間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第42話 結成? 敵連合!

 AFOが指定した場所は、駅前の大通りから少し外れた、古い雑居ビルの一角だった。

 

 地図アプリに表示された住所を頼りに歩いていくと、周囲の雰囲気は少しずつ変わっていった。明るい商店街から外れ、昼間だというのに人通りの少ない細い道へ入り、シャッターの下りた店や色褪せた看板が並ぶ区画へ辿り着く。指定されたビルは、その中でも特に寂れて見えた。

 

 外壁は薄汚れ、入口脇の集合看板には剥がれかけた店名の跡だけが残っている。営業中の店舗があるようには見えず、少なくとも表から見える範囲に人の気配はなかった。

 

「……ここ?」

 

 出久はスマートフォンの画面と目の前のビルを見比べる。

 

 住所は合っている。

 

 だが、看板らしいものはない。

 

 AFOの名前は当然として、店名も、会社名も、何も掲げられていなかった。

 

「秘密基地っぽくていいですね」

 

 トガヒミコは楽しそうに言う。

 

 スピナーは無言のまま、ビルの入口を見上げていた。警戒しているのか、緊張しているのか、その表情は読みにくい。ただ、彼もまたここが普通の場所ではないことを感じ取っているようだった。

 

 出久は小さく息を吐き、薄暗い階段へ足を踏み入れる。

 

 階段の壁には古い貼り紙の跡が残り、蛍光灯は何本か切れていた。足音が妙に響く。二階、三階と上がるたびに、外の街の音が遠ざかっていくようだった。

 

 指定された階で足を止める。

 

 廊下の奥に、一つだけ扉があった。

 

 表札はない。

 

 看板もない。

 

 ただ、扉の隙間から微かに光が漏れていた。

 

「……開いてる」

 

 出久は躊躇いながらドアノブへ手を掛ける。鍵は掛かっていなかった。

 

 ゆっくりと扉を押し開ける。

 

 中は、想像していた空きテナントとは違っていた。

 

 まず目に入ったのは、カウンターだった。磨かれた木目の長いカウンターが奥へ伸び、その背後には棚が並んでいる。棚にはいくつもの酒瓶が置かれ、ラベルの色が店内の柔らかな照明を受けて鈍く光っていた。

 

 テーブル席は少なく、壁際に数席あるだけだった。内装は古いが、放置されているわけではない。床には埃がなく、グラスも整然と並べられている。外から見れば完全に空きテナントだったのに、中だけは今も営業しているバーのようだった。

 

 電気も点いている。

 

 そして、カウンターの奥に人がいた。

 

 店主らしき女性だった。

 

 ピンクとダークブルーが混じったバイカラーの髪が目を引く。派手な色合いにもかかわらず、不思議と場に馴染んでいた。女性は出久達が入ってきても驚いた様子を見せず、手元のコップを布で磨き続けている。

 

「……いらっしゃい」

 

 静かな声だった。

 

 出久は、その女性の顔を見た瞬間、息を呑んだ。

 

「……レディ、ナガン……?」

 

 思わず漏れた名前に、トガヒミコが首を傾げる。スピナーも反応したように視線を向けたが、当の本人だけは特に驚いた様子もなく、ただ黙々とコップを磨き続けていた。

 

 プロヒーロー、レディナガン。

 

 長距離狙撃ナンバーワンとの呼び声も高い実力者。テレビで何度も見たことがある。ヒーロー分析ノートにも、彼女の個性と射撃精度について書いた記憶があった。

 

 その人物が、なぜこんな場所にいるのか。

 

「どうして……あなたが……」

 

 出久の声は震えていた。

 

 だが、レディナガンは答えない。出久の反応など最初から予想していたと言わんばかりに、磨き終えたグラスを棚へ戻し、次のコップへ手を伸ばす。

 

 その沈黙が、かえって異様だった。

 

 その時、カウンターの端に置かれていたノートパソコンが勝手に起動した。黒い画面に光が灯り、短い起動音の後、スピーカーから聞き慣れた声が流れる。

 

『よく来てくれたね』

 

 AFOの声だった。

 

 出久の肩が小さく跳ねる。

 

『そこは君達のために用意した仮の拠点だ。しばらくは好きに使ってくれ』

 

 穏やかな声が、薄暗いバーの中に静かに響く。

 

 その穏やかな声が店内へ響いた直後だった。

 

 店の奥にある扉が、不意に開く。

 

「お、きたきた」

 

 軽い口調とともに姿を現したのは、怪しげな仮面を被った男だった。

 

 素顔はまったく見えない。仮面越しに店内をぐるりと見回し、出久たち一人ひとりを値踏みするように眺めると、満足そうに頷く。

 

 その後ろから、もう一人が姿を見せた。

 

 鮮やかなアロハシャツに身を包み、胡散臭いサングラスを掛けた男は、どこか中性的な仕草と口調で腰をくねらせながらゆったりと歩いてくると、出久たちを見回し、口元へ手を添える。

 

「へぇ、動画と全然違うわね」

 

 トガヒミコは目を輝かせる。

 

「また知らない人です!」

 

 カウンターの上のノートパソコンから再びAFOの声が流れた。

 

『全員ではないが、とりあえずは揃ったようだね』

 

 店内が静まり返る。

 

 出久はパソコンを睨みつけたまま、一歩前へ出た。

 

「……揃ったって何がですか」

 

 返事を待たず、言葉が溢れ出る。

 

「どうしろって言うんですか」

 

 張り詰めていた感情が堰を切る。

 

「僕をここへ呼び出して、指名手配犯まで集めて……いったい何をさせるつもりなんですか!」

 

 怒声がバーの中へ響いた。

 

 トガヒミコは目を丸くし、スピナーは押し黙る。

 

 仮面の男も腕を組み直し、アロハシャツの男もサングラスの奥から興味深そうに出久を眺めていた。

 

 だが、AFOの声だけは少しも揺るがない。

 

『落ち着きなさい、出久君』

 

 まるで感情的になった子供を諭すような、穏やかな声音だった。

 

『彼らは皆、君の仲間となるよう集めた人材だ』

 

 出久の表情が強張る。

 

『動画を見て集まった者。私が以前から目を掛けていた者。そして、私自身が必要だと判断した者』

 

 一人ひとりを紹介するように、ゆっくりと言葉を重ねていく。

 

『年齢も、経歴も、思想も違う。だが、一つだけ共通していることがある』

 

 静かな間が流れる。

 

『彼らは君の力になれる』

 

 AFOは穏やかな口調のまま告げた。

 

『以降は彼らと協力しなさい』

 

 その一言には、有無を言わせない重みがあった。

 

『この場所は、君たちのために用意した仮の拠点だ。好きに使って構わない。情報を共有してもいい。休息を取ってもいい。必要な物資はこちらで補充しよう』

 

 そして、少しだけ笑みを含んだ声になる。

 

『まずは互いを知ることだ。君たちは今日から、一つのチームとして行動してもらう』

 

 バーの中は静まり返っていた。

 

 レディナガンは相変わらず何も言わず、淡々とグラスを磨き続けている。

 

 仮面の男は腕を組みながら「チーム、ねぇ」と小さく笑った。

 

 サングラスの男も肩をすくめる。

 

「まあ、名前くらいはあった方が呼びやすいわよねぇ」

 

 その何気ない一言を拾うように、パソコンのスピーカーからAFOが穏やかに笑った。

 

『そうだね』

 

 その声音には、いつもの余裕が滲んでいる。

 

『組織というものは、名前があった方が都合が良い』

 

 店内の全員が自然とパソコンへ視線を向ける。

 

『さて……どうしたものかな』

 

 少し考えるような間が空く。

 

『あまり仰々しいものも肩が凝る』

 

 そして、くすりと笑う気配がした。

 

『分かりやすく──敵連合、なんてどうかな』

 

 トガヒミコは「敵連合……」と面白そうにその言葉を繰り返し、仮面の男は吹き出しそうになるのを堪えて肩を震わせる。

 

 スピナーは「ずいぶん安直だな……」と呆れたように呟いた。

 

 だが、出久だけは違った。

 

 拳が震える。

 

 肩が小刻みに上下する。

 

 そして次の瞬間、張り裂けるような声がバー中へ響いた。

 

「ふざけるなッ!!」

 

 誰も反応する間がなかった。

 

 出久は勢いよく踵を返すと、そのまま入口へ駆け出す。

 

「出久君!」

 

 トガヒミコが反射的に立ち上がる。

 

 ドアが乱暴に開かれ、廊下へ飛び出す足音が響く。

 

 そのまま階段を駆け下りていく音が、建物全体へ反響した。

 

「待ってください!」

 

 トガヒミコも慌てて後を追おうと駆け出す。

 

 しかし、その足が扉へ届くより早く、パソコンから穏やかな声が響いた。

 

『大丈夫』

 

 その一言だけで、トガヒミコの動きが止まる。

 

『彼なら心配はいらないよ』

 

 AFOの声は少しも焦っていなかった。

 

『突然、自分の居場所も、仲間も、生き方も決められたのだ。当然の反応だよ』

 

 トガヒミコは名残惜しそうに開いた扉の向こうを見つめる。

 

「でも、逃げちゃいますよ?」

 

『大丈夫、少し落ち着く時間をあげようじゃないか』

 

『さて』

 

 AFOは一拍置いて、いつもの穏やかな口調で続けた。

 

『せっかく集まってもらったが、当面はこちらから動きを指示する予定はない』

 

 店内の全員がパソコンへ視線を向ける。

 

『今日は顔合わせということで十分だ。それぞれ好きに過ごして構わない』

 

 穏やかな声がバーの静けさへ溶け込んでいく。

 

『先ほど言った通り、ここは君たちのために用意した仮の拠点だ。情報交換をしてもいい。休息を取ってもいい。好きに使いなさい』

 

 それだけ告げると、小さく電子音が鳴る。

 

『では、また連絡しよう』

 

 プツッ、と通信が切れた。

 

 ノートパソコンの画面は暗転し、バーには静寂だけが残る。

 

 しばらく誰も口を開かなかった。

 

 その沈黙を破ったのは、仮面の男だった。

 

「ま、とりあえず自己紹介くらいはしとくか」

 

 そう言って帽子のつばへ軽く手を添え、芝居がかった仕草で一礼する。

 

「俺はMr.コンプレス。以後、お見知りおきを」

 

 どこか舞台役者のような口調だった。

 

 続いて、アロハシャツ姿のサングラスの男が腰へ手を当てる。

 

「あたしはマグネよぉ」

 

 艶っぽく笑いながらウインクを飛ばす。

 

「よろしくね、みんな」

 

 トガヒミコは元気よく手を挙げた。

 

「私はトガヒミコです! ステ様が好きで、ステ様を殺した出久君の事も大好きです!」

 

 その隣でスピナーも短く頷く。

 

「スピナーだ」

 

 視線が自然とカウンターの奥へ向く。

 

 レディナガンは相変わらず無言でグラスを磨いていた。

 

 誰も名乗らないことに気付いたスピナーが眉をひそめる。

 

「……あんたは?」

 

 返事はない。

 

 グラスを磨く音だけが静かに響く。

 

 スピナーは少し声を低くした。

 

「あんた、プロヒーローだったよな」

 

 レディナガンの手が、一瞬だけ止まる。

 

「裏切ったってことか?」

 

 数秒の沈黙。

 

 やがて彼女は磨き終えたグラスを棚へ戻し、ようやく口を開いた。

 

「……そんな大層な話じゃない」

 

 その声には疲労だけが滲んでいた。

 

「とにかく」

 

 短く息を吐く。

 

「全部、疲れたんだよ」

 

 

 

 

 

 ──

 

 ビルの重い扉が勢いよく開き、出久は外へ飛び出した。

 

 昼の空気が肺へ流れ込む。

 

 それでも胸の奥に渦巻く苛立ちは、少しも収まらなかった。

 

「……何なんだ!」

 

 吐き捨てるように呟く。

 

 勝手に呼び出され。

 勝手に仲間だと言われ。

 勝手に居場所まで用意される。

 

 誰一人として、自分の意思など聞こうとはしなかった。

 

「僕は……」

 

 拳を強く握り締める。

 

「誰が、ヴィランだ」

 

 早足のまま大通りへ出る。

 

 人混みの中へ紛れ込んでも、頭の中ではAFOの穏やかな声だけが何度も反響していた。

 

 ──彼らは君の仲間だ。

 

 ──協力しなさい。

 

 ──敵連合。

 

「……ふざけるな」

 

 吐き捨てるように呟き、駅へ向かって歩き続ける。

 

 今は帰りたい。

 何も考えず、家へ戻りたかった。

 

 駅前が見えてきたところで、出久はポケットからスマートフォンを取り出す。

 

「次の電車は……」

 

 乗換案内のアプリを開こうとした、その瞬間だった。

 

「……!」

 

 耳へ鈍い音が飛び込んでくる。

 

 ドゴッ。

 

 鈍く、肉を殴る音。

 

「だからよぉ!」

 

 若い男の怒鳴り声だった。

 

 出久は反射的に顔を上げる。

 

 駅へ続く道の脇。

 細い路地裏。

 そこでは数人の若い男が、一人の男を取り囲んでいた。

 

 鈍い蹴りが腹へ入る。

 

「がっ……!」

 

 殴られた男は抵抗もできず、地面へ膝をつく。

 

 その姿を見て、出久は眉をひそめた。

 

 男は異様な格好をしていた。

 頭には紙袋が被せられており、目の部分だけが乱暴に切り抜かれている。

 まるで素顔を隠すためだけに即席で作ったような、不気味な覆面だった。

 

 服装もくたびれていて、どこか浮浪者を思わせる。

 

「変な格好で歩いてんじゃねぇよ!」

 

 若者の一人が紙袋を掴み、そのまま顔面へ拳を叩き込む。

 

「ヴィランかと思ったじゃねぇか!」

 

 別の男が笑いながら財布を奪い取り、中身を確認する。

 

「お、意外と入ってんじゃん」

 

「ヴィランなら金取られても文句ねぇよなぁ!」

 

「そうそう!」

 

「ほら、もっと出せよ!」

 

 蹴りが何度も男の身体へ突き刺さる。

 

 紙袋の男は両腕で頭を庇うだけで、反撃しようとはしなかった。

 

 到底、見逃せなかった。

 

 出久の足が動く。考えるより先に身体が路地へ飛び込み、次に紙袋の男へ拳を振り下ろそうとしていた若者の腕を掴んでいた。

 

「なっ……!」

 

 若者の拳が空中で止まる。

 

 出久はその手首を強く握ったまま、まっすぐ相手を睨んだ。怒りはまだ胸の中に残っている。けれど、それはさっきまでとは違う方向へ向いていた。

 

「あなたがやっているのは犯罪です」

 

 声は震えていなかった。

 

「今すぐお金を返して、この人に謝ってください!」

 

 次の瞬間、横から拳が飛んできた。

 

 頬に衝撃が走る。

 

「調子乗ってんじゃねぇぞ、ガキ!」

 

 別の若者が怒鳴る。拳は確かに出久の顔を捉えていた。普通ならよろめき、少なくとも体勢は崩れていたはずだった。

 

 だが、出久は揺らがなかった。

 

 個性は使っていない。

 

 使うわけにはいかなかった。

 

 自分はまだ仮免も持たない高校生で、ヒーローではない。人助けのためとはいえ、ここで個性を使えば、それはまた別の問題になる。

 

 だから、出久はただ耐えた。

 

 槍骨。

 

 剛躯。

 

 それらを与えられた身体は、普段の見た目より遥かに頑丈になっている。発動していなくても、骨格も筋肉も、以前の緑谷出久とは違っていた。

 

「……っ」

 

 頬は痛む。

 

 けれど、それだけだった。

 

 出久は殴ってきた若者へ視線を向けることすらせず、蹲る紙袋の男へ膝をついた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 静かに声を掛ける。

 

「怪我は……」

 

 そこで、言葉が止まった。

 

 紙袋が破れていた。

 

 先ほど殴られた時に裂けたのだろう。顔を隠していた紙袋は半分ほど破れ、奥に隠れていた素顔が露わになっている。

 

 そこにあったのは、絶望に染まり切った男の顔だった。

 

 目は落ち窪み、唇は震え、視線は出久を見ているようで何も見ていない。怯え、怒り、諦め、虚勢。そのすべてがぐちゃぐちゃに混ざった顔だった。

 

「痛え……」

 

 男はぶつぶつと呟く。

 

「痛えな……おい、かかってこいよ……!」

 

「落ち着いてください」

 

「金なんか持ってない……持ってねぇよ……」

 

 男は破れた紙袋を押さえながら、乾いた笑いを漏らした。

 

「いやいや、俺は大金持ちだ。お前らなんかより、ずっとずっと大金持ちさ……そうだろ?」

 

 支離滅裂だった。

 

 奪われた財布を見ようともせず、殴った若者達を睨むでもなく、ただ自分に言い聞かせるように言葉を垂れ流している。

 

 出久は息を呑んだ。

 

 この男は、ただ変な格好をしているだけではない。

 

 壊れている。

 

 少なくとも、今この場でさらに暴力を受けていい状態ではなかった。

 

 若者達は顔を見合わせる。

 

「……何なんだ、こいつ」

 

 出久の頬を殴った男が、自分の拳を見つめながら呟く。

 

「ちょっとは痛がれよ……」

 

 相手は眉一つ動かさず、こちらを睨み返すことすらしない。ただ目の前の男を気遣い続けている。

 

 その異様さが、じわじわと若者達の背筋を冷やしていった。

 

「おい……待て」

 

 財布を持った男が、出久の顔をじっと見つめる。

 

「……こいつ」

 

 何かを思い出したように目を見開く。

 

「雄英生じゃねぇか?」

 

「は?」

 

「ほら、あれだよ。体育祭!」

 

 別の男も出久の顔を見比べる。

 

「あ……そうだ!」

 

「たしか体育祭で見たことある気がする!」

 

 路地裏にざわめきが広がる。

 

 雄英高校。

 

 その名前が持つ重みは、一般人にとって決して小さくない。

 

 しかも、目の前の少年はいくら殴っても平然としている。

 

 ただの高校生ではない。

 

 その事実が、若者達の強気を少しずつ削っていく。

 

「……ちっ」

 

 財布を握っていた男が舌打ちした。

 

「面倒くせぇ」

 

 手の中の財布を乱暴に地面へ放り投げる。

 

「ほらよ!」

 

 財布は出久の足元へ滑るように転がった。

 

「今日は運が良かったな」

 

 捨て台詞を吐きながら、一歩、また一歩と後ずさる。

 

「行くぞ」

 

「……ああ」

 

「雄英相手に騒ぎを大きくする意味ねぇ」

 

 若者達は互いに顔を見合わせると、逃げるように路地の出口へ向かって走り去っていった。

 

 足音が遠ざかる。

 

 やがて路地裏には静寂だけが残った。

 

 出久は彼らを追わなかった。

 

 財布を拾い上げると、そのまま紙袋の男の前へしゃがみ込む。

 

「……大丈夫ですか?」

 

 できるだけ穏やかな声で問い掛ける。

 

「もう大丈夫です」

 

 財布を差し出そうとした、その時だった。

 

 男の独り言が、先ほどよりも明らかに激しくなる。

 

「違う……違う違う違う……」

 

 頭を抱え、乱れた呼吸を繰り返す。

 

「覆わなきゃ……」

 

 震える手が、破れた紙袋へ伸びる。

 

「覆わなきゃ……」

 

 破れた部分を必死に押さえようとするが、裂けた紙袋は元には戻らない。

 

 男の瞳に、焦燥が浮かぶ。

 

「覆わなきゃ、覆わなきゃ……!」

 

 声は次第に悲鳴へ近付いていく。

 

「溢れちまうよお……!」

 

 紙袋を両手で押さえ込みながら、男は身体を丸めた。

 

「駄目だ……駄目だ駄目だ……!」

 

「全部……全部溢れちまう……!」

 

 その異様な様子に、出久は思わず息を止めた。

 

 暴行を受けた恐怖とは違う。

 

 何か別のものを、男は必死になって押さえ込もうとしている。

 

「……覆う?」

 

 出久は静かに問い掛ける。

 

「何が、溢れるんですか……?」

 

 しかし男は答えない。

 

 ただ破れた紙袋へ爪が食い込むほど力を込め、壊れたレコードのように同じ言葉だけを繰り返していた。

 

 出久は慌てて辺りを見渡した。

 

「覆うもの……何か……!」

 

 路地の隅に、潰れかけた段ボール箱が捨てられているのが見えた。出久は駆け寄ってそれを拾い上げ、汚れの少ない面を選ぶと、破れた紙袋の代わりになるよう手早く形を整える。

 

「すみません、少しだけ我慢してください」

 

 男はまだ震えていた。

 

「覆わなきゃ……覆わなきゃ……!」

 

「大丈夫です。今、覆います」

 

 出久はできるだけ刺激しないように、ゆっくりと段ボールを男の頭へ被せた。

 

 その瞬間、男の動きがぴたりと止まった。

 

 荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。

 

「……ああ」

 

 段ボールの中から、くぐもった声が漏れた。

 

「ああ……そうだ……」

 

 男は膝をついたまま、何度か小さく頷く。

 

「包めば、一つだ……」

 

 さっきまでの混乱が嘘のように、声から震えが消えていた。

 

 出久が戸惑っていると、男は急に顔を上げる。段ボールを被ったまま、先ほどとは打って変わって明るい調子で親指を立てた。

 

「ありがとうな、緑谷少年!」

 

 あまりの変化に、出久は一瞬返事を忘れた。

 

「……あ、はい。無事なら、良かったです」

 

 そこで、出久は遅れて違和感に気付いた。

 

「……え?」

 

 今、この男は何と言った。

 

 緑谷少年。

 

 自分は名乗っていない。体育祭を見ていたなら顔を知っていてもおかしくはないが、この状況であまりにも自然に名前を呼ばれたことが、妙に引っ掛かった。

 

「あの、なんで僕の名前を──」

 

「おっと悪い!」

 

 男は出久の言葉を遮るように立ち上がった。先ほどまで蹲っていたとは思えないほど軽い動きで、段ボールを被ったまま服の埃を払う。

 

「待ち合わせしてんだよ!」

 

「待ち合わせ……?」

 

「じゃあな、緑谷少年! 助かったぜ!」

 

 それだけ言うと、男は財布を受け取ることすら忘れたように、路地の奥へ向かって駆け出した。

 

「あ、ちょっと!」

 

 出久が呼び止めるより早く、段ボール頭の男は角を曲がって姿を消す。

 

 残された出久は、拾った財布を手にしたまま呆然と立ち尽くした。

 

 助けたはずの男は、名前だけを呼び、理由も告げず、まるで最初からどこかへ向かう途中だったかのように走り去ってしまった。

 

 出久はただ、その背中が消えた路地の奥を見送ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

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