同じ頃、林間学校が行われているプッシーキャッツ私有地の外縁部では、最後まで抵抗を続けていた男が地面へ組み伏せられていた。
「離せ! もっと殺させろお! 話が違うじゃねえかあ!」
両腕を背中側へ捻り上げられながら、男は喉を裂かんばかりに怒鳴った。肩幅は並の成人男性の倍近くあり、抉り取られて義眼となった左目が、その凶暴な人生を物語っている。
「君は今度こそ、二度と日の目を浴びることのないタルタロスへ入ることになる。以前の牢獄は、君には生易しすぎたようだね」
折れた枝の上から男を見下ろす根津には、土埃一つ付いていなかった。一方、男を押さえ込む二人のヒーローは全身を汗と泥で汚し、肩で荒く息をしている。
「今筋強斗、通称マスキュラー。こんな大物まで加わっていたとはね」
林道では、警察官たちが捕縛した犯罪者を護送車へ収容していた。いずれも個性に応じた拘束具を装着され、中には複数の殺人や強盗、ヒーロー襲撃で指名手配されていた者もいる。
彼らは敵連合が外部から集めた戦力だった。私有地の外周で騒ぎを起こし、警察や周辺地域のヒーローを分散させる役目を与えられていたのだろう。
だが、その目論見は既に看破されていた。
「被疑者九名、全員の身柄を確認しました!」
警察官の一人が駆け寄り、端末を確認しながら報告する。
「二名が重傷ですが、命に別状はありません。少なくとも三名は広域指名手配犯と一致しています」
「ご苦労さま。通信機器や薬物も押収しておいてほしい。特に通信履歴は、敵連合との接触経路を突き止める手掛かりになる」
「承知しました」
警察官が離れると、傍らのヒーローが大きく息を吐いた。上半身を覆う金属装甲には、先ほどマスキュラーの投げた巨木を受け止めた際のへこみが残っている。
「これで外側は片付きましたね。数は多かったですが、動きは単純でした。時間になったら暴れろとしか命令されていなかったんでしょう」
「おそらくね。捕まった際の情報漏洩を避けるため、陽動に必要な最低限の指示しか与えられていなかったはずだ」
答えながらも、根津の注意は森の奥へ向いていた。
宿泊施設のある方角で、木々の向こうが一瞬だけ青白く染まる。遅れて低い轟音が届き、夜空へ吹き上がった蒼炎が山の輪郭を浮かび上がらせた。
「また上がりましたね」
「うん。予定では、荼毘には敵を施設前まで追い込んでもらうことになっている。炎が続いている以上、作戦も継続中と考えるべきだろうね」
「なら、予定どおりなのでは?」
「予定どおりであれば、ね」
根津の声から、普段の軽やかさが薄れた。
襲撃の情報を得た時点から、可能な限りの準備は進めていた。生徒を事前に安全区域へ移し、敵連合が狙う場所にはヒーローを配置する。森へ侵入した戦力を分断して各個に制圧し、残った構成員を宿泊施設前へ追い込む。外縁部の犯罪者には、根津自身が複数のヒーローを率いて対処した。
ここまでは、ほぼ想定どおりだった。
それでも、根津の胸に沈んだ違和感は消えない。
脳裏に浮かんでいたのは、今回の大捕物の発端となった生徒──緑谷出久だった。
入学当初の彼は臆病なほど慎重で、他人の痛みに過敏な少年だった。自分が傷つくことには無頓着でありながら、誰かが危険に晒されれば考えるより先に身体を動かす。その危うさの根底には、誰かを救いたいという真っ直ぐな衝動があった。
ところが、職場体験を境に彼は変わった。
口数が減り、周囲の視線に怯え、授業中にも背後を気にするようになった。教師に声を掛けられると、言葉を選び、表情を固め、当たり障りのない返事で会話を終わらせようとする。
思春期やヒーロー科の重圧だけでは説明できない変化だった。
何より不自然だったのは、彼の戦い方だ。
入学試験で見せた個性は、骨を生成し、射出するか武器として用いる生成系だった。しかし、その後の試験や演習では、瞬間的な加速、空中での軌道修正、異質な衝撃、獣じみた感覚能力まで見せるようになった。
一つの個性を応用しているのではない。
性質の異なる複数の個性を、無理やり一つの戦闘体系へ押し込めている。
そう考えれば、技ごとに異なる発動の癖や、新たな能力を使うたびに見せる戸惑いにも説明がついた。長年使い慣れた力ではなく、後から与えられた個性を手探りで扱っている者の動きだった。
人間が複数の個性を持つなど、本来ならあり得ない。
だが、個性を奪い、他者へ与えられる例外を、根津は一人だけ知っていた。
オール・フォー・ワン。
長年にわたり裏社会を支配し、かつてオールマイトが死闘の末に討伐したとされる男。
緑谷が複数の個性を与えられた存在なら、その背後にはAFOがいる。荒唐無稽な仮説だったが、彼の急変と敵連合に関わる異変、繰り返される情報漏洩を結びつければ、無視することはできなかった。
決定的だったのが、今回の林間学校への襲撃だ。
外部の人間が知るはずのない日程や生徒の移動予定、公開されていない施設の構造まで敵側へ伝わっていた。情報源が雄英内部にいることは明白だった。
だが、根津は緑谷を単純な裏切り者とは考えていない。
自ら敵へ協力している者なら、あれほど怯えた目はしない。嘘に慣れている者なら、教師と目が合うたびに呼吸を乱し、些細な問いへ過剰に反応することもない。
彼は裏切っているのではない。
裏切らされている。
家族か、友人か、あるいは与えられた個性そのものを盾に取られ、助けを求めることさえ禁じられている。そう考えるのが自然だった。
「校長?」
装甲のヒーローが訝しげに声を掛ける。
「すまない。少し考え事をしていた」
「施設が気になりますか?」
「とてもね」
根津は微笑んだが、その表情に普段の愛嬌はなかった。
今回の作戦は、敵連合を捕縛するだけでなく、緑谷をAFOの支配から切り離すためのものでもある。彼が何をし、どこまで責任を問われるのかは後で調べなければならないが、まずは生きたまま保護する必要があった。
安全を確保したうえで、何に脅されていたのかを聞く。話せないのなら、話せるようになるまで待てばいい。差し伸べられた手すら罠だと疑う者に必要なのは、責め立てることではなく、信じられる事実を積み重ねることだ。
教師とは、本来そういう仕事のはずだった。
しかし同時に、根津の思考には別の疑問が浮かんでいた。
今回の襲撃が本当にAFOの差配によるものなら、あまりにも杜撰すぎる。
緑谷は聡明だが、プロの工作員ではない。嘘をつけば声が上擦り、問い詰められれば視線が泳ぐ。隠し事を抱えれば口数が減り、平静を装おうとするほど表情が固くなる。
根津が違和感を抱けたのも、緑谷の隠蔽があまりに拙かったからだ。
本格的な内通者として使うなら、AFOは嘘のつき方を教え、発覚しにくい通信経路を用意し、疑われた際の受け答えまで準備させるだろう。本人には計画の全容を知らせず、断片的な情報だけを扱わせる方法もある。
だが、実際の緑谷は怯え、疲弊し、誰かに気づいてほしいと訴えるような振る舞いを繰り返していた。秘密を守るよう強要されながら、それを隠し通す技術は与えられていない。
まるで、いずれ発見されることを前提に置かれた駒だった。
杜撰なのは緑谷の扱いだけではない。
今回投入された敵連合の構成員や凶悪犯罪者は、個々の戦闘力こそ高いものの、連携は粗雑だった。外縁部へ送られた者は、時間になったら暴れろとしか教えられていない。森へ侵入した者たちも互いの配置を把握せず、通信網や撤退経路も統一されていなかった。
生徒の拉致が目的なら、これほど多くの指名手配犯を陽動へ投入する必要はない。雄英への打撃が目的なら、戦力を分散させて施設を同時に襲う方が効率的だ。緑谷の回収が目的なら、林間学校以前に接触する機会はいくらでもあった。
なぜ今なのか。
なぜ、これほど大掛かりで、目立つ方法を選んだのか。
敵の作戦が稚拙なのではない。
稚拙に見えるよう組まれているのではないか。
そう考えると、これまで噛み合わなかった事柄が別の形で繋がった。
今回の襲撃では、敵連合の存在を隠す意図が見られない。派手な個性を使い、複数の指名手配犯を集め、社会的注目度の高い雄英の林間学校を標的にしている。
成功しても失敗しても報道され、敵連合が凶悪犯罪者を集めて雄英へ大規模攻撃を仕掛けられる組織だと世間に知れ渡る。
緑谷についても同じだった。
密かに連れ戻すだけなら、内通の事実を教師たちの前で露見させる必要はない。通常ならば、雄英側の警戒を強め、今後の接触を困難にするだけだ。
だが、露見すること自体が目的なら話は変わる。
緑谷の名を敵連合に呼ばせ、情報を渡していた事実を突きつける。自分のせいで仲間を危険に晒したと自覚させ、雄英へ戻る資格はないと思わせた瞬間に、敵側から手を差し伸べる。
肉体を奪う前に、帰る場所を奪う。
それは、人間の弱みを利用して服従させてきたAFOらしい手口だった。
そして、これが今回だけの計画ではないとすれば。
職場体験以降の急変、保須での敵との接触、敵連合の構成員による接近、新たな個性とともに深まっていった孤立。そのすべてが、緑谷を内通者として使うためではなく、社会から切り離すために積み重ねられていたのではないか。
緑谷は情報工作の駒としては不向きだ。嘘に慣れず、他人を傷つける命令へ従い続けられる性格でもない。
AFOが、その欠点を見抜けなかったとは考えにくい。
むしろ見抜いたうえで、不器用な嘘をつかせ、罪を重ねさせ、周囲から疑われる状況へ追い込んだ。正体が露見すれば、緑谷は他人から断罪されるより先に、自分で自分を断罪するだろう。
彼の自己犠牲は、善性であると同時に致命的な弱点でもある。
自分が皆を傷つけたのだから、皆を守るために消えなければならない。雄英にいれば迷惑を掛けるのだから、自ら去るべきだ。そして、自分を受け入れる場所が敵側にしか残されていないなら、そこへ行くしかない。
そう考えるよう誘導することは難しくない。
「……まさか」
根津の呟きに、先を走っていたヒーローが振り返る。
「どうしました?」
根津はすぐには答えなかった。
一連の事件はすべて、緑谷出久を社会から孤立させ、悪の道へ誘うためのものではないか。
複数の個性を与えたのも、戦力として強化するためだけではない。個性社会の常識から外れた存在へ変え、自分は普通ではないという感覚を植えつけるため。
雄英へ嘘をつかせたのも、情報を得るためだけではない。発覚したときに、築いた信頼を一挙に崩壊させるため。
敵連合を接触させたのも、連絡役として使うだけでなく、社会の外側にも自分を受け入れる者がいると認識させるため。
今回の襲撃は、その仕上げだ。
緑谷が内通者だったと公然と晒し、雄英にも社会にも戻れないと思わせる。最後にAFOが、自分だけは君を見捨てないと囁く。
選ばせるのではない。
選択肢を一つしか残さない。
事情が公になれば、社会が緑谷を被害者として扱う保証はない。目に見えるのは、彼が雄英の情報を敵連合へ渡し、襲撃を招いたという結果だ。複数の個性まで明らかになれば、AFOと繋がる敵側の人間だという憶測も広がるだろう。
報道陣は自宅へ押し寄せ、母親の生活まで脅かす。雄英が彼を守ろうとすれば、学校は内通者を庇っていると批判されるかもしれない。
緑谷は、そのすべてを自分のせいだと考える。
敵が直接追放しなくても、社会が彼の居場所を奪ってくれる。
そこまで計画されているなら、今回の杜撰さにも説明がつく。秘密を守る必要などなく、むしろ大きく露見した方が都合がいい。
「合理的ではある」
残酷だが、緑谷を直接説得するより、周囲との関係を破壊して戻る場所をなくした方が確実だった。
だが、そこで別の疑問が仮説の根幹へ突き刺さる。
なぜ、緑谷出久なのか。
根津は彼を高く評価している。観察力、判断力、救助への執念、危機に直面した際の行動力は、同年代の中でも優れていた。
しかし、AFOがこれほどの時間と戦力を費やし、社会を巻き込む規模の計画まで立てて獲得すべき人材かと問われれば、疑問が残る。
骨を操る個性は応用性に優れているが、単独で社会を脅かすほどではない。後から与えられた個性も満足に制御できておらず、組み合わせは不安定だ。戦闘力や知性だけなら、彼を上回る人間は他にもいる。
何より、緑谷は敵の思想へ共感していない。今もヒーローへの憧れを捨てきれず、誰かを救うことへ執着している。
悪の後継者として育てるには、あまりにも不向きだ。
一人の未完成な少年を孤立させるためだけに、これほど多くの駒を失う危険を冒すだろうか。
「……違うか」
根津は小さく首を振った。
自分が緑谷を保護対象として意識し続けてきたからこそ、すべてが彼を中心に動いているように見えただけかもしれない。
本来の目的は、敵連合の育成や雄英の失墜、ヒーロー社会への不信拡大。その過程で緑谷が利用されているに過ぎず、彼を悪へ引き込むことは副次的な成果にすぎない。
そう考える方が自然だった。
AFOは合理的な怪物だ。一人の少年への執着だけで盤面を動かすとは考えにくい。
「考えすぎたようだね」
「何がです?」
「緑谷君が今回の作戦の中心ではないかと考えていた。しかし、彼一人にそこまでの価値があるとは思えない。敵が狙っているのは雄英やヒーロー社会そのものだろう。緑谷君は、そのために利用された駒の一つ──」
言い終える前に、根津の耳が異音を捉えた。
森の奥から続いていた戦闘音とは違う。重い空気の破裂音が連続し、巨大な何かが上空を高速で移動している。
「止まって!」
同行していたヒーローたちが一斉に足を止めた。
次の瞬間、施設のある方角で梢が激しく揺れ、蒼炎に照らされた夜空へ巨大な影が飛び出した。
人間より遥かに大きな異形が、地面を蹴った勢いだけで森林の上空へ跳び上がり、そのまま山の外へ向かっていく。剥き出しの脳と継ぎ接ぎの巨体が、青い光の中に一瞬だけ浮かび上がった。
続いて二体、三体と影が飛び出す。その腕や背には、複数の人間が抱えられていた。
「何だ、あれは……」
装甲のヒーローが呻く。
根津の視線は、先頭を飛ぶ異形の腕へ釘付けになっていた。
炎と煙に遮られ、細部までは見えない。それでも、力なく垂れ下がった人影の髪が、蒼炎を受けて暗い緑色に浮かび上がった。その隣では少女らしき影が異形の身体へ掴まり、後方を振り返っている。
「……緑谷君」
声は、ほとんど息に近かった。
別の個体には敵連合の構成員たちが運ばれ、残る異形が彼らを守るように周囲を移動している。
敵は追い詰められた構成員を救出していた。
そして、その中心に緑谷がいる。
偶然巻き込まれたのではない。異形は彼を優先して確保し、敵連合とともに連れ去ろうとしている。
先ほど否定しかけた仮説が、根津の中で再び形を得た。
緑谷には、そこまでの価値がない。
少なくとも、根津が把握している範囲では。
だが、それは価値がないことを意味しない。根津が、その価値を知らないだけなのかもしれなかった。
骨を操る個性。後から与えられた複数の個性。AFOによる長期的な干渉。そして、作戦が破綻した瞬間に投入された常識外れの異形。
そこまでして回収する理由が、緑谷にはある。
「全員、追跡準備!」
根津の声が森へ響いた。
「通信班は、飛び去った個体の進路を警察へ共有して。地上部隊は闇雲に追わず、まず施設前の負傷者を保護し、敵が残した痕跡を確保する!」
「追わなくていいんですか!? あれに生徒が!」
「現在の装備では空中を移動する相手に追いつけない。進路が罠である可能性もある。追跡可能な戦力へ引き継ぐんだ!」
命令を下しながらも、根津は遠ざかる影から目を離さなかった。
緑谷を社会から孤立させ、悪の道へ誘うための計画。
まだ仮説にすぎない。
だが、AFOが緑谷へ見出している価値を理解していない以上、根津にはもう否定する根拠がなかった。
敵連合の構成員や凶悪犯罪者が捕まり、襲撃そのものが失敗しても、AFOは緑谷だけは確実に回収するつもりだった。
ならば、今回の勝敗は捕縛した人数では決まらない。
緑谷出久を奪われた時点で、敵は最も重要な目的を果たしている。
根津は細い指を強く握った。
敵の杜撰さと、その背後にある意図には気づいた。それでも、最後の一点だけを見誤った。
AFOが緑谷出久という少年を、どれほど重く見ているのか。
「間違っていたのは、仮説ではない」
夜空の彼方へ消えていく影を見据え、根津は低く呟いた。
「私の、彼に対する評価の方かもしれないね」
──
林間学校の私有地を脱出してから、数時間が過ぎていた。
敵連合は脳無の飛行と泥のワープを繰り返しながら山間部を離れ、人気のない工場跡や資材置き場、河川敷の高架下を転々としつつ、警察とヒーローの包囲網を避け続けた。ワープだけでは長距離を移動できず、飛行だけでは発見される危険が高い。そのため何度も移動を繰り返すしかなく、逃走は数時間にも及んだ。
道中、誰もまともに口を開かなかった。
脳無へしがみつき、着地すれば泥に呑まれ、次の場所へ転移する。その繰り返しで、戦闘を生き延びた安堵よりも疲労だけが積み重なっていく。
最後のワープを抜けると、黒い泥が薄暗い一室へ広がり、敵連合の面々を床へ吐き出した。
そこは長く使われていない雑居ビルの一角を改装したバーだった。壁紙は剥がれ、照明の半分は切れたまま、棚に並ぶ酒瓶は埃を被っている。古びたソファーや染みだらけの壁が、ここが忘れ去られた隠れ家であることを物語っていた。
「着いたぁ……!」
トゥワイスは泥から這い出すなり床へ大の字に倒れ込む。
「もう一歩も動けねえ! 元気いっぱいだ!」
「どっちなんだよ」
スピナーは呆れながらカウンターへ向かい、棚から見つけた未開封の水を一気に飲み干した。
「生きて戻れた……」
「ほんと、それだけは良かったわね」
マグネもソファーへ身を投げ出し、天井を仰ぐ。
「失敗、失敗、大失敗! 全員戻ったから大成功!」
トゥワイスは叫んだ直後、傷が痛んだのか苦しそうに呻いた。
トガもソファーへ腰を下ろし、大きく息を吐く。
「疲れましたぁ。身体中が痛いです」
「お前は途中から運ばれてただけだろ」
「運ばれるのも疲れるんですよ。ずっと揺れるし、風は痛いし、泥の中は気持ち悪いし」
「贅沢言うな」
入口には彼らを運んできた五体の脳無が並んでいた。誰かの指示を待つように微動だにしなかったが、やがて一体が向きを変えると、残る四体も続いて廊下へ歩き出す。
「帰るんですか?」
トガが尋ねても返事はない。
重い足音は階段を下り、やがて窓の外では巨大な影が闇へ紛れていった。
「どこへ行くんだ、あいつら」
スピナーが窓を覗く。
「さあな。ボスのところじゃねえか」
コンプレスは興味なさそうに答えた。
「便利だけど怖いですよねえ」
トガは去っていく脳無を見送りながら呟く。
「命令されたことだけやって、終わったら何も言わず帰るんですもん」
「俺たちより行儀がいいな!」
「一緒にするな!」
脳無の足音が完全に消えると、バーには冷蔵庫の駆動音だけが残った。
その静寂の中、一人だけ立ち尽くしたままの者がいた。
緑谷出久だった。
服は裂け、全身は土と血で汚れている。それでも傷の痛みなど感じていないかのように、泥から吐き出された場所に立ったまま微動だにしなかった。
敵連合が水を飲み、ソファーへ倒れ込み、ようやく生還を実感する中で、出久だけはまだ林間学校の広場へ取り残されているようだった。
「デク君」
トガが声を掛ける。
返事はない。
「もう安心ですよ。ヒーローはいませんから」
肩が僅かに震えただけだった。
安心という言葉は、今の出久にはあまりにも遠い。
敵連合から逃げ切ったのではない。
ヒーローたちから引き離され、もう戻れない場所へ連れて来られただけだった。
相澤の声も、ブラドキングの姿も、傷つき倒れたヒーローたちも、目を閉じれば鮮明に浮かぶ。
謝らなければならない。
けれど、何を、誰に、どう話せばいいのか分からない。
喉は塞がり、言葉にならない息だけが漏れる。
やがて膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちた。
「デク君!」
トガは慌てて駆け寄る。
出久は両手を床につき、浅い呼吸を繰り返していた。目立つ外傷はない。それでも全身の力が抜け、顔を上げることさえできない。
「水、飲めますか?」
返事はない。
トガはしゃがみ込み、伏せられた前髪の奥を覗き込む。
「気持ち悪いですか? どこか痛いんですか?」
何を尋ねても、出久は一言も返さなかった。
さっきまでなら短くても返事はあった。
今は言葉そのものが失われている。
困ったように眉を下げたトガは隣へ腰を下ろし、そっと背中へ手を添えた。
「大丈夫ですからね。今は何も喋らなくていいですよ」
出久は反応しない。
それでも振り払うこともしなかった。
トガは一定の速さで背中を擦り続ける。
服越しにも分かるほど身体は小刻みに震えていた。
「寝かせた方がいいんじゃねえか」
スピナーが言う。
「寝られそうに見えます?」
「見えねえけど、このまま床に座らせとくよりはマシだろ」
マグネがソファーの端を空けた。
「こっちへ連れてきなさいよ。横になるだけでも違うわ」
トガが頷き、出久の腕へ手を伸ばそうとした、その時だった。
床板の隙間から黒い泥が滲み出した。
「またか?」
スピナーが身構える。
全員の視線が泥へ集まる。
脳無はすでに去っている。
追加のワープなど誰も聞かされていなかった。
泥はゆっくりと広がり、人一人が通れるほどの穴を形作る。
「誰だ」
返事の代わりに、泥の中から長い銃身が現れた。
続いて紫色の髪を持つ女が姿を現す。
レディ・ナガンだった。
全身を泥と汗で汚し、呼吸は乱れている。それでも足取りは揺るがない。
彼女の肩には、一人の人間が担がれていた。
泥から抜け出すと同時に、その身体を無造作に床へ転がす。
「任務を全うしたのは私だけかい。まったく」
吐き捨てるように言いながら額の汗を拭い、近くの椅子へ腰を下ろす。カウンターに置かれていた水を掴むと、一息に半分ほど飲み干した。
「移動中に三度も追跡を撒く羽目になった。そっちは随分と早いご帰還だったようだね」
「こっちは脳無が迎えに来たからな」
「手厚い送迎だこと」
空になりかけたボトルをカウンターへ戻したところで、トガが床へ転がる人物へ目を向けた。
「その人、誰ですか?」
泥と土で汚れた白いスーツ。
猫を思わせる装飾。
頭部から伸びる二本の耳。
両手は背中で拘束され、口元には猿轡が巻かれている。意識はなく、微かな寝息だけが聞こえていた。
マグネが目を細める。
「この格好……プッシーキャッツじゃない?」
「正解。ヒーロー名ラグドール。本名、知床知子」
ナガンは椅子へ深く座り直した。
「これだけ揃えて、次は何をさせるつもりなんだろうね」
誰も答えない。
ラグドールは眠ったまま静かな呼吸を続け、その傍らではトガがソファーへ横たえた出久の背中をゆっくり擦っていた。
ナガンの視線が出久へ向く。
「その女の個性が何か、知っているかい?」
出久は答えない。
呼びかけに瞼が僅かに動いただけだった。
「『サーチ』」
ナガンは返答を待たず続ける。
「一度見た相手の位置と弱点を把握し、離れても追跡できる個性だ。登録できる人数も多い」
スピナーがラグドールを見る。
「だから攫ってきたのか」
「理由の一つだろうね」
ナガンは脚を組んだ。
「林間学校で彼女は生徒だけを見ていたわけじゃない。襲撃者の位置を把握するため、敵側も一通り視界に入れたはずだ」
そこで言葉を切り、出久を見据える。
「君も、しっかり見られている」
トガの手が止まった。
出久の背中が強張る。
「少なくとも、この子が生きている限り居場所を完全に隠せたとは考えない方がいい」
バーに重い沈黙が落ちる。
「少年」
返事はない。
「緑谷出久」
名前を呼ばれ、ようやく出久の瞳が僅かに動いた。
ナガンはラグドールを顎で示す。
「AFOから、君への指示だ」
トガが思わず出久へ寄り添う。
「何ですか?」
問い返したのはトガだった。
ナガンは出久だけを見て告げる。
「ラグドールを殺せ」
トガの手だけが、震える背中を擦り続けていた。
その温もりへ縋るように縮こまっていた出久の中で、張り詰めていたものがとうとう切れた。
「殺すなんて、できるはずない!」
叫び声がバーに響く。
出久はソファーから滑り落ちるように床へ膝をつき、頭を抱えてうずくまった。
「話が違う! 誰も殺さないって言ったじゃないか!」
掠れていた声が喉を裂くように響く。
「言うことを聞けば、誰も傷つけないって……母さんにも、雄英のみんなにも何もしないって……そう言ったのに!」
堰を切ったように言葉が溢れた。
情報を渡せば、それ以上の被害は出さない。
命令に従う限り、母にもクラスメイトにも手は出さない。
信じたわけではない。
それでも、縋るしかなかった。
「僕は……誰も殺さないって……だから……!」
言葉は嗚咽に変わる。
出久は髪を掴み、何度も首を振った。
「無理だ……そんなこと、できるわけない!」
「デク君……」
トガがそっと呼びかける。
「この人は関係ない!」
出久はラグドールを見ることすらできない。
「僕のせいで攫われて、それで僕が殺すなんて……!」
想像しただけで胃が痙攣する。
口元を押さえ、浅い呼吸を繰り返す出久へ、誰もすぐには声を掛けられなかった。
トゥワイスは落ち着かない様子で二人を見比べ、マグネは眉をひそめ、スピナーは険しい表情で黙り込む。
ナガンだけが椅子へ座ったまま静かに見つめていた。
出久は縋るように顔を上げる。
「どうして……」
ナガンは僅かに眉を動かした。
「話が違うって伝えてください……僕は言われたことをやった。情報も渡した。林間学校にも来た。だから、もう誰にも手を出さないって……」
「あたしに言われてもね」
疲れた声だった。
それ以上、ナガンは何も言わない。
出久は答えを待ち続けたが、返ってきたのは沈黙だけだった。
「そんな……」
力なく呟き、再び顔を伏せる。
涙が床へ落ち、小さな染みを広げていく。
トガは隣へ座り直し、もう一度背中へ手を添えた。
「デク君」
反応はない。
それでも優しく背中を擦り続ける。
やがてトガの視線がラグドールへ移った。
眠ったまま動かないその姿を見つめ、小さく微笑む。
「ねえ、デク君」
耳元で囁く。
「私が代わりに殺してあげましょうか?」
耳元で囁かれた言葉に、出久の震えが止まった。
一瞬、意味を理解できなかったようにゆっくりと顔を上げる。
トガは優しく微笑んでいた。
「デク君には無理なんですよね? だったら私がやってあげます」
「……え?」
「私、人を殺すのは平気ですから」
あまりにも自然な口調だった。
重い荷物を代わりに持つとでも言うように、明るく続ける。
「デク君は目を閉じて、耳を塞いでいてください。すぐ終わりますから」
出久の顔から血の気が引いた。
「駄目だ!」
思わずトガの腕を掴む。
「そんなことしたら駄目だ!」
「でも、このままじゃデク君が苦しいですよ?」
「違う!」
出久は首を振る。
「君にだって、そんなことさせたくない!」
その言葉に、トガは目を丸くした。
自分ではできない。
それでも他人にさせることもできない。
そんな出久を見つめ、トガは少しだけ嬉しそうに笑う。
「やっぱりデク君は優しいですね」
腰の装備へ手を伸ばしかけた、その時だった。
「やめときな、トガ」
ナガンが深いため息をつく。
椅子へ身体を預けたまま、気怠そうに二人を眺めていた。
「どうしてですか?」
「AFOからは、緑谷出久が殺せって命令を受けてる」
淡々と告げる。
「手伝っちゃ駄目だってさ」
トガの笑みが止まった。
「私が殺したら駄目なんですか?」
「そういうことだ。この女が死ねば誰の手でもいい命令じゃない。少年本人に殺させることが目的なんだろう」
出久の身体から力が抜ける。
ラグドールを始末することではない。
自分に、人を殺させること。
それこそがAFOの望みだった。
「そんなのおかしいです」
トガは納得できない様子でナガンを見た。
「デク君は嫌がってます。私ならすぐ終わらせられるのに」
「だから君じゃ意味がない」
「意味?」
「この少年自身が手を汚さなきゃ意味がないってことさ」
バーは静まり返っていた。
誰も否定できない。
誰も命令を覆せない。
出久は呆然と床を見つめる。
「僕に……人を殺させるために……」
掠れた声が漏れる。
ナガンは否定しなかった。
トガもゆっくりと手を離す。
「じゃあ私は見てるだけですか?」
「そうしな。邪魔をすれば君まで命令違反になる」
「怒られるくらいなら平気です」
「怒られるだけで済む相手だと思うかい?」
その一言で、トガは口を閉ざした。
AFOが命令に背いた者をどう扱うかなど、誰にも分からない。
しばらく黙っていたトガは、出久の隣へ座り直す。
「ごめんなさい、デク君」
出久は答えない。
ただ俯いたまま、小さく肩を震わせていた。
ナガンはゆっくりと立ち上がる。
軍服の内側へ手を入れ、折り畳み式のナイフを取り出した。
刃を開く乾いた音が静かなバーへ響く。
出久の肩がびくりと跳ねた。
ナガンは無言で歩み寄り、ナイフを床へ置く。
柄を出久へ向け、軽く押し出した。
刃が床板を擦り、出久の膝元で止まる。
「さっさとやんな」
冷え切った声だった。
「あんたにも人質はいるんでしょう」
出久はナイフを見つめる。
黒い柄。
細く光る刃。
手を伸ばせば届く距離。
その向こうでは、ラグドールが静かな寝息を立てていた。
「……無理です」
「無理でもやるんだよ」
首を横へ振る。
「できない……」
「その台詞で人質が助かるなら、何度でも言えばいい」
嘲るでもなく、慰めるでもない。
事実だけを突きつける声だった。
「けど、命令した男は納得しない」
「あなたは……」
涙で滲んだ目がナガンを見上げる。
「あなたはヒーローだったんでしょう」
空気が張り詰める。
「だったら、どうしてこんなことができるんですか」
ナガンは少しだけ目を伏せた。
「昔のあたしも、似たような命令を受けていた」
静かな声だった。
「社会のためだと言われ、迷わず撃てと教えられた」
「それとこれは違う!」
「ああ、違う」
ナガンは頷く。
「あたしには大義名分があった。君には脅迫しかない」
短く息を吐いた。
「だから、君の方がずっと残酷だ」
出久の目から涙が零れる。
「だったら助けてください」
震える声で訴えた。
「お願いします。この人を逃がしてください。僕はどうなってもいい。母さんたちだけ守ってくれれば……」
「無理だね」
即答だった。
「どうして!」
出久の叫びにも、ナガンは表情を変えない。
椅子へ戻り、再び腰を下ろす。
「聞いたら何でも答えてくれるなんて思わないことだ」
バーは静まり返っていた。
出久は床へ置かれたナイフを見つめ続ける。
見たくも、触れたくもない。
それでも目を逸らせば母親の顔が浮かび、視線はまた刃へ戻ってしまう。
トガがそっと背中へ寄り添う。
「デク君」
甘い声だった。
「私は手伝えませんけど、ずっと傍にいますからね」
その優しさが、今は何より恐ろしかった。
この場には命令を止める者も、ラグドールを助けようとする者もいない。
全員が、出久が刃を手に取る瞬間を待っていた。
ラグドールの胸が静かに上下する。
まだ、生きている。
出久は震える右手をゆっくりと伸ばした。
指先が、ナイフの柄へ近づいていく──。