雄英高校、職員室。放課後の喧騒が校舎の外へ遠ざかり始めた頃、教師陣はそれぞれの机に資料を広げ、数日後に控えた期末テストについて確認を進めていた。
雄英のヒーロー科における期末テストは、生徒たちにとってただの試験ではない。
学力だけでなく、これまで積み上げてきた基礎能力、判断力、応用力を測る節目でもあり、学科試験と実技試験の両方を通して、生徒たちがどこまで成長したのかを教師側も見極める必要があった。
相澤は眠たげな目をしたまま、A組の学科進行度をまとめた資料へ視線を落としていた。数学、英語、現代文、化学、社会。各教科の進度表には、授業内容、課題提出状況、小テストの平均点、補講対象者の有無まで細かく記載されている。
「A組の学科進行度ですが」
相澤は資料を一枚めくり、淡々と口を開いた。
「大きな遅れはありません。職場体験後に若干集中を欠いた生徒もいましたが、十分取り戻せる範囲です。学科テストについては、例年通りのテスト範囲で問題ないと思います」
その報告に、数人の教師が頷く。プレゼント・マイクは椅子の背もたれに体を預けながら、手元の英語科資料をひらひらと振った。
「英語も同じだな。何人か危ねぇヤツはいるが、範囲を削るほどじゃねぇ。むしろここで甘くすると後がキツいぜ」
「現代文も問題ありません。読解量は多めですが、雄英の基準としては妥当です」
別の教師の言葉に、相澤は無言で頷いた。学科については、それでいい。問題は実技だ。職員室の空気が自然と少しだけ重くなったところで、沈黙を破るように小さく咳払いが響いた。
職員室の中央に座っていた二足歩行のネズミ──根津校長が、湯気の立つティーカップを机へ置く。
「それでは、本題に入ろうか」
穏やかな笑みを浮かべながらも、その瞳には鋭い知性が宿っている。
「今年の期末実技試験だけれど──例年通り、教師との戦闘訓練形式で実施する予定さ」
教師たちは特に驚く様子もなく頷いた。雄英では、生徒同士の模擬戦だけでは測れない部分を評価するため、教師自身が試験官となって立ちはだかることがある。戦闘能力だけでなく、状況判断、連携、撤退の決断まで含めて評価する、雄英ならではの試験だった。
根津は一枚の資料を取り上げる。
「基本的には二人一組。教師一名に対し、生徒二名を割り振る形で進める」
机上の資料を順番に見渡しながら、根津は次々と名前を読み上げていった。
「切島と砂藤はセメントス、轟と八百万はイレイザーヘッド……」
教師たちは自分の担当へ目を通しながら、小さく確認を交わしていく。誰と誰を組ませるか、誰をどの教師へ当てるか。それだけでも試験内容は大きく変わる。
一通り読み終えると、根津は一番下に置かれていた二枚の資料へ視線を落とした。
「さて」
その声音に、職員室の空気がわずかに変わる。教師たちの視線も自然と集まった。
根津が手に取った資料には、二人の名前が並んでいる。緑谷出久と爆豪勝己。雄英入学以来、何かと教師陣の間でも話題に上がり続けてきた二人だった。
一人は入試で常識外れの救助判断を見せ、体育祭でも予測を超える成長を続ける少年。もう一人は圧倒的な戦闘能力を持ちながら、その激しい気性ゆえに周囲との衝突が絶えない少年。実力は疑いようがないからこそ、扱いが難しい。
根津は資料へ軽く目を落とし、口元へ穏やかな笑みを浮かべた。
「この二人については、私が受け持つさ」
一瞬、職員室が静まり返る。その静寂を破るように、乾いた咳が響いた。
「……ゴホッ」
胸の奥から絞り出すような咳だった。
教師たちの視線が自然と一人の男へ集まる。
部屋の隅に座る痩せた男は頬がこけ、スーツが余るほど細い身体をしていた。病人のようにも見えるその男は、口元へハンカチを当てながら苦しそうに呼吸を整えている。
男は咳を落ち着かせると、根津へ視線を向けた。
「校長先生……彼らは、私が受け持つ予定ではありませんでしたか?」
職員室が静まり返り、教師たちは互いに顔を見合わせる。資料上では確かに、緑谷と爆豪の組には当初この男の名前が記されていた。
根津は紅茶を一口含み、穏やかな笑みを浮かべる。
「八木くん。君、また活動時間が短くなっただろう?」
八木は何も答えず、わずかに視線を逸らした。その反応だけで、根津には十分だった。
「この二人は、まだ生徒とはいえ正面戦闘能力に優れている。爆豪君は圧倒的な攻撃力と突破力を持っているし、緑谷君も職場体験を経て目に見えて戦闘能力が伸びてきた。真正面から相手をするとなれば、教師側も相応の余力が必要になる」
相澤も腕を組んだまま口を開く。
「二人ともまだ粗は多いが、火力だけなら一年生の域は超え始めている」
「そういうことさ。今の君で、この子らを相手にするのは少し厳しいんじゃないかい?」
責める口調ではなく、純粋に現実を見据えた判断だった。八木は苦笑を浮かべ、小さく咳き込む。
「……確かに、以前より身体の自由は利かなくなっています」
根津は緑谷出久と爆豪勝己、二人の資料を並べた。
「試験そのものは私が担当する。その代わり君には、試験前後で二人を見てもらいたい」
八木は黙って耳を傾ける。
「彼らは互いを意識しすぎている。競い合うこと自体は悪くないし、むしろ必要だ。けれど今は、それが成長よりも衝突を生み出してしまっている」
職員室の誰も口を挟まなかった。それは教師全員が感じていたことだった。体育祭でも、日々の授業でも、二人は何かにつけてぶつかっていた。
根津は資料を軽く叩く。
「この試験が終わる頃には、少しはその確執も解消されるといいんだけどね」
八木は静かに目を伏せた。
「……分かりました」
短い返事だったが、その声には教師としての責任感と、どこか複雑な感情が静かに滲んでいた。
──学科試験が終わった。
最後のチャイムが鳴った瞬間、それまで張り詰めていた空気が嘘のように弛緩する。
「終わったぁぁぁ!」
上鳴が机へ突っ伏し、大袈裟な声を上げた。
「英語が全然分かんなかった……! 最後の長文とか何なんだよ、あれ!」
「お前は毎回そう言ってるだろ。でも今回は俺も結構ヤバいかもしれねぇな」
切島が苦笑しながら肩を叩くと、八百万も小さく息を吐きながら答案を思い返す。
「数学も難しかったですわ。例年より応用問題が多かった気がします」
「えぇ!? 八百万さんでもそう思うの!? じゃあ私なんか絶対ダメや……」
「お茶子ちゃんは大丈夫ですよ。普段からちゃんと勉強してたもの」
蛙吹が穏やかに微笑む横で、飯田が眼鏡を押し上げる。
「十分に復習を行った成果は出せたと思う!」
「さすが委員長……」
耳郎が呆れたように笑う。教室のあちこちで、試験問題を答え合わせする者、難しかった設問について議論する者がいて、ようやく一つ目の山場を越えた安堵からか、誰の表情にも自然な笑みが浮かんでいた。
出久も自席で小さく息を吐く。
(思ったより解けた……)
ここ数日は勉強へ集中できず不安も大きかったが、最後まで諦めず復習した成果は出せたように思う。隣では轟が静かに教科書を閉じていた。
「どうだった?」
「悪くない。少なくとも赤点はないと思う」
「そっか。僕も、多分大丈夫だと思う」
出久が少しだけ笑う。その少し離れた場所では、爆豪が腕を組んだまま椅子へ深く腰掛けていた。周囲の賑わいなど耳に入っていないのか、苛立ったように舌打ちするだけだった。
「チッ……」
教室全体は久しぶりに穏やかな空気へ包まれていた。しかし、前方の扉が開いた瞬間、その空気は一変する。
ガラリ、という音だけで談笑していた声が次々と止まり、生徒たちの視線が一斉に前方へ向いた。入ってきたのは相澤一人だった。寝袋を肩へ担いだまま教卓の前まで歩くと、眠たげな目で教室全体を見回す。
「……学科が終わったくらいで緩んでんじゃねぇぞ」
低く響く一言で、先ほどまで笑い声に包まれていた教室は一瞬で静まり返った。
「期末試験はまだ終わってない。お前らを評価するのは学科だけじゃねぇ」
誰も口を開かない。上鳴も瀬呂も姿勢を正し、飯田は背筋を伸ばしたまま前を向いている。相澤は教卓へ一枚の資料を置いた。
「これから実技試験について説明する。今回の実技試験は、教師との戦闘訓練だ」
その一言で教室がどよめいた。
「教師と!?」
「マジかよ……!」
「相手が先生ってこと!?」
「静かにしろ」
相澤の一声で、ざわめきはすぐに収まる。
「試験は二人一組。指定された教師を相手に拘束バンドを取り付ける、もしくは制限時間内に脱出することが合格条件だ。勝つことだけが正解じゃない。状況判断、連携、撤退の判断も評価対象になる」
説明を終えると、相澤は資料を一枚めくった。
「それじゃあ組み合わせを発表する」
名前が読み上げられるたび、小さく息を吐く者、隣と顔を見合わせる者、それぞれの反応が広がっていく。そして最後の一枚に視線を落とした相澤は、淡々と読み上げた。
「最後。緑谷、爆豪」
出久が顔を上げた瞬間、教室の空気が一瞬だけ張り詰める。以前の爆豪なら、ここで机を叩いて怒鳴り散らしていても不思議ではなかった。しかし爆豪は、不機嫌そうに鼻を鳴らしただけだった。
「……チッ」
腕を組んだまま前を向き、それ以上は何も言わない。その反応に、切島が小さく目を丸くする。
「お前たちの担当は根津校長だ。胸を借りてこい」
相澤は資料を閉じた。
「以上だ。今から十五分後、各自ヒーローコスチュームへ着替え、指定訓練場へ集合。遅刻は失格だ」
短く告げると、そのまま踵を返す。
「解散」
ガラリ、と扉が閉まった瞬間、静まり返っていた教室が一気に動き出した。
「やべっ、急げ急げ! 十五分しかねぇ!」
「コスチュームケース忘れんなよ!」
切島が砂藤へ声を掛けながら廊下へ飛び出し、周囲でも「担当教師の個性、もう一回整理しようぜ」「先生ごとの戦い方も考えないと」と、慌ただしく会話が飛び交う。飯田は「走るな!」と注意しながらも、自身も足早に更衣室へ向かっていた。
女子更衣室では「スナイプ先生って遠距離戦だよね」「だったら遮蔽物を利用した方が……」と、早くも作戦会議が始まっていた。
男子更衣室でも事情は同じで、「セメントス相手って地形全部利用されるよな」「真正面から行ったら勝ち目ねぇぞ」「まず逃げ道を探した方が──」と、それぞれがコスチュームへ着替えながら相棒と試験内容を話し合っている。
だが、その喧騒の中で、たった一組だけ空気が違っていた。
緑谷出久と爆豪勝己。
二人はほぼ同じタイミングで更衣室へ入った。しかし爆豪は、一度として出久へ視線を向けない。ロッカーを開け、無言で制服を脱ぎ、慣れた手つきでコスチュームへ着替えていく。隣で出久も黙々と装備を身につけていた。
(……何か話すべきか)
一瞬だけそんな考えが頭をよぎる。だが、爆豪の横顔を見るだけで、その考えは消えた。話し掛ける隙がない。怒っているわけでも、睨みつけてくるわけでもない。ただ、最初からそこに自分など存在しないかのように、完全に視界から外されていた。
体育祭までの爆豪なら違った。皮肉を吐き、突っ掛かり、何かしら言葉をぶつけてきたはずだ。だが今は違う。無視。それが今の爆豪の答えだった。
やがて着替えを終えると、爆豪は出久を追い越して更衣室を出ていく。最後まで一度も目を合わせることはなかった。
出久は小さく息を吐き、自分もヘッドギアを装着する。コスチュームケースを閉じる音だけが、更衣室へ乾いた音を響かせた。
訓練場へ向かう廊下でも、他の組は足を止めて作戦を練っていた。誰もが、隣を歩く相棒と言葉を交わしながら歩いている。その中で、出久と爆豪だけはまるで他人だった。
互いに一言も発さず、一定の距離を保ったまま歩き続ける。廊下に響く足音だけが、二人を辛うじて同じ方向へ進ませていた。
指定された訓練場は、試験用に作られた市街地エリアだった。
高層ビル、商店街、立体駐車場、地下通路へ続く階段。実際の街を模した空間には、避難経路を示す標識や壊れやすい障害物まで配置されており、ただ走って逃げるだけでも相応の判断力が求められる構造になっていた。
出久と爆豪は、開始地点に指定された交差点へ並んで立つ。
だが、二人の間に会話はなかった。
他の組なら、担当教師の個性、地形の使い方、勝ちに行くか脱出を優先するか、そういった作戦を話し合っているはずだった。しかし二人の間に流れているのは、作戦会議とは程遠い、重たく気まずい沈黙だけだった。
出久は横目で爆豪を見る。
「……かっ」
呼びかけかけて、口を閉じた。
今さら何を言えばいいのか分からなかった。
昔のように怒鳴られる方が、まだ分かりやすかったかもしれない。だが、今の爆豪は怒鳴らない。突っかかってもこない。ただ視線すら向けず、腕を下ろしたまま前方の市街地を睨んでいる。
その横顔は、苛立っているようにも、何かを押し殺しているようにも見えた。
「……」
爆豪の指先が、微かに動く。
何かを言おうとしたのだと、出久にも分かった。
だが、その言葉が形になるより早く、二人の背後から重い足音が響いた。
「やあ、少年たち!」
聞き慣れた、明るすぎるほど明るい声。
出久と爆豪が振り返ると、そこには圧倒的なオーラを纏う筋骨隆々のオールマイトが立っていた。その肩の上には、根津校長がちょこんと座っている。
根津はいつもの穏やかな笑みを浮かべ、二人を見下ろすように小首を傾げた。
「調子はどうだい、少年たち」
出久は反射的に背筋を伸ばす。
「ね、根津校長……オールマイト……!」
爆豪は小さく舌打ちし、視線だけを向けた。
「……別に」
根津はその短い返答にも気を悪くした様子はなく、むしろ面白そうに目を細めた。
「うん。実に君たちらしい空気だね」
その一言で、出久の肩がわずかに強張る。
試験はまだ始まっていない。
けれど、もう既に見透かされている。
そう感じさせるだけの圧が、根津校長の穏やかな笑みにはあった。
根津は肩の上で姿勢を正し、小さな手をひょいと上げた。
「君らのスタート地点は、この市街地エリアの中央さ。脱出ゲートは街の出口付近に設置してある。配布した拘束バンドを私につけてもいいし、ゲートから脱出しても構わないよ」
出久は反射的に周囲の地形を確認した。中央交差点から東西南北に伸びる道路、左右に並ぶビル群、死角になりそうな路地、脱出ゲートがあるという街の出口。どのルートを使うかで、難易度は大きく変わる。
「それじゃ、10分後には開始するから、開始位置に移動しておくように!」
根津は軽やかにそう告げると、オールマイトの肩からぴょんと飛び降りた。
「ではでは」
小さな足音を立てながら、トテトテと市街地の奥へ走り去っていく。その後ろ姿は愛嬌があるはずなのに、これから自分たちを試験する相手なのだと思うと、出久には不気味なほど底知れなく見えた。
「……行くぞ」
爆豪が低く呟く。
出久に向けた言葉なのか、それともただ自分に言っただけなのか分からないまま、爆豪は開始位置へ向かって歩き出した。出久も遅れないようにその後を追う。
すると、重い足音が二人の横に並んだ。
「いやあ、いよいよだね!」
オールマイトだった。
筋骨隆々の巨体で二人に並走するように歩きながら、いつもの白い笑みを浮かべている。
「作戦はもう決めたかい?」
出久は返答に詰まった。
決めるどころか、一言も話せていない。
爆豪は前だけを見たまま答えない。
そんな二人の様子を見て、オールマイトはわざとらしく声を潜めた。
「校長先生のマル秘情報、教えてあげよっか!?」
爆豪の足がぴたりと止まった。
出久も思わず足を止める。
オールマイトは、何とか場を和ませようとしているのだろう。声は明るく、表情もいつものように快活だったが、それがかえって今の爆豪には癇に障ったらしい。
爆豪はゆっくりと顔だけを向けた。
「……そんな生徒に肩入れして良いのかよ」
吐き捨てるような声だった。
オールマイトの笑顔が、わずかに固まる。
「爆豪少年?」
爆豪はそれ以上聞く気はないと言わんばかりに前を向いた。出久にもオールマイトにも視線を向けず、そのまま無言で開始位置へ歩き出す。
オールマイトは大きな手で頬を掻いた。
「あー……いや、もちろん公平性を損なうようなことを言うつもりはなくてだね……」
「す、すみません!」
出久は慌てて頭を下げると、オールマイトの傍をすり抜けるようにして爆豪を追いかけた。
「かっちゃん、待っ──」
呼びかけかけて、また言葉が止まる。
爆豪の背中は、やはり振り返らなかった。
残されたオールマイトは、二人の背中をしばらく見送っていた。市街地エリアへ向かう道の先で、爆豪と出久の距離は近いようで遠い。並んでいるのに、まるで互いの間に見えない壁があるようだった。
オールマイトは肩を落とし、小さく息を吐く。
「……難しいぜ、思春期」
その呟きは、試験開始前の市街地に吹く風へ紛れて消えていった。