雄英高校ヒーロー科。
一年A組。
教室の扉横に掲げられたプレートを見上げながら、出久は立ち止まっていた。
胸が、重い。
ここまで来た。
本当に。
夢だった場所へ。
なのに、心の奥は晴れなかった。
制服の下。
身体のどこかへ埋め込まれた“保険”。
AFOの掌。
黒い穴。
母を映していたモニター。
思い出すだけで、胃の奥が冷える。
「……」
出久は、小さく息を吐いた。
そして。
意を決するように、教室の扉へ手をかける。
ガラリ、と。
引き戸が横へ滑った。
瞬間、教室の空気が少しだけ動く。
すでに多くの生徒が集まっていた。
談笑する声。
机を動かす音。
個性的な外見の生徒たち。
皆、これから始まる高校生活への期待を隠しきれていない。
その中で。
「あっ!」
明るい声が上がった。
出久がそちらを見る。
丸顔。
柔らかな茶色の髪。
ふわりとした雰囲気。
受験会場で声をかけてくれた少女だった。
「受験の時の!」
少女はぱっと表情を明るくする。
「よかったぁ! 合格したんやね!」
関西訛り混じりの声。
「自己紹介してなかったよね、私麗日お茶子! 君は?」
その屈託のない笑顔に、出久は少しだけ目を見開いた。
「あ……僕は」
すると今度は、別方向から勢いよく椅子が引かれた。
「おお、君か!」
眼鏡。
長身。
真っ直ぐな姿勢。
飯田天哉が、実に飯田天哉らしい勢いで立ち上がっていた。
「無事合格したのだな、緑谷君!」
ビシッ、と腕が振られる。
「君の実技試験での行動は実に見事だった!」
出久の肩が僅かに揺れる。
「え……」
「特に最後だ!」
飯田は熱弁する。
「危険を顧みず救助へ向かった判断! あれこそヒーロー精神だ!」
「そ、そんな……」
出久は思わず視線を逸らした。
褒められる資格なんて、本当に自分にあるのか。
脳裏にAFOの声が蘇る。
『実に、ヒーローらしかった』
同じ言葉なのに。
飯田の言葉は暖かくて。
AFOの言葉は冷たかった。
麗らかな少女——麗日お茶子も、うんうんと頷く。
「うんうん! ほんとに凄かった!」
彼女は、少し身振りを交えながら続けた。
「君が助けてくれなかったら、怪我して、多分受験も落ちちゃってたし……」
そこで一瞬、彼女の表情が柔らかくなる。
「助けてくれて、ありがとね」
「……っ」
出久の喉が詰まる。
真正面から感謝される。
それだけで、胸が痛かった。
自分は。
本当に。
そんな風に感謝されていい人間なのか。
「……いや、僕は」
言葉が続かない。
その時だった。
ガラッ、と。
再び教室の扉が開いた。
荒っぽい音。
空気が少しだけ張る。
「チッ……」
聞き慣れた舌打ち。
爆豪勝己だった。
ポケットへ手を突っ込み、苛立った顔のまま教室へ入ってくる。
そして。
出久の姿を見た瞬間、その目が細くなった。
「……おいデク」
低い声。
周囲の空気が少しだけ固まる。
爆豪の視線が、出久を上から下まで値踏みするように動いた。
実技試験。
合格。
ヒーロー科。
どう考えても、おかしい。
爆豪の認識では、緑谷出久は“無個性”のはずだった。
なのに。
こいつはここにいる。
しかも、今の会話。
救助?
巨大ロボ?
戦闘?
理解が噛み合わない。
爆豪の眉間に皺が寄る。
「……お前、何した」
怪訝な声だった。
だが、出久は答えない。
答えられない。
爆豪は数秒だけ出久を睨み続け——やがて舌打ちした。
「……クソが」
ドサッ、と乱暴に鞄を置く。
そして窓側後方の席へ座り込み、なおも鋭い視線だけを出久へ向け続けていた。
「あいつって、入試で一位だった爆豪だよな」
「ああ、あいつの戦いっぷりみたか!? 漢だぜ」
期待と緊張が入り混じった生徒たちは、あちこちで話し始めている。
「すげぇな雄英……」
「実技、マジで死ぬかと思った」
「推薦ってどんな感じだったんだ?」
「個性見せてよ!」
声が飛び交う。
だが。
「——仲良しごっこがしたいなら、よそでやれ」
低い声が、教室へ落ちた。
瞬間。
空気が止まる。
「……え?」
誰かが小さく声を漏らした。
教室中の視線が、一斉に教壇へ向く。
そこには——誰もいなかった。
いや。
違う。
教壇の陰。
床に転がるように置かれていた黄色い寝袋が、もぞり、と動いた。
「うおっ!?」
「えっ、なに!?」
数人が思わず声を上げる。
寝袋のファスナーがゆっくり開く。
そして。
中から、ぼさぼさ髪の男が、のっそりと這い出てきた。
無精髭。
死んだような目。
黒い捕縛布のような装備。
全体的に、やる気がない。
というより、“疲れ切っている”という表現の方が近かった。
男は気怠げに目を擦りながら、生徒たちを見回す。
「……うるさい」
それが第一声だった。
教室が静まり返る。
出久も、思わず目を見開いていた。
いつからいた。
誰も気付かなかった。
男は寝袋を引き摺ったまま教壇へ立つ。
その姿には、プロヒーローらしい派手さはまるでない。
だが。
妙な圧があった。
教室全体を、一瞬で静かにさせるだけの空気。
男は面倒そうに溜息を吐いた。
「……時間は有限だ」
一拍。
「特にヒーローはな」
そのまま、気怠げに名札を机へ置く。
相澤消太。
そう書かれていた。
「A組担任」
ぼさぼさ頭の男——相澤が、眠そうな目のまま告げる。
「相澤消太だ。よろしく」
あまりにも雑な挨拶だった。
教室の空気が、一瞬だけ固まる。
「……え、それだけ!?」
思わず誰かがツッコむ。
相澤は無視した。
「じゃあ、早速だけど」
そう言って。
教卓の上へ、運動着を雑に放り投げる。
「グラウンド行くぞ」
「……へ?」
間の抜けた声が漏れた。
麗日が瞬きを繰り返す。
「えっと……入学式は?」
「オリエンテーションとか……」
飯田すら困惑していた。
だが、相澤は平然としている。
「そんな暇ない」
気怠げな声。
「ヒーロー科は合理性重視だ」
その瞬間。
出久の背筋へ、ぞくり、と冷たいものが走った。
合理性。
その単語だけで、別の男を思い出す。
『時間がないからね、手荒に教育していく』
AFO。
地下施設。
訓練。
罰。
脳裏へ蘇った声に、出久の呼吸が僅かに乱れた。
相澤はそんな出久へ、一瞬だけ視線を向ける。
眠そうな目。
だが。
その奥だけが、妙に鋭かった。
まるで、一瞬で生徒全員を観察し終えているみたいに。
出久は反射的に目を逸らす。
心臓が、小さく跳ねた。
爆豪は、そんな出久の反応を横目で見て、さらに眉を顰める。
「……チッ、気色悪いな」
数十分後。
一年A組の生徒たちは、揃ってグラウンドに集められていた。
真新しい体操服。
広すぎるほどの運動場。
遠くに見える訓練設備。
雄英高校の規模は、教室の中にいた時よりもさらに現実味を持って迫ってきた。
「え、ほんとに入学式なし?」
「普通、最初って校長先生の話とかあるんじゃねぇの?」
「いきなりグラウンドって、何するんだよー」
ざわめきが広がる。
誰もが戸惑っていた。
期待していた高校生活の始まりとは、明らかに違う。
出久も列の中で、周囲を見回す。
隣には飯田が直立不動で立ち、少し離れたところでは麗日が不安そうに辺りを見ている。爆豪は腕を組み、苛立ったように相澤を睨んでいた。
青山優雅の姿もあった。
少し離れた位置で、いつものように優雅な立ち姿を作っている。
だが、出久と目が合うと、青山はほんの一瞬だけ笑った。
作り物のような笑みだった。
出久の胸の奥が、重く沈む。
その時。
「静かにしろ」
相澤の一言で、ざわめきが止まった。
ぼさぼさ髪の担任は、片手にボールを持っていた。
野球ボールほどの大きさ。
だが、普通のボールではない。
表面には小型のセンサーらしき部品が取り付けられており、赤いランプが小さく点滅している。
「中学の頃にやっただろ。体力テスト」
相澤は、面倒そうにボールを弄びながら言う。
「反復横跳び、握力、五十メートル走、ソフトボール投げ……そういうやつだ」
生徒たちの間に、少しだけ緊張が走る。
「ただし、ここでは個性の使用を許可する」
空気が変わった。
誰かが小さく息を呑む。
「個性を使わない状態での基礎体力は、国の教育課程で測れる。だがヒーロー科で必要なのは、それだけじゃない」
相澤の眠そうな目が、生徒たちを一人ずつなぞる。
「個性込みで、どれだけ動けるか。どれだけ自分の力を把握しているか。それを見る」
そして。
相澤は、何の前触れもなくボールを放った。
弧を描いて飛んだそれを、爆豪が片手で受け取る。
「あ?」
爆豪の眉が跳ねた。
「爆豪」
相澤が言う。
「中学のソフトボール投げは何メートルだった」
「……六十七メートル」
不機嫌そうに答える。
相澤は頷き、顎でグラウンドの奥を示した。
「じゃあ、それを個性を使用して思いっきり投げてみろ」
爆豪の口元が、僅かに吊り上がる。
不機嫌さが、獰猛な笑みに変わる。
「個性ありで、か」
「ああ。範囲から出るなよ。計測器が飛距離を出す」
相澤は淡々と言った。
爆豪はボールを握り込む。
その掌から、じわりと火薬の匂いが漂った。
周囲の生徒たちが、自然と距離を取る。
出久も、思わず息を止めた。
爆豪勝己。
幼い頃から見てきた個性。
爆破。
強く、派手で、攻撃的で。
彼にふさわしい力。
爆豪は肩を回し、投球姿勢を取る。
「見てろよ」
誰に向けた言葉なのか。
出久なのか。
相澤なのか。
この場の全員なのか。
爆豪の掌で、火花が弾けた。
次の瞬間。
「死ねェェェェェッ!!」
爆発。
轟音と共に、ボールが空へ撃ち出された。
ただ投げたのではない。
爆発の推進力を利用し、腕の振りと同時に加速させた。
白い軌跡が空を裂く。
生徒たちが一斉に見上げる。
相澤の端末が電子音を鳴らした。
表示された数値を見て、相澤は淡々と告げる。
「七百五メートル」
ざわめきが起きた。
「七百!?」
「マジかよ!」
「桁おかしくね!?」
「すっげぇぇぇぇぇ!!」
最初に叫んだのは、赤髪の少年だった。
目を輝かせながら、拳を握り締めている。
「これが雄英レベルかよ!!」
「やばっ、映画みたい……!」
麗日も目を丸くして空を見上げていた。
まだ小さく見えるボールが、青空の遥か向こうへ消えていく。
「個性使って体力測定って、めちゃくちゃ楽しそうじゃん!」
「俺も早くやりてぇ!」
「何メートル出るかなー!」
一気に空気が変わった。
先程まで戸惑っていたA組の生徒たちが、急に活気づき始める。
自分の個性を使える。
しかも、全力で。
ヒーロー科らしい実践的な授業に、皆が興奮していた。
「おいおい、燃える展開じゃねぇか!」
「俺の個性なら絶対上位いけるって!」
「これ、記録勝負みたいなもんだろ!?」
騒がしい。
期待。
自信。
高揚感。
それらがグラウンド全体へ広がっていく。
だが。
「……楽しそうで何よりだ」
相澤の気怠げな声が、水を差すように落ちた。
ざわめきが止まる。
相澤は端末を見下ろしたまま、淡々と続けた。
「ちなみに」
一拍。
「総合成績最下位だった奴は——除籍処分にする」
空気が、凍った。
「…………は?」
誰かが間の抜けた声を漏らす。
冗談だと思った。
だが。
相澤の顔は、一切笑っていない。
「雄英は自由な校風が売りだ」
眠そうな目。
けれど、その奥だけが冷たい。
「つまり、教師側にも生徒を切り捨てる自由がある」
ぞわり、と。
グラウンド全体へ悪寒が走る。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
飯田が勢いよく手を挙げた。
「入学初日に除籍など、あまりにも理不尽では——!」
「理不尽?」
相澤が、ゆっくり顔を上げる。
「ヒーローって仕事自体が理不尽の塊だろ」
その言葉だけで、飯田が詰まった。
「災害。ヴィラン。事故。死」
淡々とした声音。
「現場は、お前らの事情なんか待っちゃくれない」
風が吹く。
捕縛布が揺れた。
「だったら、最初から現実を教えてやる方が親切だ」
静寂。
先程まで騒いでいた生徒たちも、今は誰も口を開かない。
除籍。
その二文字の重みが、一気に現実味を帯びていた。
出久の喉が、ひくりと震える。
「……っ」
除籍。
その言葉を聞いた瞬間。
脳裏に浮かんだのは、雄英でも相澤でもなかった。
地下施設。
白い部屋。
生命維持装置。
そして——AFO。
呼吸器越しの声が、脳内へ蘇る。
母を映していたモニター。
黒服の男。
焼け爛れた笑顔。
心臓が、嫌な音を立てた。
除籍になる。
それはつまり。
AFOの期待に応えられなかったという事だ。
雄英へ潜り込めなかった失敗作。
役に立たない駒。
その評価が、自分へ下る。
「ぁ……」
出久の指先が、小さく震える。
もし、そうなったら。
母は。
自分は。
『逆らえば、君の母君を殺す』
背筋を、氷水が流れ落ちる。
周囲では生徒たちがざわついている。
「マジかよ……」
「初日から……?」
「洒落になってねぇぞ……」
だが。
出久には、その声が遠かった。
頭の中で響いているのは、別の声だ。
『安心したまえ』
『君が従順である限り——』
「……っ」
呼吸が浅くなる。
駄目だ。
絶対に。
最下位だけは駄目だ。
除籍だけは。
「……じゃあ始める」
相澤の合図と共に、体力測定が始まった。
五十メートル走。
握力。
立ち幅跳び。
反復横跳び。
持久走。
中学までの測定とは、まるで別物だった。
「うおおおおッ!」
爆豪が爆発を連続噴射しながら地面を駆け抜ける。
轟音。
風圧。
爆炎を推進力へ変えた加速は、もはやバイクに近い。
「五十メートル——五秒〇七」
相澤の読み上げに、生徒たちがどよめく。
「速っ!?」
「いや人間のタイムじゃねぇだろ!」
一方。
飯田天哉のふくらはぎから、エンジン音が響いた。
爆発的な加速。
地面を蹴った瞬間には、もうゴールしている。
残像のような走りだった。
「うわぁぁっ!?」
麗日お茶子は、立ち幅跳びで自分の身体を軽くしすぎ、勢い余ってグラウンドの端近くまで飛んで悲鳴を上げる。
周囲から笑いが起きた。
「お茶子ちゃんすげー!」
「ひゃ、百メートル近く飛んでへん!?」
さらに。
テープを射出する者。
硬化した身体で記録を叩き出す者。
皆、当たり前のように個性を使いこなしていた。
迷いがない。
身体へ染み付いている。
幼い頃から使い続け、生活の一部として扱ってきた“個性”。
それが、はっきりと分かる。
「……っ」
出久は、自分の番を待ちながら拳を握る。
骨が軋く感覚。
槍骨。
AFOから与えられた個性。
数か月。
地下施設で叩き込まれた訓練。
骨生成。
硬度調整。
骨格強化。
痛覚への耐性。
身体は、確かに変わった。
無個性だった頃とは比較にならない。
「次、緑谷」
相澤に呼ばれる。
出久は小さく息を呑み、前へ出た。
五十メートル走。
スタートライン。
「位置について」
出久は腰を落とす。
集中。
周囲の音が遠のく。
脚部骨格。
筋肉負荷。
重心。
AFOとの訓練で叩き込まれた感覚が、自然と身体を動かしていた。
「——始め」
地面を蹴る。
瞬間。
骨格強化された脚部が、一気に加速した。
速い。
無個性だった頃の自分では考えられない速度。
風が頬を叩く。
ゴール。
「六秒八七」
悪くない。
中学生としては、かなり優秀な記録。
だが。
「飯田すげぇな……」
「爆豪やばすぎだろ……」
周囲から聞こえるのは、もっと上の記録への驚きばかりだった。
出久は唇を噛む。
次。
握力。
出久は掌へ意識を集中させた。
槍骨を形成する際の骨密度制御。
それを応用し、腕部へ力を集中させる。
メキ、と。
皮膚の下で骨が軋む感覚。
計測器が悲鳴を上げるような音を立てた。
「握力、一八九キロ」
「おおっ!?」
周囲が少しざわつく。
だが。
「二百超えいるぞ」
「硬化の奴やべぇな……」
すぐに別の記録へ話題が移る。
出久は、静かに息を吐いた。
記録自体は悪くない。
中学生として見れば十分優秀であり、無個性だった頃の自分からすれば別人みたいな数値だった。だが、それでも“A組の中では突出していない”という事実が、出久の胸を重く沈めていた。
そして何より、自分だけがどこかぎこちない。
個性を扱うたび、微かな違和感がある。
骨が身体へ馴染み切っていない。
意識して制御している感覚が消えない。
幼少期から個性と共に生きてきたA組の面々とは、根本的に違う。
爆豪は呼吸するように爆破を使う。
飯田は脚部エンジンを身体の延長として扱う。
彼らにとって個性は、“後から与えられた力”ではない。
生まれた時から、自分自身の一部だ。
「……」
出久は、反復横跳びを終えながら小さく俯く。
訓練した。
努力した。
AFOの地獄みたいな圧縮訓練にも耐えた。
その成果は出ている。
間違いなく、今の自分は強くなっている。
それでも。
A組の面々との差は、確かに存在していた。
積み重ねてきた時間。
経験。
身体への馴染み方。
それらが、数字以上の差として現れている。
そして。
相澤の端末へ表示されている順位一覧が、出久の視界へちらりと映った。
自分の順位。
決して上位ではない。
中位。
いや、やや下。
「……っ」
背筋へ、冷たい汗が流れた。
最下位だけは駄目だ。
絶対に。