間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第64話 デクVSオールマイト

 崩れた壁から舞い上がる粉塵が、ゆっくりと晴れていく。

 

 出久は砕けたカウンターへ手をつき、巨体を起こした。

 

 胸部の骨の鱗には大きな亀裂が走っている。

 その隙間から覗く肉が蠢き、白い骨質が音を立てながら伸びていく。

 砕けた装甲を押しのけるように新しい鱗が重なり、数秒も経たないうちに傷は半ばまで塞がっていた。

 

 出久はその様子を一瞥すると、視線を上げる。

 崩れた壁の向こう。

 ぽっかりと空いた穴から、夜の街が見えた。

 赤色灯が何本も回転している。

 道路は完全に封鎖され、何重もの規制線が張られていた。

 制服警官たちが慌ただしく走り回り、機動隊が盾を構える。

 そのさらに後方には、プロヒーローたちが建物を取り囲むように配置されていた。

 

 見覚えのあるコスチュームがいくつもある。

 テレビで見たヒーロー。

 ヒーロー名鑑で何度も読み返した人たち。

 全員の名前を一人残らず言う事もできる。

 

 そして、その中心には。

 

 誰よりも大きな背中が立っていた。

 

 オールマイト。

 

 平和の象徴。

 

 子供の頃、自室の壁一面へ貼ったポスターの主人公。

 何度も映像を見返し、ノートへ戦闘分析を書き続けた憧れのヒーロー。

 

「……変だな」

 

 誰へともなく呟く。

 巨大な掌をゆっくりと開き、閉じる。

 骨が擦れ合う重い音だけが耳へ残る。

 

 以前なら。

 

 オールマイトが現れただけで嬉しかった。

 テレビ越しに姿を見るだけで笑顔になれた。

 街で事件が起きれば、きっと来てくれると信じていられた。

 あの人の背中を見ているだけで、何でもできる気がしていた。

 

 なのに。

 

 今は、眩しすぎて直視することが出来ない。

 正面から見てしまえば、自分の罪諸共に妬き尽されてしまいそうで、俯いてしまう。

 

「……そうか」

 

 出久は静かに目を伏せる。

 悲しくもなかった。

 驚きもない。

 ただ事実として理解した。

 

「もう、戻れないんだ」

 

 その言葉が、崩れたバーの中へ静かに落ちる。

 誰も返事をしなかった。

 スピナーも、トゥワイスも、コンプレスも。

 巨大な怪物となった出久を見つめ、それぞれが言葉を失っている。

 

 その静寂を破ったのは、外から響く重い破砕音だった。

 地面が震える。

 次の瞬間、崩れた外壁の向こうから一つの影が飛び出した。

 

 風を裂く音。

 黄金色のマントが大きく翻る。

 規制線の外へ爆豪と麗日を下ろしたオールマイトは、一切速度を落とさず再び跳躍していた。

 

 巨体が夜空を横切る。

 

 そして。

 

 轟音とともに、出久のすぐ横へ着地した。

 

 床板が陥没し、蜘蛛の巣状の亀裂が四方へ走る。

 舞い上がった粉塵が二人の間を流れ、白い骨の装甲と黄金のシルエットを半ば覆い隠した。

 

「……!」

 

 スピナーが目を見開く。

 

「オールマイト!」

 

 その名を叫ぶ声には、恐怖と焦燥が入り混じっていた。

 

 コンプレスも表情を失い、帽子の鍔を押さえたまま息を呑む。

 

「まずい……」

 

 マグネが低く漏らす。

 

「平和の象徴が、本当に来ちまった……」

 

 トゥワイスは半歩後ずさる。

 

「終わりだ!」

 

「いや、まだだ!」

 

 相反する言葉を同時に吐きながら、混乱したように頭を抱えた。

 

 敵連合の空気が、一瞬で張り詰める。

 誰もがオールマイトを見ていた。

 その圧倒的な存在感に呑まれ、自然と身構えてしまう。

 

 だが。

 

 当のオールマイトは、一度たりとも彼らへ視線を向けなかった。

 まるで最初からそこに存在していないかのように、その眼差しはただ一人だけを映している。

 

 緑谷出久。

 

 骨の怪物となった、自分の教え子だけを。

 

 出久もまた、静かにオールマイトを見返していた。

 二人の間には、数歩ほどの距離しかない。

 かつては隣に立って歩いた距離。

 今は、決して埋まることのない隔たりだった。

 

 オールマイトはゆっくりと拳を下ろした。

 構えない。

 威嚇もしない。

 静かに息を整えると、真っ直ぐ出久の目を見る。

 

「緑谷少年」

 

 その呼び方に、出久の瞳がわずかに揺れた。

 怪物の姿になっても。

 ヴィランとなった今でも。

 オールマイトは、目の前の存在を怪物とは呼ばなかった。

 

 教え子の名前で呼んだ。

 

「降伏しなさい」

 

 静かな声だった。

 

 怒鳴りつけるわけでもない。

 諭すような甘さもない。

 ただ、揺るぎない決意だけが宿っている。

 

「これ以上、誰も傷つけてはいけない」

 

 出久は何も答えない。

 骨の鱗が、呼吸に合わせてわずかに軋む。

 

 オールマイトは続ける。

 

「君にはまだ償う機会がある」

 

「君が何を背負い、何を理由にここへ来たとしても、それは法廷で語るべきことだ」

 

「ここで戦い続ける理由にはならない」

 

 オールマイトは、それ以上前へは出なかった。

 互いに手を伸ばせば届く距離。

 それでも、その一歩を踏み出すことだけはしなかった。

 

 骨の装甲を纏った怪物ではなく、その奥にいる少年へ語りかけるように、静かに口を開く。

 

「……覚えているかい」

 

 出久は顔を上げる。

 

 オールマイトは優しく目を細めた。

 

「私たちが初めて会った日のことを」

 

 出久の瞳が、わずかに揺れる。

 

「君はヴィランに襲われていた」

 

 あの日の光景を思い返すように、オールマイトはゆっくりと言葉を紡いでいく。

 

「巨大なヘドロヴィランに身体を呑まれ、必死にもがいていた」

 

「そこへ私が駆けつけ、君を助け出した」

 

 出久の脳裏に、十か月以上も前の記憶が蘇る。

 息ができなかったこと。

 涙も声も出なかったこと。

 ようやく助かった安堵で、身体中の力が抜けたこと。

 

 そして。

 

 目の前に、本物のオールマイトが立っていたこと。

 

「あの時君は、何か伝えようとしていたのではないかい?」

 

 その声音には、自責の色が滲んでいた。

 

「だが私は……急用故に、君の話を最後まで聞かず、その場を去ってしまった」

 

 静かな沈黙が流れる。

 オールマイトは出久から目を逸らさない。

 

「……あの時のことを、私は今でも悔やんでいる」

 

 出久は何も答えない。

 ただ、拳がゆっくりと握られる。

 骨の鱗が軋み、小さな音を立てた。

 

 オールマイトはその音さえ遮らない。

 穏やかな口調のまま、最後の問いを投げ掛ける。

 

「だから、今さらだと言われるかもしれない」

 

「虫のいい話だと笑われても構わない」

 

 力強い瞳が真っ直ぐに出久を見据える。

 

「それでも私は知りたい」

 

「あの日」

 

「君は私に、何を伝えようとしていたんだい」

 

 夜風が崩れた壁を吹き抜ける。

 粉塵が二人の間を静かに流れていく。

 

「今からでも遅くない」

 

「教えてくれないか、緑谷少年」

 

「君が、あの日言えなかった言葉を」

 

 長い沈黙が落ちた。

 誰も口を開かない。

 夜風だけが崩れた壁を吹き抜け、床へ散らばるガラス片をかすかに鳴らした。

 

 やがて。

 

「……伝えたいこと、っていうか」

 

 出久がぽつりと呟く。

 低く変質した声は、先ほどまでよりもずっと静かだった。

 

「聞きたいことが、あったんです」

 

 オールマイトは黙って耳を傾ける。

 出久は俯いたまま、小さく息を吐いた。

 

「あの日」

 

「僕、本当は」

 

 骨の巨体がわずかに震える。

 

「貴方に聞きたかったんです」

 

 ゆっくりと顔が上がる。

 緑色の瞳が、真っ直ぐオールマイトを映した。

 

「僕」

 

「無個性でも、ヒーローになれますか」

 

 静まり返ったバーの中で、その一言だけが異様なほど鮮明に響いた。

 

「……」

 

 オールマイトの瞳が揺れる。

 

「貴方みたいなヒーローに、なれますかって」

 

 その言葉を最後まで言い切ると、出久はふっと口元を歪めた。

 

「……ふ」

 

 小さな笑いだった。

 喉の奥から漏れただけの、かすかな音。

 

「ふっ……」

 

 肩が震える。

 骨の装甲が擦れ合い、重たい音を立てる。

 

「はは……」

 

 笑っている。

 

 誰もがそう理解した。

 だが、その笑いには喜びも安堵もない。

 どこか壊れた歯車が、無理やり回り始めたような不気味さだけがあった。

 

「は、ははは……!」

 

 笑いは止まらなかった。

 出久は片手で額を押さえ、肩を震わせる。

 

「そうだ!」

 

「そんなこと聞こうとしてたんだ、僕!」

 

 自分へ言い聞かせるように何度も頷く。

 

「ああ、そうだった」

 

「僕」

 

「そんな夢、見てたんだ」

 

 笑い声が少しずつ大きくなる。

 

「ははっ……!」

 

「無個性が」

 

 一度言葉を切る。

 

 次の瞬間。

 

「無個性が!」

 

 声を張り上げた。

 

「ヒーローになんかなれる訳ないのにさあ!」

 

 狂ったような笑い声が、崩れたバー全体へ響き渡る。

 

「はははははっ!」

 

「何考えてたんだろ!」

 

「病院で『無個性です』って言われて!」

 

「周りから散々無理だって言われて!」

 

「それでも諦めきれなくて!」

 

「ノートにヒーローの分析ばっかり書いて!」

 

「テレビの前で目を輝かせて!」

 

「そんな子供がさあ!」

 

 笑いながら叫ぶ。

 

「平和の象徴に!」

 

「『無個性でもヒーローになれますか』なんて!」

 

「聞こうとしてたんですよ!」

 

 笑いは止まらない。

 止めようとしている様子すらない。

 

「ははははははっ!」

 

「馬鹿ですよね!」

 

「本当に!」

 

「そんな訳ないじゃないですか!」

 

「そんな夢、叶う訳ないじゃないですか!」

 

 笑い声が、崩れた店内に反響する。

 骨の装甲に覆われた巨体が震えるたび、足元の瓦礫が小さく跳ねた。

 

 出久は額へ当てていた手をゆっくりと下ろす。

 目尻には涙が滲んでいた。

 それでも笑みは消えない。

 引きつった口元をそのままに、両腕を広げる。

 

 舞台の上で自分を見せつけるように。

 

 オールマイトへ。

 

 敵連合へ。

 

 崩れた壁の向こうで武器を構える警察官たちへ。

 

 何十人ものプロヒーローへ。

 

 そして、そのさらに後ろでカメラを向ける報道陣へ。

 

 自分の姿を晒した。

 

「見てくださいよ」

 

 笑いを噛み殺すような声だった。

 

 その言葉を聞き、規制線の向こうがざわめいた。

 盾を構えた警察官の一人が息を呑む。

 ヒーローたちは表情を強張らせたまま、誰も目を逸らせない。

 骨の鎧を纏い、いくつもの個性を同時に発動させ、かつての面影を僅かにしか残していない少年。

 

 それが今、平和の象徴の隣に立っていた。

 

「無個性だった僕が」

 

 出久は胸を叩いた。

 硬質な音が轟く。

 

「ヒーローになりたかった僕が」

 

 もう一度、笑いが漏れた。

 

「こんなんになっちゃいました」

 

 声が夜の街へ響き渡る。

 

 笑顔は歪み、瞳から涙が流れ落ちた。

 

「ねえ、オールマイト!」

 

 巨大な身体を屈め、出久はオールマイトの顔を覗き込む。

 

「見てくださいよ!」

 

 骨に縁取られた緑色の瞳が、大きく見開かれていた。

 

「こんなに!」

 

 拳を掲げる。

 

「こんなにさあ!」

 

 その声は怒鳴り声でありながら、助けを求める悲鳴にも聞こえた。

 

「個性、手に入れたんですよ!」

 

 一つではない。

 二つでもない。

 いくつもの力が、出久の身体の中で蠢いている。

 幼い頃に喉から手が出るほど欲しかったもの。

 

 個性。

 

 人を救うために必要だと信じていた力。

 それが今は、彼から人間の形を奪っていた。

 

「僕、もう無個性じゃないんです!」

 

 笑いながら両腕を広げる。

 

「これなら誰にも、何も言われない!」

 

「役立たずなんて言われない!」

 

「夢を見るななんて、笑われない!」

 

「だって、こんなに強くなった!」

 

 最後の言葉だけが、掠れた。

 

 出久は笑顔を浮かべたまま、オールマイトを見つめていた。

 褒めてほしいのか。

 否定してほしいのか。

 自分でも分からない。

 

 ただ、あの日聞けなかった答えの代わりに、この醜く膨れ上がった身体を突きつけている。

 

 オールマイトは何も言えなかった。

 力強く見開かれていた瞳が伏せられる。

 大きな拳から、少しずつ力が抜けていった。

 平和の象徴の顔に浮かんでいるのは、怒りでも敵意でもない。

 

 深い苦痛だった。

 その傷が生まれるまで、自分が何も知らずにいたことを悔いる顔だった。

 

「……緑谷少年」

 

 オールマイトが顔を伏せる。

 

 その声は、今まで聞いたことがないほど弱々しかった。

 

「君は……」

 

 出久の笑いが止まる。

 

「今からでも──」

 

「薄っぺらいことを言うな!」

 

 怒声が弾けた。

 

 オールマイトが顔を上げるより早く、出久の巨体が動いた。

 

 踏み込む。

 床が爆ぜる。

 筋骨発条化によって圧縮されていた脚部の筋肉が一気に解放され、白い巨体が数歩の距離を消し飛ばした。

 

「──ッ!」

 

 オールマイトの瞳が見開かれる。

 

 拳が迫っていた。

 先ほど爆豪を打ち抜いたものより、さらに大きく、硬く、幾重もの骨板に覆われた拳。

 オールマイトは咄嗟に腕を上げる。

 

 だが、構えきるよりも早く。

 

 出久の拳が、頬へ叩き込まれた。

 

 轟音。

 空気が破裂した。

 衝撃波が店内を駆け抜け、床に残っていた椅子も瓦礫も、まとめて外へ吹き飛ばされる。

 

 オールマイトの巨体が宙へ浮いた。

 黄金色の髪が大きく揺れる。

 そのまま一直線に崩れた外壁を抜け、夜の通りへ吹き飛んでいく。

 

「オールマイト!」

 

 規制線の向こうから、幾つもの叫び声が上がった。

 

 警察官たちが盾を構え直す。

 ヒーローたちが一斉に動き出す。

 オールマイトの身体は道路を跳ね、アスファルトを抉りながら数十メートル先まで滑っていった。

 最後には停車していた装甲車の側面へ激突し、鋼板を大きく歪ませて止まる。

 

 静寂は一瞬だった。

 

 すぐに怒号と指示が飛び交い、赤色灯の光が激しく揺れる。

 その騒ぎを、出久は崩れた壁の中から見下ろしていた。

 

 殴り抜いた拳が震えている。

 怒りのためか。

 衝撃のためか。

 自分でも分からない。

 

「今からでも、何だよ」

 

 低い声が漏れる。

 笑いはもうなかった。

 

「今からでも戻れる?」

 

「今からでもやり直せる?」

 

 拳を握り締める。

 骨の装甲へ細い亀裂が走り、すぐに再生して塞がった。

 

「無理に決まってるじゃないですか!」

 

 歪んだ装甲車の側面から、金属が軋む音がした。

 

 車体へ深く沈み込んでいたオールマイトの肩が動く。

 次いで、大きな掌が潰れた鋼板を押し返した。

 べこん、と重い音を立てて装甲がさらに歪み、その窪みからオールマイトが身を起こす。

 

 靴底が道路へ着く。

 膝を突くことさえなかった。

 首を左右へ傾け、頬へ触れる。

 殴られた箇所には薄く埃が付着していたが、腫れも出血も見当たらない。

 口元に血が滲んでいるわけでもなければ、呼吸が乱れている様子すらなかった。

 

 出久の拳によって数十メートルも吹き飛ばされ、アスファルトを抉り、装甲車へ叩きつけられたにもかかわらず。

 

 オールマイトは、何事もなかったかのように立っていた。

 

「……やっぱり」

 

 崩れた壁の上から見下ろし、出久が呟く。

 驚きはなかった。

 ただ、確かめた事実を頭の中で整理するような声音だった。

 

「こんなんじゃダメージは無いか」

 

 出久は先ほど殴り抜いた右拳へ視線を落とした。

 骨の装甲には細かな亀裂が残り、その隙間から生じた新しい骨質が、ひびを押し広げながら修復を続けている。

 

 痛めたのは、自分の方だった。

 

 複数の個性を同時に重ねた、現時点で出せる最高に近い一撃。

 爆豪を一撃で沈めた拳。

 それを無防備に近い状態で顔面へ受けながら、目の前の男には目立った損傷がない。

 

 出久の口元が、僅かに吊り上がった。

 かつてなら、その強さに胸を躍らせていただろう。

 やはりオールマイトは凄い。

 さすが平和の象徴だと、目を輝かせてノートを取り出していたはずだった。

 

「……さすがですね」

 

 出久は呟き、崩れた外壁の縁へ足をかけた。

 白い鉤爪がコンクリートを砕く。

 腰を落とすこともなく、そのまま巨体を前へ傾けた。

 

 落下する。

 

 何人もの警察官が反射的に後退し、機動隊の盾が一斉に持ち上がった。

 

「来るぞ!」

 

「散開しろ!」

 

 怒号が飛び交う中、出久は規制線の内側へ落ちた。

 その着地点には、赤色灯を回したままのパトカーが一台残されていた。

 巨大な足が、車体の屋根を踏み抜く。

 

 轟音とともに窓ガラスが四方へ弾け飛び、屋根が座席まで一息に沈み込んだ。

 車体全体が押し潰され、前後のタイヤが破裂する。

 回転していた赤色灯が一度だけ激しく明滅し、罅割れたレンズの下で光を失った。

 

 出久は足元すら見なかった。

 

 踏み潰したパトカーを瓦礫と同じように乗り越え、道路へ降りる。

 

 白い骨の棘が街灯を遮り、その影が周囲の警察官たちを覆った。

 

 銃口が一斉に出久へ向く。

 捕縛用の装備を構えたヒーローたちも左右へ展開し、いつでも飛びかかれるよう腰を落としたが、誰一人として先に手を出せない。

 

 彼らの視線の先には出久だけでなく、真正面に立つオールマイトがいた。

 平和の象徴は構えを取っていなかった。

 拳を下ろしたまま、近づいてくる教え子を見つめている。

 

 近くで指揮を執っていた塚内が、ついに堪えきれず前へ出る。

 

 防弾ベストの上から拳銃へ手を添えながら、旧知の友へ向かって怒鳴った。

 

「オールマイト!」

 

 張り詰めた現場へ、その声が鋭く響く。

 

「元教え子とはいえ、殴られっぱなしのつもりか!?」

 

 オールマイトは振り返らない。

 

「もう投降の意思がないのは明らかだ! 警告は十分した!」

 

 塚内の額には汗が滲んでいた。

 怒鳴り声の裏にあるのは苛立ちだけではない。

 オールマイトへの焦りと、なおも接近してくる出久に対する警察官としての危機感だった。

 

「彼は警察車両を破壊し、君を攻撃した! 周囲には大勢の警官と民間人がいるんだぞ!」

 

「分かっている」

 

 オールマイトの答えは静かだった。

 

「だったら止めろ!」

 

 塚内はさらに声を張り上げる。

 

「これ以上の説得は無理だ! 被害を広げるだけだ!」

 

 周囲の警察官たちも、無言のままオールマイトを見ていた。

 誰もが同じことを考えている。

 目の前にいるのは、傷ついた生徒である以前に、複数の個性を操り、警察の包囲を正面から踏み越えた危険なヴィランだ。

 

 情を挟めば死者が出る。

 

 オールマイト自身が、そのことを誰より理解しているはずだった。

 

 規制線の内側には、なおも多くの警察官が残っている。

 機動隊の盾は出久へ向けられていたが、その足並みは僅かに乱れ、巨大な白い怪物が一歩進むたび、誰かの靴底が無意識に後ろへ滑った。

 

 左右へ展開したプロヒーローたちも同じだった。

 彼らは逃げてはいない。

 職務を放棄してもいない。

 

 それでも、出久がたった一度腕を振るえば、何人が巻き込まれるのか。

 その巨体が速度を得たまま包囲を突破すれば、背後の報道陣や避難の遅れた市民へ到達するまで、どれほどの時間が残されるのか。

 

 答えを考える必要すらなかった。

 

 数秒。

 

 あるいは、それ以下。

 

 オールマイトの視線が、出久の背後へ向く。

 踏み潰されたパトカー。

 崩落寸前のビル。

 割れた窓の向こうからこちらを窺う敵連合。

 

 さらに遠く、何重にも張られた規制線の外側には、爆豪と麗日がいる。

 

 警察官に押さえられながらも、二人ともこちらを見ていた。

 

 爆豪は負傷した腹を庇い、今にも規制線を越えようと身体を前へ傾けている。

 麗日は青ざめた顔で両手を胸元へ握り込み、出久から目を離せずにいた。

 

 守らなければならない。

 

 彼らを。

 

 ここにいる全員を。

 

「……」

 

 オールマイトの拳が僅かに震えた。

 

 平和の象徴として考えるなら、答えは既に出ている。

 

 複数の個性を備え、極めて高い戦闘力と耐久力を持ち、投降勧告を拒絶したヴィラン。

 しかも警察車両を破壊し、自分へ明確な攻撃を加えている。

 即座に無力化すべき脅威だった。

 

 だが、教師として目を向ければ

 骨の鱗の奥にいるのは、かつて自分へ憧れ、無個性でもヒーローになれるかと尋ねたかった少年だった。

 正しい力の使い方を教えることもできず。

 苦しみに気づくこともできず。

 敵の手へ渡るまで、何一つ救えなかった教え子。

 

 その少年を、今度は自分の拳で打ち倒す。

 

 それが正しいのか。

 

 殴れば、さらに遠ざかるのではないか。

 力で屈服させれば、出久が抱いている絶望を証明してしまうのではないか。

 その迷いを見透かしたように、出久が一歩踏み出した。

 

 アスファルトが砕ける。

 

 警察官の一人が息を呑み、引き金へかけた指に力を込めた。

 

「オールマイト!」

 

 塚内の怒声が再び飛ぶ。

 その言葉が、迷いを断ち切った。

 

 オールマイトは目を閉じる。

 救うことと、戦わないことは同じではない。

 手を差し伸べ続けることと、好きなだけ傷つけさせることも違う。

 

 ここで出久を止めなければ、誰かが傷つく。

 出久自身も、もう後戻りできないほどの罪を重ねてしまう。

 それを許すことこそ、教師としての逃避だった。

 

 オールマイトはゆっくりと息を吐いた。

 

「……すまない」

 

 誰へ向けた言葉なのか。

 

 周囲の警察官へか。

 塚内へか。

 それとも、目の前の教え子へか。

 出久には分からなかった。

 

 ただ。

 

 オールマイトの足が、僅かに開く。

 右足が後方へ引かれ、重心が沈んだ。

 下げられていた両腕が持ち上がる。

 

 左拳を前へ。

 右拳を頬の横へ。

 巨大な肩から余分な力が抜け、鍛え上げられた全身が一つの攻撃機構として噛み合っていく。

 

 テレビで何度も見た。

 数え切れないほど映像を停止し、角度を変え、ノートへ書き写した構え。

 オールマイトのファイティングポーズ。

 

 その完成された姿を目の前にして、出久の口元が吊り上がった。

 

「……ようやく」

 

 骨の鱗が擦れ合う。

 出久も腰を落とし、右拳を引いた。

 

 喜びに似た熱が、初めて胸の奥へ灯った。

 自分の力がどこまで通用するのか、確かめられる。

 複数の個性を組み合わせて造り上げたこの身体で、あの平和の象徴と正面から──

 

 そこまで考えた瞬間。

 

 視界が爆ぜた。

 

「戦う気に──ッ!?」

 

 何が起きたのか、理解できなかった。

 突然、とてつもない衝撃が頭部へ炸裂した。

 頬を覆っていた骨の鱗がまとめて砕け、白い破片が血飛沫とともに宙へ舞う。

 首が横へ捻れ、巨体がその場で半回転した。

 

 遅れて轟音が耳へ届く。

 

 空気が破裂し、周囲の警察官たちの制服が激しくはためいた。

 

 出久は二歩、三歩とよろめいた。

 足元のアスファルトを鉤爪が抉る。

 

 何だ。

 

 今のは。

 

 殴られた。

 

 そう理解するまでに、数秒を要した。

 出久はふらつきながら顔を戻す。

 

 オールマイトは、先ほどとほとんど同じ位置に立っていた。

 前へ出した拳から白い骨片が零れ落ちている。

 

 踏み込んだ姿も。

 拳が迫る瞬間も。

 何一つ見えなかった。

 

「速──」

 

 言葉を発し終える前に、オールマイトの姿が消えた。

 

 次の瞬間、出久の眼前で巨大な拳が膨れ上がる。

 

 咄嗟に両腕を持ち上げようとする。

 間に合わない。

 二発目が、砕けた鱗の隙間へ突き刺さった。

 

 頭蓋が揺れる。

 視界が白く染まり、膝が沈む。

 骨の鱗は確かに衝撃を受け止めていた。

 常人なら粉砕される一撃を、分厚い装甲が僅かにでも緩和している。

 

 だが、それだけだった。

 

 鱗があろうがなかろうが、身体の奥まで突き抜ける衝撃に大差はない。

 骨が砕けなければ、その内側にある脳が揺さぶられる。

 皮膚が裂けなければ、その奥にある筋肉と内臓が潰される。

 

 守れていない。

 

 出久が絶対の防御だと思っていた装甲は、オールマイトの拳を前にして、僅かな時間を稼ぐ外殻でしかなかった。

 

「ぐ、あ……!」

 

 出久は反撃しようと右腕を振るう。

 

 その腕が動き始めた時には、オールマイトは既に懐から消えていた。

 風だけを殴る。

 直後、脇腹へ衝撃が食い込んだ。

 分厚い骨板が陥没する。

 身体が横へ折れたところへ、反対側から拳が叩き込まれる。

 

 攻撃の軌跡が見えない。

 

 ただ、衝撃だけが次々と身体の中へ生まれていく。

 殴られた音が重なり、一つの長い轟音へ変わった。

 

「がッ、ぐ……ああっ!」

 

 出久は腕を交差させ、顔を守ろうとする。

 

 オールマイトの拳はその防御ごと打ち抜いた。

 前腕を覆う骨板が砕け、腕が自分の顔面へ叩きつけられる。

 身体が浮き上がったところへ腹へ拳を受け、地面へ落ちる前に顎を跳ね上げられた。

 

 足が道路から離れる。

 巨体が宙へ浮いた。

 オールマイトは逃がさない。

 出久の身体が落下する地点へ先回りし、拳を振るう。

 

 背中へ一撃。

 出久は地面へ叩き落とされた。

 アスファルトが陥没し、放射状の亀裂が道路を横断する。

 

 肺から空気が絞り出された。

 

「なんでっ……!」

 

 立ち上がれない。

 

 反撃できない。

 

 相手の姿を捉えることさえできない。

 

 AFOから与えられた個性。練り上げた組み合わせ。

 爆豪を一撃で沈めた膂力も、爆破を弾く骨の装甲も、強化された五感も。

 

 そのすべてが、最強の前では足りなかった。

 オールマイトは必殺技の名を叫ばない。

 笑ってもいない。

 沈痛な表情を浮かべたまま、ただ一撃ずつ、確実に出久の戦闘能力を削っていく。

 拳を振るうたび、その瞳が苦しげに歪む。

 

 それでも止めない。

 

 止めるわけにはいかない。

 

 出久の左拳が、闇雲に振り上げられた。

 オールマイトは僅かに顔を傾けて避ける。

 その動作には、かつての教え子へ向けた躊躇も、怪物への恐怖もなかった。

 

 次の拳が、出久の顔面へ真正面から叩き込まれる。

 骨の仮面が砕け散った。

 

 出久の巨体が道路を転がり、踏み潰したパトカーへ激突する。

 既に潰れていた車体がさらに折れ曲がり、車底が路面を擦りながら数メートル押し流された。

 

「……う、そだ」

 

 出久は潰れた車体へ腕をつき、立ち上がろうとする。

 

 指に力が入らない。

 視界の中で、オールマイトが何人にも分裂して見えた。

 

「僕は……こんなに……」

 

 強くなったはずだった。

 もう無個性ではない。

 誰にも見下されない力を手に入れた。

 

 幾つもの個性を重ね、怪物と呼ばれるほどの身体になった。

 

 それなのに。

 

「すごいや、オールマイト……まるで歯が……」

 

 警察官も。

 ヒーローも。

 敵連合も。

 

 誰一人、両者の間へ割って入ることができなかった。

 

 戦いではない。

 少なくとも、対等なものではなかった。

 出久がどれほど個性を重ねても、オールマイトには触れることすらできない。

 

 一方的な、制圧。

 

 最強のヒーローが本気で一人の敵を止めようとした時、そこに駆け引きも攻防も存在しなかった。

 ただ、追いつけない速度で拳が振るわれ。

 耐えられない威力が何度も叩き込まれる。

 

 オールマイトの表情は変わらない。

 勝利を誇ってはいなかった。

 怒りを露わにもしていない。

 ただ苦しげに眉を寄せ、倒れた教え子を見つめている。

 

 その顔が、出久には耐え難かった。

 

「……そんな顔、しないでくださいよ」

 

 掠れた声を絞り出す。

 

「オールマイトは、笑ってなきゃ……みんなを安心させなきゃ……」

 

 その時だった。

 

 耳元で、小さな電子音が鳴った。

 

 出久の声が止まる。

 

 破損したスーツの襟元。

 骨の装甲へ半ば埋もれるように取り付けられていた通信機が、淡い緑色の光を点滅させている。

 衝撃によって壊れたと思っていた。

 オールマイトの連撃を浴び、外装には亀裂が入り、受信状態を示す表示も消えていたはずだった。

 

 しかし今。

 

 微かな雑音が響いた。

 

『──聞こえるかい』

 

 穏やかな声だった。

 怒号とサイレンが飛び交う戦場には、あまりにも似つかわしくない。

 静かで。

 落ち着いていて。

 怯えた子供を安心させるような、優しい声音。

 

 出久の瞳が大きく見開かれた。

 

「……AFO」

 

 オールマイトの表情が変わる。

 

 出久は襟元の通信機へ、震える手を伸ばした。

 

『ああ。僕だよ』

 

 雑音の向こうから届く声は、少しも乱れていなかった。

 まるで、この惨状を最初から見ていたかのように。

 出久が立つことすらできず、道路へ膝をついていることも。

 砕けた鱗の隙間から血を流していることも。

 オールマイトを前に、手も足も出なかったことも。

 

 そのすべてを知った上で、声の主は穏やかに語りかけてきた。

 

『よく頑張ったね、出久君』

 

 その一言が耳へ届いた瞬間、出久の肩から力が抜けた。

 張り詰めていた糸が切れる。

 痛みを堪えるために食い縛っていた歯が緩み、浅かった呼吸が震えながら吐き出された。

 

『今回は、少し準備が足りなかった』

 

 声の主──オール・フォー・ワンは、幼子へ言い聞かせるように続けた。

 

『まだまだ、オールマイトの相手をするには足りなかったようだね』

 

 その言葉は明確な敗北の指摘だった。

 だが、不思議と責められている気はしなかった。

 失望もされていない。

 見捨てられてもいない。

 間違えたなら直せばいい。足りないなら与えればいい。

 今回できなかったことは、次にできるようになればいい。

 

 そう信じて疑わない声だった。

 

「……ごめんなさい」

 

 出久の口から、自然と言葉が漏れる。

 

「貰った個性……上手く、使えなくて」

 

『謝る必要はないよ』

 

「でも……」

 

『君は初めて、彼と戦ったんだ』

 

 穏やかな声のまま、オール・フォー・ワンは語る。

 

『これほどの経験を得られた。それだけでも十分な成果だよ』

 

 出久の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。

 立ち上がれない現実も。

 砕かれた身体の痛みも。

 目の前に立つオールマイトへの恐怖も。

 

 通信機から聞こえる声に触れるたび、遠ざかっていった。

 

 オールマイトは、その変化を黙って見ていた。

 

 先ほどまで狂気と怒りに染まっていた出久の顔が、安堵へ緩んでいる。

 自分がいくら言葉を尽くしても届かなかった少年へ、通信機の向こうの男は、ほんの数言で入り込んだ。

 

 その事実が、胸を締めつける。

 

「緑谷少年」

 

 オールマイトが一歩踏み出す。

 

「その通信を切りなさい」

 

 出久の表情が強張った。

 通信機を守るように、巨大な手で襟元を覆う。

 

『相変わらずだね、オールマイト』

 

 オール・フォー・ワンの声は、なおも穏やかだった。

 

『君は自分の声だけが、誰かを救えると信じている』

 

「黙れ」

 

『彼の話を聞かなかった君が、今さら何を言えるんだい』

 

 オールマイトの拳が握られる。

 通信機越しであっても、その声を聞き間違えるはずがない。

 自らの師を奪い、多くの人間の人生を歪め、今また一人の少年を手中へ収めている男。

 

「生きていたとはな、AFO」

 

 その名が発せられた瞬間、周囲の空気が凍りついた。

 塚内が目を見開く。

 警察官たちの間に動揺が走り、プロヒーローたちが一斉に通信機へ意識を向けた。

 敵連合の潜む建物からも、ざわめきが聞こえる。

 

 しかし、出久だけは違った。

 恐怖しない。

 警戒しない。

 

 通信機を抱えるように手を添え、救いを求める子供の目で小さな機械を見つめていた。

 

『もう大丈夫だよ、出久君』

 

 オール・フォー・ワンが告げる。

 

『君は十分に頑張った』

 

 オールマイトが身を沈めた。

 今すぐ出久を確保しなければならない。

 その通信が意味するものを、本能が警告している。

 

「緑谷少年、こちらへ来るんだ!」

 

 差し伸べられた手を、出久は見た。

 かつて何よりも欲しかった手。

 夢の中で幾度となく想像した、平和の象徴の手。

 

 けれど今、その手へ向かおうとは思わなかった。

 

 通信機の向こうから、変わらぬ優しい声が聞こえる。

 

『僕が──』

 

 一瞬だけ雑音が混じる。

 次いで、その言葉は恐ろしいほど明瞭に響いた。

 

『今から行くからね』

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