出久の足元へ、黒い泥が一滴、ぽたりと零れる。
「……?」
塚内が目を細める。
アスファルトの亀裂から染み出したようにも見えたその泥は、しかし重力を無視するようにゆっくりと広がっていった。
どろり。
どろり、と。
まるで生き物が呼吸を繰り返すように脈打ちながら、黒い液体が出久の周囲を円状に覆っていく。
「何だ、あれは……!」
プロヒーローの一人が叫ぶ。
機動隊員たちが盾を構え直し、銃口が一斉に泥へ向けられた。
しかし、誰も引き金を引けない。
泥はなおも増殖を続けていた。
アスファルトを侵食し、踏み潰されたパトカーを飲み込み、道路一帯を黒く染め上げていく。
やがて、その中央がゆっくりと盛り上がった。
粘性を持つ壁が天へ向かって伸びる。
左右へ裂ける。
漆黒の泥が巨大な門のような形を取り、内側には光一つない闇だけが広がっていた。
「AFO……」
オールマイトの声が低く沈む。
かつて何度も相対した、敵連合の移動手段。
その異様な黒い門が、今まさに目の前で形成されていた。
「全隊警戒!」
塚内が怒鳴る。
「絶対に門へ近づくな!」
警察官たちが一斉に散開する。
ヒーローたちも包囲陣形を組み替え、誰もが黒い門だけを見据えた。
静寂が落ちる。
泥が揺れた。
ゆっくりと。
闇の向こうから、小さな車輪の音が響いてくる。
きぃ、と。
金属が軋む音。
それは戦場には似つかわしくないほど静かで、穏やかだった。
やがて。
一台の車椅子が、闇の中から姿を現す。
誰も息をすることすら忘れた。
車椅子へ座る男は、人の形をしているだけだった。
頭部は半ばから失われている。
残された頭蓋も激しい熱で焼き潰されたように黒く爛れ、皮膚は融解した蝋のように歪んで癒着していた。
目はない。
鼻も存在しない。
耳の輪郭すら失われ、顔と呼べるものは既に原形を留めていなかった。
呼吸を補助するマスクが、焼失した顔面を覆っている。
その内側で、規則正しい空気の流れる音だけが響いていた。
首から胸部へ目を落とせば、その異様さはさらに増す。
胸郭の大半は人工装置へ置き換えられていた。
開いた胸部を覆う透明な装甲板の下では、複雑な機械が絶え間なく駆動している。
無数の管。太いもの。細いもの。
赤い液体が流れるもの。
淡い青色の薬液が循環するもの。
それらが蜘蛛の巣のように全身へ伸び、失われた内臓の代わりとして男の命を繋ぎ止めていた。
車椅子の背後には大型の生命維持装置が一体化している。
無数の計器が脈拍を刻み、ポンプが低い駆動音を響かせる。
そのすべてがなければ、この男は一秒たりとも生きてはいられない。
それほどまでに肉体は破壊されていた。
だが。
その男から放たれる存在感だけは、誰よりも巨大だった。
まるで、この場に立つ全員を見下ろすように。
ゆっくりと首が僅かに動く。
焼け爛れた顔には表情など存在しない。
それでも、不思議と笑ったように感じられた。
「…………」
オールマイトの瞳が大きく見開かれる。
拳が震えた。
長い歳月を経ても忘れることのなかった悪夢。
師を奪い、自らも死闘の末に倒したはずの宿敵。
その姿が、目の前にあった。
「念入りに止めを刺した、頭部も潰したというのに……また立ちはだかるか、AFO!」
車椅子の男は何も答えない。
代わりに、その後ろから小柄な少女がひょいと顔を覗かせた。
「えへへ」
制服姿のまま、両手で車椅子のグリップを握っている。
金色の瞳が楽しげに細められた。
「先生ぇ、着きましたよ」
トガヒミコ。
彼女は鼻歌でも歌うような軽い足取りで車椅子を押し続ける。
戦場の緊迫感など微塵も感じていない。
「デク君、だいじょーぶですか?」
倒れた出久を見つけると、心配そうに首を傾げる。
「いっぱい殴られちゃいましたねぇ」
その言葉に反応したように、出久がゆっくりと顔を上げた。
「……AFO」
血に濡れた唇が震える。
その声には、先ほどまでオールマイトへ向けていた怒りも、狂気も残っていなかった。
安心した子供のような響きだけがある。
車椅子は出久のすぐ隣で止まった。
生命維持装置が一定のリズムで駆動音を鳴らす。
無数の管がわずかに揺れる。
そして。
人工呼吸器を通した穏やかな声が、静かに響いた。
「お待たせ、出久君」
オール・フォー・ワンの指先が、ごく僅かに動く。
「もう大丈夫、私が来たからね」
呼吸器を介した穏やかな声だった。
その一言に応えるように、黒い泥が再び脈打つ。
どろり。
地面を覆っていた泥だけではない。
「……っ!」
スピナーが口を押さえた。
喉の奥から、冷たい何かがせり上がってくる。
「ご、ほっ……!」
黒い泥だった。
吐き出された泥は地面へ落ちることなく空中で渦を巻き、そのままスピナーの身体を包み込んでいく。
「またかよ!」
トゥワイスも咳き込み、口元から溢れた泥へ苦笑を浮かべた。
「便利過ぎるぜ! 助けて怖い!」
相反する言葉を吐きながら、彼もまた黒い渦へ飲み込まれていく。
コンプレス。
マグネ。
敵連合の構成員たちが次々と同じ現象に襲われた。
まるで体内へ最初から存在していたかのように、黒い泥が口元から溢れ出し、瞬く間に全身を覆っていく。
誰一人として抵抗しない。
それが撤退の合図だと理解しているからだ。
「わぁ」
トガヒミコは口元から零れ始めた泥を見て、嬉しそうに笑った。
「来たばっかりなのに」
頬を膨らませる。
不満げに呟きながらも、その身体は口から溢れ出る泥へ包まれ始めていた。
トガの姿が泥に溶け始める、その瞬間だった。
オール・フォー・ワンの右手が、ゆっくりと持ち上がる。
細く痩せ細った指先が、血塗れの出久へ向けられた。
「さて次は、出久君──」
転送個性の発動。
その意図を理解したのは、誰よりも早くオールマイトだった。
「させるかぁぁぁぁッ!」
爆発にも似た踏み込みがアスファルトを砕く。
地面が陥没し、白煙を引き裂いて黄金の巨体が一直線に突進した。
誰も反応できない。
ただ一人、AFOだけが微かに顔を動かした。
しかし。
その肉体は、もはや全盛期のものではない。
生命維持装置によって辛うじて繋ぎ止められた、壊れた身体。
回避などできるはずもなかった。
「ッ!!」
轟音。
オールマイトの拳が、車椅子ごとオール・フォー・ワンを横殴りに叩き飛ばした。
金属が悲鳴を上げる。
車椅子は粉々に砕け、固定具が千切れ、支柱が宙を舞う。
焼け爛れた男の身体が、そのまま道路へ投げ出された。
同時に。
生命維持装置が引きちぎられる。
無数のチューブが弾け飛び、薬液が噴き出し、酸素ボンベが火花を散らしながらアスファルトを転がる。
ごろり。
ごろごろ、ごろごろ、と。
巨大な装置を引きずったまま、オール・フォー・ワンの身体は道路を何度も転がった。
透明な装甲板が砕ける。
計器が破裂する。
警告音が甲高く鳴り響き、千切れた管の先から赤い液体が黒い路面へ飛び散った。
「先生!!」
泥へ溶けかけていたトガが叫ぶ。
敵連合の面々も一瞬だけ動きを止めた。
しかし泥は容赦なく彼らを飲み込み続ける。
その間にも。
オールマイトは追撃しなかった。
いや、できなかった。
彼は一歩踏み出すと、傷付いた出久を視界へ収めながら、その前へ立ちはだかる。
黄金の背中が少年を隠す。
道路へ転がり、生命維持装置に繋がれたまま横たわる宿敵を真っ直ぐ見据えた。
拳を固く握る。
「随分寝ぼけた采配だな、AFO」
低く、それでいて堂々たる声が響く。
「個性発動までが遅すぎて、あくびが出るぞ!」
その言葉にも、オール・フォー・ワンは応えなかった。
人工呼吸器の音だけが、かすかに鳴り続ける。
敵連合の最後の姿が、黒い泥へと溶けていく。
「先生、出久君をよろしくお願いしますね」
トガが名残惜しそうに手を振る。
その手首から先が泥へ崩れ、笑顔のまま闇へ消えた。
敵連合の姿が一人、また一人と消えていく。
やがて。
巨大な黒い門はゆっくりと縮み始めた。
どろり、と泥が地面へ沈み込み、数秒後には最初から何もなかったかのように黒い液体は消え失せる。
残されたのは。
オールマイト。
出久。
そして──道路へ転がる、一つの肉塊だけだった。
静寂。
生命維持装置の警告音も、先ほどまでの甲高い電子音から弱々しい断続音へ変わっている。
焼け爛れた身体はぴくりとも動かない。
砕けた透明装甲の隙間から覗く機械は停止寸前で、千切れたチューブから流れ出た血液と薬液が黒い水たまりを作っていた。
まるで、凄惨な事故現場へ放置された死体だった。
「……終わった、のか」
誰かが呟く。
それは安堵とも願望ともつかない声だった。
先ほどまで戦場全体を覆っていた、あの圧倒的な威圧感。
魔王がそこに立っているだけで全身を締め付けられるような重圧は、今は消えている。
緊張の糸が切れたように、一人の若い警察官が盾を下ろした。
「こいつがあの、闇の帝王……?」
「待て!」
塚内が制止するより早く、警察官は慎重な足取りで道路を進む。
横たわる男は微動だにしない。
警察官はごくりと唾を飲み込み、さらに一歩踏み出した。
その瞬間。
「近づくな!」
オールマイトの怒号が戦場へ響く。
「そいつは腐っても──」
言葉が終わるより早かった。
ぐしゃり。
道路へ投げ出されていた腕が、不自然な角度のまま跳ね上がる。
「なっ──」
警察官が目を見開く。
次の瞬間には、その手首が万力のような力で掴まれていた。
「離──ッ!?」
焼け爛れた肉体が、ぎしり、と音を立てながら起き上がる。
折れていたはずの背骨が軋み、砕けた胸部から火花が散る。
人工呼吸器が乱れた空気を吐き出した。
顔と呼べるものはない。
目もない。
それでも、その場にいた全員が理解した。
オール・フォー・ワンは、生きている。
警察官は必死に腕を引こうとする。
しかし、痩せ細った片腕とは思えないほど強い握力が骨ごと締め上げた。
「い、いや……!」
オール・フォー・ワンは何も言わない。
警察官が絶叫した。
全身が痙攣する。
何かが身体の奥底から無理やり引き剥がされるような、耐え難い苦痛。
黒い奔流が腕を伝い、焼け爛れた男の身体へ吸い込まれていく。
数秒後。
警察官の膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちた。
掴まれていた腕は解放される。
「個性が……」
警察官の身体が、力なくアスファルトへ倒れ込む。
「個性が……俺の、個性が……」
震える指先が、自らの喉元へ触れる。
呼吸はできている。
身体にも、目立った傷はない。
それでも、本人にだけは分かった。
生まれた時から自分の内側に存在し、手足と同じように扱ってきた何かが、根こそぎ消え失せている。
「下がれ!」
塚内が叫ぶ。
機動隊員たちが倒れた警察官を救出しようと動きかける。
だが、その足は一歩も前へ出なかった。
オール・フォー・ワンの身体に、異変が起きていた。
最初に動いたのは、折れ曲がった右腕だった。
骨が砕け、肘から先が力なく垂れ下がっている。
本来ならば、指一本動かせる状態ではない。
その袖口から、何かが這い出した。
ぬるり、と。
濡れた肉が擦れるような音を立て、白灰色の細長い器官が伸びていく。
「……なんだ」
塚内が息を呑む。
無数の触手が、壊れた腕の皮膚を押し広げながら溢れ出してくる。
それらは空中で絡み合い、捻れ、太い束へと変化した。
折れた上腕へ巻き付き、砕けた関節を外側から固定していく。
「まさか……」
倒れた警察官が、青ざめた顔を上げる。
「それは、俺の……」
彼の個性。
体内から自在に触手を生み出し、物を掴み、身体を支え、時には壁面すら移動するための力。
今しがた奪われたばかりの個性が、既にオール・フォー・ワンの肉体で発現していた。
触手は右腕だけに留まらない。
歪んだ左肩からも。
潰れた腰からも。
使い物にならなくなった両脚からも、次々と白灰色の器官が突き出していく。
千切れた筋肉を繋ぐ。
砕けた骨を締め付ける。
壊れた膝関節を包み込み、その代わりとなるように地面へ伸びた。
触手の先端がアスファルトを掴む。
まるで巨大な蜘蛛が脚を広げるように、異形の肢体が道路へ突き立てられた。
オール・フォー・ワンの上体が、ゆっくりと持ち上がる。
その動きは、あまりにも不安定だった。
半壊した胸部から火花が散り、露出した機械が激しく明滅する。
千切れかけた管の中では血液と薬液が逆流し、人工呼吸器も一度空気を送り込むたびに苦しげな雑音を吐き出した。
今にも崩れ落ちそうだた。
立ち上がるどころか、生きていること自体が異常に思える。
それでも。
触手によって無理やり吊り上げられるようにして、その男は立った。
人間の脚ではない。
地面へ突き立てた無数の触手が下半身を支え、震える両腕もまた別の触手によって固定されている。
焼け潰れた頭部が、僅かに持ち上がった。
その瞬間。
空気が変わった。
「…………っ」
誰かの喉が、小さく鳴る。
銃口を向けていた機動隊員の指が、引き金へ届く寸前で止まった。
プロヒーローの一人が個性を発動しようとする。
しかし、腕が動かない。
本能が、目の前の存在へ逆らってはならないと叫んでいる。
立っているだけで精一杯。
今にも倒れそうなほど衰弱した老人。
生命維持装置の大半を失い、他人から奪った個性で辛うじて四肢を補っているだけの瀕死の怪物。
それなのに。
誰も動けなかった。
塚内も。
警察官も。
集められたプロヒーローたちさえも。
視線を逸らすことすら許されない。
魔王。
その言葉だけが、全員の脳裏へ浮かぶ。
ただ一人。
オールマイトを除いて。
「皆、下がっていなさい」
静かな声だった。
オールマイトは出久を背後へ庇ったまま、拳を構える。
額に汗が流れていた。
全身の筋肉は張り詰め、呼吸も浅い。
全身から、微かに蒸気が漏れ出ている
その意味をこの場で唯一知る塚内は、恐怖を振り切ってなんとか銃を構え直した。
オールマイトの、ヒーローとしての活動限界が迫りつつある。
「無様だなAFO。何が魔王だ、タコの怪人じゃないか」
人工呼吸器が、ゆっくりと空気を吐き出す。
しゅう。
しゅう、と。
その音の合間から、掠れた声が漏れた。
「仕方がないじゃないか」
触手が一本、身体の均衡を保つように位置を変える。
右腕が持ち上がった。
腕そのものを動かしているのではない。
外側へ巻き付いた触手が、操り人形の糸のように四肢を持ち上げている。
「君が六年前に、僕の体を滅茶苦茶にしたからね」
穏やかな口調だった。
恨みも。
怒りも。
声を荒らげる様子すらない。
まるで、久方ぶりに会った古い友人へ愚痴でも零すように。
オール・フォー・ワンは、焼け潰れた顔をオールマイトへ向けた。
「しかし、君も随分と変わった」
見えているはずのない顔が、オールマイトの全身をなぞる。
黄金の巨体の内側に隠された、致命的な損傷を見透かすように。
「満身創痍じゃないか」
オールマイトの眉が動く。
「先ほどから、左足へ僅かに体重を逃がしている。六年前の内臓の損傷も癒えていないようだ」
人工呼吸器越しの声に、微かな笑いが混じる。
立っていることさえ奇跡に近いというのに、その態度だけは以前と何一つ変わらない。
オール・フォー・ワンは、触手に支えられた両腕を僅かに広げた。
その動作だけで胸部の装置が軋み、赤黒い液体が傷口から滴り落ちる。
身体は限界だった。
一歩踏み出せば、崩れ落ちてもおかしくない。
それでも、彼は泰然としていた。
「お互い、難儀な身体になったね。オールマイト」
言葉を区切るように、人工呼吸器が深く作動する。
「寄る年波には勝てないなあ」
「……よく言う」
オールマイトの拳が、ゆっくりと握り込まれる。
「老いるだけの時間を、貴様はどれだけ他人から奪ってきた」
「いやあまったく、心が痛む」
人工呼吸器が、しゅう、と乾いた音を鳴らした。
その言葉と同時に。
オール・フォー・ワンの肩口から伸びていた触手が、弾けるように動いた。
「来るぞ!」
オールマイトが叫ぶ。
白灰色の触手が、低く地面を這った。
先ほどまで身体を支えていたものとは別に、背中や脇腹、潰れた腰部から次々と新たな触手が生え伸びる。
アスファルトを擦り、蛇の群れのように四方へ散っていく。
「撃て!」
塚内の号令と共に、機動隊の銃が一斉に火を噴いた。
乾いた銃声が連続する。
弾丸が触手を貫いた。
白灰色の肉が弾け、黒ずんだ体液が道路へ飛び散る。
触手は大きくのけ反り、そのまま力なく地面へ落ちた。
「効いている!」
警察官の一人が声を上げる。
事実だった。
触手そのものは、強くない。
銃弾を弾くほど硬くもなければ、オールマイトと打ち合えるほどの力もない。
一本だけなら、成人男性でも押さえ込める程度の筋力しか持っていなかった。
プロヒーローたちも恐怖を振り払い、次々と個性を発動する。
火炎が触手を焼き払う。
圧縮された風が何本もの触手をまとめて切断する。
地面から突き出した石柱が、迫る触手を押し潰した。
「見掛け倒しか!」
ヒーローの一人が叫ぶ。
「本体を狙え!」
その声を聞いて。
オール・フォー・ワンは僅かに首を傾けた。
「見掛け倒し?」
人工呼吸器の奥から、笑うような空気が漏れる。
「ひどい言い様だなあ、それじゃあ」
切断された触手が、地面で蠢いた。
「何……?」
血溜まりの中で、千切れた肉片が膨らみ始める。
断面から新たな繊維が伸び、互いに絡み合う。
傷口が塞がる。
再生した触手が勢いよく跳ね上がり、銃を構えていた警察官へ襲いかかった。
「伏せろ!」
オールマイトが地面を蹴る。
一瞬で警察官との間へ割り込み、迫る触手を裏拳で叩き潰した。
肉片が爆ぜる。
だが。
オールマイトの腕へ触れた触手の先端が、赤く明滅した。
「……っ!」
次の瞬間、触手の表面から炎が噴き出す。
至近距離。
爆炎がオールマイトの上半身を包み込んだ。
「オールマイト!」
塚内の叫びが響く。
炎の中から、黄金の巨体が飛び出す。
腕の皮膚を焼かれながらも、オールマイトは出久の前から退かなかった。
「これはあの巡査の個性ではない、複数個性の併用か」
「正解」
オール・フォー・ワンの声は、どこまでも穏やかだった。
新たな触手が道路へ突き刺さる。
「その場の流れで頂戴した個性だが、土台としては悪くない」
触手の先端が一斉に開いた。
花弁のように肉が裂け、その内側から無数の孔が露出する。
「避けろ!」
プロヒーローが叫ぶ。
孔から黒い針が射出された。
豪雨のように降り注ぐ。
警察官たちは盾を構えるが、針は盾へ突き刺さった瞬間に膨張し、硬質な瘤へ変化した。
盾の重量が急激に増す。
「重っ──!」
支え切れず、機動隊員が盾ごと地面へ引き倒される。
その隙を縫って、別の触手が横から迫った。
鞭のようにしなり、倒れた隊員たちをまとめて打ち払う。
触手自体の打撃は軽い。
骨を砕くほどではない。
だが、触れた箇所から衝撃が増幅された。
「ぐあああッ!」
隊員たちの身体が、一斉に宙を舞う。
数メートル先へ投げ出され、パトカーへ叩きつけられた。
「重りとなる針に、衝撃増幅──慣らしのつもりか」
「まずい、全員散開しろ!」
オールマイトが命じる。
「固まるな!」
ヒーローたちが左右へ飛ぶ。
しかし、既に遅かった。
オール・フォー・ワンの背中から、一本の触手が天高く伸び上がる。
最初は腕ほどの太さしかなかった。
それが脈動する。
内部で何かが爆発的に増殖し、触手が膨張していく。
腕ほどの太さから、人の胴ほどへ。
さらに、電柱を上回るほどへ。
「巨大化……!」
触手の表面が盛り上がる。
白灰色だった皮膚を突き破り、黒く分厚い鱗が次々と形成された。
一枚ごとが盾ほどもある。
重なり合った鱗は金属質の光沢を帯び、火炎を浴びても焦げ跡一つ残らない。
「防御系の個性も重ねている!」
ヒーローの一人が警告する。
巨大化した触手は、既に周囲のビルの中層階へ届いていた。
その先端がゆっくりと曲がる。
まるで首をもたげる巨大な竜。
道路一帯へ、長い影が落ちた。
「全員伏せろ!」
オールマイトが叫ぶ。
巨大な触手が振り下ろされた。
道路が陥没する。
アスファルトが波打ち、停車していたパトカーが玩具のように跳ね上がった。
直撃を避けた警察官たちも、巻き起こった衝撃波で吹き飛ばされる。
「うわあああッ!」
機動隊の隊列が崩壊した。
盾が舞う。
銃が転がる。
巨大な触手は地面へ叩きつけられた勢いをそのまま利用し、横薙ぎに動いた。
「駄目だ、退け!」
横薙ぎの一撃が、ヒーローたちをまとめて呑み込む。
鱗の表面が彼らの身体を掠めただけで、衝撃が何倍にも増幅された。
プロヒーローたちが一斉に吹き飛ぶ。
そのまま背後の建物へ叩き込まれ、壁面が崩れ落ちた。
だが、触手は止まらない。
道路脇に立つ雑居ビルへ迫る。
分厚い鱗が外壁へ食い込んだ。
鉄筋が軋む。
窓ガラスが一斉に砕け散る。
そして。
巨大な触手は、ビルの中腹を丸ごと薙ぎ払った。
爆発的な破砕音。
コンクリートの壁が吹き飛び、柱がへし折れ、建物の上半分が支えを失う。
数百トンの瓦礫がゆっくりと道路に向かって倒れ込んだ。
「全員、建物から離れろ!」
塚内の怒号が響いた。
支えを失った雑居ビルの上半分が、軋みを上げながら傾いていく。
崩れた外壁から机や椅子、書類の束が吐き出され、砕けた窓ガラスが陽光を反射しながら降り注いだ。
折れた鉄骨が内部から突き出し、建物そのものが巨大な墓標となって道路を覆い尽くそうとしている。
警察官たちは負傷者の腕を肩へ回し、必死に引きずって退避する。
だが、間に合わない。
落下してくる瓦礫の範囲はあまりにも広く、道路へ倒れている者を全員運び出すには時間が足りなかった。
「オールマイト!」
塚内が叫ぶ。
黄金の巨体は、既に崩落地点の中心へ踏み込んでいた。
オールマイトは頭上を仰ぎ見る。
倒れ込むビル。
その内部に、人の気配はない。
外壁が破壊されたことで、各階の様子が露わになっていた。
机の上には物が残されているものの、逃げ遅れた人間の姿は見当たらない。
「建物の避難状況は!」
オールマイトが叫んだ。
「完了している!」
塚内は即座に答える。
「戦闘開始前に周辺一帯へ避難命令を出した! 内部に民間人はいない!」
オールマイトの表情が変わった。
瓦礫を受け止めるために広げていた両腕を下ろし、深く腰を落とす。
「ならば──」
膝へ力が込められる。
足元のアスファルトが、蜘蛛の巣状にひび割れた。
「TEXAS──」
爆音。
オールマイトが垂直に跳び上がった。
黄金の巨体が落下する瓦礫へ向かい、砲弾のように突き進む。
風圧が道路を走り、周囲の警察官たちの制服を激しくはためかせた。
「何を……!」
ヒーローの一人が目を見開く。
オールマイトは空中で身体を捻った。
右腕を引く。
肩から背中、腰、脚へ至るまで、全身の筋肉が一本の連鎖となって拳へ力を送り込む。
その拳が狙うのは、瓦礫の一部ではない。
崩れ落ちるビル、その全体。
「SMAAAAAASH!!!!」
拳が振り上げられた。
真正面から、数百トンの瓦礫へ叩き込まれる。
拳の直撃したコンクリートが粉砕され、そこから衝撃が波紋のように広がり、壁が、床が、柱が、内部を走る鉄骨までもが次々と砕け散った。
巨大な建造物が、一瞬で無数の破片へ変わる。
拳の先から生じた風圧が、粉砕された瓦礫を地上へ落とすことなく空へ巻き上げた。
コンクリート片が上昇する。
砕けたガラスが舞う。
捻じ切られた鉄骨すらも、暴風に煽られて道路の外側へ押し流されていく。
「伏せろ!」
塚内が叫び、警察官たちが頭を抱えて身を低くする。
頭上を影が通り過ぎた。
瓦礫は無秩序に飛び散っているのではない。
オールマイトが生み出した上向きの暴風によって、負傷者たちのいる道路中央を避けるように巻き上げられ、そのまま人のいない区画へ降り注いでいく。
大きな破片は遠方の無人の道路へ。
細かな破片は渦を巻きながら、崩壊した建物の敷地内へ。
数秒前まで人々を押し潰そうとしていた数百トンの瓦礫は、その大半が細かな破片となり、誰一人として下敷きにすることなく地上へ落ちた。
遅れて、粉塵が街路を覆う。
誰もが身を伏せたまま、何が起きたのか理解できずにいた。
やがて風が粉塵を押し流す。
負傷した警察官たちの周囲には、小石ほどの破片がいくつか転がっているだけだった。
倒れかけていたビルの上半分は、跡形もない。
そして。
オールマイトが、空からゆっくりと降りてきた。
両足がアスファルトへ着く。
僅かに地面が沈んだが、それ以上の被害は生じなかった。
「……助かった」
瓦礫の下敷きになるはずだった警察官が、呆然と呟く。
隣にいたヒーローが頭上を見回す。
誰も潰されていない。
巻き込まれた者もいない。
崩落した建物の破片は、周囲の避難済み区画にだけ落とされている。
「全部……計算して打ち上げたのか」
「ビルを砕くだけじゃない」
別のヒーローが、震える声で続ける。
「風の向きまで制御して、負傷者を避けた……」
驚愕は、やがて歓声へ変わった。
「さすがオールマイトだ!」
「助かったぞ!」
警察官たちが声を上げる。
地面へ倒れていた者たちさえも顔を上げ、黄金の背中を見つめた。
絶望に覆われていた戦場へ、僅かな希望が戻る。
巨大な触手を前に動けなくなっていたプロヒーローたちも、再び立ち上がった。
「これが平和の象徴……」
若い警察官が、感嘆を込めて呟いた。
「ヴィランなんかに負けるわけがない!」
塚内だけは、賞賛の声へ加わらなかった。
誰よりも近くで、オールマイトを見ていたからだ。
「オールマイト……もう……」
黄金の巨体から、白い蒸気が噴き出している。
先ほどまでは肌の表面を薄く覆う程度だった。
今は違う。
肩から。
背中から。
太い両腕から。
熱を帯びた蒸気が絶え間なく溢れ、オールマイトの輪郭を白く霞ませていた。
それは先ほどの一撃で生じた粉塵ではない。
消耗によって、変身を維持できなくなりつつある証拠だった。
「皆、下がるんだ……」
オール・フォー・ワンは、その姿をしばらく黙って眺めていた。
膝は震え、呼吸は乱れ、黄金の巨体は今にも崩れ落ちそうになっている。
かつて自分を打ち倒した男。
絶対に折れず、何度傷付けても立ち上がり続けた平和の象徴が、今は拳を構えることさえ満足にできずにいる。
人工呼吸器の奥から、低い音が漏れた。
「ふ、ふふ……」
それは、押し殺した笑いだった。
誰も動けない。
オールマイトの消耗を目の当たりにして安堵したのではない。
魔王が、心の底から喜んでいる。
その事実が、周囲の者たちの背筋を凍らせた。
「何が……可笑しい」
オールマイトが絞り出すように言う。
「いやあ、失礼」
オール・フォー・ワンは笑いを収めようとした。
だが、声にはまだ愉悦が残っている。
「嬉しくてね」
身体を支える触手が、ずるりと位置を変えた。
壊れた胸部から血液が溢れ、半壊した生命維持装置が不規則な警告音を鳴らす。
その姿はオールマイト以上に瀕死だった。
それでも、彼の声だけは弾んでいた。
「すごいじゃないか、オールマイト」
焼け爛れた頭部が、ゆっくりと左右へ揺れる。
「その身体で、まだあれだけの一撃を放てるとは思わなかった。正直、見誤っていたよ」
「貴様に……評価される必要はない」
「そう言うなよ」
オール・フォー・ワンは穏やかに続ける
「なら、次は……」
背中が膨らんだ。
破れた衣服の下で、何かが激しく蠢く。
「これでどうかな」
肉を押し広げ、白灰色の触手が一斉に飛び出した。
壊れた四肢を補うための触手とは別に、攻撃のためだけに作られた触手が次々と生成されていく。
二十本。
三十本。
数えることさえできない。
数十本の触手が空へ持ち上がり、街路の上に異形の森を作り出した。
硬質化。
再生。
巨大化。
筋力増強。
先ほど披露した力が、数十本すべてを起点として複雑に重ね合わされていく。
それぞれが異なる攻撃手段を持ち、異なる角度から、異なる対象を狙っていた。
「全員、退避しろ!」
オールマイトが叫ぶ。
だが、その声に先ほどまでの力はない。
「可能な限り遠くへ! 散開するんだ!」
警察官たちが負傷者を抱えて動き出す。
しかし、触手は既に彼らの頭上へ広がっていた。
逃げ道となり得る空間すべてを覆うように、数十本の異形がゆっくりと鎌首をもたげる。
攻撃範囲が広過ぎる。
一撃を防いでも、次が来る。
一本を破壊しても、残りがいる。
オールマイト一人では、全員を守れない。
「まずい……」
塚内が呟く。
オールマイトは踏み出そうとした。
その瞬間、膝が崩れる。
「ぐっ……!」
片手を地面へ突き、どうにか転倒を免れた。
視界が揺れる。
耳鳴りがする。
蒸気は止まらず、むしろ先ほどより激しく噴き出していた。
黄金の輪郭が、瞬間的に細くなる。
すぐに筋肉を膨張させて戻したが、もはや隠し切れない。
限界だった。
それでもオールマイトは顔を上げる。
眼前に広がる数十本の触手。
背後には出久。
周囲には、逃げ遅れた警察官とヒーローたち。
オールマイトの顔から、血の気が引いた。
「AFO……貴様!」
「さあ」
オール・フォー・ワンは楽しげに言った。
「今度は何人救えるかな」
その時だった。
「うおおおおおおおおおおおおお」
勇ましい若い男の声が響いた。
「……?」
塚内が目を見開く。
声は空からではない。
建物の陰でもない。
足元。
地中から聞こえてくる。
「何だ?」
警察官たちが混乱して周囲を見回す。
「うおおおおおおおお」
声がさらに大きくなる。
土を隔てているためか、少しくぐもっていた。
だが、その勢いは衰えない。
むしろ、凄まじい速度でこちらへ近付いている。
地面の下を、誰かが走っている。
オール・フォー・ワンの頭部が僅かに傾いた。
「この気配……」
声が真下まで迫る。
「うおおおおおおおおおおッ」
次の瞬間。
地面をすり抜けて、一人の男が飛び出した。
「なっ──!」
警察官たちが一斉に仰け反る。
砕けたわけではない。
穴が開いたわけでもない。
まるで最初から道路など存在しなかったかのように、その男の身体はアスファルトを透過して現れた。
真っ赤なマントが大きく翻る。
金色の髪。
鍛え上げられた肉体。
白を基調としたヒーローコスチュームの上を、緑色の稲妻が激しく走っていた。
現役のプロヒーローではない。
それでも、ヒーローを志す者なら誰もが知る、雄英BIG3の一角。
雄英高校三年生。
通形ミリオ。
地中から飛び出した勢いを殺さぬまま、ミリオは右腕を振り抜いた。
拳が、巨大化を始めていた触手の一本へ叩き込まれる。
「おおおおおッ!」
轟音。
緑色の稲妻が弾ける。
分厚い鱗に覆われようとしていた触手が、大きくひしゃげた。
鱗が砕ける。
肉が裂ける。
巨体が根元から持ち上がり、そのまま道路の反対側へ弾き飛ばされた。
「POWERRRRRR!!!!!!!!」