間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第71話 死穢八斎會

 消毒薬の匂いが、地下室の冷えた空気へ染みついていた。

 

 窓のない一室。

 その中央に置かれた長机を挟み、敵連合と死穢八斎會の人間たちは既に向かい合って座っている。

 

 敵連合側の席にいるのは、四人だけだった。

 中央には緑谷出久。

 その右隣にトガヒミコとトゥワイスが並び、左隣にはスピナーが座っている。

 他のメンバーは事態が沈静化するまで一旦別行動を取っていた。今残っているのは出久本人に強い思い入れのある面々だ。

 

 長机の反対側。

 出久の正面には、死穢八斎會の若頭が座っていた。

 

 深緑色の髪。

 暗い色のコート。

 白い手袋に覆われた両手。

 そして、顔の下半分を隠す鳥の嘴を模した所謂ペストマスク。

 

 治崎廻。

 通称、オーバーホールと呼ばれている男だった。

 

 その左右には、死穢八斎會の構成員が二人ずつ並んでいる。壁際にも黒服の男たちが立ち、敵連合の僅かな動きも見逃すまいと視線を向けていた。

 

 部屋へ入る前、トガとスピナーは武器を預けさせられている。

 スピナーの予備のナイフ。

 トガが服の下へ隠し持っていた何本もの刃物。

 さらに靴の中から見つかった一本まで、すべて金属製の箱へ収められた。

 

 もっとも、二人が本当に全てを渡したのかどうかは、出久にも分からない。

 

 トゥワイスは椅子の背へ深く身体を預け、落ち着きなく周囲を見回していた。

 

 それとは対照的に、オーバーホールは微動だにしない。

 

 壁際へ並ぶ構成員たちの緊張も、トガが預けた武器の本数も、トゥワイスの視線が部屋の出口や天井の換気口へ何度も向けられていることも、すべて把握しているように見える。

 それでも彼は指摘せず、長机を挟んで座る出久だけを静かに見据えていた。

 

 やがて、白い手袋に包まれた両手を机の上で組むと、わずかに顎を引いた。

 

「まずは、来てくれたことに礼を言おう」

 

 口調は穏やかだった。

 

 出久たちを取り囲む人数や、入室前に武器を取り上げた対応とは不釣り合いなほど丁寧で、初対面の取引相手を迎える若頭として、形式だけなら非の打ち所がない。

 

「死穢八斎會若頭、治崎廻だ。オーバーホールで通している」

 

「緑谷出久です」

 

「知っている」

 

 オーバーホールは即座に答えたが、その言葉に嘲りはなかった。

 

「今の日本で、君の名前を知らない人間を探す方が難しいだろう。神野でオール・フォー・ワンと共に現れ、オールマイトと戦った少年」

 

 表面的には柔らかな会話だったが、出久は気を緩めなかった。

 

 オーバーホールの視線には、相手を対等な人間として見る温度がない。

 値札の付いていない商品を眺め、使い道と価値を測っているような目だった。

 

「それに、君だけではない」

 

 オーバーホールは視線を横へずらした。

 

「敵連合も、今や裏社会では知られた名前だ。神野での一件によって、君たちはオール・フォー・ワンに近しい集団として広く認識された。本人が収監された今、その名が持つ価値は以前よりも高い」

 

「俺たちの名前を利用したいってことか?」

 

 スピナーが尋ねる。

 

「利用という言葉は、一方だけが得をする場合に使うものだ」

 

 オーバーホールは丁寧な口調を崩さない。

 

「俺が提案したいのは協力関係だ。死穢八斎會は現在、新しい事業の拡大を計画している。そのためには、従来の取引先だけでなく、より広い販路と、裏社会へ強く印象づけられる看板が必要になる」

 

「それで俺たちか」

 

「そうだ」

 

 スピナーの問いへ、オーバーホールは迷いなく頷いた。

 

「敵連合は組織として未熟だが、名は売れている。特に緑谷出久という存在には、オール・フォー・ワンの後継者という印象が付きまとっている。君自身が否定しても、世間がそう認識している事実は変わらない」

 

 出久の眉が僅かに寄った。

 

「僕の名前を使って、商品を売りたいんですか」

 

「簡単に言えばな」

 

「随分と正直だな!」

 

 トゥワイスが身を乗り出す。

 

「信用できるぜ! クソヤクザ野郎!」

 

 左右の構成員が眉をひそめたが、オーバーホールはトゥワイスを一瞥しただけだった。

 

「最初から隠す必要もない。こちらには事業を広げるための影響力が必要で、君たちには資金と基盤が必要だ。互いの不足を補う。単純な話だろう」

 

「内容によります」

 

 出久は即答した。

 

「何を売るつもりなのかも分からないのに、協力するとは言えません」

 

「当然だ」

 

 オーバーホールは頷く。

 

 受け答えだけなら、出久の警戒を理解し、尊重しているようにさえ聞こえる。

 しかし、その落ち着きには最初から断られる可能性など考えていないような不気味さがあった。

 

「それで」

 

 スピナーが机へ肘をつかず、背筋を伸ばしたまま問いかける。

 

「その新しい事業ってのは何だ。薬か。武器か。それとも人身売買でも始めるつもりか?」

 

「その中では、薬が最も近い」

 

 オーバーホールはコートの内側へ右手を入れた。

 

 その瞬間、スピナーの身体が僅かに強張る。トガの瞳も細まり、トゥワイスは椅子から腰を浮かせかけた。

 

 壁際の黒服たちも同時に姿勢を変える。

 

「そう警戒するな」

 

 オーバーホールはそう告げながら、ゆっくりと手を抜いた。

 

 取り出したのは、手のひらへ収まるほどの小さな黒いケースだった。

 表面には何の文字も刻まれていない。光沢を抑えた材質で作られ、角は丸く処理されている。

 医療器具の収納箱にも、拳銃の部品を収める容器にも見えた。

 

 オーバーホールはそれを机の中央へ置いた。

 

 かちり、と留め具を外す。

 

 出久たちの視線が一斉に集まるなか、ケースの蓋がゆっくりと持ち上げられた。

 

 内側には黒い緩衝材が敷かれ、その中央に数本の小さな筒状の物体が収められていた。

 

 形だけを見れば、拳銃の弾丸に近い。

 金属製の先端。

 透明な胴体。

 その内部には、液体が僅かに満たされている。

 

「弾丸……?」

 

 出久が小さく呟く。

 

「正確には、薬品を射出するための容器だ」

 

 オーバーホールは一本を指先で摘まみ上げた。

 

 透明な部分で、赤い液体がゆっくりと揺れる。地下室の白い照明を受け、血液にも似た不穏な光を返した。

 

「なんだそりゃ、毒か?」

 

 スピナーが尋ねる。

 

「これは、個性を破壊することのできる薬品だ」

 

 オーバーホールは、指先で摘まんだ弾丸を出久たちへ見せつけるように持ち上げた。

 

 赤黒い液体が透明な容器の内側で揺れる。あまりにも小さく、見た目だけなら命を奪うほどの危険物には思えない。しかし、その言葉が事実ならば、これは人の人生を根底から破壊する兵器だった。

 

「一時的に使えなくするってことだよな……?」

 

 スピナーの問いに、オーバーホールは首を横へ振った。

 

「試作品には効果の持続時間にばらつきがある。数時間で戻るものもあれば、数日間発現できなくなるものもある。だが、俺たちが完成させようとしているのは、そんな半端な代物じゃない」

 

 弾丸をケースへ戻し、白い手袋に包まれた人差し指で軽く叩く。

 

「一発撃ち込めば、その人間の個性因子を完全に破壊する。二度と個性を使えなくなる、完成された消失弾だ」

 

 地下室の空気が、さらに冷たくなったように感じられた。

 

「二度と……」

 

 トゥワイスが自分の両手を見下ろす。

 

「そんなものを撃たれたら、俺は2度と誰かを増やせない! 清々するぜ!」

 

「黙ってろ」

 

 スピナーが低く制したものの、彼自身の視線もケースへ釘付けになっていた。

 

 個性は戦うための武器であるだけではない。異形型の人間にとっては、肉体そのものだ。

 個性因子を完全に破壊するという言葉が何を意味するのか、スピナーにも正確なところは分からなかった。

 

「個性を消して……どうするつもりなんですか」

 

 出久が尋ねた。

 

「ヒーローを無力化する武器として売るんですか?」

 

「それだけなら、大した事業にはならない」

 

 オーバーホールは淡々と答えた。

 

「確かに、ヒーローを憎む人間は買うだろう。捕縛を恐れるヴィランも、対立組織を潰したい連中も欲しがる。強力な個性を持つ人間ほど、一発の弾丸で無力化できるという価値は大きい」

 

 そこで一度言葉を切り、机の向こうに座る出久を静かに見据える。

 

「だが、俺が売りたいのは単なる武器じゃない。恐怖そのものだ」

 

「恐怖?」

 

「この世界には病人が多すぎる」

 

 オーバーホールの声から、表面的な柔らかさが僅かに薄れた。

 

「生まれ持った異常を才能と呼び、その力を見せびらかし、他人の人生へ土足で踏み込む。自分には人を救う資格があると本気で信じ込み、求められてもいないのに手を差し伸べる」

 

 ペストマスクの奥から吐き出される声には、隠し切れない嫌悪が滲んでいた。

 

「ヒーロー症候群の病人どもだ」

 

 出久の表情が強張る。

 

 その言葉が誰を指しているのか、問い返す必要はなかった。

 

 オーバーホールが嫌悪しているのは、職業としてのヒーローだけではない。

 誰かを助けたいと思うこと、自分の力を他人のために使おうとすること、その思想そのものを病気と呼んでいる。

 

「困っている人間を見れば、勝手に助けようとする。事件が起これば、自分の命を顧みず首を突っ込む。拍手を浴びれば、自分は正しい人間だと思い込み、同じ行為を繰り返す」

 

 オーバーホールはケースの中から一本を取り出し、机の上へ転がした。

 小さな弾丸が硬い音を立てて進み、机の中央で止まる。

 

「そういう気持ちの悪い連中から、個性を奪う」

 

 出久は無意識に左手を握り締めた。

 

「昨日まで空を飛び、炎を操り、何十人もの人間を救っていたヒーローが、翌日にはただの無力な人間になる。誰かを救おうとしても身体が動かず、助けを求める声を聞きながら何もできない。自分を価値ある存在だと思い込んでいた人間ほど、深く絶望するだろう」

 

 オーバーホールは、出久の反発を最初から予想していたように平然と続けた。

 

「ヒーローを絶望させたい人間は、この薬を求める。ヒーローに捕まったヴィラン、その家族、偽善的な救助活動で生活を壊された者、社会から見捨てられた者。動機は違っても、ヒーローから力を奪いたいという願いは同じだ」

 

 オーバーホールは椅子へ深く腰掛けた。

 

「それがお前の言う事業か、随分大仰なことをしようとしている。世の中大混乱になるぞ」

 

「まぁ待てよ、まだ話は終わりじゃない」

 

 オーバーホールはケースの底へ指を掛けた。緩衝材の一部を持ち上げると、その下にはもう一つ、よく似た形状の弾丸が収められていた。

 

 先ほどのものとは違い、内部の液体は淡い青色をしている。

 

「個性を失った人間は、当然それを取り戻したいと願う」

 

 オーバーホールは青い弾丸を摘まみ上げた。

 

「地位を失いたくないヒーロー。個性を前提とした仕事を続けたい人間。異形の一部を奪われ、生きることさえ困難になった者。本人だけじゃない。所属事務所も、家族も、支援者も、いくら払ってでも治療法を探すだろう」

 

 出久は青い薬品を見つめた。

 

「それは……」

 

「解毒剤だ」

 

 オーバーホールは静かに告げた。

 

「消失弾によって壊された個性因子を修復し、個性を取り戻させる薬。個性を奪う薬をこちらが売り、その治療薬もこちらが売る」

 

「マッチポンプじゃねえか」

 

 スピナーの声に明確な嫌悪が混じった。

 

「そうだ」

 

 オーバーホールは悪びれる様子もない。

 

「武器を欲しがる側には消失弾を売り、撃たれた側には解毒剤を売る。憎しみを持つ者は相手の個性を奪うために金を払い、奪われた者は元へ戻るためにさらに多くの金を払う」

 

 赤い弾丸と青い弾丸を、机の上へ並べる。

 

「矛と盾の両方を、こちらが独占する」

 

 トゥワイスが二本を交互に見る。

 

「同じ相手から二回金を取れるってことか! 良心的だな! 最悪だ!」

 

 出久は、机の上へ並べられた二本の弾丸をじっと見つめていた。

 

 赤い液体が入った消失弾。

 淡い青色をした解毒剤。

 

 片方で個性を奪い、もう片方で取り戻させる。

 人間の恐怖と絶望を意図的に生み出し、その救済まで商品として売りつける悪魔のマッチポンプ。

 

 正しいはずがない。

 

 そんなことは、考えるまでもなかった。

 

 完成すれば、ヒーローだけでなく一般人にも被害が及ぶ。

 強力な個性を持つ者を恐れる人間、仕事や地位を奪いたい人間、個人的な恨みを抱く人間が、銃弾一発で相手の人生を壊せるようになる。

 

 その薬が広がった先に、どれほどの混乱が起きるのか。

 

 出久には簡単に想像できた。

 

「デク君?」

 

 隣から、トガが顔を覗き込む。

 

 出久は答えず、赤い弾丸へ視線を落としたまま考え続けた。

 

 ここで断ればいい。

 

 こんな計画には協力できないと言い、立ち上がればいい。

 

 それが、かつての自分なら選んでいた答えだった。

 相手がヤクザであろうと、周囲を武装した構成員に囲まれていようと、人を傷つける計画へ手を貸すことだけは拒んだはずだ。

 

 しかし今の出久には、断った後に戻る場所がなかった。

 

 拠点はない。

 資金もない。

 身分もなく、病院へ行くことさえできない。

 

 何より、AFOを奪還するための力も情報も、何一つ足りていなかった。

 

 オーバーホールの事業が成功すれば、死穢八斎會は莫大な資金と影響力を得る。

 その一部でも利用できれば、警察内部の情報を買い、武器や移動手段を揃え、AFOが収監されている場所へ近づくことも不可能ではない。

 

 薬を広めることによって傷つく人間。

 

 この取引を断ることで、救えなくなるかもしれないAFO。

 

 その二つを同じ秤へ載せようとしている自分に気づき、出久の指先が僅かに震えた。

 

「緑谷出久。君の答えを聞かせてもらいたい」

 

 地下室に沈黙が落ちる。

 

 壁際の構成員たちは身じろぎ一つせず、敵連合の面々も出久の判断を待っていた。

 

 トゥワイスさえ、珍しく口を挟まなかった。

 

 出久はゆっくりと息を吐く。

 

「……僕たちは、まずはなにを?」

 

「まずは商品の宣伝と販路の確保だ」

 

 オーバーホールは即座に答えた。

 

「君たちの名を利用すれば、小規模なヴィラン集団との接触は容易になる。オール・フォー・ワンの後継者が扱っている商品だと噂が広がれば、試したがる人間も現れるだろう」

 

「実際に撃たせるつもりですか?」

 

「いずれはな。だが最初から完成品を大量に流すほど愚かではない。初期段階では効果の短い試作品を、限られた相手へ売る。使用後の記録を集め、効力を安定させる必要がある」

 

「僕たちは、その取引に立ち会う」

 

「必要なら護衛も頼む。支払いを拒む者や、こちらの商品だけ奪おうとする者も出てくるだろうからな」

 

 出久は目を伏せた。

 

 宣伝。

 取引。

 護衛。

 

 言葉だけなら、どれも直接誰かへ弾丸を撃ち込む仕事ではない。

 

 だが、薬が使われると分かっていながら売ることに協力する以上、自分たちも同じだった。

 

 知らなかったとは言えない。

 止められなかったとも言えない。

 

 それでも、ここで席を立てば、何も持たない状態へ戻るだけだった。

 

 義爛の狭い隠れ家。

 残り少ない金。

 満足な治療さえ受けられない身体。

 

 敵連合の仲間たちは各地へ散らばり、AFOの収容先どころか、移送経路に関する確かな情報すら掴めていない。

 

 正しい選択肢など、最初から残されていなかった。

 

 あるのは、どちらの間違いを選ぶかだけだった。

 

 出久は握り締めていた左手をゆっくりと開いた。爪が食い込んだ掌には、浅い痕が幾つも残っている。

 

「分かりました」

 

 静かな声が、地下室へ落ちた。

 

 スピナーが僅かに顔を向ける。

 

「緑谷」

 

「この取引を受けます」

 

 出久はオーバーホールを正面から見据えた。

 

 迷いが消えたわけではない。

 納得したわけでもなく、まして計画へ賛同したわけでもなかった。

 それでも一度口にした言葉を取り消すつもりはなかった。

 

「僕たちの名前を使っても構いません。取引の立ち会いも、護衛も引き受けます」

 

「賢明な判断だ」

 

 オーバーホールはすぐに答えた。

 

 出久の決断を歓迎しているはずなのに、その声には歓喜も安堵もない。

 初めからこうなることを知っていたかのような、平坦な反応だった。

 

 オーバーホールはケースの蓋を閉じた

 留め具が噛み合う硬い音が、やけに大きく響いた。

 

「では、契約成立だ」

 

 差し出された白い手袋を見て、出久は一瞬だけ動きを止めた。

 

 握手を求めている。

 取引の成立を示す、ありふれた行為のはずだ

 

 出久は左手を伸ばした。

 

 二人の手が机の中央で重なる。

 白い手袋越しにも、オーバーホールの手が異様に冷たく感じられた。

 

「今後ともよろしく頼む。緑谷出久」

 

「……こちらこそ」

 

 返事をした瞬間、自分の中で何かが一つ切れたような気がした。

 けれど、それが何だったのかを確かめることはできなかった。

 

 

 

 

 

 ──

 

 死穢八斎會の施設を出る頃には、外は既に暗くなり始めていた。

 地下から続く長い階段を上がり、鉄製の扉を抜けると、冷えた夕方の風が四人の身体を撫でていく。

 

 表通りから離れた細い道だった。

 古い倉庫や低い建物が並び、人通りはほとんどない。遠くを走る車の音だけが、一定の間隔で聞こえてくる。

 出久は借り物の上着のフードを深く被り、周囲を警戒しながら歩いていた。

 

「デク君、お疲れさまでした!」

 

 すぐ隣から声がする。

 トガは出久の左腕へ両腕を絡め、身体をぴたりと寄せていた。

 武器を返却されて機嫌が良いのか、足取りは軽い。

 腰には戻ってきたナイフが何本も収められ、歩くたびに小さな金属音を立てている。

 

「う、うん。近いね、トガさん……」

 

 出久の困り果てた声にも、トガは楽しそうに笑うだけだった。

 

 少し後ろを歩いていたトゥワイスは、その光景を眺めながらスピナーの肩を肘で突いた。

 

「おい」

 

「何だ」

 

「見ろよ、青春だぜ!」

 

「どこがだ」

 

「少年と少女が仲良く腕を組んで帰ってる! 一方的に拘束されてる!」

 

 スピナーは前を歩く二人へ目を向けた。

 

 トガは上機嫌だった。

 

 対する出久は、周囲へ顔が見えないようフードを押さえつつ、傷へ負担が掛からないよう歩きながら、さらに絡みつくトガを引き離そうとしている。

 

 どう見ても甘い雰囲気ではない。

 

「緑谷は困ってるだろ」

 

「照れてるんだよ!」

 

「苦しそうにしてるぞ」

 

「愛は苦しいもんだ!」

 

「たぶん傷が痛いだけじゃないか?」

 

 トゥワイスはしばらく二人を眺めたあと、今度はスピナーの横顔を見上げた。

 

「そういえば、お前」

 

「今度は何だ」

 

「一番、緑谷少年と歳が近いだろ」

 

 スピナーの眉間に皺が寄る。

 

「トガも近い」

 

「あいつは近すぎる!」

 

 前方では、出久が再び左へ引っ張られていた。

 

「ほら見ろ! 物理的にも近い!」

 

「それと俺に何の関係がある」

 

「仲良くしてやれ!」

 

 トゥワイスはスピナーの背中を勢いよく叩いた。

 

「お前ら若者同士だろ! 共通の話題もあるはずだ!」

 

「急に何を言い出すんだ」

 

「緑谷少年は色々あって大変なんだよ。友達が必要だ! 仲間なんかいらねえ!」

 スピナーはしばらく黙ったまま歩いていた。

 

 トゥワイスに背中を押されても、すぐに前へ出ようとはしない。出久と何を話せばいいのか、本気で分からないらしかった。

 

「行けって!」

 

「押すな。歩いてる」

 

「その速度じゃ日が暮れるぞ!」

 

「もう暮れかけてるだろ」

 

 なおも急かされ、スピナーは面倒そうに舌打ちすると、ようやく歩幅を広げた。

 

 前方では、出久が左腕へしがみつくトガをどうにか引き離そうとしている。

 

 出久は困り果てた様子で足を止めると、絡められた腕を慎重に抜いた。

 強引に振りほどけばトガが転ぶかもしれず、かといってそのままでは傷へ響く。

 結局、片手で彼女の手首を持ち上げ、時間をかけて腕を外していく。

 

「はい、離れてください」

 

「えー」

 

「えー、じゃないです」

 

 トガは不満そうに頬を膨らませたものの、出久が本気で困っていると分かると、渋々腕を離した。

 

 トガが唇を尖らせながら一歩横へ退いたところへ、ちょうどスピナーが追いついた。

 

 出久の隣が空く。

 

 その位置へ入るよう、後ろからトゥワイスが大げさに手招きをした。

 

「ほら!」

 

「うるさい」

 

 スピナーは小声で返しながら、渋々出久の横へ並んだ。

 

 しばらくは何も言わなかった。

 出久も突然隣へ来たスピナーへ一度だけ顔を向けたものの、向こうが黙っているため、そのまま前へ視線を戻す。

 

 気まずい沈黙が続いた。

 

 後ろでは、トゥワイスが両手を使って話せと合図している。

 トガまで面白がり、スピナーの方へ顔を寄せて口だけで「がんばれ」と言っていた。

 

 スピナーはそれらを見ないふりをしていたが。

 

「……お前」

 

 ようやく口を開く。

 

「はい?」

 

 出久が顔を向ける。

 

 スピナーは一瞬だけ言葉に詰まった。

 何を話すべきか考えた末、先ほどトゥワイスが口にした話題をそのまま使うことにしたらしい。

 

「ゲームとかするのかよ……LOLとか」

 

 唐突な問いだった。

 

 出久は目を瞬かせる。

 

「ゲーム、ですか?」

 

「ああ」

 

「どうして急に?」

 

「別に。嫌なら答えなくていい」

 

 既に後悔しているような口調だった。

 

 このまま会話を切り上げようとするスピナーに、出久は少し考えてから答えた。

 

「そんなに詳しいわけじゃないですけど……」

 

 以前の生活を思い出すように、視線を宙へ向ける。

 

「マーベル・ライバルズなら、たまにやってました」

 

「……は?」

 

 スピナーの足が止まった。

 

 出久もつられて立ち止まる。

 

「マーベル・ライバルズ」

 

「マジで!?」

 

 それまでの低く気取った口調が、一瞬で吹き飛んだ。

 思った以上に大きな声が出たらしく、スピナー自身が誰より驚いていた。

 周囲を警戒して慌てて口を閉ざし、近くの建物や道の先へ視線を走らせる。

 

 普段の無愛想な態度へ戻ろうとするが、既に遅かった。

 目には明らかな興味が浮かび、出久の方へ身体まで向けている。

 

「いや、その……お前、あれやってたのか」

 

「はい。少しだけですけど」

 

「少しってどれくらいだ?」

 

「忙しくなる前は、一日に何試合か」

 

「ランクは?」

 

「ランク?」

 

「コンペティティブだよ。やってないのか?」

 

「最高でダイヤモンドだったと思います」

 

 スピナーがまた足を止めた。

 

「ダイヤ?」

 

「はい」

 

「少しだけって言ったよな?」

 

「毎日はできなかったので」

 

「それでダイヤまで行ったのかよ!」

 

 声の調子が完全に変わっていた。

 先ほどまでの投げやりな態度は消え、純粋に同じゲームを遊んでいる相手へ話しかける青年のものになっている。

 

「何使ってた?」

 

「キャプテン・アメリカかスパイダーマンです。映画がすごく好きで……」

 

「ははっ! ヒロ専かよ!」

 

 スピナーは少し得意そうに鼻を鳴らした。

 

「お前、機材はどうしたんだ?」

 

「家に置いたままです」

 

 その一言で、出久の表情が僅かに曇る。

 

 以前の家へ戻ることはできない。

 ゲーム機も、ノートも、衣服も、日常の中で使っていた物はすべて置き去りになっていた。

 

 スピナーもそれに気づいたらしい。

 勢いよく話していた口が止まり、僅かに視線を逸らした。

 

「……その金で次の拠点に移ったら」

 

 ぶっきらぼうに言う。

 

「八斎會に用意させればいい」

 

「ゲーム機をですか?」

 

「あいつら、必要な物は用意するって言ってただろ」

 

「さすがにゲーム機は必要な物じゃないと思います」

 

「娯楽は必要だ。隠れ家で何週間も籠もるなら、何もない方がきつい」

 

 少し間を置いてから、スピナーは続けた。

 

「アカウントは作り直せる。俺のもあるし」

 

「一緒にやってくれるんですか?」

 

 出久が尋ねる。

 

 スピナーは一瞬だけ黙った。

 

 先ほどまであれほど勢いよく話していたのに、今度は妙に答えづらそうにしている。

 

「……人数が足りない時ならな」

 

 スピナーはぶっきらぼうに答え、誤魔化すように前へ向き直った。

 

「分かりました。そのときはお願いします」

 

「別に約束したわけじゃねえぞ」

 

「はい」

 

「人数が足りなかったらだ。お前と遊びたいわけじゃない」

 

「分かってます」

 

「絶対分かってないだろ」

 

 出久が僅かに笑うと、スピナーは居心地が悪そうにフードの位置を直した。

 それでも会話を終わらせるつもりはないらしく、すぐに横目で出久を見る。

 

 二人の歩調が、いつの間にか揃っていた。

 

 先ほどまで互いに何を話せばよいか分からず、気まずい沈黙を挟んでいたとは思えない。

 スピナーは身振りまで交えながら試合中の立ち回りについて語り、出久も時折質問を返しながら耳を傾けている。

 

 その後ろを歩いていたトガは、二人の背中を交互に眺めていた。

 つい先ほどまで出久の腕へ絡みついていた彼女は、今では両手を背中で組み、少しだけ頬を膨らませている。

 

「何の話をしてるんですか?」

 

 トガが声を掛ける。

 

 出久が振り返りかけたが、それより早くトゥワイスが彼女の横へ並んだ。

 

「ゲームの話だ!」

 

「ゲーム?」

 

「ああ! ガキのするゲームなんか知るか!」

 

「仁君から振った話じゃないですか」

 

「若者同士の交流を助けてやったんだ! 余計なことをした!」

 

 トガは前を歩く二人へ視線を戻した。

 

「ゲームって、何をするんですか?」

 

「相手をぶっ飛ばして勝つんだ!」

 

「それなら私にもできそうです」

 

「画面の中でな! 現実でやったら駄目だ!」

 

「どうしてですか?」

 

「どうしてだろうな!」

 

 トゥワイスは自分でも答えが分からなくなったらしく、腕を組んで首を傾げた。

 

 トガは彼を放って、再び出久とスピナーの会話へ耳を澄ませる。

 

「アベンジャーズは全部見たか? エンドゲームも」

 

「アメリカのケツですね」

 

「いやお前! 一番最初に出てくるのがケツかよ!」

 

 呆れた口調だったが、スピナーは笑っていた。

 口元を大きく緩めたわけではない。それでも普段の険しい表情は薄れ、声には隠し切れない楽しさが滲んでいる。

 

 出久も同じだった。

 

 オーバーホールとの会談を終えた直後とは思えないほど、表情が柔らかい。

 少し前まで俯き、悪意に満ちた取引を受け入れた重さを背負っていた少年が、今だけは年相応の顔でゲームの話をしている。

 

「アベンジャーズ! ……アッセンボオ」

 

「うめえ!」

 

 出久の物真似と、スピナーの笑い声が響く。

 

 トガは無意識に歩調を緩めた。

 

「どうした?」

 

 隣を歩くトゥワイスが尋ねる。

 

「別に」

 

「仲間外れにされて寂しいのか! ケツの話に加わってこい!」

 

「仲間外れじゃないもーん!」

 

 そう答えたものの、声には僅かな不満が混じっていた。

 

 トガにも出久と話したいことは幾らでもある。

 

 血の味のこと。

 どんな姿になりたいか。

 誰を刺したいか。

 どんな死に方が綺麗だと思うか。

 

 だが、それらを話題に出したとき、出久はいつも困った顔をする。

 嫌悪を露わにするわけではない。逃げ出すわけでもない。

 それでも、どう答えるべきか分からず、慎重に言葉を選ぶような表情になる。

 

 今、スピナーへ向けている顔とは違った。

 

 出久はスピナーが発したゲーム用語へ首を傾げ、説明を聞くと素直に頷く。

 時には反論し、互いに異なる立ち回りを主張しながら、最後にはどちらともなく笑っている。

 

 そこには警戒も遠慮もなかった。

 ただ、同じ遊びを知っている少年同士が、共通の話題へ夢中になっているだけだった。

 

「……私じゃ」

 

 トガの口から、小さな声が零れた。

 

「ん?」

 

 トゥワイスが顔を向ける。

 

 トガは自分でも驚いたように一度口を閉ざしたが、既に漏れた言葉を取り消すことはできなかった。

 

「私じゃ、あんな顔させてあげられないなあ」

 

 それは普段の彼女からは想像できないほど、静かな声だった。

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