市街地エリアの中央に指定された交差点へ辿り着くと、爆豪は足を止めた。
試験開始までは、まだ数分ある。四方を囲むようにビルが立ち並び、道路は東西南北へまっすぐ伸びていた。遠くには脱出ゲートらしき構造物も見えるが、そこまでの道が安全に保たれているとは思えない。相手は根津校長なのだ。単純に最短距離を走り抜ければ済む試験であるはずがなかった。
出久は周囲へ視線を巡らせながら、頭の中で地形を組み立てる。遮蔽物として利用できる建物、細い路地、屋上へ上がるための足場、地下通路の入口。どの経路を選ぶにしても、せめて最初の動きだけは合わせておく必要がある。
「かっちゃん」
意を決して声を掛けた。
「せめて最初だけでも話し合おう。根津校長が相手なら、真正面から行くより先に地形を確認して──」
爆豪は答えず、前を向いたまま掌を軽く開閉した。爆破に必要な汗の具合を確かめているらしい。
「脱出を優先するなら、左右どちらかの路地へ入って建物を盾にした方がいいと思う。拘束を狙うなら、僕が囮になって──」
「いらねぇ」
低い声が、出久の言葉を途中で断ち切った。
爆豪はようやく顔を向けたものの、その目は出久を見ているようで、実際にはもっと遠い場所を睨んでいるようにも見えた。
「この試験で、テメェの手を借りることなんざねぇ」
「でも、これは二人一組の試験で──」
「黙れ。作戦だの連携だの、知ったことか。テメェはテメェで勝手に動け。俺は俺で突破する」
出久は言葉を失った。予想していなかったわけではないが、ここまで明確に拒絶されると、胸の奥に鈍い痛みが残る。
「……かっちゃん」
「その呼び方もやめろ」
吐き捨てるように告げると、爆豪は再び市街地の奥へ視線を戻した。会話はもう終わったと示すように、出久の存在を自分の世界から切り離してしまう。
交差点へ重い沈黙が落ちた直後、遠くのスピーカーから小さなノイズが走った。
──ブツン。
雑音が途切れ、試験開始を告げるブザーが市街地全体へ鳴り響く。
『期末実技試験、開始』
アナウンスが最後まで流れ切るより早く、爆音が交差点を揺らした。
爆豪の両手から放たれた閃光が弾け、炸裂した爆風がアスファルトを抉る。その反動を推進力へ変えた身体は、弾丸のような勢いで一直線に前方へ射出された。
左右の路地にも、周囲の建物にも目を向けない。目指す先はただ一つ、街の出口に設置された脱出ゲートだった。
「かっちゃん!」
出久は思わず叫び、すぐさま地面を蹴った。このまま一人で突っ込ませるわけにはいかない。根津校長が、これほど単純な突破を許すはずがないことくらい分かっていた。
爆豪との距離を縮めようと全力で走り出した、その瞬間だった。
地面の底から響くような重低音が、市街地を震わせる。
「……え?」
爆発とは異なる音だった。
視界の先では、爆豪の進路上に建つ高層ビルが、ゆっくりと道路側へ傾き始めていた。
「まさか──!」
次の瞬間、巨大なビルが道路を塞ぐように倒壊した。
鉄骨が悲鳴を上げ、コンクリートが砕け、無数の窓ガラスが一斉に弾け飛ぶ。崩れた外壁は雪崩となって道路へ流れ込み、噴き上がった粉塵が市街地を灰色に染めた。
「チッ!」
爆豪は即座に両手を爆ぜさせ、空中で進路を変えようとする。しかし、それすら読まれていたらしい。最初の倒壊に誘発されるように、隣接する建物まで大きく軋み始めた。
出久の顔から血の気が引く。
「連鎖……!」
根津校長は初めから予測していたのだ。爆豪が最短距離を選ぶことも、出久がその後を追うことも。だからこそ、脱出ゲートへ続く一本の道路そのものを罠へ変えていた。
二棟目のビルが大きく傾き、砕けたコンクリート片と鉄骨が空を埋め尽くす。無数の瓦礫が、爆豪と出久へ向かって容赦なく降り注いだ。
「邪魔だァッ!」
爆豪は両腕を突き出し、連続した細かな爆発で降り注ぐ破片を次々と粉砕する。小さな瓦礫ならば、彼の爆破で容易に吹き飛ばせた。
しかし、視界を覆うほど巨大なコンクリート塊が、回転しながら頭上へ迫る。ビルの柱だったらしい鉄筋入りの塊であり、正面から爆破すれば、砕けた破片と爆風に自分まで巻き込まれかねない。
「チッ!」
爆豪は瞬時に右手を真下へ向け、爆風の反動で身体を大きく後方へ跳ばした。巨大な瓦礫が目前を掠め、道路を砕きながら激突する。
空中で体勢を立て直そうとした爆豪だったが、着地点には出久がいた。
「かっちゃん!?」
「どけ、デク!」
互いに回避する時間はなかった。爆豪の勢いをまともに受け、二人の身体が激しく衝突する。体勢を崩したまま道路脇へ弾き飛ばされ、建物と建物に挟まれた狭い路地へ転がり込んだ。
直後、つい先ほどまで二人が立っていた道路へ、巨大な瓦礫が次々と落下した。コンクリートが地面を砕き、鉄骨が槍のように突き刺さり、粉塵が爆発的に舞い上がる。
あと一瞬でも回避が遅れていれば、どちらか一人、あるいは二人とも直撃を受けていただろう。
路地へ転がり込んだ二人は、舞い込んでくる粉塵の中でようやく動きを止めた。先ほどまで脱出ゲートへ一直線に続いていた道路は、ビル数棟分の瓦礫によって完全に断たれている。
出久は咳き込みながら身体を起こし、その光景に息を呑んだ。
「……うそだろ」
アスファルトだった場所には、砕けたコンクリートと捻じ曲がった鉄骨が幾重にも折り重なり、小さな山のような障害物が形成されていた。無理をすれば越えられないこともないだろうが、試験時間を大幅に浪費するのは明らかだった。
「こんなの……試験でやっていい規模じゃないだろ」
教師との戦闘訓練だとは聞いていた。だが、街一区画を崩壊させるような罠など、誰が想像できただろう。
しかも、根津校長本人はまだ姿すら見せていない。事前に組んだ仕掛けと行動予測だけで、二人の進路を完全に封じ込めている。
(これが……根津校長)
正面から戦うべき相手ではない。単純な力や速さではなく、思考そのものが自分たちとは違うのだ。
隣で舌打ちが響いた。
爆豪は身体についた埃を乱暴に払い落とすと、すでに別方向へ伸びる路地を見据えていた。
「なら、別の道だ」
短く吐き捨て、一人で歩き出そうとする。
「待って!」
出久は反射的に腕を伸ばし、その背中へ声をぶつけた。
「一人じゃ無理がある! 今のを見ただろ!? 根津校長は僕たちの進むルートを読んで罠を仕掛けてる。一人で動いたら、何度でも進路を潰されて、そのまま時間切れになるだけだ!」
爆豪の足が僅かに止まる。
「だから、一回だけでもいいから作戦を──」
出久が肩へ手を伸ばした瞬間、頭上から乾いた亀裂音が響いた。
二人は同時に顔を上げる。
狭い路地を挟んで建つ左右のビル。その外壁へ、白い亀裂が蜘蛛の巣のように広がっていく。次々と窓ガラスが弾け飛び、建物全体が不気味に震え始めた。
「まさか、この路地まで──」
言い終えるより早く、地面の下から突き上げるような爆音が轟いた。
路地全体が激しく跳ね上がり、砕けたアスファルトが宙へ舞う。左右のビルの基礎部分から、一定間隔で仕込まれていた爆薬が連鎖的に炸裂していった。
「爆薬!?」
基礎を失った二棟の建物が大きく傾き、巨大な質量となって路地へ覆い被さってくる。
「クソナード、走れや!」
爆豪は怒鳴ると同時に、右手の爆破で自らを前方へ射出した。
出久も反射的に地面を蹴る。背後では外壁が轟音とともに崩れ落ち、つい先ほどまで二人が立っていた場所を押し潰していく。飛散するコンクリート片を身を低くして避け、二人は崩壊する路地を紙一重で抜けた。
広い道路へ飛び出した直後、背後で二棟のビルが完全に倒壊する。噴き上がった土煙が辺りを覆い、路地だった空間は跡形もなく瓦礫に埋まった。
出久は数メートル転がった後に膝をつき、荒く息を吐いた。肺が焼けるように熱く、耳の奥では心臓の鼓動が鳴り続けている。
爆豪も数歩よろめきながら立ち止まり、肩を大きく上下させていた。瓦礫へ巻き込まれずに済んだものの、あと一歩遅ければ生き埋めになっていてもおかしくない。
静寂が戻る。
しかし、静かになったからこそ恐ろしかった。
出久は周囲へ視線を巡らせる。電柱も、マンホールも、街路樹も、信号機も、ビルの壁面も、すべてが次の罠に見えた。いつ地面が爆ぜるのか、いつ頭上から瓦礫が落ちてくるのか分からない。
(次は……どこだ)
冷や汗が頬を伝い、呼吸がなかなか整わない。爆豪もまた、赤い瞳を鋭く動かし、建物の窓や道路の継ぎ目、看板の裏まで疑うように見回していた。
根津校長は姿を見せていない。それでも、この街そのものを操ることで、試験の主導権を完全に握っている。
それにもかかわらず、爆豪は次の通りへ目を向けた。恐怖よりも苛立ちを強く滲ませ、再び一人で進もうとする。
その背中を見た瞬間、出久の中で何かが切れた。
最短ルートを潰され、逃げ込んだ路地まで爆破されても、なお爆豪は自分以外の誰も視界に入れようとしない。このままでは試験に落ちるだけではなく、二人とも根津校長の盤上で一方的に転がされるだけだ。
「待って!」
出久は地面を蹴り、爆豪の前へ回り込んだ。
「どけ」
「どかない」
荒い呼吸を繰り返しながらも、出久はまっすぐ爆豪を見返した。
「いい加減にしてよ!」
怒鳴り声が、瓦礫だらけの市街地へ響く。
「なんで僕らが組まされたと思ってるんだ!? これは単に強い相手を倒せるかを見る試験じゃない。ヒーローは現場で、初対面のプロや相性の悪い相手と即席のチームを組まなきゃいけないことだってある。救助対象を守りながら連携する場面だって、いくらでもあるんだ!」
爆豪は燃えるような目で出久を睨んでいたが、出久は怯まなかった。
「そういう協調性や対応力も、試験では見られているはずだ。根津校長が僕たちを組ませたのは、力任せに突破できるかを見るためじゃない。今の状態でも、僕たちが協力できるかを見てるんだよ!」
その瞬間、爆豪の顔が大きく歪んだ。
「テメェが、それを言うのかよ」
低く押し殺した声とともに、爆豪の手が伸びる。胸元を掴まれ、出久の身体が乱暴に引き寄せられた。
「散々俺のことシカトして、コケにしたテメェが、協調性だの対応力だの偉そうにほざいてんじゃねぇ!」
「違──」
「違わねぇだろうが!」
怒声が崩れた街路へ反響する。
爆豪の表情に浮かんでいたのは、単なる怒りだけではなかった。屈辱や苛立ち、戸惑い、そして出久がこれまで見ようとしてこなかった痛みのようなものが、滲むように混ざっている。
「入学してから、テメェはずっとそうだ。勝手に強くなって、勝手に変わって、勝手に俺の知らねぇ場所へ行きやがった。こっちが何か言う前に、全部分かったような顔しやがる」
胸倉を掴む指へ力がこもる。
「今さら組め、協力しろだ? ふざけんな。テメェは俺を見てねぇくせに、俺にはテメェを見ろって言ってんだよ」
「……かっちゃん」
「その呼び方をやめろっつってんだろ!」
胸元へ触れる掌が熱を帯び、火花が散り始める。いつ爆ぜてもおかしくない距離だった。
「いい加減にしねぇと、テメェからぶっ殺してやるぞ、クソデク」
その言葉を聞いた瞬間、出久の身体が硬直した。
これまでなら、いつもの荒い罵倒として聞き流せたかもしれない。昔から何度も聞いてきた脅し文句にすぎないと、そう考えられただろう。
だが、今の出久には、その言葉だけが異様なほど生々しく響いた。
殺す。
人殺し。
ステインの亡骸。
そして、無邪気に笑うトガヒミコの声。
『人殺しの出久君』
出久の中から、熱が消えた。
怒りが膨れ上がったわけでも、悲しみに耐えられなくなったわけでもない。胸の奥に溜まっていた感情が、糸を切られたように音もなく落ちていく。
爆豪勝己という幼馴染の輪郭すら、目の前で急速に薄れていった。
「……殺すって、なんだよ」
爆豪の眉が僅かに動く。
「あ?」
「君はいつもそうだ。必要以上に強い言葉を使って、威嚇して、相手を黙らせようとする。殺すとか、ぶっ殺すとか、意味も考えずに簡単に口にする」
出久の声には、自分でも驚くほど感情がなかった。
「でもさ」
出久は胸倉を掴んでいる爆豪の手首へ、自分の指を掛けた。
その瞬間、爆豪の顔色が変わる。
見た目だけなら、出久の身体は爆豪よりも華奢に見えた。だが、手首へ食い込む指の力は、鉄の万力を思わせるほど強かった。
「本当に人を殺したことなんてないくせに」
顔を上げた出久の目は、凍り付いたように冷えていた。
「イキるなよ」
鈍い音が響く。
「ぐっ──!」
爆豪の表情が苦痛に歪んだ。手首を圧迫する指の下で骨が軋み、限界へ近付いていく感触が伝わってくる。
それでも、出久は力を緩めなかった。
「て、めぇ……!」
爆豪が空いた手を向け、掌へ火花を散らす。しかし、爆破が起きるより早く、出久は掴んだ腕を捻り上げた。
乾いた、嫌な音がした。
「っ、あああッ!」
爆豪の口から、押し殺しきれない声が漏れる。
出久が手を離すと、爆豪は折れた腕を押さえながら数歩後退した。額には冷や汗が滲み、赤い瞳が怒りと困惑に揺れている。
出久はその場に立ち、自分の手を見下ろした。
説得するつもりだった。協力するために話し合うつもりだった。それなのに、爆豪の言葉へ反応し、明確な意思をもって骨を折った。
トガヒミコの声が、再び脳裏へ浮かぶ。
『人殺しの出久君』
目の前では、爆豪が痛みに顔を歪めている。自分がやった。力加減を誤ったわけでも、事故でもない。
それでも、後悔はすぐには湧いてこなかった。
むしろ胸の奥では、何かを繋ぎ止めていた留め金が外れたような感覚が広がっている。
爆豪との関係を修復することも、教師たちからどう評価されるかも、幼馴染として積み重ねてきた時間も、今の出久にはひどく遠く、薄っぺらいものに思えた。
「……なんか、どうでも良くなっちゃったな」
瓦礫に囲まれた街へ、冷えた声が静かに響いた。
爆豪が折れた腕を押さえたまま、出久を睨み上げる。
「てめぇ……」
「もう好きにしていいよ」
出久は冷たい目で爆豪を見下ろした。
「真っ直ぐゴールへ行きたいなら、そうすればいい。僕は後ろからついていって、君が見落とした罠と、潰れそうな道だけ処理する。それでいいでしょ」
それは協力の提案ではなかった。相棒として肩を並べる言葉でもない。
爆豪が勝手に進むなら、その後ろで必要な処理だけを自分が行う。そこに信頼も情も必要ないという、冷え切った判断だった。
「ふざけんな……」
「ふざけてないよ」
出久は腕を組み、立ち上がる様子を見せない爆豪を無表情に見下ろした。
「早く立って。時間が減ってる」
爆豪は折れた腕を庇うように肩を強張らせ、額から汗を流している。その痛みがどれほど強いものか、出久にも想像はできた。
それでも、口から出た言葉は冷たかった。
「腕が折れたくらい、何でもないでしょ」
爆豪の目が大きく見開かれた。怒りより先に浮かんだのは、純粋な驚きだった。
「僕たちはヒーロー科だ。怪我をしたからって止まれる現場ばかりじゃない。君がいつも言ってることだよ。勝つんでしょ。突破するんでしょ。だったら早く行きなよ」
遠くで、また金属の軋む音がした。根津校長の仕掛けなのか、倒壊した建物の余波なのかは分からない。どちらにせよ、この場へ留まり続けるほど状況は悪くなる。
爆豪は歯を食いしばり、片腕を押さえながら立ち上がった。動作からはいつもの荒々しさが失われていたが、赤い瞳だけは怒りと屈辱に燃え続けている。
「覚えとけよ」
「うん」
出久は淡々と頷いた。
「覚えてるよ。昔から全部」
爆豪が僅かに息を呑む。
出久はそれ以上何も言わなかった。今さら思い出話をするつもりも、過去を責めるつもりもない。ただ、もう見ないふりをする必要はないと思っただけだった。
爆豪は乱暴に舌打ちすると、折れた腕を庇いながら脱出ゲートの方角へ向き直る。片腕が使えない以上、爆破による機動力は確実に落ちる。それでも進むつもりなのだろう。
出久は少し離れた後方へ立ち、爆豪の背中越しに市街地全体を見渡した。
そして、次の罠が動き出す気配を見逃さないよう、五感を静かに研ぎ澄ませた。