三日後。
本来なら夏休みを満喫しているはずのA組の生徒たちは、「夏季講習」という名目で雄英高校へ集められていた。
教壇に相澤の姿はなく、生徒たちの机には問題集をそのまま印刷したような粗末なプリントが数枚置かれているだけだった。
「はぁ……結局、肝試しできなかったなぁ」
峰田が机へ突っ伏す。
「せっかく女子と組めるかもしれなかったのによ」
「えー? 峰田君じゃなくてよかったー」
葉隠が笑って返すと、小さな笑いが教室へ広がる。
「俺も結構楽しみにしてたんだけどな」
切島が後頭部を掻いた。
「飯もうまかったし、まだ三日目だったのによ」
「まあ、仕方ないさ」
瀬呂が肩を竦める。
「ヴィランが来たんじゃ続けられねぇだろ」
「ニュースでも報じられていましたわね」
八百万が静かに頷いた。
林間学校を狙ったヴィランの襲撃。
教師たちは詳細を伏せたまま、「ヴィラン集団が演習場周辺へ侵入したため、安全を最優先して中止した」とだけ説明していた。
幸い、生徒側に大きな被害はなかったと聞かされていたこともあり、不満はあっても誰もその判断自体に異論はなかった。
「急に肝試し中止って言われた時は、何事かと思ったけどな」
砂藤が苦笑する。
「先生たちだけで追い払ったんだろ?」
「プロヒーローってやっぱすげぇよな」
尾白が感心したように呟く。
「俺たちは何も知らないまま避難して終わりだったし」
「ちょっと悔しいですけどね」
芦戸が頬を膨らませた。
「せっかく個性を鍛えられる機会だったのに」
「そういう問題じゃないだろ」
飯田が眼鏡を押し上げる。
「我々はまだ生徒だ。プロが対処すべき事案へ無闇に介入しなかった判断は正しい」
「分かってるって」
芦戸は苦笑しながら両手を上げた。
「でもさ、何もできなかったって思うと、ちょっとだけ悔しいじゃん?」
その言葉に何人かが静かに頷く。
雄英へ入学して以来、彼らは少しずつヒーローとしての自覚を育ててきた。だからこそ、自分たちだけ何も知らされないまま、安全な場所へ避難して終わったことに複雑な感情を抱いていた。
ふと、切島が教室の後方へ視線を向ける。
「あれ、そういや緑谷は?」
何気なく窓際の席を見ると、口元を緩めた。
「まさか夏季講習サボってんのか? 不良だなぁ、あいつ」
冗談に何人かが笑いかける。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
窓際の席は空席だった。
鞄も教科書もなく、椅子だけが静かに机へ収まっている。
「……そういえば」
芦戸が首を傾げる。
「緑谷って林間学校の最後、いなかったよね?」
教室の空気がわずかに変わった。
「避難するときには見てねぇな」
瀬呂が腕を組む。
「俺も」
尾白も頷いた。
「途中までは一緒だった気がするんだけど……」
「先生のお手伝いでもしていたんじゃありませんの?」
八百万が言うが、自分でも確信は持てていないようだった。
「でも、それなら帰りのバスで見掛けてもよさそうじゃない?」
葉隠が首を傾げる。
「私、全然見てないよ」
「俺もだ」
上鳴も同意した。
「爆豪は?」
「知らねぇ」
爆豪は窓の外を見たまま即答する。
「轟は?」
「見てない」
短い返事だけが返った。
「そういえば……」
芦戸の笑顔が消える。
「ヴィランが来たって聞いた時には、もういなかったよね?」
誰も答えなかった。
あの夜は混乱していた。
突然肝試しが中止になり、教師たちの指示で急いで避難し、そのまま下山した。
誰がどこにいたかまで覚えている者はいない。
だが、言われてみれば確かに、緑谷の姿を見た記憶だけが曖昧だった。
「もしかしてさ……」
芦戸が不安そうに周囲を見回す。
「ヴィランの襲撃に巻き込まれて、怪我とかしたんじゃないの?」
教室が静まり返る。
「えっ……」
麗日の肩が小さく震えた。
「怪我って……」
「いや、分かんないよ?」
芦戸は慌てて手を振る。
「でも最後まで見なかったし……病院とか」
「それなら先生が言うだろ」
瀬呂はそう返したものの、どこか歯切れが悪かった。
重苦しい沈黙が教室を包む。
誰もが「大丈夫だ」と言ってほしかった。
「……は?」
教室の隅から、小さな声が漏れる。
最初は誰も気に留めなかった。
だが次の瞬間、
「はぁっ!?」
椅子を倒さんばかりの勢いで上鳴が立ち上がった。
突然の大声に教室中が振り向く。
「上鳴君!」
飯田が立ち上がる。
「講習中だぞ! 突然大声を出すとは何事だ!」
しかし上鳴は聞こえていないかのようにスマートフォンを見つめていた。
顔から血の気が引き、持つ手は小刻みに震えている。
「上鳴?」
切島が近寄る。
「どうした?」
飯田も注意する口調を緩め、画面を覗き込もうと歩み寄った。
上鳴はゆっくり顔を上げる。
その表情から冗談の色は完全に消えていた。
「これって……」
一度唾を飲み込み、震える声で続ける。
「緑谷だよな……?」
そう言ってスマートフォンを皆へ向けた。
近くにいた切島と瀬呂が覗き込み、二人とも息を呑む。
「……何だよ、これ」
画面には、大手ニュースサイトの記事が表示されていた。
見出しは目を疑うほど扇情的だった。
『雄英生徒、ヴィランと関与!? ヒーロー育成機関に忍び込んだ少年Aに迫る!』
その下には制服姿の写真。
さらにコメント欄へスクロールすると、顔写真、自宅住所、経歴、家族構成まで、本来外部へ漏れるはずのない個人情報が次々と貼り付けられていた。
葉隠が口元を押さえた。
「な、何これ……」
「嘘……でしょ……」
芦戸の声が震える。
八百万も顔色を失い、一歩後ずさった。
「個人情報まで……全部……」
「誰だよ、こんなの」
瀬呂は上鳴の手からスマートフォンを受け取り、画面をスクロールする。
ページは更新されるたび、新しいコメントが次々と追加されていた。
『ヴィランのスパイだったらしい』
『林間学校の情報を流したのはこいつ?』
『ヒーロー志望とか笑わせる』
『雄英終わったな』
『母親もグルじゃね?』
『家、近所だから見に行ってくる』
『祭りだ』
「ふざけんな!」
切島が机を叩く。
鈍い音が教室へ響いた。
「証拠もねぇのに好き勝手書きやがって!」
「まだ何も分かってないじゃない!」
芦戸も思わず声を荒げる。
「何でこんなことになるの!」
麗日は画面から目を離せなかった。
そこに映っているのは、入学式の日に撮られたと思われる緑谷の笑顔だった。
誰よりもヒーローに憧れていた少年の顔が、今は何万人もの人間に晒され、好き勝手な言葉で踏みにじられている。
胸が締め付けられる。
「そんな……」
かすれた声が漏れた。
「デク君が……ヴィラン……?」
信じられない。
誰よりも人を助けようとしていた少年だ。
そんなはずがない。
それなのに、ネットの向こうでは既に「事実」として話が進み、誰一人として疑おうともしなかった。
教室を覆う静寂を破ったのは、小さな舌打ちだった。
「……チッ」
爆豪がゆっくり立ち上がる。
拳は強く握られ、白く血の気を失っていた。
「爆豪君?」
八百万が呼び掛ける。
返事はない。
爆豪はスマートフォンを一瞥すると踵を返し、そのまま教室の出口へ向かった。
「お、おい!」
切島が慌てて呼び止める。
「どこ行くんだよ!」
「……どけ」
低く吐き捨てる。
その声には怒鳴るより重い怒気が滲んでいた。
次の瞬間、教室の扉が勢いよく開かれる。
激しい音を立てて壁へぶつかった扉をそのままに、爆豪は廊下へ飛び出していく。
「爆豪!」
切島も後を追う。
「待てって!」
「私も行く!」
麗日が真っ先に席を立った。
それを見た蛙吹も続く。
「みんな行くよ!」
芦戸が叫ぶと、瀬呂、葉隠、上鳴、尾白、八百万、轟たちも一斉に教室を飛び出した。
「お、おい! 勝手に教室を──」
飯田が制止しようとする。
だが、その足は自分でも止められなかった。
委員長として止めなければならない。
それでも、このまま爆豪一人を行かせるわけにはいかなかった。
「待ちたまえ!」
飯田も教室を飛び出す。
その直後には、教室は静まり返っていた。
取り残されたのは、乱れた机と、開いたままの問題集。
そして、青山優雅だけだった。
青山は席から立つことができなかった。
教室を飛び出していく皆の背中を見送りながらも、膝は震え、身体は椅子へ縫い付けられたように動かない。
スマートフォンには、まだあの記事が表示されている。
『雄英生徒、ヴィランと関与』
『林間学校の情報を流した内通者』
『緑谷出久』
胸の鼓動だけが、やけに大きく耳へ響いていた。
立たなければ。
皆を追わなければ。
そう思うほど、身体は動かなくなる。
「……緑谷君」
震える声が誰もいない教室へ落ちた。
記事が本当かどうかなど分からない。
それでも青山は、他の誰よりも恐ろしく感じていた。
脅され、命令され、逆らえば大切なものを失う。
誰にも助けを求められず、少しずつ逃げ場を失っていく。
そんな状況を、あまりにも鮮明に想像できてしまうからだ。
両手が震える。
爪先だけが床を擦った。
だが、それ以上は動かなかった。
「よかった……」
小さく呟く。
「僕じゃ……なくて」
その瞬間、自分の口から零れ落ちた本音に青山は愕然とした。
裏切り者として糾弾されるのが、自分ではなく緑谷だった。
その事実に安堵してしまった。
最低だ。
そう思うほど、胸は締め付けられていく。
青山は顔を覆い、震える指で制服の胸元を強く握り締めた。
──
爆豪は一階の廊下を一直線に進んでいた。
背後から何度も名前を呼ばれても、一度も振り返らない。
歩調を緩めることなく職員室の前まで来ると、躊躇なく扉へ手を掛ける。
「爆豪、待て!」
切島の制止は間に合わなかった。
勢いよく扉が開かれる。
「おい!」
爆豪の怒声が職員室へ響く。
後を追ってきたA組の生徒たちも、思わずその場で足を止めた。
職員室には、普段では考えられない光景が広がっていた。
夏休みにもかかわらず、雄英の教師がほぼ全員集まっている。
相澤、プレゼント・マイク、セメントス、十三号、スナイプ、エクトプラズム、ミッドナイト、リカバリーガール。
中央には根津が座り、壁の大型モニターには緑谷の記事や個人情報、林間学校周辺の地図が映し出されていた。
さらに、教師以外にも背広姿の男女が数人いる。
胸元には警察の徽章。
机には事件資料らしき書類が山積みになっていた。
扉が開いた瞬間、職員室の空気が凍り付く。
「生徒だ!」
「画面を消せ!」
「資料を伏せろ!」
教師と警察関係者が一斉に動き出した。
それでも、爆豪は構わず職員室へ踏み込んだ。
「どういうことだ」
低く押し殺した声が室内へ響く。
「デクの野郎はどこにいる」
「爆豪」
相澤が椅子を蹴るように立ち上がる。
いつもの気怠げな表情はどこにもなく、鋭い視線が爆豪を射抜いた。
「爆豪君、落ち着け!」
追いついた飯田が肩を掴もうとする。
「触んな!」
爆豪は乱暴に振り払い、視線を相澤から外さない。
「今は勝手な行動を取るべきではない!」
「うるせぇ! 何も知らねぇくせに黙ってろ!」
「それは君も同じだ!」
二人の言い争いを遮るように、麗日が一歩前へ出た。
消されたモニターの脇、片付け切れていない資料の束が目に入る。
その一番上には、緑谷の顔写真が印刷されていた。
「先生……」
かすれた声が漏れる。
「デク君は、どこにいるんですか」
蛙吹も隣へ並んだ。
「無事なの、相澤先生?」
「記事にはヴィランと関わってたって書かれてるけど、本当なんですか?」
芦戸が続ける。
「何で住所までネットに出回ってるんですか!」
「先生たちは知ってたんですか!?」
上鳴もスマートフォンを握ったまま叫んだ。
質問が一斉に飛び交う。
生徒たちが職員室へ踏み込みかけた、その瞬間だった。
「お前ら!」
相澤の一喝が廊下まで響く。
全員の動きが止まった。
「自習だと言ったはずだ!」
相澤は爆豪の肩を掴み、強引に廊下へ押し戻す。
「授業中に教室を抜け出し、職員室へ押しかけるとは何事だ」
「それどころじゃねぇだろ!」
「それを判断するのはお前じゃない」
「ふざけんな! クラスメイトが──」
「教室へ戻れ」
有無を言わせぬ口調だった。
爆豪は睨み返す。
しかし相澤も一歩も退かない。
その背後では教師たちが慌ただしく資料を片付け、警察関係者は机を移動させ、生徒たちから見えないよう書類を伏せていた。
その光景だけで十分だった。
緑谷を巡る出来事が、単なるネットの噂では済まされないことだけは誰の目にも明らかだった。
「先生」
八百万が静かに前へ出る。
「せめて、緑谷さんが無事かどうかだけでも教えてください」
一瞬だけ、相澤の目が揺れた。
だが、返ってきたのは短い言葉だけだった。
「今は何も話せない」
「そんな……」
麗日の肩が落ちる。
「戻れ」
それだけ告げると、相澤は扉へ手を掛けた。
「待て、まだ話は──」
爆豪が踏み出した瞬間、職員室の扉が勢いよく閉まる。
鈍い音が廊下へ響き、その直後、内側から鍵の掛かる音が聞こえた。
誰も口を開かなかった。
閉ざされた扉だけが、目の前にある。
爆豪はその扉を睨みつけたまま拳を震わせていた。
しばらく誰も動かなかった。
緑谷の顔写真。
警察関係者。
林間学校周辺の地図。
そして、何一つ答えようとしなかった教師たち。
職員室で目にした光景が、重く胸へ残っている。
ネットの記事は嘘かもしれない。
誰かが面白半分に作ったデマなのかもしれない。
そう思いたかった。
だが、教師たちはそれすら否定しなかった。
「……戻ろう」
最初に口を開いたのは飯田だった。
その声にも、いつもの張りはない。
「相澤先生の指示どおり、教室へ戻るべきだ」
誰も反論しなかった。
爆豪だけが扉を睨み続けていたが、やがて小さく舌打ちすると背を向ける。
来た時とは違い、誰一人言葉を発しないまま教室へ戻っていった。
爆豪が乱暴に扉を開ける。
青山がびくりと肩を震わせ、顔を上げた。
「み、みんな……」
返事はない。
生徒たちは重い足取りで席へ戻り、それぞれ俯いた。
麗日は自分の席へ座ると、斜め後ろの空席へ目を向ける。
つい数十分前まで、ただ欠席しているだけだと思っていた席。
今は、その空席だけが異様な存在感を放っていた。
「本当に……デク君だったんかな」
小さく漏らした声に、蛙吹が静かに首を振る。
「そんなわけないわ」
しかし、その声にも迷いが滲んでいた。
「緑谷ちゃんがヴィランなら、私たちを何度も助けたりしないもの」
「そうだよ!」
芦戸も顔を上げる。
「USJの時だって、自分がボロボロになってまで助けてくれたじゃん!」
「でも……」
上鳴はスマートフォンを見つめたまま呟く。
「先生たち、否定しなかったよな」
その一言で教室が静まり返る。
「警察までいたし、あんな会議までしてた」
瀬呂も続けた。
「何か隠してるのは間違いないだろ」
誰も反論できなかった。
「記事には、緑谷が雄英へ潜り込んだって書かれてた」
瀬呂が低い声で言う。
「林間学校の場所をヴィランへ教えたとも書いてあった。もし、本当にそうだったなら……」
その先は誰も口にできなかった。
クラスメイトとして笑い合い、昼食を食べ、訓練で背中を預けてきた相手が、最初から敵だったことになる。
そんな想像だけで、教室の空気はさらに冷え込んだ。
「俺は信じねぇぞ」
切島が拳を机へ置く。
「緑谷が俺たちを騙してたなんて、絶対に信じねぇ」
「私もですわ」
八百万も頷いた。
だが、その声は晴れない。
緑谷はいつも個性を観察し、ノートへ細かく書き込んでいた。
誰もがヒーロー研究だと思っていた。
もし、それが別の目的だったとしたら。
その考えが頭をよぎるだけで胸が苦しくなる。
「違う……」
麗日が俯いたまま呟く。
「違うよ……」
自分へ言い聞かせるような声だった。
轟は終始何も言わない。
ただ、空席になった緑谷の机だけを見つめ続けていた。
体育祭で、自分の力を使えと叫んだ緑谷。
自分の身体を壊してまで他人を助けた緑谷。
あれほど真っ直ぐな人間が、すべて演技だったとはどうしても思えなかった。
重苦しい沈黙が教室を支配する。
その時だった。
椅子が床を擦る荒い音が響く。
爆豪だった。
机から鞄を引き寄せ、教科書も筆記用具も無造作に放り込んでいく。
「爆豪君?」
飯田が眉をひそめる。
爆豪は返事をしない。
鞄を肩へ担ぐと、そのまま出口へ向かって歩き出した。
「待ちたまえ!」
飯田が慌てて前へ回り込む。
「どこへ行く!」
「帰る」
ぶっきらぼうな返事だった。
「夏季講習はまだ終わっていない! 先生の許可なく帰宅するなど──」
「誰が家に帰るっつった」
爆豪が足を止める。
苛立ちを隠そうともせず飯田を睨みつけた。
「じゃあ、どこへ行くんだ!」
爆豪は教室を一度見回した。
誰もが迷い、不安を抱え、答えを見失っている。
そんなクラスメイトたちを見て、小さく舌打ちした。
「クソデクのとこだよ」
教室が静まり返る。
「え……?」
麗日が立ち上がった。
「デク君がどこにいるか分かってるの?」
「さっき職員室で教師どもが隠し損ねた資料を見た」
爆豪は悪びれる様子もない。
「施設名と場所が書いてあった。こっからなら電車でそう遠くねぇ」
「施設?」
切島が聞き返す。
「病院か?」
「知らねぇ」
爆豪は短く答えた。
「だが警察が張ってる場所らしい」
「警察が……」
麗日の表情が強張る。
保護されているのか。
拘束されているのか。
それすら分からない。
「待ってくれ、爆豪君」
飯田が首を振る。
「警察が関わっている場所へ、僕たちが勝手に向かうことは許されない。相澤先生も教室へ戻れと命じたばかりだ」
「だから何だ」
「だから、先生方の説明を待つべきだと言っている!」
「説明?」
爆豪が鼻で笑う。
「さっき聞いて答えたかよ。無事かどうかすら言わねぇで、教室へ戻れだとよ」
「それには理由があるはずだ!」
「理由があろうが関係ねぇ」
爆豪の掌で、小さな爆ぜる音が鳴る。
「俺はあいつ本人の口から聞く。何をやったのか、何を隠してたのか、全部だ」
その言葉に、教室は再び静まり返った。
爆豪は緑谷を信じているわけではない。
かといって、他人の言葉だけで裏切り者と決めつけるつもりもない。
だから、自分の目で確かめに行く。
それだけだった。
爆豪は鞄を持ち直す。
そして、教室中を見渡した。
「他に来てぇ奴はいねぇのか」
問い掛けは静かな教室へ吸い込まれていく。
誰も動かなかった。
切島は拳を握ったまま俯き、芦戸も立ち上がりかけた身体を止める。
上鳴はスマートフォンを見つめたまま動けず、蛙吹も八百万も轟も言葉を失っていた。
緑谷に会いたい。
本人の口から真実を聞きたい。
その思いは誰も同じだった。
だが、教師に黙って警察の管理下にある場所へ向かうことが、どれほど危険で愚かな行為かも理解していた。
彼らはまだヒーローではない。
法的には何の権限も持たない、一人の学生にすぎなかった。
爆豪はしばらく待った。
教室を見渡しながら、誰かが立ち上がるのを待っているようにも、最初から何も期待していなかったようにも見える。
やがて、小さく鼻を鳴らした。
「……そうかよ」
その声に怒気はなかった。
失望とも違う。
爆豪はゆっくりと教室を見回し、口元をわずかに歪める。
「それでいい」
切島が顔を上げた。
「爆豪……」
「それが正しい選択だ」
誰も言葉を返せない。
普段の爆豪なら、臆病者だと吐き捨ててもおかしくなかった。
だが、今は違う。
「教師に黙って警察が張ってる場所へ行く。そこにいるのはヴィランかもしれねぇ」
爆豪は淡々と続ける。
「何が起きても知らねぇ。捕まっても助けられねぇ」
一度だけ教室を見回した。
「来ねぇのが正しい」
短く言い切る。
「ここで待ってろ」
それだけ残し、飯田の横を通り過ぎようとした。
飯田はもう止めなかった。
止める資格があるのか、自分でも分からなくなっていた。
爆豪の言うとおりだ。
教師の指示に従うことが、生徒として正しい。
だからこそ、爆豪一人を送り出すことしかできない自分が、ひどく情けなく思えた。
爆豪が扉へ手を掛ける。
その時だった。
教室の後ろで、鞄のファスナーを開ける音が響く。
全員が振り返る。
麗日だった。
机の上のプリントをまとめて鞄へ押し込み、筆記用具も無造作に詰めていく。
「麗日さん?」
八百万が目を見開く。
麗日は答えない。
静かにファスナーを閉めると、鞄を肩へ掛けて立ち上がった。
「お茶子ちゃん」
蛙吹が心配そうに呼び掛ける。
「行くの?」
「うん」
短い返事だった。
その一言だけで、もう決意は固まっていることが分かった。
麗日はそのまま通路へ出て、爆豪の隣まで歩いていく。
「待ちたまえ!」
飯田が慌てて二人の前へ立ち塞がった。
「君まで行くつもりか!?」
麗日は立ち止まる。
飯田は両手を広げたまま、必死に言葉を続けた。
「僕らはヒーローでも何でもない! ただの学生だ!」
教室中へ声が響く。
「警察にも学校にも黙って行動し、個性で誰かを傷つければ、相手がヴィランでも犯罪になる!」
麗日は黙って聞いていた。
「敵意がなくても、現場で何が起こるか分からない! 警察に止められるかもしれないし、本当にヴィランと遭遇するかもしれない!」
飯田の声が少しずつ震え始める。
「最悪の場合、退学だけじゃ済まない! 逮捕されることだってあり得る!」
言葉を切り、麗日を真っ直ぐ見つめる。
「ヒーローには……もう、なれなくなるかもしれないんだぞ」
教室が静まり返る。
誰もが麗日の返事を待っていた。
彼女がどれほどヒーローを目指して努力してきたか、ここにいる全員が知っている。
家族のためにプロヒーローになる。
それが麗日の夢だった。
麗日は俯く。
肩へ掛けた鞄の紐を、両手でぎゅっと握り締める。
しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吸う。
「うん」
ゆっくりと顔を上げ、飯田を見つめ返した。
「それでも……いい」
飯田の目が揺れる。
「麗日君……」
「駄目なことくらい分かってる」
麗日は静かに続けた。
「勝手に行っちゃいけないことも、個性を使ったら犯罪になるかもしれないことも、全部分かってる」
一度だけ唇を噛む。
「うち、ずっとヒーローになりたかった」
教室中が耳を傾ける。
「お父さんとお母さんを楽にしてあげたくて、雄英に入って、絶対にプロになるって決めてた」
声が少し震えた。
「だから……ヒーローになれなくなるのは、怖い」
その言葉に、誰も目を逸らせなかった。
麗日自身が、一番その重さを理解している。
それでも──。
「でも」
麗日は小さく笑う。
泣きそうなくらい寂しそうな笑顔だった。
「ここでデク君を放っておいて、それでヒーローになれても……うちは胸を張れない」
教室の誰も動かない。
誰も声を出せない。
「デク君が本当にヴィランだったとしても、違ったとしても、会って話を聞きたい」
視線が少しだけ遠くを見る。
「もし困ってるなら……今度は、うちが助けたい」
入試で。
USJで。
緑谷は迷うより先に身体を動かした。
誰かを助ける理由なんて考えず、自分が傷つくことも構わず、目の前の人へ手を伸ばいていた。
「デク君だったら」
麗日は静かに笑う。
「きっと行くから」
飯田は何も言えなかった。
委員長として止めるべきだ。
「もしこれでヒーローになれなくなっても、構わない」