間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第50話 エンカウント

 数日後。

 

 週末の朝、緑谷出久は林間学校に必要な物を買い揃えるため、玄関で靴紐を結んでいた。

 

 傍らには、昨夜のうちにまとめておいた買い物のメモが置かれている。

 

 厚手の靴下。

 

 虫除け。

 

 携帯用の救急用品。

 

 予備のタオル。

 

 動きやすい衣服。

 

 個性強化訓練が目的だと聞かされている以上、一般的な林間学校よりも荷物は多くなる。学校側から支給される装備もあるらしいが、個人で用意する物については早めに揃えておいた方がいい。

 

 出久はメモを折り畳み、財布と一緒に鞄へ入れた。

 

「行ってきます」

 

 リビングにいる母親へ声を掛け、玄関の扉を開ける。

 

 朝の光が差し込み、まだ熱を帯び切っていない外気が頬へ触れた。

 

 そのまま一歩を踏み出そうとして、出久は動きを止めた。

 

 玄関のすぐ外に、一人の少女が立っていた。

 

 淡い金色の髪。

 

 大きく見開かれた瞳。

 

 制服ではなく、どこにでもいる同年代の少女を思わせる軽い服装。

 

 トガヒミコは、出久が扉を開ける瞬間を待っていたかのように、両手を背中へ回して身体を揺らした。

 

「出久君、おはよう!」

 

 人懐っこい笑みが浮かぶ。

 

「お出掛けですか?」

 

 出久は答えず、視線だけを動かして周囲を確認した。

 

 集合住宅の外廊下は静かだった。

 

 近隣の部屋から生活音は聞こえる。下の道路では車が走り、遠くから子供の声も響いていたが、すぐ近くに住民の姿はない。

 

 警察車両も、プロヒーローも見えない。

 

 トガの仲間が潜んでいる様子も、少なくとも出久の感覚では捉えられなかった。

 

「トガさん……どうして、ここにいるの」

 

 出久は母親に聞かれないよう声を抑えた。

 

 トガは待ってましたとばかりに顔を輝かせ、胸元で両手を合わせる。

 

「AFOさんに、出久君を呼んで来いって頼まれたんです!」

 

 あまりにも明るい口調だった。

 

 近所の知人から伝言を預かったとでも言うような気軽さに、出久は一瞬だけ言葉を失う。

 

 玄関の内側では、母親がまだリビングにいる。今の声量なら内容までは聞き取れなかったかもしれないが、これ以上ここで話を続ければ、不審に思われる可能性がある。

 

 出久は扉を半分ほど閉じ、自分の身体で室内からトガの姿を隠した。

 

「何の用件?」

 

「そこまでは聞いてません」

 

 トガは首を傾げる。

 

「見つけたら声を掛けて、来られるか聞いてこいって言われただけです」

 

「今から?」

 

「はい!」

 

 出久は小さく息を吐いた。

 

 AFOが自分を呼び出す。

 

 理由はいくつか考えられる。

 

 保須での一件についてか。

 

 雄英の試験についてか。

 

 根津との面談について、既に何らかの情報を掴んでいるのか。

 

 あるいは、間近に迫った林間学校に関係する話か。

 

 どれも無視してよい内容とは言い切れない。

 

 しかし、今日は既に予定がある。

 

 クラスメイトと集合し、林間学校に必要な物を買い揃えることになっていた。ここで突然姿を消せば、それだけで不自然に見える。

 

 根津から疑いを向けられている可能性がある以上、今は普段通りの行動を優先するべきだった。

 

「僕、これからクラスのみんなと林間学校の買い物に行くんだ」

 

 出久は声を落としたまま言った。

 

「AFOには、あとで用件をメールしてって伝えておいてよ」

 

 トガは数度瞬きをした。

 

 断られることを想定していなかったのかもしれない。

 

 だが、すぐにいつもの笑顔へ戻る。

 

「分かりました! 言っておきますね!」

 

「うん。じゃあ」

 

 出久はそれで話が終わったものと判断し、玄関の扉を閉めた。

 

「今度こそ行ってきます」

 

「気を付けてね」

 

 母親の返事を確認してから、出久は鍵を掛ける。

 

 トガの脇を抜け、共用廊下へ出た。

 

 手すりの向こうには住宅街が広がり、下の道路を走る車の音と、どこかの部屋から聞こえるテレビの音が入り混じっている。

 

 出久はエレベーターへ向かって歩き始めた。

 

 数歩進んだところで、背後から軽い足音がついてくることに気付く。

 

 出久が足を止めると、その足音も同時に止まった。

 

 嫌な予感を覚えながら振り返れば、トガは一歩にも満たない距離へ立っている。

 

「ち、近くない?」

 

「お買い物に行くんですよね?」

 

「そうだけど……」

 

「私も行きます!」

 

 当然のように答えた。

 

「AFOに伝えるんじゃなかったの?」

 

「あとで伝えます!」

 

「今伝えてよ」

 

「急ぎじゃありません。今すぐ連れて来いとは言われてませんから」

 

 トガは自信満々に胸を張った。

 

 出久は反論しかけ、口を閉じる。

 

 確かに、AFOが本当に今すぐ出久を連れて来させるつもりなら、トガへもう少し具体的かつ強制的な指示を与えているはずだ。

 

 だからといって、トガを連れていく理由にはならない。

 

「帰ってよ」

 

「嫌です」

 

 返事は間髪を容れなかった。

 

 出久が言い返すより早く、トガが一歩踏み出す。

 

 距離がさらに縮まった。

 

 肩が触れそうなほど近い。

 

 トガは両手を背中へ回したまま、出久の顔を下から覗き込んでいる。淡い金色の前髪が朝の風に揺れ、大きな瞳には好奇心に満ちた光が浮かんでいた。

 

「出久君のお友達、見てみたいです」

 

「いや、だから……」

 

「どんな人たちですか?」

 

「どんなって、普通のクラスメイトだよ」

 

「女の子もいるんですよね?」

 

「そりゃ、いるけど」

 

「楽しみです!」

 

 トガは嬉しそうに笑い、出久の真横へ並んだ。

 

 並んだというより、ほとんど身体を寄せるような位置だった。

 

 出久が反射的に半歩離れる。

 

 トガも同じだけ近付く。

 

 もう一度離れると、また同じ距離まで寄ってきた。

 

「……どうして寄ってくるの」

 

「置いていかれないようにです」

 

「置いていくつもりなんだけど」

 

「なら、もっと近くにいないと駄目ですね」

 

 トガは悪びれる様子もなく答え、出久の袖を指先で軽く摘まんだ。

 

「ちょっ……」

 

 出久の肩が跳ねる。

 

 すぐに振り払えばいい。

 

 そう考えたのに、身体の反応が一瞬遅れた。

 

 トガヒミコはヴィランだ。

 

 複数の事件に関与し、人を傷付け、その血を奪い、姿を借りることに何の罪悪感も抱いていない。血を流す人間を美しいと感じ、好意を抱いた相手へ刃物を向けることさえ、彼女にとっては自然な感情の発露でしかない。

 

 自宅の前で待ち伏せし、AFOの使いとして現れた時点で、警戒する理由はいくらでもあった。

 

 それでも、目の前にいるのが出久と大きく年齢の変わらない少女であることまで変わるわけではない。

 

 整った顔立ち。

 

 朝の光を受ける金色の団子髪。

 

 何も知らずに街中ですれ違えば、どこにでもいる可愛らしい同年代の少女にしか見えない。

 

 緑谷出久は、どこまでいってもクソナードだった。

 

 危険人物を目の前にしながら、その顔が息遣いを感じるほど近くにあるというだけで、身体が強張ってしまう。

 

「出久君?」

 

「な、何?」

 

「顔、赤いですよ」

 

「赤くない!」

 

 出久は勢いよく否定し、顔を背けた。

 

 声が裏返る。

 

 否定したことで、かえって頬が熱を持っていることを意識してしまった。

 

 視線を戻せない。

 

 まともにトガの顔を見れば、さらに動揺が表へ出る気がした。

 

「本当に赤いです」

 

 トガは楽しそうに出久の横顔へ回り込もうとする。

 

「見ないでよ!」

 

「どうしてですか?」

 

「どうしてって……近いから!」

 

「近いと駄目なんですか?」

 

「駄目だよ!」

 

「私は嬉しいですよ?」

 

「君が嬉しいかどうかの話じゃない!」

 

 出久は早足でエレベーターへ向かった。

 

 しかし、トガは袖を摘まんだまま、歩調を合わせてぴったりと横についてくる。

 

「出久君、恥ずかしがってます?」

 

「恥ずかしがってない!」

 

「じゃあ、こっち見てください」

 

「今は前を見て歩いてるんだよ!」

 

「さっきから壁しか見てませんよ?」

 

 指摘され、出久の顔がさらに赤くなる。

 

 確かに前方のエレベーターではなく、トガとは反対側にある無機質な壁ばかり見ながら歩いていた。

 

「転びますよ」

 

「誰のせいだと思ってるの!」

 

「私ですか?」

 

「君以外に誰がいるんだよ!」

 

 トガは口元へ手を当て、くすくすと笑った。

 

 危険人物だという認識は消えていない。

 

 それでも、好意を隠そうともせず身体を寄せてくる同年代の少女へ、出久はどう対処すればいいのか分からなかった。

 

「それより!」

 

 動揺を振り払うように、出久は声を張り上げる。

 

 トガが目を瞬かせた。

 

「クラスメイトって、雄英のクラスメイトだよ!?」

 

「はい」

 

「はい、じゃなくて!」

 

 出久はようやくトガへ顔を向けた。

 

 だが、思っていた以上に顔が近い。

 

 鼻先が触れそうな距離で目が合い、出久はすぐに視線を逸らした。

 

「君は、自分が指名手配犯だって忘れたのか!?」

 

 近隣住民へ聞かれないよう声を抑えるべきなのに、焦りのせいで声量を上手く調整できない。

 

「雄英の生徒が何人も集まるんだよ! ヒーロー科だよ! 先生やプロヒーローが近くにいるかもしれないし、通報されたら──」

 

 トガは不敵に笑った。

 

「ふふん」

 

「……何、その顔」

 

 出久が警戒するように眉を寄せる。

 

 トガは答えず、肩から提げていた小さな鞄を身体の前へ回した。

 

「ちょっと待ってくださいね」

 

「何をする気?」

 

「変装です!」

 

 明るく言い切り、鞄から黒縁の眼鏡を取り出した。

 

 度が入っているようには見えない。変装用に用意した伊達眼鏡なのだろう。

 

 続いて、柔らかな布地の帽子と細い髪留めを取り出す。

 

「そんなので誤魔化せると思ってるの?」

 

「見ててください」

 

 トガは眼鏡を鼻へ掛け、頭の左右で丸くまとめていた団子髪へ手を伸ばした。

 

 髪を留めていたゴムを外すと、淡い金色の髪がほどけ、肩から背中へ柔らかく流れ落ちる。

 

 指を櫛のように使って髪を梳き、前髪を少し横へ流す。目立たない位置で留めてから、最後に帽子を深めにかぶった。

 

「どうですか?」

 

 トガは両手を広げ、くるりとその場で一回転した。

 

 出久は言葉を失う。

 

 そこに立っていたのは、先ほどまでとは雰囲気の大きく異なる少女だった。

 

 団子髪が消えたことで顔周りの印象が変わり、黒縁眼鏡が大きな瞳を柔らかく見せている。さらにトガは肩を僅かに縮め、両手を身体の前で重ねた。

 

「女の子はみんな女優さんなんです。私は特に、ね」

 

 声まで控えめなものへ変わった。

 

 快活で危うげな少女の姿は消え、そこには人混みを避けるように俯く、物静かな学生が立っていた。

 

「これなら大丈夫です!」

 

 トガは胸を張る。

 

 その瞬間だけはいつもの明るさが戻り、作り上げたおとなしい印象が少し崩れた。

 

「いや……」

 

 出久は上から下までトガの姿を見直した。

 

 顔そのものは変わっていない。

 

 それでも、髪型、眼鏡、帽子、姿勢、表情まで変えれば、指名手配写真を一度見ただけの人間なら見逃す可能性は十分にある。

 

「いつ用意したの、それ」

 

「念のためです」

 

 トガは得意そうに眼鏡の位置を直した。

 

 出久は小さく息を吐く。

 

 それから、ふと以前の出来事を思い出した。

 

「もしかして」

 

「はい?」

 

「この前、個性で変身したことを僕が怒ったから?」

 

 トガの瞳が眼鏡の奥で瞬く。

 

「他人の血を使って、その人の姿になったことを怒ったから、今日は個性を使わずに変装したの?」

 

 もしそうなら、少なくとも出久の言葉を多少なりとも受け入れたことになる。

 

 しかし、トガは何のことか分からないように首を傾げた。

 

「この前?」

 

「覚えてないの?」

 

「何か怒られましたっけ?」

 

「怒ったよ。かなり」

 

「出久君、よく怒るから分かりません」

 

「そんなに怒ってないよ!」

 

「さっきからずっと怒ってますよ?」

 

 出久は反論しかけ、口を閉じた。

 

 確かに、今朝トガと会ってから、ほとんど注意か拒絶しかしていない。

 

 トガはそんな出久を見て、くすくすと笑った。

 

「これは、そういう理由じゃないです」

 

「じゃあ、どうして」

 

「雄英の先生って、個性を消す人がいますもんね!」

 

 トガは何でもないことのように答えた。

 

 出久の表情が固まる。

 

「これなら、個性を消されても大丈夫です」

 

 予想とはまったく異なる答えだった。

 

 トガが言っているのは、相澤消太の個性『抹消』のことだ。

 

 変身の個性に頼って姿を変えた場合、相澤に見られれば解除される可能性がある。だから最初から物理的な変装を用意した。

 

 出久に怒られたことを反省したのではない。

 

 より確実に正体を隠し、雄英の生徒たちへ近付くための対策だった。

 

「……反省したわけじゃないんだね」

 

 トガは都合の悪い言葉だけが聞こえなかったように、帽子のつばを整えた。

 

 それから笑みを消し、表情を控えめなものへ変える。

 

「こういう感じなら、もっと大丈夫ですか?」

 

 先ほどまでのトガを知らなければ、本当に人見知りの少女だと思うかもしれない。

 

 出久はその完成度に別の意味で不安を覚えた。

 

「……演技もできるんだ」

 

「得意ですよ」

 

 一瞬でいつもの笑顔へ戻る。

 

「人の真似をするの、好きなので」

 

 その言葉には、トガの個性と欲望の両方が滲んでいた。

 

「誰の真似もしないでよ」

 

「じゃあ、出久君の理想の女の子になります」

 

「そういう意味じゃない!」

 

「どんな子が好きですか? おとなしい子ですか?」

 

 トガは再び肩を縮め、眼鏡の奥から上目遣いに出久を見る。

 

 雰囲気が変わった分、その仕草は先ほどよりも妙に自然だった。

 

 出久の顔に、引きかけていた熱が戻る。

 

「だから、そういう顔で近付かないでよ!」

 

「顔は変えてませんよ?」

 

「雰囲気の話!」

 

「可愛いですか?」

 

「知らない!」

 

「見てないのに分かるんですか?」

 

 出久は閉じたエレベーターの扉へ視線を固定した。

 

 危険人物である。

 

 変装の理由も、反省ではなく相澤への対策。

 

 どこにも安心できる要素はない。

 

 それでも、眼鏡を掛けて髪を下ろしたトガが、先ほどとは別の種類の可愛らしさを持っていることまで否定できなかった。

 

 

 

 

 ──

 

 結局、出久はトガを追い返すことができなかった。

 

 何度断ってもついてくる。

 

 警察へ連絡すると言えば、見つかる前に逃げると笑う。

 

 人気のない場所で待つように言えば、出久が戻ってこないかもしれないから嫌だと拒む。

 

 強引に拘束しようとすれば住宅街で騒ぎになり、母親や近隣住民を巻き込む可能性がある。追い返したところで、トガが変装して後をつければ、今度は居場所を把握できなくなる。

 

 何より、彼女は既に出久の自宅を知っている。

 

 母親のいる場所から一刻も早く引き離し、人目の多い場所で行動を制限しながら、常に視界へ入れておく。

 

 危険な判断であることは分かっていたが、現時点ではそれが最も被害を抑えられる選択肢だった。

 

 出久は同行を認める代わりに、いくつもの条件を付けた。

 

 刃物を出さないこと。

 

 誰も傷付けないこと。

 

 血を取らないこと。

 

 個性を使わないこと。

 

 出久から離れないこと。

 

 そして、少しでも不審な行動を取れば、即座に拘束すること。

 

 トガはそのすべてを、満面の笑みで了承した。

 

 人を傷付け、血を奪うことを悪いと考えていない彼女にとって、それは反省や改心ではない。

 

 今日一日だけ、出久と一緒にいるために我慢してみせる。

 

 その程度の約束だった。

 

 集合場所に指定されていたのは、駅前の大型商業施設だった。

 

 休日ということもあり、広場には買い物客や待ち合わせをする人々が行き交っている。正面入口の脇には噴水が設置され、その周辺へA組の生徒たちが集まっていた。

 

 切島。

 

 上鳴。

 

 瀬呂。

 

 芦戸。

 

 麗日。

 

 耳郎。

 

 八百万。

 

 峰田。

 

 飯田。

 

 ほかにも数人の姿が見える。

 

 出久は人混みの向こうにクラスメイトを確認すると、思わず足を止めた。

 

 隣では、黒縁眼鏡を掛け、帽子をかぶったトガが、おとなしく両手を身体の前で重ねている。

 

 先ほどまでの人懐っこい笑みは消えていた。

 

 目を伏せ、少し緊張しているように肩を縮めている。髪型や服装だけでなく、立ち方から呼吸の間まで別人のように変わっていた。

 

「本当に、余計なことは言わないでよ」

 

 出久は小声で念を押した。

 

「分かってます」

 

 返ってきた声も、普段より小さく控えめだった。

 

 出久が頭を抱えかけた時、噴水の近くにいた切島がこちらへ気付いた。

 

「おーい、緑谷!」

 

 大きく手を振る。

 

 その声に反応し、周囲のクラスメイトも一斉に振り返った。

 

 最初に出久を見る。

 

 次に、その隣へ立つ見知らぬ少女を見る。

 

 数秒、誰も声を発しなかった。

 

 ざわついていた広場の中で、A組の集団だけが不自然に静まり返る。

 

 出久は、その沈黙だけでこれから起こることを悟った。

 

「……緑谷?」

 

 上鳴が目を細める。

 

「その子、誰?」

 

「えっと、これは──」

 

 出久が説明を始めるより早く、芦戸が勢いよく前へ出た。

 

「ちょっと待って!」

 

 出久とトガを交互に見比べる。

 

 それから大きく息を吸い込み、広場中へ響きそうな声を上げた。

 

「緑谷が女の子を連れてきたー!」

 

「声が大きいよ!」

 

 出久は慌てて止めようとしたが、既に遅かった。

 

「マジで!?」

 

「誰だよ!?」

 

「彼女!?」

 

「いつの間に!?」

 

 上鳴と瀬呂が身を乗り出し、麗日は目を丸くする。耳郎は驚きながらも二人の距離を観察し、八百万と飯田は事情を確認するように表情を引き締めていた。

 

 出久は慌てて両手を振る。

 

「そういう関係じゃなくて、ただの──」

 

「見せ付ける気か、このやろー!」

 

 甲高い叫びとともに、小さな影が人の隙間を突き抜けてくる。

 

 峰田だった。

 

 出久の前で急停止すると、拳を震わせながらトガを見上げる。

 

「普段は女に興味ありませんみたいな顔しておいて、休日に眼鏡っ娘を連れて登場だと!? しかも大人しそうな美少女! 裏でそんなイベント進めてたのかよ!」

 

「進めてないよ!」

 

「俺たちが試験や補講で苦しんでる間に、一人だけ青春しやがって!」

 

「峰田君だって今ここにいるじゃないか!」

 

「そこじゃねえ!」

 

 峰田は地面を踏み鳴らした。

 

 その剣幕を前に、トガは出久の半歩後ろへ隠れるように身体を引いた。

 

 普段の彼女なら面白がって笑ったか、相手の反応を見るために自分から距離を詰めただろう。

 

 だが今は、怯えたように目を伏せている。

 

「あの……」

 

 小さな声だった。

 

 峰田の動きが止まる。

 

 トガは迷うように両手を胸元で重ね、それからおずおずと峰田へ近付いた。

 

 出久は嫌な予感を覚えた。

 

「トガさ──」

 

 呼び止めるより先に、トガは峰田の両手を優しく取った。

 

 峰田の身体が硬直する。

 

「え」

 

「すみません。驚かせてしまいましたよね」

 

 トガは眼鏡の奥で申し訳なさそうに目を細めた。

 

 声も表情も、完全に物静かな少女のものだった。

 

「私、出久君の友達なんです」

 

「と、友達……?」

 

「はい」

 

 トガは恥ずかしそうに微笑む。

 

「元々、ヒーローを目指していたんですけど、いろいろあって諦めてしまって……」

 

 出久の頬が引きつる。

 

 元ヒーロー志望。

 

 嘘ではない可能性もあるが、出久はそんな話を一度も聞いたことがなかった。

 

「今日は無理を言って、憧れの雄英の皆さんとお話ししてみたくて、ついてきてしまいました」

 

 トガは峰田の手を包んだまま、深く頭を下げる。

 

「迷惑でしたか?」

 

「ま、迷惑なわけないだろ!」

 

 峰田は即座に叫んだ。

 

 先ほどまで出久へ向けていた敵意が、一瞬で消える。

 

「雄英の話なら何でも聞いてくれ! 俺、峰田実! 将来有望なヒーロー候補だ!」

 

「実君、ですか?」

 

「名前で呼ばれた!」

 

 峰田はその場で大きく震えた。

 

「もう死んでもいい!」

 

「死ぬのは困ります」

 

 トガが眉を下げる。

 

「せっかくお友達になれそうなのに」

 

「友達!」

 

 峰田は完全に陥落した。

 

 耳郎が冷めた目を向ける。

 

「単純すぎでしょ」

 

「峰田は置いといて」

 

 芦戸が二人の間へ割って入った。

 

 目が輝いている。

 

「緑谷の友達って、いつからの友達?」

 

「えっと──」

 

 出久が答えようとする。

 

 だが、トガの方が早かった。

 

「最近です」

 

 峰田からそっと手を離し、今度は芦戸へ向き直る。

 

「ちょっとしたことで助けてもらって、それから何度かお話しするようになりました」

 

「助けてもらった!?」

 

 芦戸の声が一段高くなる。

 

「何それ、出会いの話からもう気になるんだけど!」

 

「その前に確認してもいいかい?」

 

 飯田が二人の間へ入り、眼鏡を押し上げた。

 

 浮かれている周囲とは異なり、表情は真面目だった。

 

「緑谷君。同行者が増えるのであれば、事前に連絡を入れるべきではないかね?」

 

「ご、ごめん。僕も家を出る時に会って……」

 

「突然押しかけてしまったんです」

 

 トガが申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「家の人には、友達と買い物へ行くと伝えてあります。帰る時間も連絡しています」

 

 淀みのない回答だった。

 

 それが事実かどうか、出久には分からない。

 

「学校はどちらなのですか?」

 

 今度は八百万が穏やかに尋ねた。

 

「今は普通科の高校へ通っています。ヒーロー科も考えたんですけど、個性のことでいろいろあって……」

 

 トガは僅かに視線を伏せた。

 

 それ以上聞かれたくない過去があるような、絶妙な間だった。

 

 八百万は無理に踏み込むことを避けたらしく、小さく頷く。

 

「そうでしたの。立ち入ったことを伺ってしまい、申し訳ありません」

 

「いえ。憧れを諦めきれなくて、今日は出久君にお願いしたんです」

 

「なるほど!」

 

 飯田は腕を組み、ひとまず納得したように頷いた。

 

「事情は理解した。ただし、一般の方を同行させる以上、緑谷君は責任を持って行動するように!」

 

「う、うん」

 

「私も皆さんの邪魔にならないようにします」

 

 トガは誰よりも素直な返事をした。

 

「立派な心掛けだ!」

 

 飯田まで好印象を抱き始めている。

 

 出久は頭を抱えたくなった。

 

「それで」

 

 確認が終わるのを待っていた芦戸が、再びトガへ迫る。

 

「緑谷には、どんなふうに助けてもらったの?」

 

「大したことじゃないよ」

 

 出久は慌てて割り込んだ。

 

「本当に、ただ少し話しただけで──」

 

「出久君はそう言うんですけど」

 

 トガは控えめに出久を見上げた。

 

「私にとっては、とても大事なことだったんです」

 

 その言葉だけは、演技なのか本心なのか判断できなかった。

 

 声には僅かな熱が混じっている。

 

 芦戸はそれを聞き逃さない。

 

「へえー!」

 

 にやりと笑い、出久へ詰め寄る。

 

「緑谷、そういうことするんだ?」

 

「そういうことって何!?」

 

「女の子を助けて、いつの間にか連絡を取り合う仲になって、今日はクラスの買い物に連れてくる!」

 

「最後は勝手についてきただけだよ!」

 

 出久は思わず本当のことを叫んだ。

 

 トガは少し傷付いたように俯く。

 

「やっぱり、迷惑でしたか?」

 

「いや、それは……」

 

 出久が言葉に詰まる。

 

 その反応を見て、芦戸がさらに身を乗り出した。

 

「はい、今の間!」

 

「違うよ!」

 

「完全に何かある反応じゃん!」

 

「ないって!」

 

 上鳴と瀬呂も面白そうに近付いてくる。

 

「緑谷、名前は?」

 

「紹介してくれよ」

 

「あ……」

 

 出久は口を開き、止まった。

 

 本名を名乗らせるわけにはいかない。

 

 当然、トガも偽名を用意しているはずだ。

 

 そう信じて横を見る。

 

 トガは一瞬だけ出久と目を合わせ、眼鏡の奥で楽しそうに瞳を細めた。

 

「……渡辺ひみこです」

 

「今、一瞬詰まらなかった?」

 

 耳郎が鋭く尋ねる。

 

「緊張して、噛んじゃいました」

 

 トガは恥ずかしそうに笑った。

 

「人が多い場所には、あまり慣れていなくて」

 

「そっか。緊張しなくていいよ!」

 

 芦戸は疑う様子もなく、トガの手を取った。

 

「私、芦戸三奈! 三奈でいいから!」

 

「三奈ちゃん」

 

「可愛い!」

 

 芦戸は嬉しそうに声を上げた。

 

「こっちは麗日お茶子で、耳郎響香、八百万百! 男子は適当に覚えればいいから!」

 

「扱いが雑!」

 

 上鳴が抗議する。

 

 だが、既に芦戸の意識はトガへ集中していた。

 

「それで、緑谷とはどこまで進んでるの?」

 

「三奈ちゃん!」

 

 麗日が慌てて止めようとする。

 

「初対面でいきなり聞くことじゃないよ!」

 

「でも気になるじゃん!」

 

「どこまでって……」

 

 トガは困ったように頬へ指を当てる。

 

 出久は背筋へ冷たいものが走るのを感じた。

 

 何を言うつもりなのか分からない。

 

「何もないから!」

 

 先回りして強く否定する。

 

「本当にただの知り合いだから!」

 

「出久君は、まだそう思ってるんです」

 

 トガが寂しそうに微笑んだ。

 

 周囲の空気が変わる。

 

「まだ?」

 

 芦戸が反応した。

 

「まだって言った?」

 

「言いましたわね」

 

 八百万まで興味を示したように眉を上げる。

 

「それは、将来的には別の関係を望んでいるという意味でしょうか?」

 

「八百万さんまで!?」

 

 出久の顔が赤くなる。

 

 トガは答えず、ただ恥ずかしそうに俯いた。

 

 それだけで、十分な答えになってしまった。

 

「うわー!」

 

 芦戸が歓声を上げる。

 

「緑谷、好かれてるじゃん!」

 

「違う、違わないけど、そういう普通の意味じゃなくて!」

 

「どういう意味だよ」

 

 瀬呂が笑いながら尋ねる。

 

 出久は答えられなかった。

 

 トガの好意を正確に説明すれば、血を飲みたい、傷付けたい、相手になりたいという欲求まで話さなければならない。

 

 当然、そんなことはできない。

 

「出久君、照れてるだけです」

 

 トガは物静かな笑みを浮かべた。

 

 声の大きさ。

 

 伏せる視線。

 

 控えめな笑み。

 

 会話へ入る間。

 

 どれを取っても、憧れの雄英生徒を前に緊張している、おとなしい少女にしか見えない。

 

 最初に疑問を向けた飯田や八百万に対しても、トガは淀みなく答え、むしろ礼儀正しい少女という印象を与えていた。

 

 わずか数分で、見知らぬ少女は警戒すべき同行者から、緑谷の恋愛事情を聞き出すための歓迎すべき客へと立場を変えている。

 

「今日は一緒に回ろう!」

 

 芦戸がトガの腕へ自分の腕を絡めた。

 

「いろいろ聞かせてよ。緑谷が学校の外でどんな感じなのかとか!」

 

「私も、学校での出久君のことを知りたいです」

 

 トガは嬉しそうに答える。

 

「授業中とか、女の子とどんなふうに話してるのかとか」

 

「そこ気になるんだ?」

 

「とても」

 

 眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ麗日へ向いた。

 

 ほんの僅かな視線だった。

 

 誰も気付いていない。

 

 出久だけが、その動きを見逃さなかった。

 

「トガさ──渡辺さん」

 

 危うく本名を呼びかけ、慌てて言い直す。

 

 トガは何も知らない顔で振り返った。

 

「はい?」

 

「約束、忘れないでよ」

 

「もちろんです」

 

 おとなしく頷く。

 

 だが、その口元には、出久にだけ分かるほど僅かな笑みが浮かんでいた。

 

「では、行きましょうか!」

 

 飯田が腕を大きく振り、散らばりかけていた一同をまとめる。

 

「一般の利用者の邪魔にならないよう、まとまって移動しよう!」

 

「はい!」

 

 トガが誰よりも素直に返事をした。

 

「渡辺君、立派な返事だ!」

 

「ありがとうございます」

 

 出久は頭を抱えたくなった。

 

 トガが不自然な言動をすれば、クラスメイトたちも警戒してくれるかもしれない。

 

 集合場所へ到着した時には、そんな僅かな期待もあった。

 

 だが、現実は正反対だった。

 

 峰田の手を取り、元ヒーロー志望の少女を演じ、飯田と八百万の質問を難なく切り抜け、芦戸の興味を恋愛話へ誘導する。

 

 ものの数分で、トガはA組の輪へ入り込んでしまった。

 

 しかも、出久よりも自然に。

 

「出久君」

 

 芦戸と並んで歩き始めたトガが、肩越しに振り返る。

 

 おとなしい微笑み。

 

 その奥に、獲物へ近付く時の楽しげな光が隠れている。

 

「早く行きましょう?」

 

 出久は返事をせず、その後を追った。

 

 今日は一日、絶対に目を離せない。

 

 そう決意した時には既に、トガは芦戸や麗日と楽しそうに話しながら、商業施設の中へ足を踏み入れていた。

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