間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第72話 ヴィラン一年生

 港湾部へ夜霧が流れ込んでいた。

 

 人気のない埠頭には、錆びついたコンテナが幾重にも積み重なり、沖から吹く潮風が倉庫の鉄壁を低く唸らせる。

 街灯はまばらで、黄色い光が濡れたアスファルトをぼんやりと照らしているだけだった。

 

 約束の時間まで、あと十分。

 

 古びた倉庫の中では、死穢八斎會の構成員たちが落ち着かない様子で何度も腕時計を確認していた。

 

「まだ来ねぇのか……」

 

「静かにしろ。若頭からの……オーバーホールからの仕事だぞ」

 

「分かってるけどよ……」

 

 小声で言い合いながらも、視線は何度も倉庫の入口へ向く。

 

 これが初めて任される大きな取引なのだろう。

 誰もが肩へ力を入れ、上着の内側へ隠した拳銃を無意識に確かめていた。

 

 そんな様子を少し離れた場所から眺め、マグネが鼻で笑う。

 

「初々しいわねぇ」

 

 隣のMr.コンプレスも肩を竦める。

 

「全くだ。不安になるよ」

 

 コンプレスはシルクハットのつばを軽く持ち上げる。

 

 その言葉とは裏腹に、視線だけは倉庫中を素早く見渡していた。

 出入口は二つ。

 窓は高い位置に四つ。

 梁の上へ人が潜めそうな場所も確認済みだった。

 

「しかし驚いたわ」

 

 マグネが腕を組む。

 

「潜伏してた間に、敵連合がヤクザと手ぇ組んでるなんてねぇ」

 

「俺も聞いた時は耳を疑ったよ、てかまだちゃんと活動してたんだな」

 

 コンプレスは苦笑した。

 

「戻ってきたら『八斎會と協力することになった』だからな。もう少し順序立てて説明して欲しかった」

 

「緑谷君も大変だったのよ」

 

 マグネは肩を竦めながら言う。

 

「怪我したまま潜伏して、全国指名手配されて、その上ヤクザとの交渉役まで押し付けられたんだから」

 

「それで無事に話をまとめてしまう辺り、大した胆力だ」

 

 コンプレスは感心したように頷いた。

 

 その時だった。

 

 倉庫の外から、エンジン音がゆっくりと近づいてくる。

 ぶぉん、と低く唸る排気音。

 続いてタイヤが砂利を踏む音が響き、一台の黒いワゴン車が倉庫前で停車した。

 

 エンジンは切られない。

 

 ぞろぞろと男たちが降りてくる。

 革ジャン。

 刺青の覗く首筋。

 金色や銀色へ染めた髪。

 腰にはナイフや拳銃を隠し持ち、いかにも裏社会で飯を食っていると分かる連中だった。

 

 全部で六人。

 

 その先頭を歩く男だけが、一回り身体が大きい。

 二メートル近い長身。分厚い胸板。丸太のような腕。

 額から頬へ走る古い傷跡が、街灯の光を受けて白く浮かび上がる。

 

 男は葉巻を咥えたまま、倉庫の入口へ立つ八斎會の構成員を見回した。

 

「へぇ」

 

 口元が吊り上がる。

 

「まさか噂の"個性消失弾"を捌いてるのが、天下の死穢八斎會だったとはな」

 

 嘲笑だった。

 その声には警戒よりも、面白がる色が強い。

 

「昔は裏社会を牛耳ってたって聞いてたが……」

 

 男は肩を揺らして笑う。

 

「随分落ちぶれたもんじゃねぇか。今さらヤクなんざ売って小遣い稼ぎとはよ」

 

 八斎會の若い構成員が顔をしかめる。

 

「てめぇ……!」

 

「よせ」

 

 男は靴音を響かせながら、堂々と倉庫の中へ踏み込んでくる。

 

「売る側と買う側だ。立場を間違えんなよ、ヤクザ」

 

 その言葉に、若い構成員の額へ青筋が浮かぶ。

 しかし命令がある以上、誰も拳銃へ手を伸ばせない。

 

 男は満足そうに鼻を鳴らした。

 

「そうそう。それでいい」

 

 さらに奥へ進む。

 

 薄暗い倉庫の照明では、入口から見える範囲は限られていた。

 積み上げられた木箱の陰。

 照明の届かない壁際。

 そこに立つ人影までは、今の位置からでは判別できない。

 

「さて」

 

 男は周囲を見回す。

 

「商品を見せてもらおうじゃ──」

 

 言葉が、不意に止まった。

 

 暗がりの奥。

 街灯の光がわずかに差し込む場所で、一人の少年が静かに立っている。

 

 深く被ったフード。

 だが、その緑色の髪だけは隠しきれていなかった。

 その隣には、爬虫類のような異形の男。

 

 さらに少し離れた場所には、サングラスの男と仮面の男が壁へ寄りかかっている。

 

 男の笑みが、ぴたりと止まる。

 

「……おい」

 

 後ろにいた仲間の一人も気付き、声を潜めた。

 

「あれ……」

 

 リーダー格の男の喉が、ごくりと鳴った。

 

 神野の戦いは、裏社会でも伝説になっている。

 オールマイトと真正面から戦った敵連合。

 そして、その中心にいた緑谷出久。

 

 いくら自分たちが武装していようと、正面から喧嘩を売りたい相手ではない。

 

 八斎會の若い構成員は、その反応を見逃さなかった。

 口元を得意げに歪める。

 

「どうやら知らなかったみたいだな」

 

 鼻で笑いながら一歩前へ出る。

 

「うちと敵連合が手を組んだって話は」

 

 男たちの視線が、暗がりに立つ出久たちへ向く。

 

 スピナーは腕を組んだまま動かない。

 マグネは退屈そうに爪を眺め、コンプレスも壁へ寄りかかったまま帽子のつばを指先で弄んでいる。

 誰一人として会話へ割って入ろうとしない。

 

 ただ、そこに立っているだけ。

 それだけで十分な威圧感だった。

 

「安心しろ」

 

 構成員はコートの内側から黒いケースを取り出した。

 

 留め具を外し、ゆっくりと蓋を開く。

 中には緩衝材へ収められた数本の消失弾。

 倉庫の照明を受け、赤い薬液が鈍く揺れた。

 

「商品は本物だ」

 

 ケースを相手へ少し突き出す。

 

「噂になってる個性消失弾、その試作品だ」

 

 男たち全員の視線がケースへ吸い寄せられる。

 

 リーダー格の男も、先ほどまでの動揺を押し隠すように笑みを浮かべ直した。

 

「へぇ……」

 

「事前の取り決め通りだ」

 

 構成員の声が事務的になる。

 

「現金との直接交換。商品を確認したなら、そっちもさっさと金を見せろ」

 

 倉庫の空気が静まり返る。

 誰も動かない。

 

 構成員が眉をひそめた、その時だった。

 

「……あー」

 

 リーダー格の男は困ったように頬をぽりぽりと掻いた。

 

「悪いんだがよ」

 

 どこか申し訳なさそうな口調。

 しかし、その芝居じみた態度はあまりにも白々しい。

 

「金は約束の半分しか用意できてねぇんだ」

 

 その場の空気が、一瞬で凍り付いた。

 

「……は?」

 

 構成員が聞き返す。

 

「いやぁ、急なシノギが潰れちまってな。予定より金が集まらなかった」

 

 悪びれた様子もなく続ける。

 

「だから今回は半額で勘弁してくれ。残りは次に回す。それでいいだろ?」

 

 若い構成員の表情が怒りで歪む。

 

「ふざけるなよ!」

 

 怒鳴り声が倉庫へ響いた。

 

「てめぇ、まさか最初からそのつもりだったのか!?」

 

 ケースを持つ手に力が入る。

 

「まあ待てよ!」

 

 リーダー格の男は、怒鳴り声を浴びせられた途端に両手を胸の前へ上げた。

 咥えていた葉巻を口の端へずらし、落ち着かせるように何度も掌を見せる。

 

「喧嘩するつもりなんかねえ。俺たちは取引に来ただけだ」

 

「約束の半分しか持ってこねえ奴が、何を取引だ!」

 

 構成員はケースを抱え込むように引き寄せた。

 怒りで頬が引きつり、今にも掴みかかりそうな勢いだったが、その背後にいる仲間が僅かに袖を引いて制止する。

 

 対する男は、あくまで穏便に話を進めようとするように声を低くした。

 

「だから、今回は勘弁してくれってお願いしてるんだよ。残りは次で払う。それで丸く収まるだろ?」

 

「丸く収まるわけがねえだろ。最初から値切るつもりだったんじゃねえのか」

 

「そんなことはねえって」

 

 男は白々しく笑った。

 だが、その後ろへ並ぶ五人の姿を見れば、言葉を信じる者はいなかった。

 

 全員が拳銃を隠し持ち、うち二人は上着の下へ短機関銃らしきものまで吊っている。

 倉庫の外に停められたワゴン車も、運転手を残したままエンジンがかけられており、後部座席の窓にはさらに別の人影が見え隠れしていた。

 

 単なる取引に持ち込む装備ではない。

 人数も多すぎる。

 

 現金を渡して商品を受け取るだけなら、六人も必要なはずがなかった。

 明らかに最初から、八斎會側が値下げを拒めば数と武器で圧力をかけ、半額で商品を持ち帰るつもりだったのだ。

 

 ただ一つ、計算外だったのは敵連合が同席していたこと。

 神野で名を上げた彼らが暗がりに並んでいるのを見た瞬間、力ずくで奪うという選択肢だけは急速に現実味を失っていた。

 

 リーダー格の男は、出久たちを気にするように視線を横へ流した。

 

 出久は何も言わず、壁際から取引の様子を見つめている。

 深く被ったフードの下から覗く表情は読み取れない。

 

「俺たちだってな」

 

 リーダー格の男は口調をさらに柔らかくした。

 

「八斎會に恥をかかせたいわけじゃねえんだ。事情があって予定通りの金が用意できなかった。それだけの話だ」

 

「じゃあ取引は中止だ」

 

 構成員は即座に言い返した。

 

「金を用意して出直せ。商品は渡さねえ」

 

「そう簡単に言うなよ」

 

 男の笑顔が僅かに引きつった。

 

「こっちも手ぶらで帰るわけにはいかねえんだ」

 

 その言葉に、構成員の目つきが変わった。

 

「それが本音か」

 

「違う違う、そういう意味じゃねえ」

 

「どの意味だよ」

 

 若い構成員が一歩踏み出す。

 

「払う金は半分。だが商品は全部寄越せ。断ったら、その無駄に連れてきた人数と武器で脅すつもりだったんだろ」

 

 男の後ろにいた一人が、反射的に腰へ手を伸ばしかけた。

 すぐ隣の男が肘で制する。

 

 その僅かな動きを、コンプレスは見逃さなかった。

 

「どうやら、彼らの言う事情というのは随分と物騒らしいな」

 

 芝居がかった穏やかな声が、倉庫の奥から響く。

 

 リーダー格の男の肩が強張った。

 

 コンプレスは壁から背を離し、ゆっくりと一歩だけ前へ出る。

 仮面の奥にある表情は見えないが、身振りには余裕があった。

 

「現金が足りなかった割には、鉛玉は随分と豊富に用意してきたようだ」

 

「保険だよ」

 

 男はすぐに答えた。

 

「裏の取引だ。用心するのは当然だろ」

 

「もちろん。だが、その保険が売り手へ向けるためのものなら、話は別だ」

 

 マグネも小さく鼻を鳴らした。

 

「半額しか持ってこないうえに、武器を山ほど抱えて押しかけるなんて、お願いする態度には見えないわねぇ」

 

「だから喧嘩する気はねえって言ってるだろ」

 

 男の声に、僅かな苛立ちが混じった。

 しかし以前のような見下した調子は消えている。

 

「今回は半額を受け取って、残りは待ってくれ。それで済む話だ。そっちだって、ここで面倒を起こしたくはねえだろ?」

 

 穏便に済ませようとしている、少なくとも、表面上は。

 だがそれは反省したからではない。

 敵連合がいなければ、今頃はもっと露骨な脅しへ切り替えていただろう。

 

 八斎會の構成員も、それを理解していた。

 

「面倒を起こしたくねえのは、てめえらの方だろ」

 

 怒りを押し殺した声で言い返し、ケースの蓋を閉じる。

 

「半額じゃ一発も渡さねえ。話はそれで終わりだ」

 

 かちり、と留め具が閉じられた。

 

 男の後ろにいた五人の空気が変わる。

 足の位置を僅かにずらし、上着の裾へ手を添える。

 露骨に武器を抜きこそしないものの、いつでも動ける姿勢へ移っていた。

 

 リーダー格の男も、笑顔を残したまま目だけを細める。

 

「強情だな」

 

「契約を守れと言ってるだけだ」

 

「こっちは頭を下げて頼んでるんだぜ」

 

「その人数でか?」

 

 倉庫の中へ、再び重い沈黙が落ちた。

 

 八斎會と取引相手。

 互いに武器を隠し、相手の出方を探っている。

 その間に立ちながら、出久は男たちの腰や懐へ視線を巡らせていた。

 

 拳銃が少なくとも四丁。

 

 ワゴン車の中にも人が残っている。

 

 最初から交渉だけで済ませるつもりではなかった。

 

「あの……」

 

 出久が初めて声を発した。

 

 決して大きな声ではない。

 それでも倉庫の中にいた全員が、一斉に彼へ顔を向ける。

 

「さっさとしてもらえませんか?」

 

 出久は壁から背を離した。

 靴底が濡れた床を踏む。

 

 倉庫へ響いた足音は、ひどく小さい。

 

 リーダー格の男は、こちらへ歩いてくる少年を改めて見下ろした。

 

 深く被ったフード。

 上着の下から覗く包帯。

 歩くたびに僅かに庇われる腹部。

 

 神野の映像では、異形の骨を全身へ纏い、オールマイトと激突していた怪物。

 

 だが、今目の前にいる出久は違った。

 

 背丈は男の胸元にも届かない。

 身体つきも細く、まだ成長し切っていない少年そのものだった。

 しかも全身には、神野で負った傷が残っている。

 

 その事実に気づくと、男の胸の内に僅かな余裕が戻った。

 

「なんだよ」

 

 口元へ笑みを貼り付け直す。

 

「噂のデク君が、俺たちを急かすのか?」

 

 出久は答えなかった。

 一歩、近づく。

 

「そう慌てんなよ。こっちは大人同士で話をしてるんだ」

 

 男は葉巻を指で摘まみ、煙を横へ吐いた。

 

「ガキは黙って見てろ」

 

 出久が、さらに一歩踏み出す。

 

 上着の下で、骨が軋む。

 

 小さな音だった。

 だが、近くにいた者にははっきりと聞こえた。

 

 出久の肩が盛り上がる。

 細かった首が太くなり、背中が上着を内側から押し広げていく。

 

「……あ?」

 

 男の笑みが僅かに揺れた。

 

 出久は歩みを止めない。

 

 個性──《剛躯》。

 骨格そのものが急速に肥大化し、それに引かれるように筋肉が膨張する。

 

 固くなった肩が上着の縫い目を引き裂いた。

 深く被っていたフードが持ち上がり、出久の顔へ落ちていた影が薄くなる。

 

「それ以上近づくなよ」

 

 男は声を低くした。

 

「俺は別に、あんたらと喧嘩するつもりはねえんだ」

 

 先ほどまでとは違う。

 威圧するためではなく、出久を止めるための言葉だった。

 

 膨張した筋肉の表面で、何かが蠢く。

 皮膚の内側から白い骨が押し出され、肩を覆う。

 続いて胸元。首。頬。

 

 一枚一枚が重なり合うように、鋭い骨の鱗が全身へ広がっていった。

 じゃらり、と。

 硬質な鱗同士が擦れ、鎧を鳴らすような音が響く。

 

 八斎會の構成員が思わず後ずさる。

 取引相手の男たちは明らかに動揺していた。

 

「お、おい……」

 

 後方の一人が声を漏らす。

 

「あれ、神野の時の……」

 

 出久はさらに進む。

 

 既に身長はリーダー格の男と並んでいた。

 上着は肩から裂け、肥大化した両腕を覆い切れずに垂れ下がっている。

 骨の鱗は肘から指先にまで広がり、左手は人間のものとは思えないほど巨大になっていた。

 

 右腕にはまだ包帯が残っている。

 だが、その包帯も膨張へ耐え切れず、ぶつぶつと千切れて床へ落ちていく。

 

「はっ」

 

 乾いた笑いを漏らす。

 

「見た目だけ派手にしても……意味はねえぞ!」

 

 出久の前へ顎を突き出した。

 

「あんたも、オールマイトに殴られた傷は完全には治ってないんじゃないか?」

 

「兄貴……」

 

「黙ってろ」

 

 男は振り返らずに言った。

 しかし、その声は震えていた。

 

「お、お前……」

 

 出久は男の目の前まで来ると、ようやく足を止めた。

 巨大な影が男を覆う。

 

 骨の鱗に包まれた顔が、ゆっくりと下を向いた。

 

「無理なんてしてません」

 

 声まで変わっていた。

 低く、胸の奥へ直接響くような声音。

 

 男の口から葉巻が落ちる。

 濡れた床へ落ち、僅かな火の粉を散らした。

 

「僕は、話が長いから急いでほしいって言ってるだけです」

 

 出久の腹部へ視線を落とす。

 破れた衣服の隙間から、分厚い固定具と包帯が覗いていた。

 

「無理するなよ、ガキ」

 

 声に、先ほどまでの力はない。

 

 それでも男は言葉を続けた。

 

「いくら個性で身体をでかくしたって、傷が開いたら──」

 

 さらに背骨が伸び、肩幅が広がった。

 肥大化した身体が倉庫の照明を遮り、男の全身を影の中へ包み込む。

 

 骨の鱗が出久の頬を覆う。

 隙間から覗く緑色の瞳だけが、人間だった頃と変わらぬ静けさを保っている。

 

「き、傷が開いたらよ……」

 

 男の声が掠れる。

 

 先ほどまで大柄に見えた男が、今では出久の胸元ほどしかない。

 巨大化した足が床を踏むたび、倉庫全体が僅かに震えた。

 

 近くに積み上げられていた木箱が振動で軋む。

 

 男は反射的に一歩退いた。

 後ろにいた仲間と肩がぶつかる。

 

「約束通りのお金を払うか」

 

 一本目の指を立てる。

 

「商品を諦めて帰るか」

 

 二本目。

 

「どちらにしますか?」

 

 問いかけられた男は、閉じられた商品ケースと、自分を覆う巨大な影を交互に見た。

 

 選択に要した時間は、ほんの数秒だった。

 

「……金だ」

 

 男は絞り出すように答えた。

 

「何ですか?」

 

「金を払う!」

 

 先ほどまでの余裕は完全に消えていた。

 男は慌てて背後へ振り返り、部下の一人へ怒鳴る。

 

「車に戻れ! 予備の金を全部持ってこい!」

 

「でも、兄貴。あれは次の取引に使う──」

 

「いいから持ってこい!」

 

 部下は肩を跳ねさせ、倉庫の外へ駆け出した。

 

 出久はその背中を追わなかった。

 巨大な姿のまま、目の前の男を静かに見下ろしている。

 男は額へ浮かんだ汗を拭おうとしたが、出久の視線を意識すると腕を動かすことさえ躊躇った。

 

「今、取りに行かせた!」

 

「そうですか」

 

 出久はそれ以上何も言わなかった。

 

 その沈黙に耐え切れず、男は何度も倉庫の入口へ視線を向ける。

 数分にも満たない時間だった。

 だが男たちにとっては、異様に長く感じられた。

 

 やがて部下が息を切らしながら戻ってくる。

 両手には、最初に持ち込んだものとは別の黒い鞄が抱えられていた。

 

「兄貴!」

 

「寄越せ!」

 

 男は鞄を奪い取ると、留め具を外して八斎會の構成員へ突き出した。

 

「これで全額だ!」

 

 構成員は警戒しながら受け取り、その場で中身を確認する。

 

 紙幣の束。

 最初に提示された半額分と合わせれば、事前に取り決めた金額へ届いていた。

 

「……舐めた真似しやがって、確かに全額だ」

 

 出久はしばらく男を見下ろしていたが、やがて身体から力を抜いた。

 

 骨の鱗が内側へ沈む。

 膨張していた筋肉が縮み、肥大化した骨格も少しずつ元の形へ戻っていく。

 巨大な身体が段階的に小さくなり、最後には再び、傷だらけの小柄な少年がその場へ残った。

 

 裂けた上着だけが、先ほどの姿が幻ではなかったことを示している。

 出久は背中へ垂れ落ちていたフードを引き上げ、もう一度深く被った。

 

「最初から、そうしてくれればよかったのに」

 

 静かに言って、元いた暗がりへ戻っていく。

 

 男は何も言い返せなかった。

 小さくなった背中を見送っているにもかかわらず、先ほどよりも大きな威圧感を感じていた。

 

 八斎會の構成員が現金の入った鞄を閉じる。

 

 重い留め具が噛み合う音を合図にしたように、倉庫へ張りつめていた緊張が僅かに緩んだ。

 

「商品だ」

 

 構成員は黒いケースを取引相手へ差し出した。

 

 リーダー格の男はすぐには受け取らなかった。

 一度だけ出久のいる暗がりへ視線を向け、その姿が元へ戻っていることを確かめてから、ようやく片手を伸ばす。

 

「……確かに受け取った」

 

 先ほどまでの威勢はなかった。

 

 ケースを抱え込むように持ち、踵を返す。

 

「帰るぞ」

 

 短い命令に、部下たちは待っていたとばかりに動き出した。

 

 誰も八斎會へ余計な言葉を残さない。

 敵連合の面々とも目を合わせようとせず、互いの肩を押すようにして倉庫の出口へ向かっていく。

 

 最後尾を歩いていた一人が、出久の前を通り過ぎる際に僅かに足を速めた。

 

 骨の鱗も。

 肥大化した巨体も。

 今はもう残っていない。

 

 それでも、相手にとっては小柄な少年へ戻った出久の方が、かえって不気味に見えているようだった。

 

 外へ出た男たちは、逃げ込むようにワゴン車へ乗り込んだ。

 

 扉が乱暴に閉められる。

 

 タイヤが濡れた地面を擦り、黒い車体が勢いよく発進した。

 倉庫前の砂利を跳ね飛ばしながら遠ざかり、赤い尾灯は夜霧の向こうへあっという間に消えていく。

 

 出久は破れた上着を見下ろした。

 

 肩口は完全に裂け、袖の一部も縫い目から外れかけている。

 フードだけは辛うじて残っていたが、これを着たまま街を歩けば、別の意味で目立ちそうだった。

 

「また服が駄目になったな」

 

 スピナーが言う。

 

「個性を使うたびに破いてたら、金がいくらあっても足りないぞ。スパイダーマンみたいだ」

 

「分かってます」

 

「専用の服でも作ってもらえばいいんじゃない?」

 

 マグネが出久の肩へ指を向ける。

 

「伸びる素材とかさ。ヴィラン衣装みたいなやつ」

 

「あったんですけど、神野で着れなくなっちゃったな。今度、義爛さんに相談してみます」

 

「また借りが増えるな」

 

「……そうですね」

 

 出久の返事が僅かに沈む。

 

 スピナーはそれ以上言わなかった。

 

 一方、八斎會の構成員たちは既に撤収の準備を始めていた。

 

 受け取った金の入った鞄を二人がかりで運び、もう一人が倉庫内を見回す。

 床へ落ちた葉巻。

 破れた包帯。

 取引中に位置を変えた木箱。

 

 痕跡を完全に消すつもりはないらしいが、忘れ物や余計な証拠がないかは慎重に確認している。

 

「車を回せ」

 

「はい」

 

「金は別便で運ぶ。ここから直接本部へ戻すなよ」

 

「分かってます」

 

 先ほどまで取引相手へ声を荒らげていた若い構成員も、仕事が終わった途端に口調を改めていた。

 

 その顔には疲労と安堵が混ざっている。

 

「やれやれ」

 

 コンプレスは壁から背を離した。

 

「取引も終わったことだ。俺たちも帰るとしようか」

 

「賛成」

 

 マグネが伸びをする。

 

「潮風で髪がべたつくし、こんなところにいつまでもいたくないわ」

 

 スピナーも出口へ向かいかける。

 

「緑谷、歩けるか?」

 

「はい。少し疲れただけです」

 

 剛躯を解除した反動なのか、出久の顔色は来た時より悪くなっていた。

 それでも彼は誰かへ寄りかかることなく、自分で破れた上着を押さえながら歩き出す。

 

「じゃあ帰るぞ」

 

 三人と出久が倉庫の入口へ向かった、その時だった。

 

「おい、緑谷」

 

 背後から声が掛かる。

 

 出久が振り返った。

 

 呼び止めたのは、現金を確認していた八斎會の構成員だった。

 年齢は三十代ほど。短く刈った髪に、煙草で黄ばんだ指先。

 

 男は周囲の構成員へ一度視線を送り、それから出久だけを見る。

 

「若頭が、初仕事の礼を言いたいって言ってるんだが」

 

「今からですか?」

 

「ああ」

 

 構成員は倉庫の外を顎で示した。

 

「近くで待ってる。時間は取らせねえそうだ」

 

 スピナーの足が止まる。

 

「待ってる?」

 

 声に警戒が混じった。

 

「オーバーホールが、ここまで来てるのか」

 

「別の車でな」

 

「そんな話は聞いてない」

 

「伝える必要がなかったからだ」

 

 構成員は淡々と答える。

 

「取引が失敗すりゃ、そのまま帰るつもりだった。だが、無事に終わった。若頭は緑谷へ直接礼を言いたい。それだけだ」

 

「それだけで済むのかしら」

 

 マグネが細い目で男を見る。

 

「わざわざ初仕事の後に本人が待ってるなんて、随分と律儀な若頭さんねぇ」

 

「疑うのは勝手だ」

 

 構成員は肩を竦めた。

 

「だが、呼んでるのは緑谷だけだ」

 

 コンプレスは仮面の奥から出久へ顔を向ける。

 

「どうする?」

 

 出久は迷わなかった。

 

「行きます」

 

 スピナーの眉間へ皺が寄る。

 

「おい、無防備じゃないか。相手はヤクザだぞ」

 

 スピナーの反論は正しかった。

 

 出久の右腕には新しい血が滲み始めている。

 腹部を覆う固定具の下でも、傷が開きかけている可能性があった。

 

 それでも出久は意思を変えなかった。

 

「先に帰っていてください」

 

「お前……分かったよ、勝手にしろ。無理するんじゃねえぞ」

 

 スピナーは不満そうに言ったが、結局はマグネたちとともに出口へ向かった。

 

 三人の足音が遠ざかる。

 

 倉庫前で少し立ち止まり、何度かこちらを振り返っているのが見えた。

 特にスピナーは最後まで残りたそうにしていたが、コンプレスに肩を叩かれ、渋々歩き出す。

 

 夜霧の向こうへ三人の姿が消えると、構成員は出久へ手招きした。

 

「こっちだ」

 

 倉庫の裏手へ回る。

 

 正面の取引場所から少し離れたところに、黒塗りの大型車が停まっていた。

 先ほど逃げていった男たちのワゴン車とは違い、余計な装飾のない古い高級車だった。

 

 エンジンは掛かったまま。

 窓には濃い色のフィルムが貼られ、中の様子は見えない。

 

 車の横には、別の構成員が一人立っていた。

 出久が近づくと無言で後部座席の扉を開ける。

 

 途端に、濃い煙草の匂いが流れ出した。

 

「……」

 

 出久は僅かに顔をしかめた。

 

 義爛の隠れ家で嫌というほど嗅いでいる匂いだった。

 ただし、こちらは何人もの男が長時間車内で吸い続けたような、布地と天井へ染みついた古い臭気だった。

 

 灰皿には吸い殻が何本も押し込まれている。

 座席の隙間にも灰が落ち、窓は閉め切られていた。

 

「乗れ」

 

 構成員が促す。

 

 出久は車内を一度だけ確認した。

 

 後部座席の奥。

 

 オーバーホールは座席へ直接触れないよう、白い布を敷いていた。

 周囲の汚れを見ないように正面だけを見つめ、手袋の指先を僅かに震わせている。

 

 出久は特に躊躇せず、身を屈めて車内へ入った。

 破れた上着が扉へ引っ掛かりそうになり、片手で押さえながら座席へ腰を下ろす。

 

 革張りの座面が沈む。

 外に立っていた構成員が扉を閉めた。

 ばたん、と重い音が響く。

 

 潮風も。

 倉庫の物音も。

 遠ざかっていく仲間たちの足音も、一瞬で遮断された。

 

 残ったのは低く唸るエンジン音と、車内へ染みついた煙草の臭い。

 

 そして。

 

「ご苦労だったな緑谷。煙草臭いだろうが我慢してくれ、今はまだ買い替える金もない」

 

 隣から聞こえた、オーバーホールの静かな声だけだった」

 

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