受験から、一週間後。
薄暗い廃ビルの地下。
地上の喧騒など存在しないかのように、そこだけが切り離された静寂に沈んでいた。
白い。
相変わらず、異様なほどに。
無機質な照明。
規則的に点滅するモニター。
薬品臭。
機械の駆動音。
精密な医療設備と実験装置が並ぶ地下施設の中央で、巨大な生命維持装置だけが、まるで王座のように鎮座している。
夥しい数の管。
循環する液体。
人工呼吸器。
その中心。
焼け爛れ、半ば以上を失った男が、椅子へ深く腰掛けていた。
呼吸器が、規則正しく鳴る。
その前に、二人の少年が立っていた。
緑谷出久。
そして。
青山優雅。
青山は、いつものように整った笑みを浮かべている。
だが。
その肩は、僅かに強張っていた。
出久は視線を下げたまま、無意識に拳を握っている。
静寂。
やがて。
パチ。
乾いた音が響いた。
AFOが、ゆっくりと拍手していた。
半ば炭化したような掌同士が打ち合わされるたび、湿ったような不快な音が混ざる。
パチ。
パチ。
パチ。
「——合格おめでとう」
呼吸器越しの、くぐもった声。
だが、その声音には確かな愉悦が滲んでいた。
「緑谷出久君。青山優雅君」
青山の喉が、小さく動く。
「ありがとうございまァす……☆」
明るい口調。
いつもの調子。
だが、声が少しだけ上擦っていた。
出久は、何も言えなかった。
雄英高校。
合格通知。
“合格”の二文字を見た瞬間の胸の熱さは、確かに本物だった。
夢みたいだった。
嬉しかった。
なのに。
その報告をしている場所が、この地下施設だった。
目の前にいるのが、この男だった。
その事実が、胸の奥へ重く沈んでいる。
AFOは、そんな出久の沈黙すら楽しむように、小さく笑った。
「素晴らしかったよ、緑谷出久君」
呼吸器の奥で、ヒュゥ、と音が鳴る。
「特に最後だ。誰かを助けるために、自分から0点ロボへ向かっていった」
一拍。
「実に、ヒーローらしかった」
出久の肩が、僅かに震える。
褒められている。
そのはずだった。
だが。
この男から“ヒーローらしい”と言われることに、得体の知れない寒気があった。
AFOは続ける。
「そして青山優雅君」
生命維持装置の無数のモニターが、淡く光を反射した。
「君もよく頑張った。例の個性制御はまだ不安定だが……まあ、年齢を考えれば十分だろう」
「メルスィー☆」
青山は笑う。
だが、視線はAFOを見ていない。
どこか虚空を見つめたまま、口元だけで笑っていた。
出久は、その横顔を見て、ふと違和感を覚える。
初めて会った時から感じていた、妙な不自然さ。
明るすぎる笑顔。
芝居がかった口調。
場違いなほど軽い振る舞い。
それが今は、“怯え”を隠すためのものに見えた。
「雄英高校ヒーロー科」
AFOが、静かに呟く。
呼吸器が低く鳴る。
シュウゥ、と。
「平和の象徴を育て続けてきた場所」
無数のモニター光が、焼け爛れた肉体を青白く照らしていた。
「その中心へ、君たちは入り込む」
一拍。
「実に、楽しみだ」
出久の背筋へ、冷たいものが走る。
その声音は穏やかだった。
怒気もない。
威圧もない。
だからこそ、不気味だった。
AFOは、ゆっくりと首を動かした。
視線のない顔が、まるで真っ直ぐ出久を見ているように感じられる。
「さて」
呼吸器の駆動音。
「緑谷出久君」
名前を呼ばれる。
出久は、無意識に身体を強張らせた。
「今度は、君が僕に恩を返す番だ」
空気が、止まる。
出久の瞳が揺れた。
「……え」
AFOは穏やかに続ける。
「難しい事ではないよ」
生命維持装置の管が、脈動するように揺れる。
「雄英へ入学した後、定期的に情報を流してもらう」
一拍。
「教師の動向。授業内容。生徒の個性。施設情報」
さらに。
「そして必要に応じて、こちらから与える任務をこなしてもらう」
出久の顔から、血の気が引いた。
「な……」
喉が詰まる。
何を言われているのか、一瞬理解が追いつかなかった。
だが。
理解した瞬間、全身が冷え切る。
「そ、それって……」
声が震える。
「ヴィランの、手伝いじゃ……」
「おや」
AFOが、小さく笑った。
「随分と直接的な言い方をするねぇ」
「僕はただ、少し情報共有をお願いしているだけだよ」
「で、でも!」
出久は思わず一歩前へ出ていた。
「そんなの、駄目です!」
声が裏返る。
「僕は、ヒーローになるために雄英へ行くんだ! そんな事のためじゃ……!」
その瞬間。
空気が、僅かに冷えた。
生命維持装置のモニターが、ピッ、と音を鳴らす。
青山の肩が、びくりと震えた。
出久だけが気付いていない。
自分が今、誰に向かって“拒絶”したのかを。
AFOは沈黙していた。
怒鳴らない。
脅さない。
ただ静かに、出久の言葉を聞いている。
それが逆に恐ろしい。
やがて。
「……ふふ」
呼吸器越しの笑い声が漏れた。
「安心したよ、緑谷出久君」
「……え?」
「君は、本当にヒーローになりたいんだねぇ」
優しい声だった。
子供を褒めるような。
穏やかな声音。
だからこそ、出久の喉が引き攣る。
「だが」
その一言で、空気が変わった。
「君は、勘違いをしている」
シュウゥ、と呼吸器が鳴る。
「君のその力は、誰から与えられた?」
出久の身体が硬直する。
「誰が君を雄英へ届く場所まで押し上げた?」
「それ、は……」
「君は無個性だった」
静かな断定。
「誰にも期待されず、誰にも選ばれなかった」
一拍。
「そんな君へ、“可能性”を与えたのは誰かな?」
出久の指先が震える。
反論できない。
AFOは続ける。
「僕は君へ投資したんだよ、緑谷出久君」
「個性を与え」
「鍛え」
「時間を使い」
「雄英へ届くよう育てた」
低く、穏やかに。
逃げ場を塞ぐように。
「対価を求めるのは、そんなにおかしい事かな?」
沈黙。
出久は、言葉を失った。
胸の奥で、何かが嫌な音を立てる。
その時だった。
「……やめた方がいいよォ」
不意に。
青山が、笑った。
いつものような、煌びやかな笑顔。
だが。
その目だけが、全く笑っていなかった。
「おじさまに逆らうのは」
青山の声は、軽かった。
いつものように。
冗談めかして。
笑うように。
けれど。
その言葉には、妙な実感が滲んでいた。
「本当に、やめた方がいいよォ……☆」
青山は肩を竦める。
「最初は僕も、“嫌だ”って言ったんだ」
笑顔。
だが、瞳は空っぽだった。
一歩。
青山が、ほんの少しだけ出久へ近づく。
「でもねェ」
声が、小さくなる。
「おじさまは、“絶対に逃がしてくれない”んだ☆」
出久の背筋へ、悪寒が走った。
その瞬間。
AFOが、ゆっくりと首を傾ける。
視線のない焼け爛れた顔が、僅かにモニター群へ向いた。
「……そうだねぇ」
穏やかな声。
そして。
生命維持装置の周囲に並ぶモニターの一つが、ふっと切り替わった。
ノイズ。
映像。
出久の瞳が、大きく見開かれる。
「——え」
そこに映っていたのは。
見慣れた後ろ姿だった。
小柄な女性。
買い物袋。
夕暮れの住宅街。
緑谷引子。
出久の母親だった。
「……母、さん?」
呼吸が止まる。
映像の中の引子は、何も知らない。
いつも通りだった。
スーパーからの帰り道。
少し疲れたように歩きながら、それでもどこか穏やかな横顔をしている。
その映像を。
地下施設のモニターが映している。
リアルタイムで。
出久の全身から、血の気が引いた。
「な、んで……」
声が掠れる。
AFOは、小さく笑った。
「ありがちなヴィランらしく」
呼吸器の奥で、愉悦混じりの音が鳴る。
「陳腐なセリフを言ってあげよう」
一拍。
そして。
焼け爛れた口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「逆らえば、君の母君を殺す」
空気が凍った。
出久の瞳が揺れる。
「……っ」
心臓が、強く跳ねた。
モニターの中では、引子が信号待ちをしている。
何も知らず。
何も気付かず。
いつも通りに。
そのすぐ背後。
電柱の陰に、一人の男が立っていた。
黒いスーツ。
帽子。
顔は見えない。
だが。
監視している。
それだけは分かった。
「ぁ……」
出久の喉から、意味にならない声が漏れる。
AFOは、楽しそうだった。
「安心したまえ」
呼吸器が鳴る。
「君が従順である限り、母君へ危害を加えるつもりはない」
優しい声音。
まるで、本当に安心させようとしているみたいに。
「僕は基本的に、家族愛を尊重するタイプなんだ」
青山の肩が、小さく震えた。
笑っている。
だが、それはもう笑顔ではなかった。
引き攣った仮面だ。
「だからサ」
青山が、小さく呟く。
「逆らわない方がいいって、言っただろォ……☆」
出久は、動けなかった。
モニターから目を離せない。
母がいる。
監視されている。
自分のせいで。
自分が、この地下へ来たから。
AFOの力を受け取ったから。
ヒーローになりたいなんて願ったから。
その全てが、母へ繋がってしまった。
AFOは、静かに笑う。
「さあ、緑谷出久君」
焼け爛れた顔が、ゆっくりと彼へ向く。
「君は、とても優しい子だ」
一拍。
「だからきっと——賢い選択をしてくれるねぇ?」
出久は答えられなかった。
モニターの中で、母が歩き出す。
買い物袋を片手に、いつも通りの道を、いつも通りに。
それだけの光景が、今は胸を締め付ける凶器のようだった。
「……やめて」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
「母さんは……関係ない」
「関係あるとも」
AFOは即座に答えた。
「君の母君だ。君が最も守りたいものの一つだろう?」
優しい声。
だからこそ、言葉の中身が余計におぞましい。
「守りたいものがある人間は強い。だが同時に、とても扱いやすい」
青山が、かすかに目を伏せた。
その表情で、出久は悟る。
青山も同じだ。
同じように、何かを握られている。
逃げられない理由を、与えられている。
「……何を、するつもりですか」
出久の声が震える。
AFOは、嬉しそうに呼吸器を鳴らした。
「保険だよ」
「保険……?」
「そう。君が今後も賢明でいられるようにするための、小さな仕組みだ」
生命維持装置の横で、何かが低く駆動音を立てる。
「今から君に、僕の個性によって裏切りを防止するための“自爆”を付与する」
出久の思考が止まった。
「……じ、自爆?」
「安心したまえ」
AFOは、あまりにも穏やかに言った。
「同級生となる青山優雅君とお揃いだ」
隣で、青山の顔が強張る。
出久は反射的に青山を見た。
「青山、君……」
青山は、笑った。
いつものように、星が散るような笑顔を作ろうとして。
失敗した。
「……言ったでしょォ」
声が震えていた。
「逆らわない方がいいって」
出久の喉が凍る。
自爆。
その言葉が、遅れて身体に染み込んでいく。
任務に逆らえば。
情報を流さなければ。
逃げようとすれば。
母だけではない。
自分自身も。
「そんなの……!」
出久は一歩後退った。
だが、背後に逃げ道はない。
白い床。
無数の機械。
生命維持装置。
そして——AFO。
「個性とは便利なものだよ」
呼吸器が、低く鳴る。
シュウゥ、と。
「人を救うこともできるし、こうして“縛る”こともできる」
焼け爛れた掌が、ゆっくりと持ち上がる。
その中央。
黒い穴。
光を吸い込むような漆黒が、静かに口を開けていた。
出久の呼吸が止まる。
本能が叫んでいた。
逃げろ、と。
だが、脚が動かない。
AFOは、まるで怯える子供を宥めるような声音で続ける。
「心配しなくていい」
一拍。
「普段は何も起きない。ただ、君が“裏切ろう”とした時だけだ」
青山が、俯いたまま小さく笑う。
自嘲。
諦め。
恐怖。
全部が混ざったような声。
「僕も最初は、すっごく泣いたんだァ」
青山の指先が、僅かに震えている。
「でも、おじさまって本当に容赦ないからサ」
出久の喉が引き攣る。
目の前の青山は、生きた証明だった。
逆らえなかった人間。
壊された人間。
従うように作り変えられた人間。
AFOが、ゆっくりと身を乗り出す。
無数の管が揺れる。
機械音が重なる。
「さあ、緑谷出久君」
優しく。
穏やかに。
まるで祝福でも与えるように。
「これで君も、安心して雄英へ通える」
黒い穴が、ゆっくりと出久へ向けられる。
距離が縮まる。
数歩。
いや、もう一歩もない。
眼前。
漆黒が、視界いっぱいに広がった。
──
春だった。
雄英高校の正門前には、朝早くだというのに多くの生徒たちが集まっている。
真新しい制服。
期待に満ちた声。
緊張を誤魔化す笑い声。
今日から始まる。
雄英高校ヒーロー科での生活が。
巨大な校舎群は、朝日を受けて輝いていた。
近未来的なガラス外壁。
広大な敷地。
訓練設備。
ヒーロー育成機関として、日本最高峰と呼ばれる場所。
何度夢見たか分からない光景だった。
緑谷出久は、その門の前で立ち止まる。
「……」
喉が、少しだけ詰まった。
嬉しい。
それは間違いない。
雄英だ。
オールマイトの母校。
憧れ続けた場所。
ヒーローになるための第一歩。
無個性だと言われたあの日には、もう二度と届かないと思っていた場所。
なのに。
自分は今、ここにいる。
雄英高校ヒーロー科の生徒として。
だが。
その事実が、胸を重く締め付ける。
地下施設。
生命維持装置。
AFO。
黒い穴。
そして——眼前へ迫った、あの掌。
思い出した瞬間、胸の奥が冷えた。
制服の下。
身体のどこかに刻み込まれた“保険”。
母への監視。
AFOの命令。
自分は、本当にここへ立っていていい人間なのか。
ヒーローを目指していいのか。
周囲の新入生たちは、皆前を向いている。
期待に目を輝かせて。
夢を抱いて。
なのに、自分だけが違う。
自分だけが、泥を踏んでここまで来た。
「……っ」
出久は、無意識に俯いていた。
視界へ映るのは、自分の靴先だけ。
その時だった。
ドカドカドカ、と。
荒々しい足音が背後から迫る。
聞き慣れた音だった。
「——てめえデク!!」
怒鳴り声。
次の瞬間。
ガシッ、と肩を掴まれる。
出久の身体が反射的に強張った。
「どうやって合格したか知らねえけどなァ、テメエ——」
爆豪勝己。
鋭く吊り上がった赤い目。
逆立った灰金色の髪。
獰猛な肉食獣みたいな威圧感。
昔と変わらない。
いや、雄英へ入った事でむしろさらに鋭くなっているようにすら見える。
爆豪は怒鳴りながら、乱暴に出久を振り向かせた。
だが。
「……あ?」
その瞬間。
爆豪の言葉が、止まった。
出久の顔が、真正面から視界へ入る。
俯いていた顔。
その目。
以前の“デク”とは違っていた。
怯え。
卑屈さ。
諦め。
確かにそれもある。
だが、それ以上に。
もっと深い何かが沈んでいた。
底の見えない暗さ。
疲弊。
恐怖。
そして、何かを諦めかけたような色。
爆豪は、一瞬だけ言葉を失う。
まるで。
知らない他人を見たみたいに。
「……お前」
掴んでいた手の力が、僅かに緩む。
出久は何も言わない。
ただ静かに、爆豪を見返していた。
その目には、昔みたいな“かっちゃんへの憧れ”が薄れていた。
代わりにあるのは。
張り付いたような緊張感と、拭いきれない疲労。
爆豪の眉が、僅かに寄る。
「……なんだ、そのツラ」
無意識だった。
気付けば、爆豪は出久の肩から手を離していた。
さっきまでの勢いが、一瞬だけ消えている。
出久は小さく視線を伏せる。
「……別に」
掠れた声。
それだけ言うと、出久は爆豪の横を通り過ぎ、雄英の門へ向かって歩き出した。
爆豪は、その背中を睨む。
だが。
いつものように怒鳴る気には、なぜかならなかった。
代わりに胸の奥へ残ったのは、妙な違和感だった。
まるで。
知らない場所から帰ってきたみたいな目だった。