「……僕、もう行くから」
掠れた声でそれだけ告げると、出久は路地の出口へ向かった。歩幅は自然と大きくなる。走り出したい衝動を必死に押し殺しながら、それでも一秒でも早くこの場を離れたかった。
「ねえねえ」
背後から軽い足音がついてくる。
「お話ししたいのです。ステ様はどんな人でしたか? 本当に強かったですか? 怖かったですか? 最後まで血だらけ傷だらけで、かっこよかったですか?」
出久は振り返らない。あの動画を見せられ、自分の名前まで呼ばれた時点で、この少女が普通の野次馬ではないことは明らかだった。関われば関わるほど状況は悪くなる。そう分かっていたからこそ、返事をすることすら避け、ただ出口だけを目指して歩き続ける。
「無視ですか?」
少女は少しも気分を害した様子を見せず、むしろ楽しそうに横へ並んだ。
「じゃあ、先に自己紹介しますね。私はトガヒミコって言います」
その名前を聞いても、出久は反応しない。
「緑谷出久君。出久君って呼んでもいいですか?」
歩幅をさらに速める。あと少しで人通りのある通りへ出られる。そう思った矢先、少女はまたぴたりと横へ並び、同じ名前を繰り返した。
「トガヒミコです」
くすくすと笑う。
「聞こえてますか? 出久君。私、トガヒミコって言います」
最初は聞き流していた。
ただの名前だと思っていた。
しかし、何度も耳に入るうち、その響きが記憶の奥底で何かに触れる。
──トガヒミコ。
どこかで聞いた。
ニュースだったか。
ネットの記事だったか。
いや、違う。
もっと昔、中学生だった頃だ。
テレビも新聞も、しばらくその事件を連日報じていた。
出久の足が止まりかける。
「トガ……ヒミコ……」
頭の中で名前を反芻した瞬間、記憶が一気に繋がった。
「──渡我被身子」
思わず息を呑む。
数年前発生した連続失血死事件。遺体から大量の血液が失われるという異様な事件だった。犯人として全国へ指名手配された少女の顔は、当時何度もニュースで流され、「極めて危険」と繰り返し報じられていた。
鋭い犬歯。
幼さを残した笑顔。
特徴は目の前の少女とあまりにも一致していた。
全身から血の気が引く。
そんなはずがないと思う一方で、身体はもう答えを理解していた。
出久は弾かれたように振り返る。
「っ!」
少女は、その瞬間を待っていたかのように目を細めた。
「ふふっ」
嬉しそうに笑う。
「ようやく目が合いました」
その笑顔はあまりにも自然で、だからこそ恐ろしかった。
目の前にいるのは、テレビの中にいるはずだった全国指名手配中のヴィラン。
昨日、自分の秘密を知り。
今日、自分の名前を呼んでいる。
どうする。
逃げるか。
人通りまで走るか。
ヒーローへ通報するか。
だが通報すれば、トガヒミコの存在だけでは済まない。あの動画の存在も、自分が映っていることも説明しなければならない。
思考は空回りし、一瞬だけ判断が遅れた。
その時だった。
コツ、と乾いた靴音が路地へ響く。
出口を塞ぐように、一人の男が立っていた。
出久より頭一つ高い体格。全身は爬虫類を思わせる硬質な鱗で覆われ、裂けた口元からは鋭い歯が覗いている。
その姿を見た瞬間、職場体験初日の記憶が蘇った。
ミルコと初めて巡回した日。
ステインに心酔し、自らも"裁き"を名乗って暴れていたヴィラン。
「なんで……」
思わず声が漏れる。
「逮捕されたはずじゃ……」
男は鼻で笑った。
「逮捕はされたさ」
低く掠れた声が路地に響く。
「名乗っておこう。俺はスピナーだ」
腕を組んだまま、出久を真っ直ぐ見据える。
「ステインを終わらせた者よ」
出久は身構えたまま視線を逸らさない。
スピナーは肩をすくめ、小さく息を吐いた。
「暴れる前にミルコに蹴り飛ばされて終わったからな。罪状も思ってるほど重くはならなかった」
そこで自嘲気味に笑う。
「誰かが保釈金を払ってくれて、俺は外に出た。誰なのかは俺も知らない。弁護士を通して話が来て、気が付けば解放されてた」
そう言うと、鱗に覆われた手がポケットへ伸び、一台のスマートフォンを取り出す。
「その代わり、一つだけ仕事を頼まれた」
画面を操作し、そのまま出久へ向ける。
表示されたタイトルを見た瞬間、出久の呼吸が止まった。
『正義の執行者ステインの最期』
再生された映像には、昨日の路地裏が映っている。
白い鱗に覆われた巨体。
血に染まったステイン。
そして、振り下ろされる異形の拳。
昨日トガヒミコに見せられた映像と、寸分違わぬ動画だった。
「……これは」
「俺が撮った」
その一言で空気が凍り付く。
「建物の陰から一部始終を見ていた。それを裏の動画サイトへ流した。これも保釈金を払った"誰か"の指示だった」
昨日の出来事は、自分だけの秘密だと思っていた。
しかし違った。
あの場には、誰にも気付かれず撮影していた人間がいたのだ。
動画。
証拠。
目撃者。
胸の奥で、何かが軋む。
鼓動が静まり、乱れていた呼吸が整っていく。頭の中だけが、異様なほど冷えていく感覚だった。
目撃者は二人。
出口はスピナーが塞いでいる。
背後にはトガヒミコ。
逃げ道はない。
ならば。
先に──。
そこまで考えた瞬間、出久は自分自身に戦慄した。
これは戦い方を考えているのではない。
どうすれば二人を排除できるか。
どうすれば確実に。
どうすれば殺せるか。
その一点だけを、頭が淡々と計算している。
恐怖は消え、震えていた肩も止まっていた。視線だけが静かに二人の位置を往復し、距離、足場、死角を冷徹に測っていく。
「……あ」
トガヒミコは恍惚とした表情で出久を見つめる。
「出久君、その顔──」
「ま、待て!」
遮ったのはスピナーだった。
昨日、建物の陰から見ていたからこそ分かる。
怯えと混乱が消えた直後、目の前の少年が何をしたのかを。
鱗に覆われた顔から血の気が引く。
「違う、待て!」
出久は答えない。
その冷え切った視線だけが、スピナーへ向けられていた。
「俺はあんたの敵じゃない! 聞け!」
スピナーはゆっくり両手を上げる。
「動画を流したのは依頼だった! 俺自身の意思じゃねぇ!」
沈黙だけが返る。
それが何より恐ろしい。
「俺はステインの思想に感銘を受けてここにいる。だからこそ分かる。ステインは、お前の正義に敗北した。本物のヒーローに討たれたなら、彼も本望だったはずだ!」
出久の眉が、ほんの僅かに動く。
スピナーはその変化に縋るように言葉を続けた。
「だから俺は、お前を恨んでここへ来たんじゃねぇ! 概要欄の『集え』って書き込みだって、暴露したくて書いたんじゃない! 動画を上げることも、あの一文を書くことも、全部"そいつ"の指示だった!」
短い沈黙が落ちる。
出久は低く息を吐いた。
「……さっきから」
掠れた声が漏れる。
「指示って、誰の──」
その瞬間だった。
ブルルルル、と電子音が静かな路地へ響く。
三人が同時に動きを止める。
音の発信源は、スピナーのスマートフォンだった。
画面には、ただ三文字だけが表示されている。
『非通知』
スピナーは表示された『非通知』の文字を、しばらく無言で見つめていた。
普段なら迷わず切っていただろう。だが今回は違う。
保釈金。
動画の投稿。
概要欄の『集え』という一文。
すべてが、自分の知らない誰かの指示だった。
その相手からの電話だとすれば、無視するという選択肢はない。
「……もしもし」
恐る恐る通話ボタンを押す。
返事はすぐに返ってきた。
スピナーは二、三度だけ短く相槌を打つ。
「……ああ」
「……そうだ」
「……分かった」
それだけだった。
ほんの数秒で通話は終わり、スピナーは困惑したような表情のままスマートフォンを耳から離す。
そして視線を出久へ向けると、小さく肩をすくめた。
「お前に代われ、だとよ」
「……僕に?」
出久は眉をひそめる。
罠ではないかという疑念が頭をよぎる。だがスピナー自身も状況を理解していないらしく、戸惑いを隠せていなかった。隣ではトガヒミコが興味津々といった様子で身を乗り出している。
数秒迷った末、出久はゆっくりとスマートフォンを受け取り、耳へ当てた。
「……もしもし」
『やあ、出久君』
聞き慣れた、穏やかな声だった。
低く落ち着いた響きは、どこか父親が子供へ語り掛けるような優しさを帯びている。
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた出久の肩から僅かに力が抜けた。
「AFO……」
『安心しなさい』
穏やかな声が続く。
『彼らを敵だと思う必要はない』
出久は思わずスピナーとトガヒミコへ視線を向ける。
二人とも固唾を呑んでこちらを見守っていた。
『彼らは、私が用意した広告に釣られた者たちだ』
「広告……?」
『ああ』
AFOは静かに笑う。
『あの動画も、概要欄の一文も、すべては君という存在に惹かれる人材を探し出すための広告だった』
出久は言葉を失う。
昨日の出来事も、ステインの死も、自分の変貌までもが、誰かを集めるための餌として利用されていたという事実が、すぐには飲み込めなかった。
『もっとも、集まったのは彼らだけではない』
AFOは楽しげに続ける。
『ブローカーを通じて、他にも何人か集まっている』
『正義に惹かれる者、力に惹かれる者、あるいは純粋な好奇心で動く者。君という存在に反応した人間は、僕の想像以上に多かった』
そこで一度言葉を切る。
『ただ、一つだけ予想外だったことがある』
『動画に映った背景だけを頼りに、現場を特定して直接ここまで来る人間が現れるとは思っていなかった』
電話越しに小さな笑い声が聞こえる。
『これは嬉しい誤算だったよ』
その言葉に、トガヒミコは照れ臭そうに笑った。
「えへへ」
『さて、本題だ』
AFOの声が少しだけ真面目になる。
『今から住所を伝える。彼らを連れて来なさい』
出久は黙って耳を澄ませる。
告げられた住所は、神野という街の一角だった。
保須からは決して近くない。電車を何度か乗り継ぎ、移動だけでも相応の時間を要する距離であることを、出久は頭の中で路線図を思い浮かべながら理解した。
「……あの」
『どうしたね』
「泥みたいなワープは使えないんですか?」
一瞬だけ沈黙が流れた。
やがてAFOは困ったように笑う。
『あれは、そんな便利なものではないんだよ』
「そうなんですか」
『ああ。あの転移は、僕自身か、転移個性を模倣させた脳無が現地にいなければ使えない。しかも移動できる距離にも限界がある』
珍しく愚痴をこぼすような口調だった。
『世間では好きな場所へ自由に移動できる万能能力のように思われているが、実際は随分と制約が多い。自身を転移させることもできないし、長距離移動にも向かない。便利そうに見えて、案外と融通の利かない個性なんだよ』
苦笑混じりに息を吐く。
『僕としても、もう少し使い勝手の良い個性があれば助かるんだけどね』
出久は思わず苦笑した。
あれほど常識外れに見えた能力にも、意外な弱点があったらしい。
『だから今回は、君たち自身の足で来てもらう』
AFOは穏やかな口調へ戻る。
『焦る必要はない。目立たないように神野まで来なさい』
そして最後に、どこか満足げな声で付け加えた。
『君が連れて来るその二人は、きっとこれからの君にとって良き友となるだろう』
電話が切れると、路地には短い静寂が落ちた。
出久はゆっくりとスマートフォンをスピナーへ返す。
「……行こう」
自分でも驚くほど力のない声だった。
断るという選択肢は、最初から与えられていなかった。
AFOが呼んでいる。
それだけで十分だった。
スピナーはほっと息を吐き、受け取ったスマートフォンをポケットへしまう。
「出久君、一緒にお出掛けですね」
トガヒミコは満面の笑みで出久の隣へ並ぶ。
三人は路地を出て駅へ向かった。
幸い、誰も彼らへ注意を向ける者はいない。制服姿の高校生と、少し変わった格好の男、そして明るい女子高生という奇妙な組み合わせではあるが、保須はヴィラン事件直後ということもあり、人々はそれぞれの生活へ意識を戻し始めていた。
改札を抜け、ホームへ降りる。
数分後に滑り込んできた電車へ乗り込み、三人は車両の端に並んで腰を下ろした。
車内は昼間ということもあり、それほど混雑していない。
窓の外では街並みがゆっくりと流れ始める。
出久は座席へ深く腰掛けたまま、ぼんやりと景色を眺めていた。
ここ数時間で起きた出来事が多すぎて、頭が追い付いていない。
ステインの動画。
スピナー。
トガヒミコ。
AFOからの電話。
神野への呼び出し。
考えることが多すぎて、思考そのものが鈍くなっていた。
その時だった。
「……あ」
胸の奥が、嫌な音を立てる。
今さらになって、当たり前の事実が頭へ浮かび上がってきた。
(トガヒミコ……)
ゆっくりと隣を見る。
窓の外を楽しそうに眺めている少女。
制服姿で、足をぶらぶらと揺らしながら鼻歌まで歌っている。
(全国指名手配犯じゃないか……!)
あまりにも自然に隣へ座っているせいで、いつの間にか感覚が麻痺していた。
しかし冷静になって考えれば、とんでもない状況だった。
今、自分は全国へ指名手配されている凶悪ヴィランと同じ車両に乗っている。
しかも制服姿のまま。
もし乗客の誰かがニュースで顔を覚えていたら。
もし車掌や駅員へ通報されたら。
電車は止まり、警察やヒーローが駆け付ける。
その時、自分はどう説明する。
背筋を冷たい汗が流れた。
「トガさん……!」
思わず小声で呼び掛ける。
トガヒミコは首を傾げた。
「はい?」
「その……大丈夫なの?」
「何がです?」
「いや、だから……君、その……」
出久は周囲を気にしながら声を潜める。
「指名手配されてるよね?」
一瞬だけ静かになり。
次の瞬間、トガヒミコはくすりと笑った。
「ああ、そのことですか」
まるで「今日のお昼ご飯ですか?」とでも言われたような気軽さだった。
「大丈夫ですよ」
にこりと笑う。
「ちゃんとバレないようにしているのです」
「え?」
そう言うとトガヒミコは立ち上がった。
「ちょっとだけ失礼しますね」
軽い足取りで通路へ出る。
出久は何となくその背中を目で追った。
車両には十数人ほどしか乗っていない。
新聞を読む会社員。
スマートフォンを見つめる学生。
買い物帰りらしい老夫婦。
決して人が多いわけではない。
だから見失うはずなどなかった。
……そのはずだった。
「あれ?」
出久は思わず身を乗り出す。
今、確かに通路を歩いていた。
それなのに。
「どこ……?」
姿がない。
前方の車両へ移ったわけでもない。
後方へ戻った様子もない。
座席の陰を見ても、立っている乗客の間を見ても、お団子頭の少女はどこにも見当たらなかった。
「うそ……」
十数メートルもない車内で、一人の人間が跡形もなく消えている。
出久は立ち上がり、慌てて車内を見回した。
しかし、どれだけ視線を巡らせても、そこにいるのは見知らぬ乗客ばかりだった。
「どうした」
隣でスピナーが怪訝そうに声を掛ける。出久は困惑したまま、車両の前後を何度も見回した。
「トガヒミコが……いなくなった」
「は?」
スピナーも顔を上げる。だが、その瞬間だった。
「ばぁ!」
「うわっ!?」
耳元で弾けるような声がして、出久は座席から跳ね上がりそうになった。
いつの間にか、トガヒミコはまた出久の横に座っていた。さっきまで空いていたはずの席に、当然のように腰掛け、両手を膝の上に置いてにこにこと笑っている。
「びっくりしました?」
「い、今どこに……」
出久は言葉を失った。目を離したのは一瞬ではない。確かに車内を探した。少なくとも、この席にはいなかったはずだ。それなのに、トガヒミコは最初からそこにいたかのような顔をしている。
「君の個性……なの?」
出久が掠れた声で尋ねると、トガヒミコはきょとんとした後、すぐに楽しそうに首を振った。
「違いますよ。これは技術です」
「技術……?」
「はい。逃亡生活してたら、勝手に身に付いたのです。人の視線がどこを見てるか、どこなら意識されないか、いつ動けば記憶に残らないか。そういうのを覚えると、案外いなくなれるものなのです」
何でもないことのように言う。
出久は背筋が冷たくなるのを感じた。個性ならまだ理解できる。だが、今の消失が個性ではなく、経験と観察だけで成立しているのだとすれば、この少女は人混みの中で誰にも気付かれず近付き、離れ、隠れることができるということになる。
トガヒミコは出久の顔を覗き込み、嬉しそうに笑った。
「だから大丈夫です。私はバレないようにできるのです」
出久は、怖いと思った。
同時に、感心もしていた。ヒーロー分析ノートへ書き込みたくなるほど、トガヒミコの立ち回りは異様に洗練されている。個性に頼らない観察、視線誘導、死角の利用。逃亡生活の中で磨かれた技術だと考えれば納得はできるが、それを「勝手に身に付いた」と笑って済ませるところが、何より恐ろしかった。
「……すごいね」
気付けば、そう呟いていた。
トガヒミコはぱっと顔を明るくする。
「褒めてくれました?」
「いや、その……」
「嬉しいです」
出久は返事に困り、視線を窓の外へ逃がした。
電車は何度か乗り換えを挟みながら進み、街並みは少しずつ見慣れないものへ変わっていった。保須の空気は遠ざかり、代わりにビルの密度が増し、線路沿いの景色にも古い商店街や雑居ビルが目立ち始める。
スピナーは腕を組んだまま黙り込み、トガヒミコは退屈そうに足を揺らしている。出久だけが、ポケットの中のスマートフォンと、AFOに告げられた住所の文字列を何度も意識していた。
やがて車内アナウンスが流れる。
『次は、神野。神野です』
その声を聞いた瞬間、出久の胸が小さく縮んだ。
「……着いた」
電車が速度を落とし、ホームへ滑り込む。
扉が開くと、昼下がりのざわめきと駅の空気が一気に流れ込んできた。出久は立ち上がり、トガヒミコとスピナーを一度だけ振り返る。
「ここからは、歩きだと思う」
自分で言いながら、どこか他人事のようだった。