個性強化訓練が始まってから、まだ一時間も経っていなかった。
それにもかかわらず、出久の足元には、既に数十本もの骨槍が積み上がっている。
「次」
相澤の短い指示が飛ぶ。
出久は返事をする代わりに、傍らへ置かれた紙パックをつかんだ。ストローをくわえ、中に残っていた牛乳を一息に吸い上げる。
冷たい液体が喉を通り、重くなった胃の中へ落ちていった。
空になった紙パックを脇へ置き、右腕を前へ突き出す。
腕の奥に鈍い圧力が生じた。
筋肉を内側から押し退けるように白い杭が形成され、前腕の表面が不自然に盛り上がっていく。直後、手首の少し上から、鋭く尖った骨が皮膚を突き破った。
出久は歯を食いしばり、そのまま生成を続ける。
骨は瞬く間に伸び、やがて出久の身長を超えるほどの槍となった。
「切り離せ」
「はい」
根元へ意識を集中させる。
軽い破砕音とともに、骨槍が腕から外れた。出久はそれを両手で受け止め、足元に積まれた山へ加える。
腕に残った傷口の奥では薄い骨板が形成され、その上を新しい皮膚が覆い始めていた。しかし、塞がる速度は訓練を始めた頃より明らかに遅くなっている。
「次」
休む間もなく、相澤が告げる。
「……はい」
出久は新しい牛乳へ手を伸ばした。
既に何本目なのか分からない。訓練開始前、虎が運び込んできたケースには紙パックが隙間なく詰められていたが、今ではその半分近くが空になっている。
牛乳を飲むたび、腹の中が重くなる。
個性の使用に合わせて消化と吸収も通常より促進されているらしいが、それでも失われ続けるカルシウムや蛋白質を補い切ることはできない。
「牛乳だけで追いつくものなんですか?」
出久がストローから口を離し、掠れた声で尋ねる。
「追いつかない」
相澤は即答した。
「えっ」
「だから朝食とは別に栄養補助剤も摂ってもらう。昼食も増量だ」
「そういうことですか……」
「分かったなら手を止めるな」
出久は再び右腕を伸ばした。
生成し、切り離し、栄養を補給する。そしてまた生成する。
単純な作業の繰り返しだったが、回数を重ねるごとに腕の奥へ残る痛みは強くなっている。最初は数秒で作れていた骨槍も、今では形を整えるまでに余計な時間が掛かるようになっていた。
その遅れを、相澤は見逃さない。
「遅い」
「はい」
「先端が甘い。刺突用ならもっと細く絞れ」
「はい」
「密度を落とすな。軽く作れば本数は増えるが、それでは強度が足りない」
「……はい」
出久は額から流れる汗を肩で拭い、もう一度骨槍を形成した。
先端を細く絞り、内部の密度を均一にする。生成中の感覚から、骨の内部へ小さな空洞が生じていることが分かった。
そこへさらに骨質を押し込み、強度を補う。
完成した槍を切り離した瞬間、右腕から力が抜けた。
骨槍が地面へ落ち、乾いた音を立てる。
「落とすな」
「すみません」
慌てて拾い上げようと膝を曲げた途端、胃の中の牛乳が大きく揺れた。
「うっ……」
出久は反射的に口元を押さえる。
「吐くなよ」
「努力します……」
「吐いたら、その分また飲ませる」
相澤の言葉に、出久の顔から血の気が引いた。
少し離れた場所から、控えめな咳払いが聞こえてくる。
横を見ると、同じく生成系の個性を持つ八百万が、折り畳み式の机の前に座っていた。
机の上には、色とりどりのケーキが並んでいる。苺のショートケーキ、チョコレートケーキ、モンブラン、生クリームをたっぷり挟んだロールケーキ。
普通なら心が躍りそうな光景だが、八百万の表情は既に苦行へ耐える者のそれだった。
「もう一つだ、八百万」
相澤が厳しい声で指示する。
八百万はフォークを握り直した。
切り分けられたチョコレートケーキを口へ運び、何度か噛んで飲み込む。甘味を楽しむ余裕など残っていないらしく、その眉間には薄く皺が寄っていた。
糖質と脂質を取り込むと、制服の袖を捲り、右腕へ意識を集中させる。
皮膚の表面が淡く光り、そこから掌に収まるほどの木製人形が押し出された。
赤い頭巾をかぶった、一体目のマトリョーシカだった。
八百万はそれを机へ置くと、間を置かず次の生成へ移る。
二体目、三体目。
同じ形、同じ大きさ、同じ重量。木目の向きや表面の塗装まで、ほとんど寸分違わず再現されている。
「分解できる構造を維持しろ」
「承知しております」
「中身も作れ。外側だけの張りぼてでは意味がない」
「はい」
八百万が人形を開くと、中から一回り小さな人形が現れた。その内側にも、さらに小さな人形が収められている。
「七体構造。問題なし。次は同じものを五組連続だ」
「五組……」
八百万の顔から、わずかに血の気が引いた。
「糖質が足りなければ食え」
相澤が机の上のケーキを顎で示す。
八百万は山積みになった皿へ視線を向け、ほんの一瞬だけ沈黙した。
「……いただきます」
その声には、食事前の喜びなど欠片もない。
今度はモンブランを口へ運び、飲み込むと同時に新たなマトリョーシカを生成する。生成が終われば、またケーキを食べる。
出久と同じく、摂取と生成の反復だった。
「八百万さんも大変そうだね……」
出久が声を掛けると、八百万は口元をナプキンで押さえながら小さく頷いた。
「緑谷さんほどではありませんわ。ですが……しばらく甘いものは見たくなくなりそうです」
「僕も、しばらく牛乳はいいかな」
「聞こえているぞ」
相澤が言った。
「訓練中に無駄話をする余裕があるなら、本数を増やせ」
「はい!」
出久は慌てて姿勢を正した。
出久が紙パックを持ち上げ、八百万がフォークを握る。牛乳を吸い上げる音と、皿へフォークが触れる音が重なった。
それから再び、白い骨槍と色鮮やかなマトリョーシカが次々に生み出されていく。
周囲でも、それぞれの個性に合わせた訓練が続いていた。
上鳴のいる方角からは、時折、大きな放電音と悲鳴が聞こえてくる。
「うぇーい……」
限界を超えたらしい間の抜けた声が響き、その直後に耳郎の呆れた声が返った。
「もう駄目になってんじゃん」
誰もが自分の限界を超えるために追い込まれている。
だが、出久には他の生徒とは異なる問題があった。
右腕の奥で、骨とは別の何かが蠢く。
疲労によって集中が乱れたせいか、体内に隠している別の個性が表へ出ようとしていた。
出久は呼吸を止め、意識を骨の生成だけへ絞る。
余計な力を表へ出してはいけない。
相澤はすぐ近くにいる。視線を向けられていなくても、『抹消』を使う教師が個性の変化を見逃すとは思えなかった。
その異物を意識の底へ押し戻し、再び骨槍の生成へ集中した頃、山道の向こうから複数の話し声が近づいてきた。
最初に気づいたのは耳郎だった。
「……誰か来る」
放電訓練を終えたばかりの上鳴の隣で、耳たぶのコードを地面へ差し込んでいた耳郎が顔を上げる。
相澤もそちらへ視線を向けた。
やがて木々の間から、一列になって歩いてくる生徒たちの姿が現れる。
雄英高校ヒーロー科一年B組だった。
A組より一日遅れて合宿へ参加することになったらしく、全員が荷物を背負い、先頭を歩く担任、プロヒーローのブラドキングに続いている。
昨日のA組とは違い、森の入口から施設まで通常の道を通ってきたのか、制服にも身体にも目立った汚れはなかった。
「到着したぞ」
ブラドキングが低い声で告げる。
その後ろから顔をのぞかせた拳藤が、訓練場を見回した。
「ここが合宿先か……って」
途中で言葉が止まる。
B組の面々も、次々に足を止めた。
彼らの視線の先には、朝から徹底的に追い込まれているA組の姿があった。
口から煙を吐きながら地面へ倒れている上鳴。
両耳のコードを岩へ突き刺し、何度も振動を送り込んでいる耳郎。
青い顔で牛乳の紙パックを握る出久と、その足元に薪のように積み重ねられた骨槍。
隣では八百万が虚ろな目でケーキを頬張りながら、次々とマトリョーシカを生成している。机の上にはケーキと木製人形が山を作り、どちらが訓練の成果で、どちらが拷問道具なのか分からない有様だった。
少し離れた場所では、爆豪が両腕を熱湯へ浸し、掌から絶え間なく爆発を起こしていた。周囲には火薬の臭いが立ち込め、爆発のたびに顔を顰めている。
切島は全身を硬化させたまま虎の拳を正面から受け続け、芦戸は強酸を生成しては濃度を調整し、瀬呂は大量のテープを木々の間へ張り巡らせていた。
誰もが汗と泥にまみれ、顔には濃い疲労が浮かんでいる。
「なんだ、この地獄絵図……!」
B組の誰かが息を呑む。
「もはや、かわいがりですな」
別の生徒が呟くと、ラグドールが明るく答えた。
「みんな頑張ってるでしょ?」
「頑張ってるっていうか……」
拳藤は言葉を失ったまま、地面へ横たわる上鳴を見つめた。
数分の休止でどうにか意識は戻ったらしいが、目の焦点はまだ怪しい。その指先から、弱々しい火花が散った。
「もう無理……電池切れ……」
「あと一回」
相澤が冷淡に告げる。
「鬼だ……」
B組の列から漏れた声に、相澤がゆっくりと視線を向けた。
その瞬間、全員が一斉に口を閉ざした。
そんな中、物間だけは場違いなほど楽しそうに口元を吊り上げていた。
「いやあ、辛そうだねぇ!」
わざとらしく両腕を広げ、訓練場へ一歩踏み出す。
「さすが事件と問題ばかり引き寄せるA組! 合宿初日から随分と手厚い歓迎を受けたみたいじゃないか!」
出久はストローから口を離し、疲れ切った顔で物間を見る。
「見世物じゃないよ……」
「それは失礼。ところで緑谷、牛乳は美味しいかい?」
「今は味を考えたくないかな……」
「そうかい。僕は君の分まで美味しく朝食をいただいてきたよ」
出久の顔がさらに青くなる。
相澤が無言で新しい牛乳を一本差し出した。
「続けろ」
「はい……」
物間は満足そうに鼻を鳴らし、次の標的を探すように訓練場を見回した。
「それにしても──」
爆豪、緑谷、八百万、切島、上鳴。
目立つA組の生徒たちは、それぞれの場所で訓練へ追い込まれている。だが、何度見回しても、左右で髪の色が分かれた少年の姿だけが見当たらない。
物間はわずかに首を傾けた。
「轟君がいないようだね」
その言葉が口から出た、次の瞬間だった。
宿泊施設の裏手へ続く木々の間から、何かが凄まじい勢いで飛び出してきた。
枝がまとめて折れる音が響く。
白い煙を引きながら宙を横切った影は、B組の頭上を越える寸前で大きく体勢を崩し、そのまま彼らの目の前へ落下した。
「うわっ!?」
「下がって!」
拳藤の声と同時に、地面が激しく抉れた。
土と枯れ葉が舞い上がり、B組の生徒たちが一斉に後退する。物間も反射的に腕で顔を庇い、飛んできた小石を避けた。
何度か地面を転がった影は、B組の目前でようやく止まった。
左半身には薄い霜が張り付き、右袖の一部は熱で焦げている。
「と、轟君!?」
拳藤が目を見開いた。
そこに転がっていたのは、先ほど物間が姿を探していた轟焦凍だった。
轟は片膝を地面につき、荒い呼吸を繰り返している。肩は大きく上下し、額から流れた汗が顎を伝って土へ落ちた。
左腕には冷気が纏わりついていたが、普段のような鋭さはない。指先から零れる霜は形を保てず、地面へ触れる前に白い蒸気へ変わっていた。
右半身からも熱気が立ち上っている。
今は炎を出していないにもかかわらず、個性を酷使した身体そのものが熱を持ち、制服の表面から蒸気を上げていた。
「おい、大丈夫かよ!?」
鉄哲が駆け寄ろうとする。
「ありがとう。大丈夫だ」
轟が掠れた声で制した。
「今の俺には、あまり近づかない方がいい」
地面へ手をつき、立ち上がろうとする。
一度目は膝に力が入らず、身体が大きく傾いた。拳藤が手を伸ばしかけたが、轟はそれを拒むように右足を踏み直す。
二度目でどうにか腰を上げたものの、まっすぐ立っていることすら難しいらしい。足元がふらつき、重心が左右へ揺れていた。
それでも轟は、木々の奥から視線を逸らさなかった。
「おいおい……」
物間は、目の前へ転がってきた轟と、その背後の森を交互に見た。
先ほどまで浮かべていた挑発的な笑みは、完全に消えている。
「何をしたら、轟君がこんな状態になるんだい……?」
その疑問へ答えるように、木々の向こうが蒼く染まった。
最初に届いたのは熱だった。
炎そのものはまだ見えていないにもかかわらず、訓練場を吹き抜ける空気の温度が急激に上がる。朝露に濡れていた草の表面から白い蒸気が立ち上り、生徒たちは思わず顔を庇った。
次いで、轟が飛ばされてきた方角から爆発音にも似た轟音が響く。
蒼い光が木々の隙間から溢れた。
「何だ……?」
鉄哲が身構える。
赤でも橙でもない、眩しいほどに蒼く、中心部が白く見える炎が上空へ噴き上がった。
その炎を全身へ纏った人影が木々を飛び越え、訓練場の上空へ躍り出る。
背中と両脚から蒼炎を噴き出しながら空中で姿勢を整え、そのまま轟の数メートル前へ降り立った。
着地と同時に、地面を覆っていた草が一瞬で黒く焼け焦げる。
炎はすぐに弱まったが、男の両肩と腕には蒼い火が帯のように残っていた。
細身ながら鍛えられた身体を、耐熱性らしい暗色のヒーローコスチュームが覆っている。白に近い髪は後方へ乱雑に流され、口元には相手を試すような笑みが浮かんでいた。
なにより目を引くのは、全身の半分以上を覆う凄惨な火傷痕だった。
「おいおい、もうバテたのか、焦凍!?」
男は轟へ向かって声を張り上げた。
その口調は明るかったが、纏っている熱は冗談で済ませられるものではない。
轟は荒い息を吐きながら、男を睨み返した。
「誰が、バテたって?」
「足もふらついてるし、炎もまともに出てねえだろ? もう休むか? ぐっすり寝ちまうかあ?」
男が両腕を広げる。
それに合わせて、肩に残っていた蒼炎が勢いを増した。周囲の空気が揺らぎ、男の輪郭が熱で歪む。
「休憩したいなら、いつでも言ってくれよ、焦凍! 俺は最高傑作のお前と違って、スタミナがねえんだからな!」
男の言葉に、轟の眉間へ深い皺が刻まれた。
大きく肩を上下させて息を整えると、右手で汗を拭いながら低く吐き捨てる。
「燈矢兄のやつ……ここぞとばかりにストレス発散しやがって」
「聞こえてるぞ、焦凍!」
「聞かせてんだよ」
轟はふらつく足を踏み直し、再び構えた。
左足を前へ出し、右半身をわずかに引く。普段なら広範囲へ氷を展開する姿勢だが、今は左側から薄く冷気を流すだけに留め、体温の調整へ意識を集中させている。
右手に炎を灯す。
生まれた火は頼りなく揺れ、一度は消えかけたものの、轟は歯を食いしばって出力を維持した。
炎を周囲へ広げるのではなく、掌の上で小さく圧縮し、その密度を高めていく。
「もう一本だ」
「その状態でか?」
「まだ出せる」
「そう言ってぶっ倒れる奴を、俺は何人も見てきたけどな」
「お前が言うな」
「そりゃそうだ」
燈矢は喉の奥で笑った。
そのやり取りを聞いていたB組の列から、突然、獣の咆哮にも似た大声が上がった。
「ああああああっ!」
周囲の生徒たちが一斉に振り返る。
声を上げたのは、B組の夜嵐イナサだった。
大柄な身体を震わせ、目を見開いたまま蒼炎を纏う男を指差している。
「あ! もしや、ヒーロー荼毘!?」
燈矢がわずかに眉を上げる。
夜嵐は既に周囲の視線など気にしていなかった。背負っていた荷物を地面へ落とし、拳を握り締めながら一歩前へ出る。
「うぉー! ファンっス!」
訓練場へ響き渡るほどの声だった。
燈矢だけでなく、轟も一瞬そちらを見る。
「……誰だ、あいつ」
「B組の夜嵐だ。前に話しただろ」
「声がでけえ」
「熱意があると言ってください!」
夜嵐は即座に言い返し、燈矢へ向き直った。
「荼毘さん! 去年の八王子工場火災で、崩落寸前の建物を外側から焼き切って避難経路を作った件、最高だったっス!」
「ああ、あれか」
「あと湾岸倉庫の密輸事件! 逃走車両だけを焼いて、中の犯人にはほとんど火傷を負わせなかった、あの火力制御! 激アツだったっス!」
「詳しいな、お前」
「記事も映像も全部見ました!」
夜嵐は大きく胸を張った。
「炎系ヒーローの中でも、荼毘さんの火力と突入速度は別格だと思ってるっス! 見た目は怖いっスけど、救助の時は誰より先に火の中へ入るところも──」
「おい、待て待て」
燈矢が片手を上げて言葉を遮る。
「ファン対応は全部断ってるんだ」
「すみません! でも本当にファンなんス!」
「謝ってるように聞こえねえな」
燈矢は呆れたように息を吐いたが、口元にはわずかな笑みが残っていた。
物間は夜嵐と燈矢を交互に見る。
「ヒーロー荼毘……?」
聞き覚えがないわけではなかった。
炎熱系の個性を持つ若手プロヒーロー。ナンバー二ヒーロー、エンデヴァーの筆頭サイドキックであり、火災現場での高い制御能力と圧倒的な火力によって、一気に人気を獲得した人物だ。
そして何より、エンデヴァーの長男としても知られている。
「燈矢兄……?」
物間は、先ほどの轟の言葉を思い返した。
「まさか、本当に轟君のお兄さんなのかい?」
「ああ」
轟が短く答える。
「兄貴だ、うちの長男」
B組の間に、別の意味でのどよめきが広がった。
その騒ぎを横目に、轟は再び炎へ意識を集中させる。
掌の火をさらに圧縮する。
熱が一点へ集まり、周囲の空気が歪んだ。
同時に左側から冷気を流し、体温の上昇を抑える。
炎を強めれば身体が熱を持ち、冷やしすぎれば出力が落ちる。その均衡を崩さないよう、呼吸に合わせて二つの個性を同時に調整していく。
「広げるなよ」
燈矢が言う。
「森に燃え移ったら全部お前の責任だ」
「分かってる」
「いいか、圧縮したら一気に吐き出せ。中途半端に漏らすな」
燈矢は両腕を軽く広げた。
蒼炎が揺らめき、周囲の空気が流れを変える。
「外に逃げた熱は俺が拾う。お前は出力と制御だけを見ろ」
轟は頷いた。
掌の炎がさらに小さくなる。その分だけ密度が増し、赤い色が濃くなっていく。
「……行くぞ」
「来い」
轟が右手を前へ突き出した。
圧縮していた炎が、一気に解放される。
細く鋭い火線は、周囲へ広がることも散ることもなく、一直線に空気を焼きながら伸びた。
だが、途中でわずかな揺らぎが生じる。
制御が乱れ、火線の一部が森の方角へ逸れかけた。
その瞬間、燈矢が動いた。
蒼炎を横へ流し、逸れた熱を外側から包み込む。赤い火線は軌道を変え、木々へ触れる前に空中で消滅した。
「甘い」
同時に、燈矢が短く鋭い炎を放つ。
蒼炎が轟の正面へ叩きつけられた。
「っ!」
轟は反射的に左側から冷気を流し、身体の前へ薄い氷を形成する。
炎と氷が衝突し、蒸気が弾けた。
燈矢は直撃する前に出力を弱めていたが、それでも轟の集中を途切れさせるには十分だった。
「今のが実戦なら終わってる」
燈矢が言う。
「制御が乱れたら一度切れ。無理に続けるな」
「……分かってる」
「分かってねえから当ててんだよ」
燈矢は肩を竦めた。
「もう一回だ。圧縮からやり直せ」
轟は息を吐き、再び右手へ炎を灯す。
今度は先ほどよりも慎重に、しかし迷いなく圧縮していく。左側の冷却も途切れさせない。
熱と冷気を同時に循環させ、どちらか一方へ切り替えるのではなく、常に両方を維持する。
その様子を見ながら、燈矢は周囲へ意識を広げていた。
漏れた熱を拾い、流れを変え、森へ向かう前に消す。轟の炎が暴れれば即座に抑え、それと同時に軽い攻撃を加えて集中を揺さぶる。
単に出力を伸ばすためではない。
体勢を崩され、疲労で判断力が落ちた状態でも、二つの個性を制御し続ける感覚を叩き込むための訓練だった。
「いいぞ、そのまま」
燈矢が低く言う。
「今度は逸らすな」
轟は無言で頷いた。
再び炎を解放する。
先ほどよりも細く、鋭く、安定した火線が伸びた。
揺らぎは小さい。だが、完全ではない。
わずかな乱れを見逃さず、燈矢が蒼炎で包み込む。同時に軽い炎をぶつけ、轟の意識を引き戻した。
「そこだ、冷やせ」
轟が左側から冷気を流す。
上がりすぎていた体温が下がり、右手の炎が安定した。
「そうだ。その感覚を覚えろ」
燈矢の声が続く。
B組の騒ぎは、いつの間にか静まっていた。
夜嵐だけが目を輝かせたまま、小さく呟く。
「すげえ……戦ってるだけじゃない。攻撃されながら制御してる……!」
拳藤も圧倒されたように、わずかに頷いた。
一見すれば炎を撃ち合っているようにしか見えない。しかし実際には、出力、指向性、温度、継続時間、その全てを細かく調整している。
A組の惨状とは、また別の意味で苛烈な個性強化訓練だった。
「お前たち!」
突然、訓練場へ怒声が響き渡った。
B組の生徒たちの肩が揃って跳ねる。
振り返れば、ブラドキングが額へ青筋を浮かべ、腕を組んで立っていた。
「いつまでボーッとしている!」
「いや、でも先生、あれは──」
拳藤が轟たちを指し示そうとする。
「見学へ来たんじゃないぞ! お前たちも早速訓練に加わる!」
ブラドキングは拳藤の言葉を遮り、宿泊施設へ続く道を指差した。
「荷物を置いてこい! 五分後にここへ集合だ!」
「ご、五分!?」
泡瀬が声を裏返す。
「横暴だ!」
物間が抗議した。
「残り四分五十秒!」
「みんな、走って!」
拳藤の号令を合図に、B組が一斉に動き出した。
荷物を抱え直し、宿泊施設へ向かって駆けていく。先ほど荷物を地面へ投げ出していた夜嵐だけは、慌てて数歩引き返し、大きなリュックを片手でつかみ上げた。
「荼毘さん! 後でまたお話を聞かせてほしいっス!」
「まず自分の訓練をしてこい」
「はいっス!」
夜嵐は勢いよく頭を下げると、風を巻き起こしながら仲間たちの後を追った。
「廊下では個性を使うな!」
「まだ使ってないっス!」
訓練場から宿泊施設へ続く道を、B組の足音と悲鳴が遠ざかっていく。
最後尾を走っていた物間は、途中で一度だけ振り返った。
その視線の先で、轟は再び炎を撃ち出している。
細く圧縮された一撃を燈矢が蒼炎で受け止め、わずかな軌道の乱れを外側から押さえ込む。直後に燈矢が牽制の炎を返し、轟が冷気でそれを相殺した。
物間は何かを言いたそうに口を開いたが、ブラドキングに睨まれ、慌てて前へ向き直った。
やがて、B組全員の姿が施設の中へ消える。
急に静かになった道を眺め、ブラドキングは小さく息を吐いた。
「まったく……到着早々、余所見とは余裕があるな」
「仕方ないんじゃない?」
近くで様子を見ていたラグドールが、楽しそうに首を傾ける。
「あれだけ派手なものを見せられたら、気にもなるよ」
「だからといって、立ち尽くしていていい理由にはならん」
ブラドキングは厳しい口調で返しながら、轟と燈矢の方へ目を向けた。
轟の右腕から、再び細い火線が放たれる。
今度の軌道は、先ほどよりもまっすぐだった。
燈矢は蒼炎を壁のように広げて受け止めると、先端を横から押し流す。赤い熱線は上空へ軌道を変え、森へ触れることなく消滅した。
出力を限界まで引き上げるだけなら、他の生徒たちも行っている。
上鳴は放電量を増やし、八百万は生成の反復によって脂質変換の効率を高め、緑谷は骨の生成速度と精度を同時に鍛えている。
しかし、轟が行っている訓練は明らかに性質が違った。
疲労によって判断力も出力も落ちた状態で、炎と氷を同時に維持させる。その上で炎を圧縮して放出し、燈矢からの攻撃にも対処している。
制御を誤れば燈矢が補助するとはいえ、生徒へ課す訓練としては実戦へ寄りすぎていた。
「とはいえ……」
ブラドキングは、誰に聞かせるでもなく呟く。
「これは個性伸ばしの範疇を超えているがな……荼毘め、赫灼熱拳の基礎まで教えやがって」