狭い車内には、古い煙草の臭いが濃く染みついていた。
出久が後部座席へ収まると、外に立っていた構成員が扉を閉める。
分厚い鉄板と防音材に隔てられ、倉庫から聞こえていた物音は一瞬で遠ざかった。
残ったのは、低く唸るエンジン音だけだった。
「改めて、今日はご苦労だった」
隣に座るオーバーホールが静かに口を開いた。
薄暗い車内でも、鳥の嘴を模したマスクと白い手袋ははっきり見える。
彼は出久の裂けた上着や、包帯へ滲み始めた血へ一度だけ視線を落としたが、それについて何か尋ねることはなかった。
「あいつらは、この業界でも評判の悪いチンピラでな」
「良かった、みんなあんな感じじゃないんですね」
「ああ。約束を守らない。代金を値切る。相手が弱いと見れば、数を揃えて商品ごと奪う。もっとも、自分たちより強い相手には驚くほど従順になる連中だ」
オーバーホールは淡々と説明した。
「今回も、素直に金を払うとは考えていなかった。半額を提示するか、商品を奪おうとするか。ある程度の小競り合いは予想していた」
出久の眉が僅かに動く。
「予想していたんですか」
「裏の取引では珍しいことじゃない」
オーバーホールは窓の外へ目を向けた。
濃い色のフィルム越しに、倉庫の照明がぼんやりと滲んでいる。
八斎會の構成員たちが撤収を進めているらしく、幾つかの影が車の横を行き来していた。
「だが、流血なしで場を収めたのは流石だった」
「……」
「相手を殺さず、こちらの商品にも傷をつけず、取り決めた金額を全額支払わせた。初仕事としては申し分ない」
オーバーホールの声には、表面的ながらも出久を評価する響きがあった。
「若い構成員には良い勉強にもなっただろう。ああいう連中を相手にする時、怒鳴るだけでは交渉にならない。相手が契約を守る理由を与えてやる必要がある」
巨大化した自分を見上げ、男たちが怯えていた顔を思い出す。
最初から全額を払えばよかったのに。
あの時は本心からそう思っていた。
人を脅して金を出させたことへの抵抗より、無駄な押し問答へ付き合わされる苛立ちの方が強かった。
それをオーバーホールは、仕事の成果として評価している。
「一つ、聞いてもいいですか」
「構わない」
出久は隣の男へ顔を向けた。
「僕らのことを試していたんですか」
オーバーホールは答えなかった。
ほんの数秒だったが、沈黙は肯定と同じように感じられた。
「相手が問題を起こすと分かっていて、僕たちを取引へ同行させた。しかも、あなたは近くの車で結果を見ていた」
「見ていたわけじゃない。報告を待っていただけだ」
「同じです」
出久の声が僅かに硬くなる。
「取引を任せられるか。僕がどう動くのか。敵連合がどれくらい役に立つのか。それを確かめるために、あの人たちを相手に選んだんじゃないんですか」
オーバーホールはマスクの奥で小さく息を吐いた。
「随分と疑り深くなったな」
「色々ありましたから」
「そうだな」
彼は否定も謝罪もしなかった。
白い手袋を嵌めた指先で、膝の上に落ちていた見えない埃を払う。
「パートナーの実力を知っておきたかったんだよ」
あまりにも軽い調子だった。
「これから大きな事業を進める以上、君たちがどの程度の問題へ対応できるのか、知っておく必要がある。何も知らない相手へ重要な仕事を任せるほど、俺も無責任じゃない」
オーバーホールが前方へ視線を向ける。
「出せ」
短い指示が飛ぶ。
運転席の構成員が無言で頷き、車がゆっくりと動き始めた。
倉庫の照明が窓の向こうへ流れていく。
出久は後部座席へ身体を預けながら、隣に座る男を横目で見た。
試されていた。
その事実は不愉快だった。
けれど、オーバーホールとの協力を解消しようとは思わなかった。
怒りより先に、次の取引では何を求められるのかと考えてしまった自分へ気づき、出久はフードの奥で静かに目を伏せた。
「その次の取引についてだが」
まるで出久の思考を読んだかのように、オーバーホールが切り出した。
「君に、もう一つ仕事を頼みたい」
出久は顔を上げる。
「また取引の護衛ですか」
「いや、今回とは性質が違う。だから、今すぐ動いてもらうつもりもない」
オーバーホールは出久の包帯へ視線を落とした。
「まずは怪我を治せ。次の仕事には、万全の状態で臨んでもらう」
「僕一人で?」
「必要なら敵連合の人間を連れていっても構わない。だが、中心になるのは君だ」
出久は背もたれから僅かに身体を起こした。
今日の取引でさえ、自分たちの実力を測るために用意された仕事だった。
その結果を見たうえで、さらに万全の状態を要求する。
簡単な依頼ではないことだけは分かった。
「何をすればいいんですか」
オーバーホールはすぐには答えなかった。
車窓の向こうでは、港湾部の倉庫群がゆっくりと遠ざかっていく。
街灯の間隔が狭まり、薄暗い工業地帯から市街地へ近づいていることが分かる。
「個性消失弾の販売地域を広げたい」
「今日の取引で、商品の需要が十分にあることは確認できた。試作品の段階でこれだけの連中が食いついている。完成品ができれば、さらに大きな金が動く」
出久は黙って続きを待った。
消失弾の存在が広まれば、買い手は増える。
同時に、それを追うヒーローや警察も増えるはずだった。
オーバーホールも、その危険を理解していないわけではない。
「だが、東京だけで事業を拡大し続けるのは得策じゃない」
「客も多いが、目も多い。裏社会の人間だけじゃない。警察、ヒーロー、情報屋、他の犯罪組織。どこで誰が何を見ているのか分からない」
窓の外には、幾つもの高層建築が並んでいた。
深夜に近い時間であっても、道路を走る車は途切れない。
「東京には、地方と比較にならない数のヒーロー事務所がある。事件が起きれば、複数の事務所がすぐに動く。巡回も多く、警察との連携も早い」
「それでも、これまでは東京で売っていたんですよね」
「組の基盤がここにあるからな」
オーバーホールは白い手袋を嵌めた指を組んだ。
「死穢八斎會が長年使ってきた施設も、人間も、取引先も東京に集中している。最初の事業を始めるには都合がよかった」
「でも、これ以上は危険になる」
「そうだ」
オーバーホールは僅かに顎を引いた。
「取引件数を増やせば、移動する構成員も増える。商品を保管する場所も、金を運ぶ人間も必要になる。同じ地域で不自然な動きが繰り返されれば、いずれ誰かが繋がりに気づく」
ナイトアイが動き始めているという話を思い出す。
今はまだ、消失弾と死穢八斎會を直接結ぶ証拠は掴まれていない。
だが、取引を重ねるほど手掛かりは増えていく。
「組そのものが動きにくくなるんですね」
「既に多少はな」
オーバーホールの声には苛立ちが滲んでいた。
「構成員を一人外へ出すだけでも、尾行されていないか確かめる必要がある。車両も頻繁には使えない。同じ人間を何度も取引へ出せば顔を覚えられるだろう」
車が交差点を曲がり、身体が僅かに揺れた。
「関西に販路を広げようと考えている、まずは大阪、兵庫、順に地方にも手を広げていく」
「大阪と兵庫……」
出久は小さく繰り返した。
東京から離れれば、八斎會を直接知る人間は減る。
同時に、敵連合の名前だけを頼りに取引へ応じる相手も増えるかもしれない。
「現地の買い手については、こちらで候補を挙げる」
オーバーホールは続ける。
「最初から君たちだけで客を探せとは言わない。仲介人を通じて、既に幾つか接触できそうな組織を見つけてある。君たちは商品を運び、相手と会い、代金を回収すればいい」
「簡単に言いますね」
「今日の仕事よりは単純だろう」
オーバーホールは平然と答えた。
「相手が契約を守る限りはな」
「守らなかったら?」
「君たちの判断に任せる」
出久はその言葉の意味を考えた。
脅す。
傷つける。
あるいは、殺す。
オーバーホールは具体的な手段を口にしない。
ただ、必要な結果だけを求めている。
「僕たちが失敗した場合は?」
「商品を奪われれば、その分は君たちの取り分から差し引く」
「それだけですか」
「最初の一度ならな」
オーバーホールの声は変わらなかった。
「二度目があれば、能力不足と判断する。君たちへ販路を任せる話も白紙だ」
言葉は穏やかだったが、単に仕事を失うだけでは済まないだろう。
一度消失弾の流通へ深く関われば、敵連合は八斎會の秘密を知りすぎることになる。
役に立たないと判断された後、何事もなく関係を解消できるとは思えなかった。
車内へ短い沈黙が落ちる。
窓の外に見えていた高層建築は、いつの間にか少なくなっていた。
深夜営業の店舗や住宅街の明かりが流れ、やがて車は交通量の少ない脇道へ入る。
速度がゆっくりと落ちていった。
出久は窓へ目を向ける。
「ここは……」
見覚えのない場所だった。
古い雑居ビルと閉店した飲食店が並ぶ裏通り。
大通りから外れているため人影はなく、街灯も幾つか消えている。
義爛の隠れ家からは少し離れていたが、歩いて戻れない距離ではない。
車が完全に止まった。
エンジンは切られず、低い振動が座席から伝わり続けている。
「今日はここまでだ」
オーバーホールが告げた。
「販路の候補と最初に運ぶ商品の数については、こちらで詰めておく」
「僕たちは、まだ引き受けると決めていません」
「分かっている」
即答だった。
だが、その声音には本気で断られる可能性を考えている様子がなかった。
「敵連合の人間と話し合え。誰を連れていくか、どう役割を分けるか。それくらいは君たち自身で決めた方がいい」
「期限は?」
「怪我が治るまでで構わない」
オーバーホールは出久の腹部へ視線を落とした。
裂けた上着の下では、包帯へ滲んだ血が先ほどよりも広がっている。
巨大化した負担が傷へ響いたのだろう。
「今日のように無理をされて、商品の運搬中に動けなくなられても困る」
「……分かっています」
オーバーホールは座席の脇へ置かれていた小さな紙袋を手に取り、出久へ差し出す。
「持っていけ」
「これは?」
「薬と包帯だ。組の医者に用意させた」
出久はすぐには受け取らなかった。
「手付金とは別ですか」
「治療費だ。仕事を任せる人間が、怪我で使い物にならなくなるのは困る」
どこまでも善意ではなかった。
それでも、必要な物であることに変わりはない。
出久は左手で紙袋を受け取った。
「ありがとうございます」
「礼は必要ない。投資だと思っておけ」
オーバーホールは前方へ視線を戻した。
運転席の構成員が車内灯を点ける。
暗かった後部座席が白い光に照らされ、オーバーホールのマスクと、出久の疲れた顔がはっきりと浮かび上がった。
「また追って連絡する」
「義爛さんを通してですか」
「ああ。直接君たちへ連絡する手段も、いずれ用意する」
「分かりました」
外側から扉が開かれた。
冷たい夜気が一気に車内へ入り込み、染みついた煙草の臭いを僅かに薄める。
出久は紙袋を脇へ抱え、ゆっくりと身体を動かした。
座席から立ち上がろうと腹部へ力を入れた瞬間、傷が痛み、眉間へ皺が寄る。
外に立っていた構成員が手を差し出した。
出久は一瞬だけ迷ったものの、今度は意地を張らず、その腕を借りて車外へ降りた。
靴底が路面へ触れる。
「緑谷出久」
背後から呼ばれ、出久は振り返った。
オーバーホールは暗い車内へ座ったまま、こちらを見ている。
「今日の判断は悪くなかった」
「脅したことですか」
「殺さなかったことだ」
出久の表情が僅かに強張る。
「力を示すだけで済むなら、それに越したことはない。死体は金を払わないからな」
オーバーホールの目が、マスクの上で僅かに細められる。
「次も期待している」
「……まだ受けるとは言ってません」
「そうだったな」
オーバーホールの目が、マスクの上で僅かに細められる。
「では、良い返事を期待している」
構成員が扉を閉めた。
重い音とともに、オーバーホールの姿が見えなくなる。
直後、車はゆっくりと発進した。
赤い尾灯が暗い通りを遠ざかり、角を曲がって消えていく。
出久はその場に残り、紙袋を抱えたまましばらく動かなかった。
煙草の臭いだけが、上着と髪へ薄くまとわりついている。
怪我を治せ。
地方へ消失弾を運べ。
新しい客を探せ。
話をしているうちに、次の仕事は既に始まっているようなものだった。
出久は紙袋へ目を落とした。
中には薬と包帯。
自分を治すための物。
そのすべてが、誰かの個性を奪う仕事へ向かわせるために用意された投資だった。
「……帰ろう」
誰に聞かせるでもなく呟き、出久はフードを深く被る。
人気のない裏通りを、義爛の隠れ家へ向かって歩き始めた。
──
一か月後。
人気のない路地へ、古びたワゴン車のエンジン音が響いた。
時刻はまだ早朝だった。
空は薄く白み始めているものの、両側に並ぶ雑居ビルが光を遮り、路地の底には夜の暗さが残っている。
閉店した飲食店の裏口。
錆びた室外機。
積み上げられたビールケース。
鼻を突く生ゴミと油の臭い。
そんな場所へ、場違いなほど大きな黒い車がゆっくりと入り込み、敵連合の面々の前で停車した。
運転席から降りてきたのは、死穢八斎會の構成員だった。
よれたスーツ。
目の下には濃い隈。
普段なら周囲の気配を確かめてから動くはずの男が、今日は後方を一度振り返っただけで、早足に車の後部へ回っていく。
「遅いぞ!」
トゥワイスが両腕を広げた。
「時間通りだ! 一時間待った!」
「約束より五分前だ」
構成員は苛立たしげに言い返し、後部扉の鍵を外した。
重い扉が横へ滑る。
荷室には、段ボール箱や黒い旅行鞄が幾つか積み込まれていた。
その奥には、金属製の保冷ケースにも似た頑丈な箱が固定されている。
今回集められたのは連合構成員の全員、出久、トガ、トゥワイス、スピナー、マグネ、Mr.コンプレスの六人だった。
それぞれ目立たない服へ着替えている。
もっとも、帽子やフードを被った程度で素性を隠せる面々ばかりではない。
「この車は自由に使え」
構成員は運転席を顎で示した。
「車両の登録は偽名。ナンバーも途中で付け替えろ。予備は荷室の床下に入ってる」
続いて、積み込まれた荷物を指差す。
「食料。着替え。偽造身分証。現地で使う携帯端末。取引相手の資料と、当面の活動資金も一式揃えてある」
「旅行みたいですねえ」
トガが楽しそうに荷室を覗き込む。
「修学旅行ですか?」
「違う」
「新婚旅行だ!」
「誰と誰がだよ」
スピナーが呆れたように返した。
出久は会話へ加わらず、荷室の奥に固定された金属ケースを見ていた。
一か月前まで身体を覆っていた包帯は、今ではほとんど外れている。
右腕にはまだ薄い固定具が残り、腹部にも傷痕はあるものの、歩くたびに顔を歪めることはなくなっていた。
オーバーホールが用意した薬と、八斎會の裏医者による定期的な治療。
その効果もあって、日常生活に支障がない程度には回復している。
「商品は?」
出久が尋ねる。
構成員は周囲へ視線を走らせてから、金属ケースへ近づいた。
鍵を二つ外し、蓋を僅かに持ち上げる。
黒い緩衝材の中へ、弾丸状の容器が整然と並んでいた。
透明な胴体の内部で、赤黒い薬液が揺れている。
「当座の消失弾だ。全部で十二発」
構成員はすぐに蓋を閉めた。
「今回渡すのは、効果が数時間から数日続く試作品だけだ。完成品は一発も入ってない」
「十二発ですか」
「ああ。最初から大量に持たせるつもりはねえらしい。まずは現地で客を見つけて、確実に売れるか確認する」
男は上着の内側から薄い封筒を取り出し、出久へ押しつけた。
「大阪と兵庫に接触候補が六組。所在地と連絡方法はその中だ。話が通ってる連中もいれば、名前だけ挙がってる奴もいる」
「僕たちで交渉しろってことですか」
「そういう契約だろ」
出久は封筒を受け取り、中身を軽く確かめた。
顔写真。
組織名。
過去の犯罪歴。
縄張り。
想定される資金力。
簡潔ではあるが、八斎會が事前に調べた情報が揃っている。
「売値は?」
「最低額だけ決められてる。それより上で売れた分は、お前らの取り分へ上乗せされる」
「なら十倍で売ろうぜ!」
トゥワイスが胸を張る。
「一発も売れずに帰ってこい!」
「相場も分からないのに吹っかけるな」
スピナーはそう言ってから、ふと運転席へ目を向けた。
「そういや……誰か免許持ってたか?」
小さな呟きだった。
出久は封筒の資料を読み進めている。
トガは荷室へ積まれた菓子の箱を勝手に開けようとし、コンプレスは偽造身分証を一枚ずつ確認していた。
マグネは旅行鞄を持ち上げ、トゥワイスは予備のナンバープレートを顔の前へ掲げて遊んでいる。
誰も答えない。
「おい」
スピナーは少しだけ声を大きくした。
「誰か、車の免許──」
「それじゃあ、説明は以上だ!」
八斎會の構成員が、不自然なほど大きな声で遮った。
男は腕時計を確認し、路地の入口へ素早く視線を送る。
先ほどから額に浮かんでいた汗はさらに増え、よれた襟元へ染み込んでいた。
「商品の管理は厳重にしろ。無くしたら弁償じゃ済まねえからな」
「ちょっと待て」
スピナーが男へ顔を向ける。
「運転する奴が──」
「連絡用の端末は鞄の中だ。現地へ着いたら指定の番号へ連絡しろ」
「いや、だから」
「後は頼んだぞ!」
構成員は車の鍵を出久へ押しつけると、逃げるように身を翻した。
「え?」
出久が鍵と男の背中を見比べる。
「もう行くんですか?」
「用事がある!」
男は振り返らずに答えた。
「急ぎの用事があるんだよ!」
「何の用事だよ」
スピナーが尋ねる。
「お前らには関係ねえ! くそ、どこ行っちまったんだよ」
返事をしながらも、男の足取りはどんどん速くなっていく。
途中からは、ほとんど小走りだった。
「車で来たのに、どうやって帰るんだ?」
コンプレスが首を傾げる。
その指摘が聞こえたのか、組員の足が一瞬だけ止まった。
しかし、すぐに携帯電話を取り出す。
「迎えを呼ぶ!」
「今思いついたな」
「最初からそのつもりだった!」
男は苛立たしげに叫び、誰かへ電話を掛けながら路地の角へ消えていった。
姿が見えなくなっても、しばらく慌ただしい声だけが聞こえていた。
「……何だったんでしょう」
出久が呟く。
「怪しいですねえ」
トガは楽しそうに笑いながら、既に荷室へ片足を乗せていた。
「追いかけて聞いてみますか?」
「やめとこう」
出久は即座に止める。
「急いでるみたいだし」
「だからこそ気になるんですけど」
「今は仕事を優先しよう」
出久は渡された鍵を握り直し、車へ目を向けた。
「とりあえず、乗りましょう。ここに長くいる方が目立ちます」
「賛成だ!」
トゥワイスが真っ先に助手席の扉を開ける。
「俺が一番安全な席に座る! 真っ先に死ぬ席だ!」
「助手席は事故の時に危ないって聞くよ」
出久が言う。
「じゃあ譲る! 絶対に退かねえ!」
トゥワイスは勢いよく助手席へ乗り込み、シートベルトを引っ張った。
だが途中で捻れてしまい、身体ごと絡め取られる。
「助けろ! 快適だ!」
「何してるんですか」
出久は困ったように言いながら、後部座席の扉を開けた。
「デク君、隣いいですか?」
トガが尋ねる。
「もう……乗ってるよね?」
「は~い」
返事をする頃には、トガは既に後部座席の中央へ収まっていた。
出久が端へ座ると、その肩へ身体を寄せる。
「近いよ! トガさん!」
「車は狭いですから」
「反対側は空いてるよ」
「私はここがいいんです」
マグネは旅行鞄を荷室へ放り込み、後部座席の反対側へ乗り込んだ。
コンプレスは荷室に入り、段ボール箱に肘を乗せる。
スピナーの動きが止まった。
ゆっくりと車内を見回す。
助手席にはトゥワイス。
後部座席には出久、トガ、マグネ。
荷室にはコンプレスと大量の荷物。
確かに、唯一空いている席は運転席だけだった。
「……え」
スピナーは運転席へ目を向ける。
「運転席?」
誰も答えなかった。
出久は資料を読み始める。
トガはその肩越しに覗き込み、マグネは窓の外を眺めている。
コンプレスは金属ケースを丁寧に固定し直し、トゥワイスは助手席でラジオのボタンを片端から押していた。
「おい」
スピナーの声が低くなる。
「ちょっと待て」
「早く乗れよ!」
トゥワイスが助手席の窓から手招きする。
「出発するぞ!」
「誰が運転するんだよ」
「お前だ!」
「何でだよ!」
「運転席に一番近いからだ!」
「お前の方が近いだろ!」
「俺はもう助手席に座った! 早い者勝ちだ!」
スピナーは車内にいる面々を一人ずつ見た。
「緑谷」
「僕は、一応高校生だったから」
出久は資料から顔を上げずに答えた。
「トガ」
「私も高校生くらいです」
「くらいって何だよ。マグ姐、コンプレス?」
「悪いね、おじさん生粋の犯罪者だから免許なんて取ってないよ。東京に住んでたら車も乗らないし」
「あたしも~」
スピナーは頭を抱えた。
学生だった出久とトガが免許を持っていないのは分かる。
だが、成人しているコンプレスやマグネまで持っていないとは思っていなかった。
トゥワイスに運転させるのは、あまりにも不安だ。
スピナーは運転席の扉の前で立ち尽くした。
路地へ朝の光が少しずつ差し込み始めている。
遠くからは配送トラックの走行音も聞こえ、いつまでもこの場所へ停めておくわけにはいかなかった。
「秀一君、早くしてください。SA寄ってくださいねえ」
トガが後部座席から催促する。
「まだ出発もしてねえのに、もうサービスエリアの話かよ」
スピナーは運転席の前へ立ったまま、恨めしそうに車内を見回した。
誰も席を譲る気配はない。
スピナーは頭を掻きむしった。
遠くから配送トラックのエンジン音が近づいてくる。このまま路地を塞いでいれば、不審に思われる可能性が高い。
選択肢はなかった。
「……くそ」
観念したように運転席へ乗り込む。
座席へ腰を下ろすと、まず膝がハンドルへ当たった。
「狭っ」
座席の脇を探り、調整用のレバーを引く。
勢いよくシートが後ろへ滑り、背後からトガの短い悲鳴が上がった。
スピナーは座席の位置を調整し直し、両手でハンドルを握った。
硬い。
ゲーム用のコントローラーとは違う。
手のひらへ伝わる感触も、正面に広がる景色も、当然ながら現実だった。
しかも荷室には、撃ち込めば人間の個性を奪う薬品が十二発も積まれている。
「……グラセフと一緒だ、一緒。大したことね」
「事故るなよ!」
トゥワイスが助手席から笑う。
「縁起でもねえこと言うな」
エンジンがかかり、ワゴン車はゆっくりと路地を離れた。
市街地を抜け、何とか高速道路へ乗る。
慣れない運転に肩を強張らせたまま、スピナーは前を見据えて口を開いた。
「なあ、大阪までどのくらいかかるんだ?」
誰もすぐには答えなかった。
出久は地図を眺め、トガは首を傾げる。
「昼には……着くんじゃないかな?」
「多分な」
コンプレスも曖昧に頷く。
「そんな適当でいいのかよ……」
スピナーは小さくぼやきながら、ハンドルを握り直した。
その時だった。
荷室で段ボール箱へ肘を乗せていたコンプレスが、ふと眉を動かす。
「……ん?」
ごそ。
段ボールが、小さく揺れた。
最初は路面の振動かと思った。
しかし今度は、箱そのものが内側から押し上げられるように、もう一度ごそごそと動いた。
「なあ、なんか……」
車内の視線が一斉に荷室へ集まる。
ごそ。
再び、段ボールが動いた。
「……何だ?」
スピナーがバックミラー越しに眉をひそめる。
荷物が崩れたにしては、不自然だった。
まるで、中から何かが押しているような動きだった。
「ネズミですか?」
段ボールの蓋が、内側からゆっくりと持ち上がる。
全員の動きが止まった。
次の瞬間。
「──ぷはぁっ!」
小さな顔が、箱の中から勢いよく飛び出した。
長い白銀の髪はぼさぼさに乱れ、頬はほんのり赤く染まっている。
新鮮な空気を求めるように何度も息を吸い込み、小さな肩が上下した。
「く、くるしかったぁ……」
幼い少女だった。
そして、白い前髪の隙間から、小さな一本角がちょこんと突き出していた。
車内が、凍りつく。
「…………」
誰も声を出せない。
少女は涙目のまま周囲を見回し、ようやく自分を見つめる六人と目が合った。
「あ……」
ぱちり、と赤い瞳が瞬く。
「え……?」
今度は少女の方が固まった。
数秒の沈黙。
最初に口を開いたのは、トゥワイスだった。
「何で子供がいる!?」
「俺が聞きたい!」
助手席から悲鳴のような声が上がる。
スピナーは思わずブレーキを踏みかけ、慌てて踏みとどまった。
「ちょ、ちょっと待て!」
マグネも目を丸くする。
「こんな子、積んでたなんて聞いてないよ!」
「なんだ!? 何の話だ!? 後ろを見れない!」