「かんぱーい!」
トゥワイスが紙コップを高々と掲げた。
「強盗成功を祝して! 強盗阻止を祝して!」
「どっちなんだよ」
スピナーは呆れたように言いながらも、自分の紙コップを軽く持ち上げた。中身は安い炭酸飲料だった。
「そもそも、あれを成功と言っていいのか?」
「金は手に入った! 強盗も止めた! 大成功だ!」
「四万円しかなかったけどな」
「四万円もあった!」
トゥワイスは勢いよく紙コップを傾け、炭酸を一気に飲み干した。
直後に喉へ刺激が入ったのか激しくむせ、苦しそうに胸を叩きながら笑い声を上げる。
「うめえ! まずい!」
「落ち着いて飲めよ」
スピナーは袋から煎餅を一枚取り出し、ぱり、と噛み砕いた。
その隣では、出久がソファへ深く腰を沈めていた。
「食え食え、緑谷少年!」
トゥワイスが皿にチョコレートを追加する。
「怪我には糖分が効く!」
「そんなに食べられませんよ」
「若いんだからいける! 病人に無理をさせるな!」
出久は困ったように皿を見下ろした。
神野での戦闘からまだ日が浅い。
腹部へ強烈な一撃を受けた影響で、食欲は完全には戻っていなかった。脂の多い菓子を見るだけで胃が重くなる。
それでも、袋入りの小さなドーナツを一つだけ手に取った。
「……いただきます」
「おう! 全部食え!」
「無理させるなよ、けが人だぞ」
スピナーがすぐに釘を刺す。
出久は包みを開き、少しずつドーナツを齧った。
甘さが口へ広がる。喉を通った食べ物が傷ついた腹へ落ちていく感覚に、僅かな痛みが走ったが、顔には出さなかった。
テーブルの端には、青い財布から移し替えられた紙幣が輪ゴムでまとめられている。
その横には、スピナー用と書かれた小さな封筒が置かれていた。中には3千円が入っている。
「ただいまでーす」
聞き慣れた明るい声とともに、トガヒミコが部屋へ入ってきた。
薄手のパーカーを羽織り、両手を背中へ回している。顔にはいつも通りの笑みが浮かんでいたが、部屋を出た時とは僅かに様子が違っていた。
髪が少し乱れている。
袖口には、洗った後のような湿り気が残っていた。
「遅かったな」
スピナーが警戒を解きながら尋ねる。
「どこ行ってたんだ?」
「ちょっとお散歩です」
「こんな状況で勝手に散歩するなよ」
「大丈夫です。誰にも見つかってませんから」
トガは靴を脱ぎ、軽い足取りで室内へ入った。
テーブルいっぱいに並んだ菓子へ気づくと、金色の瞳が輝く。
「わあ! お菓子です!」
「お前の分もあるぞ! 全部俺のだ!」
トガは開封済みのチョコレートを一つ摘まみ、そのまま口へ放り込む。
「んー甘いです」
満足そうに頬を緩める。
出久は、そんなトガの姿を少しだけ不思議そうに見つめていた。
彼女は四人と一緒にアパートを出たはずだった。
しかし、帰路の途中から姿が見えなくなり、しばらくしても戻ってこなかった。
「トガさん」
「はい?」
「どこに行ってたの?」
問いかけた瞬間。
トガの手が止まった。
口元へ運びかけていたチョコレートを指先で摘まんだまま、ゆっくりと出久へ顔を向ける。
そして。
「もう」
頬を膨らませた。
「女の子にそんなこと聞いちゃダメですよ!」
「え?」
「デク君、デリカシーがありません」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「女の子には秘密がいっぱいあるんです」
トガは楽しそうに笑いながら、唇の前へ人差し指を立てた。
「どこに行ってたのかも、何をしてたのかも、秘密です」
「でも、危ないことをしてたなら──」
「してませんよ~」
答えは早かった。
あまりにも迷いがなく、出久は一瞬だけ言葉を失う。
トガは再びチョコレートを口へ入れ、ゆっくりと噛み砕いた。
「おぉ勢揃いだな」
少し遅れて入ってきた義爛は片手をポケットへ突っ込んだまま部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めた。
派手な柄の上着には外の冷気がまとわりつき、口元には吸い終えたばかりの煙草の匂いが残っている。
以前なら部屋の中で構わず火を点けていたが、トガが露骨に機嫌を悪くし、換気のために窓を開けようとするたびにスピナーと揉めるため、最近は仕方なく外へ出て吸うようになっていた。
本人にとっては、到底納得できない譲歩だった。
「おかえりなさーい」
トガがチョコレートを頬張ったまま手を振る。
義爛は返事をせず、部屋の様子を見回した。
低いテーブルを埋め尽くす菓子袋。紙コップ。飲みかけの炭酸飲料。ソファへ詰めて座る全国指名手配犯たち。そして中央では、トゥワイスがポテトチップスの袋を抱えている。
「……お前ら」
義爛の声が低くなる。
「はい?」
出久がドーナツを手にしたまま顔を上げた。
義爛は数秒ほど黙り込み、それから深々と息を吐いた。
「世間をあれだけ騒がせてる敵連合が、小物ヴィランから数万円巻き上げて、お菓子パーティーか」
「強盗を阻止した報酬だ!」
トゥワイスが胸を張る。
「正義の寄付だ! 純然たる恐喝だ!」
「後半で全部台無しになってるぞ」
義爛は靴を脱ぎ、菓子の袋を踏まないよう足元を確かめながら室内へ進んだ。
「それで数万円か。随分と壮大な初仕事だったな」
「四万円もあれば何でもできるぜ!」
「何もできねえよ」
「夢がない男だな! 現実的で素敵だぜ!」
「黙って食ってろ」
義爛はテーブルの前へ立ち、輪ゴムでまとめられた紙幣へ目を落とした。
既に菓子代や飲料代が差し引かれているため、残っているのは三万円ほど。その横には、律儀に分けられたスピナーのナイフ代が置かれている。
「本当に持って帰ってきたのか」
「当然だ」
スピナーが答える。
「金だけじゃない。強盗の計画も潰した」
「随分と立派なことで」
義爛は皮肉を返しつつ、紙幣の束を指先で持ち上げた。金額をざっと確かめ、再びテーブルへ戻す。
「まあ、これだけあれば当面の食費くらいにはなるか」
「俺の取り分は別だからな」
スピナーが封筒を指差す。
義爛は椅子を引き、乱雑に腰を下ろした。テーブルの菓子を一つ取ろうと手を伸ばしかけたが、トゥワイスが抱え込むように袋を引き寄せる。
「これは俺たちの戦利品だ!」
「買ったのは俺が立て替えた金だろうが」
「じゃあ半分やる! 一枚もやらねえ!」
義爛は無言で袋を奪い、ポテトチップスを一枚口へ放り込んだ。
「というわけで」
菓子を噛み砕きながら、残った紙幣を顎で示す。
「しばらくは置いておいてやるよ」
スピナーの肩から僅かに力が抜けた。
トゥワイスは両腕を上げる。
「やったぜ! 追い出されるぞ!」
「話を最後まで聞け」
義爛は二枚目へ手を伸ばしながら、ソファの端に座る出久へ視線を移した。
その瞬間、声の調子が変わった。
「それと、緑谷」
「……はい」
出久はドーナツを皿へ戻した。
「お前を名指しした仕事が来てる」
室内が静かになった。
菓子袋を漁っていたトゥワイスの手が止まり、スピナーが義爛へ顔を向ける。
トガもチョコレートを噛むのをやめ、金色の瞳を細めた。
「僕を?」
「ああ。言っておくが、拒否はできねえぞ」
出久の眉が僅かに寄る。
「内容も聞いていないのに?」
「内容を聞いたところで、受けてもらう」
義爛は椅子へ深く腰掛け、脚を組んだ。
「俺はお前を匿った。医者を手配した。薬も用意した。食わせて、寝床まで貸してる。おまけに警察とヒーローが血眼になって探してる状況で、情報を漏らさず面倒を見てやってる」
一つずつ数え上げるたび、出久は反論できなくなっていく。
泥の転送から吐き出された直後、出久は自力で歩くこともできなかった。
義爛が手配した裏医者がいなければ、腹部の損傷も折れた骨も、そのまま悪化していた可能性が高い。
義爛の言葉は恩着せがましいが、内容そのものは事実だった。
「死穢八斎會」
聞き慣れない名を義爛が告げる。
出久は記憶を探るように眉を寄せたが、すぐには該当する情報が浮かばない。ヒーローや著名なヴィランに関する知識なら人並み以上にあるつもりだったが、その名をニュースで耳にした記憶すらなかった。
「しえい……はっさいかい?」
「ああ。指定敵団体、死穢八斎會。その若頭からの御指名だ」
「指定敵団体……」
出久が小さく繰り返す。
「つまり」
義爛は椅子へ深くもたれ、噛み砕いて説明するように続けた。
「ヤクザだよ。そこの若頭が、どこからお前の居場所を聞きつけたのか知らねえが、是非一度話をしたいと俺へ連絡してきた」
「ヤクザ?」
トゥワイスが勢いよく顔を上げた。
「まだいたのか! とっくに絶滅したと思ってたぜ!」
「お前の認識も、そう間違っちゃいねえ」
義爛はポテトチップスの袋へ手を伸ばし、トゥワイスが抱え込むより先に一枚抜き取った。
「ヴィランが表立って暴れるようになる前、裏社会の中心にいたのはああいう連中だった。賭博、薬物、恐喝、みかじめ料。縄張りを持ち、組織を作り、看板を背負って商売する。昔ながらの犯罪組織だ」
「今のヴィランと何が違うんですか?」
出久が尋ねる。
「大雑把に言えば、秩序があるかどうかだな」
義爛は菓子を噛み砕きながら答えた。
「ヤクザは組織だ。上がいて、下がいる。縄張りがあり、掟があり、金の流れがある。好き勝手に暴れて終わりじゃない。犯罪を商売として長く続けるために、目立たず、潰されず、警察とも一定の距離を保つ」
そこまで言ってから、義爛は鼻で笑った。
「今じゃヤクザなんて、裏社会の骨董品みたいなもんだ。かつては街の裏側へ根を張っていた連中も、今じゃ警察とヒーローに監視されながら細々と生き延びている。ニュースで名前を聞くことも滅多にない、絶滅危惧種だよ」
義爛の説明を聞き終えても、出久の表情は晴れなかった。
拒否権がないことは理解している。
借りがある。
それも、一つや二つではない。
だからといって、何も分からないままヤクザの若頭と会えと言われて、素直に頷けるはずもなかった。
「……話をするだけ、なんですよね」
出久は念を押すように尋ねた。
「先ずはな。そこからどんなビジネスの話をするかは当人同士で勝手にやってくれ」
義爛は椅子の背もたれへ身体を預け、出久の渋い顔を面倒そうに眺めた。
その横では、トガが頬杖をつきながら二人の会話を楽しそうに聞いている。スピナーは警戒するように腕を組み、トゥワイスは空になりかけた菓子袋を振って、底に残った欠片を口へ流し込んでいた。
「まあ、そう嫌そうな顔をするな」
義爛は上着の内側へ手を入れた。
「先方も、ただ働きをさせるつもりはないらしい」
取り出したのは、小さな巾着袋だった。
黒地に細い金糸が走った、見た目だけなら古風な小物入れにしか見えない。
だが、テーブルへ置かれた瞬間、どすりと重い音がした。
中身の形に押し広げられ、袋は不自然なほど角張っている。
「これは先方からの手付金だとよ」
義爛は巾着を出久へ差し出した。
「話を聞きに来るだけで、まずこれだ」
出久は受け取らなかった。
膝の上に置いた左手を僅かに動かしただけで、警戒するように巾着を見つめる。
出久が渋っているうちに、横から黒い手袋が伸びた。
「金だとぉ!?」
トゥワイスだった。
「あっ」
出久が止めるより早く、彼は巾着をひったくるように受け取った。
「おいおい! 話と随分違うじゃねえか! 景気が良いな!」
トゥワイスは紐を勢いよく解いた。
袋を逆さにする。
すると、帯でまとめられた札束が、どさりとテーブルの上へ落ちた。
菓子袋の間へ収まりきらず、紙コップを押し倒しながら幾つも重なる。
出久たちが小物ヴィランから奪った数万円など、比較にならない厚みだった。
室内が静まり返る。
「……」
トゥワイスは固まった。
さっきまで絶え間なく動いていた口が、半開きのまま止まっている。
「どうした?」
スピナーが訝しげに尋ねる。
トゥワイスは返事をせず、札束を一つ手に取った。
続いて二つ目。
三つ目。
数えるたびに、白い目の模様が大きく見開かれていくように見えた。
「おい」
義爛が声を掛ける。
「いくらだ」
トゥワイスの手が震える。
「ご……」
「五万?」
「五十……」
「五十万ですか?」
トガが身を乗り出した。
トゥワイスは勢いよく顔を上げた。
「五百万だぁぁぁぁッ!」
絶叫が部屋を揺らした。
「俺たちのしょぼい強盗百回分以上だ!」
トゥワイスは札束を胸へ抱き締めると、出久へ勢いよく振り返った。
「受けます!」
「え?」
「この仕事、俺たちが受けます!」
「勝手に決めないでくださいよ」
「決定だ! 今すぐ断れ!」
トゥワイスは出久の返事も待たず、義爛へ親指を立てる。
「死穢八斎會だか、死体八回会だか知らねえが、喜んで会いに行くぜ! 依頼主に伝えてくれ! 緑谷出久は金で動く男だ!」
義爛は札束を抱え込むトゥワイスを見て鼻で笑い、それから改めて出久へ視線を向ける。
「だそうだ」
出久は深く息を吐いた。
手付金を突き返したところで、自分が負っている借りまで消えるわけではない。
それに死穢八斎會が、どうやって自分の所在を知ったのか。
なぜ、わざわざ大金を払ってまで会おうとしているのか。
不安はあるが、無視できない情報でもあった。
もし相手がAFOについて何か知っているのなら、会わずに切り捨てるわけにはいかない。
「……分かりました」
出久は諦めたように肩を落とした。
「会う日取りが決まったら教えてください」
「良い子だ」
出久は膝へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
腹部へ力が入った瞬間、傷が痛んだのか僅かに顔を歪める。
それでも誰かの手を借りようとはせず、壁へ手を添えながら身体を起こした。
「デク君、どこ行くんですか?」
トガが尋ねる。
「少し外の空気を吸ってきます」
出久は椅子の背へ掛けていた上着を取り、片腕だけでどうにか羽織った。
フードを深く被る。
緑色の髪と、痣の残る顔が影に隠れた。
「おい、緑谷少年」
トゥワイスが札束を抱えたまま声を掛ける。
出久は一度だけ振り返った。
何かを言おうとしたように唇が動く。
しかし、結局そのまま口を閉ざし、扉を開けて部屋を出ていった。
かちゃり。
静かに扉が閉まる。
残された室内に、妙な沈黙が落ちた。
トゥワイスは抱えていた札束と、閉じた扉を交互に見る。
「……」
先ほどまでの勢いは、すっかり消えていた。
「なあ」
不安げに周囲を見回す。
「もしかして、俺のせいかな」
「そうかもしれないな」
スピナーが冷静に答えた。
「そうじゃねえって言えよ!」
トゥワイスは胸元へ抱えていた札束を慌ててテーブルへ戻した。
先ほどまで宝物のように抱え込んでいたにもかかわらず、今はそれが出久を追い詰めた証拠のように見えたらしい。
「俺はただ、金が必要だと思っただけなんだ。五百万もあれば飯も薬も買えるし、隠れ家だってもっといいところに移せる。全員で豪邸に住める! 来月には路上生活だ!」
「そこまで落差はないだろ」
「とにかく、謝ってくる!」
トゥワイスは玄関へ向かって駆け出した。
扉を開ける直前には一度振り返り、テーブル上の札束を心配そうに指差す。
「それ、誰にも取られるなよ! 全部俺のだ!」
「いいから行け」
義爛に追い払われ、トゥワイスは廊下へ飛び出した。
錆びた階段を駆け下りる音が、古い建物全体へ騒々しく響く。
途中で足を踏み外しかけたらしく、「危ねえ!」と「このまま落ちろ!」という矛盾した叫びまで聞こえてきた。
建物の裏手へ回ると、表通りの喧騒はほとんど届かなかった。
両側を古い建物に挟まれた細い空間には、錆びた室外機や積み上げられた廃材、蓋の歪んだゴミ箱が並んでいる。
日の光も十分には差し込まず、湿ったコンクリートの匂いが漂っていた。
その奥で、出久は適当な木箱に腰掛けていた。
配送用に使われていたのか、側面には読めなくなった企業名が薄く残っている。
片側が割れ、座るたびに軋みそうな代物だったが、出久は気にする様子もなく、壁へ背を預けてぼんやりと宙を見つめていた。
深く被ったフードの下から、緑色の髪が僅かに覗いている。
「おーい、緑谷少年」
トゥワイスは声量を落としながら近づいた。
「その、悪かったよ」
出久の隣へ立ち、頭を掻く。
「勝手に仕事を受けたことだ。お前が嫌がってるのに、金額を見て俺が舞い上がった。反省してる! 全然悪いと思ってねえ!」
「別に、あなたに怒ってるわけじゃないんです」
出久は前を向いたまま、静かに言った。
薄暗い路地の先には、隣の建物の汚れた壁しか見えない。
湿ったコンクリートには雨水の跡が黒く残り、室外機から吐き出される生温い風が、フードの端をかすかに揺らしていた。
「え?」
トゥワイスは頭を掻いていた手を止める。
「俺に怒ってないのか?」
「怒ってませんよ」
「本当か?」
「本当です」
出久はそこで一度言葉を切り、膝の上に置いた左手へ目を落とした。
包帯の隙間から見える指先には、まだ細かな傷が幾つも残っている。
「ただ……なんか、嫌になっただけです」
「何がだ?」
「自分が」
トゥワイスは何か言おうとしたが、うまい言葉が見つからず口を閉ざした。
「今日のことだって、強盗を止めるためだとか、相手もヴィランだからとか、生活費が必要だからとか、いくらでも理由はつけられるじゃないですか」
「実際、強盗は止めたぞ」
「はい」
「店員も助かった。何も知らないがな!」
「それでも」
出久の声が僅かに沈む。
「結局、僕たちは人を脅して、お金を奪ったんです」
トゥワイスは黙った。
出久たちが行かなければ、翌日には本当にコンビニが襲われていたかもしれない。
奪った金も、彼らが真っ当に稼いだものとは限らない。
だが、それらはすべて出久が言った通り、後から付け足せる理由に過ぎなかった。
「もっと嫌な気持ちになると思ってました」
出久はゆっくりと続ける。
「自分が犯罪をしたって、もっと怖くなったり、後悔したりすると思ってた。でも、思ったより何も感じなかったんです」
「何も?」
「お金を渡されて、帰ってきて、お菓子を買って……普通に楽しかった」
その言葉を口にした瞬間、出久の表情が歪んだ。
楽しかった。
その事実こそが、彼を何より苦しめているようだった。
「みんなと一緒に行って、騒いで、強盗を止めて、お金を持ち帰って。やったことは犯罪なのに、僕は途中から、それを忘れてたんです」
「……」
「ヤクザの話だってそうです」
出久はフードの奥で目を伏せる。
「普通なら、もっと怖がるべきなんだと思います。関わりたくないって、真っ先に思うはずなのに」
「思わなかったのか?」
「あんまり」
正直な答えだった。
「危険だとは思いました。罠かもしれないとも考えた。でも、それだけです。ヤクザと会うってこと自体には、あまり何も感じなかった」
トゥワイスは出久の横顔を見つめた。
「神野でオールマイトと戦って、AFOが捕まって、僕は全国指名手配されて、麗日さんまで巻き込んだ。それに比べたら、ヤクザと会うくらい大したことじゃないって、どこかで思ってるんです」
「まあ、順番としては小さく見えるかもな」
「そういう自分が嫌なんです」
出久は俯いた。
「前だったら、強盗なんて絶対にしなかった。ヤクザと仕事をするなんて、考えるだけでも怖かったはずなのに」
左手が膝の布地を強く掴む。
「でも今は、相手が悪い人なら奪ってもいいとか、必要なら犯罪者と組んでも仕方ないとか、そういうことを平気で考えられる」
声は静かだったが、その奥には明確な怯えがあった。
「僕、自分が変わっていくのが分かるんです」
トゥワイスは頭の中で必死に言葉を探した。
大丈夫だ、と言うべきか。
そんなことはない、と否定するべきか。
それとも、自分たちと同じ側へ来たのだから気にするなと笑えばいいのか。
どれも違う気がした。
出久が恐れているのは、犯罪者になることそのものではない。
自分がそれを自然に受け入れ始めていることだった。
「お前はまだヒーローだ!」
咄嗟に口から出た言葉は、トゥワイス自身が驚くほど真っ直ぐだった。
だが次の瞬間。
「いや、立派なヴィランだ!」
出久は困ったように眉を下げた。
トゥワイスはますます焦った。慰めるつもりで来たのに、これでは不安を増やしているだけだった。
「その……あれだ」
腕を組み、首を捻る。
「人間ってのは色々あると、色々するんだよ」
「全然分かりません」
「俺にも分からん!」
トゥワイスは言い切ったあと、少しだけ声を落とした。
「でもまあ、色々あったしな」
出久が顔を上げる。
「色々なんて言葉じゃ足りないくらい、色々あっただろ」
居場所も、立場も、これからの道も、僅か数日の間にすべて失った。
十六歳の少年が受け止めるには、あまりにも多すぎる。
「昨日までの常識が、今日には何の役にも立たなくなったんだ。そりゃ頭もおかしくなる! お前は正常だ!」
「どっちなんですか」
「今は麻痺ってんのさ、色々!」
トゥワイスは勢いよく出久の肩を叩いた。
ぱん、と乾いた音が路地へ響く。
「痛っ」
「あっ、悪い!」
傷へ響いたのか、出久が顔を歪める。
トゥワイスは慌てて手を離したものの、すぐに今度は壊れ物へ触れるような弱い力で、もう一度肩へ手を置いた。
「まぁあれだ、元気出せよ。好きに生きようぜ」
出久はしばらく黙っていたが、やがて口元をほんの少しだけ緩めた。
「ありがとうございます」
出久は木箱へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「戻ります」
「もういいのか?」
「はい。いつまでも外にいると、トガさんが探しに来そうなので」
「確かにな!」
立ち上がった拍子に腹部へ痛みが走り、出久の身体が僅かに傾く。
トゥワイスは咄嗟に腕を伸ばしたが、出久は壁へ手をついて自分で姿勢を立て直した。
「おっと……」
「おぉ! 気を付けろよ!」
「はい、すいません」
フードの影に隠れた顔には、まだほんの僅かに笑みが残っている。
そして今度こそ、建物の表側へ向かって歩き出した。
錆びた階段を上る足音が、一段ずつ遠ざかっていく。
トゥワイスはその場に立ったまま、出久の背中を見送った。
「……」
上階で扉が開く音がする。
続いて、トガの明るい声。
スピナーの低い声。
トゥワイスはそれを確認してから、ようやく肩の力を抜いた。
壁へ背を預ける。
ずるずると身体が沈み込み、そのまま湿った地面へ座り込んだ。
両膝を立て、そこへ額を押しつける。
「……俺、だせぇ〜〜」
小さな声が、誰もいない路地へ落ちた。