間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第7話 今、僕がしなければいけない事

 雄英高校ヒーロー科。

 

 一年A組。

 

 教室の扉横に掲げられたプレートを見上げながら、出久は立ち止まっていた。

 

 胸が、重い。

 

 ここまで来た。

 

 本当に。

 

 夢だった場所へ。

 

 なのに、心の奥は晴れなかった。

 

 制服の下。

 身体のどこかへ埋め込まれた“保険”。

 

 AFOの掌。

 

 黒い穴。

 

 母を映していたモニター。

 

 思い出すだけで、胃の奥が冷える。

 

「……」

 

 出久は、小さく息を吐いた。

 

 そして。

 

 意を決するように、教室の扉へ手をかける。

 

 ガラリ、と。

 

 引き戸が横へ滑った。

 

 瞬間、教室の空気が少しだけ動く。

 

 すでに多くの生徒が集まっていた。

 

 談笑する声。

 机を動かす音。

 個性的な外見の生徒たち。

 

 皆、これから始まる高校生活への期待を隠しきれていない。

 

 その中で。

 

「あっ!」

 

 明るい声が上がった。

 

 出久がそちらを見る。

 

 丸顔。

 柔らかな茶色の髪。

 ふわりとした雰囲気。

 

 受験会場で声をかけてくれた少女だった。

 

「受験の時の!」

 

 少女はぱっと表情を明るくする。

 

「よかったぁ! 合格したんやね!」

 

 関西訛り混じりの声。

 

「自己紹介してなかったよね、私麗日お茶子! 君は?」

 

 その屈託のない笑顔に、出久は少しだけ目を見開いた。

 

「あ……僕は」

 

 すると今度は、別方向から勢いよく椅子が引かれた。

 

「おお、君か!」

 

 眼鏡。

 

 長身。

 

 真っ直ぐな姿勢。

 

 飯田天哉が、実に飯田天哉らしい勢いで立ち上がっていた。

 

「無事合格したのだな、緑谷君!」

 

 ビシッ、と腕が振られる。

 

「君の実技試験での行動は実に見事だった!」

 

 出久の肩が僅かに揺れる。

 

「え……」

 

「特に最後だ!」

 

 飯田は熱弁する。

 

「危険を顧みず救助へ向かった判断! あれこそヒーロー精神だ!」

 

「そ、そんな……」

 

 出久は思わず視線を逸らした。

 

 褒められる資格なんて、本当に自分にあるのか。

 

 脳裏にAFOの声が蘇る。

 

『実に、ヒーローらしかった』

 

 同じ言葉なのに。

 

 飯田の言葉は暖かくて。

 AFOの言葉は冷たかった。

 

 麗らかな少女——麗日お茶子も、うんうんと頷く。

 

「うんうん! ほんとに凄かった!」

 

 彼女は、少し身振りを交えながら続けた。

 

「君が助けてくれなかったら、怪我して、多分受験も落ちちゃってたし……」

 

 そこで一瞬、彼女の表情が柔らかくなる。

 

「助けてくれて、ありがとね」

 

「……っ」

 

 出久の喉が詰まる。

 

 真正面から感謝される。

 

 それだけで、胸が痛かった。

 

 自分は。

 

 本当に。

 

 そんな風に感謝されていい人間なのか。

 

「……いや、僕は」

 

 言葉が続かない。

 

 その時だった。

 

 ガラッ、と。

 

 再び教室の扉が開いた。

 

 荒っぽい音。

 

 空気が少しだけ張る。

 

「チッ……」

 

 聞き慣れた舌打ち。

 

 爆豪勝己だった。

 

 ポケットへ手を突っ込み、苛立った顔のまま教室へ入ってくる。

 

 そして。

 

 出久の姿を見た瞬間、その目が細くなった。

 

「……おいデク」

 

 低い声。

 

 周囲の空気が少しだけ固まる。

 

 爆豪の視線が、出久を上から下まで値踏みするように動いた。

 

 実技試験。

 

 合格。

 

 ヒーロー科。

 

 どう考えても、おかしい。

 

 爆豪の認識では、緑谷出久は“無個性”のはずだった。

 

 なのに。

 

 こいつはここにいる。

 

 しかも、今の会話。

 

 救助? 

 巨大ロボ? 

 戦闘? 

 

 理解が噛み合わない。

 

 爆豪の眉間に皺が寄る。

 

「……お前、何した」

 

 怪訝な声だった。

 

 だが、出久は答えない。

 

 答えられない。

 

 爆豪は数秒だけ出久を睨み続け——やがて舌打ちした。

 

「……クソが」

 

 ドサッ、と乱暴に鞄を置く。

 

 そして窓側後方の席へ座り込み、なおも鋭い視線だけを出久へ向け続けていた。

 

「あいつって、入試で一位だった爆豪だよな」

「ああ、あいつの戦いっぷりみたか!? 漢だぜ」

 

 期待と緊張が入り混じった生徒たちは、あちこちで話し始めている。

 

「すげぇな雄英……」

「実技、マジで死ぬかと思った」

「推薦ってどんな感じだったんだ?」

「個性見せてよ!」

 

 声が飛び交う。

 

 だが。

 

「——仲良しごっこがしたいなら、よそでやれ」

 

 低い声が、教室へ落ちた。

 

 瞬間。

 

 空気が止まる。

 

「……え?」

 

 誰かが小さく声を漏らした。

 

 教室中の視線が、一斉に教壇へ向く。

 

 そこには——誰もいなかった。

 

 いや。

 

 違う。

 

 教壇の陰。

 

 床に転がるように置かれていた黄色い寝袋が、もぞり、と動いた。

 

「うおっ!?」

 

「えっ、なに!?」

 

 数人が思わず声を上げる。

 

 寝袋のファスナーがゆっくり開く。

 

 そして。

 

 中から、ぼさぼさ髪の男が、のっそりと這い出てきた。

 

 無精髭。

 死んだような目。

 黒い捕縛布のような装備。

 

 全体的に、やる気がない。

 

 というより、“疲れ切っている”という表現の方が近かった。

 

 男は気怠げに目を擦りながら、生徒たちを見回す。

 

「……うるさい」

 

 それが第一声だった。

 

 教室が静まり返る。

 

 出久も、思わず目を見開いていた。

 

 いつからいた。

 

 誰も気付かなかった。

 

 男は寝袋を引き摺ったまま教壇へ立つ。

 

 その姿には、プロヒーローらしい派手さはまるでない。

 

 だが。

 

 妙な圧があった。

 

 教室全体を、一瞬で静かにさせるだけの空気。

 

 男は面倒そうに溜息を吐いた。

 

「……時間は有限だ」

 

 一拍。

 

「特にヒーローはな」

 

 そのまま、気怠げに名札を机へ置く。

 

 相澤消太。

 

 そう書かれていた。

 

「A組担任」

 

 ぼさぼさ頭の男——相澤が、眠そうな目のまま告げる。

 

「相澤消太だ。よろしく」

 

 あまりにも雑な挨拶だった。

 

 教室の空気が、一瞬だけ固まる。

 

「……え、それだけ!?」

 

 思わず誰かがツッコむ。

 

 相澤は無視した。

 

「じゃあ、早速だけど」

 

 そう言って。

 

 教卓の上へ、運動着を雑に放り投げる。

 

「グラウンド行くぞ」

 

「……へ?」

 

 間の抜けた声が漏れた。

 

 麗日が瞬きを繰り返す。

 

「えっと……入学式は?」

 

「オリエンテーションとか……」

 

 飯田すら困惑していた。

 

 だが、相澤は平然としている。

 

「そんな暇ない」

 

 気怠げな声。

 

「ヒーロー科は合理性重視だ」

 

 その瞬間。

 

 出久の背筋へ、ぞくり、と冷たいものが走った。

 

 合理性。

 

 その単語だけで、別の男を思い出す。

 

『時間がないからね、手荒に教育していく』

 

 AFO。

 

 地下施設。

 

 訓練。

 

 罰。

 

 脳裏へ蘇った声に、出久の呼吸が僅かに乱れた。

 

 相澤はそんな出久へ、一瞬だけ視線を向ける。

 

 眠そうな目。

 

 だが。

 

 その奥だけが、妙に鋭かった。

 

 まるで、一瞬で生徒全員を観察し終えているみたいに。

 

 出久は反射的に目を逸らす。

 

 心臓が、小さく跳ねた。

 

 爆豪は、そんな出久の反応を横目で見て、さらに眉を顰める。

 

「……チッ、気色悪いな」

 

 数十分後。

 

 一年A組の生徒たちは、揃ってグラウンドに集められていた。

 

 真新しい体操服。

 広すぎるほどの運動場。

 遠くに見える訓練設備。

 

 雄英高校の規模は、教室の中にいた時よりもさらに現実味を持って迫ってきた。

 

「え、ほんとに入学式なし?」

「普通、最初って校長先生の話とかあるんじゃねぇの?」

「いきなりグラウンドって、何するんだよー」

 

 ざわめきが広がる。

 

 誰もが戸惑っていた。

 

 期待していた高校生活の始まりとは、明らかに違う。

 

 出久も列の中で、周囲を見回す。

 

 隣には飯田が直立不動で立ち、少し離れたところでは麗日が不安そうに辺りを見ている。爆豪は腕を組み、苛立ったように相澤を睨んでいた。

 

 青山優雅の姿もあった。

 

 少し離れた位置で、いつものように優雅な立ち姿を作っている。

 

 だが、出久と目が合うと、青山はほんの一瞬だけ笑った。

 

 作り物のような笑みだった。

 

 出久の胸の奥が、重く沈む。

 

 その時。

 

「静かにしろ」

 

 相澤の一言で、ざわめきが止まった。

 

 ぼさぼさ髪の担任は、片手にボールを持っていた。

 

 野球ボールほどの大きさ。

 

 だが、普通のボールではない。

 

 表面には小型のセンサーらしき部品が取り付けられており、赤いランプが小さく点滅している。

 

「中学の頃にやっただろ。体力テスト」

 

 相澤は、面倒そうにボールを弄びながら言う。

 

「反復横跳び、握力、五十メートル走、ソフトボール投げ……そういうやつだ」

 

 生徒たちの間に、少しだけ緊張が走る。

 

「ただし、ここでは個性の使用を許可する」

 

 空気が変わった。

 

 誰かが小さく息を呑む。

 

「個性を使わない状態での基礎体力は、国の教育課程で測れる。だがヒーロー科で必要なのは、それだけじゃない」

 

 相澤の眠そうな目が、生徒たちを一人ずつなぞる。

 

「個性込みで、どれだけ動けるか。どれだけ自分の力を把握しているか。それを見る」

 

 そして。

 

 相澤は、何の前触れもなくボールを放った。

 

 弧を描いて飛んだそれを、爆豪が片手で受け取る。

 

「あ?」

 

 爆豪の眉が跳ねた。

 

「爆豪」

 

 相澤が言う。

 

「中学のソフトボール投げは何メートルだった」

 

「……六十七メートル」

 

 不機嫌そうに答える。

 

 相澤は頷き、顎でグラウンドの奥を示した。

 

「じゃあ、それを個性を使用して思いっきり投げてみろ」

 

 爆豪の口元が、僅かに吊り上がる。

 

 不機嫌さが、獰猛な笑みに変わる。

 

「個性ありで、か」

 

「ああ。範囲から出るなよ。計測器が飛距離を出す」

 

 相澤は淡々と言った。

 

 爆豪はボールを握り込む。

 

 その掌から、じわりと火薬の匂いが漂った。

 

 周囲の生徒たちが、自然と距離を取る。

 

 出久も、思わず息を止めた。

 

 爆豪勝己。

 

 幼い頃から見てきた個性。

 

 爆破。

 

 強く、派手で、攻撃的で。

 

 彼にふさわしい力。

 

 爆豪は肩を回し、投球姿勢を取る。

 

「見てろよ」

 

 誰に向けた言葉なのか。

 

 出久なのか。

 相澤なのか。

 この場の全員なのか。

 

 爆豪の掌で、火花が弾けた。

 

 次の瞬間。

 

「死ねェェェェェッ!!」

 

 爆発。

 

 轟音と共に、ボールが空へ撃ち出された。

 

 ただ投げたのではない。

 

 爆発の推進力を利用し、腕の振りと同時に加速させた。

 

 白い軌跡が空を裂く。

 

 生徒たちが一斉に見上げる。

 

 相澤の端末が電子音を鳴らした。

 

 表示された数値を見て、相澤は淡々と告げる。

 

「七百五メートル」

 

 ざわめきが起きた。

 

「七百!?」

「マジかよ!」

「桁おかしくね!?」

 

「すっげぇぇぇぇぇ!!」

 

 最初に叫んだのは、赤髪の少年だった。

 

 目を輝かせながら、拳を握り締めている。

 

「これが雄英レベルかよ!!」

 

「やばっ、映画みたい……!」

 

 麗日も目を丸くして空を見上げていた。

 

 まだ小さく見えるボールが、青空の遥か向こうへ消えていく。

 

「個性使って体力測定って、めちゃくちゃ楽しそうじゃん!」

 

「俺も早くやりてぇ!」

 

「何メートル出るかなー!」

 

 一気に空気が変わった。

 

 先程まで戸惑っていたA組の生徒たちが、急に活気づき始める。

 

 自分の個性を使える。

 

 しかも、全力で。

 

 ヒーロー科らしい実践的な授業に、皆が興奮していた。

 

「おいおい、燃える展開じゃねぇか!」

 

「俺の個性なら絶対上位いけるって!」

 

「これ、記録勝負みたいなもんだろ!?」

 

 騒がしい。

 

 期待。

 自信。

 高揚感。

 

 それらがグラウンド全体へ広がっていく。

 

 だが。

 

「……楽しそうで何よりだ」

 

 相澤の気怠げな声が、水を差すように落ちた。

 

 ざわめきが止まる。

 

 相澤は端末を見下ろしたまま、淡々と続けた。

 

「ちなみに」

 

 一拍。

 

「総合成績最下位だった奴は——除籍処分にする」

 

 空気が、凍った。

 

「…………は?」

 

 誰かが間の抜けた声を漏らす。

 

 冗談だと思った。

 

 だが。

 

 相澤の顔は、一切笑っていない。

 

「雄英は自由な校風が売りだ」

 

 眠そうな目。

 

 けれど、その奥だけが冷たい。

 

「つまり、教師側にも生徒を切り捨てる自由がある」

 

 ぞわり、と。

 

 グラウンド全体へ悪寒が走る。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 飯田が勢いよく手を挙げた。

 

「入学初日に除籍など、あまりにも理不尽では——!」

 

「理不尽?」

 

 相澤が、ゆっくり顔を上げる。

 

「ヒーローって仕事自体が理不尽の塊だろ」

 

 その言葉だけで、飯田が詰まった。

 

「災害。ヴィラン。事故。死」

 

 淡々とした声音。

 

「現場は、お前らの事情なんか待っちゃくれない」

 

 風が吹く。

 

 捕縛布が揺れた。

 

「だったら、最初から現実を教えてやる方が親切だ」

 

 静寂。

 

 先程まで騒いでいた生徒たちも、今は誰も口を開かない。

 

 除籍。

 

 その二文字の重みが、一気に現実味を帯びていた。

 

 出久の喉が、ひくりと震える。

 

「……っ」

 

 除籍。

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 脳裏に浮かんだのは、雄英でも相澤でもなかった。

 

 地下施設。

 

 白い部屋。

 

 生命維持装置。

 

 そして——AFO。

 

 呼吸器越しの声が、脳内へ蘇る。

 

 母を映していたモニター。

 

 黒服の男。

 

 焼け爛れた笑顔。

 

 心臓が、嫌な音を立てた。

 

 除籍になる。

 

 それはつまり。

 

 AFOの期待に応えられなかったという事だ。

 

 雄英へ潜り込めなかった失敗作。

 

 役に立たない駒。

 

 その評価が、自分へ下る。

 

「ぁ……」

 

 出久の指先が、小さく震える。

 

 もし、そうなったら。

 

 母は。

 

 自分は。

 

『逆らえば、君の母君を殺す』

 

 背筋を、氷水が流れ落ちる。

 

 周囲では生徒たちがざわついている。

 

「マジかよ……」

「初日から……?」

「洒落になってねぇぞ……」

 

 だが。

 

 出久には、その声が遠かった。

 

 頭の中で響いているのは、別の声だ。

 

『安心したまえ』

 

『君が従順である限り——』

 

「……っ」

 

 呼吸が浅くなる。

 

 駄目だ。

 

 絶対に。

 

 最下位だけは駄目だ。

 

 除籍だけは。

 

「……じゃあ始める」

 

 相澤の合図と共に、体力測定が始まった。

 

 五十メートル走。

 

 握力。

 

 立ち幅跳び。

 

 反復横跳び。

 

 持久走。

 

 中学までの測定とは、まるで別物だった。

 

「うおおおおッ!」

 

 爆豪が爆発を連続噴射しながら地面を駆け抜ける。

 

 轟音。

 

 風圧。

 

 爆炎を推進力へ変えた加速は、もはやバイクに近い。

 

「五十メートル——五秒〇七」

 

 相澤の読み上げに、生徒たちがどよめく。

 

「速っ!?」

「いや人間のタイムじゃねぇだろ!」

 

 一方。

 

 飯田天哉のふくらはぎから、エンジン音が響いた。

 

 爆発的な加速。

 

 地面を蹴った瞬間には、もうゴールしている。

 

 残像のような走りだった。

 

「うわぁぁっ!?」

 

 麗日お茶子は、立ち幅跳びで自分の身体を軽くしすぎ、勢い余ってグラウンドの端近くまで飛んで悲鳴を上げる。

 

 周囲から笑いが起きた。

 

「お茶子ちゃんすげー!」

 

「ひゃ、百メートル近く飛んでへん!?」

 

 さらに。

 

 テープを射出する者。

 

 硬化した身体で記録を叩き出す者。

 

 皆、当たり前のように個性を使いこなしていた。

 

 迷いがない。

 

 身体へ染み付いている。

 

 幼い頃から使い続け、生活の一部として扱ってきた“個性”。

 

 それが、はっきりと分かる。

 

「……っ」

 

 出久は、自分の番を待ちながら拳を握る。

 

 骨が軋く感覚。

 

 槍骨。

 

 AFOから与えられた個性。

 

 数か月。

 

 地下施設で叩き込まれた訓練。

 

 骨生成。

 硬度調整。

 骨格強化。

 痛覚への耐性。

 

 身体は、確かに変わった。

 

 無個性だった頃とは比較にならない。

 

「次、緑谷」

 

 相澤に呼ばれる。

 

 出久は小さく息を呑み、前へ出た。

 

 五十メートル走。

 

 スタートライン。

 

「位置について」

 

 出久は腰を落とす。

 

 集中。

 

 周囲の音が遠のく。

 

 脚部骨格。

 筋肉負荷。

 重心。

 

 AFOとの訓練で叩き込まれた感覚が、自然と身体を動かしていた。

 

「——始め」

 

 地面を蹴る。

 

 瞬間。

 

 骨格強化された脚部が、一気に加速した。

 

 速い。

 

 無個性だった頃の自分では考えられない速度。

 

 風が頬を叩く。

 

 ゴール。

 

「六秒八七」

 

 悪くない。

 

 中学生としては、かなり優秀な記録。

 

 だが。

 

「飯田すげぇな……」

「爆豪やばすぎだろ……」

 

 周囲から聞こえるのは、もっと上の記録への驚きばかりだった。

 

 出久は唇を噛む。

 

 次。

 

 握力。

 

 出久は掌へ意識を集中させた。

 

 槍骨を形成する際の骨密度制御。

 

 それを応用し、腕部へ力を集中させる。

 

 メキ、と。

 

 皮膚の下で骨が軋む感覚。

 

 計測器が悲鳴を上げるような音を立てた。

 

「握力、一八九キロ」

 

「おおっ!?」

 

 周囲が少しざわつく。

 

 だが。

 

「二百超えいるぞ」

「硬化の奴やべぇな……」

 

 すぐに別の記録へ話題が移る。

 

 出久は、静かに息を吐いた。

 

 記録自体は悪くない。

 中学生として見れば十分優秀であり、無個性だった頃の自分からすれば別人みたいな数値だった。だが、それでも“A組の中では突出していない”という事実が、出久の胸を重く沈めていた。

 

 そして何より、自分だけがどこかぎこちない。

 

 個性を扱うたび、微かな違和感がある。

 

 骨が身体へ馴染み切っていない。

 

 意識して制御している感覚が消えない。

 

 幼少期から個性と共に生きてきたA組の面々とは、根本的に違う。

 

 爆豪は呼吸するように爆破を使う。

 

 飯田は脚部エンジンを身体の延長として扱う。

 

 彼らにとって個性は、“後から与えられた力”ではない。

 

 生まれた時から、自分自身の一部だ。

 

「……」

 

 出久は、反復横跳びを終えながら小さく俯く。

 

 訓練した。

 

 努力した。

 

 AFOの地獄みたいな圧縮訓練にも耐えた。

 

 その成果は出ている。

 

 間違いなく、今の自分は強くなっている。

 

 それでも。

 

 A組の面々との差は、確かに存在していた。

 

 積み重ねてきた時間。

 

 経験。

 

 身体への馴染み方。

 

 それらが、数字以上の差として現れている。

 

 そして。

 

 相澤の端末へ表示されている順位一覧が、出久の視界へちらりと映った。

 

 自分の順位。

 

 決して上位ではない。

 

 中位。

 

 いや、やや下。

 

「……っ」

 

 背筋へ、冷たい汗が流れた。

 

 最下位だけは駄目だ。

 

 絶対に。

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