間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第43話 所詮人殺しの自己欺瞞

 翌日。

 

 ビルの屋上を、風が切り裂くように流れていた。

 

「遅ぇ!」

 

 前方でミルコが叫ぶ。

 

 その声が届いた瞬間、出久は奥歯を噛み締め、ビルの縁を蹴った。

 

 足裏がコンクリートを砕く。

 

 身体が前へ弾けるように飛び出し、隣の建物までの距離が一瞬で詰まった。着地の直前、膝と足首に力を逃がし、衝撃を殺す。続けて腰を捻り、勢いを殺さないまま左へ方向転換した。

 

 骨格の軸を意識する。足場に触れる時間を短くし、進行方向ではなく、次に飛ぶ角度へ力を流す。

 

 槍骨も剛躯も、ただ殴るための力ではない。身体を支える骨、衝撃に耐える筋肉、加速に耐える関節。それらを一つずつ意識すれば、移動そのものが変わる。

 

「っ……!」

 

 出久は看板の支柱を掴み、身体を振り子のように回して路地の上を越えた。

 

 足元では、朝の街が動き始めている。

 

 通勤する人々。

 

 開店準備をする店。

 

 信号待ちの車列。

 

 その上を、ミルコと出久は獣のような速度で駆け抜けていた。

 

「おっ」

 

 先を行くミルコが振り返る。

 

 ビルの壁面を蹴り、別の屋上へ移る出久の動きを見て、彼女は獰猛に笑った。

 

「一日見ない間に、随分様になって来たな、骨野郎!」

 

 着地した出久が顔を上げる。

 

「緑谷です! ……そうでしょうか」

 

「細けぇ加速と減速なしの方向転換だよ。一昨日よりマシになってんじゃねぇか」

 

 ミルコは屋上の縁に片足を掛け、肩越しに笑う。

 

「コソ練したか?」

 

 風を切る音が耳元で唸る。

 

 ミルコの背中を見失わないよう必死に追い掛けながら、出久は自分の身体に妙な違和感を覚えていた。

 

(……違う)

 

 以前より動ける。

 

 それは筋力が上がったという話ではない。

 

 身体が、自分の考えより先に最適な動きを選んでいるような感覚だった。

 

 着地と同時に重心を切り替え、壁を蹴る角度を修正し、次の足場へ飛び移る。頭で「こう動こう」と考えてから身体が動くのではなく、身体が自然に答えを出し、それを意識が後から追い掛けている。

 

(なんで……?)

 

 屋上から屋上へ飛び移りながら、出久の脳裏へ一つの光景が蘇る。

 

 保須。

 

 あの路地。

 

 血の匂い。

 

 ステイン。

 

 あの時の自分は、考える余裕など一切なかった。

 

 生き残ることだけを考え、五つの個性を同時に扱い、身体が壊れることも構わず暴れ続けた。

 

 槍骨で攻め。

 

 剛躯で受け。

 

 他の個性も限界まで重ね掛けし、自分の肉体が悲鳴を上げることすら無視して戦った。

 

 まともな制御などしていない。

 

 いや、できなかった。

 

 それでも、あの極限状態で身体は確かに五つの個性を同時に扱っていた。

 

(……あれが)

 

 出久はビルの縁を蹴る。

 

 着地の衝撃を膝ではなく腰へ逃がし、その反動を利用して一気に加速する。

 

(身体が覚えた……?)

 

 理屈では説明できない。

 

 だが、一度限界まで使い切ったことで、身体そのものが個性の扱い方を学習してしまったような感覚がある。

 

 以前は一つひとつ確認しながら操作していたものが、今では半ば反射で動いていた。

 

「おら! 置いてくぞ!」

 

 前方からミルコの声が飛ぶ。

 

「はい!」

 

 出久は返事をしながらさらに速度を上げる。

 

 まだ追い付けない。

 

 ミルコとの距離は縮まりそうで縮まらず、少しでも判断を誤れば一気に引き離される。

 

 必死で、息も上がっている。

 それでも、視界は以前より広く保たれていた。

 

 高速で街を駆け抜けながらも、人の流れや車の動き、不審な物音や視線まで自然と目へ入ってくる。

 

 ミルコの背中を見失わず、それでいて街全体を観察する余裕がある。

 

 その僅かな変化を噛み締めながら、出久は午前中いっぱいミルコと共に市街地を駆け続けた。

 

 

 

 

 

 ──

 

「よーし、この辺は異常なし!」

 

 ミルコはビルの屋上へ着地すると、大きく背伸びをした。

 

 太陽はすでに高く昇り、初夏の陽射しがコンクリートを照らしている。

 

 出久も数秒遅れて屋上へ降り立った。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 肩で息をしながら膝へ手をつく。

 

 まだ追い付くので精一杯だ。

 

 それでも、最初の頃のように立っていられないほど消耗することはなくなっていた。

 

 ミルコは自販機で買ったスポーツドリンクを一本放り投げる。

 

「ほら」

 

「ありがとうございます!」

 

 出久は慌てて受け取り、一口飲む。

 

 乾いた喉へ冷たい飲み物が流れ込み、熱を持っていた身体へ染み渡っていく。

 

 ミルコはフェンスへ寄り掛かりながら、街を見下ろえた。

 

「あ、そういや」

 

「?」

 

「お前、ヒーローネーム何にしたんだ?」

 

 出久は目を瞬かせた。

 

「ヒーローネーム?」

 

「そうだよ」

 

 ミルコは当然だと言わんばかりに続ける。

 

「職場体験に合わせて考えてきてるだろ。インターン先じゃ本名よりそっちで呼ぶこともあるしな」

 

「…………」

 

 出久の動きが止まった。

 

 スポーツドリンクを持ったまま固まる。

 

「……あ」

 

「ん?」

 

「そういえば……」

 

 頭の中で何かが抜け落ちる音がした。

 

 体育祭。

 

 ステイン。

 

 AFO。

 

 敵連合。

 

 昨日の出来事があまりにも濃すぎて、完全に意識の外へ追いやられていた。

 

(ヒーローネーム……考えなきゃいけなかったんだ)

 

 職場体験へ参加するにあたり、それぞれが自分だけのヒーローネームを決める。

 

 なのに。

 

「……決めてません」

 

 出久は申し訳なさそうに頭を掻いた。

 

「え?」

 

「まだ、全然……」

 

 ミルコは数秒黙ったあと、豪快に吹き出した。

 

「ぶははっ!」

 

 腹を抱えて笑う。

 

「マジかよ、お前!」

 

「す、すみません……」

 

「いや謝んな!」

 

 ミルコは笑いながら出久の肩を叩いた。

 

「そんな気にすんなって」

 

 ひとしきり笑ったミルコは、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながらフェンスへ背中を預けた。

 

「雄英じゃ色々言われてるだろ?」

 

 出久は少しだけ視線を落とす。

 

「……はい」

 

 ヒーローネームには、その人間の在り方が表れる。

 

 将来どんなヒーローになりたいのか。

 

 どんな信念を貫くのか。

 

 どんな存在として人々に覚えてもらいたいのか。

 

 担任の相澤も、ミッドナイトもそういう意味を持つ大切な名前なのだと話していた。

 

 だからこそ、出久は決め切れなかった。

 

 今の自分が名乗るに相応しい名前とは何なのか。

 

 考えれば考えるほど分からなくなってしまったのだ。

 

 そんな出久の様子を見て、ミルコは肩をすくめる。

 

「別に、そんな深く考える必要はねぇよ」

 

「え?」

 

「名前にヒーローとしての目標や覚悟を込める奴は多い。それはそれで立派だ」

 

 そう言って空を見上げる。

 

「でもな、それだけじゃねぇんだよ」

 

 ミルコはニヤリと笑った。

 

「個性そのまんまだったり、見た目そのまんまだったり、思いつきみたいな安直なヒーローネームも案外多いぞ」

 

「そうなんですか?」

 

「おう。結局は本人が名乗り続けて、有名になっちまえば勝ちだからな」

 

 そう言って自分の胸を親指で叩く。

 

「かくいう私も、本名のもじりだし」

 

 あっけらかんと言って笑った。

 

「えっ」

 

 出久は目を丸くする。

 

「そんな理由だったんですか?」

 

「そんな理由だよ」

 

 ミルコは悪びれた様子もなく頷く。

 

「別に最初から『最強のウサギヒーローになる!』とか、『こういう理念を込める!』なんて考えてたわけじゃねぇ」

 

 拳を握り、軽く振る。

 

「戦って、勝って、名前が売れて、気付いたら『ミルコ』って名前が私になってた。それだけだ」

 

 その言葉には、不思議な説得力があった。

 

 名前がヒーローを作るのではない。

 

 ヒーローが、その名前に意味を与える。

 

 そんな考え方だった。

 

 出久はスポーツドリンクの缶を見つめながら、小さく息を吐く。

 

「……名前が先じゃなくても、いいんですね」

 

「当たり前だ」

 

 ミルコは即答した。

 

「立派な名前付けても、中身が伴わなきゃ笑われるだけだ」

 

 反対に、と笑う。

 

「どんなに安直な名前でも、そいつが本物のヒーローなら、その名前は勝手に格好良くなる」

 

 屋上を吹き抜ける風が、二人の髪を揺らした。

 

 出久はその言葉を胸の中で何度も反芻する。

 

 今まで、ヒーローネームとは理想を宣言するものだと思っていた。

 

 だが、ミルコの考えは違う。

 

 理想を語るより先に、自分自身がその名に相応しいヒーローになればいい。

 

 その発想は、どこかミルコらしかった。

 

「……もう少し、考えてみます」

 

「おう」

 

 ミルコは満足そうに笑う。

 

「焦るな。名前なんざ、最後に腹くくって決めりゃいい」

 

 ミルコは缶の最後の一口を飲み干すと、何気なくフェンス越しに通りへ目を向けた。

 

「ん?」

 

 何かを見つけたように片眉を上げる。

 

「お!」

 

 そのまま出久の肩を肘で小突いた。

 

「お前の事呼んでんじゃねぇか?」

 

「え?」

 

 ミルコが道路を指差す。

 

「ほら、あそこ」

 

 出久も釣られるように身を乗り出し、眼下の通りを見下ろした。

 

 歩道を行き交う人々の中で、一人の女子高生がこちらを見上げている。

 

 セーラー服姿の可愛らしい少女だった。

 

 こちらと目が合うと、ぱっと表情を明るくし、両手を大きく振る。

 

「出久君ーっ!」

 

 元気いっぱいの声が屋上まで届いた。

 

「頑張ってー!」

 

 出久は手を上げかけて、その動きを止めた。

 

(……あれ)

 

 女子高生は満面の笑みで手を振っている。

 

 だが、その笑顔の奥に、どこか見覚えのある癖を感じた。

 

 首を傾げる角度。

 

 手の振り方。

 

 そして、こちらを見つめる視線。

 

 確証はない。

 

 顔も、声も、距離があるせいではっきりとは分からない。

 

 それでも胸の奥で、小さな警鐘だけが鳴っていた。

 

 ミルコはそんな出久の様子を見て、勝手に納得したように笑う。

 

「なんだなんだ」

 

 肘で軽く小突きながら、口元を吊り上げた。

 

「照れんなよ」

 

「……」

 

 出久は答えない。

 

 視線は女子高生から外れなかった。

 

 その沈黙を、ミルコは照れ隠しとしか思わなかったらしい。

 

「せっかく応援してくれてんだ。無視すんのも可哀想だろ」

 

 フェンスから身を離すと、大きく伸びをする。

 

「休憩がてらファンサしてこい。そういうのもヒーローの仕事だ」

 

 そう言って、ビルの縁へ歩いていく。

 

「あたしはちょっと先、見回ってくるからよ」

 

「え、ミルコ──」

 

「終わったら追いついてこい!」

 

 言い終えるより早く、ミルコは屋上を蹴った。

 

 轟音とともに身体が宙へ躍り、向かいのビルへ軽々と着地する。そのまま振り返ることもなく、次の屋上、さらにその先へと駆け去っていった。

 

「……」

 

 出久は小さく息を吐く。

 

 止める暇もなかった。

 

 眼下では、女子高生がまだ嬉しそうに両手を振っている。

 

 出久はフェンスへ歩み寄る。

 

 一歩踏み出すと、そのまま屋上から飛び降りた。

 

 風が耳元を駆け抜ける。

 

 身体を捻って勢いを殺し、歩道脇へ静かに着地する。周囲の通行人が驚いて足を止める中、女子高生だけはぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。

 

「わあっ!」

 

 目を輝かせながら、小走りで駆け寄ってくる。

 

「出久君! 本当に降りてきてくれた!」

 

 女子高生は嬉しさを隠そうともせず、出久の前で足を止めた。

 

「すごーい! 本物の出久君だ!」

 

 両手を胸の前で組み、目を輝かせる。

 

「体育祭、見てました! すっごく格好良くて──」

 

「……」

 

 出久は一言も返さなかった。

 

 ただ、少女の顔をじっと見つめる。

 

 その視線には、先ほどまでミルコへ向けていたような柔らかさはない。

 

 冷たく、静かに相手を観察する目だった。

 

 少女の笑顔が、ほんの僅かだけ揺らぐ。

 

 出久は静かな声で口を開いた。

 

「……なんの用なの」

 

 一拍置いて、その名を呼ぶ。

 

「トガさん」

 

 その瞬間だった。

 

 少女の表情が止まる。

 

 まるで時間そのものが凍り付いたように、一瞬だけ動きが完全に消えた。

 

 周囲を歩く通行人だけが、その横を何事もなく通り過ぎていく。

 

 やがて。

 

 少女の口元が、ゆっくりと吊り上がった。

 

 にやり、と。

 

 普通の笑顔ではない。

 

 頬が裂けるように口角が広がり、抑え切れない歓喜が滲み出る笑みだった。

 

「……ふふっ」

 

 肩が震える。

 

「ふふふっ……!」

 

 次の瞬間、少女の身体の表面がどろりと波打った。

 

 肌が溶ける。

 

 制服が崩れる。

 

 髪の色が液体のように流れ落ち、輪郭そのものが音もなく変わっていく。

 

 人の皮を脱ぎ捨てるように、変身が解けていく。

 

 1秒も掛からなかった。

 

 そこに立っていたのは、先ほどまでの可愛らしい女子高生ではない。

 

 乱れた金髪を彼岸花の様に結び、八重歯を覗かせながら嬉しそうに笑う少女。

 

 トガヒミコだった。

 

「バレちゃったぁ!」

 

 満面の笑みを浮かべたまま、両手をぱちんと合わせる。

 

「すっごーい! 出久君、ちゃんと気付いてくれたんだね!」

 

 まるで正解を当ててもらった子どものように、心の底から嬉しそうに笑っていた。

 

「……ん?」

 

 出久の冷めた目が、一瞬で崩れた。

 

「ちょっ──!」

 

 変身が解けるのと同時に、纏っていた制服まで溶け落ちていくことに気付いたからだ。

 

 顔が一気に真っ赤になる。

 

「トガさん!? 待って、待って!」

 

「え?」

 

 トガヒミコが自分の状態に気付き、きょとんとする。

 

 出久は反射的に周囲を見た。幸い、通行人はミルコが飛び去った方へ視線を向けていたり、スマートフォンを見ていたりして、こちらの異変には気付いていない。

 

 だが、このままでは時間の問題だった。

 

「こっち!」

 

「わっ」

 

 出久は慌ててトガヒミコの肩を押し、すぐ横の路地裏へ押し込んだ。通りから見えない位置まで移動すると、自分は背中を向け、両手で顔を覆う。

 

「な、何してるんですか!」

 

「見抜いてくれたのが嬉しくて、つい」

 

 トガヒミコの声は弾んでいたが、少しだけ照れも混じっていた。

 

 出久は顔を真っ赤にしたまま叫ぶ。

 

「早く服を!」

 

「はいはい」

 

 トガヒミコは楽しそうに笑いながら、足元に置いていた鞄を拾い上げる。中から予備の制服を取り出し、がさごそと着替え始めた。

 

 背後で布の擦れる音がする。

 

 出久は通りの方を警戒しながら、誰かが路地へ入ってこないか必死に見張った。

 

「……できました」

 

 その声で、出久は恐る恐る振り返る。

 

 トガヒミコはいつもの制服姿に戻っていた。頬はほんのり赤いが、口元には抑え切れない笑みが浮かんでいる

 

 出久はようやく息を整えると、小さく息を吐いた。

 

「……それが君の個性なんだよね」

 

 トガヒミコは制服の袖を軽く払いながら、こくりと頷く。

 

「うん。個性、『変身』」

 

 嬉しそうに笑うその様子は、先ほど正体を見抜かれたことがよほど嬉しかったのだろう。

 

 出久は記憶を辿るように言葉を続けた。

 

「全国指名手配の資料で公開されてた。血液を摂取した相手へ変身できる個性……」

 

「正解!」

 

 トガは指を立てて笑う。

 

「服も一緒に変身できるけど、重なっちゃうから一回脱がなきゃダメなのです。人に見られるのは、ちょっと恥ずかしいです」

 

 トガヒミコは制服の襟を整え終えると、満足そうに両手を後ろで組んだ。

 

「あんなに早く見抜かれたのは久しぶりでした」

 

 まるで褒められた子どものように、屈託なく笑う。

 

 その笑顔だけを見れば、ごく普通の少女だった。

 

 出久は思わず毒気を抜かれそうになる。

 

(……普通に笑うんだ)

 

 警戒心など欠片もない。

 

 人懐っこく、無邪気で、ただ純粋に喜んでいるようにしか見えなかった。

 

 一瞬だけ、さっきまでの緊張が薄れる。

 

 だが、その直後。

 

(違う)

 

 胸の奥で、自分自身に言い聞かせる。

 

 目の前にいるのは、指名手配されているヴィラン。

 

 ステインを崇拝し、人を傷つけることを厭わない少女だ。

 

 見た目や態度に惑わされてはいけない。

 

 その事実を思い出した途端、出久の表情は再び静かなものへ戻っていた。

 

「ねぇ、出久君」

 

 トガヒミコが首を傾げる。

 

「なんで私だって分かったのですか? 顔も声も変えてたのに。もしかしてこの子はお友達だったですか?」

 

 出久は少しだけ間を置いて答える。

 

「ちがうよ。僕の個性の一つに、五感を強化するものがあるんだ」

 

 そして、真っ直ぐトガヒミコを見る。

 

「君から、血の匂いがした」

 

 その一言で、トガヒミコは「ああ」と納得したように目を丸くした。

 

「そっかぁ」

 

 自分の袖口をくんくんと嗅ぎ、小さく笑う。

 

 出久は笑わなかった。

 

 その瞳から温度が少しずつ失われていく。

 

「……トガさん」

 

「ん?」

 

「その変身していた女子高生」

 

 一拍置いて、低く問い掛ける。

 

「傷つけたの?」

 

 トガヒミコは、その問いを聞いた瞬間、ぴたりと動きを止めた。

 

 しかし驚いたのはほんの一瞬だけだった。次第に頬がじわりと紅潮し、出久へ向けられた瞳が熱を帯びていく。

 

 その表情は、まるで今の冷え切った視線こそを待ち望んでいたかのように、恍惚とした喜びに満ちていた。

 

「……うん」

 

 うっとりと微笑みながら、小さく頷く。

 

「この子ね、私がお腹すいて動けないなぁってなってた時、ご飯をくれた優しい子だったのです」

 

 思い出話でもするような穏やかな口調だった。

 

「いい子だったから、物陰で血を分けてもらいました。チュウチュウって」

 

 照れたように笑い、指先で唇をちょんと突く。

 

 その言葉にも、表情にも、罪悪感は一切なかった。

 

 申し訳なさも、言い訳も、後悔もない。ただ、自分にとって当たり前の出来事を説明しているだけ。その無邪気さが、かえって出久の胸を重く締め付けた。

 

 彼女は悪意を隠しているのではない。

 

 人を傷つけたという認識そのものが、自分とは根本的に違うのだ。

 

 出久は何も言わず、ただトガヒミコを見つめ続ける。

 

 対するトガヒミコは、その冷たい視線を受けながらも嬉しそうに頬を染め、まるで好きな人に見つめられている少女のように幸せそうな笑みを浮かべていた。

 

 その姿を見ていると、先ほどまで毒気を抜かれそうになっていた自分が馬鹿らしく思えてくる。

 

 目の前にいるのは、確かに笑っている一人の少女だ。しかし、その笑顔の裏には、善意で手を差し伸べた誰かが傷つけられたという事実がある。

 

 出久は胸の内で小さく息を吐いた。

 

(……駄目だ)

 

 今の彼女に何を言っても届かない。

 

 人を傷つけたことを責めても、善悪を説いても、価値観の土台そのものが違う以上、平行線にしかならない。少なくとも、この場で説得しようとするのは無意味だと判断した。

 

 だから出久は、その話を一度切り上げる。

 

 瞳から感情を消したまま、静かに問い掛けた。

 

「……それで」

 

 路地裏に静寂が落ちる。

 

「何しに来たの」

 

 トガヒミコは一瞬だけ首を傾げると、すぐに口元を緩めた。

 

「ふふっ。やっぱり出久君、その顔一番好き」

 

 出久は表情を変えない。

 

「答えて」

 

「昨日はちゃんと話せなかったから、お話しに来たのですよ」

 

 出久は眉一つ動かさなかった。

 

「あんな、ふざけた組織に入るつもりなんかない」

 

 その声には、はっきりとした憤りが滲んでいた。

 

「人を傷つけて、自分たちの都合だけで暴れ回るヴィランに協力する気はない。そんな組織に誘われても、答えは最初から決まってるじゃないか。僕は……とにかく、そんなつもりはない」

 

 トガヒミコは黙ってその言葉を聞いていたが、やがて小さく笑い声を漏らした。

 

「……本当に?」

 

「何が」

 

「そんなこと言って」

 

 トガヒミコは一歩だけ距離を詰め、出久の顔を覗き込む。

 

 その瞳は、獲物を見つけた肉食獣というより、人の本音を見抜いてしまった子どものように無邪気だった。

 

「出久君、本当は敵連合そのものに怒ってるんじゃないですよね?」

 

 出久の眉が僅かに動く。

 

 トガヒミコは、その反応だけで十分だったと言わんばかりに笑みを深めた。

 

「約束したのに」

 

 楽しそうに、しかし核心だけを正確に突く。

 

「殺人を隠蔽してくれるっていう約束を、あの人が勝手に反故にしたからですか?」

 

 その一言で、路地裏の空気が凍り付いた。

 

 否定しなければならない。そんなことはないと、怒っている理由はそこではないと、すぐに言い返さなければならない。そう分かっているのに、喉が貼り付いたように声が出なかった。

 

 トガヒミコはその沈黙を見て、ぱっと顔を輝かせた。

 

「やっぱり!」

 

 嬉しそうに弾む声が、狭い路地裏に響く。

 

「やっぱりそうなんですね。助けてくれるからって任せたのに、隠してくれるって思ったのに、広告に使われちゃって」

 

 彼女はくすくすと笑いながら、出久の顔を覗き込む。

 

「イラついちゃったんですよね?」

 

「……違う」

 

 ようやく漏れた声は、あまりにも弱かった。

 

 トガヒミコは笑みを深める。

 

「違わないです」

 

 甘く、楽しそうで、それでいてぞっとするほど正確な声だった。

 

「だって、残っちゃいましたもんね」

 

 出久の胸が強く跳ねた。

 

「証拠」

 

 トガヒミコは唇を吊り上げる。

 

「誰にも知られないはずだったのに。なかったことにできるはずだったのに。動画になって、みんなに見られて、私たちまで集まってきちゃった」

 

 彼女の瞳が、爛々と輝く。

 

「人殺しの出久君」

 

 その言葉は、刃物よりも深く胸に刺さった。

 

 出久は何も言えなかった。

 

 言い返したいのに、否定したいのに、どこかでその言葉を受け入れてしまっている自分がいる。

 

 ステインは死んだ。

 

 自分の手で。

 

 それだけは、どう言い繕っても変わらなかった。

 

 

 

 

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