間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第44話 渡我被身子:オリジン

 出久は自室の机に向かい、開いたノートと教科書を前にシャープペンシルを走らせていた。

 

 職場体験の間、頭の中はあまりにも多くの出来事で埋め尽くされていた。ステイン、AFO、トガヒミコ、敵連合。考えたくなくても勝手に浮かんでくる名前ばかりで、普通の高校生としての生活など、どこか遠い場所へ押し流されていた。

 

 けれど、雄英高校はヒーロー科だからといって、学業を疎かにしていい学校ではない。

 

 当然のように中間試験はある。

 

 しかも、出題範囲も難易度も普通の高校とは比べものにならない。ヒーロー基礎学や実技だけではなく、数学、現代文、英語、化学、社会。どれも将来プロヒーローとして活動する上で必要な知識に繋がっていると説明され、実際、授業内容は容赦なく進んでいた。

 

「……まずい」

 

 出久は小さく呟く。

 

 ノートには、ここ数日でまとめ直した公式や重要語句がびっしりと書き込まれている。元々、勉強は苦手ではない。むしろ、分析と暗記は得意な方だった。だが今回ばかりは、精神的に授業へ集中できなかった時間が多すぎた。

 

 相澤の声が耳に入っていても、意味を結ばなかった授業。

 

 黒板を見ていたはずなのに、ステインの亡骸ばかりが浮かんだ一時間目。

 

 その穴を埋めるには、いつも以上に手を動かすしかなかった。

 

 ぶつぶつと範囲を確認しながら、出久はページをめくる。

 

 机の端には、ヒーロー分析ノートではなく、試験対策用のまとめノートが積まれていた。いつもなら新しいヒーローの動きを思い出して書き込みたくなる時間だが、今はその余裕もない。

 

 シャープペンシルの芯が紙を擦る音だけが、静かな部屋に続いていた。

 

 ふと、その音が止まる。

 

 出久は解きかけだった数学の問題の途中で、シャープペンシルを持つ手を止めた。

 

 視線は教科書へ落ちたままなのに、書かれている数式はもう頭へ入ってこない。

 

 代わりに脳裏へ浮かんできたのは、昼間の路地裏だった。

 

 薄暗い路地。

 

 制服姿のトガヒミコ。

 

 あの少女は最後まで笑っていた。

 

『人殺しの出久君』

 

 耳の奥で、その声が嫌に鮮明によみがえる。

 

 出久は無意識にシャープペンシルを握り締めた。

 

(……違う)

 

 そう否定しようとした。

 

 だが、その先の言葉が続かない。

 

 ステインは、自分の手で死んだ。

 

 どれだけ正当防衛だったとしても、どれだけ他に選択肢がなかったとしても、その事実だけは変わらない。

 

 だからこそ、あの一言は胸の奥深くへ突き刺さった。

 

 あの後、自分は何と言い返しただろう。

 

 思い返そうとしても、記憶は曖昧だった。

 

 胸が締め付けられ、呼吸が浅くなり、気が付けば踵を返していた。

 

 嬉しそうに呼び止めるトガヒミコの声を、出久は振り返ることなく置き去りにした。

 

 走ったわけではない。

 

 逃げるように飛び去ったわけでもない。

 

 ただ、一刻も早くあの場から離れたかった。

 

 あの言葉を聞き続けていたら、自分の中で何かが壊れてしまう気がしたからだ。

 

 結果として、トガヒミコは追ってこなかった。

 

 ただ路地裏に立ち尽くし、自分の背中を見送っていただけだった。

 

「……」

 

 出久は目を閉じ、小さく息を吐く。

 

 あれでよかったのか、それとも何か言い返すべきだったのか、答えは今も出ない。

 

 考えれば考えるほど、トガヒミコの言葉は胸の奥へ沈み込み、まるで棘のように引っ掛かり続けていた。

 

 机の上では、開きっぱなしの問題集が沈黙している。

 

 数式は何一つ変わっていないのに、さっきまで頭へ入っていたはずの公式が、今は驚くほど思い出せなかった。

 

 静まり返った部屋に、不意に電子音が響いた。

 

 ──ピンポーン。

 

 玄関のインターホンだった。

 

 出久はゆっくりと顔を上げる。

 

(こんな時間に……?)

 

 時計へ目をやると、すでに夕方を回っていた。宅配便にしては遅く、近所の人が訪ねてくる時間でもない。

 

 やがて階下から、ぱたぱたと慌ただしい足音が聞こえてくる。

 

 母親の引子だ。

 

「はい、どちら様ですか?」

 

 玄関の扉越しに聞こえてくる、いつもの穏やかな声。

 

 出久は自然と耳を澄ませた。

 

 訪ねてきた相手が何かを話しているらしいが、ここまでは内容までは聞き取れない。ただ、引子は最初こそ戸惑ったような声を上げていたものの、すぐに普通に会話を始めていた。

 

「えっ? ああ、そうなの?」

 

 少し驚いたような声。

 

「ええ、ええ……今、家にいますけど……」

 

 しばらく玄関先で話し込む声が続く。

 

 誰だろう、と出久は首を傾げた。

 

 クラスメイトが家まで来るような約束はしていない。爆豪が訪ねてくるとも思えないし、麗日や飯田なら事前に連絡を入れてくるはずだ。

 

 そんなことを考えていると、廊下を走る足音が近付いてきた。

 

 コンコンコンッ! 

 

 部屋の扉が勢いよく叩かれる。

 

「出久!」

 

 引子の、どこか弾んだ声だった。

 

「はい!」

 

 慌てて椅子から立ち上がる。

 

 扉越しにも分かるほど興奮した様子で、引子は続けた。

 

「お友達が来てるわよ!」

 

 一拍置いて、声がさらに明るくなる。

 

「女の子!」

 

「……え?」

 

 出久は固まった。

 

 頭の中で、その言葉だけが何度も反響する。

 

「お、おんな……の子?」

 

「そう! すっごく可愛い子よ!」

 

 引子はどこか慌てたように、それでいて嬉しそうに言った。

 

(……嫌な予感がする)

 

 今日一日、頭から離れなかった人物がいる。

 

 あり得るはずがない。

 

 あり得てはいけない。

 

 それでも、その顔が脳裏をよぎった瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。

 

「どうしたの、出久?」

 

 不思議そうな引子の声で我に返る。

 

「……僕が出るよ」

 

 努めて平静を装いながら部屋を出る。

 

 廊下を歩く足取りは自然を装っていたが、心臓だけは嫌になるほど速く脈打っていた。

 

 玄関へ近付くたびに、嫌な予感は確信へ変わっていくようだった。

 

 引子はそんな息子の様子には気付かず、嬉しそうに笑っている。

 

「すごく礼儀正しい子だったわよ。中学校の時のお友達かしら?」

 

「……そう、かも」

 

 自分でも驚くほど乾いた声が漏れた。

 

 玄関の前で立ち止まる。

 

 扉一枚。

 

 その向こうに誰が立っているのか、まだ見えてはいない。

 

 それでも、手がドアノブへ伸びる瞬間には、胸の内でほとんど答えが出ていた。

 

(まさか……)

 

 ゆっくりと鍵を外し、扉を開く。

 

 ガチャリ、と金属音が鳴り、玄関扉が外へ向かって開いていく。

 

 そして。

 

 嫌な予感は、最悪の形で的中した。

 

 制服姿の女子が立っていた。

 

 乱れた金髪を彼岸花のように結び、両手を後ろで組んで、まるで友人の家へ遊びに来たかのような気軽さで微笑んでいた。

 

 目が合う。

 

 少女はぱっと花が咲いたような笑顔になり、大きく手を振った。

 

「こんばんは!」

 

 屈託のない声が住宅街へ響く。

 

「出久君!」

 

 トガヒミコは、何事もなかったかのようににこにこと笑っていた。

 

 出久の表情から、わずかに残っていた驚きが消えた。

 

 代わりに浮かんだのは、抑え切れない苛立ちだった。

 

 昼間は職場体験先。

 

 今度は自宅。

 

 どこまで踏み込んでくるつもりなのか。

 

 玄関の向こうで無邪気に笑う少女を見据えたまま、出久は低い声で問い掛ける。

 

「……家にまで来て、何のつもりなんだ」

 

 トガヒミコはその口調すら嬉しいのか、ぱちぱちと目を瞬かせたあと、満面の笑みで両手を合わせた。

 

「えへへ」

 

 肩を揺らしながら笑う。

 

「尾けて来ちゃいました!」

 

 悪びれる様子はまるでない。

 

 まるで「道を間違えちゃった」とでも言うような軽い調子だった。

 

 出久の眉間に深い皺が寄る。

 

「……尾けた?」

 

「はい!」

 

 トガヒミコは元気よく頷く。

 

「昼間、出久君が帰るところ見てたら、『あ、この道なんだ』って思って。そのまま、てくてくって」

 

 言葉を切ると、得意げに胸を張る。

 

「ちゃんと覚えちゃいました!」

 

 その一言で、出久の背筋に冷たいものが走る。

 

 自宅を知られた。

 

 しかも本人は、それを何の問題もないことのように話している。

 

 出久は反射的に一歩前へ出て、玄関の内側へ視線を向けさせないよう身体をずらした。

 

 背後では引子が不思議そうに二人を見比べている。

 

「出久、お友達なんでしょう?」

 

「……母さん」

 

 出久は視線をトガヒミコから外さないまま、小さく言った。

 

「少しだけ外で話してくる」

 

 引子は事情が分からないまま「遅くならないようにね」とだけ言って家の中へ戻っていった。

 

 玄関の扉が閉まる音を確認すると、出久はトガヒミコへ視線を向ける。

 

「……来て」

 

 短く告げて歩き出す。

 

 トガヒミコは「はーい」と嬉しそうに返事をすると、小走りでその後をついてきた。

 

 住宅街を数分歩く。

 

 夕暮れの空は赤紫色へと染まり始め、公園では子どもたちの姿もほとんどなくなっていた。ブランコが風に揺れ、かすかな軋みを立てている。

 

 出久は人気のないベンチの前で立ち止まった。

 

「ここならいい」

 

 周囲を見回す。

 

 人の気配は少ない。

 

 それでも彼は、五感を強化する個性で公園の外まで注意を巡らせていた。

 

 トガヒミコはそんな警戒など意にも介さず、嬉しそうにベンチへ腰掛ける。

 

「わぁ。公園でお話なんて、デートみたいですね」

 

 出久は反応しない。

 

 少し離れた位置に立ったまま、冷静に彼女を見据えた。

 

「……それで?」

 

 トガヒミコは期待に満ちた笑顔で身を乗り出す。

 

「連合、一緒にやりましょう!」

 

 その顔は昼間と変わらない。

 

 まるで部活動へ勧誘するような明るさだった。

 

 出久は小さく息を吐く。

 

 怒鳴ることも、即座に否定することもできた。

 

 だが、昼間から彼女と話していて、一つだけ気になっていることがあった。

 

 目の前の少女は、善悪の基準が決定的に壊れている。

 

 人を傷つけたことにも、自宅まで尾けてきたことにも、まるで罪悪感がない。

 

 それは演技ではない。

 

 彼女にとって、本当に自然なことなのだ。

 

(……どうして、こんなふうになったんだ)

 

 ヒーロー志望としてではない。

 

 一人の人間として、その価値観の成り立ちに興味が湧いてしまった。

 

 出久は感情を抑え込み、静かに問い掛ける。

 

「君は」

 

 一拍置く。

 

「連合に入って、何がしたいの」

 

 トガヒミコはきょとんと目を瞬かせた。

 

 その質問は予想していなかったらしい。

 

「何がしたい……?」

 

「そう」

 

 出久は頷く。

 

「敵連合にいる目的は何なんだ。何を望んでいる」

 

 トガヒミコはしばらく空を見上げて考え込む。

 

 難しい問題を出された子どものように首を傾げ、それから照れくさそうに笑った。

 

「うーん……」

 

 言葉を探すように指先で頬を掻く。

 

 出久は続けて尋ねた。

 

「それと、もう一つ」

 

 トガヒミコの視線が戻る。

 

「なんで、そこまで僕に拘るの」

 

 昼間だけではない。

 

 職場体験先まで現れ、自宅を尾け、こうして勧誘を続けている。

 

 その執着は、敵連合の勧誘というだけでは説明がつかなかった。

 

「生き辛い世の中を、楽しく生きたいのです」

 

 トガヒミコは、あっけらかんとそう言った。

 

「普通にしてって言われても、私の普通はみんなの普通と違うのです。好きな人みたいになりたい。好きな人の血が欲しい。そう思うだけで、みんな怖がって、怒って、私を変な子だって言うのです」

 

 出久は黙って聞いていた。

 

 トガはブランコの鎖へ指を掛け、軽く揺らす。

 

「だから、連合なら楽しくできるかなって思いました。誰かの普通に合わせなくてもいい場所なら、私も私のままでいられるかなって」

 

「……ステインの思想に共感したわけじゃないの?」

 

「ステ様は好きですよ。でも、英雄回帰とか、本物のヒーローとか、そういう難しい話はあんまり分からないです」

 

 トガヒミコは悪びれずに笑った。

 

「私が動画を見てキュンとしたのは、傷だらけで頑張ってるステ様と出久君だったのです。血だらけで、ボロボロで、それでも止まらなくて。すごく綺麗でした」

 

 夕暮れの公園に、ブランコの軋む音だけが小さく響いた。

 

「だから会いたいなって思いました」

 

 トガは出久を見上げる。

 

「ステ様を殺した出久君。怖くて、優しくて、ぐちゃぐちゃで、でもヒーローになろうとしてる出久君に」

 

 出久の表情が僅かに強張る。

 

 トガヒミコはそれに気づいて、嬉しそうに目を細めた。

 

「私は、出久君と一緒なら楽しく生きられる気がするのです」

 

 出久は、その言葉を聞いてようやく理解した。

 

 これは説得でどうにかなるものではない。

 

 トガヒミコの中にある価値観は、単に社会へ反発しているのではなく、もっと根深い場所で最初からねじれてしまっている。血を欲する個性と、好きなものへ近付きたいという本来の性質。その二つが噛み合ってしまった結果、彼女にとって「好き」と「傷つける」は、ほとんど同じ場所に並んでしまったのだ。

 

 幼い頃、全国民に義務付けられる個性カウンセリング。

 

 個性を持つ子どもが社会に適応するための教育。本人も周囲も傷つかないように、欲求を制御し、危険な衝動を別の形へ置き換えるための制度。

 

 だが、それは結局、社会の側が許容できる形へ人を整えるものでもある。

 

 要は、人格矯正だ。

 

 もちろん必要な制度だ。個性がある以上、放置すれば危険な子どももいる。本人を守るためにも、他人を守るためにも、早い段階で正しい使い方を教えることは間違っていない。

 

 けれど。

 

 目の前の少女を見ていると、その制度にも限界があるのだと嫌でも分かってしまう。

 

 血を飲みたい。

 

 好きな人になりたい。

 

 好きだから傷つけたい。

 

 それを「普通ではない」と否定され続けた子どもが、では何を拠り所に生きればよかったのか。

 

 矯正できなかった歪みを抱えたまま、普通のふりだけを求められ、どこにも居場所を見つけられずに躓いた人間を、いったい誰が救ってあげられるのだろう。

 

 ヒーローか。

 

 カウンセラーか。

 

 家族か。

 

 それとも、もう誰にも無理なのか。

 

 出久は答えを出せないまま、トガヒミコの笑顔を見つめていた。

 

 その笑みは狂っている。

 

 人の血を求め、人を傷つけることを愛情の延長線上に置く。危うく、歪で、放っておけば必ず誰かを傷つける。

 

 けれど、その奥に。

 

 出久は、ほんの一瞬だけ別のものを見た気がした。

 

 世界に何度も拒まれ、普通になれと押し付けられ、それでも普通になれなかった人間の諦め。誰にも分かってもらえないと決めつけながら、それでも誰かに見つけてほしいと願っているような、助けを求める顔。

 

 AFOの言いなりになることも、敵連合などというふざけた組織に所属することも、納得などできない。

 

 人を傷つけていい理由にはならない。

 

 罪が消えるわけでもない。

 

 それでも出久は、考えてしまった。

 

 この少女を救うヒーローになりたい、と。

 

 自分でも馬鹿げていると思う。相手は全国指名手配犯で、自宅まで尾けてきた危険人物だ。通報するべきだし、捕まえるべきだし、距離を置くべきだ。

 

 それなのに、目の前で笑っているトガヒミコを見捨てることが、どうしても正しいことだとは思えなかった。

 

 夕暮れの風が、公園のブランコをゆっくりと揺らした。

 

 鎖の軋む音だけが、二人の間に流れる沈黙を刻んでいる。

 

 出久はトガヒミコを見つめていた。

 

 危険人物。

 

 敵。

 

 全国指名手配犯。

 

 そう切り捨てるだけなら簡単だった。

 

 だが、その笑顔の奥に見えてしまったものを、見なかったことにはできなかった。

 

 誰にも理解されず。

 

 理解されることを諦め。

 

 それでも心のどこかで、誰か一人くらいは自分を見つけてくれないかと願っているような、そんな矛盾した眼差し。

 

(もし、この子がもっと早く誰かに出会えていたら)

 

 そんな仮定には意味がない。

 

 それでも考えずにはいられない。

 

 ヒーローは、人を救う存在だ。

 

 傷ついた人を。

 

 泣いている人を。

 

 助けを求める人を。

 

 では、その「人」が敵だったら。

 

 救いを求めることすら知らないほど壊れてしまった人間だったら。

 

(僕は……)

 

 出久はゆっくりと息を吐いた。

 

 考えるより先に、言葉が唇から零れ落ちる。

 

「……いいよ」

 

 トガヒミコが瞬きをする。

 

 出久自身も、自分が何を言ったのか理解できなかった。

 

 それでも言葉は止まらない。

 

「一緒にしようか」

 

 一拍。

 

 そして、信じられないほど静かな声で続けた。

 

「敵連合」

 

 その瞬間。

 

 トガヒミコの瞳が大きく見開かれた。

 

 笑顔が消えた。

 

 驚きに。

 

 信じられないという感情に。

 

 ほんの一瞬だけ固まる。

 

「……え」

 

 今まで一度も見せなかった表情だった。

 

「ほ、本当に?」

 

 出久は答えない。

 

 胸の鼓動だけが、痛いほど速い。

 

(違う)

 

 頭の中では警鐘が鳴り続けている。

 

 それはヒーローが口にしていい言葉ではない。

 

 母を危険に晒すことにもなる。

 

 雄英を裏切ることにも繋がりかねない。

 

 すべて分かっている。

 

 それでも。

 

 トガヒミコは立ち上がると、子どものように顔を輝かせた。

 

「やったぁ!」

 

 飛び跳ねるように両手を上げる。

 

「やっぱり出久君なら分かってくれるって思ってたのです!」

 

 その笑顔は、先ほどまでの狂気を帯びた笑みとは少し違っていた。

 

 ただ嬉しくて仕方がないという、年相応の少女の笑顔。

 

 出久は、その表情を複雑な思いで見つめる。

 

(……こんな顔も、できるんだ)

 

 そう思った直後、胸の奥に重い痛みが走った。

 

 自分が口にした言葉の重さを、ようやく理解したからだ。

 

 トガヒミコは無邪気に近寄り、嬉しそうに両手を胸の前で握りしめる。

 

「じゃあ、みんなに紹介しなきゃですね! きっとみんな喜びます!」

 

 出久は何も答えられなかった。

 

 ただ、公園を吹き抜ける夕風の中で、自分が踏み出してしまった一歩の重さだけが、静かに胸へとのしかかっていた。

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