だった。
彼女の隣の席が、一つだけ空いている。
「あ、ありがとう!」
出久は小声で礼を言いながら、急いでその席へ向かった。
鞄を置き、椅子に座る。
ようやく腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けそうになった。
少女は、少し身を乗り出して声を潜める。
「さっき、大変そうだったね。大丈夫?」
「えっ」
「校門のところ。怒鳴られてたから」
出久の肩が小さく跳ねた。
見られていた。
それが恥ずかしくて、すぐに視線が下がる。
「あ、いや、その……大丈夫、です」
少女は眉を下げる。
「ほんとに? あれ、いじめられてるの?」
あまりにも真っ直ぐな心配だった。
出久は、一瞬だけ答えに詰まる。
違う、と言おうとした。
いつもの癖で。
幼馴染だから。
昔からああだから。
自分が弱いから。
そうやって、言い訳を並べようとした。
けれど、喉の奥で言葉が止まる。
少女の目には、好奇心ではなく心配だけがあった。
「……えっと」
出久は、ぎこちなく笑う。
「大丈夫。たぶん……大丈夫だから」
曖昧な答えだった。
少女は納得しきれないようだったが、それ以上は踏み込まなかった。
「そっか。ならいいけど……無理したらあかんよ?」
「あ、ありがとう」
出久は小さく頭を下げる。
その時、会場前方の照明がわずかに落ちた。
ざわめきが静まっていく。
試験説明が、始まろうとしていた。
教室前方のスクリーンに、雄英高校の校章が映し出される。
ざわついていた受験生たちも、次第に口を閉ざしていった。
静寂。
その空気を破るように——。
バンッ、と勢いよく壇上脇の扉が開いた。
「ヘーイヘーイヘーイ!!」
爆音のような声が教室中へ響き渡る。
出久の肩が跳ねた。
壇上へ飛び出してきたのは、サングラスをかけた長身の男だった。奇抜な髪型。派手なジャケット。そして何より、全身から溢れる異様なテンション。
「ようこそ雄英高校入試へ!!」
マイクを片手に、男は両腕を大きく広げる。
「俺が今日の実技試験担当! プロヒーロー、プレゼント・マイクだァ!!」
教室の空気が、一気に動いた。
ざわめき。
驚き。
小さな歓声。
出久の目も思わず見開かれる。
プレゼント・マイク。
現役プロヒーロー。
派手な個性とハイテンションなトークで有名な、雄英教師の一人だ。
「うわ、本物……!」
思わず声が漏れる。
隣の少女も「すごー……」と小さく呟いていた。
プレゼント・マイクはそんな反応に満足したように頷き、教卓へ片足を乗せる。
「オーケイ受験生諸君! 早速だがァ! 時間は有限! 説明始めるぜェ!!」
巨大スクリーンへ映像が切り替わる。
そこには、巨大な人型ロボットの姿が映し出されていた。
「君たちにはこれからァ! 市街地演習場にてヴィラン役ロボをぶっ壊してもらう!!」
ドンッ、と効果音付きで複数のロボット映像が並ぶ。
一点。
二点。
三点。
それぞれサイズも形状も違う。
「四種のロボにはポイントが設定されてる! より多く倒し、高得点を狙え!! シンプル! 実に雄英らしい実力主義ってワケだァ!!」
受験生たちが真剣な顔になる。
ノートを取る者。
画面を凝視する者。
静かに深呼吸する者。
出久も無意識に前のめりになっていた。
実技試験。
いよいよ始まる。
その実感が、じわじわと胸へ広がっていく。
その時だった。
「質問!」
鋭い声。
出久の視線がそちらへ向く。
立ち上がっていたのは、あの眼鏡の少年——飯田天哉だった。
姿勢は直立不動。
腕はぴしりと上がっている。
「資料のロボット図面についてですが!」
周囲の受験生たちが少し驚いたように見る中、飯田は真剣そのものの顔で続ける。
「一点から三点まで、計四種と説明されました! しかし図面にはもう一体、別種のロボットが存在しています! これは記載ミスでしょうか!?」
プレゼント・マイクは一瞬きょとんとした後、すぐに笑った。
「ナイス質問、受験生!」
びしっ、と飯田を指差す。
「そいつァゼロポイントだ! ポイント対象外のギミックロボってことだな!! 無理に戦わず回避することをおすすめする!」
「なるほど! 回答ありがとうございます!」
飯田は大きく頷き、勢いよく着席した。
その動作まで妙にきっちりしていて、出久は思わず目を瞬かせる。
真面目だ。
本当に、とことん真面目な人だ。
プレゼント・マイクは再び会場全体を見回した。
「他に質問はァ!?」
沈黙。
誰も手を上げない。
「オーケイ!! ならばァ!!」
プレゼント・マイクが大きく両腕を広げる。
サングラスの奥で、笑っているのが分かるような声だった。
「受験生諸君!!」
空気が張る。
教室中の視線が、壇上へ集まる。
「PLUS ULTRA!!」
爆発するような大声。
「己の限界を超えてこいッッ!!」
その瞬間。
出久の胸が、強く脈打った。