間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第51話 ヒーロー失格

 大型商業施設の中庭に設置されたベンチで、緑谷出久は背もたれへ深く身体を預けていた。

 

 両手には幾つもの買い物袋が提げられ、足元にも紙袋やビニール袋が並んでいる。林間学校で使う衣類、日用品、救急用品、予備の靴紐、携帯食料。必要な物は、ほとんど揃っていた。

 

 買い物そのものは順調だった。

 

 問題があったとすれば、それ以外のすべてである。

 

「疲れました?」

 

 すぐ横から、弾んだ声が聞こえた。

 

 出久は返事の代わりに、重い息を吐く。

 

 隣では、トガヒミコが上機嫌な笑みを浮かべながらソフトクリームを食べていた。

 

 黒縁眼鏡に、深く被った帽子。普段は団子状にまとめている金色の髪を肩へ流し、物静かな少女を装うための変装は、数時間が経った今も崩れていない。

 

 もっとも、周囲にクラスメイトがいなくなったため、表情だけは普段のトガへ戻っていた。唇の端へ白いクリームを付けたまま、楽しそうに足を揺らしている。

 

「出久君も食べますか?」

 

「いらない」

 

「美味しいですよ?」

 

「さっきクレープを食べたでしょ」

 

「あれはクレープです。これはソフトクリームです」

 

「その前にはドーナツも食べてたよね」

 

「あれは実君が買ってくれました」

 

「峰田君に買わせたんでしょ」

 

「お願いしただけですよ?」

 

 トガは悪びれることなく答え、ソフトクリームをもう一口舐めた。

 

 出久は頭を抱えたくなったが、腕を持ち上げる気力すら残っていなかった。

 

 朝から一日中、トガの変装が崩れないか、刃物へ手を伸ばさないか、血の臭いに反応しないか、不用意にAFOやヴィランの名を口にしないかを監視し続けていた。その合間に自分の買い物を済ませ、芦戸たちからの質問や、上鳴と瀬呂の冷やかしにも対応しなければならなかった。

 

 集中力を必要とする作業を、休みなく何時間も続けていたようなものだ。

 

「出久君、すごい顔してます」

 

「誰のせいだと思ってるの」

 

「私ですか?」

 

「君以外にいないよ」

 

「私は普通にお買い物してただけです」

 

「普通の人は、出会った時のことを聞かれて『血まみれで出会いました』なんて答えかけないからね」

 

「本当のことなのに」

 

「本当のことだから言っちゃ駄目なんだよ!」

 

 反射的に声が大きくなり、出久は慌てて周囲を確認した。

 

 中庭には、家族連れや買い物客が大勢いる。だが、噴水の音と周囲の話し声へ紛れたのか、こちらへ注意を向ける者はいなかった。

 

 トガは、すぐには答えなかった。

 

 食べかけのソフトクリームを持ったまま、ベンチの前を行き交う人々へ視線を向ける。

 

 小さな子供の手を引く母親。

 

 買い物袋を持ちながら談笑する老夫婦。

 

 スマートフォンを見せ合い、肩を寄せて笑う学生たち。

 

 噴水の縁では、同年代らしい少女たちが購入した服を互いに見せ合っている。少し離れた場所では、父親が子供へカメラを向けていた。

 

 どこにでもある休日の光景だった。

 

 悲鳴は聞こえない。

 

 誰も血を流していない。

 

 誰かが誰かを疑うこともなく、それぞれが自分の目的へ向かい、笑い、立ち止まり、また歩いていく。

 

 トガの横顔から、先ほどまでの楽しげな表情が薄れていた。

 

 黒縁眼鏡の奥で細められた瞳は、目の前の光景を眺めながらも、そのどこにも焦点が合っていないように見える。

 

「出久君」

 

 不意に、トガが呟いた。

 

「何?」

 

「出久君の言う普通って、こういう人たちのことですか?」

 

 声は小さかった。

 

 いつものような弾んだ調子ではない。変装のために作っていた物静かな口調とも違う。

 

 遠い場所にある、決して手の届かないものを眺めるような、切なげな響きがあった。

 

 出久は、先ほど自分が口にした言葉を思い返した。

 

 普通の人は、血まみれで出会ったなどと答えかけたりしない。

 

 正体を悟られないよう注意しただけで、トガの存在そのものを否定するつもりはなかった。だが、人の血を求める欲求を持ち、それを異常と見なされてきた彼女にとって、「普通」という言葉がどのように聞こえたのかまでは考えていなかった。

 

 人を傷付け、血を奪う行為を肯定するつもりはない。

 

 それでも、言い方はよくなかった。

 

「それは……」

 

 謝らなければならない。

 

「ごめ──」

 

 言葉が、喉の奥で止まった。

 

 トガの口元が、僅かに持ち上がっていた。

 

 最初は、困ったような微笑みに見えた。傷付いた気持ちを隠そうとしているのかもしれないと、そう思った。

 

 だが、次の瞬間には笑みがさらに深くなる。

 

 頬が吊り上がり、唇の端が不自然なほど大きく開いた。眼鏡の奥で見開かれた瞳へ、濁った熱が宿っていく。

 

 切なげだった少女の顔が、みるみる別のものへ変わった。

 

 人懐っこい笑顔でもない。

 

 変装のために作った、控えめな微笑みでもない。

 

 加虐心に満ちた、歪な笑顔。

 

 出久は何も言えなくなった。

 

 謝罪の言葉は口から出ないまま消え、代わりに小さく息を呑む音だけが漏れた。

 

 トガは、その反応を見逃さなかった。

 

 歪んだ笑みを浮かべたまま、ゆっくりと視線を往来へ戻す。

 

 何も知らない人々が、二人の前を通り過ぎていく。

 

 笑いながら駆ける子供。

 

 その後を追う母親。

 

 友人同士で肩を寄せ合う学生。

 

 誰も、ベンチに座る物静かな少女へ注意を向けてはいない。

 

「出久君」

 

 トガは往来を眺めたまま、甘えるような声で呼び掛けた。

 

「もしも、私がこの場で暴れたら、どうしますか?」

 

 出久の呼吸が止まる。

 

 トガの口調は軽かった。

 

 次にどの店へ行くかを尋ねるような、何気ない声音だった。

 

「……何を言ってるの」

 

「ここ、人がたくさんいますよね」

 

 トガは残ったソフトクリームを舐め、そのままコーンの縁を小さく齧った。

 

「みんな私を見てません。私が誰なのかも知らないです」

 

 眼鏡の奥の瞳が、人混みの中をゆっくりと動く。

 

 一人ずつ品定めするように。

 

「一人から血をもらって、その人になって、また別の人へ近付くんです。そうしたら、ヒーローさんたちも誰が私か分からなくなりますよね」

 

 トガは楽しそうに首を傾げた。

 

「索敵が得意なヒーローが来るまでなら、何十人も殺せちゃうかもしれません」

 

 その言葉と同時に、幼い子供が二人の前を走り抜けた。

 

 母親が危ないと注意する。

 

 子供は振り返り、笑いながら速度を落とした。

 

 トガの視線が、その親子を追う。

 

 出久の右手が僅かに動いた。

 

 包帯の下で指を曲げ、いつでも個性を使えるよう力を込める。

 

「私は今」

 

 トガが囁く。

 

「なんだか、そうしたい気分かもしれません」

 

 その瞬間、出久の中で何かが切り替わった。

 

 疲労も、羞恥も、先ほどまで抱いていた迷いも、一瞬で遠ざかっていく。

 

 意識が鋭く周囲へ広がった。

 

 トガとの距離。ベンチの形状。足元の買い物袋。左右の通路。最も近い一般客。彼女の両手と、服の内側へ隠している可能性のある刃物。

 

 ソフトクリームを持っているのは右手。

 

 左手は膝の上。

 

 まだ動いていない。

 

 まだ誰も傷付いていない。

 

 だが、冗談ではない。

 

 トガにとって、人を殺すという選択肢は、今日の予定を気分で変更することと同じ程度の重さしか持っていない。

 

 その事実を前にして、出久は改めて理解した。

 

 人と違う感覚を持つことと、その欲求を他人へ押し付けることは違う。

 

 血に美しさを感じることと、そのために人を傷付けることは違う。

 

 理解されない苦しみを抱えることと、無関係な人間を殺してよいと考えることは、決して同じではない。

 

 その間には、言葉だけでは埋められない断絶がある。

 

 同情しても。

 

 理解しようとしても。

 

 トガが一線を越えようとするなら、止めなければならない。

 

 出久はゆっくりと背もたれから身体を起こした。

 

 トガが横目でその動きを見る。

 

「怖いですか?」

 

「そうなったら」

 

 出久の声は平坦だった。

 

「僕が君を止めるよ」

 

 トガの笑みが、僅かに固まる。

 

 出久は正面から彼女を見た。

 

 もう視線を逸らさない。

 

「目の前にいて、ヨーイドンなら」

 

 右足が音もなく床を捉える。

 

 トガが刃物へ手を伸ばした瞬間に腕を押さえられる距離。立ち上がろうとした瞬間に、地面へ組み伏せられる位置。

 

「僕は絶対に君には負けない」

 

 虚勢ではなかった。

 

 出久は既にトガの能力を知っている。

 

 身のこなし。

 

 変身の条件。

 

 人混みへ紛れる技術。

 

 不意を突き、相手の迷いへ入り込む危険性。

 

 そのすべてを踏まえた上での断言だった。

 

 この距離で。

 

 互いに相手を認識し、どちらが先に動いてもおかしくない状態で。

 

 出久が最初から敵として向き合うなら、トガに血を奪う時間も、人混みへ紛れる余地も与えない。

 

 トガは眼鏡の奥から、じっと出久を見つめていた。

 

 口元の歪な笑みが一度だけ薄れる。

 

 だが、恐怖したわけではない。

 

 次に浮かんだ笑顔には、先ほどまでとは異なる熱が宿っていた。頬が赤らみ、瞳が潤み、呼吸が僅かに浅くなる。

 

 出久から向けられた明確な敵意と拒絶。

 

 それすら、トガにとっては甘美な何かへ変わってしまうらしい。

 

「止めるって」

 

 トガは嬉しそうに笑った。

 

「どこまでですか?」

 

 出久は答えない。

 

 トガは僅かに身を乗り出した。

 

「腕を折りますか?」

 

「必要なら」

 

「足も?」

 

「必要なら」

 

「動けなくなるまで?」

 

「そうだよ」

 

 トガの笑みが深くなる。

 

 その反応を見ても、出久の表情は変わらなかった。

 

 怒りも嫌悪も、表面には出ていない。

 

 ただ目だけが冷え切っていた。

 

 トガがほんの少しでも動けば、その瞬間に叩き伏せる。

 

 全身がそう告げている。

 

 トガは、その目を恍惚とした表情で見つめ返した。

 

「殺してでも?」

 

 囁くような声だった。

 

 甘えにも似た、期待に満ちた問い。

 

 出久は一瞬も迷わなかった。

 

「必要なら、そうする」

 

 脅しではない。

 

 彼女が今ここで無関係な人々を殺そうとするなら。

 

 拘束だけでは止められないなら。

 

 他に方法がないのなら。

 

 出久は、その選択を実行するつもりだった。

 

 トガは、しばらく何も言わなかった。

 

 冷え切った目。

 

 感情を削ぎ落とした表情。

 

 敵を倒すためだけに研ぎ澄まされたような気配。

 

 そのすべてを見つめながら、トガの唇がゆっくりと開く。

 

「すてき」

 

 熱に浮かされたような声だった。

 

「今の出久君、とっても──」

 

「デク君?」

 

 不意に、背後から声がした。

 

 出久の肩が僅かに揺れる。

 

 トガの笑みも、ほんの一瞬だけ止まった。

 

 二人は同時に振り返る。

 

 ベンチから数メートル離れた場所に、麗日お茶子が立っていた。

 

 両手には買い物袋が提げられている。日用品店のロゴが入った紙袋と、透明な袋に入れられたタオルや洗面用品。

 

 買い物を終え、出久たちを探して中庭へ戻ってきたのだろう。

 

 だが、その表情は明るくなかった。

 

 眉を寄せ、出久とトガを交互に見ている。

 

「麗日さん」

 

 出久の口から、ようやく声が出た。

 

 先ほどまで頭を満たしていた冷たい集中が途切れ、現実へ引き戻される。

 

 自分がどのような顔でトガを見ていたのか。

 

 会話をどこまで聞かれていたのか。

 

 それを考えた瞬間、胸の奥へ遅れて緊張が戻った。

 

 トガもすぐには演技へ戻らなかった。

 

 眼鏡の奥に残った熱を隠し切れないまま、麗日を見つめている。

 

「買い物はもういいの?」

 

 出久は普段通りを装って尋ねた。

 

 だが、麗日は答えない。

 

 その視線は、トガへ向いていた。

 

 黒縁眼鏡。

 

 帽子。

 

 肩へ流した髪。

 

 午前中に見た物静かな少女と同じ外見。

 

 それでも今、麗日が見ているものは違っていた。

 

 出久を見つめていた時の歪んだ笑み。

 

 人を値踏みするような目。

 

 そして、出久から向けられた異様なまでの警戒。

 

「さっきから、探してたの」

 

 麗日は小さな声で言った。

 

「二人とも見つからなくて。みんなにも聞いたけど、まだ戻ってないって言われて」

 

「ごめん。少し休んでた」

 

「うん」

 

 短く答えたものの、表情は緩まない。

 

 トガは何も言わず、ゆっくりと背筋を伸ばした。

 

 次の瞬間には、先ほどまでの歪んだ笑みが消えている。

 

 肩を縮め、視線を伏せ、両手を膝の上で重ねる。

 

 物静かで、人見知りをする少女。

 

 午前中に演じていた「渡辺ひみこ」の姿へ戻っていた。

 

「お茶子ちゃん」

 

 柔らかな声で呼び掛ける。

 

「ごめんなさい。疲れてしまって、少し休んでたんです」

 

 麗日は笑い返さなかった。

 

 作り物めいた弱々しい表情を、じっと見つめている。

 

「ヒミコちゃん」

 

「はい?」

 

「君は……」

 

 麗日は一度だけ言葉を止めた。

 

 聞いてしまえば、戻れなくなる。

 

 そんな迷いを押し退けるように、視線を逸らさず続ける。

 

「デク君の友達じゃないよね?」

 

 出久は、すぐには答えられなかった。

 

 否定すべきか。

 

 誤魔化すべきか。

 

 事情を話すべきか。

 

 どれを選んでも、麗日をこの場の危険から遠ざけることにはならない。

 

「デク君」

 

 麗日の声から、困惑が薄れ、代わりに警戒が強くなる。

 

「この子は、デク君の何なの?」

 

 買い物袋を足元へ置き、両手を空けた。

 

 歩幅は小さいが、足を止める気はないらしい。重心を僅かに落とし、いつでも個性を使えるよう警戒しながら近付いてくる。

 

「さっき、何の話をしてたの?」

 

 麗日の視線がトガへ向く。

 

「何をするつもりだったの?」

 

「麗日さん、待って」

 

 出久はベンチから立ち上がり、トガと麗日の間へ入れる位置へ身体を移した。

 

「それ以上、近付かないで」

 

 麗日の表情が揺れた。

 

「……どうして?」

 

「危ないから」

 

「誰が?」

 

 麗日はトガを見る。

 

「ヒミコちゃんが?」

 

 出久は答えなかった。

 

 だが、その沈黙だけで十分だった。

 

 麗日の顔から、僅かに血の気が引く。

 

「デク君は、最初から知ってたの?」

 

「それは──」

 

「友達じゃないのに、一緒にいたの?」

 

 理解できないという響きが、言葉の一つひとつへ滲んでいた。

 

 出久は朝から、見知らぬ少女を自分たちの集まりへ連れてきた。

 

 友人だと紹介し、同じ施設を歩き、買い物へ同行させた。

 

 皆が彼女を信じていた間も、出久だけは危険な人物だと知っていた。

 

「ちゃんと説明して」

 

「今は無理だ」

 

「どうして?」

 

「麗日さんを巻き込みたくない」

 

「もう巻き込まれてるよ」

 

 即座に返された。

 

 麗日の目は怯えていた。

 

 だが、それ以上に怒っていた。

 

 危険な相手を、何も知らないまま友人として受け入れさせられたことに。

 

 そして今も、出久が自分を遠ざけようとしていることに。

 

「ヒミコちゃん」

 

 麗日は再びトガへ視線を向ける。

 

「君は、デク君の何なの?」

 

 トガは答えなかった。

 

「デク君に何をするつもりだったの?」

 

 麗日がもう一度尋ねる。

 

「さっき、殺すって聞こえた。何十人とか、止めるとか……あれは何の話だったの?」

 

 トガの口元が、僅かに動いた。

 

「ヒミコちゃん?」

 

 その瞬間。

 

 トガの表情から、作り物の弱々しさが消えた。

 

 伏せられていた瞳が持ち上がり、縮めていた肩が解かれる。控えめに結ばれていた唇が、ゆっくりと左右へ裂けるように持ち上がった。

 

「そっか」

 

 トガは楽しげに呟いた。

 

 麗日の問いには答えない。

 

 代わりに、何か大切なことへ気付いたように目を細める。

 

「出久君って、デク君って呼ばれてるんだ」

 

 その言葉に、麗日の眉が動いた。

 

「え?」

 

「お茶子ちゃんは、デク君って呼ぶんですね」

 

 トガはベンチから立ち上がった。

 

 もう物静かな少女を演じるつもりはないらしい。

 

 声音は明るく、軽く、どこか幼い。

 

 それなのに、眼鏡の奥の目だけが異様な熱を帯びていた。

 

「バイバイ、お茶子ちゃん」

 

 突然、明るく言う。

 

 麗日が目を見開いた。

 

「バイバイ、デク君」

 

「待て!」

 

 出久が踏み込む。

 

 だが、トガは同時に人混みへ向けて身体を滑らせた。

 

 走ったわけではない。

 

 大きく跳んだわけでもない。

 

 目の前を横切った家族連れの背後へ、ふらりと入り込む。帽子を深く被り直し、眼鏡を押し上げ、周囲の歩調へ合わせる。

 

 たったそれだけで、トガの輪郭が人の流れへ溶けた。

 

「トガさん!」

 

 出久は追おうとした。

 

 だが、前方には子供を連れた母親がいる。左からは買い物袋を抱えた夫婦、右には学生の集団が歩いてくる。

 

 個性を使って強引に踏み込めば、一般客を巻き込む。

 

 ほんの一瞬、進路を選ぶために足が止まった。

 

 その隙に、金色の髪が人影の向こうへ消える。

 

 帽子を被り、淡い色の服を着た少女など、休日の商業施設には幾らでもいる。

 

 すでに眼鏡や帽子を外している可能性もある。着替えを用意しているかもしれない。

 

 出久には『電波』もある。

 

 だが、トガの持つ端末を識別できる情報はなく、何より今ここで使えば、隣にいる麗日へ申告していない個性を見られる。

 

 追跡はできなかった。

 

「警察の人、呼ぶね」

 

 麗日は買い物袋を足元へ置き、鞄から携帯電話を取り出した。

 

「それにヒーローも──」

 

 画面を点灯させ、緊急通報へ指を伸ばす。

 

 出久は反射的に、その手首を掴んだ。

 

「え?」

 

 麗日の指が止まる。

 

 出久は、自分が何をしたのかに気付いたように指の力を緩めた。

 

 それでも、手を離すことだけはできなかった。

 

「デク君?」

 

 出久は俯いていた。

 

 前髪が目元へ落ち、表情はよく見えない。だが、握った手から伝わる震えは隠せていなかった。

 

「やめて……」

 

 掠れた声だった。

 

 先ほどまでトガへ向けていた、氷のような声音ではない。

 

「お願いだから」

 

 出久が顔を上げる。

 

 麗日は息を詰めた。

 

 泣きそうな顔だった。

 

 目元は強張り、唇は僅かに震えている。今にも涙が浮かびそうでありながら、それを必死に堪えているように見えた。

 

「警察には、言わないで」

 

「……どうして?」

 

 麗日の声が自然と小さくなる。

 

「今の子、危ない人なんでしょ?」

 

 出久は答えない。

 

「人を殺すって言ってた。それに、あの動き……普通の人じゃないよ」

 

 出久の手が僅かに震えた。

 

「デク君は、あの子が何者か知ってるんだよね?」

 

 否定しなかった。

 

「朝から知ってて、うちらに会わせたの?」

 

「……ごめん」

 

「ごめんって」

 

「本当に、ごめん」

 

 出久はそれしか言わなかった。

 

 麗日の胸へ、冷たいものが沈んでいく。

 

 何も知らずに、皆で笑っていた。

 

 芦戸は恋愛話に目を輝かせ、峰田は簡単に懐柔され、飯田も礼儀正しい少女だと信じた。

 

 その間ずっと、出久だけは知っていた。

 

 あの少女が危険であることを。

 

「どうして連れてきたの」

 

「追い返せなかった」

 

「それだけ?」

 

 出久は口を閉ざした。

 

 麗日は、握られた手を見下ろした。

 

「警察を呼んだら、あの子だけじゃなくて……デク君まで困るんだよね」

 

 出久の呼吸が浅くなる。

 

 それが答えだった。

 

 出久はトガを恐れ、警戒し、必要なら殺すとまで言った。

 

 それなのに、警察へ通報されることは必死に止めようとしている。

 

 ただ脅されているだけなら、助けを求めるはずだった。

 

 それができない事情がある。

 

 警察へ知られれば、出久自身にも不都合が生じるほど深く関わっている。

 

「共犯……なの?」

 

 麗日は、自分の口から出た言葉に胸を抉られるような痛みを覚えた。

 

 出久の目が大きく見開かれる。

 

「違う」

 

 初めて、はっきりと否定した。

 

「じゃあ、何?」

 

「それは……」

 

「言えない?」

 

 出久の唇が動く。

 

 だが、声は出なかった。

 

 麗日は携帯電話へ視線を落とした。

 

 画面には、通報先を選ぶ表示が浮かんでいる。

 

 指を一度動かすだけでいい。

 

 警察へ繋ぎ、危険な少女の外見と服装を伝え、施設の出入口を封鎖してもらう。

 

 それが正しい。

 

 トガが本当にヴィランなら、一刻も早く通報しなければ、別の誰かが傷付くかもしれない。

 

 出久が関与しているなら、それも含めて明らかにするべきだ。

 

 頭では分かっている。

 

 だが、目の前にいるのは見知らぬ犯罪者ではなかった。

 

 緑谷出久。

 

 同じ教室で学び、何度も助けられた少年。

 

 無茶ばかりして、自分より他人を優先し、それでも必死にヒーローを目指してきたデク君だった。

 

 その彼が、泣きそうな顔で自分の手を握っている。

 

 通報すれば、トガだけではなく、出久も警察や教師の前へ差し出すことになる。

 

 何が起きているのかも。

 

 何を隠しているのかも。

 

 出久自身の口から、まだ何一つ聞けていない。

 

 麗日の指先が震えた。

 

 それでも、携帯を持つ手を下ろすことは正しくない。

 

 少なくとも、ヒーローを目指す者としては。

 

 だが、この場で出久を突き放せば、彼が二度と自分を頼らなくなるような気がした。

 

 何か深い場所へ沈みかけているのなら、今ここで手を離した瞬間、本当に届かなくなる。

 

 麗日はゆっくりと、携帯電話を持つ手を下ろした。

 

 これは、彼女にとって、ヒーローの卵として、決してしてはいけない間違いだった。

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