「透過箇所を、攻撃のたびに選択しているんじゃないですか?」
瓦礫の中から立ち上がった出久は、すぐには踏み込まなかった。
血に濡れた左手を開き、指先の感覚を確かめる。
「もうやめよう、緑谷君!」
ルミリオンが叫ぶ。
「これ以上続けたら、本当に身体が──」
出久は答えない。
代わりに、足元の瓦礫を蹴り上げた。
「っ!」
細かな石片が、ルミリオンの顔面へ殺到する。
攻撃ではない。
ただ視界を塞ぐだけの目眩まし。
ルミリオンは顔を透過させ、石礫をすり抜ける。
その瞬間。
出久の姿が左へ揺れた。
ルミリオンの目が追う。
だが、そちらへ飛び込んできたのは、投げつけられたコンクリート片だった。
「フェイント、だよね!」
本体は右。
地面すれすれまで身を沈めた出久が、低い姿勢から足払いを放つ。
ルミリオンは両脚を透過させた。
蹴りが空を切る。
出久はそのまま回転を止めない。
空振りした脚で路面を蹴り砕き、大量の粉塵を巻き上げる。
一瞬で視界が灰色に染まった。
「またか! しつこいね君も!」
ルミリオンは呼吸を止め、頭部を透過。
粉塵をすり抜ける。
その死角から、出久の拳が胸部へ飛び込んだ。
胸を透過。
拳が通り抜ける。
だが、それも本命ではない。
出久は振り抜いた拳を急停止させ、肘から伸びた骨槍を外側へ展開した。
狙いは、胸を透過したことで実体化したままの肩。
「くっ!」
肩まで透過範囲を広げる。
骨槍がすり抜ける。
さらに、出久の膝が腹部へ迫る。
腹を透過。
その直後、膝は寸前で止まり、代わりに足裏が地面を強く蹴った。
破片が下から跳ね上がる。
頭部を透過。
「やっぱり」
短い呟き。
次の瞬間には、出久はルミリオンの背後へ回り込んでいた。
左へ踏み込むように見せて、砕いた瓦礫を右へ蹴り飛ばす。
視線を誘導し、その裏側へ潜り込む。
「厄介だな!」
ルミリオンは後退しながら笑う。
「さっきまでより、ずっとやりにくいよね!」
出久は答えない。
折れた信号機の支柱へ拳を叩き込む。
金属が大きく歪み、反動で道路側へ倒れ込んだ。
ルミリオンの正面を塞ぐ。
それと同時に、出久は脇へ跳ぶ。
ルミリオンは倒れてくる支柱を全身で透過した。
視界が消える。
音が消える。
支柱を抜けた瞬間、出久の姿が目の前にある。
拳は胸。
ルミリオンは胸部を透過。
だが、出久は拳を開き、ルミリオンの赤いマントを掴もうとした。
肩ごとマントを透過。
そこへ、足払い。
脚を透過。
さらに頭突き。
頭部を透過。
「徹底してるよね……!」
ルミリオンは身を翻し、反撃の拳を放つ。
出久は後退せず、あえて前へ踏み込んだ。
拳が頬を掠める。
その衝撃で血が飛ぶ。
だが、出久は怯まない。
左手で路面の砂利を掴み、至近距離からルミリオンの目へ投げつける。
ルミリオンは攻撃をかわしながら、その意図に気付いた。
「攻撃は最大の防御ってやつだよね! それにこれなら、いつかは僕が個性制御をミスするかもしれない!」
出久は返事をしない。
折れた看板を蹴り飛ばす。
看板は回転しながらルミリオンの上半身へ迫った。
ルミリオンは胸から頭を透過させる。
看板が身体を通り抜ける。
出久は追撃しようと踏み込む。
「だったら!」
ルミリオンは笑った。
「全部透過しちゃえば関係ないよね!」
そのまま、全身が地面へ沈んだ。
拳も。
骨槍も。
撒き散らされた瓦礫も。
何も届かない。
アスファルトの下。
光のない空間へ、ルミリオンの身体が消える。
出久は追わなかった。
拳を構えたまま、その場で足を止める。
地面を見下ろす。
「……それが万能な対処法なら」
静かな声だった。
「最初から、そればっかりしていればいい」
返事はない。
当然だった。
地中へ潜ったルミリオンには、外の音は聞こえていない。
それでも出久は続けた。
自分の考えを整理するように。
「でも、してない」
視線を地面へ走らせる。
ルミリオンが沈んだ角度。
進行方向。
潜る直前の姿勢。
「理由は簡単だ」
出久の瞳が細められる。
「全身を透過すると、光も音も身体を通り抜ける」
出久は拳を下ろす。
その代わり、両足へ力を溜める。
「目も耳も使えなくなって、周りの状況が、完全に分からなくなるんじゃないですか?」
潜った位置。
向いていた方向。
これまでの応酬を思い返す。
いつ、どこから、どんな姿勢で次にルミリオンが出現するのかを思考する。
分析と予測はルミリオンの専売特許ではない。
出久は息を吐く。
「あとは……もしかして空気も透過するから、息もできない?」
自分の周囲を見渡す。
ルミリオンが現れそうな位置を、頭の中でいくつも組み立てる。
「もしそうなら、持続時間は数十秒ってところですか? 戦闘の最中に繰り返し使用するならもっと短いかも」
出久は言葉を切った。
視線だけを巡らせる。
地中へ沈んだルミリオンの姿は見えない。
気配もない。
音もない。
だが、消えたわけではない。
必ず、どこかから出てくる。
それも、反撃へ移りやすい位置から。
出久はこれまでの動きを思い返す。
正面から飛び出せば、こちらに見られる。
真下からなら強力だが、先ほど一度使った。
同じ手を繰り返す可能性は低い。
ならば。
(背後……)
出久の瞳が細められる。
最も見えにくい場所。
振り返る動作を強制できる位置。
こちらが反応したとしても、一瞬遅れる。
そして、地面へ潜る直前のルミリオンの向きから考えれば、回り込むこともできる。
そう結論づけた瞬間だった。
背後のアスファルトが、僅かに膨らむ。
出久は迷わなかった。
振り返る。
同時に、右腕を大きく振り上げる。
地面から弾き出されるように、赤いマントが飛び出した。
緑色の稲妻。
金色の髪。
ルミリオンの笑顔。
出久の予測通りだった。
「そこだ!」
振り向きざまに、出久は拳を振り下ろす。
骨槍を纏った拳が、出現したばかりのルミリオンの頭部へ一直線に落ちた。
完全な迎撃。
地中から押し出された直後なら、体勢は整っていない。
回避する時間もない。
そう判断した。
だが。
ルミリオンは避けなかった。
不敵な笑みを浮かべたまま、迫る拳を正面から見上げる。
「──!」
出久の拳が、頭部を叩き潰す。
はずだった。
骨槍に覆われた拳は、何の抵抗もなくルミリオンの顔面を通り抜けた。
そこには何も存在しないかのように。
「甘いぜ、緑谷君!」
ルミリオンの声が至近距離で弾ける。
出久の瞳が見開かれる。
ルミリオンは、最初から読まれることを承知していた。
背後から現れれば。
出久が即座に振り返り、カウンターを放つことを。
そして、その攻撃箇所が頭部になることまで。
「透過の弱点を見抜いたのは、君が初めてじゃない!」
拳が頭部をすり抜けたまま、出久の身体が前へ流れる。
振り下ろした勢い。
空振りによる重心の崩れ。
止めようとしても、既に遅い。
「そして!」
ルミリオンの右手が伸びる。
指先が、出久の顔面へ向かう。
「カウンターの対策も、ばっちりだ!」
出久は咄嗟に顔を背けようとした。
だが、間に合わない。
ルミリオンの人差し指と中指が、出久の両目へ迫る。
「必殺!」
指が眼球へ触れる。
いや。
触れない。
透過した指先が、瞼を。
角膜を。
眼球そのものを何の抵抗もなく通り抜ける。
「ブラインドタッチ目潰し!」
「──ッ!?」
出久の視界が、反射的な恐怖に飲み込まれた。
実際には傷ついていない。
眼球を抉られたわけでもない。
痛みすらない。
だが。
指が目の中へ侵入するという光景と感覚。
生物として本能的に拒絶する刺激。
出久の身体が大きく強張った。
瞼を閉じる。
首を引く。
両腕が反射的に顔を守ろうと持ち上がる。
ほんの一瞬。
分析も。
予測も。
攻撃の組み立ても。
すべてが止まった。
「しまっ──」
ルミリオンは、その隙を逃さない。
踏み込む。
左脚が地面を踏み砕く。
緑色の稲妻が全身を走り、右腕へ集中する。
雷光が筋肉の輪郭をなぞり、拳の周囲で激しく弾けた。
狙いは顔ではない。
胸でもない。
出久が両腕を持ち上げたことで、完全に空いた胴体。
逃げ場のない腹部。
「歯ぁ、食いしばれ! 不良少年!」
拳が、出久の腹部へ深々とめり込んだ。
緑色の稲妻が出久の身体を包み込む。
腹部が大きく陥没し、衝撃が背中まで突き抜けた。
「が──」
声にならない。
肺の中の空気が、血とともに一気に吐き出される。
足が地面から離れた。
出久の身体がくの字に折れ曲がる。
拳は止まらない。
圧縮された衝撃が内臓を揺さぶり、肋骨を軋ませ、背骨まで貫く。
次の瞬間。
出久の身体は砲弾のように吹き飛んだ。
道路を跳ねる。
肩が地面へ叩きつけられ、次に背中。
骨槍の破片が衝撃のたびに砕け散る。
最後は崩壊した建物の一階部分へ突っ込み、柱を二本まとめてへし折った。
壁が大きく陥没する。
遅れて、上階の瓦礫が崩れ落ちた。
ルミリオンは拳を振り抜いた姿勢のまま、荒い息を吐いた。
緑色の稲妻が、なおも腕の周囲で弾けている。
「……ふう」
ルミリオンは小さく息を吐いた。
これ以上、拳を打ち込む必要はない。
出久に残された力は、もはや戦闘を続けられるほどではない。
本人がどう考えていようと、筋肉も骨も内臓も、既に命令へ従える状態ではなかった。
だからこそ、ルミリオンは拳を下ろした。
「弟子同士の戦いは」
出久を警戒したまま、僅かに肩をすくめる。
「俺の勝ちだよね」
返事はない。
出久は左拳を構えようとしたが、肘が半分も持ち上がらなかった。
ルミリオンはそれを見届けると、ようやく視線を外す。
「さて」
赤いマントが、粉塵を含んだ風に揺れた。
「師匠たちの方は、どうかな」
軽い調子だった。
先ほどまでの空気を少しでも和らげるような、いつものルミリオンらしい声。
だが、遠方へ目を向けた瞬間。
その言葉は途切れた。
「──」
視線の先。
戦場の中心では。
もはや、人間同士の戦いとは呼べない光景が広がっていた。
崩れた高層建築。
抉れた道路。
地面から突き出した黒い触手。
そのすべてを縫うように、黄金の影が駆け抜ける。
「おおおおおおおおッ!!」
オールマイトが吼えた。
口元から血を噴き出しながら右拳を振り抜く。
巨大な触手が正面から受け止めようと伸びる。
拳が触れた瞬間、黒鱗が爆ぜた。
衝撃が触手の内部を走り、根元まで一気に砕いていく。
肉片と硬質化した鱗が雨のように飛び散り、その向こうにいたオール・フォー・ワンの胴体へ拳が届く。
胸部装甲が陥没する。
魔王の身体が吹き飛ぶ。
だが。
オールマイトは止まらない。
左拳を固く握り込む。
「CAROLINA──」
オール・フォー・ワンの背中から、幾重もの触手が壁のように展開された。
巨大化。
筋力増強。
衝撃吸収。
硬質化。
複数の個性が重ねられ、黒い肉壁がオールマイトの前へ立ちはだかる。
「SMAAAAAASH!!」
左拳が突き刺さった。
触手の壁が中央から抉れ、衝撃を吸収し切れずに後方へ膨れ上がった。
次の瞬間には、数十本まとめて千切れ飛ぶ。
その残骸を突き破り、オールマイトが前へ出る。
「再現のようだなオールマイト、あの時に比べると互いに歳をとったものだ」
オール・フォー・ワンが低く呟く。
肩口から、新たな黒い触手が噴き出した。
瞬く間に数十本もの触手が空を覆い、槍となり、刃となり、鞭となってオールマイトへ襲いかかった。
逃げ場はない。
四方八方。
死角さえ埋め尽くす飽和攻撃。
オールマイトは止まらない。
「おおおおおおおッ!!」
真正面から踏み込んだ。
まるで巨大な蛇が獲物を締め殺すように、何十本もの触手がオールマイトの身体へ食らいつく。
触手が一斉に収縮した。
骨が軋む。
筋肉が悲鳴を上げる。
常人なら、全身の骨格が砕け散る拘束。
それでも。
「ぐ、ぅぅぅぅ……!」
オールマイトは膝をつかなかった。
全身の筋肉が隆起する。
残されたすべての筋繊維へ、ワン・フォー・オールの力を流し込む。
「まだ……!」
血反吐を吐く。
口から溢れた血が地面へ滴る。
「終わらん!!」
オールマイトが両腕を左右へ広げた。
ぶちぶちぶちぶちッ!!
耳障りな破裂音が連続する。
右腕へ巻き付いた触手が裂ける。
左肩を拘束していた触手が弾け飛ぶ。
胸を締め上げていた触手が千切れ、腹部へ食い込んでいた棘ごと引き抜かれる。
血が噴き上がる。
肉が裂ける。
それでも構わない。
拘束されていた触手を一本一本、力尽くで引きちぎっていく。
「おい、おい……」
オール・フォー・ワンが、呆れたように呟いた。
しかし、その声の奥には隠し切れない動揺があった。
引きちぎられた触手の断面から黒い血が噴き出し、地面を濡らしていく。
何重もの増幅を施し、巨体すら容易く圧壊させるはずの拘束だった。
それをオールマイトは、自らの肉が裂けることすら意に介さず、ただ力だけで破壊した。
最後に残った触手が、右脚へ食らいつく。
「年甲斐もないぜオールマイト!」
オール・フォー・ワンが強く腕を引く。
触手が膨張し、無数の棘がオールマイトの脚へ突き立った。
血が弾ける。
膝が僅かに沈む。
それでも。
「邪魔だァッ!」
オールマイトは触手を両手で掴んだ。
大腿部へ食い込んだ棘ごと、強引に引き剥がす。
肉が抉れる。
黄色いスーツが裂け、その下から血が溢れ出した。
だが、触手の方が先に耐え切れなかった。
太い綱のような肉塊が引き伸ばされ、内部で何本もの筋が弾ける。
やがて根元から完全に千切れ、オールマイトの両手の中で力なく痙攣した。
それが最後だった。
全ての触手が失われる。
オール・フォー・ワンとオールマイトの間を遮るものは、もう何もない。
「まったく」
オール・フォー・ワンは後退しながら、新たな個性を組み上げる。
「手負いのヒーローが最も恐ろしいな」
オールマイトが踏み込んだ。
「追い詰められるほど」
身体から血を撒き散らしながら、さらに加速する。
「こちらの予想を超えてくる」
黄金の巨体が視界から消えた。
オール・フォー・ワンは肥大化した腕を正面へ突き出す
重ねられた個性が一斉に発動した。
圧縮された空気が砲弾となる。
衝撃波が道路を削り取る。
周囲の瓦礫が巻き上げられ、前方一帯を飲み込む破壊の奔流となって押し寄せた。
だが。
その中心を。
オールマイトは真正面から突き進んだ。
「何──」
スーツが裂ける。
皮膚が切れる。
傷口から血が吹き飛ばされる。
それでも、勢いは衰えない。
左腕で顔を庇い。
右拳を腰まで引き。
ただ一人の敵へ向けて、一直線に前へ出る。
オール・フォー・ワンが腕を振り抜いた。
異形の拳が迫る。
オールマイトは避けない。
その拳を、左肩で受けた。
肩の骨が砕ける。
巨体が大きく傾ぐ。
だが、倒れない。
オール・フォー・ワンの目前に。
血に濡れたオールマイトの顔があった。
「もう、逃がさんぞ、AFO」
右拳を握る。
残された力。
残された命。
その全てを、一つの拳へ集める。
筋肉が膨張する。
皮膚の下で血管が浮かび上がり、既に裂けた傷口からさらに血が溢れた。
ワン・フォー・オールの残り火が最後の炎を上げる。
オール・フォー・ワンは防御しようとした。
『衝撃反転』『硬質化』、だが遅い。
「UNITED STATES OF……」
オールマイトが宿敵を倒す為、自分に残った全てを叩き込んだ、渾身の一撃。
拳がオール・フォー・ワンの顔面へめり込む。
硬質化した皮膚が割れる。
人工呼吸器が砕ける。
黒い仮面が陥没し、その下の骨格まで歪んだ。
宿敵を倒すために。
自分に残った全てを叩き込んだ、渾身の一撃。
拳がオール・フォー・ワンの顔面へめり込む。
硬質化した皮膚が割れる。
人工呼吸器が砕ける。
黒い仮面が陥没し、その下の骨格まで歪んだ。
「SMAAAAAASH!!!!!」
オール・フォー・ワンの身体が浮く。
そのまま拳に押し出され。
一瞬の静止を挟んで、炸裂した。
音速を超えた巨体が、衝撃波を引きながら戦場を横切る。
地面すれすれを飛び。
瓦礫を吹き飛ばし。
途中にあった街灯や車両を、触れただけで粉砕していく。
「うわっ!」
ルミリオンが咄嗟に身を引いた。
その視線の先。
倒壊した建物の傍で、出久が辛うじて上体を起こしていた。
腹部を押さえ。
荒い呼吸を繰り返し。
それでもなお、戦場を見ようと顔を上げる。
その瞬間。
巨大な黒い影が、視界へ飛び込んできた。
「AFO──」
出久が呟く。
次の瞬間。
オール・フォー・ワンの身体が、出久のすぐ傍へ叩き込まれた。
アスファルトが波打ち、巨大な亀裂が蜘蛛の巣状に広がった。
出久の身体も衝撃で跳ね上がり、数メートル先まで転がされる。
土煙が天高く噴き上がる。
瓦礫が降り注ぐ。
そこには、一瞬前まで道路だったとは思えないほど巨大なクレーターが生まれていた。
その中央。
オール・フォー・ワンが仰向けに沈んでいる。
仮面は完全に砕け。
呼吸器も潰れ。
胸部は僅かに上下しているものの、四肢は動かない。
出久は地面へ伏したまま、震える腕を伸ばした。
「AFO……」
指先が。
クレーターの縁へ僅かに届く。
「AFO……!」
返事はない。
オール・フォー・ワンの身体からは、再生する触手も。
攻撃のための光も。
新たな個性の発動も起こらなかった。
一方。
遠く離れた場所で。
オールマイトは拳を振り抜いた姿勢のまま、立ち尽くしていた。
「オールマイト……?」
ルミリオンが声をかける。
オールマイトの肩が上下し、大きく息を吸おうとする。
その巨体から、力が抜けた。
黄金の筋肉が萎む。
膨れ上がっていた肩が落ちる。
胸板が薄くなり。
太い腕が、枯れ枝のように細くなる。
まるで巨人の中から別人が現れるように。
平和の象徴の姿が崩れ落ちていく。
「……あ」
ルミリオンの表情が強張った。
そこに立っていたのは。
頬が落ち窪み。
目の周囲に深い影を刻み。
全身の骨が浮き出るほど痩せ細った、一人の男だった。
髪は力なく垂れ。
破れたスーツは大きすぎる布のように身体へ掛かり。
腕も脚も、先ほどまで魔王を打ち倒していたものとは思えないほど細い。
血に濡れたその姿は。
平和の象徴というよりも。
吹けば折れてしまいそうな、一本の枯れ木に見えた。
「オールマイト!」
ルミリオンは、何を言えばよいのか分からなかった。
痩せ細った身体。
全身の傷。
そして。
もう、ワン・フォー・オールの炎が一欠片も残っていないことが。
同じ力を受け継いだルミリオンには分かってしまった。
オールマイトは完全に力を使い果たした。
今度こそ。
本当に。
平和の象徴として戦う力を、全て失った。
それでも、オールマイトは胸を張ろうとした。
痩せた背筋を伸ばす。
震える手で血を拭う。
かつて何度も人々を安心させてきた笑顔を浮かべた。
「お待たせしてしまったね」
ルミリオンを見上げる。
「こちらも」
短く息を整える。
血の混じった咳を、必死に飲み込む。
「片付いたところだ」
その言葉は利宣言としては、あまりにも静かだった。
大歓声もない。
拳を掲げる力もない。
象徴としての巨体さえ、もう残っていない。
それでも魔王は倒れている、ヒーロは立っている。
「私たちの勝ちだ」
ルミリオンの目が大きく見開かれた。
震える唇を結ぶ。
「……はい」
拳を握る。
胸の奥から込み上げるものを堪えながら。
「俺たちの、勝ちです」
師と弟子。
二人の向こう。
巨大なクレーターの縁では。
出久だけが倒れた魔王へ向かって、なお腕を伸ばし続けていた。
──
麗日お茶子は、動けなかった。
耳の奥では、まだ爆音が鳴り続けている。
オールマイトの拳がオール・フォー・ワンの顔面へめり込み、巨大な身体を戦場の端まで吹き飛ばした光景。
地面が割れ。
建物が震え。
土煙が空を覆い。
そして。
誰もが知る平和の象徴の身体が、見る間に萎んでいった瞬間。
そのすべてが、目の裏へ焼き付いて離れなかった。
「……オール、マイト」
声が出たのかどうか、自分でも分からない。
黄金の髪。
大きな笑顔。
どんな敵を前にしても揺るがない、圧倒的な背中。
お茶子が幼い頃から知っていたオールマイトは、もうそこにはいなかった。
戦場に立っていたのは、全身から血を流し、大きすぎるスーツを纏った、痩せ細った一人の男だった。
頬は落ち窪み。
手足は枯れ枝のように細く。
呼吸をするたびに、胸が痛々しいほど上下している。
少し強い風が吹けば、そのまま倒れてしまいそうだった。
周囲の警察官たちも。
避難誘導に当たっていたヒーローたちも。
規制線の向こうに集まった人々も。
誰もが、言葉を失っていた。
「……あれが」
誰かが呟いた。
「あれが、オールマイト……?」
その声には、恐怖とも悲しみともつかない震えがあった。
当然だった。
平和の象徴は、誰よりも強くなければならない。
傷つくことなく。
倒れることなく。
どんな絶望の中にも笑顔で現れ、すべてを解決する。
少なくとも、人々はそう信じていた。
その幻想が今、無残なほど剥がれ落ちている。
巨体は消えた。
力も尽きた。
血に濡れた身体を支えることすら難しい。
それでも。
オールマイトは笑った。
「私たちの勝ちだ」
静かな声だった。
轟音を伴う必殺技でも。
空を震わせる雄叫びでもない。
それでも確かに響いた。
凍りついていた人々の胸へ届いた。
「……勝った?」
誰かが呟く。
別の誰かが、倒れたオール・フォー・ワンを見る。
「勝った……」
声が重なる。
「オールマイトが……勝った!」
最初は、一人だった。
次に二人。
三人。
やがて。
「うおおおおおおおおッ!!」
歓声が爆発した。
警察官が拳を突き上げる。
怪我を負ったヒーローが、その場へ膝をつきながら叫ぶ。
避難していた人々が抱き合い。
崩れ落ちるように安堵する。
「勝ったぞ!」
「オールマイトが倒した!」
「終わったんだ!」
「助かったんだ、俺たち!」
次々に声が上がる。
動揺は消えていない。
オールマイトの変わり果てた姿に、誰もが傷ついている。
もう二度と。
あの圧倒的な姿で人々の前に立つことはないのかもしれない。
その事実を、まだ誰も理解し切れていない。
それでも、今だけは勝利に縋るように。
人々は叫び続けた。
「オールマイト!」
「ありがとう!」
「さすが平和の象徴だ!」
「俺たちのヒーローだ!」
名を呼ぶ声が、崩壊した街へ広がっていく。
歓声の中心で痩せ細ったオールマイトは、僅かに顔を上げた。
その笑顔は痛々しく。
それでも、人々を安心させようとしていた。
お茶子は、笑えなかった。
泣くこともできなかった。
ただ。
呆然と、その光景を見つめていた。
勝った。
オール・フォー・ワンは倒れた。
社会を長く脅かしてきた魔王は、ついに敗北した。
オールマイトは役目を果たした。
通形先輩も勝った。
ヒーロー側の勝利だった。
これ以上ないほどの結末のはずだった。
それなのに。
お茶子の視線は、歓声の中心から外れていく。
オールマイトでも。
ルミリオンでも。
倒れたオール・フォー・ワンでもない。
巨大なクレーターの縁。
崩れた瓦礫の傍。
そこに。
緑谷出久が倒れていた。
「……デク君」
掠れた声が漏れる。
出久は地面へ伏したまま、ほんの僅かに動いていた。
震える腕を倒れるオール・フォー・ワンに伸ばしている。
届くはずもない。
指先はクレーターの縁を掻くだけで、身体は一センチも前へ進まない。
それでも。
何度も、何度も。
「AFO……」
遠すぎて、声は聞こえない。
それでも、口の動きで分かった。
彼は自分を利用し、犯罪へ引き込み、この街を破壊した男をなお呼び続けている。
胸の奥が痛んだ。
どうしてそんなことをするのか。
なぜ、そこまであの男へ手を伸ばすのか。
理解できない。
理解したくもない。
オール・フォー・ワンが勝てば社会は壊れる。
ヒーローへの信頼は失われ。
犯罪組織が息を吹き返し。
多くの人が傷つき、死ぬ。
そして出久自身も魔王の配下として、さらに多くの罪を重ねることになる。
だから、これでよかった。
オール・フォー・ワンは倒れるべきだった。
出久も捕まらなければならない。
それが正しい、何度考えても答えは変わらない。
なのに、地面へ伏し血に濡れそれでも手を伸ばす出久の姿を見ていると、胸の内側が引き裂かれるように痛んだ。
「……なんで?」
歓声の中、お茶子の声は誰にも届かない。
「なんで、そんな顔するん」
出久の顔には敗北への怒りも、捕まることへの恐怖もなかった。
「緑谷君、抵抗はしてくれるなよ」
ルミリオンが動いた。
痩せ細った師を気遣うように一度振り返り、それから、巨大なクレーターの方へ歩き始める。
その表情に笑みはない。
先ほどまで出久へ向けていた、明るく強い笑顔は消えている。
戦いは終わった。
もう殴る必要はない。
次にするべきことは決まっている。
敵を拘束し警察へ引き渡す。
当たり前の判断だった。
ルミリオンの手には、拘束用のワイヤーが握られていた。
出久は動けない、抵抗する力もない。
拘束は簡単に終わる。
お茶子はそう理解した。
理解した瞬間、心臓が大きく跳ねた。
ルミリオンが、一歩近づく。
出久は気づかない。
なおもオール・フォー・ワンへ手を伸ばしている。
もう一歩。
拘束用ワイヤーが伸ばされる。
その光景を目にした瞬間、お茶子の胸の奥で、何かが弾けた。
考えるよりも先に右足が前へ出て、続いて左足が地面を蹴る。
身体が規制線へ近づいていると気づいたときには、既に黄色いテープが目の前まで迫っていた。
「君、待ちなさい! どこへ行く!」
背後から警察官の鋭い声が飛んだが、お茶子は止まれなかった。
規制線を片手で押し上げ、その下へ身体を滑り込ませると、制止しようと伸ばされた腕を振り切り、崩壊した市街地へ駆け出していた。
「君、戻りなさい! まだ安全は確認されていない!」
分かっている。
オール・フォー・ワンが本当に戦闘不能になった保証はなく、倒壊しかけた建物や不安定な瓦礫も至るところに残っている。
何より、自分がこれからしようとしていることがヒーローを志す者として正しくないことも、頭では痛いほど理解していた。
それでも、足は止まらなかった。
出久を逃がしてはいけない。
彼が犯した罪は消えず、警察へ引き渡され、裁きを受けなければならない。
お茶子の視界には、血に濡れた出久の背中と、そこへ歩み寄るルミリオンの姿しか映っていない。
「通形先輩!」
叫んだ。
しかし、勝利に沸き立つ人々の歓声と、崩れた建物が軋む音に掻き消され、その声はルミリオンまで届かなかった。
激戦を終えたルミリオンもまた、限界に近かった。
ワン・フォー・オールの高出力を繰り返し使い、全身透過と部分透過を絶え間なく切り替え続けた肉体は、立っているだけでも重い疲労を訴えている。
呼吸は荒く、耳鳴りも残り、意識の大半は倒れた出久と、その傍にいるオール・フォー・ワンの警戒へ向けられていた。
そのため、自分の背後から駆けてくる少女の足音に気づけなかった。
「待ってください!」
お茶子は瓦礫を飛び越え、亀裂を避けながら距離を縮める。
ルミリオンが拘束用ワイヤーを出久の腕へ巻きつけようと身を屈めた、その直前だった。
伸ばしたお茶子の指先が、赤いマントの下から覗くルミリオンの背中へ触れた。
「──え?」
五本の指すべてが触れた瞬間、お茶子の個性が発動する。
ルミリオンの足が、ふわりと地面から離れた。
「なっ……!?」
突然、身体から重さが消えた。
踏ん張ろうとしても靴底は地面を捉えられず、手足を動かした反動で姿勢だけが崩れていく。
ルミリオンは咄嗟に透過を使おうとしたが、地面へ潜るためには接触した状態から身体を沈めなければならない。
既に宙へ浮かされてしまった今、透過したところで重力が戻るわけではなかった。
拘束用ワイヤーが手から離れ、ゆっくりと宙を漂う。
「なんだ君は!?」
ルミリオンは空中で身体を捻り、ようやく背後の少女を見た。
息を切らし、顔を青ざめさせ、それでも両拳を固く握っている。
「何をしてるんだ!? これは君の個性か!? 何のつもりだ!?」
お茶子は答えれなかった。
ルミリオンへ説明するための言葉を、何一つ持っていなかった。
正しいと思っているわけではない。
出久を無罪だと思っているわけでも、オール・フォー・ワンの行いを許したわけでもない。
ただ、傷だらけで倒れている出久が、そのまま何も言えず連れていかれる姿を目にした瞬間、身体が勝手に動いてしまった。
「デク君……」
お茶子は出久だけを見つめる。
出久は何が起きたのか理解できず、地面へ伏したまま顔を上げていた。
腫れた瞼の奥で緑色の瞳が揺れ、規制線を越えてきたお茶子と、宙へ浮かぶルミリオンを交互に見る。
「麗日……さん?」
掠れた声だった。
久しぶりに自分へ向けられた、その呼び方。
お茶子の喉が震えた。
本当は問い質したかった。
どうして何も話してくれなかったのか、なぜオール・フォー・ワンの側へ行ったのか、あの教室で見せていた笑顔まで全部嘘だったのか。
聞きたいことは数え切れないほどあった。
だが、口から出たのは、そのどれでもなかった。
「逃げてえ!」
声が裏返る。
出久は呆然と目を見開いた。
「早く! デク君、逃げてええええッ!」
「何を言ってるんだ、麗日君!」
ルミリオンが空中から手を伸ばすが、指先は届かない。
身体を動かそうとするほど反対方向へ回転し、ますます地面から遠ざかっていく。
「駄目だ! 緑谷君、動くな! 君の身体では逃げることなんてできない! そこの君も落ち着くんだ!」
出久自身も、逃げるという選択肢が現実的でないことは理解していた。
右腕は満足に動かず、左肘も上がらない。
ルミリオンに打ち抜かれた腹部は呼吸をするだけで激痛を発し、両脚には立ち上がる力さえ残っていなかった。
仮に拘束を免れても、この場から数メートル進むことすらできない。
「逃げて! デク君!」
何のために逃げてほしいのか、自分でも分からなかった。
逃げた先で、またヴィランとして生きるのか。
別の街で犯罪を重ねるのか。オール・フォー・ワンを救い出し、再びヒーローの敵になるのか。
そんな未来を望んでいるはずがない。
その叫びに引かれるように。
巨大なクレーターの底で、ほんの僅かな動きが生まれた。
砕けた仮面の下。
血に濡れたオール・フォー・ワンの右手。
完全に力を失ったように投げ出されていた、その指先が微かに動いた。
「──!」
出久だけが、それに気づいた。
オール・フォー・ワンの人差し指が地面を掻く。
ほんの数ミリの動きだったが、そこへ残された意志は明確だった。
ぼこり、と。
出久のすぐ傍に黒い液体が湧き上がる。
「これは……」
粘ついた泥のような物質が亀裂の隙間から溢れ、瞬く間に出久の腕へ絡みついた。
ルミリオンの表情が変わる。
「AFO!? まだ個性を使えるのか!」
ルミリオンは宙に浮いたまま腕を振るう。
指先だけを透過させて拘束から抜けるような技術も、今の状況では意味をなさない。
無重力によって足場を失った身体では、出久へ近づくための反動すら作れなかった。
「解除してくれ! 今ならまだ間に合う!」
お茶子は振り返らない。
ただ、黒い泥に飲み込まれていく出久を見つめていた。
「麗日さん……」
出久の顔の半分まで泥が迫る。
彼はお茶子へ手を伸ばそうとした。
しかし、持ち上がったのは血に濡れた指先だけで、それすら途中で力を失い、地面へ落ちる。
二人の視線が交わった。
出久の目には、驚きと困惑があった。
どうして助けたのか。
なぜ逃がそうとするのか。
その問いが、声に出されずとも伝わってくる。
お茶子にも答えはなかった。
「行って」
今度の声は小さかった。
「今は……行って、デク君」
出久の唇が僅かに動く。
何かを言おうとした。
だが、言葉になる前に黒い泥が口元を覆い、最後に緑色の瞳まで飲み込んだ。
次の瞬間。
泥が内側へ崩れ落ちるように収縮した。
出久の身体が消える。
そこにいたという痕跡の一部を残しながら、少年だけが何処かへ転送された。
「緑谷君!」
ルミリオンの叫びが虚しく響く。
黒い泥は役目を終えると地面へ染み込み、跡形もなく消失した。
残されたのは、空中で身動きの取れないルミリオンと、立ち尽くすお茶子。
そしてクレーターの底で、再び指一本動かさなくなったオール・フォー・ワンだけだった。