林間学校当日。
雄英高校の校門を出た大型バスは、市街地を抜け、山間部へ続く幹線道路を走っていた。
車内には朝から浮き立った空気が満ちている。数日前まで実技試験の結果や補講を嘆いていた生徒たちも、いざ出発してしまえば林間学校への期待を隠し切れないらしい。座席越しに身を乗り出して話す者、持ち込んだ菓子を分け合う者、これから始まる訓練の内容を予想する者。車輪が路面の継ぎ目を越えるたび、騒がしい声がわずかに揺れた。
ただし、目的地について知っている者は一人もいなかった。
集合時間と必要な持ち物、数日間の宿泊を伴うことだけは事前に知らされていたが、施設の名称も住所も、生徒へ配られた資料には記載されていない。訓練についても、個性を伸ばすための集中訓練を行うという大まかな説明だけで、具体的な予定は伏せられたままだった。
出発前に飯田が相澤へ質問したものの、返ってきたのは「着けば分かる」という簡潔な答えだけだった。
根津の判断なのだろう。
USJ襲撃を経験した雄英が、生徒たちの行き先を安易に明かすはずがない。保護者へ渡された書類にも、緊急時の連絡先は雄英高校を経由する形で記され、宿泊先の情報は伏せられていた。
警戒としては当然だった。それでも出久には、その徹底ぶりが十分だとは思えなかった。
窓の外では背の高い建物が少しずつ減り、代わりに深い緑が視界を占め始めている。道路の両側には斜面が迫り、ガードレールの向こうには川が見え隠れしていた。バスがカーブを曲がるたび、山肌を覆う木々が車窓の間近を流れていく。
出久は座席へ浅く腰掛けたまま、制服のポケットから携帯電話を取り出した。画面を点灯させると、通信状態を示すアンテナは一本しか立っていない。しばらく眺めているうちに、それも消えた。
圏外。
地図を開こうとしても、接続できないことを示す表示が浮かぶだけだった。出久は何度か更新を試したが、結果は変わらない。
山中へ入れば電波が届きにくくなること自体は珍しくない。だが、行き先を知らされず、外部との通信まで断たれた状況は、AFOの計画を知る出久にとって別の意味を持っていた。
襲撃が起きても、警察や雄英、外部のプロヒーローへすぐに助けを求めることはできない。同行している教師だけで対処しなければならない時間が生まれる。
AFOが語っていた通りだった。
一般人から遠く、周辺へ被害を出しにくい場所は、同時に救援が届きにくい場所でもある。
出久は画面を消し、携帯電話をポケットへ戻した。そのまま足元の鞄へ視線を落とし、わずかに開いたファスナーの隙間から中を確かめる。
衣類や日用品の間に、小型の発信機が紛れていた。
AFOから渡された機器である。携帯電話の回線とは別の通信方式を用い、山中でも位置情報を送信できると説明されていたが、それが事実なのか、出久には確かめようがなかった。
捨てることも考えた。
壊してしまえば、この場所をAFOへ伝えずに済むかもしれない。しかし、発信機が停止したことを向こうが把握できる可能性もある。自分が命令に逆らったと知られれば、母親や麗日へ何が起こるか分からない。
結局、出久は発信機を持ったままバスへ乗っていた。
この機器で訓練場所を伝える。それが自分に課された任務だった。
そして出久は、雄英へ何も伝えられないまま今日を迎えていた。
AFOから林間学校襲撃の計画を聞いて以来、何度も報告しようとは考えた。相澤へ話す。根津へすべてを打ち明ける。匿名で警告を送り、少なくとも林間学校だけでも中止させる。
方法はいくつも思い浮かんだ。
だが、どの方法を選んでも、自分とAFOとの関係へ繋がる危険があった。
根津は既に自分を疑っている。不自然な警告が届けば、まず内部の人間が情報源として疑われるだろう。林間学校について詳しく知る者は限られている。調査が始まれば、出久へ行き着くまでそう時間は掛からない。
何より、麗日がいる。
商業施設でトガの正体へ気付きながら、出久に懇願されて通報を取りやめた。もしあの日のことが明らかになれば、彼女も事情を聞かれる。危険人物を逃がしたことも、出久が何かを隠していると知りながら黙っていたことも、すべて説明しなければならなくなる。
出久は分かっていた。
クラスメイトの安全よりも、自分の居場所と麗日の立場を優先している。そう理解してなお、口を開くことができなかった。
問題は、もはや自分一人のものではなくなっていた。
出久は無意識に、通路を挟んだ斜め前の席へ視線を向けた。
麗日は窓側へ座っていた。隣には芦戸がいるが、今は峰田や上鳴との会話へ夢中になり、座席の背もたれ越しに身を乗り出している。麗日だけが会話へ加わらず、頬杖をついて窓の外を眺めていた。
流れていく木々や谷間を縫う川、遠くに重なる山並みを見つめる横顔は、朝からほとんど変わっていない。
怒っているようには見えない。かといって、普段の柔らかな表情でもなかった。視線は窓の外へ向いているが、本当に景色を見ているのかは分からない。
買い物の日以来、出久は麗日と一度もまともに話せていなかった。
学校で顔を合わせる機会はあった。教室へ入れば、彼女はいつもの席に座っていた。授業中も昼休みも放課後も、同じ空間にいた。
それでも、会話は生まれなかった。
出久が近付こうとすれば、誰かが麗日へ声を掛ける。麗日がこちらを見れば、出久の方が先に視線を逸らしてしまう。
謝らなければならない。事情を説明できなくても、少なくとも巻き込んだことについて謝罪するべきだった。
そう思いながら、結局何一つ言えないまま数日が過ぎた。
何を話せばいいのか分からないのではない。どこまで話してよいのか分からなかった。
トガの正体やAFOとの関係、保須で起きたこと、自分が複数の個性を持っていること、そして林間学校が襲撃される可能性。どれか一つを説明すれば、残りの秘密へも繋がってしまう。
中途半端に話せば、麗日をさらに混乱させるだけだ。すべてを話せば、自分は雄英へ戻れなくなるかもしれない。
そして、何より恐ろしいのは、すべてを話した後で、麗日が自分を見る目が変わることだった。
出久が視線を落とすと、膝の上で両手が固く組まれていた。
「緑谷」
不意に横から呼ばれ、出久は顔を上げた。
隣の席に座る轟が、わずかに眉を寄せてこちらを見ていた。
「さっきから落ち着かないな」
「え?」
「携帯を何度も見てた。連絡でも待ってるのか」
「いや、そういうわけじゃ……」
出久は反射的に否定した。
「目的地がどの辺りなのか、地図で分からないかなと思っただけだよ。でも圏外になったから」
「そうか」
轟はそれ以上追及しなかった。
前方では、上鳴が圏外になった携帯電話を掲げ、悲鳴のような声を上げている。
「マジで電波ねえんだけど! 山奥すぎない!?」
「林間学校なんだから当たり前だろ!」
切島が笑った。
「むしろ、こういう方がそれっぽくていいじゃねえか!」
「良くねえよ! 夜に動画見られないじゃん!」
「訓練しに来たんだぞ、上鳴君!」
飯田が通路側の席から腕を振り上げた。
「娯楽を目的とした旅行ではない! 通信環境がなくとも、規則正しく有意義な集団生活を──」
「はいはい、委員長は元気だねえ」
瀬呂が呆れたように笑い、車内のあちこちから笑い声が上がった。
麗日も一瞬だけそちらへ顔を向け、口元へわずかな笑みを浮かべた。しかし、すぐに窓の外へ視線を戻してしまう。
その横顔を見て、出久の胸が小さく痛んだ。
今なら話せるかもしれない。
バスの中には周囲に生徒がいる。危険はない。少なくとも、謝罪だけならできる。
出久は座席から腰を浮かせかけた。
その瞬間、バスが大きなカーブへ差し掛かり、車体が横へ傾いた。出久は咄嗟に背もたれへ手をつく。
「立つな、危ないぞ」
前方から相澤の低い声が飛んできた。
「すみません」
出久は座り直した。
立ち上がる機会を失っただけだった。それなのに、胸の奥ではどこか安堵している自分もいる。
今は話さなくて済む。また先延ばしにできる。
その卑怯な安堵へ気付き、出久は奥歯を噛み締めた。
バスはさらに山奥へ進んでいく。道路は次第に狭くなり、左右から張り出した木々が空を覆い始めていた。陽光は枝葉に遮られ、昼間だというのに車内へ差し込む光は薄い。
行き先も訓練内容も知らされず、通信まで断たれた今、出久にはAFOの計画がどこまで進んでいるのか確かめる術がなかった。
正確な場所も、襲撃の日時も、方法も知らない。それでも、何かが起きる。
AFOの言葉が、耳の奥へこびり付いて離れなかった。
窓の外には深い森が途切れることなく流れている。その向こうに何者かが潜んでいたとしても、走るバスの中から見つけることなどできない。
ふと、窓ガラスへ自分の顔が映った。
強張った目と浅い呼吸。その少し先には、別の窓に映った麗日の横顔が重なっている。
出久は何も言えないまま、その姿を見つめ続けた。
やがて、バスの速度が緩やかに落ち始めた。
エンジンの音が低くなり、窓の外を流れていた木々の動きが次第に遅くなる。何度か小さく車体を揺らした後、バスは道路脇へ寄るようにして停車した。
「着いたのか?」
切島が窓へ顔を近付ける。
「やっと電波のあるところに──」
上鳴も携帯電話を掲げたが、画面に表示された圏外の文字は変わらない。窓の外を見た途端、困惑したように眉を寄せた。
「……ここ?」
車内のざわめきが少しずつ広がっていく。
出久も窓の外へ目を向けた。
そこに宿泊施設らしき建物はなかった。整備された駐車場さえ見当たらない。山道の途中に、わずかに道幅が広くなった場所があるだけだった。
「道を間違えたんじゃねえの?」
「運転手がそんなミスするかよ」
瀬呂の疑問へ切島が返したが、その声にも確信はない。
前方の座席から相澤が立ち上がった。
「全員、降りろ」
その一言に、車内が静まった。
相澤は説明する気がないらしく、既に前方の扉へ向かっている。空気の抜ける音とともにバスの扉が開き、湿り気を含んだ山の空気が車内へ一気に流れ込んできた。土と草木の濃い匂いが混ざり、市街地とは比べものにならないほど冷たい風が頬を撫でる。
生徒たちは顔を見合わせながらも、相澤の指示に従って席を立った。
飯田を先頭に、一人ずつバスを降りていく。切島や上鳴は、まだ宿泊施設を探すように周囲を見回していた。
出久も轟に続いてバスを降りる。
靴底が湿った地面へ触れた。頭上では枝葉が風に揺れ、その隙間から細い陽光が差し込んでいる。遠くから鳥の鳴き声と川の流れる音が聞こえるが、車の走行音や人の生活する気配はどこにもない。
出久は周囲を見回した。
襲撃の痕跡はない。誰かが潜んでいるような気配も感じられない。
それでも無意識に、足元の鞄へ意識が向いた。中には発信機が入っている。AFOが説明した通りなら、携帯電話が圏外でも、出久の位置は向こうへ送られている。
鞄から視線を上げると、少し離れた位置に麗日が立っていた。彼女も崖の向こうを見下ろしている。
話し掛ける余裕はなかった。
A組の全員が降りたところで、バスの扉が閉まった。運転手は車両を少し前へ動かし、道幅の広くなった場所へ停車させる。
「先生」
飯田が相澤の前へ進み出た。
「我々は、ここから徒歩で移動するのでしょうか! それならば、目的地までの距離と経路について説明を──」
「ふっふっふ、説明しよう!」
聞き慣れない女の声が、森の中から響いた。
生徒たちが一斉に振り返る。
「よーう、イレイザーヘッド!」
道路脇の斜面、木々の間に隠れていた細い獣道から二つの人影が姿を現した。
先頭を歩いてきたのは、鮮やかな赤い髪をした女だった。猫を模した装飾の付いた衣装を纏い、両手を大きく振りながら、相澤へ親しげな笑みを向けている。
その隣には、水色の髪をした女が立っていた。こちらも同じく猫を思わせる衣装を身に着け、明るい笑顔で生徒たちを眺めている。
「プッシーキャッツだ!」
出久より先に、上鳴が声を上げた。
「知ってるのか?」
切島が尋ねる。
「山岳救助を得意とする四人組のプロヒーローチームだよ!」
出久は反射的に説明していた。
「赤い髪の人はマンダレイ、水色の髪の人はピクシーボブといって、結成は──」
「緑谷、今はいい」
相澤に遮られ、出久は口を閉じた。
マンダレイが楽しげに笑いながら相澤の肩を叩く。
「ようこそ、雄英高校ヒーロー科一年A組のみんな! ここから先、君らの林間学校を担当するワイルド・ワイルド・プッシーキャッツだ!」
ピクシーボブも両手を頬の近くへ上げ、猫のような仕草を作った。
「私たちが、みんなの個性をたっぷり鍛えてあげるからね!」
「よろしくお願いしまーす!」
峰田と上鳴が勢いよく頭を下げる。
「ところで」
芦戸が周囲を見回しながら手を上げた。
「ここが林間学校の施設なんですか?」
「まさか!」
マンダレイは明るく笑い、そのままガードレールの近くまで歩いて崖の向こうへ腕を伸ばした。
「ここら一帯は、あたしたちの所有する土地なの」
「一帯って……」
瀬呂が崖の下を覗き込む。
見渡す限り、森しかない。道路の下から谷底を越え、向かいの山肌まで、深い緑が途切れることなく続いている。
「君らの宿泊施設は──あそこね」
マンダレイの指先が、遥か遠くを示した。
生徒たちがその方向へ目を凝らす。
山々の麓に、建物らしきものが小さく見えた。赤い屋根と、その周囲に広がるわずかな開けた土地。距離がありすぎて詳しい形までは分からないが、少なくとも今いる場所から歩いてすぐに辿り着ける位置ではない。
「……あそこ?」
上鳴が呆然と呟いた。
「バスで行くんすよね?」
瀬呂が確認するように尋ねると、マンダレイは満面の笑みを浮かべた。
「行かないよ」
「……え?」
「君たちには、まず自分の足であそこまで辿り着いてもらいます!」
隣に立つピクシーボブも、楽しそうに両手を上げる。
「夕方までには着かないと、ご飯抜きだからねー!」
二人はそう言い残すと、生徒たちの反応を待つこともなく、ガードレール脇の獣道へ入っていった。慣れた足取りで急な斜面を下り、木々の間へ姿を消していく。
A組の面々は、その場に残されたまま呆然としていた。
見下ろした先にあるのは、木の根と岩が剥き出しになった急斜面だけだった。人が歩いた痕跡らしき細い道はあるものの、整備された登山道とは程遠い。
「仕方ねえ、行こうぜ」
切島が斜面へ足を掛けた。
「日が暮れてから山の中を歩く方が危ねえしな」
「全員、間隔を空けて進もう!」
飯田もすぐに気持ちを切り替え、腕を大きく振った。
「足元が崩れる可能性がある! 前の者と同じ場所へ同時に体重を掛けないよう注意するんだ!」
先頭に切島と障子が立ち、足場を確認しながら斜面を下り始める。その後へ飯田、八百万、芦戸たちが続き、出久も鞄を背負い直して列へ加わった。
麗日は少し離れた位置にいた。
斜面へ踏み出す前、一瞬だけ出久と視線が重なる。
だが、どちらも声を掛けなかった。
麗日はすぐに目を逸らし、蛙吹とともに斜面を下り始める。出久も何も言えないまま、その少し後ろへ続いた。
地面は湿っていた。前日の雨が残っているのか、土は柔らかく、靴底へまとわりつく。張り出した木の根を踏み、時には幹へ手をつきながら慎重に下りなければ、簡単に足を滑らせそうだった。
ようやく平坦な地面へ辿り着いた時には、多くの生徒が既に汗を浮かべていた。しかし、目の前に広がる森を見て、休んでいる余裕はないと理解する。
樹木は高く、枝葉が幾重にも重なって空を覆っている。昼間だというのに森の中は薄暗く、少し先までしか見通せない。地面には落ち葉が厚く積もり、低木や蔓草が進路を塞いでいた。
人が通るために切り開かれた道はない。
「この中を進むのかよ……」
峰田が肩を落とす。
轟は木々の隙間から見える山の稜線を見上げた。
「施設があったのは向こう側だ。大きく逸れなければ辿り着ける」
「太陽の位置と地形を確認しながら進むべきですわ」
八百万も周囲を見回す。
「よし! 全員、勝手に離れないように!」
飯田の指示で、生徒たちはまとまって森へ入った。
最初のうちは、足場の悪さを除けば大きな問題はなかった。
障子が複製した目と耳で周囲を確認し、耳郎がイヤホンジャックを地面へ差して離れた足音や振動を探る。轟が進路を塞ぐ倒木を氷で固定し、切島や砂藤が枝を退けることで、後続も少しずつ進めるようになった。
森は鬱蒼としていたが、完全に通行不能というほどではない。時計を確認すると、まだ昼を少し過ぎたばかりだった。
このまま大きな障害がなければ、夕方までには宿泊施設へ到着できる。
生徒たちの間にも、少しずつ余裕が戻り始めていた。
「これなら、飯には間に合いそうだな!」
切島が額の汗を拭う。
「最初はどうなるかと思ったぜ」
「着いたらまず風呂入りてえ」
上鳴も肩を回しながら笑った。
「山歩きだけで訓練終わりだったりしない?」
「そんなわけないでしょ」
耳郎が即座に否定する。
「むしろ、これが準備運動なんじゃない?」
「縁起でもないこと言うなよ!」
そのやり取りへ何人かが笑い、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
出久も周囲を見回した。
障子と耳郎が索敵を続けている。口田も小鳥や昆虫へ呼び掛け、近くに危険な動物がいないか確かめていた。今のところ異常はないらしく、小さく頷いている。
それでも、出久は警戒を解けなかった。
「止まって」
耳郎が突然足を止めた。
イヤホンジャックを地面へ差したまま、眉を寄せている。前を歩いていた生徒たちも立ち止まり、振り返った。
「どうした?」
上鳴が尋ねる。
「何か来る」
耳郎は地面へ意識を集中させた。
「足音……じゃない。地面そのものが動いてるみたいな──」
言葉が終わるより早く、森の奥から低い唸り声が響いた。
木々の向こうで茂みが大きく揺れる。枝が折れ、落ち葉が舞い上がり、太い幹の間から巨大な影が姿を現した。
最初に現れたのは、四足で歩く獣だった。熊に似た体格をしているが、頭部には鹿のような角が生え、口は耳元まで裂けている。全身は赤褐色の土で形作られ、表面には植物の根のような筋が無数に走っていた。
その背後から、さらに別の怪物が続く。
複数の腕を持つ猿のようなもの。巨大な牙を生やした猪。蛇の胴体に獣の頭を幾つも備えた異形。
どれも既存の動物には当てはまらない。
魔獣。
そうとしか表現できない怪物たちが、木々の間から次々に姿を現していく。
「な、何だよあれ!」
峰田が後ずさる。
「この山にいる生物なのか!?」
飯田も腕を構えながら叫ぶ。
「いや、そんなわけないだろ!」
切島が前へ出た。
「どう見ても普通の動物じゃねえ!」
怪物たちは低く唸り、A組の生徒たちを取り囲むように森の中へ広がっていった。
口田が前へ進み出る。
怯えは見えたが、それでも両手を胸の前へ上げ、怪物たちへ向けて声を発した。
「おやめなさい森の獣よ! 静まりなさい!」
口田の個性『生き物ボイス』。動物へ語り掛け、意思を伝え、協力を求めることができる。
しかし、怪物の一体は地面を蹴り、口田の言葉を無視して一直線に飛び掛かってきた。
「口田君!」
飯田が叫ぶ。
障子が複製した腕を伸ばし、口田の身体を横へ引いた。直後、怪物の前脚が二人のいた地面へ叩き付けられる。
轟音とともに土が弾け、落ち葉と泥が周囲へ飛び散った。
「効いてない!」
口田が驚愕した表情で怪物を見る。
「声は届いてるはずなのに……!」
「生き物じゃないのかもしれない!」
出久が叫んだ。
怪物の前脚が地面から離れる。その表面がわずかに崩れ、塊になった土が落ちた。裂けた部分には血も肉もなく、その奥まで同じ赤褐色の土が詰まっている。
別の怪物が木へ身体をぶつけた。肩の一部が砕けたが、痛がる様子はない。崩れ落ちた土が地面を這うように集まり、欠けた部分へ戻って形を作り直していく。
「土でできてる……」
八百万が目を見開いた。
「個性で作られた傀儡ですわ!」
出久の脳裏へ、先ほど現れたプッシーキャッツの姿が浮かぶ。
土を操り、自在に形を作る個性を持つプロヒーロー。
「ピクシーボブの個性だ!」
出久が叫んだ。
「この怪物たちは本物の生物じゃない! 全部、土から作られてる!」
その言葉を合図にしたかのように、周囲の魔獣が一斉に地面を蹴った。
枝をへし折り、牙を剥き、森を震わせながらA組へ襲い掛かってくる。
夕方までに宿へ辿り着く。その程度の課題だと思っていた生徒たちは、ようやく理解した。
林間学校の訓練は、既に始まっていた。
──
夕方の気配が、山の稜線へゆっくりと降り始めていた。
宿泊施設の前に広がる開けた土地では、昼間の明るさが急速に薄れつつある。西の空にはまだ赤みが残っているものの、森の奥には既に濃い影が沈み、木々の間から吹き抜ける風も冷たさを帯び始めていた。
施設の玄関前には、ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツの四人が揃っていた。
先ほどA組の生徒たちを崖の上へ置き去りにしたマンダレイとピクシーボブ。その隣では、長身で筋肉質な虎が腕を組み、森へ続く道を睨むように見つめている。さらに少し離れた場所では、ゴーグルを額へ上げたラグドールが、落ち着かない様子で周囲を見回していた。
生徒たちを森へ送り出した後、相澤は荷物を載せたバスで宿泊施設へ先回りしていた。今は施設脇のベンチへ深く身体を預け、眠そうな目で森を眺めている。首にはいつもの捕縛布が巻かれ、足元には生徒たちの荷物が積み上げられていた。
予定通りであれば、そろそろ森を抜けてくるはずだった。
だが、まだ一人も姿を見せていない。
「遅いわねぇ」
ラグドールが背伸びをしながら森の向こうへ目を凝らした。
「そろそろ先頭くらい見えてもいい頃じゃない? 全員まとめて迷子になったとか?」
「迷うような地形にはしてないわよ」
マンダレイは腕時計を確認しながら答えた。
「進行方向は誘導してあるし、ピクシーボブの土魔獣も、宿泊施設とは逆方向へ押し戻さないよう調整してる。多少遠回りしても、普通に進めば日没前には着くはず」
「普通に進めば、ね」
虎が低い声で言った。その視線は森から動かない。
「一年生にしては悪くない連中だと聞いている。だが、試験を終えたばかりで疲労が残っている者もいるだろう。魔獣を強化し過ぎたんじゃないか」
「強化してないもん」
ピクシーボブは頬を膨らませた。
「予定通りよ。ちょっと大きくして、ちょっと再生しやすくして、ちょっと連携させてるだけ」
「全部、予定より強化されているじゃないか」
「だってイレイザーヘッドが、遠慮しなくていいって言ったんだもん」
全員の視線が、施設脇のベンチへ向いた。
「言いましたね」
相澤は否定しなかった。
「予定通りの負荷では足りません。あいつらには、短期間で個性の限界を引き上げてもらう必要がある」
「でもさぁ」
ピクシーボブは相澤の前まで歩くと、腰へ両手を当てた。
「仮免取得を前倒しで、今年受けさせるんでしょ?」
「はい」
「それに合わせて、この個性伸ばしも予定より大幅に変わってるし」
ピクシーボブは森の方を振り返った。
木々の奥では、彼女の個性によって生み出された土魔獣が今も動き続けている。地面を介して伝わる感覚から、生徒たちの大まかな位置や、魔獣がどの程度破壊されたかは把握できていた。
マンダレイも個性を通じて生徒たちへ注意を促せるよう意識を向け、ラグドールは全員の位置を見失わないよう森を監視している。
訓練とはいえ、完全に放置しているわけではない。
それでも、ピクシーボブの表情から先ほどまでの明るさが消えた。
彼女は宿泊施設の二階へ視線を向け、周囲へ聞こえないよう声を潜める。
「あんなのまで連れてきちゃってさ……A組の子たち、本当に大丈夫なの?」
相澤の目がわずかに細くなった。
玄関脇から見上げた先、廊下の突き当たりにある一室だけは、窓が固く閉ざされている。カーテンも引かれ、外から室内の様子を窺うことはできなかった。
マンダレイと虎は会話を聞き取っていたが、口を挟まない。ラグドールも少し離れた場所から、不安そうに二階の窓を見上げていた。
「適性があり、なおかつ予定を空けられるヒーローが他にいなかったもので」
相澤は二階の一室から目を逸らさず答えた。
「なにより、本人が強く希望しました」
「確か、弟さんがいるんだっけ?」
「ええ。訓練でも加減するようには伝えてあります」
「本当に?」
「本人なりには」
「そこが一番信用できないのよねー」
ピクシーボブは肩を落とし、諦め半分といった調子で息を吐いた。
「ここら一帯が私有地だからって、やり過ぎないように言っておいてよねー。山を丸ごと焼かれたら、さすがに笑えないんだから」
「周囲へ被害は出させません。必要なら、あなたの土壁で訓練区域を囲ってください。どっちみち、作戦中はその予定でしたしね」
「人使い荒いなぁ」
「施設まで壊した場合は、雄英へ請求してください」
「それで済む規模ならいいんだけどねー」
マンダレイが苦笑し、虎は腕を組んだまま二階の窓を見つめていた。
「生徒と接触させるのは今日からか?」
「本格的な訓練は明日以降です。今日は顔合わせだけですが、訓練期間中は轟焦凍を専任で担当してもらう予定です」
その会話を遮るように、森の奥から何かが砕ける音が響いた。
続いて、複数の声が聞こえてくる。
「見えたぞ!」
「建物だ!」
「もう少しだ、全員頑張れ!」
飯田の声だった。
玄関前にいた全員が森へ顔を向ける。
木々の隙間で枝葉が激しく揺れ、低木を掻き分けて最初に姿を現したのは障子だった。複製した腕で左右の枝を押し退け、その後ろから切島と砂藤が続く。
ただし、出発時の余裕はどこにも残っていなかった。
制服は泥と土埃にまみれ、ところどころが裂けている。髪には葉や小枝が絡まり、額や頬には細かな擦り傷が刻まれていた。切島の腕には土魔獣の爪痕らしき跡が残り、砂藤は肩で大きく息をしている。
「到着……!」
飯田が森から飛び出し、両腕を振り上げた。
「雄英高校一年A組、ただいま到着しました!」
声だけはいつも通り大きかったが、眼鏡は片側へずれ、制服の裾には泥がこびり付いている。
直後、足元の木の根へ躓き、前へ倒れかけた。
障子が背後から支えなければ、そのまま地面へ顔を打ち付けていただろう。
「無理して号令を続けなくていい」
「しかし、委員長として……!」
その後も、A組の生徒たちが次々に森から姿を現した。
上鳴は八百万の肩を借りて歩き、峰田は瀬呂のテープで引きずられるように運ばれていた。芦戸は頭から泥を被り、耳郎のイヤホンジャックには土が付着している。口田は両腕で小鳥を庇いながら歩いていたが、肝心の小鳥の方が彼より元気そうだった。
轟と爆豪は自力で歩いていたものの、制服の各所が泥と煤に汚れている。蛙吹と麗日も疲れ切った様子で森を抜け、その少し後ろから、出久が肩で息をしながら姿を現した。
鞄はまだ背負っている。
発信機も、その中に入ったままだった。
出久は施設の前に立つ相澤たちを確認した後、無意識に麗日へ目を向けた。
麗日も一瞬だけ振り返る。
だが、言葉を交わす余力は、どちらにも残っていなかった。
最後尾の青山と葉隠が森を抜けたところで、ようやく二十人全員が揃った。
「もう……無理……」
上鳴が開けた土地へ足を踏み入れた瞬間、その場へ膝をついた。
「土の怪物、倒しても倒しても復活するし……増えるし……合体するし……」
「全員揃ったわね!」
マンダレイが両手を叩き、生徒たちの注意を集める。
「お疲れさま! 予定よりちょっと遅かったけど、初日にしては悪くなかったよ!」
「ちょっと……?」
瀬呂が地面へ座り込みながら呟いた。
空は既に赤から濃い紫へ変わり始めている。あとわずかで日が沈み、森の中は完全な暗闇に包まれていただろう。
「飯……」
峰田が力なく手を上げた。
「夕方までに着かなかったら、ご飯抜きって……」
A組の面々が一斉にマンダレイを見る。
マンダレイは腕時計を確認し、次に沈みかけた太陽へ視線を向けた。
「うーん」
生徒たちの表情が強張る。
マンダレイはしばらく考えるふりをした後、にっこりと笑った。
「ぎりぎり、夕方!」
「よっしゃあ!」
疲労で倒れかけていた生徒たちから、一斉に歓声が上がった。