黒い泥を踏み抜くようにして、緑谷出久はバーの床へ降り立った。
背後では、役目を終えた泥が粘ついた音を立てながら崩れ、床板の隙間へ吸い込まれるように消えていく。
最後に残った黒い雫が靴底から落ちると、そこにはもう、転送の痕跡らしいものは何も残っていなかった。
出久はすぐには動かなかった。
薄暗い店内へ立ち、ゆっくりと周囲を見渡す。
爆破によって砕かれた入口。蝶番ごと吹き飛び、通りへ転がった扉。
壁へ突き刺さった木片。
床に散らばるガラスと、酒瓶から流れ出した液体。
焦げた臭いの中に混じる、汗と血の匂い。
その中心で、爆豪がコンプレスを床へ押さえつけ、片手をマグネへ向けている。
少し離れた場所では、麗日が身構えたままスピナーの本体と分身を警戒し、その後ろにはトゥワイスが立っていた。
一目見れば、何が起きているのかは理解できた。
爆豪と麗日が、この場所へ乗り込んできた。
敵連合と戦い、少なくとも二人を制圧した。
そして今、自分の目の前にいる。
「……かっちゃん」
出久の口から、掠れた声が漏れた。
名前を呼んだだけだった。
だが、それを聞いた爆豪の表情が歪んだ。
「テメェ……」
コンプレスの背を押さえる膝へ力を込めたまま、爆豪は顔を上げる。
見上げた先にいるのは、確かに緑谷出久だった。
癖のある緑色の髪も、顔に散ったそばかすも、気弱そうに僅かに下がった眉も、幼い頃から嫌というほど見てきたものと変わらない。
それなのに、何もかもが違って見えた。
雄英の制服ではない。
ヒーローコスチュームでもない。
全身を覆うのは、機能性だけを優先したような黒い衣服だった。
腕や脚には細い装甲が沿い、腰には用途の分からない小型の装備がいくつも取りつけられている。
何より、立ち方が違う。
以前の出久なら、突然この場へ放り込まれれば肩を跳ねさせ、状況を把握しようとぶつぶつ呟きながら視線をせわしなく動かしていたはずだった。
今の出久は、静かだった。
警戒していないわけではない。
むしろ、爆豪たちの位置も、敵連合の負傷も、出入口の状態も、すべてを一度の視線で確認している。
それでも焦りは見えない。
まるで、こうした場所へ立つことに慣れているようだった。
そんなはずがない。
そう思った瞬間、爆豪の胸の奥から熱いものが込み上げた。
「テメェ、なんだその湿気た面は」
吐き捨てるような声だった。
強がり以外の何物でもない。
怒鳴りつけなければ、目の前の光景を認めてしまいそうだった。
「勝手に消えやがって、次に出てきたと思ったら、ヴィランの真似事かよ」
掌で火花が弾ける。
しかし、その爆発はいつものような威勢を欠き、乾いた音を一つ鳴らしただけだった。
「似合ってねえんだよ、クソデク」
出久の瞳が僅かに揺れた。
爆豪はそれを見逃さなかった。
その一瞬の反応だけは、昔と変わらなかった。
罵られて、傷ついて、それでも何かを言おうとする時の目。
なら、まだ戻せる。
まだ全部が手遅れになったわけではない。
そう考えた自分に気づき、爆豪はさらに苛立った。
「何とか言えや!」
「……どうして」
出久がようやく口を開く。
声は静かだったが、完全に平坦ではない。
「どうして、ここに来たの」
「あァ?」
「学生が、二人だけで来るような場所じゃないよ」
出久の視線が爆豪から麗日へ移る。
麗日は名前を呼びかけようとしたが、声が喉へ引っかかった。
目の前にいるのは、間違いなく出久だ。
けれど、その腰には見知らぬ装備があり、黒い服の襟元には敵連合のものとも雄英のものとも異なる、小さな意匠が刻まれている。
何より、彼は敵連合を助けるために来た。
その事実が、麗日の足を床へ縫いつけていた。
「デク君……」
ようやく絞り出した声に、出久の指先が微かに動く。
「麗日さんも」
呼び方は変わらない。
それだけに、余計に現実感がなかった。
「帰って」
穏やかな言い方だった。
命令するような強さも、追い払うような冷たさもない。
ただ、これ以上ここにいてほしくないという願いだけが、押し殺された声の奥に沈んでいた。
麗日はその言葉を聞いても動かなかった。
むしろ、床へ縫いつけられていた足を引き剥がすように、一歩だけ前へ出る。
「嫌だ」
小さな声だったが、はっきりと届いた。
出久の眉がわずかに動く。
「麗日さん」
「私たちは、デク君を連れ戻しに来たの」
出久の肩が、ごく僅かに揺れた。
爆豪が横目で麗日を見る。
強い言葉ではなかったが、その声には、ここへ来るまで何度も自分へ言い聞かせてきた決意が込められていた。
「連れ戻すって……」
「雄英に」
麗日は一歩、前へ出た。
スピナーの分身がすぐさま得物を持ち上げる。
だが、本物のスピナーが制するより早く、出久が片手を僅かに上げた。
それだけで分身の動きが止まる。
麗日の目は、その仕草を見逃さなかった。
敵連合の人間が出久の合図に従った。
その事実が胸を締めつける。
それでも、目の前にいる彼を敵と呼ぶことだけは、どうしてもできなかった。
「なんで何も相談してくれなかったの?」
出久の手がゆっくりと下がる。
「私たち同じクラスだったよね。訓練も一緒にして、授業も受けて、ご飯も食べて……デク君が困ってるなら、話してほしかった」
「……話して、どうなるの」
「分からない」
麗日は即座に答えた。
「分からないけど、少なくとも一人で決めて欲しくなかった」
出久の唇が僅かに動く。しかし言葉にはならない。
麗日はその沈黙を待たず、胸の内に引っかかっていたもう一つの疑問を口にした。
「買い出しの時にいたヒミコちゃんも、この人たちの仲間なんだよね?」
ほんの一瞬だったが、明らかな動揺が走る。
爆豪が眉を寄せる。
「ヒミコだぁ?」
「前に、デク君と一緒に買い出しした時に会った子。普通の子みたいに話してたけど……あの子も、ヴィラン?」
麗日は出久から目を逸らさない。
「あの時から、ずっと繋がっとったの?」
出久は答えなかった。
視線を落とし、床へ散らばるガラス片を見つめる。
「私たちに黙って、ずっと?」
麗日の声が僅かに震える。
怒っているのか、悲しんでいるのか、自分でも判別できなかった。
「答えて、デク君」
麗日の声が低くなる。
「ヒミコちゃんも、この人たちの仲間なんやね?」
出久は沈痛な面持ちで項垂れた。
肯定も否定もしない。
言い返そうとする様子すらなかった。
それが、何よりの答えだった。
「……そっか」
麗日は小さく呟いた。
息を吐こうとして、うまくできなかった。
胸の奥へ重い塊が沈み込み、喉を塞いでいる。
「じゃあ、あの時も……私だけ何も知らんかったんだ」
「麗日さん、それは」
ようやく出久が顔を上げかける。
しかし、その言葉は最後まで続かなかった。
「おい!」
スピナーの怒声がバーの中へ響いた。
得物の柄を床へ打ちつけ、苛立ちを露わにする。
「助けに来てくれたのか、説得されに来たのか、どっちなんだ!」
出久の身体が強張る。
スピナーは爆豪と麗日を交互に睨みつけ、それから出久へ顔を向けた。
「外には警察とヒーローがいるんだろ! マグ姐とコンプレスは押さえられて、こっちはいつ突入されてもおかしくねえ!」
「分かってるよ」
「分かってる顔かよ!」
スピナーの声には怒りだけでなく、焦りも滲んでいた。
「こいつらは雄英の生徒だ! お前を連れ戻すために来たとか言ってるが、俺たちを捕まえに来た敵でもあるんだぞ!」
声を荒げるスピナーを、出久は冷え切った目で睨み付ける。
「うるさいな」
声を荒らげたわけではない。怒鳴りもしなかった。
ただ、先ほどまで麗日に向けていた沈痛な表情を消し、スピナーへゆっくりと顔を向ける。
雄英にいた頃、誰かを傷つけた相手へ怒りを向けることはあっても、こんな目をしたことはない。
感情を剥き出しにするのではなく、相手を黙らせることだけを目的とした、温度のない視線だった。
スピナーの口が止まる。
得物を握る手に力が入ったまま、喉だけが小さく動いた。
額の鱗の隙間に冷や汗が滲み、彼はわずかに顔を背ける。
「いや……別に、お前に意見しようと思った訳じゃないんだ」
先ほどまでの勢いは消えていた。
「ただ、その……外の連中が近いなら、急いだ方がいいって話で」
言葉を選ぶたびに声が小さくなる。
「俺たちも、捕まるわけにはいかねえし……」
最後には視線まで床へ落ちた。
麗日は息を呑んだ。
スピナーは気弱そうな相手ではない。
先ほどまで武器を振るい、自分たちを敵と断じ、出久にまで苛立ちをぶつけていた。
それが、ただ一度睨まれただけでここまで萎縮している。
出久が敵連合の中でどう扱われているのか。
あるいは、彼らが出久の何を知っているのか。
考えたくない想像が、麗日の胸を締めつける。
爆豪も同じことを感じたらしい。
「……何だ、そりゃ」
低い声が漏れる。
出久はスピナーから視線を外し、再び爆豪と麗日を見る。
冷たさは消えていた。
けれど、完全に元へ戻ったわけでもない。
表情を切り替えたというより、必要な顔だけを選んで使い分けているように見えた。
「時間がないのは分かってる」
出久は静かに言う。
「だから、二人とも帰って」
「帰るわけねえだろ」
爆豪が即座に返した。
「テメェがこいつらにどんな顔見せてんのか、今のでよく分かったわ」
「何が」
「すっとぼけんな」
爆豪はコンプレスを押さえていた膝を退け、ゆっくりと立ち上がる。
コンプレスが反射的に身体を起こそうとしたが、爆豪の掌で火花が弾けると、動きを止めた。
「その冷めた目だよ」
爆豪は出久を睨みつける。
「昔のテメェなら、仲間に怒鳴られたくらいで、そんな目しなかっただろうが」
「僕の事を、全部知ってるみたいに言わないでよ」
「あァ?」
出久の声には棘がなかった。
だからこそ、爆豪の顔が険しくなる。
「もういい、テメェが何考えてようが知ったこっちゃねえ」
吐き捨てながら、爆豪はコンプレスの背から完全に足を退けた。
それを好機と見たのか、コンプレスが片肘を立てて身体を起こそうとする。
離れた位置にいたマグネも、床へついていた手に力を込め、わずかに腰を浮かせた。
その気配を、爆豪は見もしなかった。
「動くなっつっただろうが!」
右足がコンプレスの脇腹へ叩き込まれる。
「ぐっ……!」
鈍い音とともに身体が横へ転がり、倒れていた椅子を巻き込んで床へ叩きつけられた。
間髪を入れず、爆豪は左手をマグネへ向ける。
橙色の閃光が膨れ上がった。
「ちょっ──!」
マグネが腕で顔を庇った瞬間、床すれすれを狙った爆発が炸裂する。
直撃こそ避けられたものの、足元を掬われた身体は浮き上がり、背中から硬い床へ落下した。
コンプレスとマグネの呻き声が重なる。
「爆豪君!」
麗日が思わず叫んだ。
だが、爆豪は振り返らない。
もう待つつもりはなかった。
話を聞けば聞くほど、目の前にいる男が自分の知っている緑谷出久から離れていく。
それでも、出久の声も、表情も、怒られれば僅かに目を伏せる癖も、何もかもが完全には変わっていなかった。
ならば、言葉で戻らないのなら力ずくで連れ帰る。
それだけだった。
「グダグダうるせえんだよ」
爆豪は腰を低く落とす。
両の掌から白煙が立ち上り、空気が熱を帯びた。
「ボコって連れ帰ってやらあ、クソデク!」
爆発。
床板が爆風に抉られ、爆豪の身体が砲弾のように前へ飛び出した。
出久が目を見開く。
その反応を見て、爆豪は確信した。
まだ遅くない。
不意を突かれれば驚き、昔の呼び方で自分を呼ぶ。
どれだけ妙な服を着ようが、ヴィランどもを従えようが、目の前にいるのは結局、昔から後ろをついてきたクソナードだ。
「歯ァ食いしばれ、デク!」
爆豪は加速の勢いを殺さず、右手を出久の顔面へ突きつけた。
掌の中心で汗が一気に爆ぜる。
近距離からの爆破。
まともに受ければ、出久でも無事では済まない。
だが爆豪は躊躇しなかった。
死なない程度に叩き伏せ、そのまま担いで連れ帰るつもりだった。
出久が咄嗟に左腕を持ち上げる。
次の瞬間。
皮膚の下で、何かが蠢いた。
「──あ?」
爆豪の目が見開かれる。
出久の前腕が不自然に膨らみ、内側から皮膚を押し上げるように、白い突起が次々と浮かび上がった。
最初は小さな棘に見えた。
しかし、それらは瞬く間に伸び、互いへ重なり合いながら腕の表面を覆っていく。
骨だった。
乳白色の骨質が薄い板状に広がり、鱗のように幾重にも連なって、出久の腕を覆う装甲へ変わる。
「なっ──」
爆豪が止まるより先に、爆発が炸裂した。
轟音と熱風がバーを揺らす。
窓に残っていたガラスが砕け、天井から埃が降り注いだ。
麗日は腕で顔を覆い、スピナーたちも爆風に耐えるため身を伏せる。
爆煙の中心から、爆豪が舌打ちする音が聞こえた。
「クソが!」
煙を切り裂き、爆豪が後方へ跳ぶ。
着地した靴底が割れたガラスを噛み、床を長く滑った。
その視線の先。
出久は同じ場所に立っていた。
左腕を顔の前へ掲げたまま、ほとんど後退していない。
骨の鱗は爆風を受けて表面が黒く焦げていたものの、砕けてはいなかった。
僅かに剥がれ落ちた破片の下からは、すぐさま新しい骨質が押し出され、損傷した部分を埋めていく。
「何だよ、それ……」
爆豪の声が震える。
彼の知る出久の個性ではない。
「デク君、それ……」
出久は答えなかった。
掲げていた腕をゆっくりと下ろし、白い装甲を見つめる。
その顔には痛みが浮かんでいた。
骨が皮膚を突き破った苦痛ではない。
見られてしまったことへの苦悩だった。
爆豪はその表情を見て、奥歯を噛む。
「テメェ……」
右の掌が震える。
「骨の個性か? そんな応用が効く個性じゃなかったよなあ」
出久の視線が爆豪へ向く。
「かっちゃん、もうやめて」
「答えろ!」
「やめてよ」
出久の声が僅かに強くなる。
「これ以上やったら、僕も手加減できなくなる」
その言葉で、爆豪の中に残っていた躊躇が焼き切れた。
「上等だ!」
両手を後方へ向け、再び爆発を起こす。
爆豪が二度目の加速へ入ろうとした、その時だった。
出久の右肩が大きく盛り上がる。
「……っ」
出久が息を呑み、身体を僅かに折った。
黒い衣服の下で、筋肉が脈打つ。
肩甲骨の周囲が異様な形に膨らみ、布地が内側から引き伸ばされた。
乾いた破裂音とともに縫い目が裂け、その隙間から新たな骨の鱗が突き出す。
一枚。
二枚。
それは留まることなく増殖し、肩から胸へ、首筋から背中へと広がっていった。
「デク君!」
麗日が一歩踏み出す。
「来ないで!」
出久が叫んだ。
初めて聞くほど切迫した声だった。
麗日の足が止まる。
出久は両腕で自分の身体を抱くようにしながら、荒い呼吸を繰り返した。
骨の鱗が皮膚を覆っていく。
腕だけではない。
頬の下から白い筋が浮かび、顎を包み込む。首には何層もの骨板が重なり、喉元を守る襟のようにせり上がった。
黒い服が次々と裂け、その下から異常な速度で膨張する肉体が露わになる。
細身だった腕が太くなる。
筋繊維が束ごと増えたかのように盛り上がり、骨格そのものが軋みながら拡張していく。
指は節ごと太くなり、爪の代わりに白い鉤爪が伸び始めた。
出久の背丈が伸びる。
一回り。
さらに一回り。
靴が耐えきれずに裂け、肥大化した足が床板を踏み抜いた。
バー全体が低く震える。
「おいおい、ステインの時のアレか!」
コンプレスが脇腹を押さえながら身を起こし、珍しく冗談のない声を漏らした。
マグネも言葉を失い、床へ倒れたまま出久を見上げている。
出久の背中がさらに膨れ上がった。
脊椎に沿って鋭い骨の突起が並び、ひとつずつ外へ押し出される。
肩からは分厚い骨板が張り出し、首から胸、腹部へと鱗が重なり合って隙間を塞いでいった。
もはや、人間の身体ではなかった。
辛うじて人型を保ってはいるものの、両腕は膝近くまで伸び、肥大化した上半身は入口の枠を塞ぐほど広い。
白い骨の装甲の隙間からは、膨張した筋肉が覗いている。
翠色だった瞳も、骨に縁取られた眼窩の奥で細く光っていた。
人間の面影を残しているのは、僅かに覗く緑色の髪と、その目だけだった。
麗日は呼吸を忘れた。
出久がヴィランになった。
そう聞かされても、どこかで信じ切れていなかった。
黒い服を着ていようと、敵連合を助けに来ようと、顔も声も自分の知る出久のままだったからだ。
だが、目の前に現れた姿は、その希望を乱暴に打ち砕いた。
「……デク、君?」
呼びかけた声は、ほとんど音にならなかった。
怪物のように膨れ上がった出久が、ゆっくりと顔を向ける。
その瞳に麗日を傷つけようとする意思はない。
むしろ、ひどく悲しげだった。
「見ないでほしかった」
低く変質した声が、骨の奥から響いた。
人間の喉から出ているとは思えないほど重い声だったが、言葉の調子だけは出久のものだった。
「二人には、こんな姿……見られたくなかった」
爆豪は黙って怪物を見上げていた。
驚愕はあった。
信じられないという思いも、胸の中で暴れていた。
それでも、逃げようとはしなかった。
むしろ両の拳を握り、掌からさらに激しい火花を散らす。
「だから何だ」
爆豪は低く言った。
出久の目が僅かに動く。
「図体でかくして、骨なんざ生やしたくらいで、俺がビビると思ってんのか」
「かっちゃん」
「ブースト剤でも使ってんのか? なんにせよ碌でもない事に手出しやがってよ」
強がりだった。
目の前にいるものが、自分の理解を遥かに超えていることは分かっている。
先ほどの爆破を片腕だけで防ぎ、今は天井へ届きそうな巨体へ変貌している。
それでも爆豪は笑った。
歯を剥き出しにする、挑発的な笑みだった。
「やっと本気出す気になったか、クソデク」
爆豪は床を蹴った。
両腕を背後へ向け、掌に溜め込んだ汗を一斉に爆発させる。
橙色の閃光が薄暗いバーを白く塗り潰し、爆風によって砕けた椅子やガラス片が四方へ吹き飛んだ。
「デク──ッ!」
怒声とともに、爆豪の身体が一直線に加速する
先ほどよりも速い。
天井すれすれまで上昇し、そこから角度を変えて出久の頭上へ回り込む。
巨体になったことで動きは鈍っている。
正面から骨の装甲を抜けないのなら、守りの薄い箇所を狙えばいい。
爆豪は空中で身体を捻り、右手を出久の後頭部へ向けた。
「寝てろ、クソデク!」
掌の中央へ、火花が収束する。
轟音。
爆炎が至近距離から出久の頭部を呑み込んだ。
炎と黒煙が天井まで立ち上り、衝撃でバー全体が大きく揺れる。
壁へ残っていた酒瓶が棚ごと崩れ、床へ落ちて砕けた。
「爆豪君!」
麗日の叫びが爆音に掻き消される。
爆豪は反動を利用して距離を取り、再び掌を構えた。
直撃した。
いくら装甲が硬くとも、頭部へあれだけの爆発を受ければ怯む。
そう判断した爆豪は、煙の中へ追撃を叩き込もうと左手を振り上げる。
だが。
黒煙の奥から、巨大な腕が伸びた。
「な──」
爆豪が反応した時には、その拳は目前まで迫っていた。
技巧などない。
軌道を惑わせる動きも、フェイントも、爆豪の逃げ道を計算した牽制もなかった。
ただ腕を引き、前へ突き出す。
怪物じみた膂力だけを乗せた、無造作な一撃。
それだけの拳だった。
爆豪は咄嗟に両腕を顔の前へ交差させ、掌から爆発を放つ。
拳と爆炎が正面から衝突した。
橙色の炎が骨の鱗を舐め、出久の巨大な腕を包み込む。
爆風は皮膚を焼き、鱗の表面を黒く焦がしたが、その勢いを止めるには至らなかった。
爆発を突き破り、出久の拳が進む。
「ッ──!」
爆豪が目を見開いた。
次の瞬間。
怪物の拳が、爆豪の腹部へめり込んだ。
鈍い音が響く。
空気が押し潰され、爆豪の身体がくの字に折れ曲がる。
「がっ……!」
衝撃はそこで終わらなかった。
拳に乗った圧倒的な膂力が、そのまま爆豪の身体を持ち上げる。
床から足が離れた。
出久はその勢いのまま腕を振り抜く。
爆豪の身体が砲弾のように吹き飛んだ。
壁を一枚。
柱を一本。
砕きながら一直線に店の奥へ突っ込み、最後はコンクリートへ激突して止まる。
壁面が蜘蛛の巣状にひび割れ、瓦礫が雪崩のように降り注いだ。
爆煙の中から、咳き込む音が聞こえた。
爆豪は瓦礫を押し退けながら立ち上がろうとする。
制服は裂け、額から血が流れ落ちていた。
腹部を押さえる手も震えている。
「……っ、まだ」
立とうとする。
だが膝が笑い、その場へ片膝をついた。
出久は追撃しなかった。
巨大な身体のまま、その場に立ち尽くす。
ゆっくりと拳を開いた。
白い骨の鱗に覆われた拳の隙間から、赤い雫が伝って落ちる。
爆豪の血だった。
出久はその拳を静かに見つめる。
赤い血が骨の装甲を流れ、床へ滴る。
しばらく無言で眺めたあと、小さく呟いた。
「『槍骨』……」
拳の骨装甲を見下ろす。
「『スケイルメイル』」
白い鱗が軋みながら動く。
「『筋骨発条化』」
肥大化した筋肉がわずかに脈動した。
「『剛躯』」
その四つを確かめるように、拳を一度だけ握る。
骨と筋肉が重い音を立てた。
「……この組み合わせは、やっぱり雑に強いな……」
出久は返り血のついた拳を見つめたまま、自嘲するように息を吐く。
「次は機動力を補える個性を貰おう」
その呟きには、勝利の喜びはなかった。
ただ、自分がどれほど人間離れした力を手に入れてしまったのかを、改めて確認してしまった者の苦さだけが滲んでいた。
その言葉を聞いた麗日の胸が締めつけられる。
出久は勝ったことではなく、個性の組み合わせを分析している。
戦いながら、自分の能力を冷静に評価している。
まるで実験結果を確認する研究者のようなその姿は、かつてヒーロー分析ノートを書き続けていた緑谷出久と、どこか重なって見えた。
だからこそ、痛々しかった。
出久は、拳を覆う骨の鱗から視線を上げた。
その先にいた麗日の身体が、目に見えて強張る。
爆豪を殴り飛ばした拳には、まだ赤い血がこびりついていた。
鱗の隙間を伝った雫が巨大な指先へ集まり、床へ落ちる。
小さな音だったが、静まり返った店内では異様なほど鮮明に響いた。
「……麗日さん」
低く変質した声が、骨の装甲の奥から発せられる。
名前を呼ばれた麗日は、反射的に一歩退こうとした。
だが、踵が床へ散らばった木片に触れただけで、足は動かなかった。
出久がこちらを見ている。
先ほどスピナーを黙らせた時と同じ、冷え切った瞳だった。
爆豪へ向けていた時のような苛立ちもない。
自分の力を試す好奇心もなければ、旧友を傷つけたことへの動揺さえ、今は表面へ出ていなかった。
ただ、排除すべき障害を見る目。
その視線を向けている相手が自分なのだと理解した瞬間、麗日の背筋を冷たいものが走った。
「君が相手でも、容赦しない」
出久は静かに告げた。
「二人には、帰ってほしいって何度も言った」
「デク、君……」
巨大な足が持ち上がる。
床へ下ろされた瞬間、骨の鱗と床板が擦れ、鈍い音が響いた。
一歩。
出久が麗日へ近づく。
麗日は構えを取ろうとした。
両手を上げ、指先を開けばいい。
触れさえすれば、どれほど巨大化していようと無重力にできるかもしれない。動きを奪い、その間に爆豪を救出して逃げる。
頭では分かっている。
授業でも、訓練でも、恐怖で動きを止めるなと教えられてきた。
それなのに、指が動かない。
あれだけの爆発を真正面から受けても、出久の鱗は砕けなかった。
爆豪を殴った拳も、速さや技巧に頼ったものではない。
単純な力だけで、人体を壁の向こうまで吹き飛ばした。
自分があの拳を受けたらどうなるか。
一度考えてしまった瞬間、膝から力が抜けた。
二歩目。
出久の巨体が近づく。
照明を遮るほど大きな影が、麗日の身体を覆った。
「デク君、ダメ……」
声が震える。
出久の足は止まらない。
三歩目。
もう、出久の腕が届く距離だった。
見上げても全身を視界へ収めきれない。
巨大な胸郭を覆う鱗。その隙間で蠢く筋肉。天井近くまで届く肩と、そこから垂れ下がる太い腕。
人間の形を残した怪物。
それでも眼窩の奥にある瞳だけは、緑谷出久のものだった。
冷たく、暗く、けれどどこか奥深くに苦痛を沈めた目。
「……怖いよ」
麗日の口から、無意識に言葉が漏れた。
出久の拳が止まる。
一瞬だけ。
その瞳が揺れた。
「デク君が、怖い」
麗日は震えながら見上げる。
言いたくなかった。
そんな言葉を告げれば、彼をさらに遠ざけてしまうと分かっていた。
「そう……」
巨大な手が麗日へ伸びる。
指が開く。
爆豪を殴った拳とは違う。掴んで動きを封じるつもりなのだろう。
だが、その力加減を出久が誤れば、それだけで麗日の身体は壊れる。
麗日は逃げることも、腕を上げることもできなかった。
迫る骨の指を見つめる。
呼吸が浅くなる。
耳鳴りがして、周囲の音が遠ざかっていく。
巨大な手が視界を覆った。
その瞬間。
バーの外壁が、内側へ向かって爆発した。
「──ッ!」
轟音とともに煉瓦とコンクリートが吹き飛び、壁を構成していた資材が店内へ雪崩れ込む。
スピナーたちが反射的に身を伏せた。
「今度は何だ! 次から次へと!」
土煙の向こうから、巨大な影が突入してくる。
出久が咄嗟に顔を向けた。
視認できたのは、風圧ではためく金色の髪と、こちらへ突き出された拳だけだった。
「もう大丈夫だ!」
聞き間違えるはずのない声が、崩壊音を突き抜ける。
「私が、来た!」
「オール──」
出久が名前を呼び終えるより早く、拳が骨の装甲へ叩き込まれた。
衝撃。
爆発とは異なる、純粋な力の奔流が出久の巨体を貫いた。
空気が円形に歪み、店内に残っていた窓ガラスが一斉に砕け散る。
出久を覆う骨の鱗が軋み、拳を受けた胸部を中心に白い亀裂が広がった。
「ぐっ……!」
巨大な身体が床から浮く。
数歩分の距離を一息に押し戻され、出久は壁際のカウンターへ背中から激突した。
木製のカウンターが粉砕される。
酒瓶と棚板を巻き込みながら巨体が沈み込み、白い骨片が煙の中へ飛び散った。
「デク君!」
麗日が思わず叫ぶ。
しかし、次の瞬間には身体が浮いていた。
脇腹へ太い腕が回り、強い力で抱え上げられる。
「麗日少女、失礼!」
視界の端で、オールマイトの笑顔が見えた。
いつものように大きく、力強い笑みだった。
だが、額には汗が浮かび、目は笑っていない。
オールマイトは右腕で麗日を抱えると、倒れている爆豪のもとへ一足で移動した。
「触んじゃねえ……!」
爆豪が血を吐きながら腕を振り払おうとする。
「悪いが、今は聞けん!」
オールマイトはその身体も左腕で抱え上げた。
「放せ、オールマイト! あのクソナードを──」
「君たちの救出が最優先だぞ!」
オールマイトは床を蹴る。
踏み込みだけで床板が陥没し、巨体が土煙を切り裂いて後方へ飛んだ。
崩れた壁を抜け、バーの外へ。
一度の跳躍で通りの反対側まで距離を取り、さらに警察の防衛線を越えた位置へ着地する。
麗日は胸へ押しつけられながら、遠ざかっていくバーを見つめた。
崩れた壁。
舞い上がる粉塵。
その奥で、巨大な影がゆっくりと起き上がろうとしている。
「待って!」
麗日はオールマイトの腕の中で身を捩った。
「デク君が、まだ中に!」
「分かっている」
オールマイトは短く答える。
麗日と爆豪を地面へ下ろすと、二人を庇うように前へ立った。
その背中は、テレビや雄英で何度も見た象徴そのものだった。
広い肩。
真っ直ぐに伸びた背筋。
どれほど恐ろしい敵を前にしても、決して揺るがない平和の象徴。
けれど、その拳は固く握られ、僅かに震えていた
土煙の奥で、骨の鱗が擦れる音がする。
重い足音が一つ響いた。
そして、崩れた壁の向こうから、出久の巨体が姿を現す。
胸部の鱗は大きく砕けている。
その下の肉体にも拳の痕が深く刻まれ、口元からは血が流れていた。
だが、倒れてはいない。
砕かれた骨の隙間からは、新たな鱗が既に伸び始めている。
出久は傷ついた胸へ手を当て、それからオールマイトを見た。
「オールマイト……新コスだ」