試験終了から、まだ一時間も経っていなかった。
緑谷出久は校長室の中央に置かれた応接用のソファへ腰を下ろし、向かい側で紅茶を淹れている根津校長の姿を眺めていた。
室内には、湯の沸く微かな音と、陶器の触れ合う澄んだ響きだけが流れている。
爆豪は既にリカバリーガールのもとへ運ばれていた。
左腕の骨折に加え、全身の打撲、右腕の筋疲労、度重なる爆破による掌への負荷。意識ははっきりしていたものの、自力で医務室まで歩ける状態ではなく、最後まで担架を拒もうとして救護班へ怒鳴り散らしていた。
出久も医務室で簡単な処置を受けていた。
骨槍を生成した右手には包帯が巻かれ、制服の下には複数の湿布が貼られている。脚部にも細かな損傷が蓄積していたが、歩行に支障が出るほどではなかった。
治療を終えて教室へ戻ろうとしたところで、根津から校長室へ来るよう告げられた。
理由は説明されていない。
「もう少しで蒸らし終わるさ」
根津は小さなティーポットへ蓋を置き、卓上の時計を確認した。
「はい」
出久は短く答えた。
根津の前足は小さく、白い毛に覆われ、人間の手とは大きく形が異なっている。それでも動作に不自由さはなく、ティースプーンで茶葉の量を測り、温めておいたポットへ移す手つきは驚くほど滑らかだった。
細い注ぎ口から流れた湯が、飛沫を上げることなくポットへ収まっていく。蓋を閉じて蒸らす時間を測りながら、今度は二つのカップへ少量の湯を注いで温める。
どの動作にも迷いがない。
出久は無意識に、その小さな前足を目で追っていた。
根津校長の個性は『ハイスペック』。
人間を遥かに上回る知性を与える個性だと知られている。
今日の試験で市街地全域へ張り巡らされていた罠も、その知能によって組み上げられたものだった。地形、装置の配置、爆豪の行動傾向、出久の反応。そのすべてを計算へ組み込み、二人の選択肢そのものを狭めていく。
目の前で紅茶を淹れている穏やかな姿からは、先ほどまで市街地全体を操っていた試験官の面影を感じにくい。
だが、この時間さえ出久を落ち着かせ、その姿勢や呼吸、視線の動きを観察するために設けられたものなのだろう。
そう考える方が自然だった。
「砂糖とミルクはどうする?」
「そのままで大丈夫です」
「そうかい」
蒸らし終えた紅茶が、茶こしを通してカップへ注がれる。琥珀色の液体が白い陶器を満たすと、柔らかな香りが校長室へ広がった。
根津は一つを出久の前へ置き、もう一つを自分の席へ運ぶ。
「熱いから気を付けて。自慢の紅茶さ」
「ありがとうございます」
出久は包帯の巻かれた右手を避け、左手でカップを持った。掌へ伝わる熱を確かめながら、すぐには口を付けず、立ち上る湯気を見つめる。
正面の椅子へ根津が腰を下ろした。
それでも、すぐには話を始めない。両前足でカップを包み、香りを確かめるように鼻先へ近付けている。
出久は沈黙の中で、自分が呼び出された理由を考えた。
試験中、爆豪の左腕を折ったこと。
彼を先行させ、危険を承知で何度も罠へ踏み込ませたこと。
申告していない『電波』を使い、根津の位置を突き止めたこと。
問い質される理由はいくつもあった。
試験の講評だけなら、爆豪と揃って受ける方が自然だ。自分だけが呼ばれたということは、別の目的がある。
根津が紅茶を一口飲み、カップを受け皿へ戻した。
「紅茶は嫌いではなかったかな?」
「いえ、好きです」
「それならよかった」
柔らかな声だった。
出久も紅茶を一口含んだ。わずかな渋みの後に、穏やかな香りが広がる。
丁寧に淹れられている。
だが、感想を口にするより先に、出久はカップを戻した。
「校長先生」
「何だい?」
「僕が呼ばれた理由を、聞いてもいいですか」
根津はすぐには答えず、湯気の向こうから出久を見つめた。
教師が生徒を観察する目。
同時に、まだ答えの出ていない問題を前にした研究者のような目だった。
「もちろん」
根津はカップを受け皿へ置いた。
「まずは試験終了、お疲れさま。改めて合格おめでとう、緑谷君」
「ありがとうございます」
出久は反射的に背筋を伸ばし、頭を下げた。
「最後の判断は見事だったよ。残り時間と現在地を見て、脱出ゲートではなく試験官の捕獲へ目標を切り替えた。もう一つの合格条件を思い出し、実行へ移せたことは評価に値する」
根津は穏やかに笑う。
「爆豪君とも途中から役割を分担し、互いの動きを補うことができていた。試験開始直後の状態を考えれば、大きな進歩だろうね」
「……はい」
「ただし」
根津はカップの縁へ前足を添えたまま、少し首を傾げた。
「爆豪君とは、随分派手な喧嘩をしたようだね。大丈夫だったかい?」
出久の左手が、カップの取っ手を握ったまま止まった。
「……大丈夫です」
何が大丈夫なのか、自分でも曖昧な返事だった。
根津はその点を追及しなかった。
「そうかい」
紅茶を一口飲み、何気ない調子で続ける。
「今回の試験で君の減点箇所を挙げるとすれば、当然、相棒である爆豪君への暴行だ。まあ、それは爆豪君にも言えることだけれどね」
「……はい」
「試験中に相棒を攻撃し、負傷させるのは、どちらが先であれ褒められたことではない。今回は二人とも続行でき、最後には合格条件を満たした。だが、結果が良かったからといって、途中の行動まで正しかったことにはならないよ」
出久は膝の上で両手を重ね、頷いた。
「分かっています」
「うん。なら、この話はここまでにしておこう」
根津はあっさりと説教を切り上げた。
出久はわずかに顔を上げる。
爆豪を罠へ踏み込ませ続けた判断についても説明を求められると考えていたが、根津はそれ以上追及しなかった。
「説教は長くなるほど効果が薄れることもあるさ」
根津は軽い調子で付け加えた。
「君も治療を受けたばかりだ。紅茶が冷める前に、もう少し興味深い話へ移ろうじゃないか」
出久の指先にわずかな緊張が走る。
「私の居場所を探り当てたのは、どうやったのかな?」
予想していた質問だった。
それでも、実際に尋ねられると身体の奥が強張った。
根津は両前足を組み、椅子の背もたれへ身体を預ける。
「自慢じゃないが、かなりうまく誤魔化して隠れていたつもりだったのさ。監視地点の周辺だけ防備を固めれば、罠の配置に偏りが生まれる。だから、あのビルの周囲には最低限の設備しか置かなかった」
根津は穏やかな笑みを浮かべていた。
だが、その瞳は出久の反応を見逃すまいと真っ直ぐ向けられている。
「操作盤は外から見えないよう処理し、双眼鏡の反射も抑えていた。監視カメラも市街地全域に固定式のものを配置し、罠には自動制御と手動制御を混在させていた。普通に考えれば、操作者の位置まで絞り込める手掛かりは残していなかったはずさ」
「罠が発動するタイミングから考えました」
出久は用意していた答えを口にした。
「タイミング?」
「はい。全部の罠が自動で動いていたわけではありません。僕たちの動きに合わせて、途中から起動する装置が変わっていました」
「そこまでは正解だ」
「だから、かっちゃんに何度か罠を発動させてもらいました。場所や進行方向を変えながら、罠が動くまでの間隔と配置を見て、監視しやすそうな場所をいくつか絞ったんです」
根津の耳が小さく動く。
「それで、あのビルに当たりを付けた?」
「はい。屋上にいるかどうかは、賭けでした。校長先生は僕たちの動きをかなり細かく見ていたので、視界の広い高所にいる可能性が高いと思ったんです」
「だから、迷いなくこちらを見上げた」
「結果的には、そうなりました」
出久は根津から視線を逸らさなかった。
今の説明に完全な嘘はない。
罠の配置も発動のタイミングも観察していた。監視に適した高所を候補として考えたことも事実だった。
だが、それだけで根津の位置を一点まで特定したわけではない。
実際には『電波』で罠の操作信号を追っただけだった。爆豪が異なる地点で何度も罠を踏むたびに発信源を絞り込み、最後の作動時には根津のいる屋上をほぼ正確に特定していた。
その事実を話せば、申告していない複数個性の存在へつながる。
根津を相手に余計な情報を渡すわけにはいかなかった。
「罠の配置と発動時間から仮説を立て、最後は賭けに出たわけか」
「はい。当たったのは、ほとんど偶然です」
「偶然、ね」
根津は小さく繰り返した。
その表情から、納得と疑念のどちらが強いのかは読み取れない。
出久はそれ以上説明しなかった。言葉を重ねるほど、綻びが生まれる。
しばらくの沈黙の後、根津はカップへ前足を伸ばした。
「まあ、いいさ。まだ気になる点は残るけれど、ひとまずは今の答えを受け取っておこう」
「ありがとうございます」
「感謝されることではないよ。私が興味を持っているだけだからね」
根津は軽く笑った。
しかし、追及を諦めたわけではない。
今は保留しただけだ。
出久にはそう感じられた。
「では、少し話を変えようか」
根津は机の端に置かれていた薄い資料を引き寄せた。
表紙に記された地名を認識した瞬間、出久の胸の内側がわずかに強張る。
保須市。
「飯田君から、保須で起きたことについて報告を受けている」
「……飯田君から?」
「うん。彼が兄を襲ったヒーロー殺しを追い、独断で行動したこと。そして、その現場へ君が助けに入ったこともね」
出久は努めて表情を変えなかった。
暗い路地。
血の臭い。
刃物が擦れる音。
ヒーロー殺しが口にした言葉。
記憶の中に残る光景を、意識の底へ押し込める。
「飯田君の証言では、君はヒーロー殺しと直接交戦したそうだ。無免許での個性使用については別途確認が必要だが、今はその話を脇へ置こう」
「はい」
「戦闘の途中で、飯田君は君たち二人を見失っている。その後の経緯は彼にも分からない。そして君からは、ヒーロー殺しと接触したという報告が提出されていない」
「……すみません」
「先に謝らせたいわけではないよ」
根津は柔らかく言った。
「ただ、心配しているんだ。怪我はなかったかい?」
「ありませんでした」
「本当に?」
「はい」
出久は間を置かずに答えた。
「相手は多くのプロヒーローを襲撃してきた危険人物だ。結果的に無事だったとしても、接触したこと自体が大きな問題なんだよ。警察や学校への報告が難しかったとしても、せめてミルコには話しておかなければならない。彼女は君の職場体験先の責任者だからね」
「……はい」
「怒っているわけではないさ。飯田君の事情を考えて口を閉ざしたのかもしれないし、君自身も混乱していたのだろう。ただ、周囲が何も知らなければ、何かあった時に対応できない」
出久は膝の上で両手を重ねた。
ここで沈黙を長引かせるべきではない。
「ヒーロー殺しは、すぐに退きました」
根津の瞳がわずかに細くなる。
「すぐに?」
「僕が通報したって言ったんです。もう警察とプロヒーローが向かっているって」
「実際には?」
「通報していませんでした。はったりです」
出久は平静を保ったまま続ける。
「あのまま戦っても勝てるとは思えなかったので、増援が来ると思わせれば退くかもしれないと考えました。周囲では別の戦闘音もしていましたし、保須全体が混乱していました。ヒーロー殺しは少し僕を見た後、その場から離れました」
「君の言葉だけで、あの男が引いたのかい?」
「本当に増援が来てもおかしくない状況でした。だから、危険を冒す必要はないと判断したんだと思います」
「それで、その後は?」
「僕も緊張していて……戦っている間に、飯田君を見失ってしまっていました」
出久は一度だけ言葉を途切れさせた。
「周囲を探したんですけど、別のプロヒーローたちが集まり始めていました。飯田君なら既に保護されたか、警察のいる方へ向かったんだと思ったんです。それに、ヒーロー殺しが戻ってくる可能性もありました」
「それで、君は職場体験先へ戻った?」
「はい。僕が無断で抜け出したことも分かってしまうと思って……怖くなって、そのまま戻りました」
出久は視線を落とす。
「後から飯田君が無事だと分かって、安心しました。でも、ミルコには報告するべきでした。すみません」
十五歳の少年が恐怖と混乱の中で選んだ行動として、理解できない説明ではない。
だが、根津はすぐには答えなかった。
以前の緑谷出久なら、危険な現場に飯田を残し、自分だけ戻るという判断をしただろうか。
他者を救うためなら、自身の安全も校則も顧みなかった少年が。
根津の中に生じた疑問は、表情には出なかった。
「そうかい」
やがて柔らかな声で答える。
「怖かっただろうね」
「……はい」
「判断を誤ったこと自体は理解できる。ただし、今後は必ず報告すること。校則違反の発覚より、危険人物と接触した事実の方が遥かに重要だ」
「分かりました」
「ミルコにも、こちらから事情を伝えておくよ。少し叱られるかもしれないけれど、それは受け入れたまえ」
「はい」
根津は資料を閉じた。
「それなら、この件についてはひとまずここまでにしよう。面談は終了だよ。お疲れさま」
出久の肩から、ほんのわずかに力が抜ける。
根津はその変化を見逃さなかったが、何も言わず椅子から立ち上がった。
「今日は試験もあったことだし、帰ったらしっかり休むように。夏休みには林間学校もあるから、まずは今日の傷を治し、万全の状態で備えること!」
「はい」
出久もソファから立ち上がった。
「紅茶、ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
根津は満足そうに笑う。
「それと、生徒にはまだ伝えていないのだけれどね。今回の試験で不合格になった者には、夏休み中の補講が用意されているんだ」
「補講、ですか?」
「そうとも。不合格者も林間学校には参加できる。ただし、足りなかった部分を補う特別授業を受けてもらうことになる。なかなか充実した夏休みになるだろうね」
声には、わずかに悪戯っぽい響きが混じっていた。
「まあ、君と爆豪君には関係のない話さ。二人とも合格だからね。ただし、今日見えた課題まで消えたわけではない。そこは忘れないように」
「分かりました」
「よろしい。では、戻って構わないよ。爆豪君の様子が気になるなら、医務室を覗いてから帰るといい。ただし、喧嘩の続きを始めるのは禁止だ」
「しません」
出久は即座に答えた。
根津はくすりと笑った。
出久は一礼し、扉へ向かう。
「緑谷君」
取っ手へ手を掛けたところで呼び止められ、出久は振り返った。
「改めて、合格おめでとう。林間学校でも君の成長を楽しみにしているよ」
「ありがとうございます」
出久はもう一度頭を下げ、廊下へ出た。
遠くから、生徒たちの声や教師の足音、医務室へ向かう担架の車輪が聞こえてくる。
扉が静かに閉まった。
出久の足音が、廊下の奥へ遠ざかっていく。
根津は、その音が完全に聞こえなくなるまで閉じられた扉を見つめていた。
数秒。
さらに十数秒。
やがて椅子へ戻ると、先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みが消えた。
机の上には、三つの資料が並んでいる。
飯田の証言書。
ミルコから提出された報告。
今日の試験記録。
根津はそれらへ順番に視線を落とした。
保須でヒーロー殺しと接触しながら、誰にも報告しなかった。
飯田を危険な現場へ残し、自分だけ職場体験先へ戻ったという、従来の行動原理と食い違う説明。
申告された個性からは説明しきれない索敵能力。
根津の質問を予測していたかのように、整えられた回答。
緑谷出久は何かを隠している。
しかも、根津の目からもそれを覆い隠そうとしている。
以前の彼なら、ここまで整った説明を、淀みなく返すことができただろうか。
根津は冷めた紅茶へ視線を落とした。
自分の推測が外れていてほしいと願うことなど、彼には滅多にない。
「……内通者は、緑谷君で決まりかな」
静かで、どこか残念そうな声だった。
その問いに答える者は、校長室のどこにもいなかった。
──
A組の教室が近付くにつれ、廊下の先から幾つもの声が聞こえてきた。
試験中の緊張から解放された反動なのか、普段よりも騒がしい。誰かが大声で結果を報告し、それに別の誰かが食い気味に質問を重ねている。
出久は教室の前で一度足を止めた。
校長室で交わした会話が、まだ頭の中に残っている。
根津は、自分の説明を信じていなかった。
どこまで疑われているのかは分からない。それでも、試験官の位置を特定した方法についても、保須での出来事についても、完全に納得した様子ではなかった。
だからといって、今すぐ何かが起こるわけではない。
出久は包帯の巻かれた右手を軽く握り、いつもと変わらない表情を作ってから扉へ手を掛けた。
引き戸を開けた瞬間、騒がしい声が一気に流れ込んでくる。
「だから絶対、あの先生の採点がおかしいんだって!」
「実技であれだけ逃げ回っておいて、よく言えるな」
「逃げてねえよ! 戦略的撤退だっつーの!」
教室の中央では、上鳴が机へ突っ伏しながら切島へ抗議していた。耳郎はその隣で呆れた顔をし、八百万は手元の結果票を見ながら何かを説明している。
別の場所では、芦戸が椅子の背もたれへ身体を預け、両腕を頭上へ投げ出していた。
「せっかくの林間学校なのに、補講まであるなんて聞いてないよー!」
「不合格だった以上、仕方ないだろう」
飯田が教壇の前で腕を振りながら答える。
「むしろ林間学校へ参加する機会が残されていることを前向きに捉えるべきだ! 不足していた能力を補うための授業なのだから、真摯に受け止めなければならない!」
「言ってることは正しいけどさぁ……」
芦戸は机へ頬を押し付けた。
「夏休みだよ? 林間学校だよ? 山だよ? 川だよ? 夜はみんなで肝試しとかやるかもしれないのに、その横で補講だよ?」
「まだ林間学校の具体的な内容は発表されていないぞ」
「絶対あるって! 夏の山で肝試ししないなんて、あり得ないもん!」
「そこを基準に考えるのはどうなんだ……」
瀬呂が苦笑しながら肩をすくめる。
黒板には、誰かが大きな字で書いたらしい結果の一覧が残っていた。正式な掲示ではなく、クラス内で互いに報告し合ったものをまとめただけのようで、名前の横に丸と三角、そして幾つかの大きな罰印が付けられている。
実技で不合格になった生徒は、決して一人や二人ではなかった。
筆記試験では手応えがあった者も、プロヒーローを相手にした実技では思うように力を発揮できなかったらしい。
「俺、試験自体は結構いけてると思ったんだけどな……」
上鳴が結果票を持ち上げ、恨めしそうに眺めた。
「最後まで逃げ切れなかったのが致命的だったみたいだぜ。あと、個性を使いすぎてアホになったところ」
「そこが一番致命的でしょ」
耳郎が即座に言う。
「うるせえ! あの状況なら使うしかなかったんだよ!」
「使い方を考えなかったから落ちたんじゃん」
「耳郎ちゃん、傷口をえぐるのはやめてあげようよ」
葉隠が笑いながら止めたが、上鳴はますます深く机へ沈み込んだ。
隣では、峰田が頭を抱えている。
「補講って、どれくらいあるんだよ……。林間学校の自由時間が全部消えるとかじゃねえよな?」
「そもそも自由時間があると決まったわけではありませんわ」
八百万が困ったように答える。
「今回の林間学校は、個性の強化を目的とした訓練だと聞いています。通常の学校行事とは異なり、相当に厳しい内容になる可能性があります」
「その上で補講まであんのかよ!」
峰田の悲鳴に、何人かの不合格者が揃って肩を落とした。
合格者の側にも、完全に浮かれている者は少ない。
試験の内容が内容だけに、合格したとしても無傷で済んだ生徒はほとんどいなかった。腕へ湿布を貼っている者、額に絆創膏を付けている者、制服の破れを応急処置した者もいる。
それでも、不合格者の落ち込みようと比べれば、教室の中には明確な温度差があった。
「緑谷君!」
出久に気付いた飯田が、大きく手を上げた。
その声で、教室内の視線が一斉に入り口へ集まる。
「お、緑谷! 戻ってきたか!」
切島が椅子から立ち上がった。
「校長室に呼ばれてたんだろ? 何の話だったんだ?」
「えっと……試験の講評と、少し確認されただけだよ」
出久は教室へ入りながら答えた。
嘘ではない。
ただし、話の大部分を省いている。
「校長直々に講評かよ。すげえな」
瀬呂が感心したように言う。
「根津校長と爆豪君を捕まえた件について話していたのですか?」
八百万の問いに、出久は頷いた。
「うん。最後の判断は評価するって。でも、途中でかっちゃんと争ったことは減点だって言われた」
「あれだけの怪我ですから、当然でしょう」
飯田の眉間に深い皺が寄る。
「緑谷君、試験中とはいえ、仲間同士で負傷させ合う行為は看過できないぞ! 爆豪君にも同じことを言うつもりだが──」
「分かってるよ、飯田君」
出久が静かに遮ると、飯田は口を閉じた。
一瞬だけ、二人の間に妙な沈黙が落ちる。
出久は以前なら、飯田の注意を最後まで聞き、何度も謝罪していただろう。
だが今は、同じ説教を繰り返し聞く必要を感じなかった。
「校長先生にも言われたから」
「……そうか」
飯田は眼鏡の位置を直し、わずかに姿勢を戻した。
そのやり取りを深く気にした者はいなかったらしく、上鳴がすぐに別の話題へ飛び付く。
「それより緑谷、お前は合格なんだよな?」
「うん」
「羨ましい!」
上鳴は勢いよく身体を起こした。
「爆豪と喧嘩して片腕折って、校長相手に罠を突破して、それでも合格ってどういう採点だよ!」
「最後に試験官を捕獲したからじゃない?」
耳郎が冷静に答える。
「それができたら合格条件を満たすんだから、途中で減点されても点数は残ったってことでしょ」
「じゃあ俺も先生を直接捕まえに行けばよかった!」
「お前の場合、近付く前に放電しすぎて終わってただろ」
瀬呂の指摘に、教室のあちこちから笑いが起こった。
上鳴は反論しようとして口を開いたが、自分でも否定できなかったのか、再び机へ伏せる。
「でもさ、緑谷たちの試験、すごかったらしいね」
麗日が自分の席から振り返った。
頬には小さな絆創膏が貼られているが、表情は明るい。
「市街地の建物がいっぱい壊れて、最後は校長先生のところまで追いかけていったって聞いたよ」
「うん。かなりぎりぎりだったけど」
「爆豪君、大丈夫なん?」
「今は医務室。左腕を折ってるし、かなり消耗してたから、しばらく動かない方がいいと思う」
出久がそう答えると、切島が心配そうに眉を寄せた。
「見舞いに行った方がいいか?」
「救護班に任せた方がいいんじゃないかな。かっちゃん、今は誰が行っても怒ると思うし」
「あいつは元気でも怒るだろ」
瀬呂が言い、再び小さな笑いが起こった。
出久も口元だけで笑ったが、胸の内側は冷えたままだった。
校長室での会話を思い出す。
根津は保須での出来事を確認した。
自分の説明を聞き、表面上は納得したように面談を終えた。
だが、本当にそれだけだろうか。
教室へ戻るよう促されたからといって、疑いが消えたわけではない。
「緑谷ちゃん?」
すぐ近くから声を掛けられ、出久は顔を上げた。
蛙吹が、机へ頬杖をつきながらこちらを見ている。
「どうかしたの?」
「いや、何でもないよ」
「そう?」
蛙吹は僅かに首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。
出久は自分の席へ向かい、椅子を引いた。
机の上には、クラスメイトが回していたらしい合否結果の紙が置かれている。実技不合格者の名前には、小さな星印が付けられ、その横へ「補講」と書き足されていた。
「本当に補講やるんだ……」
出久が呟くと、芦戸が勢いよく振り返った。
「そうなんだよ! しかも夏休み中!」
「林間学校には参加できるらしいけどね」
「参加できても補講があるんでしょ? 全然嬉しくないよ!」
「いや、参加できるだけありがたいって」
切島が宥めるように言う。
「補講で鍛えてもらえるなら、次は合格できるようになるってことだろ。前向きにいこうぜ!」
「切島は合格してるから言えるんだよ!」
不合格者たちから一斉に抗議が飛ぶ。
切島はたじろぎながら両手を上げた。
「わ、悪い! でも、本当にそう思ってるだけで──」
「なら補講代わって!」
「それは無理だろ!」
教室に再び笑いが広がった。
試験に落ちた悔しさも、夏休み中に補講を受ける憂鬱も消えてはいない。それでも、誰かが騒げば誰かが突っ込み、互いの結果をからかいながら、A組の空気は少しずつ普段のものへ戻っていった。
出久はその様子を、自分の席から静かに眺めた。
誰が合格したのか。
誰が落ちたのか。
誰が怪我をしているのか。
誰が試験中にどのような動きをしたのか。
教室の会話から、自然と情報が集まっていく。
以前なら、ノートを取り出して書き留めていただろう。
今は、頭の中へ記憶するだけで十分だった。
夏休み。
林間学校。
通常よりも厳しい個性強化訓練。
教室の喧騒を聞きながら、出久は包帯の巻かれた右手を机の下でゆっくりと握った。
林間学校が始まるまでに、準備しておかなければならない。
個性の訓練だけではない。
根津にこれ以上の疑いを持たせないための準備も。
「緑谷、何難しい顔してんだ?」
上鳴の声が飛んでくる。
出久はすぐに手を開き、顔を上げた。
「林間学校のことを考えてただけだよ」
「だよな! 楽しみだよな!」
不合格だったことを忘れたような明るい顔で、上鳴が身を乗り出す。
「山に行ったら、絶対バーベキューあると思わねえ?」
「補講があるんじゃなかったの?」
耳郎が横から言う。
上鳴の表情が一瞬で崩れた。
「思い出させるなよ!」
教室に大きな笑い声が響いた。
出久も今度は、周囲に合わせて小さく笑った。
笑顔の練習も、しなければならない。