大阪の街は、昼下がりの賑わいに包まれていた。
人通りの多い商店街を抜け、飲食店や雑居ビルの並ぶ通りへ入る。
看板から流れる呼び込みの声、店先から漂う出汁と油の匂い、交差点を行き交う人々のざわめきが絶えず耳へ届き、東京とはまた違った賑やかさが街全体を包んでいた。
その雑踏の中でも、ひときわ目立つ巨体がある。
「いやぁ、ほんま助かったわ!」
ファットガムは豪快に笑いながら歩いていた。
大阪を拠点に活動するBMIヒーロー、ファットガム。
丸々とした巨体を揺らしながら、その片手にはなぜか大きなたこ焼きのプレートが乗っている。
紙皿へ取り分けるでもなく、焼き上がったたこ焼きが十数個並んだ鉄板ごと持ち運び、もう片方の手に握った爪楊枝で次々と口へ放り込んでいた。
「何かと話題に事欠かん今年の雄英生を受け入れるんは、正直ちょっと心配やったんやけどな」
「うっ……」
隣を歩いていた切島鋭児郎の肩が僅かに縮こまる。
雄英高校ヒーロー科一年A組。
現在はインターンとして、ファットガムの事務所へ参加している。
赤く逆立てた髪に、活発な顔立ち。普段ならどんな相手にも臆せず声を張る少年だったが、「今年の雄英生」という言葉にはさすがに思うところがあるらしい。
「ま、まあ色々あったっすからね……」
「色々で済ませてええんか、それ」
ファットガムは熱いたこ焼きを頬張り、はふはふと息を吐いた。
「USJ襲撃に、神野の悪夢。同じクラスから全国指名手配犯まで出てもうた」
その言葉に、切島の表情が一瞬だけ固まった。
緑谷出久。
少し前まで、同じ教室で授業を受けていたクラスメイト。
誰よりもヒーローに憧れ、無茶ばかりして、それでも誰かを助けることだけは諦めなかった少年。
今では、日本中に顔と名前を知られたヴィランになっている。
「……はい」
切島は短く答えた。
ファットガムはそんな彼を横目で見たが、深くは触れなかった。
「せやからな、最初は身構えとったんや。今度はどんな問題児が来るんやろって」
「俺、そんな危険人物に見えました!?」
「見えへん見えへん」
ファットガムは腹を揺らして笑った。
「むしろ素直な子で良かったわ!」
「そ、そうっすか?」
「礼儀はある。返事もええ。教えたこともちゃんと聞く。飯もよう食う」
「最後関係あります?」
「大事やで!」
ファットガムは真顔で言い切り、また一つたこ焼きを口へ運んだ。
「食える時に食っとかな、ヒーローなんて身体もたへんからな」
「ファットの基準は大体そこだからな」
三人目がぼそりと呟いた。
切島の反対側を歩いている細身の青年。
天喰環。
雄英高校BIG3の一角にして、切島と同じくファットガムの下でインターンを行っている。
長めの黒髪が顔へかかり、猫背気味の姿勢もあって、ただ歩いているだけならプロヒーローを目指す雄英上位の実力者にはとても見えない。
「天喰先輩、辛辣っすね!」
切島が笑う横で、ファットガムはまた一つたこ焼きを口へ放り込んだ。
たっぷりとかかったソース。削り節。青海苔。熱で柔らかくなったマヨネーズが表面へ絡み、爪楊枝で割れた生地の隙間から湯気が立ち上る。
「んー! やっぱここのは美味いわ!」
満足そうに頬を緩めながら、今度は二つ続けて口へ入れる。
切島は何となくその手元を目で追った。
「……」
昼時を少し過ぎている。
午前中から事務所の仕事を手伝い、そのままパトロールへ出たため、考えてみればまともに昼食を取っていなかった。
そこへ目の前で、これでもかというほど美味そうにたこ焼きを食べられている。
ぐうぅ。
腹が鳴った。
切島は一瞬固まり、腹へ手を当てた。
「……腹減ったな」
「お! 可愛ええ腹の虫やな!」
ファットガムが笑う。
「いや、ファットがそんな美味そうに食うからっすよ!」
「人のせいにすんなや!」
切島は周囲を見回した。
少し先の交差点、その角に見慣れたコンビニエンスストアの看板が出ている。
「ファット、俺ちょっとコンビニ行ってくるっす!」
「おう。昼飯か?」
「はい! 見てたら余計腹減ってきたっす!」
「ええことや!」
ファットガムは嬉しそうに親指を立てた。
「食える時に食っとき! ただしパトロール中やから、あんまり時間かけんなよ!」
「了解っす!」
切島は軽く手を上げ、そのままコンビニへ駆け込んだ。
自動ドアが開き、冷房の効いた空気が身体へ触れる。
「うお、涼し……」
外の蒸し暑さから一転した冷気に肩を震わせながら、切島はそのまま食品棚へ向かった。
店内は昼時を少し過ぎた頃ということもあり、客はそれほど多くない。
「鮭と……ツナマヨもいるな」
おにぎりを二つ取る。
少し迷って、焼肉系のおにぎりも追加した。
「あと飲みもん……」
冷蔵棚からスポーツドリンクを一本抜き取り、そのままレジへ向かう。
前には一人だけ客が並んでいた。
切島は籠を片手にぼんやりと待ちながら、何となくレジの方へ視線を向ける。
若い女性店員が、商品のバーコードを読み取っていた。
「いらっしゃいませ……」
少しくぐもった声。
白いマスクで口元を覆い、髪は後ろで適当にまとめられている。何本かの毛束が頬へ張りつき、整えているというより、邪魔にならないよう無理やり束ねただけに見えた。
制服の袖から覗く腕も白い。
肌にはほとんど血色がなく、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。
切島は最初、特に気に留めなかった。
疲れている店員なのだと思った。
だが。
「……?」
胸の奥に、妙な引っかかりが生まれる。
どこかで見たことがある。
切島は眉を寄せた。
女性店員は前の客から代金を受け取り、レシートを渡す。
「ありがとうございました」
その横顔。
頬の丸み。
瞳の形。
切島の身体が僅かに固まった。
「……え」
女性店員が次の客を促すように顔を上げた。
視線が合い、彼女の瞳が大きく見開かれた。
切島も動けなかった。
「……麗日?」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
「……切島君」
麗日の口から零れた声も、切島と同じくらい小さかった。
しばらく、どちらも動かなかった。
レジを挟んで見つめ合う。
切島は何か言わなければと思ったものの、久しぶりに会ったクラスメイトへ掛けるはずの言葉が、どうしても出てこなかった。
そんな彼より先に、麗日が気まずそうに目を伏せる。
「……久しぶり」
「……おう。久しぶり」
それだけで会話が途切れた。
数か月前までなら、こんなことはなかった。
朝に教室で顔を合わせれば普通に挨拶をして、授業や訓練について話し、昼休みには他のクラスメイトも交えてくだらない話をする。
特別に親しかったわけではないが、それでも同じ一年A組の仲間だった。
しかし、今は違う。
麗日お茶子は、もう雄英高校の生徒ではない。
神野の悪夢。
あの事件で、彼女はヒーローたちに逆らった。
ヴィランとなった緑谷出久を捕らえようとするヒーローを妨害し、出久を助けるために自らの個性まで使った。
逮捕こそされなかった。
未成年であったことに加え、事件の状況や本人のその後の対応など、いくつもの事情が考慮された結果だった。
しかし、だからといって何の処分も受けずに済むはずがない。
雄英高校を退学。
それが麗日に下された処分だった。
切島も、その決定を聞いた日のことを覚えている。
クラスから緑谷が消え、その直後に麗日までいなくなった。
あれほど騒がしかった一年A組の教室から二つの席が空き、それについて誰も気軽に話せなくなった。
そして今、久しぶりに再会した麗日は、雄英の制服でもヒーローコスチュームでもなく、コンビニの制服を着てレジの向こう側に立っている。
「……」
「……」
また沈黙が落ちた。
切島は手にした籠を見下ろす。
「あー……」
何か言わなければ。
そう思えば思うほど、何を言えばいいのか分からなくなる。
元気だったか。
今どうしているのか。
雄英を辞めてからどうしていたのか。
聞いていいことなのか分からない。
そもそも、自分は今も雄英でヒーローを目指している。しかも今日はプロヒーローの下でインターン中だ。
そんな自分が麗日の現状について尋ねれば、どう聞いても無神経になるような気がした。
「そっか……麗日の実家って、こっちの方だったんだな」
「あ……うん」
麗日は少しだけ目を伏せた。
「大阪やから。雄英辞めてから、こっち戻ってきたんよ。お父ちゃんの会社も、私のせいで潰れちゃって、さ」
「え!? あ……そう、なんか」
「うん」
「……そうか。大変だったんだな」
「……うん」
続かない。
どうしようもなく気まずかった。
切島は視線を泳がせた末、ようやく自分が買い物の途中だったことを思い出す。
「あ、悪い。これ」
「う、うん」
籠から商品を取り出し、レジ台へ置いた。
鮭のおにぎり。
ツナマヨのおにぎり。
焼肉のおにぎり。
スポーツドリンク。
麗日も仕事を思い出したように商品へ手を伸ばす。
「いらっしゃいませ……」
ぴっ。
バーコードを読み取る電子音が鳴った。
ぴっ。
もう一つ。
それまでクラスメイトとして話していた相手が、突然店員として定型句を口にしたことに、切島は何とも言えない居心地の悪さを覚えた。
麗日も同じなのか、切島の顔をほとんど見ようとしない。
「おにぎり……温める?」
「え?」
「……あ」
麗日は一瞬固まり、気まずそうに眉を下げた。
「ちゃう。温めますか?」
「あ、いや、そのままで大丈夫っす」
「……なんで切島君まで敬語なん」
「いや、なんかつられて……」
麗日の目元が僅かに緩んだ。
「変なの」
ほんの一瞬だけ、昔の空気が戻った。
だが、それも長くは続かなかった。
麗日は最後のスポーツドリンクを読み取り、レジへ金額を表示させる。
「六百四十八円です」
「おう」
切島が財布を取り出している間、麗日は黙って待っていた。
改めて近くで見ると、やはり以前とは違う。
ぼさついた髪。
目の下の隈。
マスクでも隠しきれない顔色の悪さ。
「……麗日」
「ん?」
切島は財布から硬貨を出しかけたまま止まった。
「お前……」
大丈夫か。
そう聞こうとして、やめた。
大丈夫なわけがない。
雄英を退学になり、ヒーローになる道を失い、実家へ戻ってコンビニで働いている。
かつてのクラスメイトと偶然顔を合わせただけで、これほど気まずそうに目を逸らしている。
そんな相手へ「大丈夫か」と尋ねたところで、何を答えさせたいのか。
「……いや」
切島は言葉を飲み込んだ。
「何でもねえ」
「……そっか」
麗日も追及しなかった。
硬貨がトレーへ置かれる。
麗日はそれを数えてレジへ入れると、商品を袋へ詰め始めた。
その手元を見ながら、切島はまた何か話題を探した。
けれど、頭に浮かぶのは雄英のことばかりだった。
「……」
結局、何も言えなかった。
麗日は袋へ最後のおにぎりを入れ、持ち手を揃えて切島へ差し出す。
「ありがとうございました」
店員としての言葉だった。
切島は袋を受け取る。
「……おう」
レジから離れ、コンビニから出る。
自動ドアを抜けた瞬間、むっとした大阪の熱気が切島の顔へまとわりついた。
さっきまで涼しい店内にいたせいで、余計に暑く感じる。
片手にはコンビニ袋。
中には三つのおにぎりとスポーツドリンク。
本来なら、空腹を満たすために買っただけの昼飯だった。
けれど今は、何となく袋が重かった。
「……」
切島は一度だけ、背後のコンビニを振り返った。
ガラス越しにレジの辺りが見える。
麗日はもうこちらを見ていなかった。
次の客へ頭を下げ、商品を受け取り、バーコードを読み取っている。
まるで、さっきの再会など最初からなかったかのように。
「……行くか」
切島は小さく呟き、ファットガムたちが待っている方向へ歩き出した。
数十メートル先。
ファットガムは相変わらず目立っていた。
大きな身体で歩道脇に立ち、ついさっきまで持っていたたこ焼きの鉄板はほとんど空になっている。
天喰はその隣で、壁際へ寄るように立っていた。
「お、戻ってきたな!」
ファットガムが切島へ気づき、片手を上げる。
「思ったより時間かかったやん」
「すんません!」
切島はいつもの調子で返した。
少なくとも、そう聞こえるように。
「レジ混んでたんか?」
「いや、まあ……ちょっと」
切島は袋から鮭のおにぎりを取り出した。
包装を勢いよく剥がす。
そして、そのまま一口。
かなり大きく齧った。
「おお、ええ食いっぷりやな!」
ファットガムが嬉しそうに笑う。
切島は返事をする代わりに、残った半分も口へ押し込んだ。
もぐもぐと何度か噛み、スポーツドリンクで流し込む。
味はほとんど分からなかった。
「……」
次はツナマヨ。
包装を剥がし、これも勢いよく食べる。
「腹減ってたんやなぁ」
「……っす」
切島はそう答えたものの、いつものような笑顔はなかった。
ファットガムは、それを見逃さなかった。
最後のたこ焼きを口へ放り込みながら、少しだけ目を細める。
「切島」
「はい?」
「なんかあったんか?」
切島の手が、一瞬だけ止まった。
焼肉おにぎりの包装に掛けていた指が固まる。
「……」
脳裏へ浮かんだのは、レジ越しに立つ麗日の姿だった。
ぼさついた髪。
血色の悪い顔。
コンビニの制服。
切島は奥歯を噛んだ。
「……何もないっす」
包装を剥がした。
「ほんまか?」
「はい」
「何もない顔には見えへんけどな」
ファットガムの声は軽かったが、視線は真っ直ぐだった。
切島は一瞬だけ迷った。
話すべきなのかもしれない。
ファットガムはプロヒーローだ、天喰も先輩だ。
麗日のことを話せば、何か気の利いた言葉をくれるかもしれない。
けれど。
それを勝手に話していいのか分からなかった。
あの再会を、麗日が誰かに知られたいと思っているとも思えない。
「……大丈夫っす」
切島はもう一度言った。
「ほんとに、何もないんで」
そして焼肉おにぎりへ齧りつく。
今度も大きな一口だった。
「……そーか」
ファットガムは、それ以上聞かなかった。
天喰も何も言わない。
切島は黙々と残りを食べた。
海苔が少しだけ口元へ付いた。
それを袖で雑に拭う。
「ごちそうさまでした!」
空になった包装をコンビニ袋へまとめ、スポーツドリンクを一口飲む。
さっきまで鳴っていた腹は、もう静かだった。
けれど胸の奥へ残った重さは、何一つ減っていない。
「よし」
ファットガムが空になった鉄板を近くの店へ返すため、軽く持ち上げた。
「ほな、パトロール再開するで」
「はい!」
切島は反射的に返事をする。
今度は、少しだけいつもの声に近かった。
三人は再び人通りの多い商店街へ戻る。
昼下がりの通りは相変わらず賑やかで、総菜屋の呼び込みや自転車のベル、買い物客たちの話し声が途切れることなく響いている。
切島も周囲へ視線を配りながら歩いていたが、意識の片隅にはまだ先ほどの麗日の姿が残っていた。
そんな切島の様子を横目で見ながら、ファットガムがぽんと腹を叩く。
「まぁ、何もない言うんならそれでええわ。話したなったら、いつでも聞いたる」
「……ありがとうございます」
「それより、今は仕事や」
ファットガムの声が少しだけ真面目になる。
「最近な、この辺のヴィランの間で妙な薬が流行っとってな」
「薬っすか?」
切島が顔を上げる。
隣を歩いていた天喰も、僅かに視線を向けた。
「そうや。昔からあるような個性ブースト剤なら珍しないんやけどな」
「個性を一時的に強化するやつですよね」
「せや。増強系なら出力上げたり、炎なら火力増したり。副作用きつい粗悪品も多いけど、裏じゃ昔から需要ある」
ファットガムは商店街の左右を見渡しながら歩く。
「ただ、最近出回っとるんはそれだけやないらしい」
「他にもあるんすか?」
「ああ」
ファットガムは声を少し落とした。
「逆に、個性を使えんくする薬があるっちゅう話や」
切島の眉が動く。
「個性を……?」
「雄英んとこのイレイザーヘッドおるやろ」
「相澤先生っすか?」
「そうそう。あの人みたいに、相手の個性を止める効果が出るらしいねん」
切島は思わず足を僅かに緩めた。
「そんな薬、本当にあるんすか?」
「そこがまだ分からん」
ファットガムは肩を竦める。
「噂だけなら前からある。個性を消す弾丸があるとか、注射一本で使えんようになるとか、裏社会はそういう与太話が好きやからな」
「でも、今回は違う?」
天喰が尋ねた。
「せや」
ファットガムは頷いた。
「実際に『突然個性が使えんようになった』ってヴィランやらヒーローが何人か出とる。効果はだいたい数時間、バラツキはあるみたいやな」
切島が自分の腕を見る。
硬化できなければ、ただの高校生だ。
普段なら受け止められる攻撃でも、その状態なら簡単に大怪我へ繋がる。
「せやから最近は、事務所でも情報集めとる」
ファットガムは指を一本立てた。
「出所はどこか。どういう経路で流れとるか。誰が売っとるか。まだそこまで掴めてへん」
ファットガムは歩調を緩めず続ける。
「ただ、妙なんは売り方や」
「妙って、なにがなんすか?」
「今までのブースト剤みたいに、売人が細々と捌いとる感じやない。何人かのヴィランが『まとまった数を仕入れられる』みたいな話しとるらしい」
「組織的ってことですか?」
「その可能性が高い」
ファットガムが答えた、その時だった。
商店街の奥から、何かが倒れる大きな音が響いた。
続いて女性の悲鳴。
「きゃあっ!」
三人の顔つきが同時に変わる。
「何や?」
ファットガムが前方を見る。
人の流れが乱れ始めていた。
奥の方から、何人かがこちらへ向かって走ってくる。
「向こうで喧嘩だ! めちゃくちゃやってる!」
逃げてくる人々の向こうから、今度は明らかに一般客ではない男たちが姿を現した。
派手な柄のシャツに、太い金のネックレス。腕や首筋には刺青が覗き、うち一人は割れたサングラスを片手に握っている。別の男は鼻血を拭いながら、何度も後ろを振り返っていた。
「クソッ、何なんだよあいつら!」
「せっかく一旗あげようと思ってた所なのによ!」
「話が違ぇだろ!」
男たちは悪態をつきながら、人を押し退けるように商店街を走ってくる。
その様子だけで、切島にも察しがついた。
「ファット、あいつら──」
「ああ」
ファットガムの表情から笑みが消える。
先頭を走っていた男も、前方に立つ巨体へ気づいた。
「邪魔だ! どけ──」
言いかけた声が止まる。
丸々とした身体。
黄色いコスチューム。
大阪を根城にしているヴィランなら、見間違えるはずがない。
男の顔が引きつった。
「クソ! ファットだ!」
叫ぶなり、全員が一斉に足を止めた。
「曲がれ!」
「こっちだ!」
横道へ逃げようと身体の向きを変える。
しかし。
「遅い遅い!」
「え?」
男たちが振り返った時には、そこにファットガムがいた。
「いつの間に!?」
「動けるデブっちゅうやつや!」
にっと笑う。
先頭の男は止まりきれなかった。
「うおっ!?」
そのままファットガムの腹へ突っ込む。
鈍い音とともに、男の上半身が巨大な腹へ沈み込んだ。
「離せ! 何だこれ!」
「無理や」
ファットガムは腹へ沈んだ男を見下ろして笑う。
「個性『脂肪』。ワイの脂肪はなんでも吸着するでぇ!」
「離せ! クソ、沈む……!」
男は必死に腕を振り回したが、ファットガムの脂肪は暴れるほど深く身体を呑み込み、腰から上を完全に固定していた。
ファットガムが男を押さえ込んでいる間にも、残ったヴィランたちは左右へ散ろうとしていた。
「チッ、別れて逃げろ!」
そのうち一人が、ファットガムの脇を大きく迂回する。
切島が追おうと足を踏み出したが、それより先に天喰が動いた。
「大丈夫」
ぼそりと呟き、右腕を前へ出す。
次の瞬間、その腕の形が大きく変わった。
肘から先が膨らみ、皮膚の代わりに灰白色の硬い殻が現れる。
二枚の分厚い貝殻が腕を包み込み、巨大なハマグリをそのまま拳へ変えたような異様な形状になった。
「なっ──」
逃げようとしていた男が振り返る。
天喰は一歩だけ踏み込み、その巨大な貝殻の腕を横薙ぎに振るった。
鈍い音が響く。
「ぐぇっ!」
ハマグリの殻が男の脇腹へまともに叩き込まれた。
身体が横へ吹き飛び、店先に積まれていた空の段ボールへ突っ込む。
派手な音を立てて箱が崩れ、その中央で男は白目を剥いたまま動かなくなった。
「すっげ! 一撃……」
切島が思わず呟く。
天喰は殻に変化した腕を見ながら、少し居心地悪そうに視線を逸らした
個性『再現』──食べた物の特徴を身体に再現する事が出来る。
「朝、ハマグリ食べたから……」
「いや、そういう説明じゃなくて!」
切島が思わず声を上げる。
「天喰! ええ一発や!」
ファットガムは腹へヴィランを吸着させたまま親指を立てた。
「……どうも」
褒められた天喰は、むしろ困ったように肩を縮める。
そこで。
「ま、待て!」
少し遅れて商店街の奥から、もう一人の男が駆けてきた。
他の連中より若い。
まだ二十歳を越えたばかりに見える細身の男で、派手な服装もどこか着慣れていない。
先ほど倒された連中の後ろを必死についてきていたらしく、息を切らしながら状況を見回す。
ファットガムの腹へ沈んでいる仲間。
段ボールの中で気絶している男。
その前に立つ天喰と切島。
男の顔から、見る見る血の気が引いた。
「あ、兄貴たちを離せ!」
男は半ば悲鳴のように叫びながら、上着の内側へ手を突っ込んだ。
切島の身体が即座に硬化する。
天喰も姿勢を低くした。
取り出されたのは、小型の拳銃に似た黒い器具だった。
通常の拳銃より銃身が太く、握りも不格好で、どこか即席の改造品めいた外見をしている。
男は震える両手でそれを構えた。
周囲の一般人から悲鳴が上がる。
だが男自身も、構えた武器を見てから何かを思い出したようだった。
「……あ」
顔が引きつる。
「クソ!」
舌打ちし、武器を見下ろす。
「そういや薬は買えなかったんだった!」
「薬?」
ファットガムの目が細くなる。
男は一瞬だけ固まった。
自分が余計なことを口走ったと気づいたらしい。
「……っ!」
次の瞬間、拳銃のような器具を抱え込むようにして踵を返した。
「待て!」
切島は反射的に駆け出した。
男は振り返らない。
小型の射出器を胸元へ抱え込み、人混みを縫うように商店街の奥へ走っていく。
「切島!」
背後からファットガムの声が飛ぶ。
「追いすぎんな! 単独で突っ込むなよ!」
「了解っす!」
返事をしながらも、切島は速度を落とさなかった。
人の多い商店街では、男も思うようには走れない。
買い物客へ肩をぶつけ、店先の看板を蹴飛ばしながら、何度も後ろを振り返っている。
「クソッ!」
男は舌打ちすると、商店街の途中にあった細い横道へ飛び込んだ。
「あっ!」
切島も迷わず続く。
賑やかな通りから一歩入っただけで、空気が一変した。
建物と建物の隙間に挟まれた狭い路地。
店の裏口や室外機、積み上げられたビールケースが並び、昼間だというのに薄暗い。
前方から荒い足音が響いている。
「待て!」
「待つかよ!」
男は前方の角へ飛び込んだ。
切島も続いて角を曲がる。
その瞬間だった。
「ぐぁっ!?」
鈍い衝撃音。
直後。
一人の身体が、角の向こうから吹き飛んできた。
「なっ!?」
切島は咄嗟に足を止める。
男の身体は地面へ叩きつけられ、そのまま二度、三度と転がった。
握っていた射出器が手から離れ、乾いた音を立てて路面を滑っていく。
「がっ……!」
男は腹を押さえながら身体を丸めた。
どうやら一発殴られただけらしい。
それなのに立ち上がれない。
「何だ……?」
切島は警戒しながら視線を上げる。
狭い路地の奥に誰かが立っていた。
黒に近い色のパーカー。
深く被ったフード。
その人物は殴り飛ばした男を見下ろしたまま、微動だにしなかった。
「……」
切島は硬化したまま、一歩だけ前へ出る。
「おい!」
フードの人物は反応しない。
「そいつから離れろ!」
ようやく、僅かに顔がこちらへ向いた。
だが暗くて表情までは分からない。
「ヒーローだ!」
切島は名乗る代わりにそう告げた。
「その男はこっちで確保する。何があったか知らねえけど、手ぇ出すな!」
倒れた男が苦しそうに顔を上げる。
「な、なあ悪かったよ……金はちゃんと用意する、から……」
フードの人物が、ほんの少しだけ首を傾げた。
切島はその仕草に、妙な既視感を覚えた。
「……?」
どこかで見たような。
だが、すぐには思い出せない。
フードの人物は倒れている男から視線を外し、今度こそ切島へ身体を向けた。
その拍子に、路地へ差し込む僅かな光がフードの内側へ入る。
ほんの一瞬だけ緑色の髪が見えた。
「……え?」
あり得ない。
そう思った。
大阪にいるはずがない。
こんな路地裏で、偶然会うはずがない。
それでも。
切島の口から、名前が零れた。
「緑谷……?」