間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第58話 あんな事をする子だったなんて

 森の奥で、蒼炎が唸りを上げた。轟音とともに青い火柱が樹木の間を駆け抜け、夜の森を昼のように照らし出す。

 

「うおおおおっ!?」

 

 スピナーは地面を転がるように飛び退いた。ほんの一瞬前まで立っていた場所を蒼炎が薙ぎ払い、湿った土を焼き焦がす。熱せられた巨木の幹が激しく爆ぜ、無数の木片が周囲へ飛び散った。

 

「トゥワイス! あっちだ!」

 

「分かってるって!」

 

 トゥワイスが木の幹を蹴って跳び上がり、その背後を蛇のようにうねる炎が、枝葉を焼き払いながら執拗に追う。

 

「ちくしょう!」

 

 二人は木々の間を縫い、岩を飛び越え、斜面を滑り降りていく。それでも蒼炎は獲物を見失うことを知らないかのように何度も進路を変え、どこまでも食らいついてきた。

 

「何なんだよ、あの炎は! 尋常じゃない火力だぞ! 冷てえ!」

 

「どっちだよ!」

 

 怒鳴り返しながら、スピナーは背後を振り返った。青い火の海を挟んだ向こう側から、耐火スーツを着込んだ男が一定の歩調で追ってきている。焦る様子も、息を切らす様子もない。獲物の進路を完全に把握した猟師のように、ただ腕を振るい、逃げ道を削り続けていた。

 

 二十分ほど前、二十時ちょうどに二人は予定どおり森の潜伏場所を飛び出した。肝試しを楽しんでいる雄英の生徒たちを奇襲し、混乱に乗じて標的を確保する。それが与えられた役目だった。

 

 だが、森へ入った瞬間から何かがおかしかった。

 

「……いねぇ?」

 

 最初に口を開いたのはトゥワイスだった。懐中電灯の明かりも、話し声も、悲鳴もない。二人一組で森を歩いているはずの生徒は、一人として見当たらなかった。

 

「おかしい……肝試しをやってる時間だろ?」

 

 静まり返った森には、風が枝葉を揺らす音しか響いていない。嫌な予感が胸をよぎった瞬間、森の奥が青く染まった。

 

「伏せろ!」

 

 叫ぶより早く、巨大な蒼炎が木々を薙ぎ倒しながら一直線に襲い掛かった。炎は二人の頭上を通過し、爆風だけで身体を地面へ叩きつける。焼け焦げた葉が雨のように降り注ぐ中、木々の向こうから一人の男が姿を現した。

 

 耐火スーツの隙間から青白い炎を揺らめかせた男は、二人を一瞥すると淡々と口を開く。

 

「いたいた。全身タイツは手配書で見たことがあるな。トカゲの方は無名か。二名確認、捕獲する」

 

 返事を待つことなく男の右腕が振られ、蒼炎が巨大な帯となって森を駆け抜けた。二人は反射的に踵を返す。

 

「ふざけるなぁぁぁ!」

 

 スピナーが怒号を上げた。

 

「何なんだよ、これは! 生徒が一人もいねぇじゃねぇか! 二十時になったらガキどもが森を歩いてるはずだったんだろ!?」

 

「俺に言うな! 全部俺のせいだ!」

 

 トゥワイスも必死に叫び返す。

 

「情報が違うじゃねぇか!」

 

 蒼炎は二人へ直撃するのではなく、進行方向を奪うように広がっていった。スピナーが咄嗟に左へ曲がった直後、その進路へ別の炎が落ち、轟音とともに巻き上がった土砂が逃走経路を塞ぐ。

 

「追い込み漁かよ!」

 

 炎の向こうから男がゆっくりと近づいてきた。一歩踏み出すたびに、蒼炎が生き物のようにうねり、二人の背後へ回り込む。

 

「散れ!」

 

 スピナーの声に合わせて二人は左右へ飛び分かれたが、炎も迷うことなく二つに分かれ、それぞれを追い始めた。

 

「嘘だろ!?」

 

「クソッ!」

 

 スピナーは斜面を駆け下り、少しでも距離を稼ごうとする。その瞬間、地鳴りが森を震わせ、足元から盛り上がった土砂が、高さ十メートル近い巨大な壁となって行く手を塞いだ。巨木さえ根ごと持ち上げた土壁へ、スピナーは咄嗟に剣を叩きつける。

 

 乾いた音が響き、刃は数センチ食い込んだだけで止まった。

 

「硬ぇ!」

 

「俺たち敵連合の非力トップ二だぞ! 壊せるわけない! 走れ!」

 

 背後では蒼炎が目前まで迫っている。スピナーは舌打ちすると土壁に沿って進路を変え、トゥワイスもその後へ続いた。

 

 背後には炎、横には突破不可能な土壁。進める方向は一つしかなく、数十メートル、百メートルと走っても壁は途切れない。

 

「プッシーキャッツの個性だよな、これ! くそっ、何て範囲だ! 大したことねえぜ!」

 

「どっちなんだよ!」

 

 怒鳴り返しながらも、スピナーは周囲の地形を必死に確認していた。走るにつれ、昼間に偵察した倒木や小川、獣道が次々と視界へ入り、漠然と抱いていた違和感が確信へ変わっていく。

 

「……待て。この方向……トゥワイス!」

 

「何だ!?」

 

「俺たち、誘導されてるぞ」

 

 トゥワイスも周囲を見回し、顔色を変えた。

 

「嘘だろ」

 

「間違いねぇ。炎は俺たちへ直撃しない。横へ逃げれば炎が塞ぎ、逆へ向かえば土壁が現れる。逃げ道はいつも一つだけだ」

 

 その一本だけ残された道は、山の中央部へ向かって伸びていた。

 

「宿泊施設だ……」

 

 敵襲前に叩き込まれた地図では、その先に雄英生が寝泊まりする施設がある。

 

「何でだ!? ガキどもはいねぇんだろ!?」

 

「分からねぇ! だが、俺たちは間違いなくあそこへ追い込まれてる!」

 

 背後で再び蒼炎が木々を薙ぎ払った。立ち止まれば焼かれ、横へ逃げれば土壁に阻まれる。進める道は、もはや前しか残されていない。

 

「クソッ! 俺たちは狩る側じゃなかったのかよ!」

 

 返事をする余裕は、もうトゥワイスにもなかった。二人はただ、生かされるように一本道を走り続ける。その先に何が待っているのかも分からないまま。

 

 さらに数十秒が過ぎた。背後では蒼炎が木々を舐めるたびに爆発音が轟き、少しでも速度を落とせば飲み込まれそうな距離まで迫っている。

 

「まだ終わらねぇのかよ!」

 

 トゥワイスが半ば悲鳴のように叫んだ、その直後だった。

 

「どけどけどけぇぇぇぇぇ!」

 

 前方の茂みが大きく揺れ、二つの人影が枝を薙ぎ倒しながら飛び出してくる。

 

「うおっ!?」

 

「うわぁぁっ!」

 

 四人は危うく正面衝突しかけ、慌てて身をかわした。

 

「マグネ姐!?」

 

「コンプレス!?」

 

 現れたのは敵連合の仲間、マグネとMr.コンプレスだった。二人とも全身泥だらけで、コンプレスのシルクハットは失われ、マントも枝に裂かれている。マグネも肩で荒く息をつき、普段の余裕は完全に消え失せていた。

 

「スピナーか! お前たちもか!」

 

「『も』じゃねぇ! 何があった!」

 

 問いに答える間もなく、マグネの表情が強張る。

 

「来る!」

 

 直後、森全体を揺るがすような怒号が轟いた。

 

「まだ逃げんのか、こらぁぁぁぁぁっ!」

 

 巨木が一本、真正面からへし折られて吹き飛ぶ。その向こうから土煙を巻き上げて飛び出してきたのは、プッシーキャッツの虎だった。筋肉を隆起させた巨体は凄まじい勢いで迫り、額には青筋が浮かび、鬼のような形相で四人を睨み据えている。

 

「また逃げんか、こらぁっ! 全員まとめて締め上げたる!」

 

 地面を蹴るたびに大地が震え、周囲の木々が揺れた。

 

「ひぃぃぃ!」

 

 トゥワイスが絶叫する。

 

「怖ぇぇぇぇぇ!」

 

「何なんだ、あの剣幕は!」

 

 虎は獲物を追うヒーローというより、本気で怒り狂った猛獣そのものだった。さらに後方では、耐火スーツの男が一定の歩幅で追い続け、右腕を振るうたびに蒼炎を森へ放っている。

 

 後方には虎と蒼炎、左右には土壁。残された進路は、四人の正面にしかない。

 

「何なんだよ、この包囲網は!」

 

「走れ!」

 

 スピナーが叫び、コンプレスも声を張り上げる。

 

「止まったら本当に終わる!」

 

 四人は並ぶようにして一本道を駆け出した。土壁に沿い、宿泊施設へ続く唯一の道を進む間も、背後では虎の怒号が絶え間なく響く。

 

「待たんかぁぁぁぁ!」

 

 スピナーは歯を食いしばった。こんなはずではなかった。自分たちは奇襲する側で、生徒を狩る側だった。それが今では四人揃ってヒーローに追い立てられ、逃げ惑っている。

 

「くそっ! あの筋肉ダルマと快楽殺人鬼はどこ行った! 何のための武闘派だよ!」

 

 マスキュラーとムーンフィッシュ。敵連合でも屈指の戦闘要員である二人が暴れていれば、ここまで一方的な展開にはならなかったはずだ。

 

「あいつらか!」

 

 コンプレスが息を切らしながら叫ぶ。

 

「勝手に森へ飛び込んでいった! そしたら、どこからともなく別のヒーローが現れて、そのままやられちまった!」

 

「はぁ!?」

 

 四人の声が重なった。

 

「何でヒーローがこんなにいるんだよ!」

 

「俺に聞くな! こっちだって訳が分からねぇ!」

 

 言葉を遮るように蒼炎が頭上を掠め、前方の木々を吹き飛ばす。逃げ場はさらに狭まり、土壁はなおも途切れず、唯一残された道だけが宿泊施設の方向へ伸びていた。

 

 もはや誰の目にも明らかだった。

 

 これは偶然ではない。

 

 敵連合の四人は今、ヒーローたちの掌の上で、一か所へと追い立てられている。

 

 やがて木々の密度が薄れ、前方に宿泊施設の外壁が見え始めた。

 

「見えたぞ!」

 

「見えなくていい! どう見ても罠だろうが!」

 

 スピナーが怒鳴り返すが、足を止めることはできない。背後からは蒼炎と虎の怒号が迫り、左右にそびえる土壁も、四人を施設前の広場へ押し出すように間隔を狭めていた。

 

「他に道はないのぉ!?」

 

「あるなら、とっくに逃げてる!」

 

 コンプレスが返した直後、背後で蒼炎が大きく膨れ上がった。四人は残された力を振り絞り、森の出口へ駆け込む。

 

 視界が開けた。

 

 宿泊施設前の広場へ飛び出した瞬間、スピナーは思わず足を止めかける。

 

「……何だよ、これ」

 

 生徒も、逃げ惑う教師もいない。代わりに施設の正面入口を背にして、長い捕縛布を首へ巻いたイレイザーヘッドと、腕から流した血液を自在に操るブラドキングが待ち構えていた。

 

 さらに二人の足元では、緑谷出久とトガヒミコが拘束されている。

 

「緑谷少年!」

 

 トゥワイスが目を見開いた。

 

 出久は両腕と胴体を赤黒い血の帯で締め上げられ、膝をつかされている。顔は青ざめ、視線は地面へ落ちたままだった。少し離れた場所ではトガが全身を捕縛布に巻かれて転がされており、口元まで塞がれているにもかかわらず、その赤い瞳だけは仲間たちを見て楽しそうに細められていた。

 

「トガ! 捕まっちゃってるじゃない!」

 

「見りゃ分かる!」

 

 スピナーが剣を構えようとした、その瞬間だった。イレイザーヘッドの髪が逆立ち、赤く染まった瞳が四人を一度に捉える。

 

 身体の奥で、何かが途切れた。

 

「なっ……」

 

 マグネが咄嗟に手を伸ばすが、何も起きない。個性を発動するときの感覚が完全に消えていた。

 

「個性が……!」

 

 コンプレスも腰の道具へ手を伸ばしたまま動きを止め、トゥワイスは慌てて分身を作ろうとする。しかし、やはり何も現れない。

 

「出ねぇ!」

 

「俺もだ!」

 

 スピナー自身の個性は直接戦況を覆せるものではない。それでも、仲間たちの反応だけで何が起きたのかは理解できた。

 

「抹消……!」

 

 イレイザーヘッドは四人を見据えたまま、捕縛布の端を握り直す。

 

「そこまでだ。お前らの行動は、最初から把握していた」

 

 背後から迫っていた蒼炎が森と広場の境界でぴたりと止まり、青い炎を纏う男が木々の間から姿を現した。反対側からは虎が土煙を巻き上げて飛び込んでくる。

 

「やっと止まりやがったか!」

 

 拳を鳴らした虎が、四人の退路を塞いだ。前にはイレイザーヘッドとブラドキング、後ろには虎と蒼炎のヒーロー、左右には高い土壁。逃げ道は完全になかった。

 

「ふざけんな……最初からって、どこまで知ってやがる」

 

「言葉のとおりだ。生徒を散開させる予定も、施設内部へ工作員を送り込む手順も、外から雇った戦力を森へ投入することもな」

 

 四人の表情が一斉に強張る。

 

「どうして、そこまで……」

 

 コンプレスが掠れた声を漏らした。

 

「説明する義務はない。お前らは生徒のいない森を走らされ、戦力を分断され、個別に追い立てられた。そして今、全員が一か所へ集められた」

 

 スピナーは周囲を見渡した。拘束されたトガと出久、個性を奪われた仲間たち、退路を塞ぐヒーロー。あまりにも都合よく、すべてが揃っている。

 

「罠だったのか」

 

「ああ。お前らが襲撃のために森へ入った時点で、既に包囲は完成していた」

 

「ボスの情報が漏れてたってのか……?」

 

 トゥワイスが頭を抱える。

 

「そんなはずねぇ! あるに決まってる! どうなってやがる!」

 

 地面へ押さえつけられたトガが、捕縛布越しに小さく身じろぎした。助けを求めているようには見えず、むしろ仲間まで同じ罠に掛かったことを面白がっているように瞳が笑っている。

 

「笑ってる場合じゃないわよ!」

 

 マグネが怒鳴ると、トガはさらに楽しげに目を細めた。

 

「全員、武器を捨てろ。抵抗は無意味だ。個性は俺が抹消している。逃走経路も残っていない」

 

 ブラドキングが掌を動かすと、地面に広がっていた血液が何本もの太い帯となって持ち上がり、四人の足元を取り囲んだ。

 

「少しでも動けば拘束する。大人しく投降しろ」

 

 イレイザーヘッドは一人ずつ反応を確かめるように視線を巡らせる。

 

「これが最後の勧告だ」

 

 スピナーは荒い呼吸を繰り返しながら周囲を見た。トゥワイスは動揺し、マグネは歯を食いしばり、コンプレスはなおも突破口を探しているが、どこにも逃げ道はない。

 

 背後では青い炎が静かに揺らめき、虎が今にも飛び掛かれる姿勢で待ち構えている。前方ではイレイザーヘッドの赤い瞳が、一瞬たりとも四人から逸れなかった。

 

 自分たちは生徒を攫うために来たはずだった。それが森へ入った瞬間から追い立てられ、仲間を失い、個性を封じられ、今では投降を迫られている。

 

 狩る側だと思っていた。

 

 実際には、最初から檻の中へ放たれた獲物に過ぎなかった。

 

「緑谷出久! どうなってる!? 何で生徒が一人もいねぇ! 何でヒーローが待ち構えてるんだよ!」

 

 スピナーの怒声が広場へ響き渡る。名前を呼ばれた瞬間、出久の肩が小さく震えたが、俯いた顔は上がらない。両腕と胴体を締め上げられたまま、地面の一点を見つめ続けているその顔には、もはや怯えも焦りも浮かんでいなかった。

 

「おい、聞いてんのか!」

 

「黙れ。緑谷へ話しかけるな」

 

 イレイザーヘッドが鋭く制する。

 

「ふざけんな! そいつは俺たちの──」

 

「それ以上喋れば、自分たちで罪状を増やすだけだ」

 

 スピナーの言葉が止まる。

 

 出久には、そのやり取りさえ遠く聞こえていた。敵連合の一員が教師たちの目の前で自分の名前を呼び、襲撃の情報を自分が流したことまで、はっきり口にした。

 

 もはや疑われているという段階ではない。この場の会話は記録されているだろう。監視カメラや通信機を通じて警察へ共有され、居合わせたヒーローたちも証人になる。拘束された敵連合の存在そのものが、自分と彼らの関係を示す証拠になり得る。

 

 逃げ道は完全に消えていた。

 

「緑谷少年……? 何でそんな顔してんだよ。大丈夫か? 全然大丈夫じゃねぇな!」

 

 トゥワイスが困惑したように声を掛けるが、出久は答えなかった。答えられる言葉など、何一つ残っていない。

 

 これから警察が来る。自分は拘束されたまま車両へ乗せられ、雄英の生徒ではなく、敵連合へ加担した容疑者として連行されるのだろう。

 

 取調室では、何度も同じ質問を受ける。いつからAFOと繋がっていたのか。何を伝え、今回の襲撃をどこまで知っていたのか。なぜ教師へ知らせなかったのか。トゥワイスやトガと何を話したのか。青山は何に関わっているのか。保須で、自分は何をしたのか。

 

 黙秘したところで逃れられない。携帯端末を調べられ、行動履歴を追われ、自宅も捜索される。母は事情聴取を受け、近所には警察車両や報道陣が押し寄せるだろう。

 

 もう学校へ戻ることはできない。教室の机も、寮の部屋も、ヒーロー科の制服も失い、退学だけでは済まず、自分は雄英の生徒でも、ヒーローを志す少年でもなくなる。

 

 犯罪者として記録され、たとえ刑期を終えたとしても、以前の生活には戻れない。記事や映像は残り続け、進学も就職も、住居を借りることさえ難しくなるかもしれない。どこへ行っても過去を知られることに怯えながら、生き続けることになる。

 

 消えたのは、ヒーローになる未来だけではない。

 

 普通に生きる未来まで失われていた。

 

 母の顔が脳裏に浮かぶ。泣くだろうか、怒るだろうか、それとも自分を責めるのだろうか。息子が雄英で頑張っていると信じていた母へ、自分は何一つ本当のことを話さなかった。

 

 敵に脅されていた。選択肢がなかった。母を守るためだった。

 

 そう説明したところで、結果は変わらない。母を守ろうとして、その人生まで壊してしまう。

 

 最後に残ったのは、その事実だけだった。

 

「……ごめんなさい」

 

 出久の唇から、掠れた声が漏れる。

 

「何? 聞こえねぇぞ!」

 

 スピナーが眉を寄せるが、出久はそれ以上何も言わなかった。誰に謝ったのか、自分でも分からない。母か、教師か、クラスメイトか、襲撃を止められなかった相手か。それとも、最後までヒーローになれると信じていた過去の自分か。

 

 視界の中で土の粒がぼやけていく。泣いているのだと気づくまで少し時間が掛かった。涙が頬を伝い、地面へ落ちたが、嗚咽は出なかった。泣き叫ぶだけの力も、助けを求める気力も残っていない。

 

「緑谷。今は何も喋るな」

 

 イレイザーヘッドの低い声が届いたが、出久は顔を上げなかった。それは庇う言葉ではなく、これ以上不利になる発言をさせないための、容疑者を確保したヒーローとしての指示に聞こえた。

 

 その認識が胸へ突き刺さる。

 

 もう相澤は、自分を生徒として見ていないのかもしれない。敵の襲撃を知りながら隠し、内通者として情報を流し、その結果、仲間たちを危険に晒したのだから当然だった。

 

「おい、緑谷! 何とか言え! この状況はお前も知らなかったのか!? 俺たちは嵌められたのか!」

 

 出久は答えなかった。何を言っても遅い。知らなかったと訴えても、自分が敵連合へ情報を流した事実は消えず、脅されていたと説明したところで、保須で犯したことまで帳消しになるわけでもない。

 

 この先に待っているものは決まっている。逮捕され、裁かれ、すべてを失う。母に合わせる顔も、クラスメイトの前へ戻る資格もなく、ヒーローになる夢など、もう考えることさえ許されない。

 

 胸の奥にあった最後の力が、音もなく抜け落ちていく。逃げたいとも、助かりたいとも思わない。ただ、このまま何も考えずにいられればいい。

 

 出久は俯いたまま瞼を閉じた。

 

 その瞬間だった。

 

 乾いた破裂音が、夜の広場を切り裂いた。

 

「──っ!」

 

 相澤の身体が大きく揺れ、右腕から血が弾ける。握っていた捕縛布が緩み、銃声が着弾より僅かに遅れて届いた。

 

 何が起きたのか理解するより早く、二発目の衝撃音が響く。

 

「ぐっ……!」

 

 ブラドキングの太腿が撃ち抜かれ、身体が傾いて膝をついた。集中が途切れたことで、出久の両腕と胴体を縛っていた赤黒い血の帯が一斉に崩れ、液体となって地面へ落ちる。同時に相澤の捕縛布も制御を失い、トガを包んでいた布が緩んだ。

 

「何だ!?」

 

「狙撃だ!」

 

 スピナーが叫び、コンプレスが反射的に身を屈めた。虎も即座に四人の前へ出ようとしたが、銃弾がどこから飛来したのか分からない。音の方向と着弾角度が一致せず、暗い森のどこを見ても射手の姿はなかった。

 

「全員伏せろ!」

 

 相澤は撃たれた腕を押さえながら叫び、痛みに顔を歪めつつ身体を捻った。髪が逆立ち、赤く染まった瞳が射撃の飛んできたと思われる方角を薙ぐ。

 

 しかし、木々の間に人影も、動く気配もない。

 

 近くにいない。

 

「この……見えないほど遠距離から!」

 

 そう叫んだ直後、三発目が放たれた。

 

 今度は相澤の左脚から血が噴き出し、膝が折れる。

 

「がっ!」

 

 急所は外されているが、立ち続けることはできない。

 

「相澤!」

 

 ブラドキングが手を伸ばそうとするものの、撃ち抜かれた脚に力が入らず、その場から動けなかった。

 

 相澤は歯を食いしばり、なおも森の奥を睨む。しかし射手は、その視界の遥か外側にいた。

 

 宿泊施設から数キロ離れた山の尾根。夜の闇へ溶け込むように伏せたレディ・ナガンは、自らの右腕を変形させた長銃身を構え、照準越しに広場を見下ろしていた。

 

 枝葉の隙間、地形の傾斜、施設を囲む壁。そのすべてを計算し、わずかに残された射線だけへ弾丸を通している。相澤が視線を向ける方向も、発砲の瞬間には読み切っていた。

 

 抹消は、相手を視界へ収めなければ成立しない。ならば、その視界へ入らない距離から撃てばいい。

 

「二人とも生存。腕一本、脚二本。拘束解除には十分ね」

 

 ナガンが照準を微調整する一方、広場では状況が一変していた。

 

「デク君!」

 

 拘束を解かれたトガが転がるように起き上がり、口元の布を乱暴に外して出久の傍へ駆け寄る。

 

「動けますか?」

 

 出久は倒れ込みかけた身体を辛うじて腕で支えていた。自由になったと理解しても、身体は動かない。逃げなければならない。今なら、まだ間に合う。理屈では分かっているのに、心がついてこなかった。

 

「デク君?」

 

 トガが顔を覗き込む。出久は虚ろな目を向けるだけだった。

 

「……どうして」

 

「助けが来たんですよ。よかったですね」

 

 トガは嬉しそうに笑う。

 

 よくない。

 

 何もよくなっていない。

 

 ここから逃げても罪が消えるわけではなく、ヒーローから逃走して敵連合と行動を共にすれば、もう二度と戻れなくなる。だが、留まれば逮捕される。

 

 逃げても終わり。残っても終わり。

 

 どちらを選んでも、自分の人生は元へ戻らない。

 

「緑谷! そこを動くな!」

 

 相澤が地面へ片膝をついたまま叫んだ。その声にはまだ教師としての響きが残っていたが、出久には自分を犯罪者として拘束するための命令にしか聞こえない。

 

 トガが出久の腕を取る。

 

「行きましょう」

 

 出久は抵抗しなかった。自分から立ち上がる力も、留まる意思もなく、ただ引かれるままゆっくりと膝を浮かせる。

 

 その様子を見たスピナーが我に返った。

 

「今だ! 個性が戻ってる!」

 

 相澤が撃たれ、視線が外れたことで抹消は解除されている。マグネが掌を開き、コンプレスが指先を動かし、トゥワイスが自分の身体を確かめた。

 

 そのとき、宿泊施設の上空で何かが風を切る。

 

「上だ!」

 

 虎の叫びに、広場にいた全員が反射的に顔を上げた。

 

 月明かりを遮るように、複数の黒い影が施設の屋根を飛び越えている。人間に近い輪郭をしているものの、その落下速度も、四肢の長さも、宙で取る姿勢も、まともな人間のものとは思えない。

 

 影は五つ。

 

 それぞれが広場へ落下し、地面を抉りながら着地した。轟音とともに土煙が立ち上り、石畳へ蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

 

「今度は何だよ!?」

 

 スピナーが剣を構え直す。

 

 土煙の中から、最初の一体がゆっくりと立ち上がった。身長は二メートルを優に超え、異様に発達した肩と腕に対して腰は細く、皮膚は病的な灰色をしている。顔の上半分には皮膚がなく、頭蓋の内側に収まるはずの脳髄が、赤黒い襞を剥き出しにしたまま脈動していた。

 

 その下では、焦点の定まらない眼球が左右別々の方向へぎょろぎょろと動いている。怒りも、苦痛も、殺意さえ宿さず、ただ命令を待つためだけに存在しているかのような空虚な目だった。

 

 続いて姿を現した四体も、細部こそ異なるものの同じ特徴を備えていた。剥き出しの脳、継ぎ接ぎだらけの肉体、異常に発達した四肢、そして生き物を見る目ではない無機質な眼球。

 

「怪人……?」

 

 コンプレスが呻くように呟く。

 

「いや、ありゃ何だ。人間なのか?」

 

「どっちでもいいわよ! こっちの味方なの!? それとも、全員まとめて殺す気!?」

 

 マグネが身構えたまま後退するが、答える者はいない。怪物たちは敵連合の四人にも、周囲を固めるヒーローにも目を向けず、五体揃って拘束を解かれた出久とトガを見た。

 

 その瞬間、出久の背筋を冷たいものが走る。

 

 あれを知っている。

 

 同じ姿を見たことがあるわけではない。目の前の怪物たちは、記憶にある小さな存在とは体格も顔つきもまるで異なっている。それでも、直感的に理解した。

 

 志賀が「ジョンちゃん」と呼んでいた小さな怪物。頭部から脳を剥き出しにし、黒い液体を介して人間を転送していた、あの奇妙な生物。

 

 目の前に降り立った五体は、あれと同じものだ。同じ技術によって作り出された存在であり、おそらくは人間を材料にしている。

 

「脳無……」

 

 出久の口から、無意識に言葉が漏れた。

 

「え?」

 

 傍らのトガが振り返る。出久自身、なぜその名を知っているのか分からなかった。以前、志賀の施設で耳にしたのかもしれない。あるいは、あまりに強烈な印象とともに意識の底へ刻み込まれていたのかもしれない。

 

 だが、確信だけはあった。

 

「ジョンちゃんと……同じだ」

 

 トガの笑みが僅かに深くなる。

 

「ボスのお迎えですかね?」

 

 その言葉へ応じたかのように、五体のうち二体が動いた。

 

 姿が消える。

 

 そう錯覚するほどの速度だった。

 

「緑谷から離れろ!」

 

 相澤が叫び、地面へ片膝をついたまま視線を向ける。赤く染まった瞳が一体を捉えた瞬間、脳無に埋め込まれていた超再生や筋力増強、瞬発力を高める複数の個性が強制的に封じられ、肉体を覆っていた異様な圧力が僅かに弱まった。

 

 それでも怪物は止まらない。元から備わっている肉体だけで地面を踏み砕き、相澤との距離を一気に詰めた。

 

「なっ……!」

 

 相澤は負傷していない腕で捕縛布を振るい、その首へ巻きつけようとする。しかし布が届く寸前、数キロ先から放たれた銃弾が石畳へ突き刺さり、二人の間で土煙を噴き上げた。

 

「くっ!」

 

 相澤の視界が、一瞬だけ遮られる。

 

 脳無はその隙を逃さず、相澤へ攻撃するのではなく脇を通り抜け、巨大な腕を出久の胴体へ回した。

 

「……っ」

 

 出久の身体が軽々と宙へ浮く。抵抗する気力を失っていた出久は声を上げることもできず、脳無の腕へ抱えられたまま、力なく手足を垂らしていた。

 

「デク君!」

 

 トガが手を伸ばしたが、彼女の背後には既に別の一体が回り込んでいた。脳無はトガの腰へ腕を回し、荷物でも持ち上げるように身体を抱える。

 

「わっ。力持ちですねぇ。ジョンちゃんのお友達ですか?」

 

「二人を離せ!」

 

 ブラドキングが片腕を持ち上げ、撃ち抜かれた太腿から流れる血を槍状に変えて、出久を抱える脳無の胸へ突き出した。

 

 血の槍が肉体を貫く。

 

 しかし、脳無は揺らがない。

 

 痛みを感じた様子さえなく、胸へ刺さった血液を筋肉の収縮だけで押し戻した。相澤の視線が外れたことで封じられていた個性も戻り、裂けた傷口が盛り上がって瞬く間に塞がっていく。

 

「再生してやがる……!」

 

「なら俺が止める!」

 

 虎が地面を蹴り、トガを抱えた脳無へ正面から突進した。鍛え抜かれた拳が怪物の顔面へ炸裂し、頭蓋が陥没して首があり得ない方向へ折れ曲がる。

 

 脳無の巨体はトガを抱えたまま十数メートル先まで吹き飛び、地面を何度も跳ねて土煙の中へ転がっていった。虎はすぐさま追撃へ移るが、土煙の中で何かが動く。

 

 折れ曲がっていた首が、骨の砕ける音とともに元の位置へ戻る。陥没していた頭蓋が盛り上がり、潰れた眼球まで再生していった。

 

 脳無は、何事もなかったかのように立ち上がる。

 

「わぁ。すごいです。気持ち悪いです!」

 

「どっちだよ!」

 

 間近で一部始終を見ていたトガが赤い瞳を輝かせ、トゥワイスが思わず叫ぶ。

 

 虎の表情から、僅かに余裕が消えた。

 

「……化け物か」

 

 再び踏み込もうとした虎の前へ、残る三体が同時に割り込んだ。一体が拳を正面から受け止め、別の一体が脇腹へ体当たりし、最後の一体が背後から両腕を掴む。

 

「邪魔だぁ!」

 

 虎が咆哮し、全身の筋肉を膨れ上がらせた。一体の腕を力任せに引き千切り、別の一体を肩越しに投げ飛ばし、さらに背後へ肘を叩き込んで三体目の胸郭を陥没させる。

 

 それでも、脳無たちは表情一つ変えなかった。千切れた腕の断面から肉が盛り上がり、骨と筋肉が急速に再形成され、胸を潰された個体も軋む音を響かせながら上体を起こす。

 

「こいつら……壊しても止まらん!」

 

 虎が三体を相手取っている間に、出久とトガを確保した二体は敵連合の四人の前まで移動した。

 

 出久を抱えていた脳無が腕を下ろす。足が地面へ触れたものの、自分の体重を支える力が残っていなかった出久は、膝から崩れ落ちかけた。その身体をマグネが慌てて受け止める。

 

「ちょっと、大丈夫!?」

 

 出久は返事をせず、虚ろな瞳を脳無へ向け、その剥き出しの脳髄を見つめ続けていた。

 

 ジョンちゃんと同じ。

 

 だが、同じではない。

 

 志賀が小さな怪物を愛玩動物のように扱っていたのに対し、目の前にいる存在はヒーローの攻撃にも怯まず、傷を瞬く間に修復し、人間を容易に攫えるほど強化されている。

 

 AFOは、こんなものをいったい何体用意しているのか。そして、何のために作ったのか。

 

 考えるまでもなかった。

 

 敵連合の戦力として、ヒーローを殺し、命令された人間を攫うための兵器として。

 

「迎えが来たぞ!」

 

 スピナーが出久たちを庇うように前へ出る。

 

「考えるのは後だ! 今度こそ逃げる!」

 

「賛成だ!」

 

 コンプレスが指を鳴らし、マグネとトゥワイスも脳無たちの周囲へ集まった。ほんの数秒前まで完全に包囲されていた敵連合の六人は、五体の脳無に守られる形で一か所へ固まっている。

 

「緑谷!」

 

 相澤が血の滲む脚を引きずりながら叫ぶ。

 

「そいつらから離れろ! 今ならまだ戻れる!」

 

 出久の肩が僅かに震えた。その声には、まだ教師としての響きが残っている。

 

 だが、振り返ることはできなかった。

 

 戻れる。

 

 その言葉を、今の出久は信じられない。たとえ相澤が許しても、警察は許さないかもしれない。学校へ戻れたとしても、以前と同じ目でクラスメイトが自分を見るとは思えず、何より自分自身が自分を許せなかった。

 

 トガが出久の腕へ自分の腕を絡め、相澤を振り返る。口元には、いつもの無邪気な笑みが浮かんでいた。

 

「先生。デク君は、私たちが連れていきますね」

 

 相澤の捕縛布が動く。

 

 同時に、数キロ離れた尾根でレディ・ナガンの銃口が再び火を噴いた。

 

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