三日目の朝を迎えても、林間学校の空気は変わらなかった。
澄み切った山の空気とは裏腹に、生徒たちへ課せられる訓練は昨日以上に苛烈さを増している。朝から山肌を切り開いた訓練場には個性がぶつかり合う轟音が絶え間なく響き渡り、誰一人として休む暇はない。
轟焦凍は昨日よりさらに広範囲へ氷壁を展開し、爆豪勝己は爆炎を何度も空へ撃ち上げながら移動と攻撃を繰り返す。拳藤一佳は巨大化した拳で巨木を叩き折り、鉄哲徹鐵は鋼鉄化した肉体で岩へ体当たりを続けていた。
昼食を終えれば補講組はそのまま座学と実技へ連れて行かれ、戻れば再び個性訓練。夕食後にも補講と入浴が待ち受け、翌朝になればまた同じ一日が始まる。
休息と呼べる時間は、ほとんど存在しなかった。
「もう無理ぃぃぃ!」
上鳴電気が地面へ突っ伏し、両腕をばたつかせる。
「午前中ずっと個性使わせて、飯食ったら補講、終わったらまた訓練って何なんだよ! ブラック企業かよ!」
「企業じゃねえだろ」
瀬呂範太が呆れたように返す。
「しかも昨日よりキツくなってねぇか?」
「確実に負荷は上がっている」
静かな声で答えた常闇踏陰へ、飯田天哉も汗を拭いながら頷いた。
「教師陣は昨日の結果から我々の限界値を分析し、それを基準として訓練内容を調整しているのだろう」
「分析してる場合じゃねぇよ! 俺の限界なんて、とっくに突破してるって!」
「まだ喋れるなら余裕だ」
爆豪が吐き捨てるように言う。
「うるせぇ! 化け物基準で語んな!」
その一言に小さな笑いが起きた。しかし、それも一瞬だった。誰もが肩で息をし、昨日までなら大声で笑い飛ばせた冗談すら、今は苦笑するのが精一杯である。
疲弊しているのはA組だけではない。B組も同様に体力を削られ、普段なら皮肉を絶やさない物間寧人でさえ口数が減り、鉄哲も気力だけで身体を動かしている状態だった。
そんな生徒たちを見渡しながら、ピクシーボブが腰へ手を当てて笑う。
「んもう、しょうがないわねぇ。本当は晩ご飯まで黙ってようと思ってたんだけど、飴と鞭ってことで先に教えてあげる!」
疲れ切っていた生徒たちの視線が一斉に彼女へ集まった。
「今晩、林間学校恒例の肝試しを開催しまーす!」
一瞬の静寂。
次の瞬間、訓練場の空気が一変した。
「マジで!?」
「肝試し!?」
「ようやく林間学校らしいイベント来たな!」
芦戸三奈と葉隠透が歓声を上げ、切島鋭児郎は拳を突き上げて笑う。
「青春って感じじゃねぇか!」
B組にもどよめきが広がり、疲れ切っていた表情へ久しぶりに活気が戻っていく。
だが、その輪の中でただ一人、緑谷出久だけは笑えなかった。
肝試し──その言葉を聞いた瞬間、昨夜トゥワイスから告げられた一言が鮮明によみがえる。
──明日、二十時に作戦を開始する。
夜の森へ生徒が二人一組で散開し、教師たちも運営や見回りのため配置を分散させる。敵が襲撃し、標的を誘拐するにはこれ以上ない条件だった。
AFOはこの予定を知ったうえで、作戦開始時刻を二十時へ合わせたのだ。
出久は無意識に拳を握り締める。
敵は合宿所の位置だけでなく、教師側の予定も夜間行事も把握したうえで計画を立てている。自分が何も報告しなくても、襲撃計画は最初から完成していたのかもしれない。
周囲では誰と組むのか、脅かし役は誰なのかと楽しげな会話が続いていた。その輪から少し離れた木陰には、腹を押さえて座り込む青山優雅の姿がある。
「うぅ……レーザーを撃ち過ぎると、お腹がね。美しさにも代償は付き物さ……」
近くに誰もいないことを確認した出久は、青山へ歩み寄った。
「青山君」
「おや、緑谷君」
「君の方は……何か聞いている?」
青山は不思議そうに首を傾げる。
「何をだい?」
「今夜のこと」
「肝試しのことなら、今初めて聞いたけれど?」
その表情に不自然さはない。演技ではなく、本当に何も知らされていないのだ。
その事実が出久の胸へ重く沈む。
青山もまたAFOへ協力し、情報を流してきた人間だ。自分と同じように命令へ怯え、逃げ場を失い、後戻りできない場所まで引きずり込まれている。そう思っていた。
だが彼は、今夜誰が襲われるのかも、誰が連れ去られるのかも知らない。何も背負わされないまま、純粋に肝試しを楽しみにしている。
「肝試し、楽しみだね。ボクは怖いのは少し苦手だけれど、それも青春というものじゃないかな☆」
何気ないその一言が、出久の胸を深く抉った。
敵連合から直接接触され、拉致計画を聞かされ、誰にも伝えられないまま襲撃を待つしかないのは、自分だけだった。
胸の奥へ押し込めていた感情が一気に噴き上がる。
気づけば身体は考えるより先に動いていた。
「ふざけるなよ……!」
「緑谷君……?」
「なんで君だけなんだよ!」
出久は青山の胸倉を掴み、力任せに立ち上がらせる。腹痛で力の入らない青山は抵抗できず、狼狽えた目で出久を見返した。
「どうして君だけ何も知らないんだ! 同じじゃないのかよ! 君だって──!」
「──何やってんだ、テメェ」
横から伸びた腕が出久の手首を掴み、青山の胸倉から強引に引き剥がした。
振り向くと、爆豪勝己が不機嫌そうな表情で立っていた。
二人が正面から言葉を交わすのは、期末試験で衝突して以来だった。あの日を境に、出久は爆豪へ追いすがることをやめ、互いに必要以上の接触を避けている。
「……もう話しかけてくれないと思ったよ」
「あ?」
出久は掴まれた腕を振り払う。
「いじめられてる人がいたら放っておけないんだね。流石かっちゃんだよ」
「何が言いてぇ」
「別に。青山君を助けるなんて、優しいなって思っただけだよ」
「テメェが意味分かんねぇことしてっから止めただけだ」
「そう」
出久は冷え切った視線を爆豪へ向けた。青山へ向けていた怒りとは別の感情が、胸の奥から静かに湧き上がってくる。
「僕には自殺教唆したくせにさ」
その一言が落ちた瞬間、周囲の空気が凍りついた。
青山が息を呑み、近くにいた上鳴や瀬呂も言葉を失う。爆豪の表情からも怒気とは別の色が一瞬だけ消えた。
「……は?」
「覚えてない? 屋上から飛び降りたら、来世では個性が宿るかもしれないって」
「やめるんだ、緑谷君!」
青山が止めようとするが、出久の口は止まらない。
「それなのに今は青山君を助けるんだ。相手が僕じゃなければ、ちゃんと止められるんだね」
「黙れ」
「僕ってそんなに虐め甲斐のある顔してるかな? 殺したいくらいにはさ」
「黙れっつってんだろ!」
爆豪の掌で火花が弾け、乾いた破裂音が訓練場へ響く。周囲の生徒たちが身構えても、出久は一歩も退かなかった。
今夜、誰かが連れ去られる。雇われた増援が命令を無視すれば死人が出るかもしれない。
青山も爆豪も何も知らない。
知っていながら何もできないのは自分だけだ。その理不尽さが、積み重ねてきた怒りと混ざり合い、目の前の爆豪へ向けられていた。
「今さらヒーローみたいなことしないでよ」
静かに告げる。
「気持ち悪いから」
次の瞬間、爆豪は出久の胸倉を掴み、乱暴に引き寄せた。
「テメェ、何様のつもりだ。何があったか知らねぇが、関係ねぇ奴に当たり散らしてんじゃねぇ」
「関係ない? 青山君は関係あるよ」
「何にだ」
その問いに、出久の口が止まる。
青山がAFOの協力者であることも、昨夜トゥワイスと接触したことも、今夜襲撃が起こることも言えるはずがない。どれか一つでも口にした瞬間、すべてが崩れる。
「言えねぇなら、くだらねぇ八つ当たりで他人巻き込んでんじゃねぇよ」
「何も知らないくせに」
「ああ、知らねぇよ。テメェが何も言わねぇからな」
その言葉が胸の奥へ深く突き刺さった。
「言ったら信じるの?」
「は?」
「僕が何をして、何を知ってるのか、全部言ったら信じてくれるのかって聞いてるんだよ」
爆豪は即答しなかった。
その一瞬の沈黙だけで、出久には十分だった。
「ほら。信じないくせに」
「勝手に決めつけてんじゃねぇ」
「かっちゃんが僕を信じたことなんて、一度でもあった?」
爆豪の手がわずかに緩む。その隙に出久は腕を払い、半歩距離を取った。
「僕が何を言っても、気に入らなければ殴って黙らせてきた。今だって同じだよ」
「俺は──」
「何?」
爆豪は言葉を失った。
いつの間にか訓練場のざわめきは消え、遠巻きに見守る生徒たちは誰一人として口を挟めない。青山も青ざめた顔で二人を見比べていた。
「自殺教唆って……」
「爆豪が、緑谷に?」
囁きが広がり、困惑と同情を含んだ視線が出久へ集まる。
今夜、敵連合が襲撃してくる。
何人もの生徒が狙われているというのに、自分は何も伝えられず、青山へ八つ当たりし、爆豪との過去まで皆の前へ晒している。
誰かを守りたいと願いながら、目の前の人間を傷つけることしかできない。
胸の奥に残っていた怒りは急速に冷え、投げやりな感情へ変わっていった。
もう、どうでもいい。
青山も、爆豪も、襲撃も、AFOも、雄英も、自分自身も。
いっそ全部、壊してしまえばいい。
地面から骨槍を突き出せば、訓練場は一瞬で混乱する。爆豪は応戦し、轟や飯田たちも止めに入るだろう。巨大な骨で周囲を囲み、相澤が来るまで暴れ続ければ、もう何も考えなくて済む。
出久の右腕が脈打ち、皮膚の下で骨が軋んだ。
使い過ぎて腫れた腕に余力はない。それでも身体を壊す覚悟で力を引き出せば、個性は応えてくれる。
ゆっくりと拳を握る。
「デク、テメェ──」
異変に気づいた爆豪が掌を構えた、その時だった。
「手ぇ出した時点でどっちも同じだ! 周りを見ろ! クラスメイト巻き込んで何がヒーロー志望だ!」
鋭い怒声とともに虎が二人の間へ割って入り、爆豪を睨みつけた。爆豪は奥歯を噛み締めたものの、プロヒーローを相手に爆破を放つことはない。
虎はすぐに出久へ向き直る。
「お前もだ、緑谷。その腕で何をしようとしてた」
「……何も」
「嘘つけ。個性を出しかけてただろうが」
出久は拳を開いた。骨が軋む感覚は消えていたが、ほんの数秒前まで自分が何を考えていたのかは誰よりも理解している。
本気で全部壊そうとしていた。
虎が止めなければ、実際に個性を使っていたかもしれない。その事実を自覚した瞬間、胃の底が冷たく沈む。
「緑谷君……」
青山の震えた声が聞こえても、出久は顔を上げられなかった。
「見世物じゃねぇぞ! 他の奴らは訓練に戻れ!」
虎が一喝すると、生徒たちは互いに顔を見合わせながら、重い足取りで訓練へ戻っていく。
──それから数時間後。
山中は夜の冷気に包まれ、施設の外からは肝試しを待つ生徒たちの笑い声が聞こえていた。
その賑わいから切り離された教室で、出久は一人机へ向かっている。昼間、青山の胸倉を掴み、爆豪と衝突し、個性まで発動させかけた罰として、肝試しへの参加を禁じられたのだ。
机の上には参考書と問題用紙が広げられている。普段なら迷わず解ける内容なのに、同じ行を何度読んでも頭へ入らない。意識は壁に掛けられた時計へ吸い寄せられていた。
十九時四十七分。
作戦開始まで、あと十三分だった。
出久は手を止め、窓の外へ目を向けた。
森ではすでに肝試しの説明が始まり、生徒たちは二人一組で散開している頃だろう。教師たちも持ち場へ分かれ、敵連合が襲撃するには理想的な状況が整っている。
昨夜の時点では、自分が肝試しから外されるなど思ってもいなかった。昼間の騒動は完全に予定外であり、AFOもこの状況までは予測していないはずだ。
もし参加していれば、今ごろ自分も襲撃の只中にいた。しかし今は施設内にいるため、森で敵と鉢合わせる可能性は低い。
だからといって安心などできなかった。
自分だけが安全な場所にいる間にも、誰かが襲われる。
問題用紙へ視線を戻しても、昼間の光景が何度も脳裏によみがえる。何も知らない青山を責め立て、爆豪へ過去の言葉を突きつけ、挙げ句の果てには周囲ごと壊そうとした。
虎が止めなければ、本当に怪我人を出していたかもしれない。
「……最低だ」
強く握ったシャープペンシルの芯が折れ、小さな音が静かな教室へ響く。
時計を見る。
十九時五十一分。
あと九分。
何かしなければならない。
相澤へ伝え、教師を集め、肝試しを中止させる。やるべきことは分かっているのに、身体は机へ縫い付けられたように動かなかった。
AFOとの関係が露見する。
青山のことまで知られる。
保須で人を殺したことを問われる。
何より、昨夜から襲撃を知りながら黙っていた理由を説明しなければならない。
今さら知らせたところで、誰が信じる。
──テメェが何も言わねぇからな。
爆豪の言葉が頭をよぎる。
言えなかったのではない。
自分で言わないことを選び、その結果が訪れるのを待っているだけだ。
それではヴィランへ協力しているのと何が違う。
教室には秒針の音だけが規則正しく響いていた。
十九時五十九分。
長針が十二へ近づくにつれ、胸の奥が締めつけられていく。
今からでも廊下へ飛び出し、誰でもいいから捕まえて伝えるべきではないのか。信じてもらえなくても、肝試しだけは止められるかもしれない。
それでも出久は席を立てなかった。
秒針が真上を指す。
二十時。
その瞬間、すぐ背後から楽しげな声が響いた。
「また難しいお顔してますね、デク君」
全身が凍りつく。
椅子を鳴らす勢いで振り返ると、誰もいなかったはずの教室に、一人の少女が立っていた。
閉め切られていた窓も、人の気配すらなかった廊下も、その存在を説明できない。
金色の髪を左右で束ね、セーラー服の上からカーディガンを羽織ったトガヒミコが、まるで最初からそこにいたかのように椅子の背へ両手を置き、出久を見つめている。
「トガ……さん」
「はい、トガです」
呼ばれたことが嬉しいらしく、トガは笑みを深めた。
「こんばんは、デク君。さ、悪いことしましょ」
椅子の背から手を離すと、ゆっくりと出久の正面へ回り込む。
教室の外は静まり返り、窓の向こうには夜の森が広がるだけだった。
だが、二十時になった。
敵連合の作戦は、すでに始まっている。
「作戦のことは、仁君から聞いてますよね?」
トガは顔を覗き込むように尋ねる。
仁──話の流れから、トゥワイスの本名だろう。
出久は答えない。
昨夜トゥワイスから伝えられたのは、作戦開始時刻、生徒を複数人連れ去ること、そして最初にトガが自分のもとへ来るということだけだった。
なぜ彼女が来るのかまでは聞かされていない。
しかし、その笑顔を見れば穏やかな目的ではないことだけは理解できた。
「聞いてますよね? 二十時になったら、わたしがデク君のところへ行くって」
「……聞いてるよ」
「よかった!」
満足そうに頷いたトガは、机へ広げられた参考書へ視線を落とす。
「場所が変わってたから、ちょっとだけ探しちゃいました。本当は森で会えると思ってたんですけど、デク君、肝試しにいなかったので」
昼間の騒動による処分までは、やはり敵連合へ伝わっていないらしい。
トガは問題用紙をつまみ上げ、興味深そうに眺める。
「お勉強してたんですね。悪いことが始まる時間なのに」
「僕は……」
言葉が続かない。
参加しない。
作戦を止める。
今から教師へ伝える。
どれを口にしても、目の前のトガが黙って見逃すとは思えなかった。
問題用紙を机へ戻したトガは、さらに距離を詰める。
甘い香りの奥に、金属と薬品が混じったような匂いが鼻をついた。
「じゃあ」
楽しげに語尾を弾ませる。
「早速、血を貰っちゃいますね」
出久の表情が強張る。
「血を?」
「はい」
トガはカーディガンの内側へ手を差し入れ、一つの器具を取り出した。
それは通常の医療器具とは似ても似つかないものだった。
太い注射筒の先端には長く鋭い針が取り付けられ、透明な管が腰の装置へ繋がっている。注射器というより、血液を効率よく吸い上げるためだけに作られた凶器だった。
蛍光灯の光が針先へ鈍く反射する。
「少しだけです」
トガは微笑んだ。
「本当はもっと欲しいですけど、今日は必要な分だけ。デク君、怪我してますし」
「何に使うの」
「悪い事ですよ、デク君」
あまりにも自然な口調だった。
「デク君になって、何人かの血を貰って、みんなを混乱させるのが私のお仕事なのです」
出久の背筋が冷えた。
血を摂取した相手の姿へ変身する。
それがトガヒミコの個性だ。
出久の姿を手に入れれば、生徒や教師へ自然に近づける。誰にも警戒されることなく内部へ入り込み、敵連合のために攪乱工作を行える。
敵連合が自分を協力者として扱っている以上、それは最も合理的な作戦だった。
「待ってください」
出久は椅子を引き、少しでも距離を取ろうとする。
「嫌ですか?」
トガは不思議そうに首を傾げた。
「仁君から聞いてませんでした?」
「血を取るなんて聞いていない」
「そうなんですか?」
驚いたように目を丸くしたものの、その足は止まらない。
「でも大丈夫です。すぐ終わりますよ」
注射器を握る手がゆっくり持ち上がる。
「痛いの、わたしは好きです」
「僕は好きじゃない」
「知ってます」
出久は右腕へ力を込めた。
骨を出す。
トガの足元へ突き出して距離を作り、そのまま教室を飛び出して教師を探す。
そう決めた瞬間だった。
窓の向こうで何かが動く。
気のせいだと思う間もなく、教室の窓ガラスが激しい音とともに内側へ弾け飛んだ。
「っ!」
反射的に腕で顔を庇う。
無数のガラス片が蛍光灯の光を反射しながら教室へ降り注ぎ、その中心を黒い影が一直線に駆け抜けた。
長い布が空中を走る。
トガが振り返った時には、すべてが終わっていた。
灰色の捕縛布が注射器を持つ腕へ巻き付き、そのまま肩と胴体を一瞬で拘束する。
「わっ」
トガの身体が勢いよく引き上げられ、机の列を越えて投げ飛ばされた。
背中から床へ叩きつけられ、手を離れた注射器が床を滑っていく。
割れた窓枠から教室へ飛び込んできたのは相澤消太だった。
逆立つ長い髪と赤く染まった瞳が、侵入者だけを鋭く見据えている。
「動くな」
冷たい声とともに捕縛布がさらに締まり、トガは床へ押さえ込まれた。
「うぅ……」
苦しそうに呻きながらも、その顔から笑みは消えない。
「相澤先生!」
出久は思わず名を呼んだ。
どうしてここにいる。
なぜ窓から突入してきた。
疑問が次々と浮かぶが、考える時間は与えられなかった。
足元で何かが蠢く。
床へ散らばったガラス片の隙間から赤黒い液体が一気に噴き上がった。
「な──」
血だった。
粘度を持った大量の血液が蛇のように足首へ絡みつき、脛、膝、腰へと一瞬で巻き上がる。
振り払おうとした時には、両腕まで完全に拘束されていた。
「動くな、緑谷!」
教室の扉が勢いよく開く。
ブラドキングが廊下から踏み込み、掌を出久へ向けていた。
その腕には切り傷があり、流れ出た血液が床を這い、出久を拘束する帯へと繋がっている。
「ブラド先生……!?」
「個性を使うな。抵抗すれば拘束を強める」
赤い血液が腕と胴体を締めつける。
呼吸はできる。しかし身体を動かす余地はほとんど残されていない。
出久は反射的に骨を生成しようとした。
その瞬間、相澤の赤い瞳が自分を捉える。
皮膚の内側で膨らみかけた感覚が一瞬で消えた。
個性を抹消されたのだ。
「どうして……」
出久は相澤とブラドキングを見比べる。
「どうして僕まで──」
「黙っていろ」
相澤はトガから視線を外さないまま低く言った。
「今は質問する立場じゃない」
「でも僕は襲われて──」
「襲われる前から、こいつが来ることを知っていたな」
その一言で、出久の呼吸が止まる。
相澤の声音に疑問はなかった。
確認ではない。
すでに答えを知ったうえで告げている。
「何を……」
「二十時になるまで、何度も時計を確認していた」
ブラドキングが静かに続ける。
「それだけなら肝試しを気にしていたとも考えられる。だが侵入者が現れても、お前は悲鳴を上げず、助けも呼ばなかった」
「それは……」
「何より」
相澤は捕縛布を引き、起き上がろうとしたトガを再び床へ押さえつけた。
「今の会話は全部聞いていた」
出久の顔から血の気が引く。
窓の外にいた。
いつからかは分からない。
少なくとも、トガが作戦について話し始めた頃には、すでに聞かれていたのだ。
トガの言葉が脳裏によみがえる。
──聞いてますよね?
──二十時になったら、わたしがデク君のところへ行くって。
そして自分は、それを否定しなかった。
「聞いてる」と、自分の口で認めてしまった。
もはや弁解の余地はない。
「ヴィランと、いつから繋がっている」
相澤の問いに、出久は答えられなかった。
ブラドキングの血液が腕と胴体へ食い込み、少し身じろぎしただけで拘束がさらに強まる。個性は相澤の視線によって封じられ、骨を生み出す感覚も完全に消えていた。
逃げられない。
誤魔化すこともできない。
それでも今は、自分への追及より先に伝えなければならないことがある。
「ヴィランたちが襲いに来てる!」
拘束へ身体を押しつけるように叫ぶ。
「彼女は攪乱役で、他にも何人もいる! 敵連合だけじゃない。外から雇われた人間もいて、森の中に──」
「分かってる」
相澤は焦りも驚きも見せず、出久の言葉を遮った。
「そんなことだろうと思ってた」
「思ってたって……」
言葉を掻き消すように、遠くで爆発が起きた。
鈍い轟音が山中を揺らし、割れ残った窓ガラスが細かく震える。続いて夜空の一角が青白く染まり、森の木々を押し退けるように巨大な蒼炎が噴き上がった。
「荼毘……」
「荼毘はヴィランと交戦中だ。プッシーキャッツたちもな」
相澤は短く告げる。
「他の侵入者についても、配置と侵入経路はある程度把握している。森へ入った連中は、すでに教師陣と接触済みだ」
「でも、生徒たちは肝試しで散らばってる!」
「散らばってない」
あまりにもあっさりと返された言葉に、出久は息を止めた。
「……え?」
「生徒は全員、事前に決めた場所へ移動させた。森へ向かったように見せただけだ」
理解が追いつかない。
先ほどまで施設の外から聞こえていた笑い声も、窓の向こうを横切っていた懐中電灯の灯も、肝試しのため森へ向かっていたはずの生徒たちも、自分が見ていた光景とは違っていた。
「肝試しなんて、最初からなかったんだよ。緑谷」
静かな教室へ相澤の言葉が落ちる。
同時にブラドキングが掌を握り込み、出久を拘束する血液が一段と強く締め上げた。
「ぐっ……!」
胸を圧迫され、苦しげな息が漏れる。骨が折れるほどではないが、腕も身体もまったく動かせない。
「校長先生が率いる増援も、じきに到着する予定だ」
相澤は授業の予定でも伝えるような落ち着いた口調を崩さない。
「警察だけじゃない。周辺で待機していたプロヒーローも動いている。敵が撤退に使いそうな経路にも、先回りして人員を配置済みだ」
出久は言葉を失った。
窓の外では蒼炎が夜空を照らし、数秒遅れて爆発音が響く。森では今も戦闘が続いているはずなのに、相澤の表情には焦りが見えない。
予想外の襲撃へ対処しているのではない。
敵が来ると分かったうえで、迎え撃っている。
「根津校長は今夜起こり得る事態をいくつも想定していた。敵襲だけじゃない。内通者との接触、情報の受け渡し、施設内部からの攪乱、襲撃と同時に別の場所で何かが起きる可能性までな」
捕縛布がわずかに軋む。
口元を塞がれたトガは床へ転がされたまま、赤い瞳を愉快そうに細めていた。捕らえられているにもかかわらず、焦りの色はまるでない。
「校長先生が……」
出久は掠れた声を漏らす。
「どこまで……」
「さあな。あの人が考えてることを、俺が全部理解できると思うか?」
相澤は淡々と答えた。
「俺たちが聞かされているのも必要な範囲だけだ。生徒を避難させ、森へ敵を誘導し、接触してきた人間を捕らえる。それぞれが持ち場を守れと指示されただけだ」
その赤い瞳が、真っ直ぐ出久を射抜く。
「全部、あの人の掌の上なんだよ」
背中を冷たいものが走った。
自分が何も言わなかったことも。
肝試しの発表で動揺したことも。
青山へ接触したことも。
爆豪と衝突し、罰として一人教室へ残されたことも。
トガが自分を探し当て、作戦について口を滑らせたことさえ、どこまでが偶然で、どこからが根津の想定だったのか分からない。
自分は罠に掛かったのだと思っていた。
しかし、その認識すら正しくないのかもしれない。
この盤面はトガを捕らえるためだけでも、敵連合を迎撃するためだけでもない。
出久自身が何を知り、誰と繋がり、どのような行動を取るのか。
それを見極めるための盤面でもあった。
そして出久は、根津が用意した道筋を疑うことなく歩いてしまった。
時計を見続け、二十時を待ち、現れたトガと会話を交わし、自ら作戦を知っていたと認めた。
そのやり取りも、きっと記録されている。
教師だけが聞いていたとは限らない。
録音機器。
監視カメラ。
通信を通じた音声共有。
考え得る可能性が次々と脳裏をよぎる。
もう逃げられない。
何を言っても、すべて遅かった。
この後、自分はどうなる。
拘束されたまま警察へ引き渡される。
事情聴取を受け、敵連合との関係を調べられ、携帯端末も私物も自宅も捜索される。
トゥワイスとの接触。
AFOから受けた指示。
青山との関係。
保須で自分が人を殺したこと。
隠し続けてきたものが、一つずつ掘り起こされていく。
逮捕──。
その言葉が脳裏へ浮かぶ。
雄英高校ヒーロー科一年、緑谷出久。
敵襲を事前に知りながら黙っていた内通者。
敵連合へ情報を流し、生徒の拉致計画へ加担した容疑者。
報道される。
ニュース番組で名前と顔を晒され、雄英の制服姿が映し出される。幼い頃の写真も、自宅の映像も、過去の言動も、何も知らない人間たちによって好き勝手に並べ立てられる。
ヒーローを目指していた少年が、実はヴィランへ協力していた。
そんな見出しが容易に想像できた。
母はどうなる。
引子はニュースを見て何を思うのか。
警察から事情を聞かれ、記者に家を囲まれ、息子が何をしていたのかと問い詰められる。何も知らなかったと答えても信じてもらえず、育て方まで責められるかもしれない。
クラスメイトたちは。
飯田も、麗日も、轟も。
自分を心配し、手を差し伸べ、一緒に訓練し、食事をし、同じ教室で過ごしてきた仲間たちが、今度は裏切り者を見る目で自分を見る。
爆豪は何と言うだろう。
──僕が何をして、何を知ってるのか、全部言ったら信じてくれるのか。
昼間、自分から投げかけた問いが頭をよぎる。
今となっては、あまりにも滑稽だった。
信じられるはずがない。
話していなかった事実は、爆豪が想像していたよりも遥かに重い。
雄英は退学になる。
ヒーロー資格など得られるはずもない。
保須での殺人まで明らかになれば、二度と自由に外を歩けなくなるかもしれない。
人生が終わる。
その言葉だけが、何度も頭の中を巡る。
積み重ねてきたものが崩れるのではない。
最初から何も積み上げられていなかったことが、ようやく明らかになるだけだ。
AFOへ協力した時点で。
保須で人を殺した時点で。
襲撃を知りながら黙ると決めた時点で。
自分の人生は、とっくに終わっていたのかもしれない。
それでも認めきれず、ヒーロー科の制服を着続けていただけだった。
呼吸が浅くなる。
ブラドキングの血による拘束だけが原因ではない。
視界の端が暗くなり、耳の奥で心臓の鼓動だけが大きく響く。相澤が何かを言っているはずなのに、その声は意味を結ばない。
すべてが遠かった。
窓の外の爆発も。
教室へ吹き込む夜風も。
割れたガラスが床を転がる音も。
その静寂を破るように、かすかな布擦れの音が耳へ届く。
「んー、んんっ」
床へ拘束されたトガが身を捩っていた。
口元へ巻き付いた捕縛布がわずかにずれ、唇が露出する。
相澤が締め直すより早く、トガは大きく息を吸った。
「ばれちゃいましたね、デク君」
楽しげな声だった。
出久はゆっくりと顔を向ける。
頬を床へ押し付けられ、両腕も胴体も拘束されている。それでもトガの表情に恐怖や悔しさはない。
むしろ、待ち望んでいた瞬間を迎えたかのように、口元を嬉しそうに歪めていた。
「喋るな」
相澤が捕縛布を引く。
「きゃっ」
肩を床へ押さえ付けられても、笑みは消えない。
「どうしましょうか」
細められた赤い瞳が真っ直ぐ出久を見つめる。
「捕まっちゃいますね。学校にもいられなくなっちゃいます。お友達にも、先生にも、お母さんにも、ぜーんぶ知られちゃいますね」
「黙れと言っている」
「だって、本当のことでしょう?」
トガは相澤ではなく、出久だけへ語りかけ続ける。
その声は弾んでいた。
人の破滅を面白がるというより、二人だけの秘密がようやく明るみに出たことを喜んでいるようだった。
「デク君が悪い人だったこと」
胸の奥を抉るように、その言葉が落ちる。
「みんなに、ばれちゃいましたね」
出久は何も答えられなかった。
否定する言葉が見つからない。
脅されていた。
選択肢がなかった。
誰かを守るためだった。
どんな理由を並べても、これまでの行動が消えることはない。
沈黙する出久を見つめ、トガはさらに嬉しそうに笑った。
「人生、終わっちゃいましたね」
幼い子どもが面白い秘密を打ち明けるような無邪気な声が、静まり返った教室に響いた。