間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第52話 もう抜け出せない

 その日の夕方、夕焼けは既に高層ビルの谷間へ沈み、街には夜の灯りが一つ、また一つと浮かび始めていた。

 

 大型商業施設を後にした緑谷出久は、雄英へ戻ることなく、買い物袋を抱えたまま駅へ向かった。人の流れに紛れて幾度か路線を乗り継ぎ、繁華街を離れ、再開発から取り残された古い市街地へ入る頃には、その足は迷いなく神野区を目指していた。

 

 そこは昼間とはまるで異なる顔を見せていた。既に営業を終えた商店や、壁面に落書きの残る雑居ビルが立ち並び、ネオンの光だけが湿ったアスファルトを照らしている。細い路地に人影はほとんどなく、その一角に、一見すれば廃墟と見紛うほど古びた雑居ビルが建っていた。

 

 外壁には無数のひびが走り、錆びた非常階段が建物の側面を這っている。かつて入居していたテナントの名が記されていたのであろう案内板も、文字の大半が剥げ落ち、今では何一つ読み取れない。

 

 出久は迷うことなく建物の中へ入った。

 

 薄暗いエントランスに管理人の姿はなく、壊れかけた蛍光灯だけが不規則に明滅している。階段を上り、二階を通り過ぎて三階へ出ると、人の気配はさらに薄くなった。営業している店舗があるとは到底思えない静けさの中、廊下の最奥に、他の空きテナントと変わらない古びた木製の扉が一枚だけ佇んでいる。

 

 看板も店名も、営業時間を示す札すら掛かっていない。事情を知らない者が見れば、長らく放置された空き店舗と判断しただろう。

 

 出久は足を止めず、その扉を押し開けた。

 

 ──バンッ。

 

 勢いよく開かれた扉が壁へ当たり、乾いた音が店内へ響き渡った。

 

 外観とは裏腹に、室内は落ち着いた雰囲気に整えられていた。暖色の照明に照らされた木製のカウンターには酒瓶が整然と並び、磨き込まれたグラスが柔らかな光を反射している。客席は十にも満たず、今は他に客の姿もない。看板すら掲げられていない、小さなバーだった。

 

 カウンターの向こうでは、一人の女が黙々とグラスを磨いていた。長い黒髪を後ろで束ね、白いシャツに黒いベストを纏ったレディ・ナガンは、乱暴に開かれた扉にも表情を変えなかった。一度だけ視線を上げて出久を確認すると、何も言わず、再び手元へ目を戻す。

 

 静まり返った店内へ、明るい声が響いた。

 

「お帰りなさい、デク君!」

 

 カウンター席から勢いよく振り返ったトガヒミコが、花が咲いたような笑顔を浮かべた。帽子も眼鏡も外し、肩まで伸びた金色の髪を揺らしながら、嬉しそうに手を振っている。

 

「もう帰ってきたんですね! もっとお茶子ちゃんとお話ししてくるのかと思ってました!」

 

 出久は答えなかった。買い物袋を床へ置くこともなく、ただ真っ直ぐにトガを見つめている。その視線には、昼間よりもなお冷たい色が宿っていた。

 

 重苦しい沈黙が店内へ落ちたが、トガは出久の視線を真正面から受けても、機嫌の良さそうな笑みを崩さなかった。レディ・ナガンも口を挟まず、磨き終えたグラスを棚へ戻してから、次のものを手に取る。その一定の動作だけが、張り詰めた静けさの中で淡々と続いていた。

 

 やがて、出久が低く口を開いた。

 

「……昼の、あれは何のつもりなんだ」

 

 笑顔のまま、トガは首を傾げた。

 

「何のことです?」

 

「とぼけるないで、麗日さんに聞かせるように言っただろう」

 

 出久の声が一段低くなったが、トガは何も答えなかった。

 

「君なら気付いていたはずだ」

 

 出久は一歩、さらにもう一歩とトガへ近付いた。距離が狭まるほど、彼女の笑みはほんの僅かずつ深くなっていく。

 

「逃亡生活を続けてきた君が、人混みの中で周囲を警戒しないなんてあり得ない」

 

 出久はそこで言葉を切り、昼間の光景を脳裏へ浮かべた。

 

 麗日が声を掛けてくるより前から、トガは既に出久だけを見つめていた。周囲への警戒を怠っていたのではない。誰かが現れる瞬間を、初めから待っていたかのように。

 

「最初から気付いていたんだろ」

 

 返事はなく、静かな笑みだけが返ってくる。その沈黙が、出久の胸の内で燻っていた疑念を確信へ変えた。

 

「……それだけじゃない。そもそも、おかしかったんだ。今まで逃亡生活を送ってきた君が、変装だけであんな大型商業施設へ行くなんて」

 

 買い物袋を握る指へ力が入った。昼間はトガから目を離さないことだけで精一杯で、冷静に考える余裕などなかった。しかし、改めて振り返れば、不自然な点はいくらでもあった。

 

「人が集まる場所は、一番避けるべきだ。監視カメラもあるし、プロヒーローが巡回している可能性もある。雄英の生徒だって来る。そんな場所へ、変装一つで何時間も居続けるなんて……君なら絶対に選ばない」

 

 睨み付けられても、トガは口元へ指を添えたまま、楽しそうに瞬きをした。その態度が、出久の胸に渦巻く怒りへさらに油を注いだ。

 

 トガの不用意な発言、意味深な態度、麗日の接近、そして演技を捨てた笑顔。昼間の出来事が一本の線で繋がり、そのすべてが意図されたものだったのだと理解した瞬間、出久は声を荒らげた。

 

「僕をはめたのか!?」

 

 怒声が狭い店内へ響き、カウンターに並ぶグラスが小さく震えた。それでもトガは驚かず、むしろその言葉を待っていたかのように目を細める。

 

「あは、バレちゃった」

 

 責められている者とは思えないほど穏やかで、肩の力が抜けた声だった。その態度が、出久の怒りをさらに掻き立てた。

 

「答えろ! 何が目的なんだ!」

 

 指から力が抜け、買い物袋が床へ落ちる。中に入っていた洗剤や包帯が、鈍い音を立てて転がった。

 

 出久は一歩、また一歩と距離を詰める。あと数歩で手が届くところまで迫っても、トガは椅子から立ち上がろうとしなかった。

 

「僕を雄英に居られなくすることか! 麗日さんにあんな場面を見せて、僕と君が繋がってると疑わせて……!」

 

 昼間に見た麗日の表情が脳裏をよぎった。怯えと困惑、そして最後に携帯電話を下ろした時の、苦しそうな顔。

 

 出久は両手で頭を抱えた。

 

「僕の人生を……僕の人生をどうしたいんだ!」

 

 指先が髪を掴み、呼吸が乱れる。今にも飛び掛かりそうな勢いでトガを睨み付けると、店内の空気が鋭く張り詰めた。

 

 レディ・ナガンは手を止めなかったが、その視線だけは静かに二人を追っていた。

 

 トガはしばらく黙って出久を見つめていた。怒鳴り声にも、向けられた殺気にも、少しも怯える様子はない。やがて、夕食の献立でも話すような気軽さで口を開いた。

 

「私は好きなように生きるだけです。デク君の人生を壊したいとか、そういう難しいことは考えてませんよ?」

 

 肩をすくめたトガは、椅子へ座ったまま頬杖をつき、にこりと笑った。

 

「ただ、人殺しのデク君がヒーロー社会じゃ生きづらそうだから、こっちに来ればいいのになー、とは思ってます」

 

 人殺し。

 

 その言葉だけが、出久の胸へ鋭く突き刺さった。

 

 トガはあまりにも自然に、当たり前のことのように言った。そこには出久の人生を弄び、壊れていく様を愉しもうとする計算すら見えない。

 

 本気なのだ。

 

 彼女は心から、出久がこちら側へ来ればよいと思っている。

 

 だからこそ、その無邪気さが何よりも恐ろしかった。

 

「ふざけるなよ……!」

 

 出久の喉から、押し殺していた怒気が漏れた。

 

 次の瞬間、床を蹴り、一気にトガとの距離を詰める。途中にあった椅子が脚へ弾かれ、甲高い音を立てて倒れた。

 

 あと半歩。

 

 腕を伸ばせば、その襟首を掴める。

 

 それでもトガは避けようとせず、むしろ嬉しそうに目を細め、迫ってくる出久を見つめていた。

 

 その時、不意に店内の奥から電子音が鳴った。

 

 ──プツン。

 

 壁へ取り付けられていた古い液晶テレビが自動的に電源を入れ、真っ黒だった画面へノイズが走る。数秒後、黒い映像が安定すると、店内にいた全員の動きが一瞬だけ止まった。

 

 やがて、聞き慣れた穏やかな男の声が流れた。

 

『やあ、出久君』

 

 出久の身体がぴたりと止まった。拳を握り締めたまま、トガまであと一歩という距離で動きを止め、ゆっくりとテレビへ視線を向ける。

 

 画面に人物は映っていない。黒い背景のまま、声だけが店内へ静かに響いていた。

 

『休みの日に急に呼んですまないね。いつものようにメールや電話でも良かったんだが、今日は全員を集めておきたくてね』

 

 言葉が終わるのとほぼ同時に、店の奥にあるスタッフルームへ続く木製の扉がゆっくりと開き、古びた蝶番がギィ、と低い音を立てた。

 

「お、また喧嘩してる」

 

 軽い調子の声とともに姿を現したのは、黒いシルクハットを被り、顔を奇術師めいた仮面で覆った男だった。燕尾服を思わせる洒落た装いで、まるで舞台へ上がる役者のように悠々と歩いてくる。

 

 男が店内を見回して肩をすくめると、その後ろから大柄な人影が続いた。胸元の開いたシャツに派手なアクセサリーを身に着け、サングラスを掛けたその人物は、屈強な体格とは対照的に、仕草の一つひとつが妙にしなやかだった。

 

「あらぁ、アンタたち。店の中で暴れないでちょうだいよ。ナガンちゃんがお掃除大変になるじゃない」

 

 最後に飛び出してきたのは、頭の先から足元まで奇妙な全身タイツで包み、顔を無機質なマスクで覆った男だった。落ち着きのない足取りで店内へ入ると、きょろきょろと辺りを見回し、出久を見つけた瞬間に大きく片手を上げた。

 

「おっ! 緑谷少年! この前はありがとな!」

 

 勢いよく親指を立てた男を見て、出久は目を見開いた。

 

 その声、その調子。どこか芝居がかっていて、それでいて妙に人懐っこい話し方には聞き覚えがあった。

 

「……まさか。この前、カツアゲされていた……」

 

「そうそう! 助けてもらった! いや違う、助けられてねぇ! いや助けてもらったんだ! どっちだ!」

 

 全身タイツの男は勢いよく頷いたかと思えば、自分で言って混乱しながら頭を抱え、次の瞬間には豪快に笑った。

 

「とにかく助かったんだよ! 本当にサンキューな!」

 

 その様子を見ながら、仮面の男が苦笑交じりに帽子へ手を添えた。

 

「彼はこういう奴でね。改めまして、ヴィラン名はMr.コンプレス。先日は随分慌ただしくて、自己紹介も出来なかった」

 

 芝居がかった所作で一礼する隣では、サングラスの人物が腰へ手を当て、にやりと笑っていた。

 

「アタシはマグネ。マグ姐って呼んで」

 

 そう言って近くの丸テーブルから椅子を引き、どっかりと腰を下ろす。

 

「コンプレス、アンタも座んなさい」

 

「もちろん。緑谷君も座りな」

 

 Mr.コンプレスは帽子を軽く持ち上げると、向かいの席へ優雅に腰掛けた。トゥワイスも「座るぞ!」「立ってる!」などと一人で騒ぎながら空いている椅子へ飛び込み、背もたれへ身体を預ける。

 

 やがて全員が、それぞれ思い思いの席へ収まった。

 

 カウンター席では、トガが先ほど倒れた椅子を起こし、何事もなかったかのように腰を下ろしている。Mr.コンプレスは丸テーブルへ肘をつき、仮面越しにテレビを見上げ、マグネは組んだ脚をゆっくりと揺らしていた。

 

 トゥワイスだけは落ち着きなく身体を前後へ動かしながら、「何が始まるんだ?」「全部知ってるぞ!」と相反する言葉を小声で繰り返している。

 

 レディ・ナガンも磨いていたグラスを棚へ戻し、カウンターの内側へ立ったまま腕を組んで、古い液晶画面へ冷めた視線を向けた。

 

 出久だけが座らなかった。床へ落とした買い物袋の傍らに立ち、握り締めた拳を下ろさないままテレビを睨み付けている。トガへ向けていた怒りは消えていないが、それ以上に、この場へ集められた面々とAFOの意図を警戒していた。

 

 画面は依然として黒い。それでもAFOには室内の様子が見えているらしく、全員が揃ったことを確かめるように僅かな間を置いた後、穏やかな声がスピーカーから流れた。

 

『さて、スピナー君は別任務についているから……これで全員だね』

 

「全員?」

 

 出久が低く繰り返した。その言葉には、自分まで当然のように数えられていることへの苛立ちが滲んでいたが、AFOは気に留めた様子もなく続けた。

 

『まずは、今日ここへ集まってもらった理由から話そう。私はこれまで十数年にわたり、身を隠してきた』

 

 店内の空気が僅かに引き締まる。トガは頬杖をつきながら楽しげに耳を傾け、Mr.コンプレスは仮面の顎へ指を添えた。マグネも脚の動きを止め、トゥワイスでさえ騒ぐのをやめている。

 

『ある男との戦いで、私は随分と大きな傷を負った。失ったものも少なくない。組織も、支配力も、かつて私の名を恐れていた者たちも、多くは時代の流れの中で消えていった』

 

 その声は穏やかで、恨みを語っているようには聞こえなかった。むしろ、自分の不在によって変化した社会を、他人事のように報告しているかのようだった。

 

『だから私は潜伏した。傷を癒やし、力を蓄え、次の時代を担う者たちが育つのを待っていたんだ』

 

 出久の視線が、店内に集まったヴィランたちへ向いた。

 

 トガヒミコ、Mr.コンプレス、マグネ、トゥワイス、そして元公安直属のヒーローだったレディ・ナガン。AFOが言う「次の時代を担う者たち」とは、おそらく彼らを指している。

 

 そして、当然のように自分もその中へ含められている。

 

 そう考えるだけで、出久の奥歯が軋んだ。

 

『だが、いつまでも隠れているわけにはいかない。準備は整いつつある。仲間も増えた。社会は以前より脆くなり、人々は一人の英雄へ依存し過ぎている。そろそろ私も、本格的に動き出そうと思ってね』

 

 AFOの声は、ほんの僅かに愉しげな響きを帯びていた。

 

「本格的に? 今までのは準備運動だったってこと?」

 

 マグネがサングラスを指で押し上げる。

 

『そう考えてもらって構わない』

 

「へえ。随分と派手な本番になりそうじゃない」

 

 マグネが口元を吊り上げると、Mr.コンプレスも愉快そうに両手を広げた。

 

「どんな大舞台を用意してくれたんだ?」

 

『君の期待には応えられると思うよ』

 

 AFOは軽く笑い、そのまま穏やかな口調で告げた。

 

『その手始めとして、我々は雄英高校を再び攻撃する』

 

 出久の表情が固まり、バーの中から音が消えた。

 

 トゥワイスが身を乗り出して「学校を襲うのか!」「遠足に行こうぜ!」と叫んだが、誰も反応しなかった。

 

 雄英。

 

 教室で交わされる声、演習場に響く爆発音、入学を喜んでくれた母の顔が、出久の脳裏を一瞬で駆け抜けた。

 

 自分が通い、クラスメイトと訓練を重ね、ヒーローを目指してきたその場所を、AFOは再び襲うと言う。

 

 USJでの襲撃は偶発的な一度きりではなく、次の計画へ続く前段階だった。その事実を、AFOはあまりにも平然と告げていた。

 

「再び、ということは、USJ襲撃の続きか」

 

 レディ・ナガンが初めて口を開いた。低く落ち着いた声だった。

 

『その通り。あの時はあくまで様子見、今後のための伏線に過ぎない』

 

 AFOの穏やかな声が黒い画面から流れ続ける中、出久は眉を顰めた。

 

 USJでの襲撃を、伏線。

 

 あれだけの被害を出し、雄英の生徒たちを恐怖へ晒し、十三号や相澤を重傷へ追い込んだ事件を、AFOは次の計画へ繋げるための準備に過ぎなかったと語っている。

 

 そこに後悔も、失敗を悔しがる響きもない。ただ計画の一段階を説明するような、乾いた事実確認だった。

 

「……目的は何なんですか」

 

 出久は押し殺した声で尋ねた。店内にいる全員の視線が、僅かに彼へ集まる。

 

「さっきは雄英を攻撃すると言った。でも、USJの時と同じようにオールマイトを狙うなら、今度こそ根津校長たちも警戒している。真正面から襲えば、また失敗するだけです」

 

『そうだね』

 

 AFOはあっさりと肯定した。

 

『対ヒーロー社会という大きな視点に立てば、最終的な目標はもちろん、平和の象徴──オールマイトの殺害だ。彼が存在する限り、この社会は完全には崩れない。多少の事件が起きようと、ヒーローが敗れようと、人々は最後にオールマイトが現れると信じている。彼は一人の人間でありながら、同時に社会全体を支える概念でもある』

 

 その名が出た瞬間、出久の奥歯が軋んだ。レディ・ナガンも僅かに目を細める。かつてヒーロー社会の裏側に身を置いていた彼女には、その言葉の意味が誰よりもよく分かるのだろう。

 

『だから、いつかは殺す。彼の死を公衆の前へ晒し、平和の象徴が決して不滅ではなかったと証明する。それがヒーロー社会へ与えられる最大の打撃になる。だが……今回は、そこまで欲張るつもりはない』

 

「今回は?」

 

 Mr.コンプレスが興味深そうに身を乗り出す。

 

『ああ。一つずつ、ゆっくり計画を進めていこう』

 

「俺なら勝てる! 絶対殺される!」

 

 トゥワイスは拳を振り上げた直後、頭を抱えるように椅子へ沈み込んだ。一方、トガは頬杖をついたまま楽しそうに足を揺らしている。オールマイトという名前にも、雄英襲撃という言葉にも、怯えた様子はなかった。

 

 出久だけが、黒い画面へ冷えた視線を向けていた。

 

「なら、何のために雄英を狙うんですか」

 

 AFOの声から、僅かな笑みが感じられた。

 

『今回は、ヒーロー社会へ衝撃を与えたい。人々が雄英へ抱いている信頼を揺るがすんだ』

 

 出久の表情が硬くなる。

 

『雄英高校は、日本最高峰のヒーロー育成機関として知られている。そこへ入学した生徒たちは、将来を約束された若き英雄だと見なされ、教師陣もまた国内屈指のプロヒーローで構成されている。保護者も社会も、雄英なら子供たちを守れると信じている。だが、その雄英が再び生徒を守れなかったとしたら?』

 

 穏やかな口調だった。それだけに、続く言葉への嫌な予感が強まり、出久の拳へ力が入った。

 

『一度なら、不運な奇襲として処理できる。実際、USJ襲撃の後も社会の多くは雄英を擁護した。ヴィラン側が卑劣な手段を用いた、教師たちは身を挺して生徒を守った、オールマイトが勝利した。そう語ることで、雄英の権威は致命傷を免れた。しかし、二度目は違う』

 

 AFOの声は淡々としていた。

 

『また雄英の生徒が襲われる。それも学校側が警戒を強めた後に。そこで実際に犠牲者や行方不明者が出れば、人々は考え始めるだろう。雄英は、本当に生徒を守れるのか。最高峰のヒーローたちは、自分たちの足元さえ守れないのではないか、とね』

 

 店内では、誰も口を挟まなかった。

 

 出久の脳裏には、今日、商業施設で笑っていたクラスメイトたちの姿が浮かんでいた。買い物袋を抱えていた麗日、補講を嫌がっていた上鳴や峰田、林間学校での訓練を楽しみにしていた切島。

 

 誰も、自分たちが既に標的として計画へ組み込まれているとは知らない。

 

「まさか……」

 

 出久の声が低くなると、AFOはその反応を待っていたように続けた。

 

『夏休みには、林間学校が行われるね?』

 

 出久の呼吸が止まった。

 

 根津との面談、教室での会話、今日の買い物、そして林間学校へ向けた準備。それらが一瞬で繋がった。

 

「どうして、それを」

 

『雄英の年間行事として、それほど秘匿された情報ではないさ。例年通りなら、一年生は学校外の施設へ移動し、個性を伸ばすための集中訓練を行う』

 

 AFOの言葉に、出久はすぐ違和感を覚えた。林間学校が予定されていること自体は、生徒や保護者なら知っている。しかし、訓練内容や実施場所はまだ明かされていない。特にUSJ襲撃後の雄英が、過去と同じ場所や手順をそのまま使うとは考えにくかった。

 

「場所は、まだ決まっていません」

 

『学校側から生徒へ伝えられていないだけだろう』

 

「今までと同じ場所になるとも限らない。USJの後です。根津校長なら、移動経路も宿泊施設も直前まで隠すはずです」

 

『もちろん、その可能性は考慮している。だからこそ、内部にいる君が必要になる』

 

「僕は……僕はもう」

 

 出久が何かを言い掛けるより早く、AFOの声がほんの僅かに弾んだ。

 

『林間学校の期間中、雄英一年生を襲撃する』

 

 トガの足の動きが止まり、Mr.コンプレスは仮面の奥で目を細め、マグネは顎へ手を添えた。トゥワイスだけが「キャンプだ!」「遭難だ!」と騒いだが、やはり誰も反応しなかった。

 

『雄英という組織を攻撃するという意味では、学校の敷地である必要はない。むしろ、校外へ生徒が移動する時こそ防備は薄くなる。雄英が場所を秘匿し、一般人から離れた地域を選べば選ぶほど、襲撃する側には都合がいい。外部から見つかりにくい場所は、救助も到着しにくいからね』

 

 出久は何も言えなかった。

 

 その指摘は正しい。林間学校の目的が個性強化訓練である以上、周辺住民へ被害を出さないためにも、人里離れた施設が選ばれる可能性は高い。そしてそれは、ヴィランの襲撃を受けた際、即座に警察や他のヒーローへ頼れないことを意味していた。

 

「……そこで、何をするつもりですか。誰かを殺すつもりですか?」

 

 出久の低い問いに、AFOは何でもないことのように答えた。

 

『殺害はしない。出久君も、そちらの方がいいだろう? もちろん、抵抗が激しければ多少の負傷者は出るだろう。戦闘になれば事故も起こる。だが、死者を出すつもりはないよ』

 

「……何を」

 

『殺さず、生きたまま連れ去る』

 

 AFOは丁寧に言い直した。

 

『誰が捕まったのか。どこへ連れて行かれたのか。まだ生きているのか。何をされているのか。保護者も、教師も、世間も、答えの出ないまま待ち続けることになる』

 

 出久の頭へ、クラスメイトの顔が次々に浮かんだ。

 

 誰かが突然消え、林間学校から戻らない。雄英が記者会見を開き、警察が捜索を続け、家族が帰還を待つ。その間、AFOは人質を握り続ける。

 

『雄英は生徒を守れなかったと非難される。しかも、遺体すら返らない。救出できる可能性がある限り、教師たちは動き続けなければならず、世間も事件を忘れることができない』

 

 その後もAFOは、襲撃に投入する人員や侵入後の行動、撤退の条件について大まかな説明を続けた。ただし、肝心な部分は意図的に曖昧にされていた。

 

 林間学校の正確な場所。

 

 襲撃の日時。

 

 移動に用いる手段。

 

 生徒を連れ去った後の収容先。

 

 それらについては、まだ決定していないのか、あるいは最初から出久へ教えるつもりがないのか、最後まで明かされなかった。

 

 出久に求められたのは、雄英から林間学校について新たな情報が伝えられた際、それを報告することだった。

 

 宿泊施設の場所。

 

 出発日時。

 

 同行する教師。

 

 移動経路。

 

 訓練の予定。

 

 そのうちどれか一つでも構わないと、AFOは穏やかに告げた。

 

 出久は一度も了承しなかった。黒い画面を睨み付けたまま、拳を強く握り締めていた。

 

 それでもAFOは、彼の拒絶を問題にしていないようだった。

 

 協力するかどうかを尋ねているのではない。出久がいずれ情報を差し出すことを、既に決まった未来として扱っている。

 

 その態度が、露骨な脅迫よりも強く出久を追い詰めていた。

 

『さて』

 

 やがてAFOが、話を区切るように声の調子を変えた。

 

『現時点で伝えておくべきことは、このくらいかな』

 

 トガは会話へ加わらず、カウンターへ頬杖をついたまま出久を眺めていた。その視線に気付いても、出久は顔を向けなかった。

 

 彼の頭の中には、林間学校という言葉だけが残り続けている。

 

 今日買い揃えた荷物。

 

 楽しげに予定を話していたクラスメイトたち。

 

 根津から告げられた個性強化訓練。

 

 その先に、ヴィランの襲撃と誘拐が待っている。

 

 止めなければならない。

 

 しかし、どうやって止めるのか。

 

 雄英へ伝えれば、自分とAFOとの関係を説明しなければならない。麗日が通報を取りやめたことまで明らかになれば、彼女も無関係ではいられなくなる。

 

 だからといって何も言わなければ、襲撃を知りながら黙認することになる。

 

 考えれば考えるほど、残された選択肢は細くなっていった。

 

『出久君』

 

 AFOの声に、出久はゆっくりと顔を上げた。

 

『今日はもう帰って構わないよ』

 

「……え?」

 

『休みの日に長く引き止めてしまったからね。買い物もあったのだろう? 君の荷物が床へ散らばったままだ』

 

 出久は足元へ目を落とした。

 

 怒りに任せて落とした買い物袋から、携帯用の洗剤や包帯、未開封の靴下が転がり出ている。どれも林間学校のために購入した物であり、つい数時間前までは、必要な物を無事に揃えられたと考えていた。

 

 今は、その一つひとつが襲撃の予告を突き付けてくるように見えた。

 

『また追って連絡するよ。それまで、普段通りに過ごしてくれればいい。何も特別なことをする必要はない』

 

「普段通りに……?」

 

『そうとも。学校へ通い、友人たちと話し、林間学校を楽しみにしている生徒として振る舞えばいい』

 

 出久の顔が歪んだ。

 

「そんなこと、できるわけが」

 

『できるさ』

 

 AFOは言葉を重ねるように、静かに断言した。

 

『君は既に、いくつもの秘密を抱えたまま雄英へ通っている。今さら一つ増えたところで、大きな違いはないだろう?』

 

 出久は反論できなかった。喉元まで出掛かった言葉は形にならず、浅い呼吸へ変わっていく。

 

『それでは、今日はこれで解散にしよう。皆もゆっくり休みたまえ』

 

 AFOの声は、会議を終える教師のように軽かった。

 

 黒い画面へ細かなノイズが走り、通信終了を示す短い表示が現れた。だが、テレビの電源だけは落ちず、暗い画面のまま、スピーカーから僅かな雑音が流れ続けていた。

 

 出久はしばらくその場に立ち尽くしていたが、誰も急かそうとはしなかった。

 

 Mr.コンプレスは仮面越しに彼を眺め、マグネは黙って脚を組んでいる。トゥワイスも珍しく声を出さず、トガだけが出久の横顔から視線を外さなかった。

 

 やがて出久は、床へ散らばった品物を一つずつ買い物袋へ戻し始めた。指先は僅かに震え、何度か小さな品物を取り落とす。最後の品を袋へ押し込むと、持ち手を握り、定まらない足取りで店の扉へ向かった。

 

「緑谷君」

 

 背後から、Mr.コンプレスが呼び掛けた。出久は振り返らない。

 

「あー、おじさんが送って行ってやろうか?」

 

「今は放っておきなさいよ」

 

 マグネが呆れたように言った。

 

「顔を見れば分かるでしょ。冗談を聞ける状態じゃないわ」

 

「……わかったよ」

 

 Mr.コンプレスは軽く両手を上げた。

 

 出久は扉へ辿り着き、取っ手を掴む。

 

「デク君」

 

 トガの声に、出久の足が一瞬だけ止まった。

 

「また明日」

 

 それでも振り返らず、返事もしない。出久は扉を開き、そのまま店の外へ出ていった。

 

 扉は反動を受けてゆっくりと閉じていく。古びた蝶番が長く軋み、閉じ切る直前まで、廊下を進む出久の不規則な足音が聞こえていた。

 

 やがてその音も、階段の下へ消えた。

 

 バーには、トゥワイス、Mr.コンプレス、マグネ、トガヒミコ、そしてレディ・ナガンだけが残された。

 

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 

 テレビの黒い画面。

 

 床へ倒れたままの椅子。

 

 出久が立っていた場所。

 

 彼が退室した後も、先ほどまでの重苦しい空気は店内へ残り続けていた。

 

「……壊れそうな顔してたな」

 

 トゥワイスがぽつりと呟き、直後に両手を広げた。

 

「元気いっぱいだったぜ!」

 

 誰も反応しなかった。

 

 トガは閉じた扉を見つめたまま、椅子の上で足を揺らしている。口元には薄い笑みが浮かび、満足しているようにも見えた。

 

 出久が追い詰められていくことを喜んでいるのか、それとも、彼がこちら側へ近付いていると信じているのか。

 

 おそらく、その両方なのだろう。

 

「アンタも相当ねぇ」

 

 マグネがトガへ視線を向けた。

 

「好きな相手があんな顔してるのに、随分と楽しそうじゃない」

 

「好きだからですよ」

 

 トガは即座に答えた。

 

「デク君、どんどん素敵になってます」

 

「アタシには泣きそうな子供に見えたけどね」

 

「それも可愛いです」

 

 マグネは肩をすくめた。

 

「救えないわ」

 

「救われたいなんて言ってません」

 

 トガは嬉しそうに笑った。

 

 Mr.コンプレスがテーブルへ指先を打ち付ける。

 

「しかし、随分と危うい仕込みだ。彼、そろそろ潰れちゃうんじゃないか? 聞いてた話と違うぜ」

 

『その心配はないよ』

 

 切れたと思われていたテレビから、AFOの声が流れた。

 

 音量は先ほどよりも小さかったが、どうやら接続は続いていたらしい。

 

 レディ・ナガンは驚かなかった。腕を組んだまま、黒い画面を見つめている。その瞳には、他の面々のような期待も興奮もなかった。

 

「AFO」

 

 低い声で呼ぶ。

 

『何かな、ナガン』

 

「この計画は失敗するよ」

 

 ナガンはカウンターへ片手をついた。

 

「USJの襲撃から、それほど時間は経っていない。雄英は警備を見直している。生徒を校外へ出すなら、場所も経路も厳重に秘匿するはずだ」

 

『そうだろうね』

 

「同行する教師も、以前とは比較にならないほど警戒している。林間学校を予定通り実施するとしても、襲撃を想定した対策は取るだろう」

 

『当然だ』

 

 AFOは楽しげに答えた。ナガンの眉間へ皺が寄る。

 

「こちらの戦力も寄せ集めだ。個々の能力は高いが、連携訓練もしていない。現場の指揮系統も決まっていない。それに対して、相手は雄英の教師と、戦闘訓練を受けたヒーロー科の生徒たちだ。予定通りに誘拐できる可能性は低いし、下手をすれば何人か捕まる。そもそも緑谷へ計画を聞かせた以上、雄英側に情報が漏れることまで考えるべきだ」

 

『その通りだね』

 

 AFOの返事は相変わらず軽かった。ナガンの目がさらに鋭くなる。

 

「分かっているのか」

 

『分かってる、分かってる』

 

 AFOは子供を宥めるように繰り返した。

 

 次いで、スピーカーの向こうから小さな鼻歌が聞こえてくる。明るく調子外れで、緊張感の欠片もない。

 

 ナガンは何も言わず、黒い画面を睨み付けた。

 

 AFOは数秒ほど鼻歌を続けた後、上機嫌な声で言った。

 

『今のオールマイトや雄英なんて、正直どうでもいい。ヒーロー社会も、計画が進めば自ずと崩れ去る予定だ』

 

 スピーカーの向こうで、AFOは再び鼻歌を口ずさんだ。

 

 その声は、実に楽しそうだった。

 

『あぁ出久君。早く、黒い夜明けが見たいなぁ』

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