根津は、操作盤に並んだ複数の映像を見比べながら、わずかに目を細めた。
捕縛ネットから脱出した二人は、崩落区画から十分に距離を取った場所で足を止めていた。
爆豪が何かを怒鳴り、出久が短く答えている。
屋上に設置された集音器は、先ほどの崩落による雑音を拾い続けており、二人の会話までは鮮明に聞き取れない。それでも、爆豪が激しい剣幕で出久へ詰め寄っていることは分かった。
根津は、爆豪がそのまま出久へ攻撃を仕掛ける可能性も考えた。
だが、予想に反して爆発は起こらなかった。
爆豪は苛立ちを隠そうともせず、何度か鋭い言葉をぶつけた後、荒々しく前を向いた。出久も何かを言い返したようだったが、二人の距離が再び開くことはなかった。
数秒後、二人は同じ方向へ歩き始める。
「ふむ」
根津は小さく鼻を鳴らした。
先頭は、やはり爆豪。
その数歩後ろを、出久が追う。
配置自体は先ほどまでと変わらない。だが、二人の動きには明らかな変化があった。
爆豪は以前より慎重に足を運びながら、それでも先頭を譲ろうとはしない。出久は一定の間隔を保ち、爆豪の足元だけでなく、周囲の建物や路面の継ぎ目へ絶えず視線を巡らせていた。
根津は二人の進行方向を確認し、操作盤へ前足を置いた。
二つの光点が指定範囲へ入る。
起動スイッチを押す。
進路上の路面が左右へ割れ、地下から複数の可動板がせり上がった。同時に、建物の壁面へ偽装されていた射出口から金属製のワイヤーが放たれる。
爆豪は即座に反応した。
右手を地面へ向けて爆発を起こし、跳ね上がった可動板を飛び越える。迫るワイヤーも爆風で逸らした。
回避は速い。
判断も的確だった。
それでも、完全に罠の範囲を抜ける直前で、踏み込みがわずかに鈍る。
爆豪の足首へ一本のワイヤーが絡み付いた。続けて腰へ二本目が巻き付き、身体を壁際へ引き戻す。
まるで、次の仕掛けが作動する位置へ、自ら身体を残したかのようだった。
その直後、出久が動いた。
傾いた可動板を足場にして一気に距離を詰め、掌から形成した短い骨刃でワイヤーを切断する。爆豪の身体が解放されると、二人は数秒で体勢を立て直し、閉じ始めた可動板の隙間から罠の外へ抜けた。
「今のも突破したか」
根津は小さく呟いた。
罠を受けたのは爆豪。
救出したのは出久。
先ほどの捕縛ネットと同じ構図だった。
もっとも、それだけなら不自然ではない。爆豪が先頭を進み、出久が後方を警戒する役割分担を続ける限り、最初に罠を受けるのは必然的に爆豪となる。
偶然が続いているだけかもしれない。
根津はそう判断し、次の区画へ操作を移した。
二人は閉ざされた通路を迂回し、半壊した商業施設の脇へ入った。
根津は二人が中ほどまで進んだところで、別の仕掛けを起動させる。
路面が大きく傾き、二人を中央の窪地へ滑り落とそうとする。爆豪は反射的に爆発を起こして空中へ逃れたが、その移動先へ壁面から粘着性の樹脂弾が射出された。
一発目をかわし、二発目を爆風で弾く。
しかし、三発目が右肩へ付着した。
樹脂から伸びた索が収縮し、爆豪の身体を壁へ引き寄せる。
爆豪は、その位置にも罠があることを理解していたはずだった。
それでも、回避の勢いを緩めなかった。
読み切れずに捕まったというより、発動することを承知で踏み込んだように見える。
出久が傾いた路面を駆け上がった。
樹脂の接着面へ骨刃を突き入れて爆豪を解放し、その背中を押して残された足場へ跳ばす。爆豪は空中で体勢を整え、右手の爆発で着地点を修正した。
出久もすぐに続く。
二人が罠の範囲を抜けると同時に、傾いていた路面が元の位置へ戻った。
「まただね」
根津は双眼鏡を下ろした。
二度目となれば、偶然では片付けにくい。
爆豪の最初の回避は、今回も正確だった。罠が一段目で終わらないことも理解している。それなのに、二段目を発動させる位置へあえて身体を残している。
根津は直前の映像を巻き戻した。
爆豪が罠へ踏み込む寸前、ほんの一瞬だけ足を止めている。
視線は前方ではない。
後方にいる出久の位置を確認していた。
そして、出久が救助へ入れる距離にいることを確かめた後で踏み込んでいる。
「……まさか」
根津の耳がわずかに立った。
爆豪は、罠があると分かった上で自ら掛かっているのではないか。
だとすれば、目的は何か。
罠を一つずつ消費させるためか。
発動条件を調べるためか。
あるいは、根津の操作そのものに何らかの規則を見いだそうとしているのか。
立体地図へ視線を落とすと、二人が通過した経路には、起動済みを示す赤い印が増えていた。
爆豪はそのすべてを最初に受け、出久は直後に救助へ入っている。そのたびに二人は数秒だけ言葉を交わし、別の経路へ進んでいた。
長い相談はない。
だが、短い言葉だけで次の行動が決まっている。
二人の間では、既に何らかの手順が共有されているのだろう。
「爆豪君が、あえて罠に掛かり続けている?」
根津は口元へ前足を当てた。
合理的とは言い難い。
爆豪の左腕は折れている。
右腕だけで爆破を繰り返し、罠の大半を一身に受けているため、消耗も激しかった。監視映像の中では肩が大きく上下し、右手の指先もわずかに震えている。
それでも先頭を譲ろうとはしない。
出久も交代を申し出ている様子はなく、爆豪が罠を踏むことを前提として、その救助と観察へ集中していた。
単に脱出を目指すだけなら、消耗した爆豪を後ろへ下げ、出久が先行した方がいい。罠の傾向が分かり始めているなら、なおさらである。
それでも役割を変えない。
爆豪が罠を起動させること自体に、何か意味がある。
そう考えるべきだった。
根津は集音器の音量を上げた。
だが、二人は既に次の区画へ移動しており、風と崩落音に遮られて会話を拾うことはできない。
根津は思考を巡らせた。
爆豪の爆発は、振動、熱、音、光、圧力を同時に発生させる。罠の感知方式や反応を確かめるには都合がいい。
出久は爆豪が罠へ掛かるたび、周囲の装置だけでなく、発動までの時間や連動する仕掛けを観察していた。
爆豪が身をもって問いを投げ掛け、出久が答えを集めている。
そのようにも見える。
「いや」
根津は小さく首を振った。
まだ仮説に過ぎない。
爆豪は疲労によって回避が遅れているだけかもしれず、出久の救出も、後方にいる以上は当然の対応といえる。
疑念に引かれて操作を鈍らせれば、それこそ二人へ余計な情報を与えることになる。
「確かめればいいだけのことさ」
根津は立体地図を切り替え、次の罠を起動させた。
操作盤の内部で回路が切り替わる。
その瞬間、双眼鏡の中で出久が顔を上げた。
こちらを──根津のいる屋上を、真っ直ぐに見上げる。
視線が合った。
「……っ」
根津の背筋を、冷たいものが駆け抜ける。
同時に、二人のいる広場では地面から隔壁がせり上がり、爆豪の足場を分断した。建物の上部から捕縛ネットが落下し、退路を狭める。
爆豪は舌打ちしながら右手の爆発で強引に抜け、出久もすぐに追い付いた。
二人はほとんど足を止めず、そのまま次の通路へ走り去る。
だが、根津は双眼鏡を握り締めたまま、すぐには動けなかった。
今のは偶然ではない。
罠を起動した、その瞬間に。
出久は確かに根津を見ていた。
遥か遠くから、双眼鏡のレンズ越しに視線を重ねてきた。
その目には怒りも、焦りもなかった。
ただ、底の見えない闇のような暗さだけがあった。
根津が自分たちを観察しているのではなく、出久の方がずっと以前から根津を見ていたのではないか。そう錯覚させるほどの、静かで冷たい視線だった。
操作盤の上で、根津の前足がわずかに震える。
どうやって自分の位置を知ったのか。
罠の作動から何かを読み取ったのか。
偶然、屋上を見上げただけなのか。
どの仮説を当てはめても、双眼鏡越しに完全に視線が合った事実を説明できない。
根津の個性をもってしても、答えへ辿り着くことはできなかった。
──
広場を抜けた爆豪は、そのまま前方へ走り続けようとした。
しかし、後方にいた出久が不意に足を止める。
「もういいよ」
集音器が、その声を拾った。
大声ではない。
それでも爆豪は即座に反応し、数歩先で停止した。荒い呼吸を繰り返しながら振り返り、苛立たしげに何かを怒鳴る。
出久は短く答え、片手で後方を指した。
脱出ゲートとは異なる方角。
根津のいるビルへ続く北西方向だった。
「……何を?」
根津は双眼鏡の倍率を上げた。
二人の口元までは見える。しかし、崩落音と風に遮られ、会話の内容までは聞き取れない。
出久が何かを告げる。
爆豪は露骨に顔を歪め、残った右手を振り上げた。反論しているらしい。
出久は退かなかった。
もう一度、根津のいる方角を示し、その後で試験場に設置された残り時間の表示板を見上げる。
爆豪もつられるように視線を上げた。
残り時間は、四分を切っている。
二人の現在地から脱出ゲートまで、最短でも複数の区画を抜けなければならない。途中には未起動の罠が残り、既に崩落した道路を迂回する必要もある。
爆豪の消耗まで考慮すれば、間に合う可能性は極めて低い。
根津自身、既にそう判断していた。
出久が指を二本立て、そのうち一本を折り曲げる。
二つある選択肢のうち、一つを捨てる。
そのような合図に見えた。
爆豪が低く何かを返す。
出久は一度だけ頷いた。
二人の間で交わされた言葉は、ほんの二つか三つ。それだけで話は終わったらしい。
爆豪は荒い息を吐き、右手で額の汗を拭った。
そして、脱出ゲートへ背を向ける。
「……え?」
根津の口から、思わず声が漏れた。
二人が同時に動き出した。
先頭は爆豪。
その直後を出久が追う。
今度は路地や交差点を比較せず、周囲の仕掛けを探って速度を落とすこともない。
一直線に、根津のいるビルへ向かっている。
爆豪は残った力を絞り出すように右手で爆発を起こし、身体を前方へ射出した。出久は脚部へ個性を集中させ、壁面や瓦礫を足場にその後を追う。
進行方向に建物があっても、迂回しない。
爆豪が爆破で外壁を崩し、出久が開いた隙間を押し広げる。
道路が瓦礫で塞がれていても、別の道を探さない。
出久が瓦礫の上へ駆け上がって経路を作り、爆豪が爆発の反動で一気に飛び越える。
それまでの慎重な前進が嘘のようだった。
「こちらへ来ている……?」
根津は立体地図を確認した。
二人の光点が北西へ向かって急速に移動している。
間違いない。
脱出ゲートではなく、根津のいる監視地点へ最短距離で接近していた。
先ほどの視線。
出久は偶然こちらを見上げたのではない。
この屋上に根津がいることを、正確に把握している。
「居場所を見破られた……」
だが、どうやって。
屋上は試験区域を広く見渡せる位置にあるが、生徒側から発見されにくいよう偽装されている。操作盤や観測機器には遮光処理が施され、レンズの反射によって位置を悟られないよう対策されていた。
監視カメラは市街地全域に点在し、罠も自動制御と手動制御を混在させている。起動地点から操作者の位置を逆算することはできない。
集音器から音が漏れることもなければ、カメラの向きが根津の視線と連動しているわけでもない。
いくつもの可能性が浮かび、そのすべてが否定されていく。
答えは出なかった。
根津の個性をもってしても、出久が自分の居場所へ辿り着いた過程を再現できない。
「しかし、なぜ私のところへ……」
位置を見破ったとしても、接近する理由が分からない。
抗議するためか。
罠の操作を止めるためか。
操作盤そのものを破壊するつもりなのか。
どれも試験の合格には直結しない。
制限時間内に二人揃って脱出ゲートへ到達する。
それが、この試験における目的──。
そこまで考えたところで、根津の思考が止まった。
「いや」
試験開始前に伝えた条件を、正確に思い返す。
合格条件は一つではない。
制限時間内に、二人揃って脱出ゲートへ到達すること。
あるいは、試験官を捕獲すること。
根津のつぶらな瞳が大きく開かれた。
「そうか」
二人はゴールを諦めたのではない。
合格条件を切り替えたのだ。
残り時間で脱出ゲートへ到達するのが難しいなら、もう一つの条件を満たせばいい。
試験官である根津を捕獲する。
そのために、爆豪は負傷した身体で罠を踏み続け、出久はその反応を観察していた。
だが、そこからどのような過程を経て、この屋上を割り出したのかまでは分からない。
罠を踏ませ続けた行為と、根津の位置を特定した事実の間には、依然として説明のできない空白が残っている。
「してやられたね」
その言葉とは裏腹に、根津の表情から笑みは消えていた。
気付くのが遅すぎた。
二人は既に、監視地点へ向けて加速している。
残り時間は三分余り。
脱出ゲートへ向かうには短すぎるが、現在地から根津のいるビルまでなら、二人の機動力をもってすれば到達可能な距離だった。
しかも彼らは、これまで根津が起動させた罠によって変化した地形を利用している。
倒れた建物を坂として駆け上がり、せり上がった隔壁を足場に跳び、爆破で生じた壁の穴を通り抜ける。
根津が足止めのために作り変えた市街地が、今では二人を監視地点へ導く経路となっていた。
爆豪が右手を後方へ向ける。
爆発。
その身体が大きく前へ跳ぶ。
出久は着地点へ先回りし、飛び込んできた爆豪の制服を掴んで横へ引いた。瓦礫のない場所へ着地させると、爆豪は左腕を庇いながらも、すぐに次の爆発を起こす。
著しく消耗している。
それでも速度は落ちなかった。
二人の間に、もう会話は必要ないようだった。
「まずいね」
根津は操作盤へ前足を走らせ、監視棟周辺の防衛設備を起動した。
各所に仕掛けられた罠が、次々と作動する。
だが──
「完全に裏目へ出たね」
根津は苦々しく呟いた。
この周辺の罠は、市街地内部よりも少ない。
試験官の潜伏地点だけ防備を過密にすれば、罠の配置の偏りから位置を推測される恐れがある。そのため、監視棟周辺の設備は意図的に最低限へ抑えていた。
見つからないことこそが、最大の防御だった。
その前提が崩れた今、わずかな罠では二人を止められない。
遮断壁が進路を塞ぐ。
爆豪の爆発で生じた衝撃により壁が傾き、出久はその表面を駆け上がった。頂点から差し出された手を爆豪が掴み、二人はほとんど速度を落とさず向こう側へ抜ける。
圧縮空気が正面から放たれる。
出久が蹴りによる衝撃波をぶつけ、威力を相殺した。
玄関の強化扉が閉じる。
出久が歪ませた扉の隙間へ爆豪が右手を差し込み、爆発で蝶番を吹き飛ばす。
遮断も、押し戻しも、分断も、すべてが数秒の遅延にしかならなかった。
二人は瞬く間に建物内部へ侵入した。
根津は監視映像を切り替える。
正面玄関、一階廊下、非常階段。各所の映像が操作盤へ並んだ。
爆豪と出久は正面の階段を選ばず、吹き抜けへ向かっている。
「階段を使わず、吹き抜けを上がる気かい?」
出久が手すりを飛び越えた。
壁面と手すりを交互に蹴り、階層を一気に上がっていく。
爆豪も右手の爆破で後を追った。
片腕しか使えず軌道は不安定だったが、出久が先回りして制服を掴み、壁への激突を避けるよう進路を修正する。爆豪も引かれる力に合わせて爆破の角度を変え、二人はほとんど速度を落とさず上層階へ到達していった。
根津は階段の可動床を起動させかけ、前足を止めた。
二人は階段を使っていない。
防火扉も、通路の隔壁も意味をなさない。
ならば、吹き抜け上部の防煙シャッターを閉じる。
根津が命令を入力すると、天井から分厚い金属板が降下を始めた。
出久が上を見る。
爆豪へ何かを叫ぶ。
爆豪は右手を真下へ向け、残された力を絞り出すように爆発を放った。
爆発だけでシャッターを破るつもりではない。
反動を加速へ変え、右肩から金属板のレール部分へ激突する。爆風と体重を同時に叩き込まれたシャッターが大きく傾き、その降下が一瞬だけ止まった。
爆豪の身体は反動で弾かれたが、出久が空中で受け止める。そのまま壁面を蹴り、残された隙間から二人揃って上階へ滑り込んだ。
直後にシャッターが閉じ切る。
だが、既に二人は向こう側だった。
「もう最上階か……」
侵入から、まだ一分も経っていない。
根津は屋上へ続く扉の施錠を確認した。
電子錠と機械錠に加え、内側からは補助かんぬきまで掛かっている。三重の施錠はいずれも正常だった。
この扉を破るには相応の時間が掛かる。
残り時間は二分を切っていた。
扉の前で足止めできれば、まだ間に合う。
根津は屋上入口を映す監視カメラへ切り替えた。
誰もいない。
「……?」
最上階の廊下にも、二人の姿はなかった。
吹き抜けの映像を戻す。
そこにもいない。
位置センサーの表示は乱れ、二つの光点が最上階付近で重なっていた。建物内部の振動と爆発によって、階層の判別ができなくなっているらしい。
「どこへ──」
窓から外壁へ出たのか。
設備用の配管を利用したのか。
壁そのものを破壊したのか。
根津は建物の構造図を呼び出し、考え得る経路を次々と検討した。
だが、どれも残り時間と二人の位置に合わない。
ほんの一瞬だけ、監視映像から双眼鏡へ視線を移し、建物の外縁を確認する。
何も見えない。
根津はすぐに操作盤へ目を戻した。
その時、背後から微かな音がした。
硬いものが屋上の床へ触れる音。
続いて、荒く途切れた呼吸。
根津の耳が立つ。
振り返るより先に、背中へ二人分の気配を感じた。
あり得ない。
屋上へ続く扉は開いていない。
既知の経路を使った痕跡もない。
それなのに。
根津はゆっくりと振り返った。
屋上の縁に、緑谷出久が立っていた。
制服の各所は裂け、掌からは血が滲んでいる。呼吸には多少の乱れがあるものの、両脚はしっかりと床を捉え、その暗い視線は真っ直ぐ根津へ向けられていた。
その隣には、爆豪勝己。
左腕を胸元へ抱え込むように庇い、上半身をわずかに前へ折っている。
「はっ……はっ……」
一息ごとに肩が大きく上下し、額から流れた汗が顎を伝って屋上へ落ちる。右腕も限界に近いのか、掌を開こうとするたびに指先が小刻みに震えていた。
立っていることさえ容易ではないはずだ。
それでも爆豪の目から戦意は消えていない。
根津を睨み付けたまま、腰元から試験開始時に支給された拘束バンドを取り出した。
試験官へ装着した時点で、捕獲成立と見なされる装置である。
残り時間は、一分十五秒。
根津と二人の距離は、十メートルにも満たない。
「どうやって、ここまで……」
根津の問いに、出久は答えなかった。
その沈黙が、どのような説明よりも不気味だった。
爆豪も返事をする余力がないのか、荒い呼吸を繰り返している。それでも拘束バンドを構えたまま、右足を引きずるように一歩ずつ距離を詰めてきた。
出久はその後ろへ控え、根津の逃走経路と操作盤までの距離、屋上の出入口、隣接する建物との間隔を静かに確認している。
先ほど遠方から重なった暗い視線が、今度は数歩先から根津へ向けられていた。
根津は反射的に一歩下がった。
踵が操作盤の台座へ当たる。
右へ逃げれば屋上の出入口だが、出久に先回りされる。左は建物の縁であり、正面には拘束バンドを構えた爆豪がいる。
爆豪だけなら、まだ逃げられるかもしれない。
だが、その後方にいる出久を含めれば話は違う。
根津の頭には、逃走と足止めのための複数の手段が即座に浮かんだ。
扉を解錠して階段へ逃げ込む。
操作盤に残された装置を起動する。
爆豪を罠へ誘導し、出久が救助する間に距離を取る。
しかし、どの選択肢にも出久が先回りする未来が続いた。
右へ動けば進路を塞がれ、左へ動けば屋上の縁へ追い詰められる。操作盤へ前足を伸ばせば、その前に爆豪の拘束バンドが届く。
残された手段のどれを選んでも、捕獲までの時間が数秒延びるだけだった。
根津は操作盤へ伸ばしかけた前足を下ろした。
「……参ったね」
爆豪が足を止め、警戒するように目を細めた。
「逃げねぇのか」
掠れた声だった。
根津は小さく肩をすくめる。
「逃げ切れる可能性が残っているなら、試しただろうね」
爆豪は拘束バンドを下ろさない。
根津の言葉を信用せず、罠の可能性を疑っているのだろう。
「だが、今の君たちを相手にしては、何を選んでも結果は変わらない。無意味な抵抗で負傷を増やす必要もないさ」
残り時間を告げる電子音の間隔が短くなっていく。
根津は両前足を身体の横へ広げた。
「抵抗しないよ。さあ、付けたまえ」
「……後から無効とか抜かすんじゃねぇぞ」
「試験規則に従って判定するさ」
爆豪はなおも疑い深く根津を睨んでいたが、最後の数歩を一気に詰めた。
拘束バンドが、根津の前足へ触れる。
輪が閉じ、小さな電子音とともに接続部の表示が赤から緑へ変わった。
次の瞬間、子供向け番組の効果音じみた、場違いなほど陽気なファンファーレが屋上へ鳴り響いた。
直前まで続いていた爆発音や崩落音との落差に、根津ですら一瞬反応を忘れる。
続いて、市街地全域のスピーカーから機械的な放送が流れた。
『試験官の捕獲を確認しました』
一拍置き、明るい音声が続く。
『緑谷出久、爆豪勝己──実技試験、合格です』